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十影さんちの今日のごはん

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「」んかくん
作成: 2020/06/22 (月) 01:56:32
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「」んかくん 2020/06/24 (水) 01:34:44


ここで待っていてくれ。
そう円が言うから俺は松原寺の山門へと続く長い石段の麓でぼんやりとしていた。
石段を延々と囲む生い茂った木々のお陰でここは日陰になっていて、だいぶ秋も深まってきたこの時期だとやや肌寒い。
そうやってママチャリのサドルに尻と体重を預けたまま待つこと10分だか15分だか。
石段を軽く駆け足で降りてきた円の荷物に俺は首を傾げることになった。
「面目ない。待たせた」
「………なにそれ?」
円が持ってきたのは一抱えの保冷バッグ。飾り気のない真っ青な色のやつである。
百聞は一見に如かず、と円がその保冷バッグのチャックを開けて中身をこちらへと見せてきた。
その中身を見てさらに俺は漫画的表現に依るところの疑問符を頭上へ浮かべることになるのであった。
「え………肉………?」
「端的に言えばそうなるか」
円がいつもの仏頂面で小さく頷く。
まさか寺の子がこんなものを手渡してくるなんて思いもしなかったのでつい思考が停止してしまった。
保冷バッグの中にはいくつかの保冷剤と一緒に鮮やかな牡丹色をした肉が真空パックに詰められて放り込まれていた。
どうやら既に加工済みらしく、肉はスライスされた状態で並べられ平べったい板切れのようになっている。
なんとなく豚肉っぽい印象も受けたが、家畜のそれとは違う脂の付き方が違和感を俺へ与えていた。
「お前が渡したかったものってこれか………?いや、まあ、肉をくれるというのはありがたい話だけどさ。なんでまた」
「言わんとするところは分からないでもない。坊主の息子が贈呈する品としては少々生臭さが過ぎるのではないかということだろう」
「そこまでは言わないけど驚いたのは確かだよ」
ふむ、と円が軽く一呼吸置く。さてどこから説明したものだか、と見当を付けているように見えた。
だが円の頭の回転は早い。黙っていたのは一瞬だ。保冷バッグの口を閉じながら円はすらすらと理由の説明を始めた。
「私の父が境内の隣りにある畑で菜園を営んでいることは知っているな。まあ、元を正せば以前の住職が拓いた畑なのだが」
「それは知っているよ。ありがたいことに何度かおすそ分けしてもらってるしな」
たまに円は俺へ菜園で採れたという野菜を分けてくれる。毎度結構な量があるのだがうちは健啖家が多いのであっという間に消費されるのだった。
前回貰ったトマトとジャガイモは我が家で立派に野菜カレーとなりました。大変美味しゅうございました。
「御仏の加護に依るものか今年は豊作だったわけだが、秋の実りを甘受せんとするのは決して人間だけではないのだ。
 山の獣もまた厳しい冬を乗り越えるため多くの糧を欲している。生きるため人の田畑を食い荒らすのは罪ではないが、人間にとっての不都合でもある」
「あー………なるほど、そういうことか………」

11
「」んかくん 2020/06/24 (水) 01:35:01


ようやく俺にもこの保冷バッグの中身の正体が分かってきた。お察しの通りという顔をしながら円は話を続けた。
「食害が看過し得ぬ段階に至ってな。だいぶ荒らされてしまった。
 檀家のひとりに専門家がいてその方に駆除をご依頼したところ、先日駆除した獣の肉をご厚意でいただくことになったわけだ。
 寺とはいえ食肉を禁じているわけではないのだがなんせ量が多い。冷凍庫の肥やしにしてしまうよりは綺麗に食べてしまったほうがこの獣の御霊も浮かばれよう。
 というわけで、無理にとは言わないが貰ってくれるとありがたい」
「ふーん………ま、そういうことなら遠慮なく。ありがとう」
さして断る理由もない。円がそう言うのならばきっとそうなのだ。
差し出される保冷バッグをむんずと掴んでママチャリの籠へと押し込んだ。
いわゆるジビエの肉なんて初めて調理するが、まぁなんとかなるだろう。困ったらインターネットという文明の利器を利用しよう。
命を絶った後の処理の仕方で臭みが随分変わるというから狩ったという檀家さんの腕前を信じたいところである。
「わざわざ呼びつけて悪かった典河」
「電話でも言ったけど気にしないでよ。もともとこっちに用事があったんだ。その帰りなんだから何も不都合しちゃないよ。
 むしろこんな珍しいものを貰っちゃって悪い気がするくらいだ。お父さんによろしくな。………何かお礼が出来ればいいんだけど」
「父のことならいい。平素よりあまり肉類は口にされない方だから、うちでは内心一番お喜びだろう。
 ………そうだな。それでも強いて言うのであれば」
と。円は普段通りの落ち着いた表情でぽつりと言った。
「そのうち弁当を馳走して貰えれば嬉しく思う。お前の作るあの味をまた口にしたいものだ」
「いいけど、その程度なら言ってくれればいつでも作るぞ?」
「気持ちはありがたいが遠慮しておこう。一度理由なく受け取ってしまえば切りが無くなりそうだ」
確か文化祭前の委員会活動で円が遅くまで学校に残っていた時一度差し入れたことがあったっけか。
あんな前のことをよく覚えていたものだ。そんなに気に入ってくれていたのなら作り手の冥利に尽きる話である。
悪くない気分でママチャリのペダルに足を引っ掛けながら俺はハンドルを握った。
「分かったよ。それじゃ休み明けにでも用意してくる。またな、円」
「ああ。気をつけて帰れ典河。近頃は朝夜もめっきり冷え込む。体調には気をつけるのだぞ」
この秋にとうとう保険委員会長にまで昇りつめた男のありがたい気遣いへ手を振って、俺はペダルを押し込んだ。
晩秋の涼しい空気の中を自転車駆って家路へと急ぐ。太陽は中天へと差し掛かり、お昼時を示そうとしていた。

12
「」んかくん 2020/06/24 (水) 01:35:33 修正


「………ほう。猪の肉だな」
俺がキッチンで貰ったものを整理しているとひょっこりとセイバーが側に現れた。
しげしげと俺の手元を見つめるセイバーの出で立ちはパーカーにショートパンツというラフなもの。言うまでもなく部屋着である。
顕になっているしなやかな脚や緩い襟元から覗く細いうなじが目に入ると時折どきりとしてしまうのはここだけの話。
今日はみんな留守にしているからお昼はセイバーと二人きりだ。
「分かるのか?セイバー」
「かつてはよく食べた。旅の間や遠征中の現地調達でね。森の中に分け入って獣を狩って捌いたものだ。
 私は円卓の騎士としては外遊が多かったから野営する機会も多かったんだよ。
 大抵は骨付きのまま焼くか茹でるか、保存用に燻すかしかしなかったからこんなに丁寧に扱ったりはしなかったけれどもね」
真空パックを物珍しそうに手にとって眺めるセイバー。
肉を長く食べられるようにするといえば専ら燻製するか塩漬けにする時代の人だから真空パックがよほど不思議なのだろう。
「しかしこの時代では一般的に取り扱われているのは猪ではなく豚の肉だ。
 猪の肉は召喚されてから終ぞ食べたことがない。テンカ、これはどうしたんだ?」
「円が寺から分けてくれたんだ。畑の野菜を食べる害獣をとっ捕まえて肉にしたからお裾分けだってさ」
「なるほど。畑荒らしか」
合点がいったとばかりにセイバーは頷いた。
と、その時である。きゅるるる、と何やら可愛らしい唸り声がその場に響いた。
これがきっと俺が発信源ならばセイバーに恥をかかせずに済んだのだが、生憎と俺の肉体は何の音も発していない。
さすがに真空パックたちを整理していた俺の手もぴたりと止まったが、俺の相棒はそれどころではない凍りつき方をしていた。
ちらっと隣の様子を伺ってみる。………まあ、概ね予想通りだ。
ここには頬を熟した林檎のように赤く染めて俯きもじもじとしているセイバー以外、そんな風に腹の虫を鳴かせる人間はいなかった。
桜色の唇が震え、何やらごにょごにょと呟き出した。
「………ひ、久々に猪の肉を見て、昔日の味を思い出して………その、なんだ………」
「OK。今日はこいつを使って昼飯にしよう。
 とはいっても全部は食べられやしないから、こっちはみんながいる時に牡丹鍋にでもすることにして一旦冷凍だね。
 今から使うのは、こっち」
引き出しから取り出した調理用ハサミで真空パックを裂いたのは、スライスされてある方ではなくブロック肉が豪快に収められている方。
なかなか重量感のあるそれをまな板の上にずしりと安置させた頃、ようやく機能不全からセイバーは戻ってきた。
「それは………燻製肉か?」
「ベーコンも燻製して作るから、まあそういうことになるね。今日はこれでサンドイッチを作ります」
エプロンを装着して腕まくりすると早速調理を開始した。まずはベーコンをスライスして必要な分だけ切り出す。
今日はセイバーと俺のふたりだから二人分。せっかくだから気持ち多めに。
手持ち無沙汰にその作業を見ていたセイバーがふとこんなことを尋ねてきた。
「テンカ。こうして見ているだけというのもなんだ。私ができることがあれば手伝わせてくれ」
「ありがとう。それじゃ冷蔵庫からレタスを出して1枚ずつ洗ってからキッチンペーパーで水気を拭ってくれ。
 使いかけがビニール袋に包んであるからそれを取り出してね。使い切れるくらいの量だから全部拭いてくれていい」
「分かった。任せておけ」

13
「」んかくん 2020/06/24 (水) 01:35:51


そう言ってセイバーはいそいそと冷蔵庫から目当てのビニール袋を見つけ出すと俺の隣でレタスの葉を綺麗に磨き出した。
険しさこそないものの顔つきは真剣そのものだ。俺はといえばセイバーと隣り合ってこうして調理していることに妙なくすぐったさを感じていた。
「………いけない、いけない………」
セイバーは真面目にやっている。変な邪念を覚えている場合じゃない。
フライパンを取り出してベーコンをその中に並べた。予熱は不要だ。こうして常温からじっくり弱火で焼くのがコツだ。
ガスコンロの火加減を最小に設定し、同時にトースターへ食パンのスライスを4枚突っ込んでスイッチを押す。
手を休めること無く冷蔵庫からトマトを取り出した。まな板の上で適当な大きさで輪切りに。
カットしたトマトはキッチンペーパーを敷いたトレイの上へ載せ、塩と胡椒を軽く振っておく。
こうすることで塩がトマトの余分な水分を出してトマトの味わいをより濃厚にしてくれる。ちょっとした、だが重要なひと手間だ。
続いてソース作りに取り掛かろうとして何気なくフライパンを見たところ、想像以上のことについ驚きの声を上げてしまった。
「凄いな、もうこんなに油が。普通のベーコンじゃこんなに出ないのに」
「分厚い脂を切り取って水で煮ることで獣脂を得るというようなこともかつてはしていた。特に今は秋だからたっぷり脂を蓄えている時期だろう」
一滴の水分も逃さないという目つきでレタスを拭っているセイバーがこちらを見ずに言う。
ふぅんと感嘆の溜息を漏らしながらベーコンから溢れ出た油をキッチンペーパーで拭って吸いあげる。
こうしておかないと、ベーコンから出た油が高温になってせっかくのベーコンが焦げ付いて台無しになってしまうのだ。
危ないところだったと胸を撫で下ろしながらベーコンの表裏をひっくり返し、改めてソース作りに取り掛かった。
小鉢にマヨネーズを絞り出したら醤油を加え、さらにチューブのわさびを絞り出してスプーンでよく混ぜる。
ソースにむらが無くなった頃、チンと小気味良い音を立ててトースターが食パンの焼き上がりを告げた。
「あちちっ」
「テンカ?」
「いや大丈夫」
指先を火傷しそうになりながらトースターから食パンを取り出し、まな板の上へ。
食パンがまだ熱いうちに無塩バターをバターナイフで薄く塗り伸ばしていった。
バターを塗るのはパンをより美味しくするためだけじゃない。油脂の膜を作ることで水分量の多い具材でパンがふやけないようにするという目的もある。
ここまで来たら後は挟むだけだ。セイバーらしい几帳面さで等間隔にトレイに並べられた瑞々しいレタスに俺は手を伸ばした。
食パンの上に置いたレタスの上にソースを塗り、後はトマト、ベーコン、再び食パンの順に挟む。なるたけ水分にパンが触れさせないようにするのが鉄則。
爪楊枝を突き立てて挟んだ具材を固定し、そのまま包丁でざっくりと三等分にした。勿論切ったら爪楊枝は抜いておく。
同じことをもう一度繰り返し、それぞれを2枚の皿に盛り付けた。なんとなく雰囲気を出したくてポテトチップスの袋を開けて付け合せに何枚か添えておいた。
「………よし。これで完成」
「おお。では」
「ああ、早速食べてみよう」
食卓に皿を2枚。セイバーと向かい合わせに置いて座った。
家の中は他に誰もいないので俺たちが立てる音しか響かない。なんでもないことのはずなのに、なんだか特別な空気感だった。

14
「」んかくん 2020/06/24 (水) 01:36:06


「というわけで、猪肉のベーコンを使った和風ソースのBLTサンドです。召し上がれ」
「ああ。ではテンカ、いただきます」
ぴたりと指先合わせて合掌したセイバーがサンドイッチを手に持って齧り付く。
「………」
セイバーはあくまでいつも礼儀正しい。折り目正しくマナーを守る。例えばこんな時、口の中にまだ食べ物が残っているのに喋ったりはしない。
だけれどもセイバーがどう思ったかなんて彼女が喋らなくたって分かる。
眼尻が下がり、視線が柔らかくなる。瞳の奥に優しい光が宿る。快く感じ心のなかで微笑む時セイバーはいつもそんな目をするのだ。
やがて喉の奥に咀嚼していたものを仕舞い込むとようやく言葉によってセイバーは喜色を表した。
「素晴らしい。具材同士のコントラストが感動的だね。それぞれが主張し合っているのに決して互いが互いを貶めていない。
 むしろ互いに称え合っているようじゃないか。これら全てを引き立てているこの爽やかな辛味は………ワサビかな?」
「ああ。マヨネーズに少し醤油とワサビを加えて混ぜただけのものなんだけど、簡単なのに本格的な味になるでしょう。
 まあBLTサンドってほとんど宗教じみてるくらいにいろんな作り方や意見があるくらい鉄板の組み合わせだからなぁ」
俺もセイバーに続いてむしゃむしゃと手元のサンドイッチに齧り付く。うん、ちゃんと美味い。
この味をもっと他の住人たちと共有したかった気持ちがある一方で、セイバーとこれを独占していることに嬉しさも感じるから何とも言い難い。
早くも二口目を飲み込んだセイバーがサンドイッチに視線を落としながらふと遠い目をした。
「それに………この剛毅さ、粗野なれど卑しくはない荒々しさ。このサンドイッチには野に生きるものの味わいがある。
 昔日の私が口にしたものと味こそ違うが、確かにこれは野営の焚き火を前にして口にしたあの時の命たちに通じている」
「……………」
俺にとってはこのベーコンの味わいは『普通のベーコンとは何か違うもの』でしかない。
豚のベーコンのように品種改良によって培われた繊細さが無い代わりに自然の力強さを感じるような脂の甘味を感じるだけだ。
だがセイバーにとってはそうではなかったようだ。なんだか懐かしそうな目をするセイバーへ気がついたら声をかけていた。
「なぁ、良かったらその時のことを聞かせてくれないか?セイバーが辿った旅の話をさ」
「うん?それほど面白い話はないよ。テンカを退屈させるのは本意ではないんだけれど」
「俺はセイバーのしてくれる話ならなんだって面白いよ。退屈なんて絶対しない。セイバーは俺にとって大事な相手なんだから」
「………―――」
一瞬不意をつかれたような顔をしたセイバーは、だがすぐに秋の日向のような輪郭のぼやけた丸い微笑みを浮かべた。
「―――仕方ないな。でもまずこのサンドイッチを片付けてからだ。出来たてを食べ逃したら、後々大いに後悔しそうだからな―――」

15
「」んかくん 2020/06/30 (火) 21:01:31


俺がポロシャツの袖に腕を通している間に流姉さんはカルテを書いていた。
「状態は問題なし。これまでのことを考えると油断しちゃ駄目だけど最近はずっと良い傾向が続いているわね」
ボールペンでぐりぐりと記録を書き込んでからこっちを向いてにっこりと笑う。
どことなくその笑顔の影に安堵のようなものを見出してしまうのは長年の付き合いだからだろう。
その心配を感じ取ると以前はちくりと胸に刺さるものがあったが、今は少しだけ素直に受け取ることが出来るようになっていた。
流姉さんの笑顔へ応じるように俺もくすりと微笑んだ。
「だといいんだけどね。大丈夫、ちゃんと薬は常備しているよ。気は抜いてない」
「ま、てんちゃんに関してはそこは心配してないわ。もともと慎重だったもんね。
 じゃぁいつものお薬だけ出しておくから、薬局で受け取ってちゃんと飲むこと」
そうぴしりと言って処方箋を印刷機にかける流姉さんは実に凛々しい。
スクラブを着て聴診器を首に引っ掛け、患者ひとりひとりに真摯に接するその姿はまさしく立派な杵崎流内科医師である。
………本当に医師としての流姉さんは尊敬出来るのだが、この診察室に来る前のことを思うとその敬意に陰りが差すのであった。
カルテの続きを書いていた流姉さんが診察室の隅っこの椅子にちょこんと座っていたニコーレへ視線を向けた。
「で、なんでニコちゃんがここにいるの?」
「何言ってるのよリュウ。私はトエーの付き添いよ。私たち、あなたの汚い部屋を綺麗に掃除してきた帰りなのよ」
「うっ」
その幼げな風貌からは思いがけないはきはきとした口調で理由を告げられた途端、一回りくらい流姉さんの存在感が萎んだ。
事実でござる。我々は正午前の診察を受ける前に近所のマンションへ立ち寄り流姉さんの汚部屋を片付けてきたのでござる。
すっかり足の踏み場もないほど物の散乱した部屋はとても三十路独身女の部屋とは思えなかったでござる。さらば婚期。
「生ゴミだけはなんとかゴミ袋に突っ込んでいるのがギリギリ評価点ね。
 あとは脱ぎ散らかした服に読んだままで放り投げられた本、ごろごろ転がった酒瓶………。恋人が見れば百年の恋も覚めるわ」
「こ、恋人なんて仕事が忙しいからいません!院内にいい男がいないのが悪いんですぅ―!」
「責めてるのはそこじゃないわよ!」
噛み合わない会話にぷんすかとニコーレが怒った。外見12歳、実年齢24歳に叱られる女医32歳。
ふたりは馬が合うらしく、放っておくと流姉さんとニコーレはいつまでも漫才を繰り広げてしまう。
流姉さんはまだ仕事中だし、このあたりで心を鬼にして流れを断ち切っておくのが俺に求められている役割だろう。
「はいはいそこまで。流姉さん、それじゃ俺たちはこれで。今晩はどうする?」
「ん、夜勤は入ってないし何もなければてんちゃんのお家にお邪魔するわ。今日は肉を食べたい気分ね~」
「肉ね、考えておくよ。診察ありがとう、流姉さん」
肉か。流姉さんが前回うちで夕飯を食べた時は鶏肉だったから牛か豚にするとして、さて何を作ったものか。
まだ財布と携帯電話しか入っていない買い物袋を手にして立ち上がると流姉さんが呼び止めてきた。
「そうそうてんちゃん、はいこれ部屋掃除のお駄賃。これでお昼は美味しいものでも食べなさいな」
「………?別に普段から貰っちゃ無いんだから構わないよ?」
1000円札を3枚握らされてつい首を傾げてしまう。
切っ掛けはもう覚えていないが流姉さんの部屋の掃除は俺が自主的に行っていることだ。
放っておくとゴミ屋敷化しかねないので強制執行とも言う。
首を傾げる俺の側に眠たそうな目をしたニコーレがするりと寄ってきて胡乱げに告げた。
「要するにリュウは夕飯も奮発してねと忖度を求めているのよ。嫌ね、たったこれっぽっちで厚かましいんだから」
「これっぽっちって何よー!?3000円を笑う子は3000円に泣くのよー!!」
「分かったってば。じゃあね、流姉さん」
これ以上ここにいたら長々と話し込んでしまいそうだ。
差し出されたお札を受け取ると、俺はニコーレを連れて土夏総合病院の流姉さんの診察室を後にした。

16
「」んかくん 2020/06/30 (火) 21:01:47


せっかく新土夏まで来たのでショッピングモール・アトムで買い物を済ませることにした。
餌を探す回遊魚のように生鮮食品のコーナーを漫然と眺めながらゆっくりと歩く。
昼と夜の献立を思案していたところ、その小さな体躯で何かを抱えたニコーレが俺のところまで帰ってきた。
「体調が良くなってる、か。まぁ、リュウはもちろんいくら高名な医者だろうと魔導に通じていなければ原因は分からないでしょうね」
そう呟きながらニコーレは俺が押すカートの買い物かごへ何やら積み上げた。瓶詰めのやたら高そうな果物ジュースだ。何の躊躇いもない。
買うのも俺なら持って帰るのも俺なのだが、そんな些末なことは俺がやって当然という顔をするのがニコーレである。
師匠の身の回りの世話を弟子が行うのは当然という論法らしい。そう言われては何も言い返せない。魔術師の上下関係は厳しいようだ。
「仕方ないよ。流姉さんはただの内科医だ。魔術の世界とは全然関係ない人だもの」
「そうね。少しでも知識があればトエーが『毎日致死量の猛毒とそれを中和しきる薬を一緒にがぶ飲みしてたようなもの』って分かるんでしょうけど」
ニコーレの乱暴な例え方につい押し黙ってしまう。
ニコーレや百合先輩にも散々言われたことではあるのだが、未だに実感は無い。生まれたときからの付き合いだからだろう。
より正確に言えば、こうして聖杯戦争が終わってようやく落ち着いて振り返ることが出来るようになったといったところだ。
俺の顔を見上げるニコーレがひときわ真面目な顔になって言った。
「何度も言うけれどトエーの調子が今いいのは自分の能力に自覚的になって研ぎ澄ませようとし始めたからよ。
 自分の体が大事ならこれからも努力を怠らずきちんと修行に励みなさい。いいわね」
「分かってますよ、ニコ先生。自分のことだからね。気をつける。
 とはいえ、今悩みたいのは魔術よりも昼飯と夕飯のことなんだよね………」
とりあえずここまでに常備の野菜、キャベツだとか玉ねぎだとかは買い物かごに放り込んだ。
が、そこからが定まらない。パック詰めされた真っ赤な肉たちがずらりと並ぶ肉類のコーナーでつい考え込んでしまった。
「それって献立の話?リュウは夕飯は肉がいいって言ってたわね」
「ああ、そっちはせっかく追加予算もあるしステーキ焼くかトンカツ揚げるかでいいかなと思ってるんだけど………。
 お昼はどうしたものかな。ニコは何か食べたいものとかある?」
「私?そうね………」
生鮮食品たちを物色しながらてくてく歩くニコーレの後をカートを押しながらゆっくりついていく。
特注のビスクドールみたいに整った容姿をした少女であるニコーレはこの土夏市では否応なしに人目を引く存在だが、周囲の視線などお構いなしだ。
訂正。少女と呼ぶべき実年齢ではないが少なくとも見た目は少女だ。閑話休題。
そんなわけでニコーレは外見と年齢の乖離が激しいのだが、目の前のどことなく弾んだ足取りは何故か子供っぽくはしゃいでいるふうにも見えた。
「そういえばこの前の生魚のスライスは驚いたけれど美味しかったわね。確か刺し身だったかしら。………まぁ、変な顔」
そう言って鮮魚コーナーの細かく砕けた氷の上に置かれた魚とにらめっこをしている。
共に暮らしだしてよくよく思い知ったのだが、ニコーレはちょっとびっくりするくらい世間知らずのお嬢様だ。
うちの部屋に居座るまでこんなスーパーなんて足を踏み入れたことは無かったというし、日本食、まして生魚なんてもってのほか。
日本食ブームの昨今、意外だと思いきや魔術師の間ではこういうのは常に一定層いるんだとか。まことに複雑怪奇なのである。
そんなニコーレなのだが最近彼女が好む味の傾向は掴めつつあった。
かなりはっきりした味の方が美味しいと言う。薄味や刺激物といったものにはあまり興味を示さない。
要するに味覚に関しては外見相応に子供舌なのだった。指摘したらきっと怒るから言わないけれど。
刺し身だって美味そうにぱくついていたのは白身魚ではなくサーモンだ。きっと鰹にマヨネーズ塗っても大喜びするはず。
「しかし、そっか。生の魚に苦手意識は無いんだよな………。だったら………」
「何か言った?トエー」
ぶつぶつと口にした俺の独り言を聞きつけてニコーレがきょとんとした顔をした。
後ろに注意しながらカートをバック。鮮魚を水揚げされたまんまで並べてある一角から加工済みの切り身をパッキングしたコーナーへ。
陳列されてあれば御の字といったところだけれど………と、探すまでもなくそれは目立つところに置いてあった。
「決まり。ニコ、今日のお昼は魚にしよう。それも火を通さない、生のやつ」
「生?なら刺し身ってことかしら?」
刺し身はどうやら悪くない記憶にカテゴリされているらしく、きらりとニコーレは期待で瞳を輝かせた。
しかし俺はその眼差しに対して首を横に振りつつ、マグロの色艶美しい赤身の柵をむんずと掴み取るのだった。

17
「」んかくん 2020/06/30 (火) 21:02:22


「というわけでセイバー。これかき混ぜていてくれ」
「うん。任せてくれ」
「捏ねちゃ駄目だよ。しゃもじで切るようにね。全体に馴染んだと思ったら団扇で扇いで冷ますんだよ」
「分かった。テンカのため最善を尽くそう」
そうしてお願いすると真剣な表情で一生懸命寿司桶の中のお米を混ぜっ返してくれる、そんなセイバーが俺は好きだ。
酢飯は最優の騎士がきっと完璧に仕上げてくれるはずなので俺はそれ以外の作業に取り掛かった。
家に帰って手を洗いエプロンを装着する最低限の身支度をした俺がまず最初にしたのはマグロの柵をサイコロ状にカットすることだ。
漬ける時間が必要なので昼食に間に合わせるにはこの工程は急がないといけない。
ボウルに醤油とごま油を注ぎ、少量の砂糖を加えてよく混ぜ合わせる。このタレにカットしたマグロを放り込んでラップをしたら冷蔵庫へ。
ここまでがセイバーに酢飯制作を頼む以前に駆け足で片付けた工程。とはいえ、ここが肝心要なので後の作業はそう多くない。
俺が冷蔵庫の野菜室から取り出したのは洋梨のような形をした真っ黒い果実だった。
「トエー、それなぁに?」
尻尾1本動かすのも億劫という様子のリリスを抱きかかえて撫で回しながら調理の工程を見ていたニコーレが小首を傾げた。
その目の前で黒い果実へ縦に割るように包丁を入れる。さしたる抵抗もなく身の中心付近まで刃は通った。
「アボカド。というか、ニコも何度か口にしたことあるはずだよ。サラダに混ぜて食卓に置いた覚えがあるから」
「ふーん?あったような、無かったような」
「近頃は安くなったね。昔はもっと高かったような印象があるよ。美味しい上に栄養価も高いものだからありがたい話だ」
半信半疑というニコーレの視線を浴びながら包丁をぐるりと一周。
軽く切れ目を捻ってやれば熟しているのですぐに真っ二つに分かれる。断面の中央には特徴的な大きな丸い種。
その種に包丁の角を突き立てて揺すれば種は自然と身から抜け落ちた。
後は切った実から皮を摘んで剥いてやり、マグロと同じようにサイコロ状にカットすれば下準備は終わり。
表面が変色しないようにレモン汁を軽く振りかけ、使った調理器具や炊飯器の釜を片付けていれば20分ほど経過するのなんてあっという間だった。
即ち、冷蔵庫に保管しているマグロの身が良い塩梅に浸かる頃合いである。
「テンカ、こんなものでどうだ。均一に酢が行き渡り米が美しく輝いていると思わないか」
団扇で酢飯に風を送っていたセイバーがやや自慢げな表情で言った。なんだか可愛い。
「うん、大丈夫。完璧だよ、ありがとうセイバー。さて、じゃあ盛り付けちゃうか。
 ニコ!そろそろご飯できるよ!手を洗って食卓についていて!」
振り返って声をかけるとはぁいと間延びした返事がリビングの方から返ってくる。
片付けを始めたあたりでキッチンの様子を観察するのも飽きてテレビを見ていたらしい。
丼を用意するとまず冷蔵庫で漬けていたマグロを取り出した。ボウルにアボカドも入れ、軽く和える。
そうしたら丼にセイバーが丹精込めて作ってくれた酢飯を敷き詰め、マグロとアボカドの混合物を乗せていった。
卵を冷蔵庫から3個取り出してそれぞれ割り、黄身を潰さないよう慎重に白身と取り分ける。
まるきり白身が余ってしまうわけだが………これはこれで捨てずにニコーレの喜びそうなお菓子でも後で作ろう。
乗せたマグロとアボカドの上に黄身をひとつずつ、クリスマスツリーの頂点に星を飾るのと同等の緊張感を以てそっと置く。
あとは煎り胡麻と短冊状にカットした海苔、予め刻んでストックしてある万能葱を適量振りかければ―――。

18
「」んかくん 2020/06/30 (火) 21:02:33


「………へえ」
食卓の席にちょこんと腰掛けていたニコーレは目の前に置かれた丼に視線を落としてじっと見つめた。
「というわけで今日の昼食はマグロとアボカドの丼飯です。食器は箸でもスプーンでも好きな方を使って、どうぞ召し上がれ」
テーブルの上には丼が3つ。俺とセイバーとニコーレのぶん。実にシンプルな昼食である。
とはいえ彩りに関しては申し分ない。曰く、料理は赤・黄・緑の三色が揃っていると美味しく見えるそうだ。
その点これはマグロの赤、黄身の黄、アボカドの緑と完全に取り揃えている。手軽でありながら出来のいい料理だった。
「ふーん。あの紅い身の生魚がこうなったわけね。それじゃ、いただきます」
ニコーレはスプーンを手に取ると丼に突っ込んで掬い上げる。
マグロとアボカド、そして酢飯が乗ったスプーンがニコーレの小さな口に吸い込まれていった。
直後、驚く前に口元に手を遣ったのはお嬢様らしい高貴な仕草………なんだろうと思う。少なくともそう見えた。
「………美味しい。生の魚なのに生き物の臭みがまるで無いわ。
 ただひたすらに旨味がずしりと舌へ乗り上げてきて………いっそ暴力的ですらあるわね」
「マグロは生で食べるのが美味しいからね。半端に熱を通しちゃうと途端に食感がぼそぼそしちゃって、なかなか扱いが難しいんだけど」
「うん。それにこの果実のねっとりとした食感とコクがそれをなおさら引き立てている。
 そこに卵の黄身までもが加われば………テンカ、今日も君の作る食事は私を満足させてやまない」
そう評しつつ、セイバーは美味しいものを食べる時に浮かべるあのふわふわした笑顔を浮かべていた。
こちらは箸を器用に使って丼の中身を口に運んでいる。動かし方は非の打ち所がない。
サーヴァントが聖杯から与えられるという知識は箸の使い方まで教えてくれるのだろうか、彼女が箸の扱いに困っていたところを見た覚えはない。
まあ、なんでも天才肌を発揮してこなしてしまうセイバーのことだから独学で習得してしまったのかもしれないけれど。
「七味とかわさびとか加えればこれはこれで引き締まった味になるんだけど、ニコーレが苦手だからね。
 そこは個々人でお好きなように、ってことで。このままでも美味しいでしょう?」
「ええ!今のままでも十分美味しいわ、むしろこのままが好きよ。
 魚を生のまま食べるという文化も悪くないものね………スーにも作らせてみようかしら」
「いやそれは………どうだろ」
にこにこと満足げな笑みで丼の中身を頬張るニコーレには悪いが、あの女執事さんがこの飯を食べたら何と言うことやら。
最悪『何というものをお嬢様の口にさせて!』と怒られるかも。いや怒られないかな。分からない。
よほど舌に馴染んだのか早くも丼の半分ほどを平らげたニコーレがどことなく幸福そうな雰囲気で微笑んだ。
「ふむ。朝からトエーとデートをして、お昼は魅力的な食事。その上夜は豪勢な肉料理だったかしら?ご機嫌な一日ね」
「………デート?」
耳にした途端、丼の中身を脇目も振らずに口にしていたセイバーの顔がすっと持ち上がった。
聞き捨てならぬとじっと俺を見つめるその青い視線に感情の色が見当たらない。それが逆に怖い。
「確か今日は通院とのことだったががやけに早い時間帯から行くのだなと不思議に思ってたんだ」
「ち、違っ。それは流姉さんの部屋の片付け、ニコはその応援をしてくれたってだけで!」
「テンカ。そのような言い訳をしなくてもいい。テンカとニコーレはいわば魔術にあっては弟子と師という関係だ。
 多少親密であっても私から異論はない。異論はな。………ふーん………ふたりで………ふーん………」
まるで低温調理されるみたいにじっくりとセイバーの生暖かい眼差しで熱を通されつつある俺が慌ててニコーレを見る。
丼にスプーンを入れて口に頬張っていたニコーレは、俺の視線に気づくと小さく笑った。
「ふふっ」
外見相応でも、実年齢相応でもない。はにかんだような、軽やかで可愛らしい笑顔だった。

19
「」んかくん 2020/07/04 (土) 21:44:27


「あっつー………あつーい………なんだってこう暑いのかしらね………」
庭に面する縁側からやたら気怠げな声が上がった。
大窓を全て開け放った縁側の縁へだらしなく足を放り出して腰掛けているのは我らが流姉さんである。
今にも縁側へ伸びてしまいそうな流姉さんを2年くらい前の納涼祭の日付がプリントされた団扇が隣から風を送っていた。
送風機と化したセイバーは何も羽織らないキャミソール姿だ。剥き出しの鎖骨とか肩とか首筋とか、たまに視線のやり場に困る。
「ですがリュウ。今宵は風も吹いています。涼を取るには十分では?」
「いっつも涼し気な顔をしてるセイバーちゃんが言っても納得できなーい。
 だいたいこの家はてんちゃんの健康志向でなかなか冷房つけたがらないじゃない。みんな身体が慣れてるから平気なのよ。
 あたしゃ1日中ガンガン冷房かかった病院で仕事してるのよ?暑さに弱くなるのは不可抗力ってものよ」
「同意しかねますね流さん。私だって労働環境は似たようなものですけどこのくらい平気ですよ?
 夏場は室内も強めに冷房かけておかないと花なんてすぐ萎れてしまいますからね」
同じように縁側に座り、指で摘んだ線香花火がまばゆく火花を散らす様を見ていた百合先輩がにやりと笑った。
実際『クリノス=アマラントス』の店内はいつも涼しい。いや寒い。お花様に人間のほうが快適温度を合わせるのである。
ちょっと心配になるくらいなので百合先輩は我が家では是非人間にとって快適に過ごしてほしいものだ。
なかなか同意を得られないことにが不服なのか、流姉さんはこの縁側に並んで座る最後のひとりに狙いを定めた。
「なっつんはどう?あたしがぶーぶー文句を言っても許されるくらい暑いと思わない?
 歯止めのかからない地球温暖化と日本の亜熱帯化に警鐘を鳴らしたくならない?今すぐこのリビングに冷房を効かせるべきだと決意しない?」
「えっ!?けほっこほっ………えっと、どうなんでしょう?」
急に話を振られた棗はちょうどお盆の上でびっしりと汗をかいていた麦茶のグラスを煽っていた。
話が自分に向いてくるとは考えていなかったらしい。少し噎せてから慎重にお盆の上にグラスを戻し、困ったように微笑んだ。
「ここのリビングは広いですし、今から窓を閉めて空調入れても涼しくなるのはだいぶ後………だと思いますよ」
「え~、でも~、だって~」
いい歳しておきながら全く困ったものである。
構ってほしくて本人も実はどうでもいいと思っているだろう話題を回すあのドラゴンをいい加減止めておかなければならない。
キッチンで作業していた俺は5人分の器とスプーンを乗せたお盆を抱えて、縁側で涼んでいる女性陣へと歩み寄った。

20
「」んかくん 2020/07/04 (土) 21:44:38


「流姉さん、ついこないだ『やっぱり暑い夜のビールは最高ね!夏はこうでなくちゃ!』とかなんとか言ってたじゃないか。
 で、買ってきた枝豆を全部ひとりで食い尽くして。………それより食後のデザートが出来たんだけどみんなで食べないか?」
「あ、てんかくん」
おさげにした三つ編みを尻尾のように揺らして軽く振り返った棗が俺を見て微笑んだ。
彼女の前でゆっくりと器の中身を崩さないようにお盆を床へ置くと、何も言わずとも他の3人へとデザートを回すのを手伝ってくれた。
花火セットの内容物を確認していたセイバーと百合先輩や、セイバーが送風機の役割を放棄したので自分で団扇を仰いでいた流姉さんも続いてこちらを向いた。
「へぇ、アイスクリーム?てんちゃん気が利いてるわね~」
「残念。ジェラート。アイスクリームと大差は無いけどさ」
「………ああ、夕飯を作る前から何か余所事をやってるなと思ってたけどこれだったんだね」
さすがに自分でも料理をやる百合先輩はそれだけでおおよその工程が頭に浮かんだらしい。合点が行ったというように呟いた。
俺が一番端に座っていた棗のさらに奥へ腰掛ける頃、気の早い流姉さんはもうスプーンを咥えていた。
「わお、つめたーい!暑い時に食べる冷たいものはやっぱり最高ね!」
「………む、本当ですね。この香ばしい香り………コーヒー味ですか、テンカ」
「インスタントコーヒーを混ぜただけなんだよ。何を入れても違った味になるし楽しいよね、ジェラート」
ぱくぱく食べてしまう流姉さんと違いセイバーは一口ずつ丹念に味わって食べようとしてくれる。綻ぶ表情が稚気に富んでいて少し嬉しい。
みんなに器が行き渡ったのを確認して、さぁ俺も食べようとスプーンを握った時だった。ふと流姉さんが急に思い出したようにぽつりと呟いた。
「そういえば前にもこんなことあったわよね。暑い夏の日に、急に食後のデザートだってこういうの出してきて」
「え?前っていつ頃の話なんです?流さん」
「てんちゃんたちがまだ中学生の頃だったかしら。そうそう、なっつんも一緒にいたわ。私が連れてきたからだけど」
「………ああ」
という声が喉から漏れたのは俺だけではない。全く同じタイミングで棗も発していた。
確かに、そんなことがあった。別に何か特別な転機だったとかそういうことは全く無いが、今でも覚えている。
「ちょうど日にちも今と同じ頃だったっけ?あの時は確かね―――」
頼んでもいないのに流姉さんがぺらぺらと昔話を喋りだした。
窓をあちこち開け放っているせいで吹き抜けていく風が、縁側に吊られている風鈴をちりんと透明に鳴らした。

21
「」んかくん 2020/07/04 (土) 21:45:17


それは熱帯夜となる予感を感じさせる、蒸し暑い夕暮れだった。
定期的に通っているスイミングジムを終え、買い物をして帰ると、玄関を開けると俺のものではない靴が2足あった。
「………」
どちらも女物。動揺はない。この家では珍しくないことだ。
そもそも俺が開ける前に鍵が開いていた時点でこの可能性は考慮していた。むしろこの靴が無ければ泥棒を疑わなければならなくなる。
スリッパに履き替え、重たい買い物袋を手に提げて廊下を行くと奥の方からテレビの音が響いてくる。
空調が効いた涼しいリビングのソファに腰掛けていた人々の正体は案の定だった。
「あら、お帰り~てんちゃ~ん」
「あ、てんかくん………お邪魔してるね。迷惑じゃないかなって言ったんだけど流先生が聞かなくて」
「何よなっつん、嘘ばっかり。誘ったらあっという間に支度終わらせてた癖に」
「わ、わわわっ!?そ、そんなこと無いからねてんかくん!?やっ、てんかくんちに来たくないってわけじゃなくてっ!?」
何故か顔を赤くした棗が流姉さんの口を塞ごうと取っ組み合いを始めた。
この家で俺以外に人の声が響くとしたら、このふたり以外に無い。
時々こうして俺の様子を見に来る………ついでに、俺の作る料理を貪り食って行く流姉さん。
その流姉さんに連れられてやってくる、昔は俺と病室が一緒で今は俺と同じように一人暮らしをしている棗。
普段は俺以外に誰もいないこの静かな洋館が少し賑やかになるとすればこのふたりが来ている時だけだった。
「ああ、いらっしゃい」
毎度のことなので大仰に返事をすることもなく、俺は一言投げてそのままキッチンへ向かった。
突然の来訪であったが基本的に纏めて買って冷蔵庫に保管しておくので問題はない。一人前が三人前になるだけだ。
それで対応できないなら献立を変えればいい。今日は幸いにも分量を調節するだけで済みそうだった。
買い物袋を足元に置いて、てきぱきと冷蔵庫に入れるものとそうではないものを分けて仕舞っていく。
中学校に入ってすぐに一人暮らしを始めた時は何をするにしても四苦八苦していたが、そんな生活も2年と半年も過ぎればもう慣れたものだ。
ハンガーで吊っていた愛用のエプロンを首にかけ、何の気なくシンクを見た時、ようやく俺はそれに気付いた。
「………なにこれ」
思わずそんな疑問が口をついて出た。それが何であるかは分かったが、何故ここにあるのかが分からなかった。
俺のぼやきが耳に届いたのか、すぐさま流姉さんの楽しそうな返事がリビングの方から返ってきた。
「あ、気付いた?それね~、うちの病院がやってる屋上緑化の一貫で収穫できたスイカなのよ。
 もともとは芝生で覆ってただけだったのにみんな勝手なもの植えるものだから最近はなんだか野菜畑みたくなってきちゃって、あっはっは」
「なるほど。そういう」
言われてみると合点が行く。シンクにこうして無造作に転がっているこのスイカ、商用のものと比べてもやや小ぶりだ。
表面にもところどころ傷があり、農家の手によってちゃんとした手入れをされて育てられたものではないという話は間違いなさそうだった。
「実は成ったけど持て余してるって話だったからせっかくだから貰ってきてみたわ。食べられるかしら?」
「さあ。割ってみないことにはなんとも」
そう答えながら俺はスイカを持ち上げてまな板の上に置いた。
冷やして食べるにしても適当な大きさにカットしないと冷蔵庫に入らない。今日の食事を作り始める前にやっつけてしまおう。
包丁を取り出し、緑と黒の縞模様の果実へと刃を添える。包丁の峰に手を添え、体重かけて一気に両断した。
ぱっくりと二分されたスイカの表面はしっかりと赤く染まっている。こうして見る分には特に問題はなさそうな、ただのスイカだ。
そのまま同じ要領でスイカを四等分にし、実の端の方を包丁で小さくカットして口に入れてみた。
全く食べられないということはない。ないのだが。
「………あんまり甘くないな」
率直な感想だった。まあ、屋上緑化の庭園で勝手に育ったスイカなんてこんなものなのかもしれない。
それか、もともと原種のスイカというのは甘くないものだそうだから先祖返りでも起こしたのかもしれなかった。
さて。ではこれをどうするか。捨ててしまうのはあまりに無体だ。甘くないだけでスイカ自体の風味はきちんとある。
2年半の間にインプットされた脳内のレシピブックを紐解いているうちにひとつ思い当たり、冷蔵庫の中を確認した。
問題ない。材料は全部揃っている。今晩の料理にも抵触しない。ただどうしても時間が必要だから、今からやっておくべきだろう。
そう結論が出て、次々に必要なものを冷蔵庫から取り出している時だった。

22
「」んかくん 2020/07/04 (土) 21:45:35


「あの………」
背後から投げかけられるおずおずとした声。姿勢そのままで顔だけ振り返った。
棗がそこに立って、じっと俺のことを見上げていた。表情には少しだけ緊張の香りがある。
「てんかくん、何か………手伝おうか?」
「………」
これがきっと棗以外の誰かなら『俺がやるからいいよ』と口にしていただろう。
ずっと他人の手で生かされ続けてきた命だ。自分で出来ることはせめて自分だけで完結させたいというのは常に抱く思いだった。
だが棗は少しだけ例外だった。流姉さんの勧めを押し切って一人暮らしを始めてから、ちょくちょくこうして共に食卓を囲む彼女は。
流姉さんのかつての言葉が俺の頭の中でリフレインする。
『てんちゃんもにぶちんね~。そういうときはね、"手伝おうか"って聞いてるんじゃなくて"手伝いたいです"って言ってるのよ』
………なお、流姉さんは別の意味で頼れない。味見せずにいい加減に作ろうとする流姉さんが携わると謎料理が出来上がってしまう。
俺は生クリームの入ったパックを取り出しながら、棗に言った。
「じゃあ、お願いしていいかな」
「………!うん、任せて!」
そう答えながら棗が嬉しそうに笑ったことに内心首を傾げつつ1歩寄って棗が作業するためのスペースを空けた。
収納スペースからボウルを2つ取り出してキッチンへ並べながら、同時に棗へ指示を出した。
「そのスイカ、実を削いで皮と分けたら綺麗に種を取って。そしたら、ハンドプロセッサーがあるからボウルの中でピューレにしてね」
「う、うん。分かったよ、始めるね」
頷いた棗は包丁を手に取ると、スムーズな動きでスイカの実と皮の境目に刃を入れだした。
棗も俺と同じように中学生の身でありながら一人暮らしをしている身だ。自炊の心得があるのは俺も知っている。
なので特に心配もなく、作業を棗に任せて俺は計量器を取り出した。
まず卵を割って黄身だけ取り出し、もうひとつのボウルの中へ。泡立て器の先端で突いて割っておく。
そこへ牛乳、グラニュー糖、生クリームを次々に計量して注ぎ込んだ。
通常の調理はともかくとして製菓は分量計算が命だという。あまり生活の中でお菓子を作る習慣はないが、ここは従っておこう。
ムラが無くなるよう泡立て器で丁寧にかき混ぜている間に隣でハンドプロセッサーがモーター音を立て始めていた。
「もう皮も種も取り終わったのか。相変わらず早いね」
「こういう手先だけ見つめて集中する作業って得意なんだよね。こんな感じでどうかな?」
ブレードによって撹拌され、ドロドロの赤い液体になったスイカの入ったボウルを棗が差し出してくる。
計量器に乗せて測ってみた。多少分量を調節する必要があるかと思っていたが、小ぶりだったぶんこれ全部でちょうどいいくらいの量だ。
「うん。大丈夫だ。さて、これとこれを全部混ぜて………と」
スイカを俺がかき混ぜていた混合液の入ったボウルへ全て注ぎ込んだ。棗が使っていたハンドプロセッサーでしっかり混ぜ合わせる。
真っ赤だったスイカのピューレがあっという間に薄いピンク色の液体に変わっていく様を横から棗がしげしげと見つめていた。

23
「」んかくん 2020/07/04 (土) 21:45:57


「便利だよねこれ………」
「ハンドプロセッサーのこと?ひとつあると何役もこなしてくれるし、あれこれ使わなくていいから洗い物も減るし、楽だよ」
「ふーん………わたしも買おうかな………」
なんて喋っている間にもボウルの中には綺麗に混ざりあった液体がひとつ出来上がっていた。
スプーンで少しだけ掬って味を確かめてみる。もう少し甘くてもいい気もするがこんなものだろう。
代わりに料理用のラム酒をほんの少しだけ加えて軽くかき混ぜておいた。
「はい、出来上がり」
「え?これで終わり?」
「調理の工程自体は。後はこれを凍らせて固めるだけだよ。ちょくちょく取り出してかき混ぜる必要はあるけど。
 これから夕飯だって作らなきゃいけないんだ。そんな時間のかかるようなもの作れないよ」
やや気の抜けたような棗へそう答えながら俺はボウルにラップで蓋をして冷凍庫の扉を開けた。
傾いて零れたりしないよう、平衡を保たせてしっかりと安置する。
ひとまずこれであのスイカを無駄にしなくて済むだろう。流姉さんもこれなら文句は言わないはずだ。
「よし、これでいい加減にして夕飯の用意を始めないと………ん。どしたの」
「………あ、あのね。てんかくん」
冷凍庫の扉を閉じて振り返ると、棗がそのままそこに立っていた。
両手の指を体の前で組み合わせ、何か言い出しにくそうにもごもごと唇を震わせている。
その視線がちらりと上を向き、見下ろす俺の視線と絡み合った。
「てんかくんはなるべく自分で出来ることは自分でやりたいのは分かってるんだけど………。
 この後もわたしが手伝っちゃ………ダメ、かな………?」
俺より一回りばかり小さな背丈の棗が上目遣いで俺の顔色をうかがうように言った。
見つめられているといたたまれないような、くすぐったいような、そんな変な気持ちになってくる。
なんだか俺が悪いことをしているみたいだ。むず痒くなってきた頬を指で掻きながら、しかし答えは決まっていた。
他ならぬ棗にそう言われてしまったら、断るより頷く理由の方が大きくなる。
「―――うん。助かるよ棗。その、ありがとう」
「………ふぇ」
俺としては特別な素振りで言ったつもりはなかった。
けれどそれを聞いた、いや見た棗は急に目を丸くし、それから落ち着かない様子で視線を明後日の方向へ向ける。
こころなしか動きもぎくしゃくとした。油の差さっていない機械みたいだ。
「ま、任せて!大丈夫だよ!なんでもするよ!何でも言ってねてんかくん!………あー、びっくりした………」
「う、うん。ありがたいけど………なんでびっくり?」
「えっ!?いやその………こっちの話だから!気にしないで!」
両手を顔の前で振って必死で話題を遠ざけようとする棗。
結局最後まで何のことか分からないまま、俺はピーラーとジャガイモを棗に渡したのだった。
季節は真夏。1分1秒でも長く世界を熱しようと踏みとどまっていた太陽がようやく沈みかけて、窓の外には宵闇が忍び寄ろうとしていた頃のことだった。

24
「」んかくん 2020/07/04 (土) 21:46:13


「―――で、これが思ったよりも固まらなくて結局口にできたのは帰る直前だったっけ」
キッチンに響くのは水栓から流れた水がシンクを打つ音だ。
それが断続的に途切れるのは棗がその水でジェラートを入れていた器を洗っているからだった。
俺は洗ったそばから手渡されるガラスの器をタオルで拭いて食器置きに引っ掛けていく。
話に相槌を打ちつつ、次の器を受け取ろうとして俺は横に立つ棗の方へ視線を向けた。
「そうそう。何度も取り出してかき混ぜすぎたとか、ガラスのボウルじゃなくてアルミのボウルにすればよかったとか。
 今から思うとよくもレシピ本でちょっと見かけただけのものを見切り発車で作ろうとしたもんだよ」
………視界の中の棗はあの頃の記憶の中の彼女よりいくらか大人びている。
身長はさほど伸びなかったが顔つきはほんの少しだけあどけない少女から女性のそれになった。
体つきに関しては………その、ある特定の部位がやたら育ったものだと思わないでもないが、男の俺からはノーコメントとしておこう。
「でも美味しかったよ、てんかくん。それはちゃんと覚えてる。
 凄くなめらかな舌触りでまるでお店で食べるのみたいだって思ったなぁ。
 あとガラスコップに入ったジェラートにいつの間にかチョコチップが混ぜてあって、なるべくスイカっぽくしようとしたんだなって」
「種っぽく見せようとしてね。今だったら容器も緑のものを選びたいな。
 まあ、わざわざスイカを買ってきてまで作らないと思うから………次があるとしたら流姉さんが持ち込んでくるもの次第かな。
 流姉さんが何を押し付けてくるかなんて予想するのは難しいけど」
くすくすとキッチンに俺と棗の笑声が溢れた。
同じように窓を開け放った縁側の方からも笑い声がここまで届いてくる。
流姉さんが持ってきた花火セットでセイバーたちが遊んでいるのだ。
スージィさんと今晩は出かけているニコーレがそれを知ったらきっと怒るだろう。私もやりたかったと。
内容物に打ち上げ花火があったので絶対ここで使わせないよう百合先輩には頼み込んでおいた。でないと流姉さんはノリで火をつけかねない。
そのくらいの大人としての常識はあると信じたいのだが、そのくらいの大人としての常識を無視しかねない怖さがあのドラゴンにはある。
5つ分の器の洗い物なんて終わるのはあっという間で、最後のそれを片付けると俺はエプロンを外してハンガーにかけた。
タオルで手を拭いながら、ひと仕事に付き合ってくれた棗に微笑みかける。
「よし、今日の洗い物は全部終わり。いつも手伝ってくれてありがとう、棗」
「いえいえ、どういたしまして。………さっきの流先生の話で思い出したけど、あの頃と比べるとてんかくんもいろいろ変わったね」
「ん、そうかな?人間的に成長できているってことなら嬉しいんだけど、自分じゃそんなに変わった気はしないな」
「そんなことないよ。ちゃんと笑うようになったもん。ほら、前は全然笑わなかったから」
そうだろうか。これについてもあまりきちんとした自覚はない。
当時の自分が特別に感情を戒めていたというつもりはない。ただ普通にしていた、それだけだ。
まあ、笑わない人間だと思われるよりは良いことだろう。棗からそう見えていたのなら尚更だ。
そんな話をしていたからか、ふと思い出したことがあった。ちょうど棗とふたりきりだったのもあり、特に深い考えもなく口にした。
「そういえば棗、あの時………ジェラートを仕込み終わった後だったかな。突然何かにびっくりしたような顔していたよね」
「………え」
「今だから聞くけど、あれは何だったの?」
途端に棗が硬直した。ぴくりと頬が強ばる。まさしくあの時みたいな驚いたような顔になった。
「い………いや~、そんなことあったっけ?もう覚えてなかったよ!ごめんね!」
「あ、うん?覚えていないなら仕方ないからいいんだけど。………どしたの?」
「なんでもない!なんでもないよ!あーっ、わたしも花火しに行こうかな!じゃあねてんかくん、後のことはよろしくね!」
よろしくも何も、ふたりで全部終わらせたばかりなのだが。
俺の横をすり抜けてあっという間に棗はセイバーたちの元へと早足で行ってしまった。
そうして首をかしげる俺の耳には、棗が誰にも聞こえないように呟いた言葉はやはり聞こえることはなかったのだった。

「その全然笑わないあの時のてんかくんが急に笑ったからびっくりするやらどきどきするやらしたんだよ!………もぉ!」

25
「」んかくん 2020/07/16 (木) 23:13:09


去っていくタクシーのエンジン音を耳にしながら俺はポケットから鍵を取り出した。
キーホルダーで纏めてある鍵のうちのひとつを指先で挟む。花屋『クリノス=アマラントス』の合鍵である。
「さてと。えーと、確か………」
記憶を反芻し、封印解除用の呪文を脳内の書庫から引っ張り出す。この通り、『クリノス=アマラントス』は二重施錠で大変安心なのである。
物理的な方はともかく、無理に封印を破って侵入するとどうなるか聞いたことがあるが………百合先輩は微笑むだけで何も言わなかった。
「εκπτωση για τη λειτουργια μεσαιων επιχειρησεων―――――」
唱えてから通用口の鍵穴へ鍵を差し込んだ。捻るとちゃんと鍵の外れる音がしたので呪文の詠唱は成功していたのだろう。
ほっと溜息をついた俺の耳元で、くすりと微笑むような吐息が零れた。
「……おお、解錠できたね。偉い偉い。これぐらいは出来てくれないとね」
「な、なんだか褒められている気がしませんね………」
振り返ったりせずに返事をした。むしろ今振り返ってしまったら鼻と鼻が擦れ合うような顔の距離感が確定してしまう。さすがに気恥ずかしい。
今の声だってどんな呟きであっても聴き逃がせないほどすぐ近くからしたのだ。
というのも今まさに俺はこの声の主を背負っていた。背負った相手の太ももを腕で支えるオーソドックスなやつである。
背負っている相手とは最早言うまでもなく、この『クリノス=アマラントス』の若き女主人であった。
「あの………もう大丈夫だよ?十影くん。ここから先は私ひとりで何とかするから………」
「何言ってるんです。タクシーに乗り込むまでふらふらして自力じゃまともに歩けなかった人の言っていい台詞じゃありませんよ」
声までいつもの覇気がなくどこか輪郭が薄らぼんやりとしている。なんだか俺まで落ち着かない。
俺は百合先輩の言葉を完璧に無視し、通用口から中へと入った。
シャッターの降りている店内は薄暗く、切り花用のクーラーの動力音だけが低く唸っている。
が、今日はこの店には用はない。俺は百合先輩を背中に背負ったまま、勝手知ったるという足取りで奥へと向かった。
扉を1枚潜れば、そこは栗野邸の住居の一部である『クリノス=アマラントス』から百合先輩の生活スペースへと移り変わる。
「先輩、靴脱がしますよ」
「………ん………」
一拍遅く返ってくる先輩の返事を受けて、腕1本で百合先輩を支えながらという作業にちょっと苦戦しつつも学園指定のローファーを玄関へ投げ捨てる。
整える余裕なんて無いので俺自身も靴を脱ぎ散らかすと、スリッパに履き替えるのもさておいて真っ直ぐに階段を目指した。
一段一段、背中の百合先輩をなるべく揺らさないよう気をつけて登る。
階段に差し掛かって体勢が不安定になったのか、首筋に回されている先輩の腕の力が少し強くなった。
そう意識すると、普段は知ることのない百合先輩の身体の軽さや柔らかさ、背中に押し付けられているふたつの膨らみを感じてどぎまぎするわけだが―――
「………こんな時に何を考えているんだ俺は」
「何か言った?」
「なんでもないです」
邪念退散。病人を背負っているのだ。そういうのは今は無し。
既にこの家の間取りはおよそ知っているので、階段を登りきった俺は迷うこと無く2階にある百合先輩の寝室を目指した。
扉を開け、中に入る。躊躇わず奥へ進んでベッドの上へ慎重に百合先輩の身体を横たえた。
ずっと俺のされるがままになっていた先輩はまるで何かを後悔するかのように、臥せったまま瞼を掌で覆って天を仰いだ。

26
「」んかくん 2020/07/16 (木) 23:13:25


「油断した………。このところ忙しかったせいですっかり気が緩んでた………。
 魔術刻印の周期が合わないのなんて普段なら少し休めば回復するんだけど、風邪気味だったところにダブルパンチで来られるとね………」
「びっくりしましたよ。突然倒れるんですから。たまたま俺が一緒にいて良かったです」
「………確かに、そのあたりの事情に通じてる十影くんが近くにいたのは不幸中の幸いだったかな。
 他の人が見たら大騒ぎされちゃいそうだし。………でも、お店開ける準備しなきゃ………」
そう呟きながら、百合先輩が身体を起こそうとしてベッドに手をついた。
しかし、力を込めてもぶるぶると腕が震えるばかりで起き上がることが出来ない。これでは立ち上がれもしないだろう。言わんこっちゃない。
「駄目ですよ。今日は臨時休業です。シャッターにも張り紙しておきますからね。先輩が嫌って言ってもそうしますから」
「トカゲくんの意地悪」
「何とでも言ってください。あとトカゲじゃなくてトエイです」
恨みがましい視線を百合先輩が向けてくるがきっぱりと撥ね付けた。駄目なものは駄目でござる。
こんなグロッキー状態で店の仕事なんてされたらこっちこそたまったものじゃない。何にも手がつかなくなること請け合いだ。
ややあって諦めたのか、ベッドに体を預けた先輩が自分の腕を撫で回した。
そこには栗野家の魔術刻印が刻まれている。その家の研究成果を回路の刻印として子孫へと受け継ぐもの。
魔術師にとっては最大の家宝であると同時に呪いでもある。宿主との波長が合わなくなるとこうして体調を崩したりもするらしい。
「………仕方ないか。ごめんね十影くん、迷惑かける」
「いいですよ。こんな時くらいちゃんと大人しくして身体を治してください」
「………ぁ」
言い含めながら百合先輩の額に手を伸ばして触れる。驚いたように先輩が小さく呻いた。
やはり熱がある。決して具合は良くなさそうだ。いつもの気丈さを全く喪失した、力のない眼差しがぼんやりと俺を映していた。
「ひとまず制服から着替えたほうがいいですね。汗も拭かないと。あと必要なものは………」
「十影くん」
「はい?」
「だから、着替えたいんだけど」
百合先輩の頬が赤かったのは、風邪による熱のせいだったのか、それとも恥ずかしかったからか。
ここで慌てて出ていこうとしかけた俺の心が踏みとどまったのは、そう言って俺を見る先輩の元気の無さに不安を感じたからだろう。
「………手伝いましょうか?」
自分でも言っていて顔が熱くなるのを感じたが、さっきまであんなにふらついていたのだ。着替えるだけでも一苦労かもしれない。
そうしなければならないほど百合先輩が弱っていたとしたらそれこそ恥ずかしがってなんていられない。
しかし邪念が無いとは言い難い。ただでさえぐったりとした百合先輩は却って色気が増していて目に毒だ。
俺は余所見をしたまま百合先輩を着替えさせられるだろうか―――
「………じゃあ、お願いしようかな?上も下も全部脱がして、ちゃんと寝間着に着替えさせてね」
「ひとりでも出来そうですね、分かりました。水を汲んできます。飲むための水差しの分と、あと汗を拭くための洗面桶とタオルに」
「ちぇー」
熱に浮かされつつも百合先輩が悪戯っ子みたいな顔で笑ったのでひとまず大丈夫そうだと判断した。
大丈夫だから、なんて言われてたら逆に心配していた。それは俺をからかう余裕すらないってことになる。
多分その時は汗を拭くことよりも先に流姉さんの待つ病院へ先輩を担ぎ込むことを考えていただろう。
そういうことなら俺が先輩の着替えを拝んでいていい道理はない。必要なものを頭の中でリストアップしながらベッドの側から踵を返す。
壁に掛けられた時計が目に入った。短針は頂点を既に回っている。もうとっくにお昼時だ。
「ああ、もうこんな時間ですね。先輩、食欲ありますか?」
「ん………少しなら。あんまり重たいものは気分じゃないけど………」
「じゃ、水を汲んできたら何か適当に作ってきます。台所お借りしますね」
ドアノブを捻って百合先輩の寝室から廊下に出る。百合先輩の視線が絶たれるとついぽりぽりと頬を指先で掻いてしまった。
ぼんやりして、まるで意気の無い百合先輩と接するのは全然勝手が違って、どうにも落ち着かない。

27
「」んかくん 2020/07/16 (木) 23:13:38


汲んだ水を百合先輩の寝室に置いてきた俺が次にしたこととは、栗野宅の冷蔵庫を拝見することだった。
「さて、何があるかな………」
なんだか百合先輩の日頃の食生活を覗いているようで少し気が引けるが、背に腹は代えられない。
冷蔵庫の中に入っている諸々をざっくり斜めに観察していく。するといろいろ使えそうな食材が目に留まっていった。
「生姜、青葱、卵、あと鳥のささみか………あんまり具を多くしすぎてもなんだしな………」
病人の喉を通るものだ。あまり刺激物を入れるわけにもいかないだろう。
この中でも生姜は是非使うべきだ。消化吸収促進や抗炎症作用など、これでもかと風邪に効く成分に満ちている。
万病の薬と崇められているのは伊達ではないのだ。俺も料理によく使うので我が家では欠片ではなく塊で常備されている。
「これだけあれば、あとは………あった!」
炊飯ジャーの蓋を開けて思わず笑みが零れた。炊けた白米がまだ残っている。
あの状態の百合先輩がそれほどたくさん食べるとも思えないからこれだけあれば十分だろう。
立て掛けてあったまな板を設置。シンク下の収納スペースの扉を開けると包丁を収めるスペースを発見したのでそこから包丁を抜き取った。
まずは小ぶりの鍋に水を注ぎ、火にかける。栗野宅は最近流行りのIHヒーターではなくうちと同じガスコンロだった。
沸騰するまでに食材の用意を進めていく。
生姜は微塵切り。青葱も微塵切り。それぞれ別の容器に取っておいておく。
ささみは白い筋の両側に包丁で切り込みを入れ、包丁の背でしごくようにして筋を取り除いておいた。
炊飯釜に残っていた白米を全部茶碗によそい、炊飯釜をシンクで洗っていると鍋がいい調子に泡を吹いてくる。
このお湯に早速白米を投入………するのではなく、まずささみをそっと投入した。一緒に塩をふたつまみほど加える。
病人にこのささみをそのままの大きさで食べさせるわけにはいかない。細かくして食べやすくする必要がある。
ささみを入れたら鍋の火を止め、5~6分ほど放置する。こうすることでささみが固くぱさぱさにならないのだ。
そうして置いておいたささみは時間になったら一旦取り出し、まな板の上で粗熱を取っておく。
茹で汁を捨て、再度水を鍋に注いで加熱する。本当はこの茹で汁も使いたいところだが、後で調味料を足すことを考えるとちょっとしょっぱすぎる。
沸騰したら鍋に白米を入れて煮る。その間に冷めたささみを手で出来るだけ細かく裂いていった。包丁で刻むよりこちらのほうが口当たりがいい。
白米が丁度いい塩梅に煮えてきたら、ここに刻んだ生姜とささみを加えて火を通す。
といっても生姜は刻んであるし、ささみは一度熱を通しているのでそれほど時間はかからない。
調味料用のラックに備えてあった鶏ガラスープの素を気持ち薄味程度に加えて味を整えたら、
「たったこれだけのことがなかなかどうして………いつまでたっても卵は難しいや」
溶いた卵を少しずつ鍋の中に回し入れていった。『の』の字を描くように細く注ぎ込むのがコツだ。
一気に注いでしまうと卵がふわふわに仕上がらないのでそれなりに注意を要求する工程である。
注いだ卵が固まってきたタイミングで再び残りの卵を注ぐ。これを溶き卵が無くなるまで繰り返し、無くなったら鍋の火を止める。
先程の茶碗に鍋の中身を盛ったら、刻み青葱を散らし、小さじ半分程度のごま油で香りをつければ―――

28
「」んかくん 2020/07/16 (木) 23:13:49


「………うどんの買い置きは無かったはずだから十中八九お粥で来るとは思ってたけど。なるほどこうなったか」
ベッドに横になったまま半身だけ起き上がった百合先輩が唸った。手にした茶碗から漂う香りを嗅いでのご感想である。
「鶏ガラスープと香り付けのごま油で中華風のお粥にしてみましたけど、好みじゃありませんでした?」
「ううん。でも十影くん、どっちかというと洋風派じゃない。
 だからリゾットを作ってくるんじゃないかなって予想してたから、ちょっと意外だっただけ」
そんなに洋風の料理ばかり作っていただろうか。和洋中、なんでも作るつもりでいたが、言われてみるとそんな気もしてくる。
トレーを小脇に抱えたまま、俺はそっと百合先輩の様子を伺った。相変わらず気怠そうで復調したようではない。
ただ、パジャマを着て萎れている姿はなんというか………普段の百合先輩にない魅力があるのを否めない。
今更だがここは百合先輩の寝室なのだ。そう意識すると、なんだか無性に背中がむず痒くなってきた。
「まあ、今回はこんなふうに仕上げてみました。口に出来るだけでいいので食べてください」
据わりの悪さを誤魔化すように俺は百合先輩に匙を渡す。
百合先輩は掬った匙の上の粥をしげしげと見つめた後、おもむろにぱくりと咥えてみせた。
「あむ………」
もそもそといつもよりスローペースで咀嚼している。その口角が食べるのと同じくらいゆっくりと上がっていった。
「………ん。なんだか優しい味がするね。そんなに濃い味付けじゃないけど、生姜の香りがよく効いてて美味しいよ」
「良かった。素直に塩味にするか迷ったんですが、薄めに整えれば食べにくいって程にはならないかなって」
「うん。このくらいなら大丈夫。喉に引っかかるようなものも無いし………。ああ、この歯ごたえ。ささみ使ったんだ」
「冷蔵庫に入っていたんで使ってみたんですけど、使う予定があったならすみません」
「ううん。特に決まってなかったからいいよ。………ふふ。丁寧に細かく裂いてある。
 私、十影くんの料理好きだな。食べる人のことを凄く考えて作ってるよね、いつも」
「………ど、どうも」
先輩がやけに素直な褒め方をするものでつい返事が吃ってしまった。
普段ならここでワンクッション置いてからかったり冗談を入れてくる。なんだか本当に別人みたいだ。
百合先輩は時折ちらちらを伺いながら匙を往復させて粥を少しずつ口にしていった。
食欲はきちんとあるようで安心する。あんまり食べても身体に毒だが何も胃に入れないのも不健康的だ。
「十影くんはお昼どうするの?」
「まだ少し鍋に余っているので洗い物ついでにそれを食べます。ちょっと足りないようなら帰って何か摘もうかと。
 先輩が休んだら一旦うちに帰りますけど、また夜来ます。その時はセイバーを連れてきますね。男手だけだと、その、不便ですから」
風邪を引いた時は風呂に入ってはいけないというのは迷信でぬるま湯に少し浸かるくらいなら問題ない。
その方が汗を拭くより身体も綺麗になって気分の晴れやかさも違う。とはいえ介助の手はあった方がいいだろうし、それなら女手が必要だ。
かちん、と音がした。茶碗の底に匙が置かれる。百合先輩は綺麗に粥を完食し、ふう、と息をついた。
「全部食べちゃった。口にするまでは半分くらいしか食べられないかなと思ってたけど、ここは十影くんの料理の腕を褒めておこうかな。
 ふわ………なんだかお腹一杯になって薬が効いてきたら眠くなってきちゃった………」
茶碗を俺に渡してコップから水を飲んだ百合先輩が脱力してぽすんと上半身をベッドに預ける。
言葉通りその瞼は既に重そうで、とろとろと鈍くまばたきを繰り返していた。
「先輩、薬飲んだんですか?」
「十影くんが料理している間に家伝のをね。あれを飲んで一晩もすれば明日の朝にはいつも通りだよ」
栗野家の家伝の薬というとあの苦いんだか痛いんだか分からない味のアレだろうか。経験者としてはぞっとしない。
瞳を半開きにしてうつらうつらと眠たそうな百合先輩の横で椅子に座り直す。眠りにつくまではここにいることにしよう。
そう思って百合先輩の横顔を見つめていたら、ふいに先輩が首を傾げて俺の方へぼんやりとした視線を送ってきた。
「………あのね、十影くん」
「なんです、先輩」
百合先輩は表情を緩めてふにゃふにゃの笑顔を浮かべた。弱々しくて、だからこそ鼓動が跳ね上がるような可愛い微笑みだった。
「十影くんが背負ってくれた時ね。
 思ったより広い肩幅なんだなぁ、とか、見た目より筋肉がついててがっちりした身体なんだなぁ、とか。
 十影くんが男の子なんだなぁ、って実感して、凄くドキドキした。格好良かったんだ………」
―――百合先輩が寝息を立てるまで、顔の火照りを冷まそうと水差しからコップに3杯ほど水を飲んだが、全く効き目がなかった。

29
「」んかくん 2020/12/26 (土) 01:13:15


「さて」
「はい」
台所のふたりは示し合わせたわけでもなく腕組みして「ううン」と唸ってしまった。
まな板の上には普段調理している鶏肉がひよこに思えてくるような巨大な肉の塊が鎮座していた。
無論、鶏肉ではない。シチメンチョウ、即ち北米のお祝いの際の食べ物。ターキーである。目の前にすると凄い威圧感だ。これでも小さいサイズなのに。
「買っちゃったね」
「買っちゃいましたね」
妙な感慨に耽る俺と百合先輩である。クリスマスだしターキー焼こうぜ!と言い出したのは流姉さんなのだが例によって当人はいない。
わざわざ新都のデパートまで出向き、海外食品の取扱店で実際に見るターキーの大きさに首を傾げたのは俺たちなのだった。それが数日前のこと。
こうして冷蔵庫の中で解凍され、氷の塊から肉の塊になったターキーは不慣れな料理人たちへ重圧感を伴って伸し掛かろうとしていた。
「解凍したターキーはこれでもかと果物やらハーブやらを投入したブライン液に丸一日漬けてあります」
「流さんからバーボンを拝借して肉の臭み抜きや香り付けに用いるという案は成功のようですね」
「はい。ほのかに香るバーボンの香りが焼き上がりへ期待を感じさせますね」
何故かふたりとも敬語の説明口調だった。大きな肉を前にするとそれだけで何だかテンション上がってくるよな。
ちなみにブライン液というのは要するに塩水にあれこれ入れたものである。燻製するものを漬けたり、あと鶏の胸肉を焼く時も漬けておくとしっとりして美味しい。
「では試合開始です。実況は十影典河。解説は栗野百合さんです。よろしくおねがいします」
「よろしくおねがいします」
変なノリのままお互いにぺこりと一礼し、改めてターキーと向き合う。さて何処から手を付けたらいいんだ、これ。
「………俺、本当に取り扱うの初めてなんで頼りにしてますよ、先輩」
「私だって凄く久しぶりだよ十影くん。レシピ本なんて引っ張り出したのいつ以来か分からないもの。とにかく予習はしてきたから任せて。
 とりあえずオーブンの予熱を入れつつ布巾で表面の水分を拭って。特にお腹の中は念入りにね。パックに一緒に入ってた首の肉はどうした?」
「先輩に言われた通り昨日の晩に香味野菜と一緒に炊いてスープを作っておきました。そこの鍋に入ってます」
「よし、じゃあ私はスタッフィングをどうにかするから十影くんはターキーの方をよろしく」
そう告げて百合先輩は鍋の中の様子を伺った。
俺はオーブンのスイッチを入れて200度に設定するとキッチンペーパーを数枚手に取り、ターキーのぶよぶよとした皮からせっせと拭き始める。
黙ったまま作業をするというのも味気ない。続いてお米の計量を始めた百合先輩へと俺は話しかけた。
「スタッフィングって、確か腹の中に入れる詰め物のことですよね」
「そう。でも今回は詰めない」
「………詰めないのに詰め物なんですか?」
「十影くんなら分かるでしょ。中に何も詰まってない状態で焼くのと詰め物でぱんぱんに膨らませた状態で焼くの、どっちが火が通りやすい?」
言うまでもない。余計な詰め物なんて入っていればそれだけ中まで火は通らない。
それにね、と流しで米と一緒にもち米を洗い出した百合先輩は言った。
「詰め物って生肉の部分へ直に触れているわけでしょう?食中毒のリスクがあるのが私は気がかりだな。
 かといってきっちり火を通しすぎると今度は焼き過ぎになるし、詰め物が肉汁を吸っちゃって肉のほうがぱさぱさになっちゃうし。
 だいたいターキーの味を吸い込ませるならこれだけでも十分だよ。そのために昨日から指示してたってわけ」
ちょんちょんと人差し指でターキーの首肉で作ったスープを百合先輩は指差した。
なるほど、道理だ。ただでさえ慣れていないんだからなるべく成功の確率は高い方がいい。
火が通るか通らないかというリスクを払うくらいなら別々に作るくらいが美味しく出来るだろう。
「入れるなら林檎とかレモンとか、あとハーブとか、ブライン液を作るときの余りを香り付けでちょっと入れるくらいがいいんだよ。あ、拭けた?」
「はい。お腹の中まですっかりと」
「それならバターを溶かして。あとニンニクも。混ぜるハーブとかスパイスは私が用意するから、お願い」
溶かしバターか。湯煎で作ってもいいが、電子レンジでやっつけてしまっても大した違いはない。
冷蔵庫から予め百合先輩の指揮のもとスーパーで買っていた無塩バターの塊を取り出し、適当な大きさに切って塊を電子レンジへと突っ込んだ。
さすがに普段使う量より多くて20秒程度では溶け切らない。さらに10秒追加。
その間に百合先輩がうちのキッチンのラックからひょいひょいとスパイスの瓶を抜き取っていく。最早勝手知ったる何とやらだ。
さすがに俺には及ばないだろうが、ひょっとしたら一緒に住んでいるセイバーより我が家の物の配置を熟知しているかもしれない。
「スタッフィングの方はいいんですか?」
「お米の給水の時間は必要だから研いだけど、ターキーの焼き上がりを考えれば手を付けるにはまだちょっと早いからね。心臓とか砂肝とかレバーとか、一緒に入ってた内蔵は解凍終わってる?」

30
「」んかくん 2020/12/26 (土) 01:15:39


「冷蔵庫に入ってますよ。牛乳に漬けて臭みも除いておきました。どうするんです?」
「玉ねぎとかニンニクとかセロリとかの香味野菜と一緒に全部刻んで炒めるの。で、お米とスープを投入して炊くわけ。要するに炊き込みご飯だね。本場は乾燥させたパンを使ってオーブンで焼き上げるんだけど、やっぱり私たちはなんだかんだで日本人でしょ?」
「言わんとするところは分かります。それにオーブンはターキーで埋まりますしね」
「私の家のオーブンにはこのサイズのターキーさえ収まらないよ………。十影くんの家のオーブンが大きなサイズで良かった。まあ、本場はこんなサイズじゃないんだろうけど」
百合先輩が視線を落として我が家のオーブンを羨望の眼差しで見つめた。
キッチン周りは俺がここに住むにあたって改装されシステムキッチンへと変わっていたので割と新しいのである。
ここだけに留まらず、我が洋館は当時の流姉さんが何処からか業者を呼んできてあちこちに手を入れたのだ。その中でもこのキッチンに関してはかなり重宝していた。
それにしても後で明細を見せてもらったのだが信じられないほど低価格だった。あの人の人脈は今現在も謎に包まれている。
そうしている内に溶かし終わったバターへ百合先輩が塩、胡椒、タイム、セージ、ローズマリー、それに電子レンジで温めて潰したニンニクを入れてよく混ぜ合わせた。
胡椒の黒やハーブの緑がぷかぷかと浮かぶ謎の液体の完成である。百合先輩はそれを料理用の刷毛を使ってターキーの表面へ塗りたくっていった。親の仇みたいに執拗に、べったりと。
「バターを塗るだけで美味しそうな気がしてくるんだから不思議ですね」
「オリーブオイルでもいいんだけどね。今回はバターで行こうよ。こんなの焼く機会が次にあるか分からないけど」
「また焼きますよ。来年も。だからクリスマスにはロンドンから帰ってきてくださいね」
特に意識したわけではない。自然に出た言葉だった。
季節は12月。あちらの入学は9月だから5ヶ月以上のブランクがあるわけだけれども、その間も百合先輩は向こうで過ごすらしい。世にも珍しい五大元素使いとして早くも現地では注目されているんだそうだ。
俺は来年度の卒業と同時に百合先輩の後を追って時計塔に行くわけだけれど、それでも1年は皆と離れ離れということになる。
自分でも驚くほど素直に寂しいという気持ちが浮かんでいた。百合先輩はそういう風に思わせる人だった。俺の言葉を耳にした百合先輩は一瞬ぽかんと小さく唇を開いて呆けたが、すぐに───。
「………考えとく。ふふ」
くすりと、ペチュニアの花のようにゆったりと微笑んだ。
「まあ、その次の年には君は付き人として私と一緒にロンドンでクリスマスを過ごすんだけどね?
 今日ほど料理をたくさん作らなくていいから、2年の間のトカゲくんの成長を是非見たいなー」
「し、修行しておきます。………それとトカゲじゃなくてトエイです」
なんて話をしている間に真っ白だったターキーの肉が黄金色の溶かしバターを纏って薄っすらと光沢を帯びるようになっていた。
ブライン液を作ったときの材料の余りを適当に内蔵の詰まっていた空洞へと放り込み、タコ糸と縫い針でしっかりと綴じる。首の穴も同様に。
百合先輩は更にタコ糸を抜き取り、手羽先や腿を縛ってターキーを成形していく。俺はその間にアルミホイルをカットしていた。ターキーが包めるくらい大きめに。
「さて………」
「はい………」
網の上に乗ったのは処理の終わったターキー。その上へヴェールを被せるようにアルミホイルで覆う。
準備の完了したターキーを前にして、またもや俺たちは腕組みして「ううン」と唸ってしまった。
「出来ちゃったね」
「出来ちゃいましたねぇ」
「後は焼くだけだね」
「焼くだけですねぇ」
やはり示し合わせもせず、銀色の包みとオーブンの間で視線を往復させてしまう。大丈夫なのか。焼けるのか。美味しく出来上がるのか。はっきり言って自信はない。
成否の鍵はオーブンの電子制御による加熱の調整具合が握っていた。魔術師にあるまじき堕落。最新………よりは数年遅れの科学に全てを委ねることになるのである。
慎重に網ごとターキーをオーブンへと近づけた俺は、蓋を開けて待っていた百合先輩の見守る中で祭壇へ供物を捧げる神官のように厳かにターキーを滑り込ませた。
蓋を閉じ、スイッチを入れる。薄ぼんやりとオーブン内で照らされるターキーを百合先輩とふたり、しゃがみ込んでじっと見つめた。
「美味しく出来るといいですね」
「手順は間違ってないはずだから大丈夫だと思うけどね………。あ、途中で出してアルミホイルを外してもう一度バターを塗ってね」
「分かりました。………さて」
やおら立ち上がった俺と百合先輩は、ゆっくりと振り返った。
クリスマスパーティである。俺と百合先輩に加えて、セイバーに棗に流姉さんといったいつものメンバーは勿論、ランサーやライダーといった普段は寄り付かないサーヴァントすら参加予定である。
なんなら呼んでいない客さえ想定される。現に俺と百合先輩の買い出し中、キャスターと遭遇した。あのチェシャ猫みたいな笑顔は絶対に来る気だぞ。黒瀬先生も連れて。
当然ながら、ターキー1羽を焼けばそれで全員分の胃を満たせるわけが無かった。
俺と百合先輩の視界の中で机の上の食材はまだ山のようにあった。百合先輩の目のハイライトが消えた。ような気がした。きっと俺の目のハイライトも消えただろう。
「………やろっか」
「やりますか………」
百合先輩は包丁を。俺は皮むき器を手にした。戦いのゴングが鳴る。古書店を畳んだら駆けつけるという棗の救援を待ってはいられない。
荒波へと船を進ませる漁師のような覚悟を胸に秘めて、俺はジャガイモを手に取った。横では百合先輩が包丁の腹でニンニクを叩き潰していた。

31
「」んかくん 2020/12/26 (土) 01:16:52


「なんだか棗にはいつも皿を洗わせている気がする………ごめんな」
「え?あっ………そかな。別にいいよ、わたしてんかくんと並んでお皿洗うの好きだし。………新婚さんみたいで」
「ごめん、最後の方が声小さくて聞こえなかったんだけど何か言った?」
「えと、なんでもないなんでもない。あっ、でも確かに今日は大変だよね、量あるし」
大皿をてきぱきと洗っていた棗は俺のぼやきを受けて妙に慌てた素振りで返事をした。
夕飯の後に棗はよく後片付けを手伝ってくれる。今日もその習慣は棗の中で変わらないようだった。
俺が空っぽになった皿をキッチンの流しへと運んでいると、すぐさま棗は駆け寄ってきて手伝ってくれた。ありがたい話だ。なんせ今日はいつもの量の比ではない。
いつものメンバーの5人分に加え、事前に来るという予告のあったランサーとライダーの2人分。更に案の定押し掛けてきた黒瀬先生とキャスターで、計9人分。
当然数多くの料理を盛り付けた大皿だって嵩む。ひとりで全部やっつけるには不可能ではないにしてもやや手間取る分量の洗い物だ。
ちなみに散々飲み食いした彼らはとっくの昔に二次会へと突入していた。リビングでは酒盃と共にライダーとキャスターが調達してきた山のようなつまみが食い荒らされている。
この中で飲めないのは俺と百合先輩と棗の学生組しかいないので残りは酒宴へ全員参加だ。しかしだというのに百合先輩は泡の出る飲料をぱかぱか開けている気がするな。
セイバーは最初加わらないという顔をしていたが先程キャスターの挑発に乗せられて酒飲みの渦へと巻き込まれていった。
ああ見えてセイバーはかなり飲める。きっと潰されるということはないだろう。これはセイバーに対する信頼なのだ。そういうことにしておく。
まあ今日はパーティである。無礼講というやつだ。どれだけどんちゃん騒ぎしようが近所迷惑にならない程度なら目を瞑るとしよう。
こういう席は滅法得意な流姉さんとノリが良いライダーが楽しげに騒いでいる声を背に聞きながら俺と棗は分担作業でてきぱきと皿を洗っていた。
「あー………そういえば、今日のメインディッシュ、凄く美味しかったよね。えと、大変だったんでしょ?」
「ターキーのこと?うん、あれはね………。もうちょっとオーブンの扱いに慣れなきゃいけないなってなったよ」
棗が泡塗れにした皿をシンクの中で流しながら俺は半笑いを浮かべた。
実際、大変だったのだ。いざ取り出してアルミホイルを除く段にあたって、百合先輩の「………これまだ焼けてないんじゃない?」という呟きが無ければ危なかった。
科学が全てを都合よく管理して料理を成功に導いてくれるまではまだもう少しかかるようだった。具体的にはあと10年といくらかほど。
とはいえ、結果的には上手くいったのは僥倖と言うべきだろう。テーブルの中央に焼き上がったターキーを運んだときの、見つめる全員が口にした感嘆の溜息が俺と百合先輩に与えた感動はちょっとしたものだ。
まるで苦境を共に乗り越えた戦士のように互いに見つめ合って微笑み頷き返した。それくらいターキーはよく出来ていた。
艷やかな飴色に焼き上がったターキーは素晴らしい出来栄えだった。聞くところによるとターキーの肉は量があるだけでぱさぱさとしていて決して美味しくはないと言うが、そんなことはない。
実際にナイフを入れ、切り分けたターキーのふっくらとした身の柔らかさ。大仰な見た目に反する淡い味わい。
肉汁と赤ワインを合わせて作ったグレイビーソースの甘酸っぱさも丁度いい出来栄えだった。これがまた肉に合うだけではなくマッシュポテトにかけてもびっくりするくらい美味しい。
おそらく調理法の勝利だろう。我々はターキーが課した試練に勝利したのだ。口にしたランサーが微笑んだだけでそれは確実だった。
ライダーだって「朝廷で振る舞われた山鳥のどれよりも美味だ」と言うからには並み居る英霊たちの舌をも満足させたに違いない。………平安時代の料理文化のレベルを俺は知らないけれど。
「あっ、でも本音を言うとね。ううんターキーも美味しかったんだけどね?
 付け合わせの、スタンフィングだっけ。えーと、あれも美味しかったっていうか。その、あっちの方も美味しかったっていうか」
「分かる。ターキーの肉って淡白でソースをかけるの前提ってところあるもんな。それに比べると確かにあれは美味しかった………」
そう。これだけ肉も好評を得ておきながら最も評価が高かったのは百合先輩が自ら鍋を揺すったスタンフィングであったのだ。
まあ仕方ないと言えば仕方ない。ただでさえあれだけ肉の滋味を取り込んだスープで炊かれた米が香り高い野菜と強い旨味を持つターキーの内蔵の旨味さえ吸ったのだ。
モツ鍋の味を知る者ならば分かることだ。あの肉とその内臓たちの味わいを吸った野菜の美味を知るならば、それを米に置き換えたことでどうなるかなど想像するまでもないだろう。
当然ながら美味しいに決まっていた。満場一致でこれが一番美味い、とされたのも無理のないことである。
「………まあなんであれ、楽しんで貰えたなら良かったよ。あれこれと苦労した甲斐あった。
 ねえ、棗。唐突かも知れないけどさ」
「ん?どしたの、てんかくん」
「今年はいろいろあったけどさ。俺、こうやって棗とこんな風に一緒にクリスマスを迎えられて良かったなって、本当にそう思うよ」
俺はそういう風につい口にしてしまった。そのくらい多くの出来事が俺たちの間を駆け抜けていった。
聖杯戦争があった。互いに殺し、殺し合う。そういう経験があった。
そこで紡がれる物語は決して喚び出された英霊たちの間だけに留まらず、俺たち生きている人間の間も駆け抜けていった。
百合先輩の過去を知った。棗の秘密を知った。他にも円だとか黒瀬先生だとか、その他多くの人々の事情も知った。そして俺自身の真実も明らかになった。
こうしてサーヴァントすら誰ひとりとして欠けずに全てが終結しているのは何らかの奇跡が働いた結果に違いない。そうとしか思えない。
本当ならあり得ざる未来の中に今俺たちはいるのかもしれない。………だとしても構わない。俺がいるのが今ここなのは、間違いないことだ。
皿に付着していた泡を流して水切り台に置いた俺は次の皿が差し出されないことに気付いて棗の方を見た。洗剤をつけて洗う役割を担っていたはずの棗は皿ではなく俺を見つめていた。静かに。透き通るように。
穏やかに優しく微笑むままに、俺が担った役割を肯定するかのように、棗は柔らかく唇を緩めていた。
「うん、そだね。わたしも、あー………うん。そんな気がしてる。
 一歩間違えてたら取り返しのつかないことをしちゃってて、てんかくんと一緒にいられないようなことになってたかなぁ………って。
 だから、えと、えへへ。今は結構、幸せな気がするなぁ、って。そういう気がするよ」

32
「」んかくん 2020/12/26 (土) 01:17:06


はにかみ、頬を赤らめながら棗は言う。そんな顔をされたら、俺だって平気じゃいられない。
その信頼に応えなければという気持ちになってくる。棗が安心できるように、俺はいつだって俺らしくいないと。
きっと俺の幸福の形も、棗みたいな姿をしているのだろうから。
「………そっか。そう言ってくれるなら、どうにか間違いをせずに済んだのかな、俺は」
「きっとね。だといいなあ、って思うかな、わたしは」
「ありがたい話だ。それにしても間違えていたら、か。あんまり怖い可能性は嫌だけど、棗じゃない棗はちょっと見てみたい気もするな。
 髪染めてピアスとかして、黒尽くめのパンクな衣装をした不良っぽい棗も何処かにいたりして」
「あはは、ないない。絶対わたしそんな格好出来ないよー」
くすりと、サクラソウの花のようにゆったりと微笑んだ。
食器洗いを再開するとみるみるうちに片付いていった。二人がかりだし、単にいつもしていることの量が多いだけだ。
妙に満ち足りたふわふわした気分で皿を磨いていると、急に棗がぼそっと今気づいたかのように言った。
「あー、でもよく考えたら、そか、来年にはてんかくんいなくなっちゃうんだよね。幸せじゃなくなっちゃうなー」
「幸せじゃなくなるて、まあロンドンに行くからね………」
「わたしもついていっちゃおっかなぁ」
「え」
思わず横を向いて顔を見ると、稚気をその深い青色の瞳に浮かべた棗の顔がくしゃりと破顔した。悪戯っ子みたいに。
「結構本気だよ、てんかくん」
白い歯を見せて笑う棗がとても可愛らしく見えて、危うく俺は動揺のせいで手を滑らせて皿を落とすところだった。

33
「」んかくん 2020/12/26 (土) 01:17:36


夜闇の中をふたりで並んで歩く。吐く息は真っ白だ。もう12月も末だもの。寒くて当然だった。
空を見上げれば晴れていれば星が見えるんだろうが、生憎と曇り空のようで星は勿論月すら見当たらない。
半年前、こんな空の下で同じようにふたり歩いた。あの時は暑かったから俺は軽装で、彼女は霊体化出来なかったからレインコートを被せていたっけ。
七夕の夜に始まったあの狂騒は随分遠い日の出来事のように感じられるようになっていた。
「サーヴァントってのは全員ザルなのかな。流姉さんの本気のペースに付き合ってまだひとりも潰れてないの、俺初めて見たよ」
「ランサーやライダー、キャスターはともかく、私は騎士だからね。今風に言えばお酒を飲むのも仕事のうちだよ。
 酒宴の席は今以上に重要な意味を持っていたし、貴人の盃を受け取れないようでは騎士失格という時代だったんだ」
まあ公然と下戸を宣言して一滴も飲まない騎士というのもいたといえばいたけれど、と語るセイバーはあの夜のような鎧姿ではない。
外套を羽織って静かに歩くその姿は誰が見ても騎士ではなく現代の女性だった。ちょっと凛々しすぎるのはこの際置いておく。
俺の手にも、セイバーの手にも、大きめのポリ袋が吊られていた。表面には『シーマニア』と印字されている。
もう夜中だというのにまだ開いているのは旧土夏市街の市民にとって実に心強いスーパーだった。でもいずれはここにもコンビニが出来たりして変わっていくんだろう。
「悪いなセイバー。追加の酒やらつまみやら、買い出しに付き合わせちゃってさ」
「いや、そもそもテンカが買いに行くというのが筋違いだ。本当は用意していた酒をあっという間に飲みきったあの酔っ払いたちが行くべきなんだ。
 そもそも日本の法律を考えるとテンカが酒を買えるというのは、どうなんだ?」
「あそこは店長からパートのおばさんたちまでもう全員俺と顔馴染みだから………。俺と流姉さんの関係も把握済みってわけ」
勿論本当はいけないのだがそこはそれ。ご近所付き合いは時に法を悪しき方へと曲げるのである。
缶ビールとワインのボトルでずしりと重いビニール袋を握り直しながら「それに」と俺は言葉を続けた。
「ちょっと食べ過ぎちゃったし、散歩には丁度いい距離だよ。セイバーと一緒に歩けるしね」
「それは………」
ぐっとセイバーの言葉が詰まった。ほんの少し間が空く。
「………ずるいよテンカ。そう言われたら私は何も言えない。賑やかなのもいいけれど、確かに私もこうしてテンカと共にいられることを嬉しく思っているから」
「……………そ、そうか」
街灯に照らし出されたセイバーの横顔は薄く朱に染まっていた。
思った以上に直球の返事が来て、俺もつい鼓動が一瞬早くなってしまう。
セイバーのこんな表情も初めて見るものじゃない。もう半年も一緒にいれば何度かはセイバーの不意を突くことだってあって、その度にこんな表情をセイバーはした。
そう、もう半年。いいや、まだ半年だ。
この同年代の女の子のようでもあり、頼れる姉のようでもあり、世話の焼ける妹のようでもあり、然して正体は昔日を駆けた女騎士である彼女と、まだ半年しか一緒にいない。
俺の中ではもう何年も共に過ごしているような感覚だ。それくらいの濃密さが彼女と過ごす日々にはあった。
背中は当然として、命だって何度も預けた。喧嘩だって何度もしたし、同じ数だけ仲直りした。そしてふたりで全ての終わりを見届けた。
土夏に平和が戻って、去るはずの彼女はこうして今もいて、穏やかな日常を俺たちと共有している。
これがまるで夢のような日々でなくて何だというのだろう。セイバーが隣りにいることを普段通りでありきたりと感じたことは一度も無い。
彼女と体験する全てがいつだって新鮮だった。そう、今だって。
「それにしてもテンカ。君は酒の肴を買うというからてっきり既製品を買うものだと思っていたんだ。
 ………なんでこの時間に材料から買ってるんだ。さっき洗い物してたはずだよね。あれだけたくさんの料理を作ったのにまだ作るつもりなのかい?」
「き、厳しいなあセイバーが………。そんな凝ったものを作る予定はさすがに無いよ。それに出来たてのほうが美味しいじゃないか」
「テンカは彼らに甘すぎなんだ。まあリュウはいいよ。キャスターへやけに甘いのは私は気に入らないな」
並んで歩くセイバーがじろりと生暖かい目で俺をひと睨みした。そんな目で見ないでください。どうやら本能的に傍若無人な女性に弱いらしいのです、俺は。
「ま、まあまあ。それにセイバーだってまだ飲むんだろ?」
「酔った彼らが何かしでかさないか監視する必要があるからね。正直なところ、今こうして歩いている間も私たちが留守にしている我が家のことが少し気がかりだ」
「は、ははは………なら、俺には手を抜くほうが難しい。セイバーには美味しいと思ってほしいからさ」
レシピは既に頭の中にいくつか浮かんでいた。せっかくパーティの後なので余り物をフル活用だ。
余ったマッシュポテトを味を整えたりサラダの余りを混ぜたりして耐熱皿に敷き詰め、上からコンビーフ、チーズを重ねる。
胡椒をかけたらオーブンに突っ込んで5分ほど。チーズが溶けたら完成。これでなんちゃってグラタンの完成。
焼豚の残りがあったから豚平焼きを作ってもいい。溶き卵で包んで上からソースを塗るだけで完成だ。
カプレーゼなんてそれこそあっという間だ。既にカットされてあるトマトと既にカットされてあるモッツァレラチーズと余っているバジルの上からオリーブオイルをどばどばかけるだけ。
塩と胡椒で味を整えたら出来上がり。全てが手早く出来上がるものばかりだ。何も問題はない。
黙って説明を聞いていたセイバーは微妙な表情を浮かべて指摘した。

34
「」んかくん 2020/12/26 (土) 01:17:52


「それ、全部やったらやっぱりそれなりの時間がかかるんじゃないか?」
「………大丈夫。大丈夫だ。すぐ出来るものしかない。全然時間なんかかからない。そう、15分か20分はかかった内に入らない」
はあ、と溜息を付いたセイバーはどうやら呆れたようだった。あのねテンカと諭すように話を切り出した。
「どうせこうなるとは思っていたんだ。君はそういう人だからね。
 そもそも私はクリスマスという催しには縁が無いし実感も無い。ただ皆が祝っている。幸せそうな催事だ。それだけで私にとってはいいんだ。
 でも案の定君は食事している時以外は働きっ放しじゃないか。私はね、テンカ。………君にも楽しんでほしいんだよ、祝いの席を」
「………セイバー」
軽く俺より先に進み出たセイバーが俺の顔を覗き込むようにじっと見つめてきた。
最初にあったときからずっと変わらない、涼やかな静謐を帯びた瞳が暗闇の中できらきらと光って見えた。
俺はいつだってこの目と視線が合うとどきりとしてしまうのだ。多分、これからもずっと。
「私の望みは間違っているかな、テンカ」
「いや、セイバーは正しい。確かに料理を運んだり片付けをしたりで俺は皆の輪の中にいなかったな。
 でもひとつだけ訂正させてくれ。俺は楽しくないなんてことは無かったよ。俺の作ったもので皆が笑ってくれていた。
 そういうのはなんというか、好きなんだ」
「はあ。やれやれ。そうだね、君はそういう人だよ。分かった。酒の肴を作るのは私も手伝う。セイバーは向こうで楽しんでいてくれ、なんて言わせないからね」
「了解。それじゃよろしくおねがいします、と言っておこうかな」
くすくすと互いに笑い合う。その視界の中に白くちらつく何かが見えた。
「あ………」
「雪、降ってきたんだね」
空からはゆっくりと眠たくなるような緩慢さで雪片が地上へと舞い降りていた。
そういえば天気予報でも夜中から雪が降るかも、とか言っていたっけ。ホワイトクリスマスなんて何年ぶりだろうか。
視線を前へと戻すと、点々と続いている街灯が雪を照らし出してくっきりと陰影を作り上げている。映画の中にいるみたいな、どこか幻想的な光景だった。
それを見て、俺はようやく思い出したのだ。
「そうだ、セイバー。まだ伝えてなかったことを思い出した。乾杯の時にも言ったけど面と向かってはまだだったな、って」
俺は立ち止まった。数歩先に進んだセイバーも立ち止まってくるりと振り返る。
セイバーは丁度街灯の真下にいたので、まるでスポットライトを浴びているみたいに暗闇の中で美しく佇んでいた。
「メリークリスマス、セイバー。
 こんな俺だけど、これからも一緒にいて欲しい。来年もよろしく………って言うのは、ちょっと早いけどね」
世界中の何よりも美しい拵えの剣がきょとんとした表情をしたのも束の間。
くすりと、キキョウの花のようにゆったりと微笑んだ。
「───メリークリスマス、テンカ」