③ 「というわけでセイバー。これかき混ぜていてくれ」 「うん。任せてくれ」 「捏ねちゃ駄目だよ。しゃもじで切るようにね。全体に馴染んだと思ったら団扇で扇いで冷ますんだよ」 「分かった。テンカのため最善を尽くそう」 そうしてお願いすると真剣な表情で一生懸命寿司桶の中のお米を混ぜっ返してくれる、そんなセイバーが俺は好きだ。 酢飯は最優の騎士がきっと完璧に仕上げてくれるはずなので俺はそれ以外の作業に取り掛かった。 家に帰って手を洗いエプロンを装着する最低限の身支度をした俺がまず最初にしたのはマグロの柵をサイコロ状にカットすることだ。 漬ける時間が必要なので昼食に間に合わせるにはこの工程は急がないといけない。 ボウルに醤油とごま油を注ぎ、少量の砂糖を加えてよく混ぜ合わせる。このタレにカットしたマグロを放り込んでラップをしたら冷蔵庫へ。 ここまでがセイバーに酢飯制作を頼む以前に駆け足で片付けた工程。とはいえ、ここが肝心要なので後の作業はそう多くない。 俺が冷蔵庫の野菜室から取り出したのは洋梨のような形をした真っ黒い果実だった。 「トエー、それなぁに?」 尻尾1本動かすのも億劫という様子のリリスを抱きかかえて撫で回しながら調理の工程を見ていたニコーレが小首を傾げた。 その目の前で黒い果実へ縦に割るように包丁を入れる。さしたる抵抗もなく身の中心付近まで刃は通った。 「アボカド。というか、ニコも何度か口にしたことあるはずだよ。サラダに混ぜて食卓に置いた覚えがあるから」 「ふーん?あったような、無かったような」 「近頃は安くなったね。昔はもっと高かったような印象があるよ。美味しい上に栄養価も高いものだからありがたい話だ」 半信半疑というニコーレの視線を浴びながら包丁をぐるりと一周。 軽く切れ目を捻ってやれば熟しているのですぐに真っ二つに分かれる。断面の中央には特徴的な大きな丸い種。 その種に包丁の角を突き立てて揺すれば種は自然と身から抜け落ちた。 後は切った実から皮を摘んで剥いてやり、マグロと同じようにサイコロ状にカットすれば下準備は終わり。 表面が変色しないようにレモン汁を軽く振りかけ、使った調理器具や炊飯器の釜を片付けていれば20分ほど経過するのなんてあっという間だった。 即ち、冷蔵庫に保管しているマグロの身が良い塩梅に浸かる頃合いである。 「テンカ、こんなものでどうだ。均一に酢が行き渡り米が美しく輝いていると思わないか」 団扇で酢飯に風を送っていたセイバーがやや自慢げな表情で言った。なんだか可愛い。 「うん、大丈夫。完璧だよ、ありがとうセイバー。さて、じゃあ盛り付けちゃうか。 ニコ!そろそろご飯できるよ!手を洗って食卓についていて!」 振り返って声をかけるとはぁいと間延びした返事がリビングの方から返ってくる。 片付けを始めたあたりでキッチンの様子を観察するのも飽きてテレビを見ていたらしい。 丼を用意するとまず冷蔵庫で漬けていたマグロを取り出した。ボウルにアボカドも入れ、軽く和える。 そうしたら丼にセイバーが丹精込めて作ってくれた酢飯を敷き詰め、マグロとアボカドの混合物を乗せていった。 卵を冷蔵庫から3個取り出してそれぞれ割り、黄身を潰さないよう慎重に白身と取り分ける。 まるきり白身が余ってしまうわけだが………これはこれで捨てずにニコーレの喜びそうなお菓子でも後で作ろう。 乗せたマグロとアボカドの上に黄身をひとつずつ、クリスマスツリーの頂点に星を飾るのと同等の緊張感を以てそっと置く。 あとは煎り胡麻と短冊状にカットした海苔、予め刻んでストックしてある万能葱を適量振りかければ―――。
② せっかく新土夏まで来たのでショッピングモール・アトムで買い物を済ませることにした。 餌を探す回遊魚のように生鮮食品のコーナーを漫然と眺めながらゆっくりと歩く。 昼と夜の献立を思案していたところ、その小さな体躯で何かを抱えたニコーレが俺のところまで帰ってきた。 「体調が良くなってる、か。まぁ、リュウはもちろんいくら高名な医者だろうと魔導に通じていなければ原因は分からないでしょうね」 そう呟きながらニコーレは俺が押すカートの買い物かごへ何やら積み上げた。瓶詰めのやたら高そうな果物ジュースだ。何の躊躇いもない。 買うのも俺なら持って帰るのも俺なのだが、そんな些末なことは俺がやって当然という顔をするのがニコーレである。 師匠の身の回りの世話を弟子が行うのは当然という論法らしい。そう言われては何も言い返せない。魔術師の上下関係は厳しいようだ。 「仕方ないよ。流姉さんはただの内科医だ。魔術の世界とは全然関係ない人だもの」 「そうね。少しでも知識があればトエーが『毎日致死量の猛毒とそれを中和しきる薬を一緒にがぶ飲みしてたようなもの』って分かるんでしょうけど」 ニコーレの乱暴な例え方につい押し黙ってしまう。 ニコーレや百合先輩にも散々言われたことではあるのだが、未だに実感は無い。生まれたときからの付き合いだからだろう。 より正確に言えば、こうして聖杯戦争が終わってようやく落ち着いて振り返ることが出来るようになったといったところだ。 俺の顔を見上げるニコーレがひときわ真面目な顔になって言った。 「何度も言うけれどトエーの調子が今いいのは自分の能力に自覚的になって研ぎ澄ませようとし始めたからよ。 自分の体が大事ならこれからも努力を怠らずきちんと修行に励みなさい。いいわね」 「分かってますよ、ニコ先生。自分のことだからね。気をつける。 とはいえ、今悩みたいのは魔術よりも昼飯と夕飯のことなんだよね………」 とりあえずここまでに常備の野菜、キャベツだとか玉ねぎだとかは買い物かごに放り込んだ。 が、そこからが定まらない。パック詰めされた真っ赤な肉たちがずらりと並ぶ肉類のコーナーでつい考え込んでしまった。 「それって献立の話?リュウは夕飯は肉がいいって言ってたわね」 「ああ、そっちはせっかく追加予算もあるしステーキ焼くかトンカツ揚げるかでいいかなと思ってるんだけど………。 お昼はどうしたものかな。ニコは何か食べたいものとかある?」 「私?そうね………」 生鮮食品たちを物色しながらてくてく歩くニコーレの後をカートを押しながらゆっくりついていく。 特注のビスクドールみたいに整った容姿をした少女であるニコーレはこの土夏市では否応なしに人目を引く存在だが、周囲の視線などお構いなしだ。 訂正。少女と呼ぶべき実年齢ではないが少なくとも見た目は少女だ。閑話休題。 そんなわけでニコーレは外見と年齢の乖離が激しいのだが、目の前のどことなく弾んだ足取りは何故か子供っぽくはしゃいでいるふうにも見えた。 「そういえばこの前の生魚のスライスは驚いたけれど美味しかったわね。確か刺し身だったかしら。………まぁ、変な顔」 そう言って鮮魚コーナーの細かく砕けた氷の上に置かれた魚とにらめっこをしている。 共に暮らしだしてよくよく思い知ったのだが、ニコーレはちょっとびっくりするくらい世間知らずのお嬢様だ。 うちの部屋に居座るまでこんなスーパーなんて足を踏み入れたことは無かったというし、日本食、まして生魚なんてもってのほか。 日本食ブームの昨今、意外だと思いきや魔術師の間ではこういうのは常に一定層いるんだとか。まことに複雑怪奇なのである。 そんなニコーレなのだが最近彼女が好む味の傾向は掴めつつあった。 かなりはっきりした味の方が美味しいと言う。薄味や刺激物といったものにはあまり興味を示さない。 要するに味覚に関しては外見相応に子供舌なのだった。指摘したらきっと怒るから言わないけれど。 刺し身だって美味そうにぱくついていたのは白身魚ではなくサーモンだ。きっと鰹にマヨネーズ塗っても大喜びするはず。 「しかし、そっか。生の魚に苦手意識は無いんだよな………。だったら………」 「何か言った?トエー」 ぶつぶつと口にした俺の独り言を聞きつけてニコーレがきょとんとした顔をした。 後ろに注意しながらカートをバック。鮮魚を水揚げされたまんまで並べてある一角から加工済みの切り身をパッキングしたコーナーへ。 陳列されてあれば御の字といったところだけれど………と、探すまでもなくそれは目立つところに置いてあった。 「決まり。ニコ、今日のお昼は魚にしよう。それも火を通さない、生のやつ」 「生?なら刺し身ってことかしら?」 刺し身はどうやら悪くない記憶にカテゴリされているらしく、きらりとニコーレは期待で瞳を輝かせた。 しかし俺はその眼差しに対して首を横に振りつつ、マグロの色艶美しい赤身の柵をむんずと掴み取るのだった。
① 俺がポロシャツの袖に腕を通している間に流姉さんはカルテを書いていた。 「状態は問題なし。これまでのことを考えると油断しちゃ駄目だけど最近はずっと良い傾向が続いているわね」 ボールペンでぐりぐりと記録を書き込んでからこっちを向いてにっこりと笑う。 どことなくその笑顔の影に安堵のようなものを見出してしまうのは長年の付き合いだからだろう。 その心配を感じ取ると以前はちくりと胸に刺さるものがあったが、今は少しだけ素直に受け取ることが出来るようになっていた。 流姉さんの笑顔へ応じるように俺もくすりと微笑んだ。 「だといいんだけどね。大丈夫、ちゃんと薬は常備しているよ。気は抜いてない」 「ま、てんちゃんに関してはそこは心配してないわ。もともと慎重だったもんね。 じゃぁいつものお薬だけ出しておくから、薬局で受け取ってちゃんと飲むこと」 そうぴしりと言って処方箋を印刷機にかける流姉さんは実に凛々しい。 スクラブを着て聴診器を首に引っ掛け、患者ひとりひとりに真摯に接するその姿はまさしく立派な杵崎流内科医師である。 ………本当に医師としての流姉さんは尊敬出来るのだが、この診察室に来る前のことを思うとその敬意に陰りが差すのであった。 カルテの続きを書いていた流姉さんが診察室の隅っこの椅子にちょこんと座っていたニコーレへ視線を向けた。 「で、なんでニコちゃんがここにいるの?」 「何言ってるのよリュウ。私はトエーの付き添いよ。私たち、あなたの汚い部屋を綺麗に掃除してきた帰りなのよ」 「うっ」 その幼げな風貌からは思いがけないはきはきとした口調で理由を告げられた途端、一回りくらい流姉さんの存在感が萎んだ。 事実でござる。我々は正午前の診察を受ける前に近所のマンションへ立ち寄り流姉さんの汚部屋を片付けてきたのでござる。 すっかり足の踏み場もないほど物の散乱した部屋はとても三十路独身女の部屋とは思えなかったでござる。さらば婚期。 「生ゴミだけはなんとかゴミ袋に突っ込んでいるのがギリギリ評価点ね。 あとは脱ぎ散らかした服に読んだままで放り投げられた本、ごろごろ転がった酒瓶………。恋人が見れば百年の恋も覚めるわ」 「こ、恋人なんて仕事が忙しいからいません!院内にいい男がいないのが悪いんですぅ―!」 「責めてるのはそこじゃないわよ!」 噛み合わない会話にぷんすかとニコーレが怒った。外見12歳、実年齢24歳に叱られる女医32歳。 ふたりは馬が合うらしく、放っておくと流姉さんとニコーレはいつまでも漫才を繰り広げてしまう。 流姉さんはまだ仕事中だし、このあたりで心を鬼にして流れを断ち切っておくのが俺に求められている役割だろう。 「はいはいそこまで。流姉さん、それじゃ俺たちはこれで。今晩はどうする?」 「ん、夜勤は入ってないし何もなければてんちゃんのお家にお邪魔するわ。今日は肉を食べたい気分ね~」 「肉ね、考えておくよ。診察ありがとう、流姉さん」 肉か。流姉さんが前回うちで夕飯を食べた時は鶏肉だったから牛か豚にするとして、さて何を作ったものか。 まだ財布と携帯電話しか入っていない買い物袋を手にして立ち上がると流姉さんが呼び止めてきた。 「そうそうてんちゃん、はいこれ部屋掃除のお駄賃。これでお昼は美味しいものでも食べなさいな」 「………?別に普段から貰っちゃ無いんだから構わないよ?」 1000円札を3枚握らされてつい首を傾げてしまう。 切っ掛けはもう覚えていないが流姉さんの部屋の掃除は俺が自主的に行っていることだ。 放っておくとゴミ屋敷化しかねないので強制執行とも言う。 首を傾げる俺の側に眠たそうな目をしたニコーレがするりと寄ってきて胡乱げに告げた。 「要するにリュウは夕飯も奮発してねと忖度を求めているのよ。嫌ね、たったこれっぽっちで厚かましいんだから」 「これっぽっちって何よー!?3000円を笑う子は3000円に泣くのよー!!」 「分かったってば。じゃあね、流姉さん」 これ以上ここにいたら長々と話し込んでしまいそうだ。 差し出されたお札を受け取ると、俺はニコーレを連れて土夏総合病院の流姉さんの診察室を後にした。
2009年7月、土夏市で行われた5度目の聖杯戦争は密かに終結した。 参加者達は元の生活に戻る者、傷を癒す者、休養を取る者、それぞれ理由はあれど未だに土夏市に滞在していた。 そして、夏が終わり秋に差し掛かる数ヶ月が経った頃。 土夏市の女子学生を中心に奇妙な遊びが流行り始めた。
「ねぇねぇ、茉莉ちゃん知ってる? M様の噂!」 「M様?なにそれ?」 「梅村、またどこかから変な噂を聞き付けてきたのか」 「変じゃないよ太桜ちゃん!柔道部の先輩に教わったの!」 「それで、M様って?」 「うん、M様って言うのは噂っていうかおまじないかな? みんなで集まってM様を呼び出すと願い事を叶えてくれたり、未来を当ててくれるんだって!」 「えー……」 「胡散臭いことこの上ないな」 「なんでそう言うこと言うの!」 「おーい、松竹梅! 下校時間は過ぎてるぞ、遊んでないで早く帰れ」 「あっ、黒瀬先生ってことはもうそんな時間?」 「ほら、梅村帰るぞ」 「もう!そうやってちゃんと海深のきかないんだから!」 「気を付けてな! ……M様、か。これは不味いかもしれんな」
「トエー、私にはM様って遊びが私達を集める位の事とは思えないのだけど」 「君たちは知らないかもしれないが、90年代の日本ではこっくりさんというものが流行っていた」 「コックリ=サン? なにそれ呪いの一種?」 「魔術師のいうところのテーブル・ターニングよ」 「その通りだ狐、狗、狸でこっくりさんと読む。科学的には意識に関係なく体が動くオートマティスムの一種だが…」 「魔術的には所謂動物霊を降霊させる簡易儀式ね」 「その辺りは流石に君たちの方が詳しいか。90年代のオカルトブームは病的でな、魔術の知識もない学生でさえ降霊術が広まる位……私しか知らないか」 「聞いたことくらいはありますけどそれがなにか問題があるんですか?」 「そんな事も分からないの坊や?呼び出すのが動物霊であれば良い。だが、聖杯戦争の跡地、魔力や怨念が溜まっている土地で行えばどうなると思う?」 「推察になるが、動物霊でないものが呼び出されるということか?」 「正解よ、サーヴァント達の残存魔力につられて下手したらサーヴァントもどきが呼び出される可能性があるってことね」 「ヤバいじゃないですか、先輩!」 「ええ、かなりマズいわ。本来であれば自然に消費され減っていく筈の方向性のない魔力が噂、都市伝説という指向性を得て良くない形で現れようとしている」 「それはまるで……」 「その言い方だと似たような現象を知っているの?トゥーリベルク、クロセ?」 「トゥーリベルク女史と情報を付き合わせたが……」 「先生が言い淀むなら私が代わりに言おう。あり得ない事だが、今の土夏はタタリと呼ばれる霊的象の前段階に近い状態だ」 「タタリ……」
そして、闇の中よりあり得ざる9騎目のサーヴァントが顕現する。
「サーヴァント、アサシン。召喚に応じて推参した。問おう、貴公が小生のマスターか?」
血ニ酔イ死ニ狂ウ
白刃が肉を貫き、血管を裂き、骨に中る。 つい先程まで人であったものが急速に熱を喪い、肉と血と骨の塊へと変わっていく。 白刃を振るうと、まだ生暖かい鮮血が顔にかかる。何を思ったのか、俺は思わずそれを舌で舐め取った。 鉄の味の奥底にある味をはじめて感じとる。 ─────あまい。 それを口にした瞬間、多幸感が電流のように脳を駆け巡った。 舌が蕩けるようなあまみと頭を溶かす刺激。嗚呼、きっと世界にあるどんな名酒でもこれには敵わない。
俺は今まで何を恐れていたんだ? なんだ、簡単じゃないか、人を殺すなんてのは。 嗚呼、そして今まで生きていた命を奪うのがこんなに愉しいなんて知らなかった。
待たせたね■■■■。さぁ、行こうか。聖杯戦争を、狩りを、殺し殺される夜を楽しもう。
⑤ 「というわけで、猪肉のベーコンを使った和風ソースのBLTサンドです。召し上がれ」 「ああ。ではテンカ、いただきます」 ぴたりと指先合わせて合掌したセイバーがサンドイッチを手に持って齧り付く。 「………」 セイバーはあくまでいつも礼儀正しい。折り目正しくマナーを守る。例えばこんな時、口の中にまだ食べ物が残っているのに喋ったりはしない。 だけれどもセイバーがどう思ったかなんて彼女が喋らなくたって分かる。 眼尻が下がり、視線が柔らかくなる。瞳の奥に優しい光が宿る。快く感じ心のなかで微笑む時セイバーはいつもそんな目をするのだ。 やがて喉の奥に咀嚼していたものを仕舞い込むとようやく言葉によってセイバーは喜色を表した。 「素晴らしい。具材同士のコントラストが感動的だね。それぞれが主張し合っているのに決して互いが互いを貶めていない。 むしろ互いに称え合っているようじゃないか。これら全てを引き立てているこの爽やかな辛味は………ワサビかな?」 「ああ。マヨネーズに少し醤油とワサビを加えて混ぜただけのものなんだけど、簡単なのに本格的な味になるでしょう。 まあBLTサンドってほとんど宗教じみてるくらいにいろんな作り方や意見があるくらい鉄板の組み合わせだからなぁ」 俺もセイバーに続いてむしゃむしゃと手元のサンドイッチに齧り付く。うん、ちゃんと美味い。 この味をもっと他の住人たちと共有したかった気持ちがある一方で、セイバーとこれを独占していることに嬉しさも感じるから何とも言い難い。 早くも二口目を飲み込んだセイバーがサンドイッチに視線を落としながらふと遠い目をした。 「それに………この剛毅さ、粗野なれど卑しくはない荒々しさ。このサンドイッチには野に生きるものの味わいがある。 昔日の私が口にしたものと味こそ違うが、確かにこれは野営の焚き火を前にして口にしたあの時の命たちに通じている」 「……………」 俺にとってはこのベーコンの味わいは『普通のベーコンとは何か違うもの』でしかない。 豚のベーコンのように品種改良によって培われた繊細さが無い代わりに自然の力強さを感じるような脂の甘味を感じるだけだ。 だがセイバーにとってはそうではなかったようだ。なんだか懐かしそうな目をするセイバーへ気がついたら声をかけていた。 「なぁ、良かったらその時のことを聞かせてくれないか?セイバーが辿った旅の話をさ」 「うん?それほど面白い話はないよ。テンカを退屈させるのは本意ではないんだけれど」 「俺はセイバーのしてくれる話ならなんだって面白いよ。退屈なんて絶対しない。セイバーは俺にとって大事な相手なんだから」 「………―――」 一瞬不意をつかれたような顔をしたセイバーは、だがすぐに秋の日向のような輪郭のぼやけた丸い微笑みを浮かべた。 「―――仕方ないな。でもまずこのサンドイッチを片付けてからだ。出来たてを食べ逃したら、後々大いに後悔しそうだからな―――」
④ そう言ってセイバーはいそいそと冷蔵庫から目当てのビニール袋を見つけ出すと俺の隣でレタスの葉を綺麗に磨き出した。 険しさこそないものの顔つきは真剣そのものだ。俺はといえばセイバーと隣り合ってこうして調理していることに妙なくすぐったさを感じていた。 「………いけない、いけない………」 セイバーは真面目にやっている。変な邪念を覚えている場合じゃない。 フライパンを取り出してベーコンをその中に並べた。予熱は不要だ。こうして常温からじっくり弱火で焼くのがコツだ。 ガスコンロの火加減を最小に設定し、同時にトースターへ食パンのスライスを4枚突っ込んでスイッチを押す。 手を休めること無く冷蔵庫からトマトを取り出した。まな板の上で適当な大きさで輪切りに。 カットしたトマトはキッチンペーパーを敷いたトレイの上へ載せ、塩と胡椒を軽く振っておく。 こうすることで塩がトマトの余分な水分を出してトマトの味わいをより濃厚にしてくれる。ちょっとした、だが重要なひと手間だ。 続いてソース作りに取り掛かろうとして何気なくフライパンを見たところ、想像以上のことについ驚きの声を上げてしまった。 「凄いな、もうこんなに油が。普通のベーコンじゃこんなに出ないのに」 「分厚い脂を切り取って水で煮ることで獣脂を得るというようなこともかつてはしていた。特に今は秋だからたっぷり脂を蓄えている時期だろう」 一滴の水分も逃さないという目つきでレタスを拭っているセイバーがこちらを見ずに言う。 ふぅんと感嘆の溜息を漏らしながらベーコンから溢れ出た油をキッチンペーパーで拭って吸いあげる。 こうしておかないと、ベーコンから出た油が高温になってせっかくのベーコンが焦げ付いて台無しになってしまうのだ。 危ないところだったと胸を撫で下ろしながらベーコンの表裏をひっくり返し、改めてソース作りに取り掛かった。 小鉢にマヨネーズを絞り出したら醤油を加え、さらにチューブのわさびを絞り出してスプーンでよく混ぜる。 ソースにむらが無くなった頃、チンと小気味良い音を立ててトースターが食パンの焼き上がりを告げた。 「あちちっ」 「テンカ?」 「いや大丈夫」 指先を火傷しそうになりながらトースターから食パンを取り出し、まな板の上へ。 食パンがまだ熱いうちに無塩バターをバターナイフで薄く塗り伸ばしていった。 バターを塗るのはパンをより美味しくするためだけじゃない。油脂の膜を作ることで水分量の多い具材でパンがふやけないようにするという目的もある。 ここまで来たら後は挟むだけだ。セイバーらしい几帳面さで等間隔にトレイに並べられた瑞々しいレタスに俺は手を伸ばした。 食パンの上に置いたレタスの上にソースを塗り、後はトマト、ベーコン、再び食パンの順に挟む。なるたけ水分にパンが触れさせないようにするのが鉄則。 爪楊枝を突き立てて挟んだ具材を固定し、そのまま包丁でざっくりと三等分にした。勿論切ったら爪楊枝は抜いておく。 同じことをもう一度繰り返し、それぞれを2枚の皿に盛り付けた。なんとなく雰囲気を出したくてポテトチップスの袋を開けて付け合せに何枚か添えておいた。 「………よし。これで完成」 「おお。では」 「ああ、早速食べてみよう」 食卓に皿を2枚。セイバーと向かい合わせに置いて座った。 家の中は他に誰もいないので俺たちが立てる音しか響かない。なんでもないことのはずなのに、なんだか特別な空気感だった。
③ 「………ほう。猪の肉だな」 俺がキッチンで貰ったものを整理しているとひょっこりとセイバーが側に現れた。 しげしげと俺の手元を見つめるセイバーの出で立ちはパーカーにショートパンツというラフなもの。言うまでもなく部屋着である。 顕になっているしなやかな脚や緩い襟元から覗く細いうなじが目に入ると時折どきりとしてしまうのはここだけの話。 今日はみんな留守にしているからお昼はセイバーと二人きりだ。 「分かるのか?セイバー」 「かつてはよく食べた。旅の間や遠征中の現地調達でね。森の中に分け入って獣を狩って捌いたものだ。 私は円卓の騎士としては外遊が多かったから野営する機会も多かったんだよ。 大抵は骨付きのまま焼くか茹でるか、保存用に燻すかしかしなかったからこんなに丁寧に扱ったりはしなかったけれどもね」 真空パックを物珍しそうに手にとって眺めるセイバー。 肉を長く食べられるようにするといえば専ら燻製するか塩漬けにする時代の人だから真空パックがよほど不思議なのだろう。 「しかしこの時代では一般的に取り扱われているのは猪ではなく豚の肉だ。 猪の肉は召喚されてから終ぞ食べたことがない。テンカ、これはどうしたんだ?」 「円が寺から分けてくれたんだ。畑の野菜を食べる害獣をとっ捕まえて肉にしたからお裾分けだってさ」 「なるほど。畑荒らしか」 合点がいったとばかりにセイバーは頷いた。 と、その時である。きゅるるる、と何やら可愛らしい唸り声がその場に響いた。 これがきっと俺が発信源ならばセイバーに恥をかかせずに済んだのだが、生憎と俺の肉体は何の音も発していない。 さすがに真空パックたちを整理していた俺の手もぴたりと止まったが、俺の相棒はそれどころではない凍りつき方をしていた。 ちらっと隣の様子を伺ってみる。………まあ、概ね予想通りだ。 ここには頬を熟した林檎のように赤く染めて俯きもじもじとしているセイバー以外、そんな風に腹の虫を鳴かせる人間はいなかった。 桜色の唇が震え、何やらごにょごにょと呟き出した。 「………ひ、久々に猪の肉を見て、昔日の味を思い出して………その、なんだ………」 「OK。今日はこいつを使って昼飯にしよう。 とはいっても全部は食べられやしないから、こっちはみんながいる時に牡丹鍋にでもすることにして一旦冷凍だね。 今から使うのは、こっち」 引き出しから取り出した調理用ハサミで真空パックを裂いたのは、スライスされてある方ではなくブロック肉が豪快に収められている方。 なかなか重量感のあるそれをまな板の上にずしりと安置させた頃、ようやく機能不全からセイバーは戻ってきた。 「それは………燻製肉か?」 「ベーコンも燻製して作るから、まあそういうことになるね。今日はこれでサンドイッチを作ります」 エプロンを装着して腕まくりすると早速調理を開始した。まずはベーコンをスライスして必要な分だけ切り出す。 今日はセイバーと俺のふたりだから二人分。せっかくだから気持ち多めに。 手持ち無沙汰にその作業を見ていたセイバーがふとこんなことを尋ねてきた。 「テンカ。こうして見ているだけというのもなんだ。私ができることがあれば手伝わせてくれ」 「ありがとう。それじゃ冷蔵庫からレタスを出して1枚ずつ洗ってからキッチンペーパーで水気を拭ってくれ。 使いかけがビニール袋に包んであるからそれを取り出してね。使い切れるくらいの量だから全部拭いてくれていい」 「分かった。任せておけ」
② ようやく俺にもこの保冷バッグの中身の正体が分かってきた。お察しの通りという顔をしながら円は話を続けた。 「食害が看過し得ぬ段階に至ってな。だいぶ荒らされてしまった。 檀家のひとりに専門家がいてその方に駆除をご依頼したところ、先日駆除した獣の肉をご厚意でいただくことになったわけだ。 寺とはいえ食肉を禁じているわけではないのだがなんせ量が多い。冷凍庫の肥やしにしてしまうよりは綺麗に食べてしまったほうがこの獣の御霊も浮かばれよう。 というわけで、無理にとは言わないが貰ってくれるとありがたい」 「ふーん………ま、そういうことなら遠慮なく。ありがとう」 さして断る理由もない。円がそう言うのならばきっとそうなのだ。 差し出される保冷バッグをむんずと掴んでママチャリの籠へと押し込んだ。 いわゆるジビエの肉なんて初めて調理するが、まぁなんとかなるだろう。困ったらインターネットという文明の利器を利用しよう。 命を絶った後の処理の仕方で臭みが随分変わるというから狩ったという檀家さんの腕前を信じたいところである。 「わざわざ呼びつけて悪かった典河」 「電話でも言ったけど気にしないでよ。もともとこっちに用事があったんだ。その帰りなんだから何も不都合しちゃないよ。 むしろこんな珍しいものを貰っちゃって悪い気がするくらいだ。お父さんによろしくな。………何かお礼が出来ればいいんだけど」 「父のことならいい。平素よりあまり肉類は口にされない方だから、うちでは内心一番お喜びだろう。 ………そうだな。それでも強いて言うのであれば」 と。円は普段通りの落ち着いた表情でぽつりと言った。 「そのうち弁当を馳走して貰えれば嬉しく思う。お前の作るあの味をまた口にしたいものだ」 「いいけど、その程度なら言ってくれればいつでも作るぞ?」 「気持ちはありがたいが遠慮しておこう。一度理由なく受け取ってしまえば切りが無くなりそうだ」 確か文化祭前の委員会活動で円が遅くまで学校に残っていた時一度差し入れたことがあったっけか。 あんな前のことをよく覚えていたものだ。そんなに気に入ってくれていたのなら作り手の冥利に尽きる話である。 悪くない気分でママチャリのペダルに足を引っ掛けながら俺はハンドルを握った。 「分かったよ。それじゃ休み明けにでも用意してくる。またな、円」 「ああ。気をつけて帰れ典河。近頃は朝夜もめっきり冷え込む。体調には気をつけるのだぞ」 この秋にとうとう保険委員会長にまで昇りつめた男のありがたい気遣いへ手を振って、俺はペダルを押し込んだ。 晩秋の涼しい空気の中を自転車駆って家路へと急ぐ。太陽は中天へと差し掛かり、お昼時を示そうとしていた。
① ここで待っていてくれ。 そう円が言うから俺は松原寺の山門へと続く長い石段の麓でぼんやりとしていた。 石段を延々と囲む生い茂った木々のお陰でここは日陰になっていて、だいぶ秋も深まってきたこの時期だとやや肌寒い。 そうやってママチャリのサドルに尻と体重を預けたまま待つこと10分だか15分だか。 石段を軽く駆け足で降りてきた円の荷物に俺は首を傾げることになった。 「面目ない。待たせた」 「………なにそれ?」 円が持ってきたのは一抱えの保冷バッグ。飾り気のない真っ青な色のやつである。 百聞は一見に如かず、と円がその保冷バッグのチャックを開けて中身をこちらへと見せてきた。 その中身を見てさらに俺は漫画的表現に依るところの疑問符を頭上へ浮かべることになるのであった。 「え………肉………?」 「端的に言えばそうなるか」 円がいつもの仏頂面で小さく頷く。 まさか寺の子がこんなものを手渡してくるなんて思いもしなかったのでつい思考が停止してしまった。 保冷バッグの中にはいくつかの保冷剤と一緒に鮮やかな牡丹色をした肉が真空パックに詰められて放り込まれていた。 どうやら既に加工済みらしく、肉はスライスされた状態で並べられ平べったい板切れのようになっている。 なんとなく豚肉っぽい印象も受けたが、家畜のそれとは違う脂の付き方が違和感を俺へ与えていた。 「お前が渡したかったものってこれか………?いや、まあ、肉をくれるというのはありがたい話だけどさ。なんでまた」 「言わんとするところは分からないでもない。坊主の息子が贈呈する品としては少々生臭さが過ぎるのではないかということだろう」 「そこまでは言わないけど驚いたのは確かだよ」 ふむ、と円が軽く一呼吸置く。さてどこから説明したものだか、と見当を付けているように見えた。 だが円の頭の回転は早い。黙っていたのは一瞬だ。保冷バッグの口を閉じながら円はすらすらと理由の説明を始めた。 「私の父が境内の隣りにある畑で菜園を営んでいることは知っているな。まあ、元を正せば以前の住職が拓いた畑なのだが」 「それは知っているよ。ありがたいことに何度かおすそ分けしてもらってるしな」 たまに円は俺へ菜園で採れたという野菜を分けてくれる。毎度結構な量があるのだがうちは健啖家が多いのであっという間に消費されるのだった。 前回貰ったトマトとジャガイモは我が家で立派に野菜カレーとなりました。大変美味しゅうございました。 「御仏の加護に依るものか今年は豊作だったわけだが、秋の実りを甘受せんとするのは決して人間だけではないのだ。 山の獣もまた厳しい冬を乗り越えるため多くの糧を欲している。生きるため人の田畑を食い荒らすのは罪ではないが、人間にとっての不都合でもある」 「あー………なるほど、そういうことか………」
偽装URL…?
https://seesaawiki.jp/kagemiya/d/%a5%a2%a5%df%a5%e9%a5%f3%a1%cc%a5%aa%a5%eb%a5%bf%a1%cd イラストも含めて緊縛先生好き
⑧ 「そ、そりゃどうも。そう言ってくれるなら俺も作った甲斐があったよ」 つい一瞬言葉がつっかえてしまった。横から痛いほど突き刺さる視線。ちらりと伺うとセイバーがまた半目で俺を睨んでいた。 「………テンカ?」 「な、なんでもない!素直に料理を褒められてちょっと嬉しかっただけだ!」 咳払いしてそそくさと俺は皿を片付け始めた。 と、皿3枚とフライパンの油汚れを落として食器の水切り棚に置いた頃、キャスターから「典河~」とお呼びがかかる。 「なんだよキャスター。まだ帰らないのか?」 「いいから来なって。はい、ここ座って」 呼ばれるままにリビングへ行くとテレビの前のソファの真ん中に座ることを促された。 分からないままに腰掛ける。すると。 「よしよし。じゃ私はここね。はい動かなーい。席を立たなーい」 「なっ!?」 断っておくが最後の素っ頓狂な声は俺ではない。顛末を見ていたセイバーのものだ。 おもむろにキャスターは俺の横に座り、しかもその肩と肩の距離はぴったりゼロ距離だった。 いつものチェシャ猫の微笑みで俺の肩にやや体重を預けながらキャスターはテレビのリモコンを弄って番組を探していた。 間違いなくそんなことをされてぎくしゃくとする俺をからかっている。いい加減そのくらい分かってきます。 「うーん。やっぱり顔がいい男を侍らせてだらだらする午後っていうのはいいもんだね。典河は本当に可愛い顔してるからね~」 「可愛い可愛いって………男としては複雑な気持ちになるんだけど………。………?」 なんて言っていたらキャスターのいない方の隣に誰かが座る気配。誰かと言われても他にはひとりしかいないのだが。 「………………。なにか?テンカ」 「………いえなんでも」 横を見るとセイバーが膨れ面でキャスターと同じようにゼロ距離まで詰め寄っていた。察するまでもなく拗ねていた。 ことんと首を傾げて俺の肩に頭を乗せさえするものだからセイバーの体温みたいなものを直接感じてしまって尚更緊張してしまう。 4人掛けのソファのはずなのに妙に狭くて窮屈だ。美女二人に挟まれているというのに俺は冷や汗が頬を伝うのを錯覚するのだった。 ―――なお、キャスターがわざと選んだであろうちょっとエロティックな雰囲気の映画は後半からアクションシーンが抜群の盛り上がりを見せて3人で大いに盛り上がったことを追記しておく。
⑦ 「ペペロンチーノ、ってイタリアの料理だったっけ。てことはローマ料理だ」 「まあ、パスタの歴史って相当古くて古代ローマ時代から食べられてたらしいから一応そういうことになるのかな。 あれ、もしかして馴染みだったりする?キャスターの出身は、えーっと………ギリシャ?」 「うんにゃ。リュディア………今じゃトルコって国らしいね。そこのコロフォンって街の出身。 別にローマ料理だからどうというわけじゃないけどね。さて、それじゃ早速………」 フォークにくるくると麺を巻きつけてキャスターがぱくりと口にした。途端、ぱちぱちと瞬きしてあの紅い瞳が見え隠れした。 「おお!美味しい!確かにセイバーが言うだけあるね、典河!」 「そうでしょう。テンカの料理は美味しいのです。それに料理以外だって何でも出来るのです。テンカは凄いのです」 よく分からないが俺ではなくセイバーが自慢げな顔をしていた。はは、と苦笑してしまう。 ふたりに続いて俺もパスタを口へと運んで空腹を癒すことにする。うん、やはり我ながら上出来。 しゃきしゃきと口の中で存在感を主張する獅子唐と舞茸が楽しい一皿だ。 「手元にあった時はどうやって食べたもんだかと悩んだけど、こうして食べると他に例えようのない甘みや苦味が癖になるねぇ」 「獅子唐は熱を加えると味が引き立つからね。油とも相性がいいから天ぷらにしても抜群に美味しいよ」 「うん。それにこの茸の食感も小気味よく………今日の昼餉も素晴らしいよテンカ」 人間、えてして美味しいものを食べている間は喧嘩するのは難しいものである。 さっきまであんなに微妙な距離感だったセイバーとキャスターだったが、フォークに麺を巻きつけている間は少しだけ距離が近くなったように見えた。 獅子唐の独特の香り。舞茸の歯ごたえ。ベーコンの甘い塩味。アクセントとなる赤唐辛子と胡椒の刺激。それらを取りまとめるにんにくとオリーブオイルの風味。 キャスターが獅子唐を俺に押し付けてくるなんて珍事がなければ生まれることのなかった味と光景だ。 そう思うとなんとなくキャスターにお礼を言いたい気分になった。気まぐれで自分勝手な困った悪人だが、俺はそれでも彼女があまり嫌いではない。 昼食の時間はあっという間だった。みんな手を止めずにパスタを平らげてしまったからだ。 冷めるとせっかく乳化した水と油が分離してしまうので作り手としてはありがたい限りである。 「ごちそうさま。いや、本当に期待以上だったよ。店の料理にはない気取らなさと細やかさが最高だった。 こんなに美味しいのならまたご馳走してもらいに来ようかな。その時はよろしく頼むよ典河」 キャスターはそう言って俺へ向けて微笑んできた。 極稀にキャスターはこういう表情をする。策謀巡らす時の怪しげな笑みではない。蛮勇とも思えるような選択をする時の勝ち気な笑みではない。 本当に何処にでもあるような、ごくありふれた笑顔。ちょっとお転婆なただの町娘みたいな素朴な笑顔だ。 この顔をする時のキャスターはびっくりするくらいただの女の子に見えてついどぎまぎしてしまう。 だから『また来る』という言葉も断ることが出来なかったのだろう。
⑥ 「………なに話してんだろ」 後ろで何やら姦しいやり取りが行われているのをひとまず聞かなかったことにする。 フライパンへ分量を調節しながら白ワインを振りかけた。途端にざあ、と激しい音を立てて芳香が立ち昇る。 直前に投入していた獅子唐と舞茸にそれを絡ませながらアルコールが飛ぶまでフライパンを軽く揺すって丁寧に炒めた。 あんまり熱を通しすぎても食感が失われてしまうので程々に留めておく。その気になれば生でも食べられるものだし。 だいたい具が調理し終わったと判断出来たタイミングでちょうどよくタイマーが鳴った。 鍋の火を止めて少量の茹で汁をフライパンへ注いだ。いわゆる乳化というやつである。 プロの料理人というわけではないのでなんとなくそれっぽい粘性を帯びれば良しとする。きっとこんなものだろう。 あとは少し硬めに茹で上がった麺を移して具材とソースを絡めれば………。 試しにソースを纏って艷やかな光沢を放つ麺を1本つまみ上げて口にしてみた。丁度いい茹で加減。なかなかうまくいったんじゃないだろうか。 「ま、こんなものかな」 塩と胡椒を軽く足しながら俺は小さく呟いた。満足してもらえればいいんだけれど。 「セイバー、キャスター。お昼出来たよ。席についてくれ」 振り向かずに呼びかけながら皿を3枚並べてフライパンの中身を盛り付けていく。 トングを使って捻じりながら盛る。なんでもパスタの盛り付けは立体感を出すのがコツなんだとか。 別に誰に習ったわけではなく以前インターネットで聞きかじった知識による見様見真似なのであまり大きな事は言えない。 目分量で三等分し、俺は3枚の皿を食卓へと運んでいった。 ………セイバーがさりげなく、しかし有無を言わさない動きで俺の隣に腰掛ける。何故だろうという疑問はさておいてふたりに説明した。 「………というわけで、今日の昼食はキャスターから貰った獅子唐を使ったペペロンチーノです。召し上がれ」 目の前に置かれたパスタの山を前にして、セイバーもキャスターも同じように「ほお」と軽く目を丸くしたのに内心くすりと笑ってしまった。 普段は牽制しあっているふたりだけれどこういうところでは息が合うみたいだ。 簡単な料理ではあるが自分でも悪くない出来だと思う。獅子唐の生き生きとした緑が見た目にも鮮やかだ。 いただきます、と手を合わせて早速フォークを突き刺したセイバーの目の前の席で、キャスターがしげしげと料理を眺めていた。
⑤ 「………本当に突然どうしたのです、キャスター」 横隣りのソファに腰掛けながら警戒心の抜けきらない顔でセイバーは尋ねた。 昼時のワイドショー番組を漫然と眺めながらキャスターは湯呑を傾ける。 いまいち距離感が掴めなかったセイバーが場をもたせるために淹れたお茶だった。 キャスターは崩した姿勢で背もたれに身を預け、思い切り十影宅のリビングを満喫していた。 「あちち。円卓の騎士様に淹れてもらったお茶と聞くとこのお茶もなんだか立派なものに思えてくるね」 「茶化さないでください!」 「だぁかぁらぁ、本当のことだってば。せっかく貰ったものを無駄にするのは気に入らないし。 そしたら栗野のお嬢ちゃんが『典河の飯は美味い』って言ってたの思い出してね。これ幸いと押し付けてみただけだよ。 食事を作らせてる相手に不義理なんてしやしないから、そんな怖い顔で私を見るのはやめなさいって」 そう言ってキャスターは口を窄めてお茶に息を吹きかけ、軽く冷まして口に含んだ。 「……………」 このようにきっぱりと言われるとセイバーとしてもそれ以上追求しづらい。 無理に問い詰め続けて狭量を笑われるのも癪である。むう、と唸ってからセイバーはソファに腰掛け直した。 「………分かりました。確かにテンカの作る食事はきめ細やかな気配りがあって美味なのは事実です。ひとまずそれで良しとしましょう」 「へえ。随分自分の主人に大事にされてるみたいじゃない。もしかしてもうそういう仲なのかな?」 「………!キャスター!」 「んふふ」 流し目を送ってキャスターが微笑む。キッチンではじゅうじゅうと油の喝采をあげて跳ねる音が鳴っていた。
④ 「キャスター、一応聞いておくけどにんにく使っても大丈夫?」 「ん、それって匂いのこと?気にしないから平気よ~」 振り返ることすらせずひらひらと後ろ手を振って答えるキャスターを確認してから俺は冷蔵庫を開いた。 「獅子唐といえばやっぱり相性いいのは油だよな………」 ざっと残り物を把握していく。ブロックで買っていたベーコン発見。昨日の夕飯で使わなかった舞茸発見。 保存容器に密封されたパスタの乾燥麺も発見した。この時点でレシピが脳内で確定する。 とりあえず鍋にたっぷり水を注いで火にかけると俺はキッチンにハンガーで吊ってあった常用しているエプロンを装着した。 いつの間にかソファ越しにこっちを見ていたキャスターがにやにやと笑っていた。 「前掛け姿がなんだか板についてるねぇ。なんなら私が織ってあげようか?いいお嫁さんになれるよ」 「え、遠慮しとく。キャスターの織ったエプロンなんて効き目あらたか過ぎてそのまんま料理人になっちゃいそうだ」 さすがにそういう人生設計は想定外。キャスターが操る糸のようなくすぐったい視線をなんとか無視して包丁とまな板を取り出した。 にんにくを包丁の腹で潰して皮を剥く。芽を取り除いたら微塵切りにしてフライパンの中へ。 赤唐辛子の蔕を取り除いて種を出したら身の方をこれもフライパンの中へ。 種も一緒に入れれば更に辛く出来るけど、今回はマイルドに行こう。きっとキャスターなら平気だろうけれど。 オリーブオイルをにんにくと赤唐辛子が浸るまで注いだら弱火で加熱を始める。オイルににんにくの香りを移す、イタリア料理では基本中の基本みたいな工程だ。 お湯の沸騰した鍋へ塩を溶かして乾燥麺を放り込んだら、にんにくがきつね色になるまでに取り揃えた食材の用意を始めた。 スライスしたベーコンは1cmほどの幅で短冊状に。舞茸は適当に食べやすい大きさにまで手で裂く。 それらをまな板の端へどかしながら、ようやく俺はキャスターが持ってきた紙袋を手にとった。 「さてと。今回の主役は………と」 紙袋からまな板の上へ広げた獅子唐を包丁で切っていく。1本をだいたい三等分くらい。 本当に畑からの採れたてなのがよく分かる、青々としたいい獅子唐だ。 育てたお婆さんというのは一体どんな人なのだろう?キャスターも俺の知らないところで意外な交友関係を作っているらしい。 キャスターのこの街での暮らしぶりに思いを馳せながら程よくにんにくの揚がったフライパンへベーコンを投入した。 途端にぱちぱちとベーコンの水分が弾けて陽気な音がキッチンへ響き出す。ここからの工程はスピード勝負だ、手早く行こう。
③
「………」 「………」 最早想定通りだった玄関での睨み合いにいちいち付き合うのも面倒くさく、俺は土足からスリッパに履き替えて館内に上がる。 「セイバー。いいから通してやってくれ。キャスター。あんまりセイバーをからかわないでくれよ」 「典河にそうきっぱり言われちゃったら仕方ないかな。はいはい、分かったよ」 お洒落な装いのショートブーツを脱いでスリッパに履き替えるキャスターをじろりと一瞥したセイバーはすぐさま俺へと食いかかってきた。 気持ちは分からないでもない。甘んじてその受け答えに応じることとする。 「テンカ!!どういうことだ!!あの毒婦めをこの家に上げるなど!!」 「どういうこともなにも、キャスターは確かに困っていたんだ。それを見てみぬふりをするのも、なんだろ」 「………っ、た、確かに!テンカのそういった部分はひとつの美徳でもあるがっ!相手はキャスターだぞ!?」 「だぞって、まぁ分かるけどさ………」 基本的にセイバーはキャスターと折り合いが悪い。いろいろあった間柄なのはさておいても性格面からあまり噛み合わない。 キャスターの方からは嫌っているということもなさそうなのだが………。 玄関先でやり取りしていた俺たちへキャスターが面白い芸でも見るかのような目で見ていた。 「おーい。盛り上がってる所悪いけど、もう奥へ進んでいいかい?」 「あ、ああ。突き当たりまで行けばリビングだからそこで待っててくれ」 「テンカ!」 「大丈夫だってば。キャスターは食材を持ってきてくれただけだ。何か企んでいるとかそういうことはない………と思うよ」 保証はし切れない。キャスターは笑顔の裏であれこれ良からぬ画策をするのが好きなタイプなので。 とはいえさすがに大丈夫、だろう。我が物顔ですたすた廊下を歩いていくキャスターの背中を見ながらセイバーが溜め息をついた。 「………納得はしていないが………。やれやれ、テンカはキャスターへ妙に甘いところがあるからな………。 ふーん………ふーん………ふたりで食事の約束なんかして………仲が良くてなんとも結構なことだな………?」 「そんなことない。そんなことないぞ。本当だぞ。すぐお昼作るからセイバーも待っててくれ」 じっとりとした半目の視線をセイバーに向けられてはそそくさと退散する他ない。 キャスターから貰った紙袋片手に廊下を足早に通り抜ける。 うちのキッチンはリビングと一体になっているから自然と既にリビングで寛いでいたキャスターの姿も目に入った。 ソファに腰掛けて勝手にリモコンでテレビもつけちゃって、もう完全に我が家状態である。自由人な彼女らしかった。
② 「どういうこと?」 「うーん。話だけは単純なんだよ。たまたま知り合った老婆がいてね。 夜はまだ冷えて老骨に染みるっていうからさ。気まぐれに膝掛けを織ってやったのさ。 そしたらお礼にって畑で栽培している野菜を山程貰っちゃってさ。だいたいはマスターに押し付けたんだけど、さて残りをどうするかってね」 「………それで、なんで俺のところに来るんだ」 「君、大家族のお母さんでしょ?これあげるから何か適当に作って食べさせてよ、お母さ~ん」 「誰がお母さんだよっ!?」 言い返すがキャスターは悪びれもしない。いつもの怪しくて甘ったるい笑顔を浮かべながら俺の片腕に抱きついてくる。 このサーヴァントはこうすれば俺が断らないやつだと知っているのだ。そして俺は断れないのだ。いつも最後の一線で甘やかしてしまうのだ。 気質は違うがどことなくキャスターが流姉さんに似ているからかも知れない………。 おおげさに溜息つきながら俺はくすくすと俺の横で微笑むキャスターをじろりと睨んだ。 「でも、意外だな。あんたそういうことするんだね。無償でそんなふうに他人へ膝掛けをプレゼントするなんて」 「ふん。今でもあのばか女神より私のほうが機織りの腕については優れてるとは思ってるけど、私は元を正せばただの町娘だからね。 こんなの珍しいことでもない。織られた生地は誰かに愛でられることで価値が生まれるもの。渡す意義のある相手には相応に振る舞うよ」 「へえ………」 こと機織りに関する話になるとキャスターは独特の表情を浮かべる。 漂わせる怪しげな印象はそのままに、真剣で余人の意見を寄せ付けない強い意志をほんの微かに覗かさせる。 それはいわば職人の矜持というやつなのだろう。正直こういうキャスターは嫌いではない。 もしここに機織りの女神―――アテナがいるとしたら、俺はきっとキャスターの肩を持ってしまうはずだ。 「………分かったよ。この獅子唐を使ったありあわせのものでいいなら作るよ。 ただし、その代わりセイバーとは仲良くしてくれよ。俺の家の敷地内で乱闘なんて御免だからな」 「はいはい。家主の言葉には従っておくよ。セイバーとだってきちんと仲良くやるさ。 ま、向こうがその気なら別だけど………その時は典河がちゃんとセイバーを宥めておくれよ?」 「善処します………」 セイバー、キャスターのこと苦手っぽいからな………。 思わぬ珍客を引き連れて旧土夏のアーケード街を行く。 途中、美人を連れて歩く俺へ突き刺さる商店街の皆様の視線はあえてひたすら無視することとした。
① 時に土曜日。学校は半ドン。セイバーひとりが待つ我が家への帰宅途中。 さて昼餉は何にするかと考えながら旧土夏のアーケード街へ差し掛かった頃であった。 「やあ典河。いい日和だねぇ。ご機嫌麗しゅう~」 「げ」 本人が言う通り、ピーカンの青空の下。どちらかといえば曇り空の似合いそうな女がにこにこと俺に笑顔を振りまいていた。 この女性もすっかり現代に馴染みきって、ニット生地ののタートルネックにフレアスカートの出で立ちでは最早ただの超美人である。 俺がアーケード街へ踏み込んだ途端するりと路地から現れたので待ち受けていたのは明白だった。 「………何だよキャスター。俺に何か用か?」 「げ、とは失礼だね~。そんなに邪険にしないでよ~。あんなことやこんなこともした私と君の仲でしょ~?」 「そんな覚えは!………いやちょっとあるけど!だいたいは無い!」 そそくさと俺の間近に擦り寄ってきて怪しげな笑みを浮かべながら俺の胸板に指で円を描くので慌てて1歩飛び退いた。 キャスターがとんでもなく美人なのは間違いないもんでつい顔が熱くなってしまう。 用事があろうがなかろうがキャスターは俺に対してこんな調子だった。絶対俺をからかって遊んでいるのだ。どして。 「ほ、本当に何の用だよ。何にもないんなら行くからね。帰って昼飯の用意もしなきゃいけないんだから」 「あー………うん。実を言うと、その話なんだよね」 「は?」 意味が分からない。キャスターと俺の作る昼飯に何の因果があるというんだ? 珍しく眉を寄せて困った顔を作ったキャスターが、まずはこれを見てくれ、と手提げ袋の中身を広げてみせた。 無視するのもなんなので促されるままに袋の中をおそるおそる覗き見る。 キャスターのことだから何かおどろおどろしいものが入っているのかと思いきや、それは予想外の物品だった。 「………獅子唐?」 「というらしいね。私は見たことも聞いたこともなかった野菜だから名前だけしか知らないけど」 そこには青々とした見事な獅子唐がビニール袋一杯に詰まっていた。 俺の中では疑問符が立て続けに並んでいく。キャスターと獅子唐。なにひとつ接点が結びつかない。 キャスターはかつては神域の機織り手というだけで身分としてはただの村娘だったというが、それでも畑を耕していたなんてことは聞いたことがなかった。 ついぽかんとして目の前のキャスターと見合わせてしまう。
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『おーい、正峰? 聞いてるかー?』 「……聞いている」 いかん、思わず自分の中で愚痴っていた。夏休みが近いせいか? 『でも、あったらしいじゃないかお前のいるとこ、土夏だっけ?』 「らしいな」 感情を乗せない相づち。 それを知って珍しく俺に電話を掛けてきたかと、一人納得する。 聖杯戦争の手がかり、情報が聞きたいと言うのが本題だったらしい。 『はぁ? らしいって……調べてないのか?』 電話口からの困惑する声。 思わず口元が緩む。調べていないし、知らないが、知っていてもただでは教えん。 「土地の管理者や教会に訝しまれたくないからな」 『へぇへぇご苦労なこって。しかし、宛が外れたかぁ』 「……正直言うとな、俺は怖いんだよ。ガキの頃から散々言われてきた。“血を怖れろ、死に近づくな。それを忘れた時、お前は人ではなくなる”って」 再従兄弟の冗談めかした言葉に苦笑いをして、思わず手が震えた。 先生との出会いの以前、記憶の奥底に刻まれた何かが強迫観念のように、亡霊のように俺の両肩に手を掛け囁き掛けてくる。 「俺は、非日常の何かに深く関わって黒瀬正峰という人間が“俺”でも“私”でもなくなるのが、何よりも怖いんだよ」 そこまで吐露してようやく落ち着いた。 再従兄弟は察して黙って聞いてくれたようだ。 『……そうか、悪かったな。忘れてくれ。 ああ、最後に良いことを教えてやるよ、誰でも出来る詐欺師に騙されない方法だ。話を聞かない、これに限る。 簡単だろ、はははははは!!!』 前半の神妙な口調とうって変わった大爆笑。 そうだ、暫く会っていないので忘れていた、再従兄弟はこういう奴だった。 「…………俺は時々本当にお前が分からなくなるよ。あぁ、分かった。俺の敗けだ、18年前の事なら分かる限り調べて後で送ってやる」 狐に摘ままれたような気持ちの後、思わずつられて笑みが溢れた。 そんな事を言われたら電話を取った時点で詐欺師の口車に乗ったようなものじゃないか。 なんだか馬鹿馬鹿しくなった俺はいっそのこと詐欺師の片棒を担いでやろうと思った。 『おっ、サンキュー』 「俺に出来るのは当時の地方紙の記事や伝聞を漁って状況の推察材料を作る程度だ、期待するなよ。 忘れるな、この貸しは高くつくぞ」 返事を待たずに電話を切る。 流石にまた電話の呼び出し音がなることはなかった。 ため息をついた俺は外の空気が吸いたくなってベランダに出る。 空を見上げるが、長野と違って土夏では星はあまり見えない。 赴任してもう5、6年になるか、土夏は今や第二の故郷と言ってもいい。……まぁ、盆くらいは夏期休暇を使って久し振りに実家へ帰るか。 折角だ、調べたネタを使って再従兄弟に何か奢らせよう。
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────2009年、7月初旬深夜。土夏市新土夏のマンション、黒瀬正峰宅。
『なぁ正峰、聖杯戦争って知ってr』 10年来の友人からの懐かしい声とその口から発せられた不愉快極まる言葉を耳にした瞬間、“俺”は電話の受話器を叩き付けるように本体へと押し付けていた。 数十秒後、電話機が鳴った。いっそのこと電話線を引き抜いてやろうかと思ったが、深呼吸をして落ち着くと受話器を取る。 「はい、黒瀬ですが…」 『酷いじゃないか正峰、いきなり電話を切るなんて!』 いきなりやかましい。 受話器から耳を離しておいて良かった。 「酷いのは貴様の頭だ、何を言うかと思えばよりによって聖杯戦争とはな。俺を殺したいならそう言え」 友人の言葉に吐き捨てるように言い放つ。
聖杯戦争がなにか位は魔術については殆ど素人の俺でも知っている。 教会主導の聖杯と呼ばれる魔術的遺物を巡る戦い。 戦争とは言っても競売やクイズ、徒競走でも聖杯を賞品にすれば聖杯戦争になる。 聖杯と名のつく遺物も聞くところによれば1000近くは存在しているなどと聞くと聖杯戦争の存在すら与太話ではないかと疑わしい。 だが、確かにそれは実在する。裏の世界に少しでも足を踏み入れた事があるならきっと誰もが耳にするだろう。
それを前パン屋だったところに出来た新しいラーメン屋知ってるか?とでも言わんばかりに言うとは、会話の内容にしては扱いが軽過ぎる。 『何を言ってるんだ!俺達は友達だろ!?』 電話口の声は言い方からして動揺しているのが分かる。 電話先の友人、生家である長野の実家の再従兄弟は本気で聖杯戦争を日常会話の一つとして話すつもりだったらしい。イカれているのか? 再従兄弟は廃業した黒瀬の家とは違い、今も退魔や魔術師相手に殺し合いをしている。非日常にどっぷりと浸かった奴との会話は時々相手が正気か判断に迷う。 「貴様と会話する度に俺は貴様と本当に友人なのか、貴様に洗脳されていないか悩んで過去を洗い直すんだがな」 『かわいそ……待て、待て切るなって!俺が悪かったよ!』 此方の皮肉に失笑しやがった。 電話を切ろうとしたのを察したのか、慌てて謝ってくる。 「それで、聖杯戦争がなんだ? 調べろと言うならクソッタレ、参加しろ ならくたばれと返してやるが」 再従兄弟とは、子供の頃からの付き合いだ。お互い良くも悪くも遠慮がない、どうしても昔を思い出して口が悪くなる。 『じゃあ俺はクソッタレか。 調べるくらい良いじゃないか。どうせ、そろそろ夏休みで暇だろ?』 「ちっ、生徒と違って教師に夏休みはない。“私”には研修だの、新学期に向けた準備が山程ある」 やはり、“俺”に聖杯戦争について調べさせるつもりでいたか。わざと聞こえるように舌打ちをした“私”が発したのは皮肉ではなく愚痴だった。
教師も夏休みが長いと思われている風潮はなんだ?そんな訳がないだろう。下手をすると生徒にまで先生も休みなんでしょう?なんて言われるんだぞ。 私も好きでやっている仕事だから文句は言わないが、たまに愚痴くらい言いたくなる。
② 円は鞄からクリアファイルを取り出して俺に手渡してきた。 昼休みが終わったあたりから咳が出だして保健室に直行したのでおそらくその間の2限分だろう。 特に柄もない透明なファイルなので円がルーズリーフに書いた板書きの内容が透けて見える。 こういうことがあると円は必ず俺の分まで授業内容をこのようにして残しておいてくれるのだが、俺が板書きを写すより何倍も分かりやすい内容なのがいつも不思議だ。 と。それを自分の鞄に仕舞おうとした俺の目の前へ円が差し出すものがあった。紙片である。 「………なにこれ?」 「短冊だ、七夕の。お前も食堂前に葉竹が据えられてあったのを見たろう。義務はないが可能であれば今日中に提出、いや笹に飾ったほうが良かろう」 そういえばそんなものもあったような見かけたような。 どこの山から切ってきたのか、笹のついた竹がずらりと並べられて緑の竹林を形成していたのを思い出した。 変なところで思い切りが良いというか全力投球するのがうちの学園の校風である。 「願い事か………。円はなんて書いたんだ?」 「無病息災」 「だろうね」 むっつりと唇を結んだいつもの顔で円は事も無げに言った。円は寺の子なのに、いやだからか、こういう願掛けにはあまり興味を示さない。 しかし応じないのも不義理なので………と、たいていは差し障りのない無難な答えを口にする傾向があった。 「そういうお前はなんと書くつもりだ。典河」 「俺………俺か………」 指に挟んだ何の変哲もない黄色い色紙へ視線を落とし、少しだけ思いに耽る。 俺の中に夜空へかかる天の川へ託すような切実な願いが、もしあるとしたら。 もしあるとしたら、それは。決まっている。 「………救われたんだから。救われた意味に足る自分になれますように」 「典河?何か言ったか?」 「いや、なんでもない。そうだな。こういう身体だし俺も円に倣って無病息災ってことにしておこうかな。 さてと、起きるか。もう放課後だ。いつまでも寝っ転がったままじゃいられないもんな」 俺はベッドから起き上がって上履きに足を通す。 円は何か言いたげにしていたが、結局その場でそれについて言及することはなかった。 鞄を引っ掴んで保健室を後にする。途中、かさりと何かが音を立てたので音の出どころを探したら胸ポケットだった。 「………ああ、そういえば」 先日、栗野先輩から貰った魔除けだとかいう栞が入っている。今もどうにか脈を打っている、俺の心臓の真上に。
① 放課後を知らせるチャイムが鳴って5分と経ってはいなかった。 「―――失礼します」 几帳面なノックの後、クリーム色をした保健室の扉が静かにスライドした。 男子学生がひとり、淀みのない動きで入室してくる。ドアを閉める所作まで全て杓子定規で測ったような丁寧さだった。 室内を見回して状況を確認すると最後に俺へ向けて視線を投げかけてきた。 「養護教諭は留守、と。………ああ、典河。身体の方は大事ないか」 「もう大丈夫だよ。ありがとう円」 喋り方まで角ばっているというか、真面目さが滲み出ているというか。 それがもう2年ほどの付き合いになる円という男の味なので今更どうとも思わないが。 靴底のゴムを微かに鳴らしながら円は俺が上半身を起こした状態で横たわっているベッドの側までやってきた。 「すまなんだ。私としたことがお前の体調の変化を見落とした。気付いてればもう少し早く声をかけられたのだが」 「いいよ。こういうこともある。こっちこそ迷惑かけて悪かったね、本当に」 「お前に謝られては立つ瀬が無いな。まあ、なにはともあれ大事ないならば善き哉」 しなやかな視線で俺を見つめて頷く円はクラスの保健委員という立場であり、全員が集まる委員会でもその的確な発言と柔らかな物腰により次期会長は間違いないと言われている男だ。 生徒会、風紀委員会、保健委員会、部活連、更には体育祭や文化祭の実行委員会が複雑に利権を絡ませ合う火蜥蜴学園の権力闘争に円が巻き込まれていくのだと思うとなかなか複雑な思いがある。 ―――フルネームを姫島円。 お山にある松原寺の代理住職の息子で、中学もあと半年で終わりという頃にこちらへ引っ越してきて以来の俺の友人である。 文武両道を地で行く模範生とというやつで教師陣からの覚えは非常によろしい。 これで容姿も麗しく性格もやや堅物なのを除けば至って穏やかなのだから天は二物を与えずという言葉は嘘っぱちなのだろう。 「あまり調子が悪いようならば山の方へ連絡して住み込みの者に車を回してもらおうとも考えたが」 「大丈夫だってば。もうひとりで歩いて帰られる。それにそこまでしてもらっちゃ悪い。気持ちだけ貰っておくよ」 「そうか。………では渡すべきものをここで渡しておこう。 配られたプリント類。それとこれはお前が欠席した授業の板書きだ。私の分は自前で書き留めてあるので気にするな」 「そっか。いつも悪いな」
② 「十影くん?」 「はい、これ。濡らしたら使えるネッククーラー、あと冷却スプレー。ポータブルの扇風機は高いものでもないからあげるよ。 それと大事なのはこれ。ちゃんと水分補給して。全部とは言わないから、飲めるだけ飲んで」 「え………あの………?」 「いいから、飲んで」 普段の十影くんからは想像もできないような、静かだけれども有無を言わさない口振り。 背負ってきたリュックサックからあれよあれよという間に様々な防暑グッズが溢れ出してくる。 まともに口も交わしたことのない深窓の美少年から言われるままに海深は手渡されたペットボトルのキャップを開けて中身を口にした。 ペットボトルのラベルはスポーツドリンクとは違う、明らかに医療用と思われる無骨さに満ちていた。 最初の飛沫を口の中に受けて、ああ美味しい、と。そう思ったが最後、ペットボトルの半分くらいまで一気に空けてしまった。 こんなに一口に水を飲み干したのは初めてかもしれない。 そう戸惑っている私の前で十影くんはなんでもないことかのようにリュックサックのジッパーを閉じている。 「あ、あの………十影くん」 「ん?どしたの」 野生動物が水を飲むような勢いで飲料水を半分空けていた間に、海深の首筋にネッククーラーが添えられて今もひんやりと首を流れる血液を冷やしている。 それらでいろいろとひと心地がついて、ふうと溜息をひとつついた深海はその場から立ち上がって去ろうとしている典河を前にして慌ててしまった。 急にやってきて急に私を助けていった彼。何か言わなければならない。一瞬の内に必死で模索して、出ててきたのはありふれた言葉だった。 「あ、あのね、十影くん!………ありがとう」 「………」 ああ、その瞬間を今も尚言葉になど出来ない。 うまく形に出来ないからこそ格別なのだろう。うまく思い出せないからこそ特別なのだろう。 「………ううん。こちらこそ、お世話様」 立ち上がりかけた彼が私へ向けて、ほんのりと。蕾がほんの少しずつ綻ぶように。 薄い硝子細工のように繊細そうなその唇がぎこちなく弧を描いて歪んだだけで、海深は雷に打たれてしまった。 それがとてもとても綺麗だったから、海深は本当に、びっくりするくらいあっさりと――― 「………あ………うん…………気をつけて、ね………」 「………?ありがとう。俺、こういう身体だから熱射病なんかには特に気をつけててさ。 梅村さんも今渡したぶんで足りなかったら、後から俺に言ってね。予備はたくさんあるから。………それじゃ、円に呼ばれてるから」 十影典河はそう言い残して、真夏の幻のように陽炎の中をふらふらと去っていく。 ぽかんと呆ける海深の元へ入れ替わりにやってきたのは親友の松山茉莉と竹内太桜の二人組だった。 日陰とはいえ、日差しの暑さも忘れている海深の様子へ二人は首を傾げた。 「おーい。もしもーし。どうしたのさ、海深。なんだか心あらずって感じだけど」 「そうだぞ。まるで男子生徒に告白でもされたかというほど耳まで顔が真っ赤だ。もしや日射病なのではないか」 「えっ!?その、だって………」 指摘された顔面を明後日の方向へ背けて隠し、海深は消え入りそうな声で仲良しのふたりへ呟いた。 自分の顔が照りつける日差しにも負けないくらいかんかんに熱しているのを自覚しながら、そう言う他無かった。 「なんでもないの。本当に………なんでもないんだよ………?」 鼓動がうるさい。どきんどきんとけたたましく鳴っている。止められるならこの炎天下の下でどんなこともするのにと、海深は思った。
① まるで雑巾の水をゆっくりと絞るかのように、だらだらと自分の中から水が零れ落ちていく。 グラウンドの隅にある塀で出来た日陰の下で海深はそんな錯覚を覚えていた。 「………暑………」 梅村海深。高校1年生。6月。恐るべきピンチを迎えている。 倦んだ視線をグラウンドの中央へ向ければそこにはいくつものテント、上がる歓声、ビデオカメラが回る保護者席。 火蜥蜴高等学校は今まさに体育祭の真っ最中だった。 とはいえ海深に体育祭へかける熱意やモチベーションなどは微塵もない。 年々厳しさを増すばかりの日本の気候は6月の時点で早くも外気温30度を優に超え、それは熱に弱い海深の体力を容赦なく奪っていく。 確かに柔道の選手として基礎体力はそれなりに培っているが、それで灼熱の中でも平気で動けるかどうかといえば向き不向きがあるのだ。 心なしかまだ羽化も果たしていないだろう蝉の鳴き声の幻聴すらする。ぐったりと手足を地面へ投げ出し、塀に背中を預けた。 塀に触れた背中はひんやりとしている………と思いきや、午前中の直射日光によって焼けた鉄板がやや冷えた程度には熱せられ全く冷たくない。 吐く息が体温より高く感じる。あと出場しなければならないプログラムはいくつだったか。考えるのも億劫だ。 そのくらいに海深は炎天下というものが大の苦手だった。季節は夏以外であれば春や秋がいいし、もっと言えば冬でも全然構わない。 喉が乾いた。だが立ち上がるのさえ面倒だ。高気温と高湿度のダブルパンチを受け、何もかも嫌になった。そんな時だった。 「どうしたの」 「………………?」 不意にかかった声。海深はゆっくりと目の前の人影を見上げた。 率直に言えば。まるで幽霊みたいだなと思った。それくらい唐突に、何の気配や存在感もなく彼は目の前に現れたのだ。 視線を上げていって顔を見るなりすぐ誰か分かった。彼はその顔つきだけで私たち1年生の間で有名な男子生徒だった。 まるで女の子みたいに端正な顔立ち。ちょっとびっくりするくらい抜きん出た美形。噂じゃ芸能事務所にスカウトされたこともあるという。 そんなふうに女子生徒の間で噂される、いわくつきの男子生徒。十影典河が体操着姿でじっと海深を見つめていた。 実を言えば自分こと梅村海深は彼と中学校を同じくしていたのだが在学中の三年間、大した接点も無く過ごした相手だった。 その間、その容姿の美麗さについては何度も耳にしたがほぼ会話することはなかった。だから、今この時が最初の接点ということになる。 今だって同じクラスだが、時折ふと目に飛び込む姿――薄ぼんやりと窓の外を見る、その儚げな仕草――に一瞬目を奪われるくらいだ。 近づいてくるまで気づかなかった存在の希薄さに驚きながら海深は疲れ切った表情へなんとか愛想だけ作って答えた。 「う、ううん。大丈夫。海深はちょっと暑いの苦手で………それだけだから、大丈夫だよ」 「………分かった。ちょっとここで待ってて」 そう言って彼はくるりと踵を返し、どこかへと歩いて行ってしまう。 呆然とその後姿を見つめながら海深はいろいろと記憶の反芻を行っていた。 曰く。十影くんは喘息持ちなのだという。身体が強くなく、この体育祭でも学年全体で行う競技以外にはエントリーしていない。 体育祭を億劫がる生徒の中ではそれをやっかむ者は幾人かいたが、体調の問題であれば仕方がないと決着が付いていた。 実を言えば、自分もほんの少し彼の立場を羨望して、直後に彼の肉体の問題を踏まえれば不謹慎だと慌てて脳内で自己却下した身だ。 そのようなものだから、海深はふと彼の心境を思った。 確かに自分のように暑さに参っているような者は体育祭など無ければいいと思っている。だがそれは実際に体育祭へ参加しているから思えることだ。 目の前でみんなが参加している体育祭に自分だけ加われない。それは、それ相応の疎外感が彼にはあるのではないか――― ………なんて。得体のしれないことを考えている内に、ふと気づくと帰ってきた典河がへたり込む自分の横に座ろうとしていた。
② 「………ところで十影くん。もう離してもらっても大丈夫なんだけど?」 「え………あ!す、すみません先輩!」 結構な勢いで倒れかかってきたもので、まるで抱き締めるように抱えていたことに今更ながら気づいた。 そのせいで腕に何か柔らかい感触が…慌てて飛び退く離した。メーデーメーデー。心臓が弾けるように血を送り出して、頬が紅潮していくのを自覚する。 俺はそっと先輩の表情を伺って………そして、悪寒に背筋を貫かれるのだった。 「ふーん………そうなんだ。偶然で私の身体に触れられて役得だったのかなぁ?お気持ちは如何かな?トカゲくん」 「とえいです!違、そういうんじゃ」 天使のように微笑む先輩の表情に映るのは悪魔の悪戯心。一旦は離れた距離を至近まで近寄ってきて、腕を絡めるようにして手を握ってきた。 メーデーメーデー。先程よりも強く先輩の香りを感じ、耳まで熱くなっていく。あ、俺の左の二の腕に何か柔らかい何かというか何かが。 「ナニシテルンデス」 「え~?だって一応これはデートっていう名目だし~?せっかくだからちょっとは十影くんが喜びそうなことをしておこうかなってさ~」 「い、いいですからそういうのは………!………え」 そう先輩に必死で言ったのだが、俺の意識はそこで逆方向に割り振られることになった。 右手が誰かの手に握られる。先輩ではない。先輩は左にいる。なら右にいるのは決まっている。 ぎ、ぎ、ぎ。油の足りていない機械のようにぎこちなく右に視線を向けると、先輩と同じようにして俺と手をつないでいるセイバーの姿があった。 メーデーメーデー。俺の右の二の腕に謎の柔らかい謎のなんというか謎。ほんのりと頬を赤らめたセイバーがじっとこっちを青色の潤んだ瞳で見上げている。 「………セイバー?」 「なんだろうテンカ。私は百合がそう言うから先達に従って行動しているだけだ。特に問題はない。 私は現代の様式には無学だか、学ぶ姿勢は謙虚であろうと努めている。これはその一貫だ。だから問題はない」 「あるって!」 「問題はない!」 きっと俺を睨みながらセイバーは強い口調で否定する。にやにやと微笑む百合先輩がその様子を見つめていた。 「いいのよセイバーちゃん。勉強熱心なのはいいことだけれども、ここまで真似なくても」 「いいえ。主の喜びは私の喜びだ。これでテンカが喜ぶなら『せっかくだし』私もそうしましょう」 「ふふふ」 「ふふふ」 どことなく不気味な笑いを俺の腕を抱きかかえるふたりが発する。俺にどうしろというのです。 ………結局、アクアパーク土夏を出るまで俺は刑事に抱えられる容疑者のような格好で館内を連れ回されることになった。 その間、来館者の視線が痛かったことはわざわざ述べるまでもない。厳しい、試練の時であった。どして…。
① 薄暗い照明の中、携帯電話を開いて時刻を確認する。11時半。そろそろ昼時だ。 開館と同時に入った、この土夏市が誇る大型水族館『アクアパーク土夏』を出た頃には昼食のタイミングだろう。 先輩は『楽しみにしておきなさい』と言って食事処の選定を予め禁じていたが。さて、どうするつもりなのやら。 俺は携帯電話を閉じ――最近はスマホというのが流行りらしいが俺は旧式のものだ――視線を館内へと戻す。 「あ、ほら。見てみてセイバーちゃん。これなんて虹色に光ってるわよ」 「む、どれどれ………ああ、本当ですね。きらきらと輝くあのさまはかつての妖精たちにそっくりです」 女性陣が水槽のガラス面を覗き込んでいるのを俺は少し後ろから見ていた。 百合先輩はどこかはしゃいでいる様子だ。声を弾ませながら水槽を次々に梯子してはセイバーを連れ回している。 セイバーも今は緊張感より好奇心のほうが勝っているようだった。百合先輩に言われるままにしげしげと水槽の中の魚を見つめていた。 こうしているとセイバーと百合先輩は仲の良い友人同士に見える。 ふと百合先輩が振り返り、ちらりと俺の方を見た。照明を絞られた薄い室内の中、稚気に富んだ瞳が夜空の星のように光っていた。 「何してるの十影くん、早くこっちに来てよ!」 「………はいはい。了解しました。えーと、こっちの水槽はなんだって?」 「パネルによればチョウクラゲだそうだテンカ。ほら、あなたも見てみるといい」 ふたりが間を開けてくれるのでその間のスペースに挟まるようにして俺も水槽へと近づいた。 水槽の中をふわふわと無数に漂っているクラゲはまるでネオンサインのように虹色のラインを輝かせていた。 透明な身体に虹の流線を持ったその姿はどことなく近未来的なSFを感じさせる。こうしてみると確かに美しい。 とはいえ………俺はどちらかといえば、水槽の中ではなく両脇に立つ二人の女性に視線を奪われていた。 百合先輩はいつもの赤いスカーフとバックリボンワンピースにTシャツを合わせていた。 西洋の血の影響か、東洋人離れした透き通った鼻梁と蒲公英の花に似た色合いの瞳がとても印象的だ。 こうしてぎりぎりまで近くにいると甘い花の香りがこちらにまで漂ってきて、ついどきりとしてしまう。 セイバーは百合先輩によって着せかえ人形と化し、今やどこにでもいる…いや、何処を探してもいないような可愛い女の子になっていた。 ノースリーブのシャツとパーカー、レギンスの上からはホットパンツを履いて、ポップなデザインのスニーカーで足を包んでいる。 青みがかかった髪が俺の視界のすぐ横で揺れていた。もともと綺麗な人だとは思っていたけれど、こんな格好されると落ち着いてなんかいられない。 ………こんな甲乙つけがたい美少女ふたりに挟まれて、俺はちゃんと釣り合い取れているのだろうか。背丈も170cmに届かないしな………。 閉口してしまう俺を他所にふたりは水族館トークで盛り上がっているようだった。 「セイバーちゃん的にはどう?こういうところって。さすがに古きブリテンの騎士でも全く未体験でしょう」 「ええ。海の中の魚を捕まえてきてこうやって誰でも鑑賞できるようにするとは当時では考えられない発想ですね。 聖杯を探す旅でいろんなものを見聞きしましたが初めての体験です。私にとって魚は食べられるかそうでないかというだけだった」 「ふーん、まぁそうだよね。魚を透明なガラス越しに観察するなんてこと200年くらいの歴史しかないもん。 でも久々に来るといいもんだね~。何回でも通っちゃう人の気持ち、分かる気がするな~」 「私も分かります。海の中の魚たちはまるで動く宝石のようです。これを知れば万人とこの光景を共有したいと願う気持ちは察します」 「そうだね………っとと!?」 セイバーに相槌を打った百合先輩が突然こちらに向かってつんのめってきた。 とっさに俺はその身体を抱きとめる。原因を視線で探ると子供の姿が近くにあった。 どうやら走ってこちらまで来てぶつかったらしい。近寄ってきた両親と思しき男女が頭を下げて謝るので、お気になさらずと返事をしておいた。 まあ、子供のすることだ。いちいち目くじらを立てるのもなんだろう。 なんて子供連れを微笑んで見送っていた俺へ向けてほんのり硬い形をした言葉が告げられる。それはごく近くから響いてきた。
② 「――――――」 不意打ちだった。庭の薔薇にも負けないほど流麗で愛らしく、胸を打つ仕草だった。 そのまま見つめられ続けていると何かボロが出てしまいそうな気がして慌てて目の前の猫へ視線を戻す。 「そ、そうかな。この庭は広いし外のコンクリートの上よりは涼しいからここにいるだけかもしれないよ」 話を誤魔化すように俺は食事を終えて顔を舐めていた黒猫の額へ向けて手を伸ばした。 猫は伸びてくる俺の手をじろりと睨みつけると――― 「あっ」 セイバーがやや気の抜けた声を上げた。 俺の指にがぶりと噛み付いた黒猫は器用に前足2本で俺の手を保持して何度も牙を立てる。 その間、俺の指には丸い小さな穴が刻まれていくのだった。ちなみにちょっと痛い。 「ま、マスター!噛まれています!止めなければ!」 「うーん。これ甘噛みってやつじゃないのかな。かわいいよね」 「これは獣の甘噛みではありません!それは相手の身体に傷をつけたりしないのです!」 「そうなんだ………。猫なんて飼ったことないから、てっきり。介抱した時からずっとこうなんだよね」 噛んだり、引っ掻いてきたり。黒猫は俺の指に開いた穴から流れ出る血をそのざらついた舌でぺろぺろと舐めていた。 なんだかまるで血を啜っているかのようだ。まあ猫は肉食性の生き物だからそういうものだろう。ちょっとくすぐったい。 「いけませんマスター………!こら、マスターはあなたの命の恩人なのだろう?無体なことはするものではない」 そう言って猫を叱りつけながら、脇の下を両手で支えてひょいとセイバーが黒猫を抱えあげる。 俺の指を噛んだり舐めたりすることを中断させられた黒猫は不服そうに唸ったが、ちらりとセイバーを一瞥すると大人しくなった。 されるがままにだらんと身体を垂らし、セイバーが抱きかかえるのに任せている。首の下を軽く撫でられるとごろごろと喉を鳴らした。 ………俺とは全然対応が違うじゃないか!俺に向けた牙や爪はなんだったんだ! 「ふむ、おとなしいですね。こうして近寄ってくるのだからマスターの事を嫌っているのではないのでしょうが。 いいかい、もう彼のことを噛んだりしてはいけないぞ?義は義で返すのが正しい筋というものだ」 セイバーがそうやって諭しながら頬や額を撫でると嫌がる素振りも見せずに尻尾をぶらぶらと揺らしていた。 くそう。やっぱりセイバーが美人の女の子だからそういう反応をするのだろうか。 俺は臍を噛むような思いをしながらセイバーが黒猫を可愛がる姿を見守るしかなかった。
① セイバーがふと足を止めた。廊下の中途、掃除用具の納められたロッカーのあたりだ。 俺の胸あたりの高さのロッカーなのだが、セイバーが気に留めたのはその上にあるものだった。 「マスター。これはなんですか?」 しげしげとパッケージを見つめている。何か琴線に触れるようなことがあったのだろうか。 特に隠すようなものでもない。ゆっくりとセイバーに後ろから追いつきそれを手にとった。 「キャットフードだよ。要するに猫の餌。 あんまり人間が食べるものと同じものをあげると猫にとっては栄養が偏っちゃうからね」 特別なことはなにもない、普通に市販されているキャットフードだ。グレインフリーがどうのこうので若干お高いくらいか。 なるべく良いものを買ったからそこは仕方がない。シンプルなパッケージのデザインが如何にもな高級感を出していた。 それを聞いたセイバーが小首をかしげた。 「猫、ですか。そういった動物の気配はこの屋敷の中からは感じなかったのですが………」 「ちょっと前まではね。最近になって事情が変わったというか………そろそろ来る頃だと思うんだけど」 その時だった。なーお、と鳴き声がしたのは。 いつの間にか庭に面したガラス戸から黒くて小さな生き物がこちらを覗き込んでいる。 ビー玉のように丸くて青い目がくりくりと動いて俺たちの様子をうかがっていた。 「はいはい。ご飯の時間だね。分かった分かった」 ガラス戸を開けてやると我が物顔でその黒猫は洋館の中に入ってくる。 廊下をのっしのっしと歩き、俺たちの前で優雅に座った。さっさと飯を寄越せと言わんばかりの態度だ。 ロッカーの上から皿を取り出し、カップできっちり分量を計ってキャットフードをよそってやった。 すると黒猫は「まぁ食べてやらないこともないわ」とでも言うようにふんと鼻を鳴らしてから齧り始めた。 「なるほど。この猫のためのものなのですね。しかし、飼い猫という風でもありませんが………?」 「うん。セイバーと出会うよりちょっと前かな。傷だらけでうちの敷地にいてさ。 放っておけないから治療をしたら居着くようになったんだ。普段はこの庭のどこかにいるよ」 俺は話題に上がった庭をガラス戸越しに眺めた。丁寧に整備しているのでちょっとした洋風庭園となっていた。 トキワマンサクの生け垣で仕切られた庭内は薔薇が綺麗に咲いていた。四季咲きの薔薇は手間がかかるがそのぶんいつでも花をつけてくれる。 「なるほど。小さき命であろうと大切にする心がけには感心します。 きっとこの猫も恩人であるあなたを快く思ったからここを住処としているのでしょう」 出会った時からずっと凛とした、悪く言えば硬い表情を浮かべてばかりのセイバーがそう言って微かに微笑んだ。
「なんで貴方がトエーの家に居るの?クロセ?」 一見すれば少女といっても通じる見掛けの魔術師、ニコーレは思わずその美しい顔立ちを苦虫を噛み潰したように歪ませて目の前の男に吐き捨てるように言った。 「何故、何故か……君の魔術で俺…私の両大腿骨が折れ、逃走しようと縮地を使おうとして骨が完全に砕けて十影に助けられたからという答えでは不満かね?」 その男、黒瀬正峰はニコーレの表情や態度など意に解さないかのように淡々と答える。 黒瀬はソファーに横にされており、その両足は太ももから下がギプスでガッチリと固定されていた。 「私のせいって言いたいわけ?重傷なら自分のサーヴァントに背負って貰って病院に行けば良いじゃない」 「ははは……面白いジョークだ。実践したら私は明日には変死体として見つかるだろうね。……まぁ実際帰りたいのは山々だが、こんな深夜ではタクシーも捕まらんし、手負いの俺は他のマスターからすれば良い獲物だ。俺も命は惜しい、悪いが帰らんぞ」 黒瀬はニコーレの皮肉に愛想笑いを浮かべると、もう会話をするつもりはないと言わんばかりに顔を背けた。
黒瀬とニコーレは聖杯戦争の敵対者として数日間幾度か刃を交えていた。 これまで決着はつかず、お互い後に残る傷はなかったのだが、つい数時間前の戦闘で黒瀬が負傷。 その数分後には決着がつく筈だった。 それを遮ったのはニコーレと同盟を結んだ黒瀬の教え子である十影典河と栗野百合であり、不倶戴天の敵だった二組がこうして一時的に休戦。 十影邸に避難しているのも典河の意向(実力行使で二組を止めたのは百合)によるものだ。 意地を張って退けない32歳と24歳が17の少女にただただ正論でガチ説教される様はやる気だったサーヴァント達ですら居たたまれなくなるほどだったという。
とそこへ家主である典河が戻ってきた。 典河は二人が言い争いでもしていると思ったのか、思いの外静かなことに不思議そうに首を傾げる。 「……あれ?もしかして二人は以外と仲がいいのか?」 「「良くない」わよ!」 (やっぱり仲良いじゃないか……)
───────2009年、火蜥蜴学園2年C組教室。6月下旬夕方 数日掛けた中間テストを終えた教室ではどこかやりきったような弛緩したような空気が流れていた。 そこに扉の開く音。 夕礼の時間ぴったりに現れた担任、黒瀬正峰は教壇に付いた。
「起立、気をつけ、礼、着席」 日直の生徒の言葉にクラスが儀礼的な挨拶をすると黒瀬は生徒を一瞥して口を開いた。 「では夕礼をはじめます。中間テストも終わりも明日からテスト休みだ。もう一ヶ月もすれば夏休みなので、気が緩んでいるものもいるが、休みを楽しんでも決して気を緩め過ぎないように」 と、そこで黒瀬にしては珍しく咳払いを一つ。 「休み中に繁華街に行くのもいいが、気をつけないとエアマックス狩りやGショック狩りに合うからな、はは!」 空気が固まる。 決して黒瀬が冗談を言った事にではない、これは何を言っているのかという困惑だった。
「あの……先生……エアマックスってなんですか?」 そこで勇気を出した生徒の一人、松山茉莉がおずおずと手を上げて黒瀬に問い掛ける。
嘘……だろ…… 黒瀬は思わず崩れ落ちた。 まだ自分は若いと思っていた黒瀬にとってはじめてのジェネレーションギャップだった。
「あら、黒瀬先生どうしましたか?そんなに落ち込んで?」 「ああ、いえ大した事ではありません。……凍巳先生、エアマックス狩りって知っていますよね?」 「……えあまっくす?」 「……すみません、忘れてください」
2/2 下校時間を過ぎて校内に残っている生徒がいないな確認するのは部活の顧問をやっていない黒瀬の仕事だった。 各クラスを回って居残りがいないか、確認する。たまにおしゃべりが楽しくて居残っている生徒がいれば帰るように促す。 そして、自身の受け持つクラスにたどり着いた。 扉に手を掛けた瞬間、中からの人の気配に気づいた。……思わず身構え、臨戦態勢に入る。 埋まれた時から染み付いた悪癖だ。 深呼吸をひとつして意識を切り替え扉をあける。 「おーい、誰か残っているのか?」 「あ……黒瀬先生」 そこには夕焼けと似た色の髪の青年、自分の机に座る十影典河の姿があった。 「十影? 忘れ物か?」 松山に言ったことは嘘ではない。黒瀬は確かに十影は友人である八守と共に学園の門を通ったのを確認していた その二人が教え子であり、魔術師見習いとどこかの組織に所属していない魔眼持ちという事で校内にいる限りは出来る限り気にするようにしていたからだ。 「ええ、実は宿題を……」 「そうか、熱心なのは構わないが、もう日が暮れるぞ」 何かがあったかと一瞬いぶかしむが、少なくとも自分の事情に踏みいられる事を十影は望んではいない。 喘息だったからか、独り暮らしをしているからか、自立心の強い青年で誰かの手を借りるという事を極端に嫌がるところがあった。 保険委員の姫島円と少し揉めたのは記憶に残っている。幸い二人は友好な関係を築けたようだが。
「ごめんなさい、今帰ります」 既に帰り支度を整えていたのか、鞄を手に立ち上がる。 「ああ、…………気を付けて帰れよ、最近はその、物騒だからな」 何故か胸騒ぎがして途中まで送っていこうか?と言いそうになったのを飲み込む。心配ではあるが、それは十影の自尊心を傷付ける事になる。
「はい、何かあったら学校に逃げ込みますよ。先生もいますしね」 笑みを浮かべると、頭を下げて教室から出ていく十影。 「…………ふむ」 少なくとも信頼はされているらしい。 嬉しさとあの態度は過保護過ぎるか、などと考えながら黒瀬は次の教室へと向かうのだった。
1/2 ───────2009年、6月初旬夕方。火蜥蜴学園。
梅雨の季節、朝から降っていた雨は昼過ぎには止み、澄色の光が火蜥蜴学園の廊下を照らしていた。 部活終わりに帰宅する生徒達とすれ違い、各々挨拶を返しながら黒瀬は自身の受け持つ2年C組の教室へと向かっていた。 「あ、黒瀬先生!」 後ろからの声に振り向くとそこには見知った三人組の姿があった。 松山茉莉、竹内太桜、梅村海深。松竹梅、などと呼ばれることもある黒瀬の受け持ちである三人の女生徒だった。 松山が手を振りながら黒瀬に向かい歩き、少し離れて竹内はペコリと頭を下げている。……梅村は竹内の後ろに身を隠すような姿勢だったが、黒瀬と目があったのに気付き静かに会釈をする。
梅村海深はどこか黒瀬に苦手意識があるのか、距離を取っているようだった。 それは黒瀬も知っているが、何か問題があるわけではなく無理に距離を詰める必要はないと考えていた。 だが人として何が悪かったか、程度に気にする機敏はある。 早い話、珍しく人並みに傷ついてはいた。
「珍しいな、松山。部活終わりか?」 「ボクは先生と違って忙しいからね」 「確かに部活の顧問はやっていないが、代わりに先生方の雑務を引き受けている。決して暇ではないぞ」 と、松山がキョロキョロと誰かを探しているよう様子に気付く。 「誰かを探しているのか?」 「……凄いね、分かるんだ」 「これでも教師をやって大分長い。十影か?」 驚く松山になんの事はないとでも言わんばかりに答える。実際には人の表情を読むのは裏の顔で培ったものだが。 「十影なら八守と下校しているのを見かけた。もう校内にはいないだろう」 「あー……だってさ、海深!」 「太桜ちゃん、声大きいよ……」 二人の様子、梅村の表情からおおよその推測は付くが、口に出しては野暮と言うものだろう。黒瀬ははて?と首を傾げて見せた。 「ほら、下校時間はもう過ぎてる。帰るぞ、二人とも。黒瀬先生失礼します」 「しかたないなぁ、さようなら先生」 「し、失礼します」 「ああ、さようなら。気をつけてな」 三人の後ろ姿を見送り、再び教室へと向かう。
───────2009年土夏市、旧土夏。5月深夜。
街灯すら疎らな裏通りをウィンドブレーカーを着てフードを被った一人の男が走っていた。 時折酔っぱらいや所謂不良達が男とすれ違うもこんな深夜に走る男をいぶかしむことさえない、まるで男の存在に気づいていないかのようだ。
(あぁそうともそれで良い。今の私、俺はあってないようなものだ) 男、火蜥蜴学園現国教師黒瀬正峰は時たまこうして夜の闇の中を走る癖があった。ストレス解消と言う訳ではない。 ただ時々自分が何者なのか、そう言う悩みを感じた時にはこうして夜の街を走るのだ。今回の原因は本家に旧土夏の怨霊祓いを頼まれた事だった。 (私は退魔でも祓い屋でも魔術師でもないと言うのに……) 苛立ちと鬱憤めいた思いを胸に無心で走る。こう言うときに思い出すのは恩師である先生の言葉だ。
ねぇ黒瀬くん、これから先、生きてれば自分が本当に正しいのか悩んだり或いは自分を見失ってしまうこともあるでしょう。 ……貴方の在り方はきっと人に影響されやすいから。 そう言う時は走りなさい。なにも考えられなくなるまで走りなさい。 そして何か考えられるようになった時に最初に思った事。それが嘘偽りのない貴方の本心って奴よ。
「はぁ…はぁ……」 かれこれ数時間数十キロは走って息切れした正峰は街灯の元で息を整える。 (そうだ……そろそろ中間テストだ。 今から問題をつくっておかないと。 今度は例文を見てどう思ったか、個人の思いを述べなさい。なんて問題の配点は5点位にしないと主任や校長にまたお小言言われるな……) そこでふっ、と苦笑した。 良かった自分は教師だ、少なくとも自分はそう思っている。 そこでポケットから取り出した護符を見る。 (ならこんな野暮用はさっさと済ましてしまおう) 息を整え終えた正峰は目的地に向けて今度は憂いなく足を動かしはじめた。
第五次土夏市聖杯戦争の開始する2ヵ月か前の事だった。
2/2 「…………嘘をつくのは止めなさい!!」 先生の怒鳴り声に驚き、黒瀬の肩がピクリと動いた。 「なんで、嘘だって疑うんだよ」 意図的に声を震わせる、出来るだけ繊細な思春期の少年を装う。 「それ、他の人には通じても私には通じないわよ、黒瀬くん。 何しろ私の方が嘘つきだから」 座り込んだ黒瀬の肩を掴み、じっとその眼を見つめる。 黒瀬の心臓の鼓動が早まる。嘘を見抜かれたからか、それとも 「私は貴方が何をしてるか大体把握してるけど、それを糾弾するつもりはないの」 眼を真っ直ぐに見つめて先生は続ける。 「貴方が学校に来ないのも、家に帰らないのも貴方の意思ならそれでいいとさえ思ってる。ただ、自分に嘘をついて逃げるのは止めなさい」 「おれは、別に嘘なんて……」 まるで心の奥底を見抜かれたようで、思わず口ごもる。 「それがまず嘘。 ……黒瀬くん、貴方に言いたくない、言えない事情があるのはなんとかなく分かる。それを人に相談出来ないことも」 「でも今の貴方は周りが気に入らないから好き勝手してるって自分に嘘をつき続けてる。 黒瀬くん、嘘って言うのはね、人だけでなく自分も傷つけるのよ」 「センセー……俺、どうしたらいいかわかんねぇんだよ……家にいても学校にいても街にいても誰も俺を、俺自身を見てくれねぇ……俺、どうすりゃいいんだ?」 先生の真っ直ぐな眼に堪えきれず遂に眼を反らした。 感情が溢れ出て涙が出てくる。 「黒瀬くん……………甘えるな!」 ばちん!と平手が一発 「…………はぁ!?なんで!?」 「貴方の事情を相談しないんだからどうすればいいかなんて私に分かるわけないでしょ!」 思わず仰け反って混乱する黒瀬に先生は続ける。 「まずは話せる範囲で話して見なさい!そして一個一個解決法を探るの!ほら、立ちなさい、夕飯もまだでしょ?奢るわよ」 右手を黒瀬に向かい差し出す。 「……無茶苦茶言うね、『先生』。何奢ってくれるの?」 少し考えて、先生の手を掴む。
この人はきっと自分の事情なんて分かりもしない、でも先生は自分を見つけて話してみろと言ってくれた。 なら、話してみよう。全ては無理でも少なくとも多少は解決の手助けをしてくれるかもしれない。
「ラーメン!餃子もつけていいわよ!」 「半チャーハンは?」 「……まぁ、いいわ」 黒瀬の顔に久しぶりに心から笑みが浮かんだ。 はじめて信頼してもいいと思える大人に出会った気がした。
1/2 ───────1991年、長野県某市。7月。
「やっと見つけた!」 ショートカットの女性が繁華街の裏手で大声を上げ、通行人が首を傾げながら通り過ぎる。
「………また、あんたかよセンセー」 女性に声を掛けられた男、少年はウィンドブレーカーのフードを外すとため息をついた。 「また私よ、って言うか私以外に気に掛けてくれる美人教師いるの、黒瀬君?」 「すっげー自信、センセー鏡見たことある?」 女性は少年、黒瀬のセンセー、先生であるらしい。親しい様子で話すとやれやれと言わんばかりに路肩の自販機の前に座り込んだ。 「で、君は学校には来ない!家にも帰らない!なにやってるわけ?」 「別に関係ねぇだろ、誰にも迷惑かけてねぇ、なんか飲む?」 座り込んだ黒瀬に怒りを隠せない先生。 その言葉に耳を貸すつもりはないのか、黒瀬自販機で飲み物を買った。 「要らないわよ、迷惑掛けてないっていうけどね、君。そのお金どうしたの?」 「拾った」 もう一度座り込むと缶コーヒーのプルタブを開け、口を付ける。 今使っている財布は街中金を持ってそうなチンピラからスったものだ。 自分の起源からしてどうせ証拠は出てこないし、捕まらない。 (……苦っ、良くこんなもん好き好んで飲んでるな) 粋がってブラックコーヒーを買ったが、口に合わなかった。
② 「先輩は………暮らすとなるとまず自分のテリトリーを作るタイプなんですね………」 「そうだね。むしろ魔術師なんてみんなそんなものだよ。自分のとっての世界を造っている、みたいな感じかな」 「世界?」 「そう。私からすると、この部屋のここからあそこまでが私の簡易的な工房。ここからここまでが私の居住スペース。 きっぱり分けているけれどどちらが欠けてもダメ。東洋的には陰陽合一の理念に近いかな。全部が相まって私にとって有利な世界を形成しているの」 指差されるままに視線を動かす。言われてみれば、客間はまるで真っ二つに分けられたように雰囲気を二分していた。 鉢植えのある一方は鉢植えの他にも怪しげな術具や木枠に並べられたドライフラワー。整理整頓された書籍など、いかにも魔術師らしい空間になっていた。 反対側、ベッドのある方は………さて、なんと言うべきか。意外とと言うべきか。思った通りと言うべきか。 色使いや小物など、多くが丸みを帯びたファンシーという概念に満ちている。女の子しているというか。とにかく可愛らしい感じだ。 俺にとって最も身近な女性である流姉さんがあの惨状なので、こういうのは未知の雰囲気だった。男としてやや居心地悪さも覚える。 「だから、私はここでは外にいるときよりも魔術師としていくらか強い力を発揮できる。 レッスン1。自分にとってなるべく有利な状況を整えるというのは魔術師としての考え方として重要なのです。覚えておいて。 十影くんで言うと………あの温室がそれじゃないかな?あそこにいて居心地いいと感じるんじゃない?」 「まぁ、あそこにいると確かに落ち着きは覚えますね。………ん?なんだこれ」 ふたつめのダンボール箱を開けると、中には布製の何かが詰まっていた。無造作に取り出す。 その形状を見て、俺は首を傾げてしまった。 「………サメ?」 「………ッ!サメリアッ!!」 瞬間、セイバーが踏み込んで放つ神速の袈裟斬りもかくやという速度で俺の手元からそれは奪い取られた。 がるるる。手負いの獣のように威嚇する先輩がひっしと抱きしめているのは、明らかにサメらしい形状のぬいぐるみである。抱き枕サイズ。 雌熊となって俺への敵意を見せていた先輩だったが、ふとしたタイミングで我に返ったのか。慌てて取り繕い出した。 「な………なんでもないよ?そう、部屋のインテリアだから。このぬいぐるみも。ほら可愛いでしょサメ。サメって可愛いよね。 だけどいい?君は何も聞かなかったし見なかった。サメリ………サメのぬいぐるみを私に渡しただけ。そうだよね?」 「………ハイ、ソウデスネ」 ………と。俺は平坦な声音で答える他なかった。 先輩は俺にそう言い含めている間にも、強火にかけた薬缶みたく湯気を吹き出しそうな勢いで顔を真っ赤に染めていたからだ。 先輩とそのぬいぐるみの間に如何な真実があるのか―――問えば殺されそうだったので面白がって問いかけるチョイスは俺にはなかった。 追伸。照れる先輩はびっくりするほど可愛かったと付け加えておく
① 『先程百合が段ボール箱を抱えてあちらへ行ったのだが………テンカ、話は聞いているか?』 セイバーの報告を受けて、俺は一目散に教えられた方へと向かった。 何考えているんだあの先輩。この家にいったい何を持ち込んだというんだ。 スリッパで床をぺたぺた叩きながら小走りで廊下を横切る。 ………気配を探っていた俺の耳に飛び込んでくる、ガラスとガラスがぶつかり合うような涼やかな音。 急いでいた足がある客間の前で止まることになった。 長らく―――それこそ、間違いなく18年間は定期的に掃除しに来る俺以外誰一人入ったことのない部屋から物音がする。 なんだろう。妙な緊張感がある。俺は恐る恐る客間のドアの前に立った。 ノックをしようと腕を上げてから考え直し、その手でノックをせずにそのままドアノブを握る。 ゆっくりとドアノブを捻り、そうしてほんの少しだけ扉を開けて隙間からそっと部屋の中を覗き見た。 ―――俺の知らない部屋があった。 正確には間取りなどは記憶の一致しているのだが内装はすっかり変わってしまっていた。 最低限のものしか置かれていなかったはずの客間にはすっかり物が溢れ、混沌とした世界になっている。 まず気になったのは部屋全体に漂う香りだ。俺の温室に負けず劣らずの独特の芳香がドアの隙間から漏れてくる。 正体は言わずもがな。これでもかと部屋の隅に並べられた鉢植えたちだ。 色とりどりの花々が何らかの規則性を以てずらりと配置されていた。よくよく見ると、鉢植えの下には何やら魔術の陣が………。 「………って!?じ、絨毯!絨毯の上に!直接!?なんてことを!?」 そんなことをしたらシミになってしまうじゃないか!大問題だ! 洋館と絨毯の平和を守るため、こっそり覗いていたことも忘れてドアを開け放ち鉢植えのある方へ踏み出した。 2歩、3歩………。辿りつきそうになったところで、俺の背中から声がかかった。 「そこ、時間を弄って花の成長速度を調整してるし、一応結界で施錠もしてるから断りなしに踏み込むと危ないよ?」 「え………」 きょとんとなって振り向くと、腕組みをした百合先輩が俺のことをどこか呆れたような顔をしていた。 トパーズの瞳が生暖かい温度になってとろんとこちらを見ている。 「そもそも女の子の部屋にノックもなしに踏み込むというのは正直感心しないなぁ、トカゲくん」 「トエイです、じゃなくて………え、その………すみません………? じゃなくて!どうして先輩はこの客間を自分色に染め上げようとしているんです!」 俺の中では完璧な指摘だったが、百合先輩はそれをまるで見当違いなことを言った学生を見る教師のような表情でひと睨みした。 「何言ってるの。仕方ないから最後まで面倒を見るって私は言って、君も頷いたでしょ? ならどうしようもないくらい半人前な十影くんをせめて魔術使いと言えるくらいには引っ張り上げないといけないじゃない。 時間なんてかけていられないから超突貫の即席コースだよ。というわけで店とは往復することにしてしばらくここに泊まり込むから。 三食分の食事は任せるね。どちらかといえば中華が好みだけど献立に文句まではつけないし美味しいのをお願い。 そうそう開けていない荷物がまだあるから手伝って十影くん。大丈夫、魔道具はまっさきにやっつけたから後は日用品だけで危険はないよ」 立て板に水を流したようにつらつらと述べると百合先輩はそれが当然のように未開封の段ボール箱を指差した。 こう言われるとなんだか先輩が正しい気がしてくるから不思議だ。 我が家の一部屋が今まさに占拠されようとしていながら、『まぁ仕方ないか』という気分になってくる。 釈然としない思いを抱えながら俺はガムテープで封すらされていない段ボール箱の蓋を開けた。 なるほど言われたとおり百合先輩の私物と思しきものがたっぷりと詰まっていた。………もう1泊か2泊するとかいうレベルじゃない。 気分は一人暮らしを始めた大学生。これだけあればあとは電化製品さえ揃っていれば生活できてしまうだろう。
「ふぅん。いやに素直に信じるんだね。ひとまずの協力関係とはいえ私は君のサーヴァントじゃないんだよ」 「だって、キャスターは筋の通らないことは嫌いでしょ? 自分からそれを捻じ曲げるとは俺には思えないよ。 それに他ならぬキャスターが編んでくれた礼装だ。織り手アラクネの外套なんて凄く心強いよ。ありがとう」 「―――…………」 何故かキャスターは口をぱくぱくとさせた後、眉を寄せて俺を睨んだ。 菫色の髪を神経質に指へくるくる巻きつけ弄んでいる。何かを誤魔化すかのように。 こころなしか、キャスターの白い頬にはいくらか赤みがさしているようだった。 「君は、なんだ。誰にでもそういうことを言うんだね」 「誰にでもって、そんなわけないじゃないか。 確かにこの関係が終われば敵同士かも知れないけど今は味方だ。なら本音だってぶつけるよ。 最初こそ酷い目に合わされたけど、あなたには世話になった。ならきちんとお礼を言わなきゃ気がすまない」 キャスターは自分の髪を弄んでいた指で頬を掻くと、くるりと後ろを向いた。 「………やれやれ。この私としたことが可愛いだけの子犬と見誤ったか」 俺には聞こえない独り言を呟いて、それから横顔だけ見せて微笑んだ。困ったように、眼尻を下げて。
③
「というわけでセイバー。これかき混ぜていてくれ」
「うん。任せてくれ」
「捏ねちゃ駄目だよ。しゃもじで切るようにね。全体に馴染んだと思ったら団扇で扇いで冷ますんだよ」
「分かった。テンカのため最善を尽くそう」
そうしてお願いすると真剣な表情で一生懸命寿司桶の中のお米を混ぜっ返してくれる、そんなセイバーが俺は好きだ。
酢飯は最優の騎士がきっと完璧に仕上げてくれるはずなので俺はそれ以外の作業に取り掛かった。
家に帰って手を洗いエプロンを装着する最低限の身支度をした俺がまず最初にしたのはマグロの柵をサイコロ状にカットすることだ。
漬ける時間が必要なので昼食に間に合わせるにはこの工程は急がないといけない。
ボウルに醤油とごま油を注ぎ、少量の砂糖を加えてよく混ぜ合わせる。このタレにカットしたマグロを放り込んでラップをしたら冷蔵庫へ。
ここまでがセイバーに酢飯制作を頼む以前に駆け足で片付けた工程。とはいえ、ここが肝心要なので後の作業はそう多くない。
俺が冷蔵庫の野菜室から取り出したのは洋梨のような形をした真っ黒い果実だった。
「トエー、それなぁに?」
尻尾1本動かすのも億劫という様子のリリスを抱きかかえて撫で回しながら調理の工程を見ていたニコーレが小首を傾げた。
その目の前で黒い果実へ縦に割るように包丁を入れる。さしたる抵抗もなく身の中心付近まで刃は通った。
「アボカド。というか、ニコも何度か口にしたことあるはずだよ。サラダに混ぜて食卓に置いた覚えがあるから」
「ふーん?あったような、無かったような」
「近頃は安くなったね。昔はもっと高かったような印象があるよ。美味しい上に栄養価も高いものだからありがたい話だ」
半信半疑というニコーレの視線を浴びながら包丁をぐるりと一周。
軽く切れ目を捻ってやれば熟しているのですぐに真っ二つに分かれる。断面の中央には特徴的な大きな丸い種。
その種に包丁の角を突き立てて揺すれば種は自然と身から抜け落ちた。
後は切った実から皮を摘んで剥いてやり、マグロと同じようにサイコロ状にカットすれば下準備は終わり。
表面が変色しないようにレモン汁を軽く振りかけ、使った調理器具や炊飯器の釜を片付けていれば20分ほど経過するのなんてあっという間だった。
即ち、冷蔵庫に保管しているマグロの身が良い塩梅に浸かる頃合いである。
「テンカ、こんなものでどうだ。均一に酢が行き渡り米が美しく輝いていると思わないか」
団扇で酢飯に風を送っていたセイバーがやや自慢げな表情で言った。なんだか可愛い。
「うん、大丈夫。完璧だよ、ありがとうセイバー。さて、じゃあ盛り付けちゃうか。
ニコ!そろそろご飯できるよ!手を洗って食卓についていて!」
振り返って声をかけるとはぁいと間延びした返事がリビングの方から返ってくる。
片付けを始めたあたりでキッチンの様子を観察するのも飽きてテレビを見ていたらしい。
丼を用意するとまず冷蔵庫で漬けていたマグロを取り出した。ボウルにアボカドも入れ、軽く和える。
そうしたら丼にセイバーが丹精込めて作ってくれた酢飯を敷き詰め、マグロとアボカドの混合物を乗せていった。
卵を冷蔵庫から3個取り出してそれぞれ割り、黄身を潰さないよう慎重に白身と取り分ける。
まるきり白身が余ってしまうわけだが………これはこれで捨てずにニコーレの喜びそうなお菓子でも後で作ろう。
乗せたマグロとアボカドの上に黄身をひとつずつ、クリスマスツリーの頂点に星を飾るのと同等の緊張感を以てそっと置く。
あとは煎り胡麻と短冊状にカットした海苔、予め刻んでストックしてある万能葱を適量振りかければ―――。
②
せっかく新土夏まで来たのでショッピングモール・アトムで買い物を済ませることにした。
餌を探す回遊魚のように生鮮食品のコーナーを漫然と眺めながらゆっくりと歩く。
昼と夜の献立を思案していたところ、その小さな体躯で何かを抱えたニコーレが俺のところまで帰ってきた。
「体調が良くなってる、か。まぁ、リュウはもちろんいくら高名な医者だろうと魔導に通じていなければ原因は分からないでしょうね」
そう呟きながらニコーレは俺が押すカートの買い物かごへ何やら積み上げた。瓶詰めのやたら高そうな果物ジュースだ。何の躊躇いもない。
買うのも俺なら持って帰るのも俺なのだが、そんな些末なことは俺がやって当然という顔をするのがニコーレである。
師匠の身の回りの世話を弟子が行うのは当然という論法らしい。そう言われては何も言い返せない。魔術師の上下関係は厳しいようだ。
「仕方ないよ。流姉さんはただの内科医だ。魔術の世界とは全然関係ない人だもの」
「そうね。少しでも知識があればトエーが『毎日致死量の猛毒とそれを中和しきる薬を一緒にがぶ飲みしてたようなもの』って分かるんでしょうけど」
ニコーレの乱暴な例え方につい押し黙ってしまう。
ニコーレや百合先輩にも散々言われたことではあるのだが、未だに実感は無い。生まれたときからの付き合いだからだろう。
より正確に言えば、こうして聖杯戦争が終わってようやく落ち着いて振り返ることが出来るようになったといったところだ。
俺の顔を見上げるニコーレがひときわ真面目な顔になって言った。
「何度も言うけれどトエーの調子が今いいのは自分の能力に自覚的になって研ぎ澄ませようとし始めたからよ。
自分の体が大事ならこれからも努力を怠らずきちんと修行に励みなさい。いいわね」
「分かってますよ、ニコ先生。自分のことだからね。気をつける。
とはいえ、今悩みたいのは魔術よりも昼飯と夕飯のことなんだよね………」
とりあえずここまでに常備の野菜、キャベツだとか玉ねぎだとかは買い物かごに放り込んだ。
が、そこからが定まらない。パック詰めされた真っ赤な肉たちがずらりと並ぶ肉類のコーナーでつい考え込んでしまった。
「それって献立の話?リュウは夕飯は肉がいいって言ってたわね」
「ああ、そっちはせっかく追加予算もあるしステーキ焼くかトンカツ揚げるかでいいかなと思ってるんだけど………。
お昼はどうしたものかな。ニコは何か食べたいものとかある?」
「私?そうね………」
生鮮食品たちを物色しながらてくてく歩くニコーレの後をカートを押しながらゆっくりついていく。
特注のビスクドールみたいに整った容姿をした少女であるニコーレはこの土夏市では否応なしに人目を引く存在だが、周囲の視線などお構いなしだ。
訂正。少女と呼ぶべき実年齢ではないが少なくとも見た目は少女だ。閑話休題。
そんなわけでニコーレは外見と年齢の乖離が激しいのだが、目の前のどことなく弾んだ足取りは何故か子供っぽくはしゃいでいるふうにも見えた。
「そういえばこの前の生魚のスライスは驚いたけれど美味しかったわね。確か刺し身だったかしら。………まぁ、変な顔」
そう言って鮮魚コーナーの細かく砕けた氷の上に置かれた魚とにらめっこをしている。
共に暮らしだしてよくよく思い知ったのだが、ニコーレはちょっとびっくりするくらい世間知らずのお嬢様だ。
うちの部屋に居座るまでこんなスーパーなんて足を踏み入れたことは無かったというし、日本食、まして生魚なんてもってのほか。
日本食ブームの昨今、意外だと思いきや魔術師の間ではこういうのは常に一定層いるんだとか。まことに複雑怪奇なのである。
そんなニコーレなのだが最近彼女が好む味の傾向は掴めつつあった。
かなりはっきりした味の方が美味しいと言う。薄味や刺激物といったものにはあまり興味を示さない。
要するに味覚に関しては外見相応に子供舌なのだった。指摘したらきっと怒るから言わないけれど。
刺し身だって美味そうにぱくついていたのは白身魚ではなくサーモンだ。きっと鰹にマヨネーズ塗っても大喜びするはず。
「しかし、そっか。生の魚に苦手意識は無いんだよな………。だったら………」
「何か言った?トエー」
ぶつぶつと口にした俺の独り言を聞きつけてニコーレがきょとんとした顔をした。
後ろに注意しながらカートをバック。鮮魚を水揚げされたまんまで並べてある一角から加工済みの切り身をパッキングしたコーナーへ。
陳列されてあれば御の字といったところだけれど………と、探すまでもなくそれは目立つところに置いてあった。
「決まり。ニコ、今日のお昼は魚にしよう。それも火を通さない、生のやつ」
「生?なら刺し身ってことかしら?」
刺し身はどうやら悪くない記憶にカテゴリされているらしく、きらりとニコーレは期待で瞳を輝かせた。
しかし俺はその眼差しに対して首を横に振りつつ、マグロの色艶美しい赤身の柵をむんずと掴み取るのだった。
①
俺がポロシャツの袖に腕を通している間に流姉さんはカルテを書いていた。
「状態は問題なし。これまでのことを考えると油断しちゃ駄目だけど最近はずっと良い傾向が続いているわね」
ボールペンでぐりぐりと記録を書き込んでからこっちを向いてにっこりと笑う。
どことなくその笑顔の影に安堵のようなものを見出してしまうのは長年の付き合いだからだろう。
その心配を感じ取ると以前はちくりと胸に刺さるものがあったが、今は少しだけ素直に受け取ることが出来るようになっていた。
流姉さんの笑顔へ応じるように俺もくすりと微笑んだ。
「だといいんだけどね。大丈夫、ちゃんと薬は常備しているよ。気は抜いてない」
「ま、てんちゃんに関してはそこは心配してないわ。もともと慎重だったもんね。
じゃぁいつものお薬だけ出しておくから、薬局で受け取ってちゃんと飲むこと」
そうぴしりと言って処方箋を印刷機にかける流姉さんは実に凛々しい。
スクラブを着て聴診器を首に引っ掛け、患者ひとりひとりに真摯に接するその姿はまさしく立派な杵崎流内科医師である。
………本当に医師としての流姉さんは尊敬出来るのだが、この診察室に来る前のことを思うとその敬意に陰りが差すのであった。
カルテの続きを書いていた流姉さんが診察室の隅っこの椅子にちょこんと座っていたニコーレへ視線を向けた。
「で、なんでニコちゃんがここにいるの?」
「何言ってるのよリュウ。私はトエーの付き添いよ。私たち、あなたの汚い部屋を綺麗に掃除してきた帰りなのよ」
「うっ」
その幼げな風貌からは思いがけないはきはきとした口調で理由を告げられた途端、一回りくらい流姉さんの存在感が萎んだ。
事実でござる。我々は正午前の診察を受ける前に近所のマンションへ立ち寄り流姉さんの汚部屋を片付けてきたのでござる。
すっかり足の踏み場もないほど物の散乱した部屋はとても三十路独身女の部屋とは思えなかったでござる。さらば婚期。
「生ゴミだけはなんとかゴミ袋に突っ込んでいるのがギリギリ評価点ね。
あとは脱ぎ散らかした服に読んだままで放り投げられた本、ごろごろ転がった酒瓶………。恋人が見れば百年の恋も覚めるわ」
「こ、恋人なんて仕事が忙しいからいません!院内にいい男がいないのが悪いんですぅ―!」
「責めてるのはそこじゃないわよ!」
噛み合わない会話にぷんすかとニコーレが怒った。外見12歳、実年齢24歳に叱られる女医32歳。
ふたりは馬が合うらしく、放っておくと流姉さんとニコーレはいつまでも漫才を繰り広げてしまう。
流姉さんはまだ仕事中だし、このあたりで心を鬼にして流れを断ち切っておくのが俺に求められている役割だろう。
「はいはいそこまで。流姉さん、それじゃ俺たちはこれで。今晩はどうする?」
「ん、夜勤は入ってないし何もなければてんちゃんのお家にお邪魔するわ。今日は肉を食べたい気分ね~」
「肉ね、考えておくよ。診察ありがとう、流姉さん」
肉か。流姉さんが前回うちで夕飯を食べた時は鶏肉だったから牛か豚にするとして、さて何を作ったものか。
まだ財布と携帯電話しか入っていない買い物袋を手にして立ち上がると流姉さんが呼び止めてきた。
「そうそうてんちゃん、はいこれ部屋掃除のお駄賃。これでお昼は美味しいものでも食べなさいな」
「………?別に普段から貰っちゃ無いんだから構わないよ?」
1000円札を3枚握らされてつい首を傾げてしまう。
切っ掛けはもう覚えていないが流姉さんの部屋の掃除は俺が自主的に行っていることだ。
放っておくとゴミ屋敷化しかねないので強制執行とも言う。
首を傾げる俺の側に眠たそうな目をしたニコーレがするりと寄ってきて胡乱げに告げた。
「要するにリュウは夕飯も奮発してねと忖度を求めているのよ。嫌ね、たったこれっぽっちで厚かましいんだから」
「これっぽっちって何よー!?3000円を笑う子は3000円に泣くのよー!!」
「分かったってば。じゃあね、流姉さん」
これ以上ここにいたら長々と話し込んでしまいそうだ。
差し出されたお札を受け取ると、俺はニコーレを連れて土夏総合病院の流姉さんの診察室を後にした。
2009年7月、土夏市で行われた5度目の聖杯戦争は密かに終結した。
参加者達は元の生活に戻る者、傷を癒す者、休養を取る者、それぞれ理由はあれど未だに土夏市に滞在していた。
そして、夏が終わり秋に差し掛かる数ヶ月が経った頃。
土夏市の女子学生を中心に奇妙な遊びが流行り始めた。
「ねぇねぇ、茉莉ちゃん知ってる? M様の噂!」
「M様?なにそれ?」
「梅村、またどこかから変な噂を聞き付けてきたのか」
「変じゃないよ太桜ちゃん!柔道部の先輩に教わったの!」
「それで、M様って?」
「うん、M様って言うのは噂っていうかおまじないかな? みんなで集まってM様を呼び出すと願い事を叶えてくれたり、未来を当ててくれるんだって!」
「えー……」
「胡散臭いことこの上ないな」
「なんでそう言うこと言うの!」
「おーい、松竹梅! 下校時間は過ぎてるぞ、遊んでないで早く帰れ」
「あっ、黒瀬先生ってことはもうそんな時間?」
「ほら、梅村帰るぞ」
「もう!そうやってちゃんと海深のきかないんだから!」
「気を付けてな! ……M様、か。これは不味いかもしれんな」
「トエー、私にはM様って遊びが私達を集める位の事とは思えないのだけど」
「君たちは知らないかもしれないが、90年代の日本ではこっくりさんというものが流行っていた」
「コックリ=サン? なにそれ呪いの一種?」
「魔術師のいうところのテーブル・ターニングよ」
「その通りだ狐、狗、狸でこっくりさんと読む。科学的には意識に関係なく体が動くオートマティスムの一種だが…」
「魔術的には所謂動物霊を降霊させる簡易儀式ね」
「その辺りは流石に君たちの方が詳しいか。90年代のオカルトブームは病的でな、魔術の知識もない学生でさえ降霊術が広まる位……私しか知らないか」
「聞いたことくらいはありますけどそれがなにか問題があるんですか?」
「そんな事も分からないの坊や?呼び出すのが動物霊であれば良い。だが、聖杯戦争の跡地、魔力や怨念が溜まっている土地で行えばどうなると思う?」
「推察になるが、動物霊でないものが呼び出されるということか?」
「正解よ、サーヴァント達の残存魔力につられて下手したらサーヴァントもどきが呼び出される可能性があるってことね」
「ヤバいじゃないですか、先輩!」
「ええ、かなりマズいわ。本来であれば自然に消費され減っていく筈の方向性のない魔力が噂、都市伝説という指向性を得て良くない形で現れようとしている」
「それはまるで……」
「その言い方だと似たような現象を知っているの?トゥーリベルク、クロセ?」
「トゥーリベルク女史と情報を付き合わせたが……」
「先生が言い淀むなら私が代わりに言おう。あり得ない事だが、今の土夏はタタリと呼ばれる霊的象の前段階に近い状態だ」
「タタリ……」
そして、闇の中よりあり得ざる9騎目のサーヴァントが顕現する。
「サーヴァント、アサシン。召喚に応じて推参した。問おう、貴公が小生のマスターか?」
血ニ酔イ死ニ狂ウ
白刃が肉を貫き、血管を裂き、骨に中る。
つい先程まで人であったものが急速に熱を喪い、肉と血と骨の塊へと変わっていく。
白刃を振るうと、まだ生暖かい鮮血が顔にかかる。何を思ったのか、俺は思わずそれを舌で舐め取った。
鉄の味の奥底にある味をはじめて感じとる。
─────あまい。
それを口にした瞬間、多幸感が電流のように脳を駆け巡った。
舌が蕩けるようなあまみと頭を溶かす刺激。嗚呼、きっと世界にあるどんな名酒でもこれには敵わない。
俺は今まで何を恐れていたんだ?
なんだ、簡単じゃないか、人を殺すなんてのは。
嗚呼、そして今まで生きていた命を奪うのがこんなに愉しいなんて知らなかった。
待たせたね■■■■。さぁ、行こうか。聖杯戦争を、狩りを、殺し殺される夜を楽しもう。
⑤
「というわけで、猪肉のベーコンを使った和風ソースのBLTサンドです。召し上がれ」
「ああ。ではテンカ、いただきます」
ぴたりと指先合わせて合掌したセイバーがサンドイッチを手に持って齧り付く。
「………」
セイバーはあくまでいつも礼儀正しい。折り目正しくマナーを守る。例えばこんな時、口の中にまだ食べ物が残っているのに喋ったりはしない。
だけれどもセイバーがどう思ったかなんて彼女が喋らなくたって分かる。
眼尻が下がり、視線が柔らかくなる。瞳の奥に優しい光が宿る。快く感じ心のなかで微笑む時セイバーはいつもそんな目をするのだ。
やがて喉の奥に咀嚼していたものを仕舞い込むとようやく言葉によってセイバーは喜色を表した。
「素晴らしい。具材同士のコントラストが感動的だね。それぞれが主張し合っているのに決して互いが互いを貶めていない。
むしろ互いに称え合っているようじゃないか。これら全てを引き立てているこの爽やかな辛味は………ワサビかな?」
「ああ。マヨネーズに少し醤油とワサビを加えて混ぜただけのものなんだけど、簡単なのに本格的な味になるでしょう。
まあBLTサンドってほとんど宗教じみてるくらいにいろんな作り方や意見があるくらい鉄板の組み合わせだからなぁ」
俺もセイバーに続いてむしゃむしゃと手元のサンドイッチに齧り付く。うん、ちゃんと美味い。
この味をもっと他の住人たちと共有したかった気持ちがある一方で、セイバーとこれを独占していることに嬉しさも感じるから何とも言い難い。
早くも二口目を飲み込んだセイバーがサンドイッチに視線を落としながらふと遠い目をした。
「それに………この剛毅さ、粗野なれど卑しくはない荒々しさ。このサンドイッチには野に生きるものの味わいがある。
昔日の私が口にしたものと味こそ違うが、確かにこれは野営の焚き火を前にして口にしたあの時の命たちに通じている」
「……………」
俺にとってはこのベーコンの味わいは『普通のベーコンとは何か違うもの』でしかない。
豚のベーコンのように品種改良によって培われた繊細さが無い代わりに自然の力強さを感じるような脂の甘味を感じるだけだ。
だがセイバーにとってはそうではなかったようだ。なんだか懐かしそうな目をするセイバーへ気がついたら声をかけていた。
「なぁ、良かったらその時のことを聞かせてくれないか?セイバーが辿った旅の話をさ」
「うん?それほど面白い話はないよ。テンカを退屈させるのは本意ではないんだけれど」
「俺はセイバーのしてくれる話ならなんだって面白いよ。退屈なんて絶対しない。セイバーは俺にとって大事な相手なんだから」
「………―――」
一瞬不意をつかれたような顔をしたセイバーは、だがすぐに秋の日向のような輪郭のぼやけた丸い微笑みを浮かべた。
「―――仕方ないな。でもまずこのサンドイッチを片付けてからだ。出来たてを食べ逃したら、後々大いに後悔しそうだからな―――」
④
そう言ってセイバーはいそいそと冷蔵庫から目当てのビニール袋を見つけ出すと俺の隣でレタスの葉を綺麗に磨き出した。
険しさこそないものの顔つきは真剣そのものだ。俺はといえばセイバーと隣り合ってこうして調理していることに妙なくすぐったさを感じていた。
「………いけない、いけない………」
セイバーは真面目にやっている。変な邪念を覚えている場合じゃない。
フライパンを取り出してベーコンをその中に並べた。予熱は不要だ。こうして常温からじっくり弱火で焼くのがコツだ。
ガスコンロの火加減を最小に設定し、同時にトースターへ食パンのスライスを4枚突っ込んでスイッチを押す。
手を休めること無く冷蔵庫からトマトを取り出した。まな板の上で適当な大きさで輪切りに。
カットしたトマトはキッチンペーパーを敷いたトレイの上へ載せ、塩と胡椒を軽く振っておく。
こうすることで塩がトマトの余分な水分を出してトマトの味わいをより濃厚にしてくれる。ちょっとした、だが重要なひと手間だ。
続いてソース作りに取り掛かろうとして何気なくフライパンを見たところ、想像以上のことについ驚きの声を上げてしまった。
「凄いな、もうこんなに油が。普通のベーコンじゃこんなに出ないのに」
「分厚い脂を切り取って水で煮ることで獣脂を得るというようなこともかつてはしていた。特に今は秋だからたっぷり脂を蓄えている時期だろう」
一滴の水分も逃さないという目つきでレタスを拭っているセイバーがこちらを見ずに言う。
ふぅんと感嘆の溜息を漏らしながらベーコンから溢れ出た油をキッチンペーパーで拭って吸いあげる。
こうしておかないと、ベーコンから出た油が高温になってせっかくのベーコンが焦げ付いて台無しになってしまうのだ。
危ないところだったと胸を撫で下ろしながらベーコンの表裏をひっくり返し、改めてソース作りに取り掛かった。
小鉢にマヨネーズを絞り出したら醤油を加え、さらにチューブのわさびを絞り出してスプーンでよく混ぜる。
ソースにむらが無くなった頃、チンと小気味良い音を立ててトースターが食パンの焼き上がりを告げた。
「あちちっ」
「テンカ?」
「いや大丈夫」
指先を火傷しそうになりながらトースターから食パンを取り出し、まな板の上へ。
食パンがまだ熱いうちに無塩バターをバターナイフで薄く塗り伸ばしていった。
バターを塗るのはパンをより美味しくするためだけじゃない。油脂の膜を作ることで水分量の多い具材でパンがふやけないようにするという目的もある。
ここまで来たら後は挟むだけだ。セイバーらしい几帳面さで等間隔にトレイに並べられた瑞々しいレタスに俺は手を伸ばした。
食パンの上に置いたレタスの上にソースを塗り、後はトマト、ベーコン、再び食パンの順に挟む。なるたけ水分にパンが触れさせないようにするのが鉄則。
爪楊枝を突き立てて挟んだ具材を固定し、そのまま包丁でざっくりと三等分にした。勿論切ったら爪楊枝は抜いておく。
同じことをもう一度繰り返し、それぞれを2枚の皿に盛り付けた。なんとなく雰囲気を出したくてポテトチップスの袋を開けて付け合せに何枚か添えておいた。
「………よし。これで完成」
「おお。では」
「ああ、早速食べてみよう」
食卓に皿を2枚。セイバーと向かい合わせに置いて座った。
家の中は他に誰もいないので俺たちが立てる音しか響かない。なんでもないことのはずなのに、なんだか特別な空気感だった。
③
「………ほう。猪の肉だな」
俺がキッチンで貰ったものを整理しているとひょっこりとセイバーが側に現れた。
しげしげと俺の手元を見つめるセイバーの出で立ちはパーカーにショートパンツというラフなもの。言うまでもなく部屋着である。
顕になっているしなやかな脚や緩い襟元から覗く細いうなじが目に入ると時折どきりとしてしまうのはここだけの話。
今日はみんな留守にしているからお昼はセイバーと二人きりだ。
「分かるのか?セイバー」
「かつてはよく食べた。旅の間や遠征中の現地調達でね。森の中に分け入って獣を狩って捌いたものだ。
私は円卓の騎士としては外遊が多かったから野営する機会も多かったんだよ。
大抵は骨付きのまま焼くか茹でるか、保存用に燻すかしかしなかったからこんなに丁寧に扱ったりはしなかったけれどもね」
真空パックを物珍しそうに手にとって眺めるセイバー。
肉を長く食べられるようにするといえば専ら燻製するか塩漬けにする時代の人だから真空パックがよほど不思議なのだろう。
「しかしこの時代では一般的に取り扱われているのは猪ではなく豚の肉だ。
猪の肉は召喚されてから終ぞ食べたことがない。テンカ、これはどうしたんだ?」
「円が寺から分けてくれたんだ。畑の野菜を食べる害獣をとっ捕まえて肉にしたからお裾分けだってさ」
「なるほど。畑荒らしか」
合点がいったとばかりにセイバーは頷いた。
と、その時である。きゅるるる、と何やら可愛らしい唸り声がその場に響いた。
これがきっと俺が発信源ならばセイバーに恥をかかせずに済んだのだが、生憎と俺の肉体は何の音も発していない。
さすがに真空パックたちを整理していた俺の手もぴたりと止まったが、俺の相棒はそれどころではない凍りつき方をしていた。
ちらっと隣の様子を伺ってみる。………まあ、概ね予想通りだ。
ここには頬を熟した林檎のように赤く染めて俯きもじもじとしているセイバー以外、そんな風に腹の虫を鳴かせる人間はいなかった。
桜色の唇が震え、何やらごにょごにょと呟き出した。
「………ひ、久々に猪の肉を見て、昔日の味を思い出して………その、なんだ………」
「OK。今日はこいつを使って昼飯にしよう。
とはいっても全部は食べられやしないから、こっちはみんながいる時に牡丹鍋にでもすることにして一旦冷凍だね。
今から使うのは、こっち」
引き出しから取り出した調理用ハサミで真空パックを裂いたのは、スライスされてある方ではなくブロック肉が豪快に収められている方。
なかなか重量感のあるそれをまな板の上にずしりと安置させた頃、ようやく機能不全からセイバーは戻ってきた。
「それは………燻製肉か?」
「ベーコンも燻製して作るから、まあそういうことになるね。今日はこれでサンドイッチを作ります」
エプロンを装着して腕まくりすると早速調理を開始した。まずはベーコンをスライスして必要な分だけ切り出す。
今日はセイバーと俺のふたりだから二人分。せっかくだから気持ち多めに。
手持ち無沙汰にその作業を見ていたセイバーがふとこんなことを尋ねてきた。
「テンカ。こうして見ているだけというのもなんだ。私ができることがあれば手伝わせてくれ」
「ありがとう。それじゃ冷蔵庫からレタスを出して1枚ずつ洗ってからキッチンペーパーで水気を拭ってくれ。
使いかけがビニール袋に包んであるからそれを取り出してね。使い切れるくらいの量だから全部拭いてくれていい」
「分かった。任せておけ」
②
ようやく俺にもこの保冷バッグの中身の正体が分かってきた。お察しの通りという顔をしながら円は話を続けた。
「食害が看過し得ぬ段階に至ってな。だいぶ荒らされてしまった。
檀家のひとりに専門家がいてその方に駆除をご依頼したところ、先日駆除した獣の肉をご厚意でいただくことになったわけだ。
寺とはいえ食肉を禁じているわけではないのだがなんせ量が多い。冷凍庫の肥やしにしてしまうよりは綺麗に食べてしまったほうがこの獣の御霊も浮かばれよう。
というわけで、無理にとは言わないが貰ってくれるとありがたい」
「ふーん………ま、そういうことなら遠慮なく。ありがとう」
さして断る理由もない。円がそう言うのならばきっとそうなのだ。
差し出される保冷バッグをむんずと掴んでママチャリの籠へと押し込んだ。
いわゆるジビエの肉なんて初めて調理するが、まぁなんとかなるだろう。困ったらインターネットという文明の利器を利用しよう。
命を絶った後の処理の仕方で臭みが随分変わるというから狩ったという檀家さんの腕前を信じたいところである。
「わざわざ呼びつけて悪かった典河」
「電話でも言ったけど気にしないでよ。もともとこっちに用事があったんだ。その帰りなんだから何も不都合しちゃないよ。
むしろこんな珍しいものを貰っちゃって悪い気がするくらいだ。お父さんによろしくな。………何かお礼が出来ればいいんだけど」
「父のことならいい。平素よりあまり肉類は口にされない方だから、うちでは内心一番お喜びだろう。
………そうだな。それでも強いて言うのであれば」
と。円は普段通りの落ち着いた表情でぽつりと言った。
「そのうち弁当を馳走して貰えれば嬉しく思う。お前の作るあの味をまた口にしたいものだ」
「いいけど、その程度なら言ってくれればいつでも作るぞ?」
「気持ちはありがたいが遠慮しておこう。一度理由なく受け取ってしまえば切りが無くなりそうだ」
確か文化祭前の委員会活動で円が遅くまで学校に残っていた時一度差し入れたことがあったっけか。
あんな前のことをよく覚えていたものだ。そんなに気に入ってくれていたのなら作り手の冥利に尽きる話である。
悪くない気分でママチャリのペダルに足を引っ掛けながら俺はハンドルを握った。
「分かったよ。それじゃ休み明けにでも用意してくる。またな、円」
「ああ。気をつけて帰れ典河。近頃は朝夜もめっきり冷え込む。体調には気をつけるのだぞ」
この秋にとうとう保険委員会長にまで昇りつめた男のありがたい気遣いへ手を振って、俺はペダルを押し込んだ。
晩秋の涼しい空気の中を自転車駆って家路へと急ぐ。太陽は中天へと差し掛かり、お昼時を示そうとしていた。
①
ここで待っていてくれ。
そう円が言うから俺は松原寺の山門へと続く長い石段の麓でぼんやりとしていた。
石段を延々と囲む生い茂った木々のお陰でここは日陰になっていて、だいぶ秋も深まってきたこの時期だとやや肌寒い。
そうやってママチャリのサドルに尻と体重を預けたまま待つこと10分だか15分だか。
石段を軽く駆け足で降りてきた円の荷物に俺は首を傾げることになった。
「面目ない。待たせた」
「………なにそれ?」
円が持ってきたのは一抱えの保冷バッグ。飾り気のない真っ青な色のやつである。
百聞は一見に如かず、と円がその保冷バッグのチャックを開けて中身をこちらへと見せてきた。
その中身を見てさらに俺は漫画的表現に依るところの疑問符を頭上へ浮かべることになるのであった。
「え………肉………?」
「端的に言えばそうなるか」
円がいつもの仏頂面で小さく頷く。
まさか寺の子がこんなものを手渡してくるなんて思いもしなかったのでつい思考が停止してしまった。
保冷バッグの中にはいくつかの保冷剤と一緒に鮮やかな牡丹色をした肉が真空パックに詰められて放り込まれていた。
どうやら既に加工済みらしく、肉はスライスされた状態で並べられ平べったい板切れのようになっている。
なんとなく豚肉っぽい印象も受けたが、家畜のそれとは違う脂の付き方が違和感を俺へ与えていた。
「お前が渡したかったものってこれか………?いや、まあ、肉をくれるというのはありがたい話だけどさ。なんでまた」
「言わんとするところは分からないでもない。坊主の息子が贈呈する品としては少々生臭さが過ぎるのではないかということだろう」
「そこまでは言わないけど驚いたのは確かだよ」
ふむ、と円が軽く一呼吸置く。さてどこから説明したものだか、と見当を付けているように見えた。
だが円の頭の回転は早い。黙っていたのは一瞬だ。保冷バッグの口を閉じながら円はすらすらと理由の説明を始めた。
「私の父が境内の隣りにある畑で菜園を営んでいることは知っているな。まあ、元を正せば以前の住職が拓いた畑なのだが」
「それは知っているよ。ありがたいことに何度かおすそ分けしてもらってるしな」
たまに円は俺へ菜園で採れたという野菜を分けてくれる。毎度結構な量があるのだがうちは健啖家が多いのであっという間に消費されるのだった。
前回貰ったトマトとジャガイモは我が家で立派に野菜カレーとなりました。大変美味しゅうございました。
「御仏の加護に依るものか今年は豊作だったわけだが、秋の実りを甘受せんとするのは決して人間だけではないのだ。
山の獣もまた厳しい冬を乗り越えるため多くの糧を欲している。生きるため人の田畑を食い荒らすのは罪ではないが、人間にとっての不都合でもある」
「あー………なるほど、そういうことか………」
偽装URL…?
https://seesaawiki.jp/kagemiya/d/%a5%a2%a5%df%a5%e9%a5%f3%a1%cc%a5%aa%a5%eb%a5%bf%a1%cdイラストも含めて緊縛先生好き
⑧
「そ、そりゃどうも。そう言ってくれるなら俺も作った甲斐があったよ」
つい一瞬言葉がつっかえてしまった。横から痛いほど突き刺さる視線。ちらりと伺うとセイバーがまた半目で俺を睨んでいた。
「………テンカ?」
「な、なんでもない!素直に料理を褒められてちょっと嬉しかっただけだ!」
咳払いしてそそくさと俺は皿を片付け始めた。
と、皿3枚とフライパンの油汚れを落として食器の水切り棚に置いた頃、キャスターから「典河~」とお呼びがかかる。
「なんだよキャスター。まだ帰らないのか?」
「いいから来なって。はい、ここ座って」
呼ばれるままにリビングへ行くとテレビの前のソファの真ん中に座ることを促された。
分からないままに腰掛ける。すると。
「よしよし。じゃ私はここね。はい動かなーい。席を立たなーい」
「なっ!?」
断っておくが最後の素っ頓狂な声は俺ではない。顛末を見ていたセイバーのものだ。
おもむろにキャスターは俺の横に座り、しかもその肩と肩の距離はぴったりゼロ距離だった。
いつものチェシャ猫の微笑みで俺の肩にやや体重を預けながらキャスターはテレビのリモコンを弄って番組を探していた。
間違いなくそんなことをされてぎくしゃくとする俺をからかっている。いい加減そのくらい分かってきます。
「うーん。やっぱり顔がいい男を侍らせてだらだらする午後っていうのはいいもんだね。典河は本当に可愛い顔してるからね~」
「可愛い可愛いって………男としては複雑な気持ちになるんだけど………。………?」
なんて言っていたらキャスターのいない方の隣に誰かが座る気配。誰かと言われても他にはひとりしかいないのだが。
「………………。なにか?テンカ」
「………いえなんでも」
横を見るとセイバーが膨れ面でキャスターと同じようにゼロ距離まで詰め寄っていた。察するまでもなく拗ねていた。
ことんと首を傾げて俺の肩に頭を乗せさえするものだからセイバーの体温みたいなものを直接感じてしまって尚更緊張してしまう。
4人掛けのソファのはずなのに妙に狭くて窮屈だ。美女二人に挟まれているというのに俺は冷や汗が頬を伝うのを錯覚するのだった。
―――なお、キャスターがわざと選んだであろうちょっとエロティックな雰囲気の映画は後半からアクションシーンが抜群の盛り上がりを見せて3人で大いに盛り上がったことを追記しておく。
⑦
「ペペロンチーノ、ってイタリアの料理だったっけ。てことはローマ料理だ」
「まあ、パスタの歴史って相当古くて古代ローマ時代から食べられてたらしいから一応そういうことになるのかな。
あれ、もしかして馴染みだったりする?キャスターの出身は、えーっと………ギリシャ?」
「うんにゃ。リュディア………今じゃトルコって国らしいね。そこのコロフォンって街の出身。
別にローマ料理だからどうというわけじゃないけどね。さて、それじゃ早速………」
フォークにくるくると麺を巻きつけてキャスターがぱくりと口にした。途端、ぱちぱちと瞬きしてあの紅い瞳が見え隠れした。
「おお!美味しい!確かにセイバーが言うだけあるね、典河!」
「そうでしょう。テンカの料理は美味しいのです。それに料理以外だって何でも出来るのです。テンカは凄いのです」
よく分からないが俺ではなくセイバーが自慢げな顔をしていた。はは、と苦笑してしまう。
ふたりに続いて俺もパスタを口へと運んで空腹を癒すことにする。うん、やはり我ながら上出来。
しゃきしゃきと口の中で存在感を主張する獅子唐と舞茸が楽しい一皿だ。
「手元にあった時はどうやって食べたもんだかと悩んだけど、こうして食べると他に例えようのない甘みや苦味が癖になるねぇ」
「獅子唐は熱を加えると味が引き立つからね。油とも相性がいいから天ぷらにしても抜群に美味しいよ」
「うん。それにこの茸の食感も小気味よく………今日の昼餉も素晴らしいよテンカ」
人間、えてして美味しいものを食べている間は喧嘩するのは難しいものである。
さっきまであんなに微妙な距離感だったセイバーとキャスターだったが、フォークに麺を巻きつけている間は少しだけ距離が近くなったように見えた。
獅子唐の独特の香り。舞茸の歯ごたえ。ベーコンの甘い塩味。アクセントとなる赤唐辛子と胡椒の刺激。それらを取りまとめるにんにくとオリーブオイルの風味。
キャスターが獅子唐を俺に押し付けてくるなんて珍事がなければ生まれることのなかった味と光景だ。
そう思うとなんとなくキャスターにお礼を言いたい気分になった。気まぐれで自分勝手な困った悪人だが、俺はそれでも彼女があまり嫌いではない。
昼食の時間はあっという間だった。みんな手を止めずにパスタを平らげてしまったからだ。
冷めるとせっかく乳化した水と油が分離してしまうので作り手としてはありがたい限りである。
「ごちそうさま。いや、本当に期待以上だったよ。店の料理にはない気取らなさと細やかさが最高だった。
こんなに美味しいのならまたご馳走してもらいに来ようかな。その時はよろしく頼むよ典河」
キャスターはそう言って俺へ向けて微笑んできた。
極稀にキャスターはこういう表情をする。策謀巡らす時の怪しげな笑みではない。蛮勇とも思えるような選択をする時の勝ち気な笑みではない。
本当に何処にでもあるような、ごくありふれた笑顔。ちょっとお転婆なただの町娘みたいな素朴な笑顔だ。
この顔をする時のキャスターはびっくりするくらいただの女の子に見えてついどぎまぎしてしまう。
だから『また来る』という言葉も断ることが出来なかったのだろう。
⑥
「………なに話してんだろ」
後ろで何やら姦しいやり取りが行われているのをひとまず聞かなかったことにする。
フライパンへ分量を調節しながら白ワインを振りかけた。途端にざあ、と激しい音を立てて芳香が立ち昇る。
直前に投入していた獅子唐と舞茸にそれを絡ませながらアルコールが飛ぶまでフライパンを軽く揺すって丁寧に炒めた。
あんまり熱を通しすぎても食感が失われてしまうので程々に留めておく。その気になれば生でも食べられるものだし。
だいたい具が調理し終わったと判断出来たタイミングでちょうどよくタイマーが鳴った。
鍋の火を止めて少量の茹で汁をフライパンへ注いだ。いわゆる乳化というやつである。
プロの料理人というわけではないのでなんとなくそれっぽい粘性を帯びれば良しとする。きっとこんなものだろう。
あとは少し硬めに茹で上がった麺を移して具材とソースを絡めれば………。
試しにソースを纏って艷やかな光沢を放つ麺を1本つまみ上げて口にしてみた。丁度いい茹で加減。なかなかうまくいったんじゃないだろうか。
「ま、こんなものかな」
塩と胡椒を軽く足しながら俺は小さく呟いた。満足してもらえればいいんだけれど。
「セイバー、キャスター。お昼出来たよ。席についてくれ」
振り向かずに呼びかけながら皿を3枚並べてフライパンの中身を盛り付けていく。
トングを使って捻じりながら盛る。なんでもパスタの盛り付けは立体感を出すのがコツなんだとか。
別に誰に習ったわけではなく以前インターネットで聞きかじった知識による見様見真似なのであまり大きな事は言えない。
目分量で三等分し、俺は3枚の皿を食卓へと運んでいった。
………セイバーがさりげなく、しかし有無を言わさない動きで俺の隣に腰掛ける。何故だろうという疑問はさておいてふたりに説明した。
「………というわけで、今日の昼食はキャスターから貰った獅子唐を使ったペペロンチーノです。召し上がれ」
目の前に置かれたパスタの山を前にして、セイバーもキャスターも同じように「ほお」と軽く目を丸くしたのに内心くすりと笑ってしまった。
普段は牽制しあっているふたりだけれどこういうところでは息が合うみたいだ。
簡単な料理ではあるが自分でも悪くない出来だと思う。獅子唐の生き生きとした緑が見た目にも鮮やかだ。
いただきます、と手を合わせて早速フォークを突き刺したセイバーの目の前の席で、キャスターがしげしげと料理を眺めていた。
⑤
「………本当に突然どうしたのです、キャスター」
横隣りのソファに腰掛けながら警戒心の抜けきらない顔でセイバーは尋ねた。
昼時のワイドショー番組を漫然と眺めながらキャスターは湯呑を傾ける。
いまいち距離感が掴めなかったセイバーが場をもたせるために淹れたお茶だった。
キャスターは崩した姿勢で背もたれに身を預け、思い切り十影宅のリビングを満喫していた。
「あちち。円卓の騎士様に淹れてもらったお茶と聞くとこのお茶もなんだか立派なものに思えてくるね」
「茶化さないでください!」
「だぁかぁらぁ、本当のことだってば。せっかく貰ったものを無駄にするのは気に入らないし。
そしたら栗野のお嬢ちゃんが『典河の飯は美味い』って言ってたの思い出してね。これ幸いと押し付けてみただけだよ。
食事を作らせてる相手に不義理なんてしやしないから、そんな怖い顔で私を見るのはやめなさいって」
そう言ってキャスターは口を窄めてお茶に息を吹きかけ、軽く冷まして口に含んだ。
「……………」
このようにきっぱりと言われるとセイバーとしてもそれ以上追求しづらい。
無理に問い詰め続けて狭量を笑われるのも癪である。むう、と唸ってからセイバーはソファに腰掛け直した。
「………分かりました。確かにテンカの作る食事はきめ細やかな気配りがあって美味なのは事実です。ひとまずそれで良しとしましょう」
「へえ。随分自分の主人に大事にされてるみたいじゃない。もしかしてもうそういう仲なのかな?」
「………!キャスター!」
「んふふ」
流し目を送ってキャスターが微笑む。キッチンではじゅうじゅうと油の喝采をあげて跳ねる音が鳴っていた。
④
「キャスター、一応聞いておくけどにんにく使っても大丈夫?」
「ん、それって匂いのこと?気にしないから平気よ~」
振り返ることすらせずひらひらと後ろ手を振って答えるキャスターを確認してから俺は冷蔵庫を開いた。
「獅子唐といえばやっぱり相性いいのは油だよな………」
ざっと残り物を把握していく。ブロックで買っていたベーコン発見。昨日の夕飯で使わなかった舞茸発見。
保存容器に密封されたパスタの乾燥麺も発見した。この時点でレシピが脳内で確定する。
とりあえず鍋にたっぷり水を注いで火にかけると俺はキッチンにハンガーで吊ってあった常用しているエプロンを装着した。
いつの間にかソファ越しにこっちを見ていたキャスターがにやにやと笑っていた。
「前掛け姿がなんだか板についてるねぇ。なんなら私が織ってあげようか?いいお嫁さんになれるよ」
「え、遠慮しとく。キャスターの織ったエプロンなんて効き目あらたか過ぎてそのまんま料理人になっちゃいそうだ」
さすがにそういう人生設計は想定外。キャスターが操る糸のようなくすぐったい視線をなんとか無視して包丁とまな板を取り出した。
にんにくを包丁の腹で潰して皮を剥く。芽を取り除いたら微塵切りにしてフライパンの中へ。
赤唐辛子の蔕を取り除いて種を出したら身の方をこれもフライパンの中へ。
種も一緒に入れれば更に辛く出来るけど、今回はマイルドに行こう。きっとキャスターなら平気だろうけれど。
オリーブオイルをにんにくと赤唐辛子が浸るまで注いだら弱火で加熱を始める。オイルににんにくの香りを移す、イタリア料理では基本中の基本みたいな工程だ。
お湯の沸騰した鍋へ塩を溶かして乾燥麺を放り込んだら、にんにくがきつね色になるまでに取り揃えた食材の用意を始めた。
スライスしたベーコンは1cmほどの幅で短冊状に。舞茸は適当に食べやすい大きさにまで手で裂く。
それらをまな板の端へどかしながら、ようやく俺はキャスターが持ってきた紙袋を手にとった。
「さてと。今回の主役は………と」
紙袋からまな板の上へ広げた獅子唐を包丁で切っていく。1本をだいたい三等分くらい。
本当に畑からの採れたてなのがよく分かる、青々としたいい獅子唐だ。
育てたお婆さんというのは一体どんな人なのだろう?キャスターも俺の知らないところで意外な交友関係を作っているらしい。
キャスターのこの街での暮らしぶりに思いを馳せながら程よくにんにくの揚がったフライパンへベーコンを投入した。
途端にぱちぱちとベーコンの水分が弾けて陽気な音がキッチンへ響き出す。ここからの工程はスピード勝負だ、手早く行こう。
③
「………」
「………」
最早想定通りだった玄関での睨み合いにいちいち付き合うのも面倒くさく、俺は土足からスリッパに履き替えて館内に上がる。
「セイバー。いいから通してやってくれ。キャスター。あんまりセイバーをからかわないでくれよ」
「典河にそうきっぱり言われちゃったら仕方ないかな。はいはい、分かったよ」
お洒落な装いのショートブーツを脱いでスリッパに履き替えるキャスターをじろりと一瞥したセイバーはすぐさま俺へと食いかかってきた。
気持ちは分からないでもない。甘んじてその受け答えに応じることとする。
「テンカ!!どういうことだ!!あの毒婦めをこの家に上げるなど!!」
「どういうこともなにも、キャスターは確かに困っていたんだ。それを見てみぬふりをするのも、なんだろ」
「………っ、た、確かに!テンカのそういった部分はひとつの美徳でもあるがっ!相手はキャスターだぞ!?」
「だぞって、まぁ分かるけどさ………」
基本的にセイバーはキャスターと折り合いが悪い。いろいろあった間柄なのはさておいても性格面からあまり噛み合わない。
キャスターの方からは嫌っているということもなさそうなのだが………。
玄関先でやり取りしていた俺たちへキャスターが面白い芸でも見るかのような目で見ていた。
「おーい。盛り上がってる所悪いけど、もう奥へ進んでいいかい?」
「あ、ああ。突き当たりまで行けばリビングだからそこで待っててくれ」
「テンカ!」
「大丈夫だってば。キャスターは食材を持ってきてくれただけだ。何か企んでいるとかそういうことはない………と思うよ」
保証はし切れない。キャスターは笑顔の裏であれこれ良からぬ画策をするのが好きなタイプなので。
とはいえさすがに大丈夫、だろう。我が物顔ですたすた廊下を歩いていくキャスターの背中を見ながらセイバーが溜め息をついた。
「………納得はしていないが………。やれやれ、テンカはキャスターへ妙に甘いところがあるからな………。
ふーん………ふーん………ふたりで食事の約束なんかして………仲が良くてなんとも結構なことだな………?」
「そんなことない。そんなことないぞ。本当だぞ。すぐお昼作るからセイバーも待っててくれ」
じっとりとした半目の視線をセイバーに向けられてはそそくさと退散する他ない。
キャスターから貰った紙袋片手に廊下を足早に通り抜ける。
うちのキッチンはリビングと一体になっているから自然と既にリビングで寛いでいたキャスターの姿も目に入った。
ソファに腰掛けて勝手にリモコンでテレビもつけちゃって、もう完全に我が家状態である。自由人な彼女らしかった。
②
「どういうこと?」
「うーん。話だけは単純なんだよ。たまたま知り合った老婆がいてね。
夜はまだ冷えて老骨に染みるっていうからさ。気まぐれに膝掛けを織ってやったのさ。
そしたらお礼にって畑で栽培している野菜を山程貰っちゃってさ。だいたいはマスターに押し付けたんだけど、さて残りをどうするかってね」
「………それで、なんで俺のところに来るんだ」
「君、大家族のお母さんでしょ?これあげるから何か適当に作って食べさせてよ、お母さ~ん」
「誰がお母さんだよっ!?」
言い返すがキャスターは悪びれもしない。いつもの怪しくて甘ったるい笑顔を浮かべながら俺の片腕に抱きついてくる。
このサーヴァントはこうすれば俺が断らないやつだと知っているのだ。そして俺は断れないのだ。いつも最後の一線で甘やかしてしまうのだ。
気質は違うがどことなくキャスターが流姉さんに似ているからかも知れない………。
おおげさに溜息つきながら俺はくすくすと俺の横で微笑むキャスターをじろりと睨んだ。
「でも、意外だな。あんたそういうことするんだね。無償でそんなふうに他人へ膝掛けをプレゼントするなんて」
「ふん。今でもあのばか女神より私のほうが機織りの腕については優れてるとは思ってるけど、私は元を正せばただの町娘だからね。
こんなの珍しいことでもない。織られた生地は誰かに愛でられることで価値が生まれるもの。渡す意義のある相手には相応に振る舞うよ」
「へえ………」
こと機織りに関する話になるとキャスターは独特の表情を浮かべる。
漂わせる怪しげな印象はそのままに、真剣で余人の意見を寄せ付けない強い意志をほんの微かに覗かさせる。
それはいわば職人の矜持というやつなのだろう。正直こういうキャスターは嫌いではない。
もしここに機織りの女神―――アテナがいるとしたら、俺はきっとキャスターの肩を持ってしまうはずだ。
「………分かったよ。この獅子唐を使ったありあわせのものでいいなら作るよ。
ただし、その代わりセイバーとは仲良くしてくれよ。俺の家の敷地内で乱闘なんて御免だからな」
「はいはい。家主の言葉には従っておくよ。セイバーとだってきちんと仲良くやるさ。
ま、向こうがその気なら別だけど………その時は典河がちゃんとセイバーを宥めておくれよ?」
「善処します………」
セイバー、キャスターのこと苦手っぽいからな………。
思わぬ珍客を引き連れて旧土夏のアーケード街を行く。
途中、美人を連れて歩く俺へ突き刺さる商店街の皆様の視線はあえてひたすら無視することとした。
①
時に土曜日。学校は半ドン。セイバーひとりが待つ我が家への帰宅途中。
さて昼餉は何にするかと考えながら旧土夏のアーケード街へ差し掛かった頃であった。
「やあ典河。いい日和だねぇ。ご機嫌麗しゅう~」
「げ」
本人が言う通り、ピーカンの青空の下。どちらかといえば曇り空の似合いそうな女がにこにこと俺に笑顔を振りまいていた。
この女性もすっかり現代に馴染みきって、ニット生地ののタートルネックにフレアスカートの出で立ちでは最早ただの超美人である。
俺がアーケード街へ踏み込んだ途端するりと路地から現れたので待ち受けていたのは明白だった。
「………何だよキャスター。俺に何か用か?」
「げ、とは失礼だね~。そんなに邪険にしないでよ~。あんなことやこんなこともした私と君の仲でしょ~?」
「そんな覚えは!………いやちょっとあるけど!だいたいは無い!」
そそくさと俺の間近に擦り寄ってきて怪しげな笑みを浮かべながら俺の胸板に指で円を描くので慌てて1歩飛び退いた。
キャスターがとんでもなく美人なのは間違いないもんでつい顔が熱くなってしまう。
用事があろうがなかろうがキャスターは俺に対してこんな調子だった。絶対俺をからかって遊んでいるのだ。どして。
「ほ、本当に何の用だよ。何にもないんなら行くからね。帰って昼飯の用意もしなきゃいけないんだから」
「あー………うん。実を言うと、その話なんだよね」
「は?」
意味が分からない。キャスターと俺の作る昼飯に何の因果があるというんだ?
珍しく眉を寄せて困った顔を作ったキャスターが、まずはこれを見てくれ、と手提げ袋の中身を広げてみせた。
無視するのもなんなので促されるままに袋の中をおそるおそる覗き見る。
キャスターのことだから何かおどろおどろしいものが入っているのかと思いきや、それは予想外の物品だった。
「………獅子唐?」
「というらしいね。私は見たことも聞いたこともなかった野菜だから名前だけしか知らないけど」
そこには青々とした見事な獅子唐がビニール袋一杯に詰まっていた。
俺の中では疑問符が立て続けに並んでいく。キャスターと獅子唐。なにひとつ接点が結びつかない。
キャスターはかつては神域の機織り手というだけで身分としてはただの村娘だったというが、それでも畑を耕していたなんてことは聞いたことがなかった。
ついぽかんとして目の前のキャスターと見合わせてしまう。
2/2
『おーい、正峰? 聞いてるかー?』
「……聞いている」
いかん、思わず自分の中で愚痴っていた。夏休みが近いせいか?
『でも、あったらしいじゃないかお前のいるとこ、土夏だっけ?』
「らしいな」
感情を乗せない相づち。
それを知って珍しく俺に電話を掛けてきたかと、一人納得する。
聖杯戦争の手がかり、情報が聞きたいと言うのが本題だったらしい。
『はぁ? らしいって……調べてないのか?』
電話口からの困惑する声。
思わず口元が緩む。調べていないし、知らないが、知っていてもただでは教えん。
「土地の管理者や教会に訝しまれたくないからな」
『へぇへぇご苦労なこって。しかし、宛が外れたかぁ』
「……正直言うとな、俺は怖いんだよ。ガキの頃から散々言われてきた。“血を怖れろ、死に近づくな。それを忘れた時、お前は人ではなくなる”って」
再従兄弟の冗談めかした言葉に苦笑いをして、思わず手が震えた。
先生との出会いの以前、記憶の奥底に刻まれた何かが強迫観念のように、亡霊のように俺の両肩に手を掛け囁き掛けてくる。
「俺は、非日常の何かに深く関わって黒瀬正峰という人間が“俺”でも“私”でもなくなるのが、何よりも怖いんだよ」
そこまで吐露してようやく落ち着いた。
再従兄弟は察して黙って聞いてくれたようだ。
『……そうか、悪かったな。忘れてくれ。 ああ、最後に良いことを教えてやるよ、誰でも出来る詐欺師に騙されない方法だ。話を聞かない、これに限る。 簡単だろ、はははははは!!!』
前半の神妙な口調とうって変わった大爆笑。
そうだ、暫く会っていないので忘れていた、再従兄弟はこういう奴だった。
「…………俺は時々本当にお前が分からなくなるよ。あぁ、分かった。俺の敗けだ、18年前の事なら分かる限り調べて後で送ってやる」
狐に摘ままれたような気持ちの後、思わずつられて笑みが溢れた。
そんな事を言われたら電話を取った時点で詐欺師の口車に乗ったようなものじゃないか。
なんだか馬鹿馬鹿しくなった俺はいっそのこと詐欺師の片棒を担いでやろうと思った。
『おっ、サンキュー』
「俺に出来るのは当時の地方紙の記事や伝聞を漁って状況の推察材料を作る程度だ、期待するなよ。 忘れるな、この貸しは高くつくぞ」
返事を待たずに電話を切る。
流石にまた電話の呼び出し音がなることはなかった。
ため息をついた俺は外の空気が吸いたくなってベランダに出る。
空を見上げるが、長野と違って土夏では星はあまり見えない。
赴任してもう5、6年になるか、土夏は今や第二の故郷と言ってもいい。……まぁ、盆くらいは夏期休暇を使って久し振りに実家へ帰るか。
折角だ、調べたネタを使って再従兄弟に何か奢らせよう。
1/2
────2009年、7月初旬深夜。土夏市新土夏のマンション、黒瀬正峰宅。
『なぁ正峰、聖杯戦争って知ってr』
10年来の友人からの懐かしい声とその口から発せられた不愉快極まる言葉を耳にした瞬間、“俺”は電話の受話器を叩き付けるように本体へと押し付けていた。
数十秒後、電話機が鳴った。いっそのこと電話線を引き抜いてやろうかと思ったが、深呼吸をして落ち着くと受話器を取る。
「はい、黒瀬ですが…」
『酷いじゃないか正峰、いきなり電話を切るなんて!』
いきなりやかましい。
受話器から耳を離しておいて良かった。
「酷いのは貴様の頭だ、何を言うかと思えばよりによって聖杯戦争とはな。俺を殺したいならそう言え」
友人の言葉に吐き捨てるように言い放つ。
聖杯戦争がなにか位は魔術については殆ど素人の俺でも知っている。
教会主導の聖杯と呼ばれる魔術的遺物を巡る戦い。
戦争とは言っても競売やクイズ、徒競走でも聖杯を賞品にすれば聖杯戦争になる。
聖杯と名のつく遺物も聞くところによれば1000近くは存在しているなどと聞くと聖杯戦争の存在すら与太話ではないかと疑わしい。
だが、確かにそれは実在する。裏の世界に少しでも足を踏み入れた事があるならきっと誰もが耳にするだろう。
それを前パン屋だったところに出来た新しいラーメン屋知ってるか?とでも言わんばかりに言うとは、会話の内容にしては扱いが軽過ぎる。
『何を言ってるんだ!俺達は友達だろ!?』
電話口の声は言い方からして動揺しているのが分かる。
電話先の友人、生家である長野の実家の再従兄弟は本気で聖杯戦争を日常会話の一つとして話すつもりだったらしい。イカれているのか?
再従兄弟は廃業した黒瀬の家とは違い、今も退魔や魔術師相手に殺し合いをしている。非日常にどっぷりと浸かった奴との会話は時々相手が正気か判断に迷う。
「貴様と会話する度に俺は貴様と本当に友人なのか、貴様に洗脳されていないか悩んで過去を洗い直すんだがな」
『かわいそ……待て、待て切るなって!俺が悪かったよ!』
此方の皮肉に失笑しやがった。
電話を切ろうとしたのを察したのか、慌てて謝ってくる。
「それで、聖杯戦争がなんだ? 調べろと言うならクソッタレ、参加しろ ならくたばれと返してやるが」
再従兄弟とは、子供の頃からの付き合いだ。お互い良くも悪くも遠慮がない、どうしても昔を思い出して口が悪くなる。
『じゃあ俺はクソッタレか。 調べるくらい良いじゃないか。どうせ、そろそろ夏休みで暇だろ?』
「ちっ、生徒と違って教師に夏休みはない。“私”には研修だの、新学期に向けた準備が山程ある」
やはり、“俺”に聖杯戦争について調べさせるつもりでいたか。わざと聞こえるように舌打ちをした“私”が発したのは皮肉ではなく愚痴だった。
教師も夏休みが長いと思われている風潮はなんだ?そんな訳がないだろう。下手をすると生徒にまで先生も休みなんでしょう?なんて言われるんだぞ。
私も好きでやっている仕事だから文句は言わないが、たまに愚痴くらい言いたくなる。
②
円は鞄からクリアファイルを取り出して俺に手渡してきた。
昼休みが終わったあたりから咳が出だして保健室に直行したのでおそらくその間の2限分だろう。
特に柄もない透明なファイルなので円がルーズリーフに書いた板書きの内容が透けて見える。
こういうことがあると円は必ず俺の分まで授業内容をこのようにして残しておいてくれるのだが、俺が板書きを写すより何倍も分かりやすい内容なのがいつも不思議だ。
と。それを自分の鞄に仕舞おうとした俺の目の前へ円が差し出すものがあった。紙片である。
「………なにこれ?」
「短冊だ、七夕の。お前も食堂前に葉竹が据えられてあったのを見たろう。義務はないが可能であれば今日中に提出、いや笹に飾ったほうが良かろう」
そういえばそんなものもあったような見かけたような。
どこの山から切ってきたのか、笹のついた竹がずらりと並べられて緑の竹林を形成していたのを思い出した。
変なところで思い切りが良いというか全力投球するのがうちの学園の校風である。
「願い事か………。円はなんて書いたんだ?」
「無病息災」
「だろうね」
むっつりと唇を結んだいつもの顔で円は事も無げに言った。円は寺の子なのに、いやだからか、こういう願掛けにはあまり興味を示さない。
しかし応じないのも不義理なので………と、たいていは差し障りのない無難な答えを口にする傾向があった。
「そういうお前はなんと書くつもりだ。典河」
「俺………俺か………」
指に挟んだ何の変哲もない黄色い色紙へ視線を落とし、少しだけ思いに耽る。
俺の中に夜空へかかる天の川へ託すような切実な願いが、もしあるとしたら。
もしあるとしたら、それは。決まっている。
「………救われたんだから。救われた意味に足る自分になれますように」
「典河?何か言ったか?」
「いや、なんでもない。そうだな。こういう身体だし俺も円に倣って無病息災ってことにしておこうかな。
さてと、起きるか。もう放課後だ。いつまでも寝っ転がったままじゃいられないもんな」
俺はベッドから起き上がって上履きに足を通す。
円は何か言いたげにしていたが、結局その場でそれについて言及することはなかった。
鞄を引っ掴んで保健室を後にする。途中、かさりと何かが音を立てたので音の出どころを探したら胸ポケットだった。
「………ああ、そういえば」
先日、栗野先輩から貰った魔除けだとかいう栞が入っている。今もどうにか脈を打っている、俺の心臓の真上に。
①
放課後を知らせるチャイムが鳴って5分と経ってはいなかった。
「―――失礼します」
几帳面なノックの後、クリーム色をした保健室の扉が静かにスライドした。
男子学生がひとり、淀みのない動きで入室してくる。ドアを閉める所作まで全て杓子定規で測ったような丁寧さだった。
室内を見回して状況を確認すると最後に俺へ向けて視線を投げかけてきた。
「養護教諭は留守、と。………ああ、典河。身体の方は大事ないか」
「もう大丈夫だよ。ありがとう円」
喋り方まで角ばっているというか、真面目さが滲み出ているというか。
それがもう2年ほどの付き合いになる円という男の味なので今更どうとも思わないが。
靴底のゴムを微かに鳴らしながら円は俺が上半身を起こした状態で横たわっているベッドの側までやってきた。
「すまなんだ。私としたことがお前の体調の変化を見落とした。気付いてればもう少し早く声をかけられたのだが」
「いいよ。こういうこともある。こっちこそ迷惑かけて悪かったね、本当に」
「お前に謝られては立つ瀬が無いな。まあ、なにはともあれ大事ないならば善き哉」
しなやかな視線で俺を見つめて頷く円はクラスの保健委員という立場であり、全員が集まる委員会でもその的確な発言と柔らかな物腰により次期会長は間違いないと言われている男だ。
生徒会、風紀委員会、保健委員会、部活連、更には体育祭や文化祭の実行委員会が複雑に利権を絡ませ合う火蜥蜴学園の権力闘争に円が巻き込まれていくのだと思うとなかなか複雑な思いがある。
―――フルネームを姫島円。
お山にある松原寺の代理住職の息子で、中学もあと半年で終わりという頃にこちらへ引っ越してきて以来の俺の友人である。
文武両道を地で行く模範生とというやつで教師陣からの覚えは非常によろしい。
これで容姿も麗しく性格もやや堅物なのを除けば至って穏やかなのだから天は二物を与えずという言葉は嘘っぱちなのだろう。
「あまり調子が悪いようならば山の方へ連絡して住み込みの者に車を回してもらおうとも考えたが」
「大丈夫だってば。もうひとりで歩いて帰られる。それにそこまでしてもらっちゃ悪い。気持ちだけ貰っておくよ」
「そうか。………では渡すべきものをここで渡しておこう。
配られたプリント類。それとこれはお前が欠席した授業の板書きだ。私の分は自前で書き留めてあるので気にするな」
「そっか。いつも悪いな」
②
「十影くん?」
「はい、これ。濡らしたら使えるネッククーラー、あと冷却スプレー。ポータブルの扇風機は高いものでもないからあげるよ。
それと大事なのはこれ。ちゃんと水分補給して。全部とは言わないから、飲めるだけ飲んで」
「え………あの………?」
「いいから、飲んで」
普段の十影くんからは想像もできないような、静かだけれども有無を言わさない口振り。
背負ってきたリュックサックからあれよあれよという間に様々な防暑グッズが溢れ出してくる。
まともに口も交わしたことのない深窓の美少年から言われるままに海深は手渡されたペットボトルのキャップを開けて中身を口にした。
ペットボトルのラベルはスポーツドリンクとは違う、明らかに医療用と思われる無骨さに満ちていた。
最初の飛沫を口の中に受けて、ああ美味しい、と。そう思ったが最後、ペットボトルの半分くらいまで一気に空けてしまった。
こんなに一口に水を飲み干したのは初めてかもしれない。
そう戸惑っている私の前で十影くんはなんでもないことかのようにリュックサックのジッパーを閉じている。
「あ、あの………十影くん」
「ん?どしたの」
野生動物が水を飲むような勢いで飲料水を半分空けていた間に、海深の首筋にネッククーラーが添えられて今もひんやりと首を流れる血液を冷やしている。
それらでいろいろとひと心地がついて、ふうと溜息をひとつついた深海はその場から立ち上がって去ろうとしている典河を前にして慌ててしまった。
急にやってきて急に私を助けていった彼。何か言わなければならない。一瞬の内に必死で模索して、出ててきたのはありふれた言葉だった。
「あ、あのね、十影くん!………ありがとう」
「………」
ああ、その瞬間を今も尚言葉になど出来ない。
うまく形に出来ないからこそ格別なのだろう。うまく思い出せないからこそ特別なのだろう。
「………ううん。こちらこそ、お世話様」
立ち上がりかけた彼が私へ向けて、ほんのりと。蕾がほんの少しずつ綻ぶように。
薄い硝子細工のように繊細そうなその唇がぎこちなく弧を描いて歪んだだけで、海深は雷に打たれてしまった。
それがとてもとても綺麗だったから、海深は本当に、びっくりするくらいあっさりと―――
「………あ………うん…………気をつけて、ね………」
「………?ありがとう。俺、こういう身体だから熱射病なんかには特に気をつけててさ。
梅村さんも今渡したぶんで足りなかったら、後から俺に言ってね。予備はたくさんあるから。………それじゃ、円に呼ばれてるから」
十影典河はそう言い残して、真夏の幻のように陽炎の中をふらふらと去っていく。
ぽかんと呆ける海深の元へ入れ替わりにやってきたのは親友の松山茉莉と竹内太桜の二人組だった。
日陰とはいえ、日差しの暑さも忘れている海深の様子へ二人は首を傾げた。
「おーい。もしもーし。どうしたのさ、海深。なんだか心あらずって感じだけど」
「そうだぞ。まるで男子生徒に告白でもされたかというほど耳まで顔が真っ赤だ。もしや日射病なのではないか」
「えっ!?その、だって………」
指摘された顔面を明後日の方向へ背けて隠し、海深は消え入りそうな声で仲良しのふたりへ呟いた。
自分の顔が照りつける日差しにも負けないくらいかんかんに熱しているのを自覚しながら、そう言う他無かった。
「なんでもないの。本当に………なんでもないんだよ………?」
鼓動がうるさい。どきんどきんとけたたましく鳴っている。止められるならこの炎天下の下でどんなこともするのにと、海深は思った。
①
まるで雑巾の水をゆっくりと絞るかのように、だらだらと自分の中から水が零れ落ちていく。
グラウンドの隅にある塀で出来た日陰の下で海深はそんな錯覚を覚えていた。
「………暑………」
梅村海深。高校1年生。6月。恐るべきピンチを迎えている。
倦んだ視線をグラウンドの中央へ向ければそこにはいくつものテント、上がる歓声、ビデオカメラが回る保護者席。
火蜥蜴高等学校は今まさに体育祭の真っ最中だった。
とはいえ海深に体育祭へかける熱意やモチベーションなどは微塵もない。
年々厳しさを増すばかりの日本の気候は6月の時点で早くも外気温30度を優に超え、それは熱に弱い海深の体力を容赦なく奪っていく。
確かに柔道の選手として基礎体力はそれなりに培っているが、それで灼熱の中でも平気で動けるかどうかといえば向き不向きがあるのだ。
心なしかまだ羽化も果たしていないだろう蝉の鳴き声の幻聴すらする。ぐったりと手足を地面へ投げ出し、塀に背中を預けた。
塀に触れた背中はひんやりとしている………と思いきや、午前中の直射日光によって焼けた鉄板がやや冷えた程度には熱せられ全く冷たくない。
吐く息が体温より高く感じる。あと出場しなければならないプログラムはいくつだったか。考えるのも億劫だ。
そのくらいに海深は炎天下というものが大の苦手だった。季節は夏以外であれば春や秋がいいし、もっと言えば冬でも全然構わない。
喉が乾いた。だが立ち上がるのさえ面倒だ。高気温と高湿度のダブルパンチを受け、何もかも嫌になった。そんな時だった。
「どうしたの」
「………………?」
不意にかかった声。海深はゆっくりと目の前の人影を見上げた。
率直に言えば。まるで幽霊みたいだなと思った。それくらい唐突に、何の気配や存在感もなく彼は目の前に現れたのだ。
視線を上げていって顔を見るなりすぐ誰か分かった。彼はその顔つきだけで私たち1年生の間で有名な男子生徒だった。
まるで女の子みたいに端正な顔立ち。ちょっとびっくりするくらい抜きん出た美形。噂じゃ芸能事務所にスカウトされたこともあるという。
そんなふうに女子生徒の間で噂される、いわくつきの男子生徒。十影典河が体操着姿でじっと海深を見つめていた。
実を言えば自分こと梅村海深は彼と中学校を同じくしていたのだが在学中の三年間、大した接点も無く過ごした相手だった。
その間、その容姿の美麗さについては何度も耳にしたがほぼ会話することはなかった。だから、今この時が最初の接点ということになる。
今だって同じクラスだが、時折ふと目に飛び込む姿――薄ぼんやりと窓の外を見る、その儚げな仕草――に一瞬目を奪われるくらいだ。
近づいてくるまで気づかなかった存在の希薄さに驚きながら海深は疲れ切った表情へなんとか愛想だけ作って答えた。
「う、ううん。大丈夫。海深はちょっと暑いの苦手で………それだけだから、大丈夫だよ」
「………分かった。ちょっとここで待ってて」
そう言って彼はくるりと踵を返し、どこかへと歩いて行ってしまう。
呆然とその後姿を見つめながら海深はいろいろと記憶の反芻を行っていた。
曰く。十影くんは喘息持ちなのだという。身体が強くなく、この体育祭でも学年全体で行う競技以外にはエントリーしていない。
体育祭を億劫がる生徒の中ではそれをやっかむ者は幾人かいたが、体調の問題であれば仕方がないと決着が付いていた。
実を言えば、自分もほんの少し彼の立場を羨望して、直後に彼の肉体の問題を踏まえれば不謹慎だと慌てて脳内で自己却下した身だ。
そのようなものだから、海深はふと彼の心境を思った。
確かに自分のように暑さに参っているような者は体育祭など無ければいいと思っている。だがそれは実際に体育祭へ参加しているから思えることだ。
目の前でみんなが参加している体育祭に自分だけ加われない。それは、それ相応の疎外感が彼にはあるのではないか―――
………なんて。得体のしれないことを考えている内に、ふと気づくと帰ってきた典河がへたり込む自分の横に座ろうとしていた。
②
「………ところで十影くん。もう離してもらっても大丈夫なんだけど?」
「え………あ!す、すみません先輩!」
結構な勢いで倒れかかってきたもので、まるで抱き締めるように抱えていたことに今更ながら気づいた。
そのせいで腕に何か柔らかい感触が…慌てて飛び退く離した。メーデーメーデー。心臓が弾けるように血を送り出して、頬が紅潮していくのを自覚する。
俺はそっと先輩の表情を伺って………そして、悪寒に背筋を貫かれるのだった。
「ふーん………そうなんだ。偶然で私の身体に触れられて役得だったのかなぁ?お気持ちは如何かな?トカゲくん」
「とえいです!違、そういうんじゃ」
天使のように微笑む先輩の表情に映るのは悪魔の悪戯心。一旦は離れた距離を至近まで近寄ってきて、腕を絡めるようにして手を握ってきた。
メーデーメーデー。先程よりも強く先輩の香りを感じ、耳まで熱くなっていく。あ、俺の左の二の腕に何か柔らかい何かというか何かが。
「ナニシテルンデス」
「え~?だって一応これはデートっていう名目だし~?せっかくだからちょっとは十影くんが喜びそうなことをしておこうかなってさ~」
「い、いいですからそういうのは………!………え」
そう先輩に必死で言ったのだが、俺の意識はそこで逆方向に割り振られることになった。
右手が誰かの手に握られる。先輩ではない。先輩は左にいる。なら右にいるのは決まっている。
ぎ、ぎ、ぎ。油の足りていない機械のようにぎこちなく右に視線を向けると、先輩と同じようにして俺と手をつないでいるセイバーの姿があった。
メーデーメーデー。俺の右の二の腕に謎の柔らかい謎のなんというか謎。ほんのりと頬を赤らめたセイバーがじっとこっちを青色の潤んだ瞳で見上げている。
「………セイバー?」
「なんだろうテンカ。私は百合がそう言うから先達に従って行動しているだけだ。特に問題はない。
私は現代の様式には無学だか、学ぶ姿勢は謙虚であろうと努めている。これはその一貫だ。だから問題はない」
「あるって!」
「問題はない!」
きっと俺を睨みながらセイバーは強い口調で否定する。にやにやと微笑む百合先輩がその様子を見つめていた。
「いいのよセイバーちゃん。勉強熱心なのはいいことだけれども、ここまで真似なくても」
「いいえ。主の喜びは私の喜びだ。これでテンカが喜ぶなら『せっかくだし』私もそうしましょう」
「ふふふ」
「ふふふ」
どことなく不気味な笑いを俺の腕を抱きかかえるふたりが発する。俺にどうしろというのです。
………結局、アクアパーク土夏を出るまで俺は刑事に抱えられる容疑者のような格好で館内を連れ回されることになった。
その間、来館者の視線が痛かったことはわざわざ述べるまでもない。厳しい、試練の時であった。どして…。
①
薄暗い照明の中、携帯電話を開いて時刻を確認する。11時半。そろそろ昼時だ。
開館と同時に入った、この土夏市が誇る大型水族館『アクアパーク土夏』を出た頃には昼食のタイミングだろう。
先輩は『楽しみにしておきなさい』と言って食事処の選定を予め禁じていたが。さて、どうするつもりなのやら。
俺は携帯電話を閉じ――最近はスマホというのが流行りらしいが俺は旧式のものだ――視線を館内へと戻す。
「あ、ほら。見てみてセイバーちゃん。これなんて虹色に光ってるわよ」
「む、どれどれ………ああ、本当ですね。きらきらと輝くあのさまはかつての妖精たちにそっくりです」
女性陣が水槽のガラス面を覗き込んでいるのを俺は少し後ろから見ていた。
百合先輩はどこかはしゃいでいる様子だ。声を弾ませながら水槽を次々に梯子してはセイバーを連れ回している。
セイバーも今は緊張感より好奇心のほうが勝っているようだった。百合先輩に言われるままにしげしげと水槽の中の魚を見つめていた。
こうしているとセイバーと百合先輩は仲の良い友人同士に見える。
ふと百合先輩が振り返り、ちらりと俺の方を見た。照明を絞られた薄い室内の中、稚気に富んだ瞳が夜空の星のように光っていた。
「何してるの十影くん、早くこっちに来てよ!」
「………はいはい。了解しました。えーと、こっちの水槽はなんだって?」
「パネルによればチョウクラゲだそうだテンカ。ほら、あなたも見てみるといい」
ふたりが間を開けてくれるのでその間のスペースに挟まるようにして俺も水槽へと近づいた。
水槽の中をふわふわと無数に漂っているクラゲはまるでネオンサインのように虹色のラインを輝かせていた。
透明な身体に虹の流線を持ったその姿はどことなく近未来的なSFを感じさせる。こうしてみると確かに美しい。
とはいえ………俺はどちらかといえば、水槽の中ではなく両脇に立つ二人の女性に視線を奪われていた。
百合先輩はいつもの赤いスカーフとバックリボンワンピースにTシャツを合わせていた。
西洋の血の影響か、東洋人離れした透き通った鼻梁と蒲公英の花に似た色合いの瞳がとても印象的だ。
こうしてぎりぎりまで近くにいると甘い花の香りがこちらにまで漂ってきて、ついどきりとしてしまう。
セイバーは百合先輩によって着せかえ人形と化し、今やどこにでもいる…いや、何処を探してもいないような可愛い女の子になっていた。
ノースリーブのシャツとパーカー、レギンスの上からはホットパンツを履いて、ポップなデザインのスニーカーで足を包んでいる。
青みがかかった髪が俺の視界のすぐ横で揺れていた。もともと綺麗な人だとは思っていたけれど、こんな格好されると落ち着いてなんかいられない。
………こんな甲乙つけがたい美少女ふたりに挟まれて、俺はちゃんと釣り合い取れているのだろうか。背丈も170cmに届かないしな………。
閉口してしまう俺を他所にふたりは水族館トークで盛り上がっているようだった。
「セイバーちゃん的にはどう?こういうところって。さすがに古きブリテンの騎士でも全く未体験でしょう」
「ええ。海の中の魚を捕まえてきてこうやって誰でも鑑賞できるようにするとは当時では考えられない発想ですね。
聖杯を探す旅でいろんなものを見聞きしましたが初めての体験です。私にとって魚は食べられるかそうでないかというだけだった」
「ふーん、まぁそうだよね。魚を透明なガラス越しに観察するなんてこと200年くらいの歴史しかないもん。
でも久々に来るといいもんだね~。何回でも通っちゃう人の気持ち、分かる気がするな~」
「私も分かります。海の中の魚たちはまるで動く宝石のようです。これを知れば万人とこの光景を共有したいと願う気持ちは察します」
「そうだね………っとと!?」
セイバーに相槌を打った百合先輩が突然こちらに向かってつんのめってきた。
とっさに俺はその身体を抱きとめる。原因を視線で探ると子供の姿が近くにあった。
どうやら走ってこちらまで来てぶつかったらしい。近寄ってきた両親と思しき男女が頭を下げて謝るので、お気になさらずと返事をしておいた。
まあ、子供のすることだ。いちいち目くじらを立てるのもなんだろう。
なんて子供連れを微笑んで見送っていた俺へ向けてほんのり硬い形をした言葉が告げられる。それはごく近くから響いてきた。
②
「――――――」
不意打ちだった。庭の薔薇にも負けないほど流麗で愛らしく、胸を打つ仕草だった。
そのまま見つめられ続けていると何かボロが出てしまいそうな気がして慌てて目の前の猫へ視線を戻す。
「そ、そうかな。この庭は広いし外のコンクリートの上よりは涼しいからここにいるだけかもしれないよ」
話を誤魔化すように俺は食事を終えて顔を舐めていた黒猫の額へ向けて手を伸ばした。
猫は伸びてくる俺の手をじろりと睨みつけると―――
「あっ」
セイバーがやや気の抜けた声を上げた。
俺の指にがぶりと噛み付いた黒猫は器用に前足2本で俺の手を保持して何度も牙を立てる。
その間、俺の指には丸い小さな穴が刻まれていくのだった。ちなみにちょっと痛い。
「ま、マスター!噛まれています!止めなければ!」
「うーん。これ甘噛みってやつじゃないのかな。かわいいよね」
「これは獣の甘噛みではありません!それは相手の身体に傷をつけたりしないのです!」
「そうなんだ………。猫なんて飼ったことないから、てっきり。介抱した時からずっとこうなんだよね」
噛んだり、引っ掻いてきたり。黒猫は俺の指に開いた穴から流れ出る血をそのざらついた舌でぺろぺろと舐めていた。
なんだかまるで血を啜っているかのようだ。まあ猫は肉食性の生き物だからそういうものだろう。ちょっとくすぐったい。
「いけませんマスター………!こら、マスターはあなたの命の恩人なのだろう?無体なことはするものではない」
そう言って猫を叱りつけながら、脇の下を両手で支えてひょいとセイバーが黒猫を抱えあげる。
俺の指を噛んだり舐めたりすることを中断させられた黒猫は不服そうに唸ったが、ちらりとセイバーを一瞥すると大人しくなった。
されるがままにだらんと身体を垂らし、セイバーが抱きかかえるのに任せている。首の下を軽く撫でられるとごろごろと喉を鳴らした。
………俺とは全然対応が違うじゃないか!俺に向けた牙や爪はなんだったんだ!
「ふむ、おとなしいですね。こうして近寄ってくるのだからマスターの事を嫌っているのではないのでしょうが。
いいかい、もう彼のことを噛んだりしてはいけないぞ?義は義で返すのが正しい筋というものだ」
セイバーがそうやって諭しながら頬や額を撫でると嫌がる素振りも見せずに尻尾をぶらぶらと揺らしていた。
くそう。やっぱりセイバーが美人の女の子だからそういう反応をするのだろうか。
俺は臍を噛むような思いをしながらセイバーが黒猫を可愛がる姿を見守るしかなかった。
①
セイバーがふと足を止めた。廊下の中途、掃除用具の納められたロッカーのあたりだ。
俺の胸あたりの高さのロッカーなのだが、セイバーが気に留めたのはその上にあるものだった。
「マスター。これはなんですか?」
しげしげとパッケージを見つめている。何か琴線に触れるようなことがあったのだろうか。
特に隠すようなものでもない。ゆっくりとセイバーに後ろから追いつきそれを手にとった。
「キャットフードだよ。要するに猫の餌。
あんまり人間が食べるものと同じものをあげると猫にとっては栄養が偏っちゃうからね」
特別なことはなにもない、普通に市販されているキャットフードだ。グレインフリーがどうのこうので若干お高いくらいか。
なるべく良いものを買ったからそこは仕方がない。シンプルなパッケージのデザインが如何にもな高級感を出していた。
それを聞いたセイバーが小首をかしげた。
「猫、ですか。そういった動物の気配はこの屋敷の中からは感じなかったのですが………」
「ちょっと前まではね。最近になって事情が変わったというか………そろそろ来る頃だと思うんだけど」
その時だった。なーお、と鳴き声がしたのは。
いつの間にか庭に面したガラス戸から黒くて小さな生き物がこちらを覗き込んでいる。
ビー玉のように丸くて青い目がくりくりと動いて俺たちの様子をうかがっていた。
「はいはい。ご飯の時間だね。分かった分かった」
ガラス戸を開けてやると我が物顔でその黒猫は洋館の中に入ってくる。
廊下をのっしのっしと歩き、俺たちの前で優雅に座った。さっさと飯を寄越せと言わんばかりの態度だ。
ロッカーの上から皿を取り出し、カップできっちり分量を計ってキャットフードをよそってやった。
すると黒猫は「まぁ食べてやらないこともないわ」とでも言うようにふんと鼻を鳴らしてから齧り始めた。
「なるほど。この猫のためのものなのですね。しかし、飼い猫という風でもありませんが………?」
「うん。セイバーと出会うよりちょっと前かな。傷だらけでうちの敷地にいてさ。
放っておけないから治療をしたら居着くようになったんだ。普段はこの庭のどこかにいるよ」
俺は話題に上がった庭をガラス戸越しに眺めた。丁寧に整備しているのでちょっとした洋風庭園となっていた。
トキワマンサクの生け垣で仕切られた庭内は薔薇が綺麗に咲いていた。四季咲きの薔薇は手間がかかるがそのぶんいつでも花をつけてくれる。
「なるほど。小さき命であろうと大切にする心がけには感心します。
きっとこの猫も恩人であるあなたを快く思ったからここを住処としているのでしょう」
出会った時からずっと凛とした、悪く言えば硬い表情を浮かべてばかりのセイバーがそう言って微かに微笑んだ。
「なんで貴方がトエーの家に居るの?クロセ?」
一見すれば少女といっても通じる見掛けの魔術師、ニコーレは思わずその美しい顔立ちを苦虫を噛み潰したように歪ませて目の前の男に吐き捨てるように言った。
「何故、何故か……君の魔術で俺…私の両大腿骨が折れ、逃走しようと縮地を使おうとして骨が完全に砕けて十影に助けられたからという答えでは不満かね?」
その男、黒瀬正峰はニコーレの表情や態度など意に解さないかのように淡々と答える。
黒瀬はソファーに横にされており、その両足は太ももから下がギプスでガッチリと固定されていた。
「私のせいって言いたいわけ?重傷なら自分のサーヴァントに背負って貰って病院に行けば良いじゃない」
「ははは……面白いジョークだ。実践したら私は明日には変死体として見つかるだろうね。……まぁ実際帰りたいのは山々だが、こんな深夜ではタクシーも捕まらんし、手負いの俺は他のマスターからすれば良い獲物だ。俺も命は惜しい、悪いが帰らんぞ」
黒瀬はニコーレの皮肉に愛想笑いを浮かべると、もう会話をするつもりはないと言わんばかりに顔を背けた。
黒瀬とニコーレは聖杯戦争の敵対者として数日間幾度か刃を交えていた。
これまで決着はつかず、お互い後に残る傷はなかったのだが、つい数時間前の戦闘で黒瀬が負傷。
その数分後には決着がつく筈だった。
それを遮ったのはニコーレと同盟を結んだ黒瀬の教え子である十影典河と栗野百合であり、不倶戴天の敵だった二組がこうして一時的に休戦。
十影邸に避難しているのも典河の意向(実力行使で二組を止めたのは百合)によるものだ。
意地を張って退けない32歳と24歳が17の少女にただただ正論でガチ説教される様はやる気だったサーヴァント達ですら居たたまれなくなるほどだったという。
とそこへ家主である典河が戻ってきた。
典河は二人が言い争いでもしていると思ったのか、思いの外静かなことに不思議そうに首を傾げる。
「……あれ?もしかして二人は以外と仲がいいのか?」
「「良くない」わよ!」
(やっぱり仲良いじゃないか……)
───────2009年、火蜥蜴学園2年C組教室。6月下旬夕方
数日掛けた中間テストを終えた教室ではどこかやりきったような弛緩したような空気が流れていた。
そこに扉の開く音。
夕礼の時間ぴったりに現れた担任、黒瀬正峰は教壇に付いた。
「起立、気をつけ、礼、着席」
日直の生徒の言葉にクラスが儀礼的な挨拶をすると黒瀬は生徒を一瞥して口を開いた。
「では夕礼をはじめます。中間テストも終わりも明日からテスト休みだ。もう一ヶ月もすれば夏休みなので、気が緩んでいるものもいるが、休みを楽しんでも決して気を緩め過ぎないように」
と、そこで黒瀬にしては珍しく咳払いを一つ。
「休み中に繁華街に行くのもいいが、気をつけないとエアマックス狩りやGショック狩りに合うからな、はは!」
空気が固まる。
決して黒瀬が冗談を言った事にではない、これは何を言っているのかという困惑だった。
「あの……先生……エアマックスってなんですか?」
そこで勇気を出した生徒の一人、松山茉莉がおずおずと手を上げて黒瀬に問い掛ける。
嘘……だろ……
黒瀬は思わず崩れ落ちた。
まだ自分は若いと思っていた黒瀬にとってはじめてのジェネレーションギャップだった。
「あら、黒瀬先生どうしましたか?そんなに落ち込んで?」
「ああ、いえ大した事ではありません。……凍巳先生、エアマックス狩りって知っていますよね?」
「……えあまっくす?」
「……すみません、忘れてください」
2/2
下校時間を過ぎて校内に残っている生徒がいないな確認するのは部活の顧問をやっていない黒瀬の仕事だった。
各クラスを回って居残りがいないか、確認する。たまにおしゃべりが楽しくて居残っている生徒がいれば帰るように促す。
そして、自身の受け持つクラスにたどり着いた。
扉に手を掛けた瞬間、中からの人の気配に気づいた。……思わず身構え、臨戦態勢に入る。
埋まれた時から染み付いた悪癖だ。
深呼吸をひとつして意識を切り替え扉をあける。
「おーい、誰か残っているのか?」
「あ……黒瀬先生」
そこには夕焼けと似た色の髪の青年、自分の机に座る十影典河の姿があった。
「十影? 忘れ物か?」
松山に言ったことは嘘ではない。黒瀬は確かに十影は友人である八守と共に学園の門を通ったのを確認していた
その二人が教え子であり、魔術師見習いとどこかの組織に所属していない魔眼持ちという事で校内にいる限りは出来る限り気にするようにしていたからだ。
「ええ、実は宿題を……」
「そうか、熱心なのは構わないが、もう日が暮れるぞ」
何かがあったかと一瞬いぶかしむが、少なくとも自分の事情に踏みいられる事を十影は望んではいない。
喘息だったからか、独り暮らしをしているからか、自立心の強い青年で誰かの手を借りるという事を極端に嫌がるところがあった。
保険委員の姫島円と少し揉めたのは記憶に残っている。幸い二人は友好な関係を築けたようだが。
「ごめんなさい、今帰ります」
既に帰り支度を整えていたのか、鞄を手に立ち上がる。
「ああ、…………気を付けて帰れよ、最近はその、物騒だからな」
何故か胸騒ぎがして途中まで送っていこうか?と言いそうになったのを飲み込む。心配ではあるが、それは十影の自尊心を傷付ける事になる。
「はい、何かあったら学校に逃げ込みますよ。先生もいますしね」
笑みを浮かべると、頭を下げて教室から出ていく十影。
「…………ふむ」
少なくとも信頼はされているらしい。
嬉しさとあの態度は過保護過ぎるか、などと考えながら黒瀬は次の教室へと向かうのだった。
1/2
───────2009年、6月初旬夕方。火蜥蜴学園。
梅雨の季節、朝から降っていた雨は昼過ぎには止み、澄色の光が火蜥蜴学園の廊下を照らしていた。
部活終わりに帰宅する生徒達とすれ違い、各々挨拶を返しながら黒瀬は自身の受け持つ2年C組の教室へと向かっていた。
「あ、黒瀬先生!」
後ろからの声に振り向くとそこには見知った三人組の姿があった。
松山茉莉、竹内太桜、梅村海深。松竹梅、などと呼ばれることもある黒瀬の受け持ちである三人の女生徒だった。
松山が手を振りながら黒瀬に向かい歩き、少し離れて竹内はペコリと頭を下げている。……梅村は竹内の後ろに身を隠すような姿勢だったが、黒瀬と目があったのに気付き静かに会釈をする。
梅村海深はどこか黒瀬に苦手意識があるのか、距離を取っているようだった。
それは黒瀬も知っているが、何か問題があるわけではなく無理に距離を詰める必要はないと考えていた。
だが人として何が悪かったか、程度に気にする機敏はある。
早い話、珍しく人並みに傷ついてはいた。
「珍しいな、松山。部活終わりか?」
「ボクは先生と違って忙しいからね」
「確かに部活の顧問はやっていないが、代わりに先生方の雑務を引き受けている。決して暇ではないぞ」
と、松山がキョロキョロと誰かを探しているよう様子に気付く。
「誰かを探しているのか?」
「……凄いね、分かるんだ」
「これでも教師をやって大分長い。十影か?」
驚く松山になんの事はないとでも言わんばかりに答える。実際には人の表情を読むのは裏の顔で培ったものだが。
「十影なら八守と下校しているのを見かけた。もう校内にはいないだろう」
「あー……だってさ、海深!」
「太桜ちゃん、声大きいよ……」
二人の様子、梅村の表情からおおよその推測は付くが、口に出しては野暮と言うものだろう。黒瀬ははて?と首を傾げて見せた。
「ほら、下校時間はもう過ぎてる。帰るぞ、二人とも。黒瀬先生失礼します」
「しかたないなぁ、さようなら先生」
「し、失礼します」
「ああ、さようなら。気をつけてな」
三人の後ろ姿を見送り、再び教室へと向かう。
───────2009年土夏市、旧土夏。5月深夜。
街灯すら疎らな裏通りをウィンドブレーカーを着てフードを被った一人の男が走っていた。
時折酔っぱらいや所謂不良達が男とすれ違うもこんな深夜に走る男をいぶかしむことさえない、まるで男の存在に気づいていないかのようだ。
(あぁそうともそれで良い。今の私、俺はあってないようなものだ)
男、火蜥蜴学園現国教師黒瀬正峰は時たまこうして夜の闇の中を走る癖があった。ストレス解消と言う訳ではない。
ただ時々自分が何者なのか、そう言う悩みを感じた時にはこうして夜の街を走るのだ。今回の原因は本家に旧土夏の怨霊祓いを頼まれた事だった。
(私は退魔でも祓い屋でも魔術師でもないと言うのに……)
苛立ちと鬱憤めいた思いを胸に無心で走る。こう言うときに思い出すのは恩師である先生の言葉だ。
ねぇ黒瀬くん、これから先、生きてれば自分が本当に正しいのか悩んだり或いは自分を見失ってしまうこともあるでしょう。
……貴方の在り方はきっと人に影響されやすいから。
そう言う時は走りなさい。なにも考えられなくなるまで走りなさい。
そして何か考えられるようになった時に最初に思った事。それが嘘偽りのない貴方の本心って奴よ。
「はぁ…はぁ……」
かれこれ数時間数十キロは走って息切れした正峰は街灯の元で息を整える。
(そうだ……そろそろ中間テストだ。 今から問題をつくっておかないと。 今度は例文を見てどう思ったか、個人の思いを述べなさい。なんて問題の配点は5点位にしないと主任や校長にまたお小言言われるな……)
そこでふっ、と苦笑した。
良かった自分は教師だ、少なくとも自分はそう思っている。
そこでポケットから取り出した護符を見る。
(ならこんな野暮用はさっさと済ましてしまおう)
息を整え終えた正峰は目的地に向けて今度は憂いなく足を動かしはじめた。
第五次土夏市聖杯戦争の開始する2ヵ月か前の事だった。
2/2
「…………嘘をつくのは止めなさい!!」
先生の怒鳴り声に驚き、黒瀬の肩がピクリと動いた。
「なんで、嘘だって疑うんだよ」
意図的に声を震わせる、出来るだけ繊細な思春期の少年を装う。
「それ、他の人には通じても私には通じないわよ、黒瀬くん。 何しろ私の方が嘘つきだから」
座り込んだ黒瀬の肩を掴み、じっとその眼を見つめる。
黒瀬の心臓の鼓動が早まる。嘘を見抜かれたからか、それとも
「私は貴方が何をしてるか大体把握してるけど、それを糾弾するつもりはないの」
眼を真っ直ぐに見つめて先生は続ける。
「貴方が学校に来ないのも、家に帰らないのも貴方の意思ならそれでいいとさえ思ってる。ただ、自分に嘘をついて逃げるのは止めなさい」
「おれは、別に嘘なんて……」
まるで心の奥底を見抜かれたようで、思わず口ごもる。
「それがまず嘘。 ……黒瀬くん、貴方に言いたくない、言えない事情があるのはなんとかなく分かる。それを人に相談出来ないことも」
「でも今の貴方は周りが気に入らないから好き勝手してるって自分に嘘をつき続けてる。 黒瀬くん、嘘って言うのはね、人だけでなく自分も傷つけるのよ」
「センセー……俺、どうしたらいいかわかんねぇんだよ……家にいても学校にいても街にいても誰も俺を、俺自身を見てくれねぇ……俺、どうすりゃいいんだ?」
先生の真っ直ぐな眼に堪えきれず遂に眼を反らした。
感情が溢れ出て涙が出てくる。
「黒瀬くん……………甘えるな!」
ばちん!と平手が一発
「…………はぁ!?なんで!?」
「貴方の事情を相談しないんだからどうすればいいかなんて私に分かるわけないでしょ!」
思わず仰け反って混乱する黒瀬に先生は続ける。
「まずは話せる範囲で話して見なさい!そして一個一個解決法を探るの!ほら、立ちなさい、夕飯もまだでしょ?奢るわよ」
右手を黒瀬に向かい差し出す。
「……無茶苦茶言うね、『先生』。何奢ってくれるの?」
少し考えて、先生の手を掴む。
この人はきっと自分の事情なんて分かりもしない、でも先生は自分を見つけて話してみろと言ってくれた。
なら、話してみよう。全ては無理でも少なくとも多少は解決の手助けをしてくれるかもしれない。
「ラーメン!餃子もつけていいわよ!」
「半チャーハンは?」
「……まぁ、いいわ」
黒瀬の顔に久しぶりに心から笑みが浮かんだ。
はじめて信頼してもいいと思える大人に出会った気がした。
1/2
───────1991年、長野県某市。7月。
「やっと見つけた!」
ショートカットの女性が繁華街の裏手で大声を上げ、通行人が首を傾げながら通り過ぎる。
「………また、あんたかよセンセー」
女性に声を掛けられた男、少年はウィンドブレーカーのフードを外すとため息をついた。
「また私よ、って言うか私以外に気に掛けてくれる美人教師いるの、黒瀬君?」
「すっげー自信、センセー鏡見たことある?」
女性は少年、黒瀬のセンセー、先生であるらしい。親しい様子で話すとやれやれと言わんばかりに路肩の自販機の前に座り込んだ。
「で、君は学校には来ない!家にも帰らない!なにやってるわけ?」
「別に関係ねぇだろ、誰にも迷惑かけてねぇ、なんか飲む?」
座り込んだ黒瀬に怒りを隠せない先生。
その言葉に耳を貸すつもりはないのか、黒瀬自販機で飲み物を買った。
「要らないわよ、迷惑掛けてないっていうけどね、君。そのお金どうしたの?」
「拾った」
もう一度座り込むと缶コーヒーのプルタブを開け、口を付ける。
今使っている財布は街中金を持ってそうなチンピラからスったものだ。
自分の起源からしてどうせ証拠は出てこないし、捕まらない。
(……苦っ、良くこんなもん好き好んで飲んでるな)
粋がってブラックコーヒーを買ったが、口に合わなかった。
②
「先輩は………暮らすとなるとまず自分のテリトリーを作るタイプなんですね………」
「そうだね。むしろ魔術師なんてみんなそんなものだよ。自分のとっての世界を造っている、みたいな感じかな」
「世界?」
「そう。私からすると、この部屋のここからあそこまでが私の簡易的な工房。ここからここまでが私の居住スペース。
きっぱり分けているけれどどちらが欠けてもダメ。東洋的には陰陽合一の理念に近いかな。全部が相まって私にとって有利な世界を形成しているの」
指差されるままに視線を動かす。言われてみれば、客間はまるで真っ二つに分けられたように雰囲気を二分していた。
鉢植えのある一方は鉢植えの他にも怪しげな術具や木枠に並べられたドライフラワー。整理整頓された書籍など、いかにも魔術師らしい空間になっていた。
反対側、ベッドのある方は………さて、なんと言うべきか。意外とと言うべきか。思った通りと言うべきか。
色使いや小物など、多くが丸みを帯びたファンシーという概念に満ちている。女の子しているというか。とにかく可愛らしい感じだ。
俺にとって最も身近な女性である流姉さんがあの惨状なので、こういうのは未知の雰囲気だった。男としてやや居心地悪さも覚える。
「だから、私はここでは外にいるときよりも魔術師としていくらか強い力を発揮できる。
レッスン1。自分にとってなるべく有利な状況を整えるというのは魔術師としての考え方として重要なのです。覚えておいて。
十影くんで言うと………あの温室がそれじゃないかな?あそこにいて居心地いいと感じるんじゃない?」
「まぁ、あそこにいると確かに落ち着きは覚えますね。………ん?なんだこれ」
ふたつめのダンボール箱を開けると、中には布製の何かが詰まっていた。無造作に取り出す。
その形状を見て、俺は首を傾げてしまった。
「………サメ?」
「………ッ!サメリアッ!!」
瞬間、セイバーが踏み込んで放つ神速の袈裟斬りもかくやという速度で俺の手元からそれは奪い取られた。
がるるる。手負いの獣のように威嚇する先輩がひっしと抱きしめているのは、明らかにサメらしい形状のぬいぐるみである。抱き枕サイズ。
雌熊となって俺への敵意を見せていた先輩だったが、ふとしたタイミングで我に返ったのか。慌てて取り繕い出した。
「な………なんでもないよ?そう、部屋のインテリアだから。このぬいぐるみも。ほら可愛いでしょサメ。サメって可愛いよね。
だけどいい?君は何も聞かなかったし見なかった。サメリ………サメのぬいぐるみを私に渡しただけ。そうだよね?」
「………ハイ、ソウデスネ」
………と。俺は平坦な声音で答える他なかった。
先輩は俺にそう言い含めている間にも、強火にかけた薬缶みたく湯気を吹き出しそうな勢いで顔を真っ赤に染めていたからだ。
先輩とそのぬいぐるみの間に如何な真実があるのか―――問えば殺されそうだったので面白がって問いかけるチョイスは俺にはなかった。
追伸。照れる先輩はびっくりするほど可愛かったと付け加えておく
①
『先程百合が段ボール箱を抱えてあちらへ行ったのだが………テンカ、話は聞いているか?』
セイバーの報告を受けて、俺は一目散に教えられた方へと向かった。
何考えているんだあの先輩。この家にいったい何を持ち込んだというんだ。
スリッパで床をぺたぺた叩きながら小走りで廊下を横切る。
………気配を探っていた俺の耳に飛び込んでくる、ガラスとガラスがぶつかり合うような涼やかな音。
急いでいた足がある客間の前で止まることになった。
長らく―――それこそ、間違いなく18年間は定期的に掃除しに来る俺以外誰一人入ったことのない部屋から物音がする。
なんだろう。妙な緊張感がある。俺は恐る恐る客間のドアの前に立った。
ノックをしようと腕を上げてから考え直し、その手でノックをせずにそのままドアノブを握る。
ゆっくりとドアノブを捻り、そうしてほんの少しだけ扉を開けて隙間からそっと部屋の中を覗き見た。
―――俺の知らない部屋があった。
正確には間取りなどは記憶の一致しているのだが内装はすっかり変わってしまっていた。
最低限のものしか置かれていなかったはずの客間にはすっかり物が溢れ、混沌とした世界になっている。
まず気になったのは部屋全体に漂う香りだ。俺の温室に負けず劣らずの独特の芳香がドアの隙間から漏れてくる。
正体は言わずもがな。これでもかと部屋の隅に並べられた鉢植えたちだ。
色とりどりの花々が何らかの規則性を以てずらりと配置されていた。よくよく見ると、鉢植えの下には何やら魔術の陣が………。
「………って!?じ、絨毯!絨毯の上に!直接!?なんてことを!?」
そんなことをしたらシミになってしまうじゃないか!大問題だ!
洋館と絨毯の平和を守るため、こっそり覗いていたことも忘れてドアを開け放ち鉢植えのある方へ踏み出した。
2歩、3歩………。辿りつきそうになったところで、俺の背中から声がかかった。
「そこ、時間を弄って花の成長速度を調整してるし、一応結界で施錠もしてるから断りなしに踏み込むと危ないよ?」
「え………」
きょとんとなって振り向くと、腕組みをした百合先輩が俺のことをどこか呆れたような顔をしていた。
トパーズの瞳が生暖かい温度になってとろんとこちらを見ている。
「そもそも女の子の部屋にノックもなしに踏み込むというのは正直感心しないなぁ、トカゲくん」
「トエイです、じゃなくて………え、その………すみません………?
じゃなくて!どうして先輩はこの客間を自分色に染め上げようとしているんです!」
俺の中では完璧な指摘だったが、百合先輩はそれをまるで見当違いなことを言った学生を見る教師のような表情でひと睨みした。
「何言ってるの。仕方ないから最後まで面倒を見るって私は言って、君も頷いたでしょ?
ならどうしようもないくらい半人前な十影くんをせめて魔術使いと言えるくらいには引っ張り上げないといけないじゃない。
時間なんてかけていられないから超突貫の即席コースだよ。というわけで店とは往復することにしてしばらくここに泊まり込むから。
三食分の食事は任せるね。どちらかといえば中華が好みだけど献立に文句まではつけないし美味しいのをお願い。
そうそう開けていない荷物がまだあるから手伝って十影くん。大丈夫、魔道具はまっさきにやっつけたから後は日用品だけで危険はないよ」
立て板に水を流したようにつらつらと述べると百合先輩はそれが当然のように未開封の段ボール箱を指差した。
こう言われるとなんだか先輩が正しい気がしてくるから不思議だ。
我が家の一部屋が今まさに占拠されようとしていながら、『まぁ仕方ないか』という気分になってくる。
釈然としない思いを抱えながら俺はガムテープで封すらされていない段ボール箱の蓋を開けた。
なるほど言われたとおり百合先輩の私物と思しきものがたっぷりと詰まっていた。………もう1泊か2泊するとかいうレベルじゃない。
気分は一人暮らしを始めた大学生。これだけあればあとは電化製品さえ揃っていれば生活できてしまうだろう。
「ふぅん。いやに素直に信じるんだね。ひとまずの協力関係とはいえ私は君のサーヴァントじゃないんだよ」
「だって、キャスターは筋の通らないことは嫌いでしょ?
自分からそれを捻じ曲げるとは俺には思えないよ。
それに他ならぬキャスターが編んでくれた礼装だ。織り手アラクネの外套なんて凄く心強いよ。ありがとう」
「―――…………」
何故かキャスターは口をぱくぱくとさせた後、眉を寄せて俺を睨んだ。
菫色の髪を神経質に指へくるくる巻きつけ弄んでいる。何かを誤魔化すかのように。
こころなしか、キャスターの白い頬にはいくらか赤みがさしているようだった。
「君は、なんだ。誰にでもそういうことを言うんだね」
「誰にでもって、そんなわけないじゃないか。
確かにこの関係が終われば敵同士かも知れないけど今は味方だ。なら本音だってぶつけるよ。
最初こそ酷い目に合わされたけど、あなたには世話になった。ならきちんとお礼を言わなきゃ気がすまない」
キャスターは自分の髪を弄んでいた指で頬を掻くと、くるりと後ろを向いた。
「………やれやれ。この私としたことが可愛いだけの子犬と見誤ったか」
俺には聞こえない独り言を呟いて、それから横顔だけ見せて微笑んだ。困ったように、眼尻を下げて。