③ 流姉さんは俺の肯定に対しそう答えるだけで根掘り葉掘り聞いていくるようなことはない。 流姉さんのそういう聞くべきことと聞かない方がいいことを敏感に嗅ぎ分けるセンスには内心感謝していた。 俺にとって夢といえばアレのことだった。アレは説明しろと言われても出来るものではない。 発作を起こしたり体調を崩したりした時に決まって見る、魂が焦げ付くような恐ろしい夢。 流姉さん曰く、その夢を見ている時の俺は酷い魘され方をしているらしい。 流姉さんのことだ。内心決して穏やかではないだろう。それでも俺に気を遣わせまいとして憂慮をおくびにも出さない。 ありがたいが、それ以上に申し訳なかった。 親代わりのこの人に俺はたくさんのことをしてもらってばかりだ。これまでの人生で、どれだけのことをこの人に返せただろう。 「………うん、いつものみたいね。少なくとも今日1日は安静にしていなさい。きっとそれで良くなるでしょう」 「ありがとう………ごめんね」 「はいはい。てんちゃん、お腹減ってない?」 「少し………でも流姉さん、料理できないでしょ」 「ふふーん。そう言うと思ってレトルトのお粥を買ってきてあるのだ。 い、いくらなんでもお湯沸かしてレトルト温めるくらいは私にだって出来るからね!?」 そうですね。そのくらいは出来ないと現代人としてどうかと思います。 お粥のレトルトをこれみよがしに見せびらかす流姉さんに苦笑することで、陰鬱な気分がほんの少し晴れた。 まったく、この人には敵わない。 「それに気になってた漫画の全巻セットも持ってきたからてんちゃんちで半日過ごすのに何の支障もないんだな~。 じゃ、私これ温めてくるね!温められるからね!そこんとこ心配しちゃダメよてんちゃん!」 「………分かった分かった。お願い、流姉さん」 俺がそう言うとにっこりと笑って流姉さんは俺の部屋を出ていった。 流姉さんが出ていったのを確かめたあとで、俺は小さく溜め息を付いた。身体に籠もった熱のせいで息すら熱い。 ひとりになると、反芻されるのはいつもの夢。 あの夢は終わりのない地獄の底。命あることを罪とする俺の刑場。 ―――それでも。このユメには不思議なことに、終わりがある。 俺にとって最も苦しいことは痛みではなく、その終わりだった。 どうしていつも、その終わりの果てに、この手には美しい一輪の花を握っているのだろう。 ………階下から流姉さんの悲鳴が聞こえてくる。お湯を沸騰させるだけなのに悪戦苦闘しているらしい。 苦笑の形に頬が無理やり引き攣られる。十影典河。もうすぐ2年生になろうかという冬の事だった。
② そうして、目が覚めた。 ゆっくりと瞼を開いていく。焦点が少しずつ定まっていく像の中には人の顔がひとつ映っていた。 誰かと思うまでもない。それは物心ついたときからずっと目にしてきた人の顔だ。 黒髪のショートヘア。昔、といってもこの人が大学生だった頃はまだ長い髪だった。どちらも似合っているからいいのだけれど。 「………流姉さん。今日は1日中診療じゃなかったの」 「ん、ちょっと同僚に頼んで午前中だけ代わってもらったわ。 急なことでも快く引き受けてもらえるのはお姉ちゃんの人徳の賜物なのです、ぶい」 少しおどけた調子で笑った流姉さんがVサインをする。つられて俺も少し笑ってしまった。 布団の中で鈍い頭を少しずつ回し、自分の状態を確かめる。 視界がぼんやりと滲み、悪寒が体を蝕んでいる。寒いのはそれだけではなく、びっしょりと寝汗をかいているからだろう。 午後の授業中に体調が悪化しだして、それでもその時はまだ歩いて帰ることが出来る範疇だった。 しかしそれで無理を押して自分の家まで辿り着いて、その後の記憶があまりない。 辛うじて覚えているのは流姉さんに気分が優れないという旨をメールで送ったことだけだ。 首を回すことすら辛かったが、どうにか少しだけ横に倒して壁掛けの時計を伺う。次の日の朝であることを針が示していた。 「昨日の夜に仕事終えてこっちに来たら、ベッドの上でうんうん唸っているんですもの。 どうせ今日もしばらくはへばってるだろうと思ったから早めに連絡して正解だったわね」 鞄を開いててきぱきと診療道具を取り出す内科医。そうか。ということは昨日の晩はうちに流姉さんは泊まったのか。 「………昨日の夜、何食べたの」 「冷蔵庫の中の残り物! と言いたいところだったけどなぁんにも無かったから閉店時間ギリギリの『シーマニア』に飛び込んだわ」 「ごめん………」 「いいのよ。このへんにコンビニが無いのが悪いの」 そうじゃなくて。何も用意できていなかったことを謝ったのだけれど。 微妙に食い違う会話はいつものこと。流姉さんは特に躊躇ったり俺に了解を得ること無く俺のシャツをめくって胸へ聴診器を当てた。 その後体温計で体温を測ったり、俺の口を開けさせて喉奥の様子を確かめたり。内科医として当然の処置を行っていく。 「またいつもの夢?」 身体のあちこちを触診しながら流姉さんは聞いてきた。 「………うん」 「そっか」
① ■の命は苦痛と共にあった。 もう何度体験したか分からない、地の獄をひたひたと歩いていく作業。 赤。黒。まるで粉砕機に押し込まれたみたい。■がぐちゃぐちゃのどろどろになって押し潰される。 赤。黒。まるでミキサーに注がれたみたい。■がぐちゃぐちゃのどろどろになって掻き混ぜられる。 赤。黒。まるでコンロに焚べられたみたい。■がぐちゃぐちゃのどろどろになって沸騰する。 歩みが苦しい。呼吸が苦しい。鼓動が苦しい。生きることが苦しい。 鉄砲水に押し流される他愛のない命のよう。水底と濁流の間で磨り潰されてぺしゃんこにされる。 押し寄せる真っ黒い波濤の全てが■を叱責し、弾劾し、非難していた。 お前が生きているのはおかしい。お前だけ生きているのはおかしい。お前は終わっていなければならない命だ。 ああ。それに対して他に何が言えるというのだろう。 すみません。ごめんなさい。のうのうと生を繋いでいて申し訳ありません。 身を平たくし、縮こまらせて、それがどうにか過ぎ去るのをただ待つ■の姿はとうに骸のようだった。 痛い。それでも生きようとする肉体器官の全てがその罵りを浴びて苦痛を叫ぶ。 血の一滴一滴までもが砂に変わるかのようだ。こんなに苦しいのなら、いっそ生など欲しくはない。 けれど■を否定するその痛みこそが、痛むことで■に己の生を実感させていた。 ここは終わりのない地獄の底。命あることを罪とする■の刑場。 ―――それでも。このユメには不思議なことに、終わりがある。 ■にとって最も苦しいことは痛みではなく、その終わりだった。 どうしていつも、その終わりの果てに、この手には美しい一輪の花を握っているのだろう―――
正確には、恐る恐るだったかもしれない。 生前はこれで子供ができてしまうと教えられていたし、召喚後に因果関係は無いと学んでからも誰とも交わすことは無かった。 だから、気が急いて失敗したら―――と思い、パーシヴァルは慎重に、結果としてとても長い口づけを交わした。
ゆっくりと距離を離す、再び視界に映った互いの表情が茹で蛸のようになっていて、恥ずかしい反面少し可笑しい。 もしかしたら、これまでのどの戦いよりも緊張したかもしれない。そんなアルスの体からふにゃと力が抜けた。
「そ、そうか。僕……余は!嬉しく思うぞ!」 「ふふっ。言葉遣い、今直しても遅いですよ」 「あぅぅ……」 「いいんです。いいんですよ。そんな所も私は好きなんですから……」
そう言って、パーシヴァルは体重を預けてきたアルスの身体を抱きしめる。 彼の暖かい体温を全身に感じる。それがじんわりと自身に染み渡り、心に溜まった波を和らげるように感じた。 強く求めるように抱き続ける。そうでなければ、きっと溜まった波はこの身を裂いてしまうだろうから。 共に体温を―――2人の「好き」を分かち合いたいと、そうパーシヴァルの心は求めていた。
だから、このまま時が永遠に止まって欲しいと――― 時? 我に帰ったように、今の時刻を予測で割り出す。……深夜過ぎ、というか抜け出た時点で刻限越えである。
「――――――早く戻りましょうアルスくん!これ絶対バレます!!説教では済まないやつです!!!」 「む、む!?いや待たれよ!裏庭から忍び込めばあるいは……!」 「そそそそうですね!?為せば成る!とか言いますし!ゆっくり、ゆっくり行けば大丈夫です!!」
その後、自宅屋敷へのスニーキングは速攻で見つかり、メイド長にこってりと叱られ正座させられた。
fin
沈黙。しかし、戸惑いの中に、答えを見出しつつあった。 何もない日常の中なら、きっぱりと否定していたかもしれない。 生まれて間もない頃から10年以上世話をして、成長を見守ってきた。その在り方は姉弟か、もはや親子に近い。 そんな自分が、アルスを「そんな関係」と認識することは、きっと不可能だろうとパーシヴァルは確信していた。 そう、何事もなかったならば。
パーシヴァルの脳裏に浮かぶのは、10年に渡るアルスと過ごした日々。彼の日常と―――戦いの中の姿。 負傷した彼が弱々しく握り返した手が、今は自分の手を強く握りしめている。 挫折に打ちひしがれた小さな姿が、今は少しだけ大きくなったように映る。 あの時、 心身を子供に返した時、黄昏に照って輝いた翠の眼が、今は星の煌めきを抱いてこちらを見つめている。 天使様のような彼の輝きから目を離せなかった。その本当の理由が、今なら分かる。
アルスくん、変わったんだ。 もう小さな子供ではない。可愛い弟のような存在という自分の定義を飛び越えて、これから、きっと己の王道を見つけていく。 そして、今は弟でも王でもない。彼も、私も、唯一人として向かい合って―――鼓動を、とても近くに感じている。
なんだ。 ずっと前から、答えは決まっていたんだ。
握られた手を強く握り返し、胸元に寄せる。同時に少し身を屈めて、少年と目線を合わせた。 そして、
「うん」 「私も、好きだよ。アルスくん」
そう呟いて、 静かに、互いの唇を重ねた。
一歩踏み出す、彼女のすぐ近くまで。 手を前に出せば、彼女に届く。 そして―――彼女の手を取って、強く握りしめた。
「えっ―――?」
「……パーシヴァル!余は――――――」 「――――――僕は!あなたの事が好きです!!」
ただ、力の限りはっきりと叫ぶ。その瞬間、頭が真っ白に弾けた―――お互いに。 王と騎士ではない。マスターとサーヴァントでも、家族のような関係でもない。 これまでの十数年にあった2人の関係性、その全てを放り投げて。1人の少年が、1人の女性に想いを告げた。
「―――え、だって。そんな……え?」 「一体、そんなの。いつから―――」 「………覚えてない。パーシヴァルと過ごして、しばらくしてから」 「パーシヴァルのことで頭がいっぱいになったり、胸がギュってなったり、熱くなったり……」 「それって……好きだってことだと、思うんだ。だから、それを伝えたくて……最初からそのために、あなたをここに連れてきたんだ」 「だけど、苦しくて。うまく言えなくて……」
普段の尊大であろうとする言葉遣いは既に無い。 年相応の言葉を辿々しく繋げながら、アルスが懸命に自身の意思を吐き出し続ける。 口にすればなんと陳腐な言葉だろうが、止めることはない。こんな子供じみた恋心が、自身にとっての真実なのだから。
「……パーシヴァル」 「答えてほしいんだ。パーシヴァルは、僕のことを、どう思ってるのか」
きっと、受け入れられたとしても、否定されたとしても、元の関係に戻ることは叶わないだろう。 それでも、怯えて終わりたくない。これで何もかも終わってしまったとしても、全部を受け入れる。 だから、どうか、この気持ちを受け取って。
「―――――――――」
「それで……だ、本題なのだが……」
今夜の彼は、どこかしら歯切れが悪い。日頃凛々しく振る舞う姿とは対照的なほどに。 その理由を見出せず、パーシヴァルが再び首を傾げた。
「……戦いの中では、何度も危機に陥った。余も、そしてそなたも―――いつ喪われたとておかしくは無かっただろう」 「余はそなたを―――失いたくなどはない。そればかりを余は恐れてきたのだ」
「アルスくん……心配してくれていたんですね。えへへ、申し訳ないとは思っていますが、少し照れ臭いような……」
パーシヴァルが朗らかに微笑む。いつものように。 違う。
「だから……これからも無理はせぬように。そなたは、その。余の大事な―――騎士であるが故……」 「……勿論です!私はあなたのサーヴァント。いつまでもアルスくんと共にありますよ!」
パーシヴァルが胸を張って応える。いつものように。 違う、本当に伝えたいのは、もっと――― 少しずつ近づけてきた脚が止まる。言葉を重ねるごとに言い淀み、淀むほどに遠く離れていく。 それも本心だ。彼は確かにパーシヴァルの身を案じていた、確かに共にあって欲しいと願った。 しかし、全てを伝え切る事ができない。小さな体に重圧がのしかかり、脚は重く、言葉は圧し潰される。 だけど。
だけど、惑うな。 逃げるな。 言わなければ。 繋いだ運命に問うのだ。ここで伝えなければ―――きっと、何も変わらない。
「―――待って、パーシヴァル!!」
「それにしても、どうしたんですアルスくん?こんなところに」
既に夜更け。 開発予定地の真新しい高台に立つのは、屋敷を抜け出たアルス/XXXIとパーシヴァルの二人だけ。 眼下には、繁華街の難波に負けず劣らず梅田の街が人工の灯で煌めき、行き交う人々で賑わっている。 対して高台の上は虫の音でも聞こえそうなほど静かに、眼上には星の明かりばかりが梅田の天井を照らしている。 そんな場所に急に行きたいと言い出したアルスのことを、パーシヴァルは疑問を浸した眼で見つめていた。
「うむ、その。ここのところ忙しく、ゆっくりできなかったのでな」 「―――そうですね、思い返せば色々なことがあったと思います」
少し詰まり気味に答えたアルスに、パーシヴァルが過去の記憶へ思考を巡らせる。 一年近くになるか。直近に起きた出来事は、それまでの自分たちの歩みに比してとても波乱に満ちていた。 始まりはきっと、「運び屋」ツクシが巻き込まれたトラブルに治安維持措置としてアルスが出向いた日。 それから運命は回り出した。 相次ぐ怪事件と激化する都市聖杯戦争、「日本」のクーデター、アルスの兄弟姉妹たる王器との競争。 そして、自身の姉から受け継ぎ、自身に埋め込まれた絶望の業との対峙。
数々の戦いを経て、再び束の間の平穏を取り戻した梅田の風景は、二人にとっては以前と異なって見えた。 何も変わらない日常などはない。複雑な意思が絡み合い、繊細なバランスで成り立つ均衡の上に立っている日常。 いつか壊れゆく、しかしその瞬間は誰にも予見できない日常。誰もそれを気づかぬまま過ごす日常――― だからこそ、いずれ来るその時までの全てを尊び、守っていかなければならない。
更宵喪束=さらよひ・もつか 黄泉平坂(よもつひらさか)のアナグラム
泥を練るのに色々余裕がないと難しいですからね… 無理せずに日常に支障が無いよう頑張ってください!
恋愛描写に手を出すのに精神力に余裕ある日を待ってたら色々あっていつのまにかめちゃくちゃ待たせてしまってすいませんパパさん! き……近日! 近日出せるかはともかく近日がんばります!
アンリエッタ・クロイツェルレフェルン(Requiem)の魔術(呪術の副産物的能力)、『人の翳』(Schadenfreude)の詳細な解説を行う。 かつて負の呪いは彼女の肉体を媒介に人体を模す事で辛うじて成形されていたが、彼女の精神的成長、および心臓部の聖杯という憑代の獲得に伴ってある程度ヒトの容貌から乖離しても安定化する様になった。 これによって実際の腕では無い部分からも生やす事が可能となり、対HCUでは多種類の腕を何本も展開して戦闘を行う。 此処では主に使用する四種の腕を紹介する。
・『指』(フィンガー) 先端が尖った管のような腕。動作が速く正確で、長距離の伸張が可能。 幾本も生やして伸ばす事で多数の敵にも対応可能だが、ある同業者に「イソギンチャク」と形容されて以降はあまり持ち出さなくなった。 細く強度も低いが、対生物・対霊体であれば呪詛の効果によって十分な致死の脅威となる。 違法回収業者等の対人戦において強力。
・『右』(リヒテ) 蟹のはさみのような二本指の腕。『一段解錠』(ツェーン)状態の右腕に相当するためこう呼称される。 より太く巨大となり、単純な破壊力に優れ、重機のように対象を破砕できる。 伸縮性がなく精密作業に向かないが、「凄鋼」をボロ切れのように捻じ切り、叩き潰す程の膂力を発揮する。対HCU戦の主力。
・『左』(リンケ) クレーンのような三本指の腕。『二段解錠』(ツヴァンツィヒ)状態の左腕に相当するためこう呼称される。 『指』以上に伸縮性に富み、なぎ払いなどの範囲攻撃に使えるほか、精密な作業に向いている。物体の投擲や正体不明の物質の調査、遥か遠くの危険地帯に存在する目標を掴み取るなど、主に斥候に活躍する事が多い。
・『三本目』(ドライ) 五本の指を持ち、器用さと力を兼ね備えた万能の腕。『三段解錠』(ドライスィヒ)状態の「三本目」に相当する。この腕は一本しか生やせない。 巨大かつ長大、伸縮可能でさらに力も強いが、心臓に眠る負の怪物「泥濁翳核」(シュヴァルツ・ハルツ)そのものの腕であるため、運用に際して精神に対する影響が大きいデメリットは変わらない。 彼女がこれを持ち出すのは強力な敵を相手取る時、あるいは多数のロストHCUを相手取る際など。
・『極源散開』(アン=エントリヒ) 自ら全身に負を露出させ、悪性の呪いの許す儘に暴れる状態。心臓部の呪詛が顕在化した怪物である「泥濁翳核」(シュヴァルツ・ハルツ)に変貌する。 彼女の精神力如何に関わらずこれを増長させる事は”悪意を許容する”事を意味する為、当形態時には彼女の自我や自意識は存在しないと言ってよい。共生すれども共存はしていないのだ。 変身時に定めた極めて大雑把な目的(「正面突撃」「迂回して突撃」「南に撤退」等)を実行するなど行動に指向性を持たせる事は出来るが、基本的に敵味方、生物非生物を問わず、おぞましい悲鳴のような叫び声を上げながら目に付いた物体に片端から攻撃を加えようとする。 とは言え心臓部が破壊されない限り即座に再生される耐久力、何もかも破壊するが如き暴力は無二の強力さを誇り、窮地からの脱出や劣勢の逆転など、彼女や同行者の命を救った場面は多い。 使用後は体力をほぼ使い果たし、全身に痣のような紋様が浮かび上がり、激しい筋肉痛に襲われる。
kagemiya
されど汝は人に非ざる御身なるべし。 汝、災禍を常世に齎す者。 我はその破局を臨む者────
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「……分かった。ランサーには、私がマスターって言う自覚が無いのね。」 「そう言う事なら、早く私を認めさせないと。」
「?……待て、何故そうなる?」
「あなたがそう言ったんですぅー。」
「???」
怪訝な顔をするランサーを尻目に、言葉を続ける。
「……でも困ったな。真名が分からないと、あなたがどれぐらい強いのかも分からないから。」
「それならば問題ない。貴方がマスターであればな。」 「(……契約(パス)を介して供給されるこの魔力量……彼女が卓越した魔術師である事に疑いの余地はない)」 「(見た目は若いが、才能も実力も申し分ない。私も全力をもって戦えるだろう。……精神面が如何かは、今は判らないが……)」
「─────ふーん。」
こちらを信用してるんだか、信用してないんだか。……いまいち真意が掴み取れないサーヴァントだが、それでも問題無いと言う程度には、腕に覚えがあるということだろう。 ならば私はマスターとして、彼を思う存分に使うまでだ。
「ならランサー。さっそく仕事があるんだけど。」
「早くもか。良いだろう、ただ私は貴方の槍として、道を阻む障害を─────」
ランサーが決め台詞を言うか言わないかといううちに、私はクリップどめされた大量の書類と電卓を渡した。
「────────ん?」
「うち、花屋やってるの。それ今月分の収支。朝までに計算しておいてくれると助かるな。」
「─────────」
呆然とすること十秒。 ようやく思考を取り戻したランサーは、地下室から出ようとする私を急いで呼び止めた。
「……百合、これは……」
「使い魔、でしょ?寝なくても良いのは知ってるんだから。私は明日に備えて寝るけど、よろしくね。」
「それは、そうだが……」
「マスターは私。貴方はサーヴァント。いい?」
ここまで言ったら流石に反論も出来なくなったと見える。黙って机に向かって書類を広げ始めたのを確認すると、私は二階の自室に戻って行った。 ……私がマスターって事は、まず分からせられたかな。
「……覚悟なら、してる。」
「聖杯戦争は児戯では無いぞ。」
しかし再びランサーは、私の根底を突くように覚悟を問い、かえって決意を揺るがすような発言を繰り返す。それは私の不安定な足元を、躊躇なく崩そうとするような冷ややかさを持っていて。 ……そしてそれは、私に少し苛立ちを抱かせるには十分だった。 私はずけずけとランサーの目の前まで歩いて行って、顔を近付けて宣言する。
「……いい?私はこの日の為にずっと準備して来たんだよ。私に資格が無いって言うつもりなら、マスターとして許さないから。」
ランサーは目を少し開いて、変わらずこちらを凝視していた。しかし、その中に含まれる感情は……”驚き”が強かったように見えた。
「む……失礼した」
これは少し意外だった。 今までの態度から、つっけんどんで歯に絹着せぬ人物だと判断しかけたのだが。割合、話は分かるようだ。 少なくとも今のちょっとした諍いで、悪人の類では無いらしい事が確かになったのは収穫だっただろうか。
「そう……分かればいいけど。」 「それでランサー、あなたはどこのサーヴァントなの?」
「……ああ、私の真名は……」
そこまで口にして、ランサーは口を噤む。 何かしら思案しているような一瞬の間を置いて、彼はこう言った。
「……いや、明かさない方が良いだろう。不都合になるかも知れない」
「不都合?」
「ああ。万が一露呈すれば、此方が不利になる」
成程。年齢が若いから、実力不足と判断されたのだろうか。 未だに道に迷っているような私の本質を見透かされているのならば仕方ないが、そう簡単に真名を教える事は無いということか。 ……明らかにナメられてる。それなら、こっちにも考えがあるんだから。
陶磁のように白い肌が見えた。次には燻んだ銀の頭髪。その閉じた目蓋が徐々に開かれると同時に、璧玉のような蒼色の瞳が顕となる。 それは男だった。人形のように無機質な、然し憂いを含んだ表情。中世欧州然とした鎧に身を包み、手には鳥のような意匠の施された長大な獲物。
「───────」
私は未だに、眼前の出来事が現実かどうかを測り兼ねていた。自ら信念を持って喚び出した筈の使い魔。 それが圧倒的な存在感と共に目の前に顕現した事に対し、動揺を隠しきれなかった。 まるで人間と大差ない。……否、それは違う。 間違いなく、目の前に在る”これ”は、圧倒的な魔力の塊だ。人間の姿をしているけど、人間以上の”亡霊”であることに、疑いの余地はなかった。
圧倒されているうちに、サーヴァントは完全にこちらを認識した様だった。 手に持った獲物を狭い室内で器用に振り回し、石突を床に突き立てる。 鋭い金属音が室内に響き渡ると共に、私も我に帰る。それと同時に、この男が口を開いた。
「……サーヴァント、ランサー。召喚に応じ参上した。」
「……ランサー……」
男の言葉を反芻する。 最速の英霊とも呼ばれるランサーは、聖杯戦争に於いても有力な三騎士のクラスの一端だ。 セイバーで無かったのは少し残念だが、何が出て来るか分からない状態で喚び出されたクラスとしては、十二分の成果と言えるだろう。
「貴方が、私のマスターか?」
凝として此方を見据えるランサーが私に問いかける。またしても思索に意識を奪われていた私は目の前のサーヴァントに意識を戻し、はっきりと返答した。
「───百合。栗野百合。」 「あなたを喚び出したのは、私……。」
首元を晒して、右肩の令呪……マスターとしての象徴を見せながら言う。
「……良いだろう。」
納得したような、納得していないような調子で淡々とそれを認めたランサーは、その宝石のような双眸をこちらに向け、問い掛けるように言う。
「百合。私は今より、貴方の槍と成ろう。」 「但し、共に戦い抜く覚悟が有る限りに於いては……だがな。」
まるでこちらを見透かしているかのように、試すような言葉を投げ掛けてくる様に、少しどきりとさせられる。 やはりサーヴァントはサーヴァント。人智を超えた存在である以上は、こちらの些細な悩みなども手に取るように分かるという事だろうか。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。 繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
「────Αρχή(セット)」
私の中にある、形のないスイッチを入れる。 体の中身が入れ替わるような感覚。 通常の神経が反転して、魔力を伝わらせる回路へと切り替わる。
これより栗野百合は人ではなく、ただ、神秘を成し得る為だけの部品となる。
「────ッ」
身体が熱い。 大気に満たされるマナが肉体に吸収され、私の身体を満たし、同時に崩壊させるような感覚。 魔術回路である私を、私の肉体が拒絶する。全身を刺す、這いずるような痛みに目を瞑り、汗を流す。 しかし同時に─────そこには、確かな手応えがあった。
正直に言って、私はこの瞬間まで怖れていた。魔術の道を歩むことを。戦争に参加することを。 でも、もう後戻りはできない。今の私はただ魔力を注ぎ込む電源として、召喚陣というシステムを稼働させるだけだ。
「──────告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。」
視界が閉ざされる。 血の滲むような声で、言葉を最後まで紡ぐ。
「誓いを此処に。 我は常世総ての善と成る者、 我は常世総ての悪を敷く者。
汝三大の言霊を纏う七天、 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ───!」
──────閉じた網膜の向こうで、眩い閃光が弾けるのを感じた。 乱舞するエーテルの濁流の中にあってなお、私はその向こう側に何かが現れた感覚というものは無かった。 徐々に視覚が回復する。私の目にはその時、暗い地下室の景色すらもまばゆく鮮烈に映っていた。
───────── ────── ────
深夜。 時計の針は2時を指している。 念には念を入れて、時報で確認もしたから間違いない。 これが私にとって、最も波長の良い時間だった。
「───消去の中に退去。退去の陣を四つ囲んで召喚の陣で囲む……」
地下室の床に陣を刻む。 サーヴァント召喚にさして大きな儀式は必要ない。 聖杯が勝手に招いてくれる。マスターは彼等に魔力を提供するのが第一。
「───素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。 降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
本来なら血液で描くところだが、今回は魔力を与えて育てた薔薇の染液で。 咲く意味は「結合」。少しは縁になってくれると良いが……実質的には験担ぎのようなものだ。
家に帰ってきた私の目に最初に入ってきたのは、点滅する留守電のランプだった。
「………そうだよね。もう、いい加減に催促が来るか……」
電話番号を見ただけで誰からの物かわかるし、内容も予想できる。 凍巳紗灯鳥……彼女からのものだ。わざわざ掛けてくるということは、つまり…… 再生ボタンを押すと、受話器から女性の声がした。
『もしもし。分かってると思うけど、期限は明日までですからね。残る席は少ないんですから。』 『君に限ってそういう事は無いでしょうけど───もしマスターの権利を放棄するというのなら、今日中に連絡して?』
『君には既に令呪の兆しが現れているのだから、早くサーヴァントを召喚して令呪を開いて下さい。もっとも、聖杯戦争に参加しないといのならば話は別です。教会はいつでも君を歓迎していますからね。』 『それではまた、クリノさん。』
留守電はそこで切れた。 戦うなら今日中に支度しろ。戦わないなら目障りだから早く降りろ。 監督役としては尤もだが、私にとっては神経を逆撫でするような言葉に変わりはない。
「……言われなくても。」
引き延ばしも今日が限界だ。 これまでは父さんの遺言と葛藤し続けてきた。……だが、もうそうもいかない。 戦う準備はできている。私は……この戦争に参加すると決めたのだから。
「何か縁のあるものが遺ってれば、良かったんだけどな。」
聖杯戦争に参加する魔術師は、この日に備えて召喚用の触媒を用意するものなのだが、私には”縁”を示す品物がなかった。 サーヴァントは呼び出せる。その気になれば今すぐに呼び出して契約もできる。 この街の霊地は栗野の管轄だから、良い条件も活性化の時間帯も知っている。 だが、触媒が無いのではコンパス無しで航海に出るようなものだ。一種の賭けだ。 しかし生憎触媒はおろか、戦争に関する文献など、形に残る記録は私の家には一切遺されていない。父から教わった事が全てだ。
「(…やっぱり、参加するなって事なのかな。)」
そんな予感が私の脳裏を迸るが、すぐに振り払う。 昨夜、地下室で発見したものは確かに凄いものだった。閉じると時間が内部で凍るカバン。18年前の火事を逃れた数少ないもので、昔から……「栗野」が「クリノス」だった時代から、貴重な花の保存に使われていたらしい。家宝やら何やらが沢山入っているので、これが実質的に栗野の至宝なんだろう。 不凋花アマラントスの球根をはじめ、黒蓮ロートス、シダの花、竹の花、月下美人、銀竜草、優曇華…… 既に絶滅した花や存在しないとされている花まで含めた、伝説的な花ばかりだ。 これはこれで凄いが、しかしサーヴァント召喚の役に立つかと言えば……
「……まあ、いいか。」 「”不凋花は全てを咲く”。……何が出てきても、おかしくないもんね」
栗野随一の至宝、不凋花の球根を握りしめる。 こうなったら本番勝負だ。
「なんだ百合!今日はもう帰るのか?」
放課後。3-Aの教室を出がかりに、聴き慣れた声に呼び止められた。 心地よく低い声に反射的に振り返り、私は声の主に微笑んで言う。
「うん、今から帰るところだよ。定休日だけど、用事があるから」
「そうか。バイトも無しに一人でやってんだもんな。大変だなぁ。」 「園芸部で育ててたハイビスカスが開花したんだよ。一番に見て貰いたかったんだけどなぁ」
この子は絹留雅美。 学校の中でも、私の親友と呼べるだけの関係だ。周りからは粗野で凶暴のレッテルを貼られている……いわゆる不良生徒。『園芸部の女帝』とか呼ばれているらしい。 なぜか私とはかなり波長が合うらしくて、花を求めて店に来てからは指数関数的に仲良くなっていったっけ。 たぶん、心ねが似てるのかもしれないけど。
「ほんと!?ハワイアンだったよね!見たかったな……」
「仕事なら仕方ねえよ。また明日見に来な。一日しか咲かねえわけじゃなし」
「……うん、そうする。じゃ……」
「おう、またな!」
そういって彼女は、私の言う「用事」を店の事だと思って、気を遣って送り出してくれた。 このように、とても優しい子なのだ。側から見ている限りでは怖いところもあるかもしれないが。 私にとっては、日常のシーンの象徴。魔術師という身の上からすれば、一般人とあまり深い仲になり過ぎるのは良くないけど…… 思ったより、仲良くなり過ぎちゃったかも。 ……自分でも無意識のうちに、自棄になっているのかもしれない。
そんなことを考えながら、それ以来は誰とも話さず家路につく。私は日常に生きる栗野百合ではなくなる。 残りの半日。今日は、今日こそは完全に、非日常の栗野百合に切り替わらなくてなならない─────
④ 「………うどんの買い置きは無かったはずだから十中八九お粥で来るとは思ってたけど。なるほどこうなったか」 ベッドに横になったまま半身だけ起き上がった百合先輩が唸った。手にした茶碗から漂う香りを嗅いでのご感想である。 「鶏ガラスープと香り付けのごま油で中華風のお粥にしてみましたけど、好みじゃありませんでした?」 「ううん。でも十影くん、どっちかというと洋風派じゃない。 だからリゾットを作ってくるんじゃないかなって予想してたから、ちょっと意外だっただけ」 そんなに洋風の料理ばかり作っていただろうか。和洋中、なんでも作るつもりでいたが、言われてみるとそんな気もしてくる。 トレーを小脇に抱えたまま、俺はそっと百合先輩の様子を伺った。相変わらず気怠そうで復調したようではない。 ただ、パジャマを着て萎れている姿はなんというか………普段の百合先輩にない魅力があるのを否めない。 今更だがここは百合先輩の寝室なのだ。そう意識すると、なんだか無性に背中がむず痒くなってきた。 「まあ、今回はこんなふうに仕上げてみました。口に出来るだけでいいので食べてください」 据わりの悪さを誤魔化すように俺は百合先輩に匙を渡す。 百合先輩は掬った匙の上の粥をしげしげと見つめた後、おもむろにぱくりと咥えてみせた。 「あむ………」 もそもそといつもよりスローペースで咀嚼している。その口角が食べるのと同じくらいゆっくりと上がっていった。 「………ん。なんだか優しい味がするね。そんなに濃い味付けじゃないけど、生姜の香りがよく効いてて美味しいよ」 「良かった。素直に塩味にするか迷ったんですが、薄めに整えれば食べにくいって程にはならないかなって」 「うん。このくらいなら大丈夫。喉に引っかかるようなものも無いし………。ああ、この歯ごたえ。ささみ使ったんだ」 「冷蔵庫に入っていたんで使ってみたんですけど、使う予定があったならすみません」 「ううん。特に決まってなかったからいいよ。………ふふ。丁寧に細かく裂いてある。 私、十影くんの料理好きだな。食べる人のことを凄く考えて作ってるよね、いつも」 「………ど、どうも」 先輩がやけに素直な褒め方をするものでつい返事が吃ってしまった。 普段ならここでワンクッション置いてからかったり冗談を入れてくる。なんだか本当に別人みたいだ。 百合先輩は時折ちらちらを伺いながら匙を往復させて粥を少しずつ口にしていった。 食欲はきちんとあるようで安心する。あんまり食べても身体に毒だが何も胃に入れないのも不健康的だ。 「十影くんはお昼どうするの?」 「まだ少し鍋に余っているので洗い物ついでにそれを食べます。ちょっと足りないようなら帰って何か摘もうかと。 先輩が休んだら一旦うちに帰りますけど、また夜来ます。その時はセイバーを連れてきますね。男手だけだと、その、不便ですから」 風邪を引いた時は風呂に入ってはいけないというのは迷信でぬるま湯に少し浸かるくらいなら問題ない。 その方が汗を拭くより身体も綺麗になって気分の晴れやかさも違う。とはいえ介助の手はあった方がいいだろうし、それなら女手が必要だ。 かちん、と音がした。茶碗の底に匙が置かれる。百合先輩は綺麗に粥を完食し、ふう、と息をついた。 「全部食べちゃった。口にするまでは半分くらいしか食べられないかなと思ってたけど、ここは十影くんの料理の腕を褒めておこうかな。 ふわ………なんだかお腹一杯になって薬が効いてきたら眠くなってきちゃった………」 茶碗を俺に渡してコップから水を飲んだ百合先輩が脱力してぽすんと上半身をベッドに預ける。 言葉通りその瞼は既に重そうで、とろとろと鈍くまばたきを繰り返していた。 「先輩、薬飲んだんですか?」 「十影くんが料理している間に家伝のをね。あれを飲んで一晩もすれば明日の朝にはいつも通りだよ」 栗野家の家伝の薬というとあの苦いんだか痛いんだか分からない味のアレだろうか。経験者としてはぞっとしない。 瞳を半開きにしてうつらうつらと眠たそうな百合先輩の横で椅子に座り直す。眠りにつくまではここにいることにしよう。 そう思って百合先輩の横顔を見つめていたら、ふいに先輩が首を傾げて俺の方へぼんやりとした視線を送ってきた。 「………あのね、十影くん」 「なんです、先輩」 百合先輩は表情を緩めてふにゃふにゃの笑顔を浮かべた。弱々しくて、だからこそ鼓動が跳ね上がるような可愛い微笑みだった。 「十影くんが背負ってくれた時ね。 思ったより広い肩幅なんだなぁ、とか、見た目より筋肉がついててがっちりした身体なんだなぁ、とか。 十影くんが男の子なんだなぁ、って実感して、凄くドキドキした。格好良かったんだ………」 ―――百合先輩が寝息を立てるまで、顔の火照りを冷まそうと水差しからコップに3杯ほど水を飲んだが、全く効き目がなかった。
③ 汲んだ水を百合先輩の寝室に置いてきた俺が次にしたこととは、栗野宅の冷蔵庫を拝見することだった。 「さて、何があるかな………」 なんだか百合先輩の日頃の食生活を覗いているようで少し気が引けるが、背に腹は代えられない。 冷蔵庫の中に入っている諸々をざっくり斜めに観察していく。するといろいろ使えそうな食材が目に留まっていった。 「生姜、青葱、卵、あと鳥のささみか………あんまり具を多くしすぎてもなんだしな………」 病人の喉を通るものだ。あまり刺激物を入れるわけにもいかないだろう。 この中でも生姜は是非使うべきだ。消化吸収促進や抗炎症作用など、これでもかと風邪に効く成分に満ちている。 万病の薬と崇められているのは伊達ではないのだ。俺も料理によく使うので我が家では欠片ではなく塊で常備されている。 「これだけあれば、あとは………あった!」 炊飯ジャーの蓋を開けて思わず笑みが零れた。炊けた白米がまだ残っている。 あの状態の百合先輩がそれほどたくさん食べるとも思えないからこれだけあれば十分だろう。 立て掛けてあったまな板を設置。シンク下の収納スペースの扉を開けると包丁を収めるスペースを発見したのでそこから包丁を抜き取った。 まずは小ぶりの鍋に水を注ぎ、火にかける。栗野宅は最近流行りのIHヒーターではなくうちと同じガスコンロだった。 沸騰するまでに食材の用意を進めていく。 生姜は微塵切り。青葱も微塵切り。それぞれ別の容器に取っておいておく。 ささみは白い筋の両側に包丁で切り込みを入れ、包丁の背でしごくようにして筋を取り除いておいた。 炊飯釜に残っていた白米を全部茶碗によそい、炊飯釜をシンクで洗っていると鍋がいい調子に泡を吹いてくる。 このお湯に早速白米を投入………するのではなく、まずささみをそっと投入した。一緒に塩をふたつまみほど加える。 病人にこのささみをそのままの大きさで食べさせるわけにはいかない。細かくして食べやすくする必要がある。 ささみを入れたら鍋の火を止め、5~6分ほど放置する。こうすることでささみが固くぱさぱさにならないのだ。 そうして置いておいたささみは時間になったら一旦取り出し、まな板の上で粗熱を取っておく。 茹で汁を捨て、再度水を鍋に注いで加熱する。本当はこの茹で汁も使いたいところだが、後で調味料を足すことを考えるとちょっとしょっぱすぎる。 沸騰したら鍋に白米を入れて煮る。その間に冷めたささみを手で出来るだけ細かく裂いていった。包丁で刻むよりこちらのほうが口当たりがいい。 白米が丁度いい塩梅に煮えてきたら、ここに刻んだ生姜とささみを加えて火を通す。 といっても生姜は刻んであるし、ささみは一度熱を通しているのでそれほど時間はかからない。 調味料用のラックに備えてあった鶏ガラスープの素を気持ち薄味程度に加えて味を整えたら、 「たったこれだけのことがなかなかどうして………いつまでたっても卵は難しいや」 溶いた卵を少しずつ鍋の中に回し入れていった。『の』の字を描くように細く注ぎ込むのがコツだ。 一気に注いでしまうと卵がふわふわに仕上がらないのでそれなりに注意を要求する工程である。 注いだ卵が固まってきたタイミングで再び残りの卵を注ぐ。これを溶き卵が無くなるまで繰り返し、無くなったら鍋の火を止める。 先程の茶碗に鍋の中身を盛ったら、刻み青葱を散らし、小さじ半分程度のごま油で香りをつければ―――
② 「油断した………。このところ忙しかったせいですっかり気が緩んでた………。 魔術刻印の周期が合わないのなんて普段なら少し休めば回復するんだけど、風邪気味だったところにダブルパンチで来られるとね………」 「びっくりしましたよ。突然倒れるんですから。たまたま俺が一緒にいて良かったです」 「………確かに、そのあたりの事情に通じてる十影くんが近くにいたのは不幸中の幸いだったかな。 他の人が見たら大騒ぎされちゃいそうだし。………でも、お店開ける準備しなきゃ………」 そう呟きながら、百合先輩が身体を起こそうとしてベッドに手をついた。 しかし、力を込めてもぶるぶると腕が震えるばかりで起き上がることが出来ない。これでは立ち上がれもしないだろう。言わんこっちゃない。 「駄目ですよ。今日は臨時休業です。シャッターにも張り紙しておきますからね。先輩が嫌って言ってもそうしますから」 「トカゲくんの意地悪」 「何とでも言ってください。あとトカゲじゃなくてトエイです」 恨みがましい視線を百合先輩が向けてくるがきっぱりと撥ね付けた。駄目なものは駄目でござる。 こんなグロッキー状態で店の仕事なんてされたらこっちこそたまったものじゃない。何にも手がつかなくなること請け合いだ。 ややあって諦めたのか、ベッドに体を預けた先輩が自分の腕を撫で回した。 そこには栗野家の魔術刻印が刻まれている。その家の研究成果を回路の刻印として子孫へと受け継ぐもの。 魔術師にとっては最大の家宝であると同時に呪いでもある。宿主との波長が合わなくなるとこうして体調を崩したりもするらしい。 「………仕方ないか。ごめんね十影くん、迷惑かける」 「いいですよ。こんな時くらいちゃんと大人しくして身体を治してください」 「………ぁ」 言い含めながら百合先輩の額に手を伸ばして触れる。驚いたように先輩が小さく呻いた。 やはり熱がある。決して具合は良くなさそうだ。いつもの気丈さを全く喪失した、力のない眼差しがぼんやりと俺を映していた。 「ひとまず制服から着替えたほうがいいですね。汗も拭かないと。あと必要なものは………」 「十影くん」 「はい?」 「だから、着替えたいんだけど」 百合先輩の頬が赤かったのは、風邪による熱のせいだったのか、それとも恥ずかしかったからか。 ここで慌てて出ていこうとしかけた俺の心が踏みとどまったのは、そう言って俺を見る先輩の元気の無さに不安を感じたからだろう。 「………手伝いましょうか?」 自分でも言っていて顔が熱くなるのを感じたが、さっきまであんなにふらついていたのだ。着替えるだけでも一苦労かもしれない。 そうしなければならないほど百合先輩が弱っていたとしたらそれこそ恥ずかしがってなんていられない。 しかし邪念が無いとは言い難い。ただでさえぐったりとした百合先輩は却って色気が増していて目に毒だ。 俺は余所見をしたまま百合先輩を着替えさせられるだろうか――― 「………じゃあ、お願いしようかな?上も下も全部脱がして、ちゃんと寝間着に着替えさせてね」 「ひとりでも出来そうですね、分かりました。水を汲んできます。飲むための水差しの分と、あと汗を拭くための洗面桶とタオルに」 「ちぇー」 熱に浮かされつつも百合先輩が悪戯っ子みたいな顔で笑ったのでひとまず大丈夫そうだと判断した。 大丈夫だから、なんて言われてたら逆に心配していた。それは俺をからかう余裕すらないってことになる。 多分その時は汗を拭くことよりも先に流姉さんの待つ病院へ先輩を担ぎ込むことを考えていただろう。 そういうことなら俺が先輩の着替えを拝んでいていい道理はない。必要なものを頭の中でリストアップしながらベッドの側から踵を返す。 壁に掛けられた時計が目に入った。短針は頂点を既に回っている。もうとっくにお昼時だ。 「ああ、もうこんな時間ですね。先輩、食欲ありますか?」 「ん………少しなら。あんまり重たいものは気分じゃないけど………」 「じゃ、水を汲んできたら何か適当に作ってきます。台所お借りしますね」 ドアノブを捻って百合先輩の寝室から廊下に出る。百合先輩の視線が絶たれるとついぽりぽりと頬を指先で掻いてしまった。 ぼんやりして、まるで意気の無い百合先輩と接するのは全然勝手が違って、どうにも落ち着かない。
① 去っていくタクシーのエンジン音を耳にしながら俺はポケットから鍵を取り出した。 キーホルダーで纏めてある鍵のうちのひとつを指先で挟む。花屋『クリノス=アマラントス』の合鍵である。 「さてと。えーと、確か………」 記憶を反芻し、封印解除用の呪文を脳内の書庫から引っ張り出す。この通り、『クリノス=アマラントス』は二重施錠で大変安心なのである。 物理的な方はともかく、無理に封印を破って侵入するとどうなるか聞いたことがあるが………百合先輩は微笑むだけで何も言わなかった。 「εκπτωση για τη λειτουργια μεσαιων επιχειρησεων―――――」 唱えてから通用口の鍵穴へ鍵を差し込んだ。捻るとちゃんと鍵の外れる音がしたので呪文の詠唱は成功していたのだろう。 ほっと溜息をついた俺の耳元で、くすりと微笑むような吐息が零れた。 「……おお、解錠できたね。偉い偉い。これぐらいは出来てくれないとね」 「な、なんだか褒められている気がしませんね………」 振り返ったりせずに返事をした。むしろ今振り返ってしまったら鼻と鼻が擦れ合うような顔の距離感が確定してしまう。さすがに気恥ずかしい。 今の声だってどんな呟きであっても聴き逃がせないほどすぐ近くからしたのだ。 というのも今まさに俺はこの声の主を背負っていた。背負った相手の太ももを腕で支えるオーソドックスなやつである。 背負っている相手とは最早言うまでもなく、この『クリノス=アマラントス』の若き女主人であった。 「あの………もう大丈夫だよ?十影くん。ここから先は私ひとりで何とかするから………」 「何言ってるんです。タクシーに乗り込むまでふらふらして自力じゃまともに歩けなかった人の言っていい台詞じゃありませんよ」 声までいつもの覇気がなくどこか輪郭が薄らぼんやりとしている。なんだか俺まで落ち着かない。 俺は百合先輩の言葉を完璧に無視し、通用口から中へと入った。 シャッターの降りている店内は薄暗く、切り花用のクーラーの動力音だけが低く唸っている。 が、今日はこの店には用はない。俺は百合先輩を背中に背負ったまま、勝手知ったるという足取りで奥へと向かった。 扉を1枚潜れば、そこは栗野邸の住居の一部である『クリノス=アマラントス』から百合先輩の生活スペースへと移り変わる。 「先輩、靴脱がしますよ」 「………ん………」 一拍遅く返ってくる先輩の返事を受けて、腕1本で百合先輩を支えながらという作業にちょっと苦戦しつつも学園指定のローファーを玄関へ投げ捨てる。 整える余裕なんて無いので俺自身も靴を脱ぎ散らかすと、スリッパに履き替えるのもさておいて真っ直ぐに階段を目指した。 一段一段、背中の百合先輩をなるべく揺らさないよう気をつけて登る。 階段に差し掛かって体勢が不安定になったのか、首筋に回されている先輩の腕の力が少し強くなった。 そう意識すると、普段は知ることのない百合先輩の身体の軽さや柔らかさ、背中に押し付けられているふたつの膨らみを感じてどぎまぎするわけだが――― 「………こんな時に何を考えているんだ俺は」 「何か言った?」 「なんでもないです」 邪念退散。病人を背負っているのだ。そういうのは今は無し。 既にこの家の間取りはおよそ知っているので、階段を登りきった俺は迷うこと無く2階にある百合先輩の寝室を目指した。 扉を開け、中に入る。躊躇わず奥へ進んでベッドの上へ慎重に百合先輩の身体を横たえた。 ずっと俺のされるがままになっていた先輩はまるで何かを後悔するかのように、臥せったまま瞼を掌で覆って天を仰いだ。
ぐったりと横たわったあの人は、最後の力を振り絞るように。 私に向かって、今でも夢に見る言葉を告げた。
“──────百合。私を赦してくれ。”
“……お前には……魔術など、教えるべきではなかった……”
“お前は、お前だけは……”
“幸せに、生きてくれ─────”
…それが最後。 その時のあの人の顔は、今まで私が見てきたどんなあの人の顔とも違うものだった。
あの人の事は好きではなかった。 魔術師として優れていたが、父親としては優れていなかった。 彼は師として私を教えたが、父としては愛してくれなかった。 ただ、それがあの戦争のせいなのだ、と言う事は知っていた。
だから、耐えてきたのだ。私も魔術師として、この人の後を継いで立派にならなければならないのだと言い聞かせてきた。 でも。あの時、あの人は確かに─────
私の、父だった。
「……父さん………父……さん………!!」
流すつもりのなかった涙が溢れてくる。 漏らすつもりのなかった嗚咽が湧き出てくる。
何度あの人に呼び掛けても、返事はもうなかった。
「─────私、どうしたらいいの─────」
あの人はそれまで魔術師だった。それでも彼は最後の最後で、魔術師としてではなく父親として言葉を遺した。 だから、その瞬間に私の進む道は隠れてしまった。
それから色々、紆余曲折あって私─────栗野百合は成長した。 父が戦いに赴いた日から、十八年。 この時が来て欲しいわけではなかったけれど、気持ちは知らず逸っている。
あの人は何故、私にあんな言葉を遺したのか。 それを明らかにしてくれるのは、あと少しで始まろうとしている、そのイベントだけだろうから。
「ごめんね、父さん」
私にとってあの人は、未だに魔術師だった。
2009年 7月4日
…懐かしい人を見ている。 背が高くて、彫りの深い顔立ちで、私が知る限り冗談なんて一度も口にしなかった人が、今は私の目の前で、苦しそうに横たわっている。
“……百合。後の事は分かっているな”
弱々しくか細い声に、行儀良くはい、と答える。 巌のように頑なで厳しかったこの人は、私が物心ついた頃から病弱で、よく咳をしていた。
“お前なら、一人でもやっていける。花屋も、栗野の跡取りも……”
そうは言いながらも、彼の目は心配そうに私を見ていたのを覚えている。 家宝の球根の事とか、優曇華や金花茶の取り扱いとか、秘密の温室の管理とか。今まで教さえてくれなかったことを矢継ぎ早に話す姿を見て、子供心に気が付いていた。
──────たぶん。 この人は、今日には居なくなってしまうのだろうと。
戦争が起きたのだ。 国と国とが戦うわけではなく、人と人とが戦う戦争。それも、たった7人で。 戦っていた人々は、皆魔術師だった。よくわからない理由で、よくわからない方法で殺し合った。 そのうちの一人が、目の前の人だった。
でも、知っていることはそれぐらいだった。 その事について、あの人はそれまでほとんど何も語らなかった。 だけど、この人が病弱なのも、私に魔術を教え続けてきたのも、今まさに私の前で力尽きようとしているのも─────その戦争のせいだ、という事は知っていた。
“百合。聖杯はいずれ現れる。 アレを手に入れるのは、栗野の義務だ…… 何より、魔術師として生きていくのなら……避けては、通れない道だ……”
「はい、父さん」
だから、私はこの人の遺志を継がなければならないのだ。そう聞かされてきた。そう信じてきた。 ─────この時までは。
“……だが……” “……お前の、義務ではない……”
その言葉で、私のそれまでの人生は変わってしまった。
「……父さん……?」
彼はひどく大きな咳をして、一層苦しそうに身をよじり、喉で言葉を詰まらせていた。 たぶん。今考えると、あの人はすごく大きな決断を下そうとしていたんだと思う。 それこそ今まで生きてきた意味や目的を、全部投げうってしまうぐらいの。
夕方の教室に二人の男女が椅子に座り相対していた。 竹内太桜は緊張した面持ちで目の前の黒瀬正峰を見ている。 一年間生徒として教えを受けた来たが相変わらず何を考えているのか、どう思っているのか分かりづらい。 それでもあの騒ぎのあった7月以降は大分分かるようになった方だが。
「……ふむ、ちゃんと全部終わっているな。竹内、よく頑張った。これで問題なく進級出来るぞ」 黒瀬は山のように積まれたノートやプリントを全て見終えると、丁寧にそれらを横に動かし僅かに笑みを見せた。 「よ、良かったぁ……」 大きな溜め息をついた太桜はそこでガタンと椅子から崩れ落ちた。 「竹内…! 大丈夫か?」 進級出来るかの瀬戸際から解放され、緊張の糸が切れたのか全身の力が抜けたようだ。 背中から倒れそうになった太桜を黒瀬は素早く右腕で支えた。 二人の顔が近づき、夕日で照らされる。
「……あ。す、すみません先生」 「無理はするな、ここの所忙しかっただろう」 背中を支えたまま、太桜を椅子へと座らせる黒瀬。 「大丈夫か?顔が赤いようだが?」 「だ、大丈夫です!」 狼狽する太桜に首を傾げて席へと戻る黒瀬。 「まぁ、大丈夫ならいいが。自分で帰れるか?なんだったら家まで送るぞ」 「送って!?いえ、本当に大丈夫です!大丈夫です!」 「そうか……そう言えば竹内の家は喫茶店だったが将来は家業を継ぐのか?」 「えっと、それは進路の話でしょうか?」 「ああ、わるい。そこまで深刻な話じゃないちょっとした雑談だ、3年も私が担任になるとは限らないからな」 黒瀬の言葉に太桜の顔が僅かにひきつる それを察したのか、黒瀬は再び笑みを見せ、口調を砕けたものへと変える。 「将来的には家業を継ぎたいと思っていますが、進学が就職か迷っています……私の成績で進学や就職が出来るかも」
「まだ半年は猶予がある。ゆっくりと考えればいい。 竹内が進学や就職したいと言うなら私がなんとかするから安心してくれ」 深刻な太桜の表情を見て、諭すような優しく声をかけると場をなごませるために冗談めかしてははは、と黒瀬は笑った。 「しかし、喫茶店か。何度か伺った事があるが良い雰囲気のお店だった。 もし喫茶店をやるならああいう店の店主になりたいものだ」 !? 「竹内と結婚してあのお店のマスターになるだろう男は幸せものだな、俺も結婚するならそう言う相手がいい。……おっとセクハラになってしまうな!」 !? 「せ、先生!も、もう遅いので帰ります!」 「ん?ああ、もうこんな時間か。体調は大丈夫か?」 「だ、大丈夫です!本当に!大丈夫!大丈夫だから!」 顔を赤くした足早に教室を飛び出した太桜に再び首を傾げた黒瀬は提出されたノートやプリントを片付け始めた。
おわり
「美しい? へぇこの姿を見てもそれが言える?」 俺の余程のアホ面が彼女の加虐心を刺激したらしい。 それまでのどこか達観していた表情からなぶっていい獲物を見つけた獣のように表情が変わった。 いや、表情だけではない。人の姿から徐々にすべてが蜘蛛へと変わっていく。 ああ、だが。だが、それを見ても不思議と彼女を化け物だと思う気にはならなかった。 「この蜘蛛の姿でも?」 蜘蛛の牙が目前に迫る。 「ああ。何故かな。元々虫は嫌いじゃないが」 「……変人?」 俺の言葉に彼女は顔を離した。 蜘蛛の姿だが、引いているのが分かる。 「…………失礼。今のは、今のは忘れてくれ」 そこで急に冷静に戻った。 頭を下げ、刃を納める。姿こそ異形だが、少なくとも話は出来るようだ。 「変なのに召喚されちゃったなぁ」 「君に言われたくないがな」 此方に敵意はないと判断したのか、人の姿に戻った。 軽口に対して言い返す。 「で、結局君は何者だ?」 「ああ、クラス? キャスターよ、あの姿も見せたから真名も分かるでしょう?この国だと土蜘蛛とかってのがいるんだっけ」 「クラス?キャスター?真名?」 参った。何を言っているか分からない。 キャスターと言うのが、彼女の真の名を隠す為のものであることは察することが出来たが。 「貴方が呼んだんでしょ、聖杯戦争に?令呪もあるし」 キャスターが俺の右腕を指差した。 見るといつの間にか魔力に満ちた紋様が刻まれていた。 「あー……もしかして素人さん?」 物珍しそうな目で紋様を見ていた俺に気付いたのか、キャスターが問い掛ける。 「半分正解だ。……聖杯戦争とは魔術師同士の戦闘とばかり思っていた。そうか、俺が参加者の一人になったのか」 「じゃあ最初から教えなきゃダメかぁ……」 「すまないが、よろしく頼む」 先が思いやられるなぁ……キャスターはため息を付く。 流石にため息をつきたいのは此方だ、と軽口を返す気にはならなかった。 真っ先によりにもよって期末テスト真っ只中だぞ、どうするんだ?と思った私はまだ教師であるらしいと思いながら。
素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。 降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。 閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。 繰り返すつどに五度。 ただ、満たされる刻を破却する。 告げる。 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。 聖杯の寄るべに従…
そこまで読んで妙に嫌な予感がした。 これ以上は取り返しの付かない事になる。 そんな胸騒ぎを感じ、ノートから指を外し、机から離れる。
辺りを見渡せば、足元に召喚用の魔方陣が描かれている事に気づいた。 触れては不味いと一歩退く。 退いた拍子に机に置いてあったガラス片に指が当たり指を切る、数センチほど深く切った。 「……っ!」 慌てて指を抑えるが血が飛び散り、召喚陣へとかかった。 瞬間、まるで数年ぶりに動く機械のようにそれは鈍い光を放ち始める。
「まさか、血を切っ掛けとして儀式が起動したのか!?」 直感が叫んでいる、これは止められない。 一瞬、すぐさま逃げ出す事も考えたが、この召喚陣から呼び出されるものを放っておくわけにはいかない。 俺が呼び出してしまったものなら始末は自分の手でつけなくては。
ウィンドブレーカーのフードを外し、右手で左腰に差していた短刀を抜く。右手がやけに熱く感じた。 召喚されたと同時に急所を狙って切りつければ最悪でも相討ちには持ち込める。…筈だ。
召喚陣の光が収束し、衝撃が疾った。 「……来る」 本能的な怯えから来る震えを理性と意識で抑え込む。 今更何をビビってる?化け物と相対したのは一度や二度じゃないだろう。 呼吸を整えろ、意識を集中しろ、俺は目の前のものを切り捨てる刃だ。
衝撃が止んだ時、召喚陣の上に何者かが立っていた。 粉塵に目を細めて辛うじて見えた後ろ姿は菫色に染めた修道士風のローブ。フードの横からローブと同じ色の長い髪が見えた。 少なくとも人型ではあるらしい。
「……何者だ」 唾を飲み込み、乾いた喉を潤すと警戒は解かずに誰何する。 「何者か、とは随分な言い方だね、自分で呼んだのに」 それは振り向くとフードを外す。 菫色の髪が揺れ、どこか愉快そうに赤い瞳がこちらを見据えていた。
「美しい……」 何を言ってるのか。 きっと俺は頭がぶっ壊れたに違いない。 くそっ、どうにかなりそうだ。或いはもうどうにかなっているのか。
───────────2009年、7月3日深夜。土夏市旧土夏の廃墟
。 人生とは後悔と反省の連続である。
誰が言ったわけではない、個人的な持論だ。 人は自分の行いに後悔して、反省をして、また何かをやって後悔する。 そうやって少しずつ後悔や反省を減らすわけだが、中にはわかっていても行動して後悔や反省の回数を減らせない者もいる。 具体的に言えば自分だが。 今の自分の心境は絶賛後悔中だ。
再従兄弟の頼みに応じて18年前の聖杯戦争について調べはじめたのはいい。 成果はあった。参加したと思われる人間をある程度(とは言っても数十人はいるが)絞る事が出来たし、18年前の土夏大火災が聖杯戦争を起因とするものであるという確証に近いものを得ることか出来た。 そして、そこから逆算して土夏市で数十年おきに奇妙な事件が起き続けている、つまりは聖杯戦争が行われているということも。
しかし、図書館や区役所で調べた資料だけでは満足出来ずに、調べあげた聖杯戦争の跡地と思われる場所に来たのは完全に誤りだった。 まさか、推定ではあるが魔術師の工房を見つけてしまうとは。 正確に言えば工房のような場所ではあるが。
土夏大火災によって被災した旧土夏。 旧土夏には18年前の土夏大火災で焼失したり、廃墟となった家は少なくない。 特に相続人が見つからず土地や廃墟には手をつけられず未だに廃墟が取り壊されていない場所さえある。 そんな旧土夏の一角、かつては住宅地であった場所にそれはあった。 それは聖杯戦争の参加者、或いは参加さえも出来なかった脱落者と思われる人物の邸宅。 18年前の土夏大火災直前に不審死を遂げ、しかも捜査が不自然に打ち切られている人物。 おそらく聖杯戦争絡みだろうと当たりを付けた俺は足を伸ばし、旧土夏まで来たわけだ。……期末テストの真っ只中に。
そろそろ忙しくなると言うより忙しいので、遠巻きに調査して適度な所で帰ろうとしていた俺は何かに呼ばれるような感覚を覚えた。 躊躇はしたが、結局は邸宅の跡地に足踏み入れてしまった。 そこで見つけたのは入念に隠された地下室の入り口。おそらくは人払いの結界が何かの切っ掛けで崩壊したのだろう。 地下室には火災が及ばなかったのか、中はおそらくは当時のまま残されていた。 室内は意外と広かった。およそ5畳程の空間にはクモの巣があちこちに張られており、木の机に椅子、パイプラックに何らかの薬品や呪物、本が置かれている。 こんな封鎖空間で良く生きていた物だと感心する。見れば害虫、黒くて早いあいつを餌にしていたようだ。 一見しただけではただの作業用の地下室にも見える。しかしそこに立てば、魔術の触りだけ知っている程度の俺でも分かる異質な雰囲気、人を拒絶する空間、魔術師の工房がそこにはあった。
最もしっかりした工房ではない。 どこか素人くさい、或いは突貫工事の仮の工房といった印象を感じた。
折角ここまで来たのだ、半ばヤケになって何か手がかりはないかと探る。 机の上にはノートと古文書のようなものが置いてある。 大半は掠れて読めないが、ラテン語や英語、日本語が混在しているようだ。
「……術式……英霊召喚…? サーヴァント?」 辛うじて読める文字に指を這わせる。どうも何かを召喚する際の手順のようだ。
⑥ 「―――で、これが思ったよりも固まらなくて結局口にできたのは帰る直前だったっけ」 キッチンに響くのは水栓から流れた水がシンクを打つ音だ。 それが断続的に途切れるのは棗がその水でジェラートを入れていた器を洗っているからだった。 俺は洗ったそばから手渡されるガラスの器をタオルで拭いて食器置きに引っ掛けていく。 話に相槌を打ちつつ、次の器を受け取ろうとして俺は横に立つ棗の方へ視線を向けた。 「そうそう。何度も取り出してかき混ぜすぎたとか、ガラスのボウルじゃなくてアルミのボウルにすればよかったとか。 今から思うとよくもレシピ本でちょっと見かけただけのものを見切り発車で作ろうとしたもんだよ」 ………視界の中の棗はあの頃の記憶の中の彼女よりいくらか大人びている。 身長はさほど伸びなかったが顔つきはほんの少しだけあどけない少女から女性のそれになった。 体つきに関しては………その、ある特定の部位がやたら育ったものだと思わないでもないが、男の俺からはノーコメントとしておこう。 「でも美味しかったよ、てんかくん。それはちゃんと覚えてる。 凄くなめらかな舌触りでまるでお店で食べるのみたいだって思ったなぁ。 あとガラスコップに入ったジェラートにいつの間にかチョコチップが混ぜてあって、なるべくスイカっぽくしようとしたんだなって」 「種っぽく見せようとしてね。今だったら容器も緑のものを選びたいな。 まあ、わざわざスイカを買ってきてまで作らないと思うから………次があるとしたら流姉さんが持ち込んでくるもの次第かな。 流姉さんが何を押し付けてくるかなんて予想するのは難しいけど」 くすくすとキッチンに俺と棗の笑声が溢れた。 同じように窓を開け放った縁側の方からも笑い声がここまで届いてくる。 流姉さんが持ってきた花火セットでセイバーたちが遊んでいるのだ。 スージィさんと今晩は出かけているニコーレがそれを知ったらきっと怒るだろう。私もやりたかったと。 内容物に打ち上げ花火があったので絶対ここで使わせないよう百合先輩には頼み込んでおいた。でないと流姉さんはノリで火をつけかねない。 そのくらいの大人としての常識はあると信じたいのだが、そのくらいの大人としての常識を無視しかねない怖さがあのドラゴンにはある。 5つ分の器の洗い物なんて終わるのはあっという間で、最後のそれを片付けると俺はエプロンを外してハンガーにかけた。 タオルで手を拭いながら、ひと仕事に付き合ってくれた棗に微笑みかける。 「よし、今日の洗い物は全部終わり。いつも手伝ってくれてありがとう、棗」 「いえいえ、どういたしまして。………さっきの流先生の話で思い出したけど、あの頃と比べるとてんかくんもいろいろ変わったね」 「ん、そうかな?人間的に成長できているってことなら嬉しいんだけど、自分じゃそんなに変わった気はしないな」 「そんなことないよ。ちゃんと笑うようになったもん。ほら、前は全然笑わなかったから」 そうだろうか。これについてもあまりきちんとした自覚はない。 当時の自分が特別に感情を戒めていたというつもりはない。ただ普通にしていた、それだけだ。 まあ、笑わない人間だと思われるよりは良いことだろう。棗からそう見えていたのなら尚更だ。 そんな話をしていたからか、ふと思い出したことがあった。ちょうど棗とふたりきりだったのもあり、特に深い考えもなく口にした。 「そういえば棗、あの時………ジェラートを仕込み終わった後だったかな。突然何かにびっくりしたような顔していたよね」 「………え」 「今だから聞くけど、あれは何だったの?」 途端に棗が硬直した。ぴくりと頬が強ばる。まさしくあの時みたいな驚いたような顔になった。 「い………いや~、そんなことあったっけ?もう覚えてなかったよ!ごめんね!」 「あ、うん?覚えていないなら仕方ないからいいんだけど。………どしたの?」 「なんでもない!なんでもないよ!あーっ、わたしも花火しに行こうかな!じゃあねてんかくん、後のことはよろしくね!」 よろしくも何も、ふたりで全部終わらせたばかりなのだが。 俺の横をすり抜けてあっという間に棗はセイバーたちの元へと早足で行ってしまった。 そうして首をかしげる俺の耳には、棗が誰にも聞こえないように呟いた言葉はやはり聞こえることはなかったのだった。
「その全然笑わないあの時のてんかくんが急に笑ったからびっくりするやらどきどきするやらしたんだよ!………もぉ!」
⑤ 「便利だよねこれ………」 「ハンドプロセッサーのこと?ひとつあると何役もこなしてくれるし、あれこれ使わなくていいから洗い物も減るし、楽だよ」 「ふーん………わたしも買おうかな………」 なんて喋っている間にもボウルの中には綺麗に混ざりあった液体がひとつ出来上がっていた。 スプーンで少しだけ掬って味を確かめてみる。もう少し甘くてもいい気もするがこんなものだろう。 代わりに料理用のラム酒をほんの少しだけ加えて軽くかき混ぜておいた。 「はい、出来上がり」 「え?これで終わり?」 「調理の工程自体は。後はこれを凍らせて固めるだけだよ。ちょくちょく取り出してかき混ぜる必要はあるけど。 これから夕飯だって作らなきゃいけないんだ。そんな時間のかかるようなもの作れないよ」 やや気の抜けたような棗へそう答えながら俺はボウルにラップで蓋をして冷凍庫の扉を開けた。 傾いて零れたりしないよう、平衡を保たせてしっかりと安置する。 ひとまずこれであのスイカを無駄にしなくて済むだろう。流姉さんもこれなら文句は言わないはずだ。 「よし、これでいい加減にして夕飯の用意を始めないと………ん。どしたの」 「………あ、あのね。てんかくん」 冷凍庫の扉を閉じて振り返ると、棗がそのままそこに立っていた。 両手の指を体の前で組み合わせ、何か言い出しにくそうにもごもごと唇を震わせている。 その視線がちらりと上を向き、見下ろす俺の視線と絡み合った。 「てんかくんはなるべく自分で出来ることは自分でやりたいのは分かってるんだけど………。 この後もわたしが手伝っちゃ………ダメ、かな………?」 俺より一回りばかり小さな背丈の棗が上目遣いで俺の顔色をうかがうように言った。 見つめられているといたたまれないような、くすぐったいような、そんな変な気持ちになってくる。 なんだか俺が悪いことをしているみたいだ。むず痒くなってきた頬を指で掻きながら、しかし答えは決まっていた。 他ならぬ棗にそう言われてしまったら、断るより頷く理由の方が大きくなる。 「―――うん。助かるよ棗。その、ありがとう」 「………ふぇ」 俺としては特別な素振りで言ったつもりはなかった。 けれどそれを聞いた、いや見た棗は急に目を丸くし、それから落ち着かない様子で視線を明後日の方向へ向ける。 こころなしか動きもぎくしゃくとした。油の差さっていない機械みたいだ。 「ま、任せて!大丈夫だよ!なんでもするよ!何でも言ってねてんかくん!………あー、びっくりした………」 「う、うん。ありがたいけど………なんでびっくり?」 「えっ!?いやその………こっちの話だから!気にしないで!」 両手を顔の前で振って必死で話題を遠ざけようとする棗。 結局最後まで何のことか分からないまま、俺はピーラーとジャガイモを棗に渡したのだった。 季節は真夏。1分1秒でも長く世界を熱しようと踏みとどまっていた太陽がようやく沈みかけて、窓の外には宵闇が忍び寄ろうとしていた頃のことだった。
④ 「あの………」 背後から投げかけられるおずおずとした声。姿勢そのままで顔だけ振り返った。 棗がそこに立って、じっと俺のことを見上げていた。表情には少しだけ緊張の香りがある。 「てんかくん、何か………手伝おうか?」 「………」 これがきっと棗以外の誰かなら『俺がやるからいいよ』と口にしていただろう。 ずっと他人の手で生かされ続けてきた命だ。自分で出来ることはせめて自分だけで完結させたいというのは常に抱く思いだった。 だが棗は少しだけ例外だった。流姉さんの勧めを押し切って一人暮らしを始めてから、ちょくちょくこうして共に食卓を囲む彼女は。 流姉さんのかつての言葉が俺の頭の中でリフレインする。 『てんちゃんもにぶちんね~。そういうときはね、"手伝おうか"って聞いてるんじゃなくて"手伝いたいです"って言ってるのよ』 ………なお、流姉さんは別の意味で頼れない。味見せずにいい加減に作ろうとする流姉さんが携わると謎料理が出来上がってしまう。 俺は生クリームの入ったパックを取り出しながら、棗に言った。 「じゃあ、お願いしていいかな」 「………!うん、任せて!」 そう答えながら棗が嬉しそうに笑ったことに内心首を傾げつつ1歩寄って棗が作業するためのスペースを空けた。 収納スペースからボウルを2つ取り出してキッチンへ並べながら、同時に棗へ指示を出した。 「そのスイカ、実を削いで皮と分けたら綺麗に種を取って。そしたら、ハンドプロセッサーがあるからボウルの中でピューレにしてね」 「う、うん。分かったよ、始めるね」 頷いた棗は包丁を手に取ると、スムーズな動きでスイカの実と皮の境目に刃を入れだした。 棗も俺と同じように中学生の身でありながら一人暮らしをしている身だ。自炊の心得があるのは俺も知っている。 なので特に心配もなく、作業を棗に任せて俺は計量器を取り出した。 まず卵を割って黄身だけ取り出し、もうひとつのボウルの中へ。泡立て器の先端で突いて割っておく。 そこへ牛乳、グラニュー糖、生クリームを次々に計量して注ぎ込んだ。 通常の調理はともかくとして製菓は分量計算が命だという。あまり生活の中でお菓子を作る習慣はないが、ここは従っておこう。 ムラが無くなるよう泡立て器で丁寧にかき混ぜている間に隣でハンドプロセッサーがモーター音を立て始めていた。 「もう皮も種も取り終わったのか。相変わらず早いね」 「こういう手先だけ見つめて集中する作業って得意なんだよね。こんな感じでどうかな?」 ブレードによって撹拌され、ドロドロの赤い液体になったスイカの入ったボウルを棗が差し出してくる。 計量器に乗せて測ってみた。多少分量を調節する必要があるかと思っていたが、小ぶりだったぶんこれ全部でちょうどいいくらいの量だ。 「うん。大丈夫だ。さて、これとこれを全部混ぜて………と」 スイカを俺がかき混ぜていた混合液の入ったボウルへ全て注ぎ込んだ。棗が使っていたハンドプロセッサーでしっかり混ぜ合わせる。 真っ赤だったスイカのピューレがあっという間に薄いピンク色の液体に変わっていく様を横から棗がしげしげと見つめていた。
③ それは熱帯夜となる予感を感じさせる、蒸し暑い夕暮れだった。 定期的に通っているスイミングジムを終え、買い物をして帰ると、玄関を開けると俺のものではない靴が2足あった。 「………」 どちらも女物。動揺はない。この家では珍しくないことだ。 そもそも俺が開ける前に鍵が開いていた時点でこの可能性は考慮していた。むしろこの靴が無ければ泥棒を疑わなければならなくなる。 スリッパに履き替え、重たい買い物袋を手に提げて廊下を行くと奥の方からテレビの音が響いてくる。 空調が効いた涼しいリビングのソファに腰掛けていた人々の正体は案の定だった。 「あら、お帰り~てんちゃ~ん」 「あ、てんかくん………お邪魔してるね。迷惑じゃないかなって言ったんだけど流先生が聞かなくて」 「何よなっつん、嘘ばっかり。誘ったらあっという間に支度終わらせてた癖に」 「わ、わわわっ!?そ、そんなこと無いからねてんかくん!?やっ、てんかくんちに来たくないってわけじゃなくてっ!?」 何故か顔を赤くした棗が流姉さんの口を塞ごうと取っ組み合いを始めた。 この家で俺以外に人の声が響くとしたら、このふたり以外に無い。 時々こうして俺の様子を見に来る………ついでに、俺の作る料理を貪り食って行く流姉さん。 その流姉さんに連れられてやってくる、昔は俺と病室が一緒で今は俺と同じように一人暮らしをしている棗。 普段は俺以外に誰もいないこの静かな洋館が少し賑やかになるとすればこのふたりが来ている時だけだった。 「ああ、いらっしゃい」 毎度のことなので大仰に返事をすることもなく、俺は一言投げてそのままキッチンへ向かった。 突然の来訪であったが基本的に纏めて買って冷蔵庫に保管しておくので問題はない。一人前が三人前になるだけだ。 それで対応できないなら献立を変えればいい。今日は幸いにも分量を調節するだけで済みそうだった。 買い物袋を足元に置いて、てきぱきと冷蔵庫に入れるものとそうではないものを分けて仕舞っていく。 中学校に入ってすぐに一人暮らしを始めた時は何をするにしても四苦八苦していたが、そんな生活も2年と半年も過ぎればもう慣れたものだ。 ハンガーで吊っていた愛用のエプロンを首にかけ、何の気なくシンクを見た時、ようやく俺はそれに気付いた。 「………なにこれ」 思わずそんな疑問が口をついて出た。それが何であるかは分かったが、何故ここにあるのかが分からなかった。 俺のぼやきが耳に届いたのか、すぐさま流姉さんの楽しそうな返事がリビングの方から返ってきた。 「あ、気付いた?それね~、うちの病院がやってる屋上緑化の一貫で収穫できたスイカなのよ。 もともとは芝生で覆ってただけだったのにみんな勝手なもの植えるものだから最近はなんだか野菜畑みたくなってきちゃって、あっはっは」 「なるほど。そういう」 言われてみると合点が行く。シンクにこうして無造作に転がっているこのスイカ、商用のものと比べてもやや小ぶりだ。 表面にもところどころ傷があり、農家の手によってちゃんとした手入れをされて育てられたものではないという話は間違いなさそうだった。 「実は成ったけど持て余してるって話だったからせっかくだから貰ってきてみたわ。食べられるかしら?」 「さあ。割ってみないことにはなんとも」 そう答えながら俺はスイカを持ち上げてまな板の上に置いた。 冷やして食べるにしても適当な大きさにカットしないと冷蔵庫に入らない。今日の食事を作り始める前にやっつけてしまおう。 包丁を取り出し、緑と黒の縞模様の果実へと刃を添える。包丁の峰に手を添え、体重かけて一気に両断した。 ぱっくりと二分されたスイカの表面はしっかりと赤く染まっている。こうして見る分には特に問題はなさそうな、ただのスイカだ。 そのまま同じ要領でスイカを四等分にし、実の端の方を包丁で小さくカットして口に入れてみた。 全く食べられないということはない。ないのだが。 「………あんまり甘くないな」 率直な感想だった。まあ、屋上緑化の庭園で勝手に育ったスイカなんてこんなものなのかもしれない。 それか、もともと原種のスイカというのは甘くないものだそうだから先祖返りでも起こしたのかもしれなかった。 さて。ではこれをどうするか。捨ててしまうのはあまりに無体だ。甘くないだけでスイカ自体の風味はきちんとある。 2年半の間にインプットされた脳内のレシピブックを紐解いているうちにひとつ思い当たり、冷蔵庫の中を確認した。 問題ない。材料は全部揃っている。今晩の料理にも抵触しない。ただどうしても時間が必要だから、今からやっておくべきだろう。 そう結論が出て、次々に必要なものを冷蔵庫から取り出している時だった。
② 「流姉さん、ついこないだ『やっぱり暑い夜のビールは最高ね!夏はこうでなくちゃ!』とかなんとか言ってたじゃないか。 で、買ってきた枝豆を全部ひとりで食い尽くして。………それより食後のデザートが出来たんだけどみんなで食べないか?」 「あ、てんかくん」 おさげにした三つ編みを尻尾のように揺らして軽く振り返った棗が俺を見て微笑んだ。 彼女の前でゆっくりと器の中身を崩さないようにお盆を床へ置くと、何も言わずとも他の3人へとデザートを回すのを手伝ってくれた。 花火セットの内容物を確認していたセイバーと百合先輩や、セイバーが送風機の役割を放棄したので自分で団扇を仰いでいた流姉さんも続いてこちらを向いた。 「へぇ、アイスクリーム?てんちゃん気が利いてるわね~」 「残念。ジェラート。アイスクリームと大差は無いけどさ」 「………ああ、夕飯を作る前から何か余所事をやってるなと思ってたけどこれだったんだね」 さすがに自分でも料理をやる百合先輩はそれだけでおおよその工程が頭に浮かんだらしい。合点が行ったというように呟いた。 俺が一番端に座っていた棗のさらに奥へ腰掛ける頃、気の早い流姉さんはもうスプーンを咥えていた。 「わお、つめたーい!暑い時に食べる冷たいものはやっぱり最高ね!」 「………む、本当ですね。この香ばしい香り………コーヒー味ですか、テンカ」 「インスタントコーヒーを混ぜただけなんだよ。何を入れても違った味になるし楽しいよね、ジェラート」 ぱくぱく食べてしまう流姉さんと違いセイバーは一口ずつ丹念に味わって食べようとしてくれる。綻ぶ表情が稚気に富んでいて少し嬉しい。 みんなに器が行き渡ったのを確認して、さぁ俺も食べようとスプーンを握った時だった。ふと流姉さんが急に思い出したようにぽつりと呟いた。 「そういえば前にもこんなことあったわよね。暑い夏の日に、急に食後のデザートだってこういうの出してきて」 「え?前っていつ頃の話なんです?流さん」 「てんちゃんたちがまだ中学生の頃だったかしら。そうそう、なっつんも一緒にいたわ。私が連れてきたからだけど」 「………ああ」 という声が喉から漏れたのは俺だけではない。全く同じタイミングで棗も発していた。 確かに、そんなことがあった。別に何か特別な転機だったとかそういうことは全く無いが、今でも覚えている。 「ちょうど日にちも今と同じ頃だったっけ?あの時は確かね―――」 頼んでもいないのに流姉さんがぺらぺらと昔話を喋りだした。 窓をあちこち開け放っているせいで吹き抜けていく風が、縁側に吊られている風鈴をちりんと透明に鳴らした。
① 「あっつー………あつーい………なんだってこう暑いのかしらね………」 庭に面する縁側からやたら気怠げな声が上がった。 大窓を全て開け放った縁側の縁へだらしなく足を放り出して腰掛けているのは我らが流姉さんである。 今にも縁側へ伸びてしまいそうな流姉さんを2年くらい前の納涼祭の日付がプリントされた団扇が隣から風を送っていた。 送風機と化したセイバーは何も羽織らないキャミソール姿だ。剥き出しの鎖骨とか肩とか首筋とか、たまに視線のやり場に困る。 「ですがリュウ。今宵は風も吹いています。涼を取るには十分では?」 「いっつも涼し気な顔をしてるセイバーちゃんが言っても納得できなーい。 だいたいこの家はてんちゃんの健康志向でなかなか冷房つけたがらないじゃない。みんな身体が慣れてるから平気なのよ。 あたしゃ1日中ガンガン冷房かかった病院で仕事してるのよ?暑さに弱くなるのは不可抗力ってものよ」 「同意しかねますね流さん。私だって労働環境は似たようなものですけどこのくらい平気ですよ? 夏場は室内も強めに冷房かけておかないと花なんてすぐ萎れてしまいますからね」 同じように縁側に座り、指で摘んだ線香花火がまばゆく火花を散らす様を見ていた百合先輩がにやりと笑った。 実際『クリノス=アマラントス』の店内はいつも涼しい。いや寒い。お花様に人間のほうが快適温度を合わせるのである。 ちょっと心配になるくらいなので百合先輩は我が家では是非人間にとって快適に過ごしてほしいものだ。 なかなか同意を得られないことにが不服なのか、流姉さんはこの縁側に並んで座る最後のひとりに狙いを定めた。 「なっつんはどう?あたしがぶーぶー文句を言っても許されるくらい暑いと思わない? 歯止めのかからない地球温暖化と日本の亜熱帯化に警鐘を鳴らしたくならない?今すぐこのリビングに冷房を効かせるべきだと決意しない?」 「えっ!?けほっこほっ………えっと、どうなんでしょう?」 急に話を振られた棗はちょうどお盆の上でびっしりと汗をかいていた麦茶のグラスを煽っていた。 話が自分に向いてくるとは考えていなかったらしい。少し噎せてから慎重にお盆の上にグラスを戻し、困ったように微笑んだ。 「ここのリビングは広いですし、今から窓を閉めて空調入れても涼しくなるのはだいぶ後………だと思いますよ」 「え~、でも~、だって~」 いい歳しておきながら全く困ったものである。 構ってほしくて本人も実はどうでもいいと思っているだろう話題を回すあのドラゴンをいい加減止めておかなければならない。 キッチンで作業していた俺は5人分の器とスプーンを乗せたお盆を抱えて、縁側で涼んでいる女性陣へと歩み寄った。
④ 「………へえ」 食卓の席にちょこんと腰掛けていたニコーレは目の前に置かれた丼に視線を落としてじっと見つめた。 「というわけで今日の昼食はマグロとアボカドの丼飯です。食器は箸でもスプーンでも好きな方を使って、どうぞ召し上がれ」 テーブルの上には丼が3つ。俺とセイバーとニコーレのぶん。実にシンプルな昼食である。 とはいえ彩りに関しては申し分ない。曰く、料理は赤・黄・緑の三色が揃っていると美味しく見えるそうだ。 その点これはマグロの赤、黄身の黄、アボカドの緑と完全に取り揃えている。手軽でありながら出来のいい料理だった。 「ふーん。あの紅い身の生魚がこうなったわけね。それじゃ、いただきます」 ニコーレはスプーンを手に取ると丼に突っ込んで掬い上げる。 マグロとアボカド、そして酢飯が乗ったスプーンがニコーレの小さな口に吸い込まれていった。 直後、驚く前に口元に手を遣ったのはお嬢様らしい高貴な仕草………なんだろうと思う。少なくともそう見えた。 「………美味しい。生の魚なのに生き物の臭みがまるで無いわ。 ただひたすらに旨味がずしりと舌へ乗り上げてきて………いっそ暴力的ですらあるわね」 「マグロは生で食べるのが美味しいからね。半端に熱を通しちゃうと途端に食感がぼそぼそしちゃって、なかなか扱いが難しいんだけど」 「うん。それにこの果実のねっとりとした食感とコクがそれをなおさら引き立てている。 そこに卵の黄身までもが加われば………テンカ、今日も君の作る食事は私を満足させてやまない」 そう評しつつ、セイバーは美味しいものを食べる時に浮かべるあのふわふわした笑顔を浮かべていた。 こちらは箸を器用に使って丼の中身を口に運んでいる。動かし方は非の打ち所がない。 サーヴァントが聖杯から与えられるという知識は箸の使い方まで教えてくれるのだろうか、彼女が箸の扱いに困っていたところを見た覚えはない。 まあ、なんでも天才肌を発揮してこなしてしまうセイバーのことだから独学で習得してしまったのかもしれないけれど。 「七味とかわさびとか加えればこれはこれで引き締まった味になるんだけど、ニコーレが苦手だからね。 そこは個々人でお好きなように、ってことで。このままでも美味しいでしょう?」 「ええ!今のままでも十分美味しいわ、むしろこのままが好きよ。 魚を生のまま食べるという文化も悪くないものね………スーにも作らせてみようかしら」 「いやそれは………どうだろ」 にこにこと満足げな笑みで丼の中身を頬張るニコーレには悪いが、あの女執事さんがこの飯を食べたら何と言うことやら。 最悪『何というものをお嬢様の口にさせて!』と怒られるかも。いや怒られないかな。分からない。 よほど舌に馴染んだのか早くも丼の半分ほどを平らげたニコーレがどことなく幸福そうな雰囲気で微笑んだ。 「ふむ。朝からトエーとデートをして、お昼は魅力的な食事。その上夜は豪勢な肉料理だったかしら?ご機嫌な一日ね」 「………デート?」 耳にした途端、丼の中身を脇目も振らずに口にしていたセイバーの顔がすっと持ち上がった。 聞き捨てならぬとじっと俺を見つめるその青い視線に感情の色が見当たらない。それが逆に怖い。 「確か今日は通院とのことだったががやけに早い時間帯から行くのだなと不思議に思ってたんだ」 「ち、違っ。それは流姉さんの部屋の片付け、ニコはその応援をしてくれたってだけで!」 「テンカ。そのような言い訳をしなくてもいい。テンカとニコーレはいわば魔術にあっては弟子と師という関係だ。 多少親密であっても私から異論はない。異論はな。………ふーん………ふたりで………ふーん………」 まるで低温調理されるみたいにじっくりとセイバーの生暖かい眼差しで熱を通されつつある俺が慌ててニコーレを見る。 丼にスプーンを入れて口に頬張っていたニコーレは、俺の視線に気づくと小さく笑った。 「ふふっ」 外見相応でも、実年齢相応でもない。はにかんだような、軽やかで可愛らしい笑顔だった。
③
流姉さんは俺の肯定に対しそう答えるだけで根掘り葉掘り聞いていくるようなことはない。
流姉さんのそういう聞くべきことと聞かない方がいいことを敏感に嗅ぎ分けるセンスには内心感謝していた。
俺にとって夢といえばアレのことだった。アレは説明しろと言われても出来るものではない。
発作を起こしたり体調を崩したりした時に決まって見る、魂が焦げ付くような恐ろしい夢。
流姉さん曰く、その夢を見ている時の俺は酷い魘され方をしているらしい。
流姉さんのことだ。内心決して穏やかではないだろう。それでも俺に気を遣わせまいとして憂慮をおくびにも出さない。
ありがたいが、それ以上に申し訳なかった。
親代わりのこの人に俺はたくさんのことをしてもらってばかりだ。これまでの人生で、どれだけのことをこの人に返せただろう。
「………うん、いつものみたいね。少なくとも今日1日は安静にしていなさい。きっとそれで良くなるでしょう」
「ありがとう………ごめんね」
「はいはい。てんちゃん、お腹減ってない?」
「少し………でも流姉さん、料理できないでしょ」
「ふふーん。そう言うと思ってレトルトのお粥を買ってきてあるのだ。
い、いくらなんでもお湯沸かしてレトルト温めるくらいは私にだって出来るからね!?」
そうですね。そのくらいは出来ないと現代人としてどうかと思います。
お粥のレトルトをこれみよがしに見せびらかす流姉さんに苦笑することで、陰鬱な気分がほんの少し晴れた。
まったく、この人には敵わない。
「それに気になってた漫画の全巻セットも持ってきたからてんちゃんちで半日過ごすのに何の支障もないんだな~。
じゃ、私これ温めてくるね!温められるからね!そこんとこ心配しちゃダメよてんちゃん!」
「………分かった分かった。お願い、流姉さん」
俺がそう言うとにっこりと笑って流姉さんは俺の部屋を出ていった。
流姉さんが出ていったのを確かめたあとで、俺は小さく溜め息を付いた。身体に籠もった熱のせいで息すら熱い。
ひとりになると、反芻されるのはいつもの夢。
あの夢は終わりのない地獄の底。命あることを罪とする俺の刑場。
―――それでも。このユメには不思議なことに、終わりがある。
俺にとって最も苦しいことは痛みではなく、その終わりだった。
どうしていつも、その終わりの果てに、この手には美しい一輪の花を握っているのだろう。
………階下から流姉さんの悲鳴が聞こえてくる。お湯を沸騰させるだけなのに悪戦苦闘しているらしい。
苦笑の形に頬が無理やり引き攣られる。十影典河。もうすぐ2年生になろうかという冬の事だった。
②
そうして、目が覚めた。
ゆっくりと瞼を開いていく。焦点が少しずつ定まっていく像の中には人の顔がひとつ映っていた。
誰かと思うまでもない。それは物心ついたときからずっと目にしてきた人の顔だ。
黒髪のショートヘア。昔、といってもこの人が大学生だった頃はまだ長い髪だった。どちらも似合っているからいいのだけれど。
「………流姉さん。今日は1日中診療じゃなかったの」
「ん、ちょっと同僚に頼んで午前中だけ代わってもらったわ。
急なことでも快く引き受けてもらえるのはお姉ちゃんの人徳の賜物なのです、ぶい」
少しおどけた調子で笑った流姉さんがVサインをする。つられて俺も少し笑ってしまった。
布団の中で鈍い頭を少しずつ回し、自分の状態を確かめる。
視界がぼんやりと滲み、悪寒が体を蝕んでいる。寒いのはそれだけではなく、びっしょりと寝汗をかいているからだろう。
午後の授業中に体調が悪化しだして、それでもその時はまだ歩いて帰ることが出来る範疇だった。
しかしそれで無理を押して自分の家まで辿り着いて、その後の記憶があまりない。
辛うじて覚えているのは流姉さんに気分が優れないという旨をメールで送ったことだけだ。
首を回すことすら辛かったが、どうにか少しだけ横に倒して壁掛けの時計を伺う。次の日の朝であることを針が示していた。
「昨日の夜に仕事終えてこっちに来たら、ベッドの上でうんうん唸っているんですもの。
どうせ今日もしばらくはへばってるだろうと思ったから早めに連絡して正解だったわね」
鞄を開いててきぱきと診療道具を取り出す内科医。そうか。ということは昨日の晩はうちに流姉さんは泊まったのか。
「………昨日の夜、何食べたの」
「冷蔵庫の中の残り物!
と言いたいところだったけどなぁんにも無かったから閉店時間ギリギリの『シーマニア』に飛び込んだわ」
「ごめん………」
「いいのよ。このへんにコンビニが無いのが悪いの」
そうじゃなくて。何も用意できていなかったことを謝ったのだけれど。
微妙に食い違う会話はいつものこと。流姉さんは特に躊躇ったり俺に了解を得ること無く俺のシャツをめくって胸へ聴診器を当てた。
その後体温計で体温を測ったり、俺の口を開けさせて喉奥の様子を確かめたり。内科医として当然の処置を行っていく。
「またいつもの夢?」
身体のあちこちを触診しながら流姉さんは聞いてきた。
「………うん」
「そっか」
①
■の命は苦痛と共にあった。
もう何度体験したか分からない、地の獄をひたひたと歩いていく作業。
赤。黒。まるで粉砕機に押し込まれたみたい。■がぐちゃぐちゃのどろどろになって押し潰される。
赤。黒。まるでミキサーに注がれたみたい。■がぐちゃぐちゃのどろどろになって掻き混ぜられる。
赤。黒。まるでコンロに焚べられたみたい。■がぐちゃぐちゃのどろどろになって沸騰する。
歩みが苦しい。呼吸が苦しい。鼓動が苦しい。生きることが苦しい。
鉄砲水に押し流される他愛のない命のよう。水底と濁流の間で磨り潰されてぺしゃんこにされる。
押し寄せる真っ黒い波濤の全てが■を叱責し、弾劾し、非難していた。
お前が生きているのはおかしい。お前だけ生きているのはおかしい。お前は終わっていなければならない命だ。
ああ。それに対して他に何が言えるというのだろう。
すみません。ごめんなさい。のうのうと生を繋いでいて申し訳ありません。
身を平たくし、縮こまらせて、それがどうにか過ぎ去るのをただ待つ■の姿はとうに骸のようだった。
痛い。それでも生きようとする肉体器官の全てがその罵りを浴びて苦痛を叫ぶ。
血の一滴一滴までもが砂に変わるかのようだ。こんなに苦しいのなら、いっそ生など欲しくはない。
けれど■を否定するその痛みこそが、痛むことで■に己の生を実感させていた。
ここは終わりのない地獄の底。命あることを罪とする■の刑場。
―――それでも。このユメには不思議なことに、終わりがある。
■にとって最も苦しいことは痛みではなく、その終わりだった。
どうしていつも、その終わりの果てに、この手には美しい一輪の花を握っているのだろう―――
正確には、恐る恐るだったかもしれない。
生前はこれで子供ができてしまうと教えられていたし、召喚後に因果関係は無いと学んでからも誰とも交わすことは無かった。
だから、気が急いて失敗したら―――と思い、パーシヴァルは慎重に、結果としてとても長い口づけを交わした。
ゆっくりと距離を離す、再び視界に映った互いの表情が茹で蛸のようになっていて、恥ずかしい反面少し可笑しい。
もしかしたら、これまでのどの戦いよりも緊張したかもしれない。そんなアルスの体からふにゃと力が抜けた。
「そ、そうか。僕……余は!嬉しく思うぞ!」
「ふふっ。言葉遣い、今直しても遅いですよ」
「あぅぅ……」
「いいんです。いいんですよ。そんな所も私は好きなんですから……」
そう言って、パーシヴァルは体重を預けてきたアルスの身体を抱きしめる。
彼の暖かい体温を全身に感じる。それがじんわりと自身に染み渡り、心に溜まった波を和らげるように感じた。
強く求めるように抱き続ける。そうでなければ、きっと溜まった波はこの身を裂いてしまうだろうから。
共に体温を―――2人の「好き」を分かち合いたいと、そうパーシヴァルの心は求めていた。
だから、このまま時が永遠に止まって欲しいと―――
時?
我に帰ったように、今の時刻を予測で割り出す。……深夜過ぎ、というか抜け出た時点で刻限越えである。
「――――――早く戻りましょうアルスくん!これ絶対バレます!!説教では済まないやつです!!!」
「む、む!?いや待たれよ!裏庭から忍び込めばあるいは……!」
「そそそそうですね!?為せば成る!とか言いますし!ゆっくり、ゆっくり行けば大丈夫です!!」
その後、自宅屋敷へのスニーキングは速攻で見つかり、メイド長にこってりと叱られ正座させられた。
fin
沈黙。しかし、戸惑いの中に、答えを見出しつつあった。
何もない日常の中なら、きっぱりと否定していたかもしれない。
生まれて間もない頃から10年以上世話をして、成長を見守ってきた。その在り方は姉弟か、もはや親子に近い。
そんな自分が、アルスを「そんな関係」と認識することは、きっと不可能だろうとパーシヴァルは確信していた。
そう、何事もなかったならば。
パーシヴァルの脳裏に浮かぶのは、10年に渡るアルスと過ごした日々。彼の日常と―――戦いの中の姿。
負傷した彼が弱々しく握り返した手が、今は自分の手を強く握りしめている。
挫折に打ちひしがれた小さな姿が、今は少しだけ大きくなったように映る。
あの時、
心身を子供に返した時、黄昏に照って輝いた翠の眼が、今は星の煌めきを抱いてこちらを見つめている。
天使様のような彼の輝きから目を離せなかった。その本当の理由が、今なら分かる。
アルスくん、変わったんだ。
もう小さな子供ではない。可愛い弟のような存在という自分の定義を飛び越えて、これから、きっと己の王道を見つけていく。
そして、今は弟でも王でもない。彼も、私も、唯一人として向かい合って―――鼓動を、とても近くに感じている。
なんだ。
ずっと前から、答えは決まっていたんだ。
握られた手を強く握り返し、胸元に寄せる。同時に少し身を屈めて、少年と目線を合わせた。
そして、
「うん」
「私も、好きだよ。アルスくん」
そう呟いて、
静かに、互いの唇を重ねた。
一歩踏み出す、彼女のすぐ近くまで。
手を前に出せば、彼女に届く。
そして―――彼女の手を取って、強く握りしめた。
「えっ―――?」
「……パーシヴァル!余は――――――」
「――――――僕は!あなたの事が好きです!!」
ただ、力の限りはっきりと叫ぶ。その瞬間、頭が真っ白に弾けた―――お互いに。
王と騎士ではない。マスターとサーヴァントでも、家族のような関係でもない。
これまでの十数年にあった2人の関係性、その全てを放り投げて。1人の少年が、1人の女性に想いを告げた。
「―――え、だって。そんな……え?」
「一体、そんなの。いつから―――」
「………覚えてない。パーシヴァルと過ごして、しばらくしてから」
「パーシヴァルのことで頭がいっぱいになったり、胸がギュってなったり、熱くなったり……」
「それって……好きだってことだと、思うんだ。だから、それを伝えたくて……最初からそのために、あなたをここに連れてきたんだ」
「だけど、苦しくて。うまく言えなくて……」
普段の尊大であろうとする言葉遣いは既に無い。
年相応の言葉を辿々しく繋げながら、アルスが懸命に自身の意思を吐き出し続ける。
口にすればなんと陳腐な言葉だろうが、止めることはない。こんな子供じみた恋心が、自身にとっての真実なのだから。
「……パーシヴァル」
「答えてほしいんだ。パーシヴァルは、僕のことを、どう思ってるのか」
きっと、受け入れられたとしても、否定されたとしても、元の関係に戻ることは叶わないだろう。
それでも、怯えて終わりたくない。これで何もかも終わってしまったとしても、全部を受け入れる。
だから、どうか、この気持ちを受け取って。
「―――――――――」
「それで……だ、本題なのだが……」
今夜の彼は、どこかしら歯切れが悪い。日頃凛々しく振る舞う姿とは対照的なほどに。
その理由を見出せず、パーシヴァルが再び首を傾げた。
「……戦いの中では、何度も危機に陥った。余も、そしてそなたも―――いつ喪われたとておかしくは無かっただろう」
「余はそなたを―――失いたくなどはない。そればかりを余は恐れてきたのだ」
「アルスくん……心配してくれていたんですね。えへへ、申し訳ないとは思っていますが、少し照れ臭いような……」
パーシヴァルが朗らかに微笑む。いつものように。
違う。
「だから……これからも無理はせぬように。そなたは、その。余の大事な―――騎士であるが故……」
「……勿論です!私はあなたのサーヴァント。いつまでもアルスくんと共にありますよ!」
パーシヴァルが胸を張って応える。いつものように。
違う、本当に伝えたいのは、もっと―――
少しずつ近づけてきた脚が止まる。言葉を重ねるごとに言い淀み、淀むほどに遠く離れていく。
それも本心だ。彼は確かにパーシヴァルの身を案じていた、確かに共にあって欲しいと願った。
しかし、全てを伝え切る事ができない。小さな体に重圧がのしかかり、脚は重く、言葉は圧し潰される。
だけど。
だけど、惑うな。
逃げるな。
言わなければ。
繋いだ運命に問うのだ。ここで伝えなければ―――きっと、何も変わらない。
「―――待って、パーシヴァル!!」
「それにしても、どうしたんですアルスくん?こんなところに」
既に夜更け。
開発予定地の真新しい高台に立つのは、屋敷を抜け出たアルス/XXXIとパーシヴァルの二人だけ。
眼下には、繁華街の難波に負けず劣らず梅田の街が人工の灯で煌めき、行き交う人々で賑わっている。
対して高台の上は虫の音でも聞こえそうなほど静かに、眼上には星の明かりばかりが梅田の天井を照らしている。
そんな場所に急に行きたいと言い出したアルスのことを、パーシヴァルは疑問を浸した眼で見つめていた。
「うむ、その。ここのところ忙しく、ゆっくりできなかったのでな」
「―――そうですね、思い返せば色々なことがあったと思います」
少し詰まり気味に答えたアルスに、パーシヴァルが過去の記憶へ思考を巡らせる。
一年近くになるか。直近に起きた出来事は、それまでの自分たちの歩みに比してとても波乱に満ちていた。
始まりはきっと、「運び屋」ツクシが巻き込まれたトラブルに治安維持措置としてアルスが出向いた日。
それから運命は回り出した。
相次ぐ怪事件と激化する都市聖杯戦争、「日本」のクーデター、アルスの兄弟姉妹たる王器との競争。
そして、自身の姉から受け継ぎ、自身に埋め込まれた絶望の業との対峙。
数々の戦いを経て、再び束の間の平穏を取り戻した梅田の風景は、二人にとっては以前と異なって見えた。
何も変わらない日常などはない。複雑な意思が絡み合い、繊細なバランスで成り立つ均衡の上に立っている日常。
いつか壊れゆく、しかしその瞬間は誰にも予見できない日常。誰もそれを気づかぬまま過ごす日常―――
だからこそ、いずれ来るその時までの全てを尊び、守っていかなければならない。
更宵喪束=さらよひ・もつか
黄泉平坂(よもつひらさか)のアナグラム
泥を練るのに色々余裕がないと難しいですからね…
無理せずに日常に支障が無いよう頑張ってください!
恋愛描写に手を出すのに精神力に余裕ある日を待ってたら色々あっていつのまにかめちゃくちゃ待たせてしまってすいませんパパさん!
き……近日!
近日出せるかはともかく近日がんばります!
アンリエッタ・クロイツェルレフェルン(Requiem)の魔術(呪術の副産物的能力)、『人の翳』 の詳細な解説を行う。
かつて負の呪いは彼女の肉体を媒介に人体を模す事で辛うじて成形されていたが、彼女の精神的成長、および心臓部の聖杯という憑代の獲得に伴ってある程度ヒトの容貌から乖離しても安定化する様になった。
これによって実際の腕では無い部分からも生やす事が可能となり、対HCUでは多種類の腕を何本も展開して戦闘を行う。
此処では主に使用する四種の腕を紹介する。
・『指』
先端が尖った管のような腕。動作が速く正確で、長距離の伸張が可能。
幾本も生やして伸ばす事で多数の敵にも対応可能だが、ある同業者に「イソギンチャク」と形容されて以降はあまり持ち出さなくなった。
細く強度も低いが、対生物・対霊体であれば呪詛の効果によって十分な致死の脅威となる。
違法回収業者等の対人戦において強力。
・『右』
『一段解錠』 状態の右腕に相当するためこう呼称される。
蟹のはさみのような二本指の腕。
より太く巨大となり、単純な破壊力に優れ、重機のように対象を破砕できる。
伸縮性がなく精密作業に向かないが、「凄鋼」をボロ切れのように捻じ切り、叩き潰す程の膂力を発揮する。対HCU戦の主力。
・『左』
『二段解錠』 状態の左腕に相当するためこう呼称される。
クレーンのような三本指の腕。
『指』以上に伸縮性に富み、なぎ払いなどの範囲攻撃に使えるほか、精密な作業に向いている。物体の投擲や正体不明の物質の調査、遥か遠くの危険地帯に存在する目標を掴み取るなど、主に斥候に活躍する事が多い。
・『三本目』
『三段解錠』 状態の「三本目」に相当する。この腕は一本しか生やせない。「泥濁翳核」 そのものの腕であるため、運用に際して精神に対する影響が大きいデメリットは変わらない。
五本の指を持ち、器用さと力を兼ね備えた万能の腕。
巨大かつ長大、伸縮可能でさらに力も強いが、心臓に眠る負の怪物
彼女がこれを持ち出すのは強力な敵を相手取る時、あるいは多数のロストHCUを相手取る際など。
・『極源散開』
「泥濁翳核」 に変貌する。
自ら全身に負を露出させ、悪性の呪いの許す儘に暴れる状態。心臓部の呪詛が顕在化した怪物である
彼女の精神力如何に関わらずこれを増長させる事は”悪意を許容する”事を意味する為、当形態時には彼女の自我や自意識は存在しないと言ってよい。共生すれども共存はしていないのだ。
変身時に定めた極めて大雑把な目的(「正面突撃」「迂回して突撃」「南に撤退」等)を実行するなど行動に指向性を持たせる事は出来るが、基本的に敵味方、生物非生物を問わず、おぞましい悲鳴のような叫び声を上げながら目に付いた物体に片端から攻撃を加えようとする。
とは言え心臓部が破壊されない限り即座に再生される耐久力、何もかも破壊するが如き暴力は無二の強力さを誇り、窮地からの脱出や劣勢の逆転など、彼女や同行者の命を救った場面は多い。
使用後は体力をほぼ使い果たし、全身に痣のような紋様が浮かび上がり、激しい筋肉痛に襲われる。
kagemiya
されど汝は人に非ざる御身なるべし。
汝、災禍を常世に齎す者。
我はその破局を臨む者────
wiki
「……分かった。ランサーには、私がマスターって言う自覚が無いのね。」
「そう言う事なら、早く私を認めさせないと。」
「?……待て、何故そうなる?」
「あなたがそう言ったんですぅー。」
「???」
怪訝な顔をするランサーを尻目に、言葉を続ける。
「……でも困ったな。真名が分からないと、あなたがどれぐらい強いのかも分からないから。」
「それならば問題ない。貴方がマスターであればな。」
「(……契約(パス)を介して供給されるこの魔力量……彼女が卓越した魔術師である事に疑いの余地はない)」
「(見た目は若いが、才能も実力も申し分ない。私も全力をもって戦えるだろう。……精神面が如何かは、今は判らないが……)」
「─────ふーん。」
こちらを信用してるんだか、信用してないんだか。……いまいち真意が掴み取れないサーヴァントだが、それでも問題無いと言う程度には、腕に覚えがあるということだろう。
ならば私はマスターとして、彼を思う存分に使うまでだ。
「ならランサー。さっそく仕事があるんだけど。」
「早くもか。良いだろう、ただ私は貴方の槍として、道を阻む障害を─────」
ランサーが決め台詞を言うか言わないかといううちに、私はクリップどめされた大量の書類と電卓を渡した。
「────────ん?」
「うち、花屋やってるの。それ今月分の収支。朝までに計算しておいてくれると助かるな。」
「─────────」
呆然とすること十秒。
ようやく思考を取り戻したランサーは、地下室から出ようとする私を急いで呼び止めた。
「……百合、これは……」
「使い魔、でしょ?寝なくても良いのは知ってるんだから。私は明日に備えて寝るけど、よろしくね。」
「それは、そうだが……」
「マスターは私。貴方はサーヴァント。いい?」
ここまで言ったら流石に反論も出来なくなったと見える。黙って机に向かって書類を広げ始めたのを確認すると、私は二階の自室に戻って行った。
……私がマスターって事は、まず分からせられたかな。
「……覚悟なら、してる。」
「聖杯戦争は児戯では無いぞ。」
しかし再びランサーは、私の根底を突くように覚悟を問い、かえって決意を揺るがすような発言を繰り返す。それは私の不安定な足元を、躊躇なく崩そうとするような冷ややかさを持っていて。
……そしてそれは、私に少し苛立ちを抱かせるには十分だった。
私はずけずけとランサーの目の前まで歩いて行って、顔を近付けて宣言する。
「……いい?私はこの日の為にずっと準備して来たんだよ。私に資格が無いって言うつもりなら、マスターとして許さないから。」
ランサーは目を少し開いて、変わらずこちらを凝視していた。しかし、その中に含まれる感情は……”驚き”が強かったように見えた。
「む……失礼した」
これは少し意外だった。
今までの態度から、つっけんどんで歯に絹着せぬ人物だと判断しかけたのだが。割合、話は分かるようだ。
少なくとも今のちょっとした諍いで、悪人の類では無いらしい事が確かになったのは収穫だっただろうか。
「そう……分かればいいけど。」
「それでランサー、あなたはどこのサーヴァントなの?」
「……ああ、私の真名は……」
そこまで口にして、ランサーは口を噤む。
何かしら思案しているような一瞬の間を置いて、彼はこう言った。
「……いや、明かさない方が良いだろう。不都合になるかも知れない」
「不都合?」
「ああ。万が一露呈すれば、此方が不利になる」
成程。年齢が若いから、実力不足と判断されたのだろうか。
未だに道に迷っているような私の本質を見透かされているのならば仕方ないが、そう簡単に真名を教える事は無いということか。
……明らかにナメられてる。それなら、こっちにも考えがあるんだから。
陶磁のように白い肌が見えた。次には燻んだ銀の頭髪。その閉じた目蓋が徐々に開かれると同時に、璧玉のような蒼色の瞳が顕となる。
それは男だった。人形のように無機質な、然し憂いを含んだ表情。中世欧州然とした鎧に身を包み、手には鳥のような意匠の施された長大な獲物。
「───────」
私は未だに、眼前の出来事が現実かどうかを測り兼ねていた。自ら信念を持って喚び出した筈の使い魔。
それが圧倒的な存在感と共に目の前に顕現した事に対し、動揺を隠しきれなかった。
まるで人間と大差ない。……否、それは違う。
間違いなく、目の前に在る”これ”は、圧倒的な魔力の塊だ。人間の姿をしているけど、人間以上の”亡霊”であることに、疑いの余地はなかった。
「───────」
圧倒されているうちに、サーヴァントは完全にこちらを認識した様だった。
手に持った獲物を狭い室内で器用に振り回し、石突を床に突き立てる。
鋭い金属音が室内に響き渡ると共に、私も我に帰る。それと同時に、この男が口を開いた。
「……サーヴァント、ランサー。召喚に応じ参上した。」
「……ランサー……」
男の言葉を反芻する。
最速の英霊とも呼ばれるランサーは、聖杯戦争に於いても有力な三騎士のクラスの一端だ。
セイバーで無かったのは少し残念だが、何が出て来るか分からない状態で喚び出されたクラスとしては、十二分の成果と言えるだろう。
「貴方が、私のマスターか?」
凝として此方を見据えるランサーが私に問いかける。またしても思索に意識を奪われていた私は目の前のサーヴァントに意識を戻し、はっきりと返答した。
「───百合。栗野百合。」
「あなたを喚び出したのは、私……。」
首元を晒して、右肩の令呪……マスターとしての象徴を見せながら言う。
「……良いだろう。」
納得したような、納得していないような調子で淡々とそれを認めたランサーは、その宝石のような双眸をこちらに向け、問い掛けるように言う。
「百合。私は今より、貴方の槍と成ろう。」
「但し、共に戦い抜く覚悟が有る限りに於いては……だがな。」
まるでこちらを見透かしているかのように、試すような言葉を投げ掛けてくる様に、少しどきりとさせられる。
やはりサーヴァントはサーヴァント。人智を超えた存在である以上は、こちらの些細な悩みなども手に取るように分かるという事だろうか。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。
繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
「────Αρχή(セット)」
私の中にある、形のないスイッチを入れる。
体の中身が入れ替わるような感覚。
通常の神経が反転して、魔力を伝わらせる回路へと切り替わる。
これより栗野百合は人ではなく、ただ、神秘を成し得る為だけの部品となる。
「────ッ」
身体が熱い。
大気に満たされるマナが肉体に吸収され、私の身体を満たし、同時に崩壊させるような感覚。
魔術回路である私を、私の肉体が拒絶する。全身を刺す、這いずるような痛みに目を瞑り、汗を流す。
しかし同時に─────そこには、確かな手応えがあった。
正直に言って、私はこの瞬間まで怖れていた。魔術の道を歩むことを。戦争に参加することを。
でも、もう後戻りはできない。今の私はただ魔力を注ぎ込む電源として、召喚陣というシステムを稼働させるだけだ。
「──────告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。」
視界が閉ざされる。
血の滲むような声で、言葉を最後まで紡ぐ。
「誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、
我は常世総ての悪を敷く者。
汝三大の言霊を纏う七天、
抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ───!」
──────閉じた網膜の向こうで、眩い閃光が弾けるのを感じた。
乱舞するエーテルの濁流の中にあってなお、私はその向こう側に何かが現れた感覚というものは無かった。
徐々に視覚が回復する。私の目にはその時、暗い地下室の景色すらもまばゆく鮮烈に映っていた。
─────────
──────
────
深夜。
時計の針は2時を指している。
念には念を入れて、時報で確認もしたから間違いない。
これが私にとって、最も波長の良い時間だった。
「───消去の中に退去。退去の陣を四つ囲んで召喚の陣で囲む……」
地下室の床に陣を刻む。
サーヴァント召喚にさして大きな儀式は必要ない。
聖杯が勝手に招いてくれる。マスターは彼等に魔力を提供するのが第一。
「───素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。
降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
本来なら血液で描くところだが、今回は魔力を与えて育てた薔薇の染液で。
咲く意味は「結合」。少しは縁になってくれると良いが……実質的には験担ぎのようなものだ。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。
繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
「────Αρχή(セット)」
私の中にある、形のないスイッチを入れる。
体の中身が入れ替わるような感覚。
通常の神経が反転して、魔力を伝わらせる回路へと切り替わる。
これより栗野百合は人ではなく、ただ、神秘を成し得る為だけの部品となる。
「────ッ」
身体が熱い。
大気に満たされるマナが肉体に吸収され、私の身体を満たし、同時に崩壊させるような感覚。
魔術回路である私を、私の肉体が拒絶する。全身を刺す、這いずるような痛みに目を瞑り、汗を流す。
しかし同時に─────そこには、確かな手応えがあった。
正直に言って、私はこの瞬間まで怖れていた。魔術の道を歩むことを。戦争に参加することを。
でも、もう後戻りはできない。今の私はただ魔力を注ぎ込む電源として、召喚陣というシステムを稼働させるだけだ。
家に帰ってきた私の目に最初に入ってきたのは、点滅する留守電のランプだった。
「………そうだよね。もう、いい加減に催促が来るか……」
電話番号を見ただけで誰からの物かわかるし、内容も予想できる。
凍巳紗灯鳥……彼女からのものだ。わざわざ掛けてくるということは、つまり……
再生ボタンを押すと、受話器から女性の声がした。
『もしもし。分かってると思うけど、期限は明日までですからね。残る席は少ないんですから。』
『君に限ってそういう事は無いでしょうけど───もしマスターの権利を放棄するというのなら、今日中に連絡して?』
『君には既に令呪の兆しが現れているのだから、早くサーヴァントを召喚して令呪を開いて下さい。もっとも、聖杯戦争に参加しないといのならば話は別です。教会はいつでも君を歓迎していますからね。』
『それではまた、クリノさん。』
留守電はそこで切れた。
戦うなら今日中に支度しろ。戦わないなら目障りだから早く降りろ。
監督役としては尤もだが、私にとっては神経を逆撫でするような言葉に変わりはない。
「……言われなくても。」
引き延ばしも今日が限界だ。
これまでは父さんの遺言と葛藤し続けてきた。……だが、もうそうもいかない。
戦う準備はできている。私は……この戦争に参加すると決めたのだから。
「何か縁のあるものが遺ってれば、良かったんだけどな。」
聖杯戦争に参加する魔術師は、この日に備えて召喚用の触媒を用意するものなのだが、私には”縁”を示す品物がなかった。
サーヴァントは呼び出せる。その気になれば今すぐに呼び出して契約もできる。
この街の霊地は栗野の管轄だから、良い条件も活性化の時間帯も知っている。
だが、触媒が無いのではコンパス無しで航海に出るようなものだ。一種の賭けだ。
しかし生憎触媒はおろか、戦争に関する文献など、形に残る記録は私の家には一切遺されていない。父から教わった事が全てだ。
「(…やっぱり、参加するなって事なのかな。)」
そんな予感が私の脳裏を迸るが、すぐに振り払う。
昨夜、地下室で発見したものは確かに凄いものだった。閉じると時間が内部で凍るカバン。18年前の火事を逃れた数少ないもので、昔から……「栗野」が「クリノス」だった時代から、貴重な花の保存に使われていたらしい。家宝やら何やらが沢山入っているので、これが実質的に栗野の至宝なんだろう。
不凋花アマラントスの球根をはじめ、黒蓮ロートス、シダの花、竹の花、月下美人、銀竜草、優曇華……
既に絶滅した花や存在しないとされている花まで含めた、伝説的な花ばかりだ。
これはこれで凄いが、しかしサーヴァント召喚の役に立つかと言えば……
「……まあ、いいか。」
「”不凋花は全てを咲く”。……何が出てきても、おかしくないもんね」
栗野随一の至宝、不凋花の球根を握りしめる。
こうなったら本番勝負だ。
「なんだ百合!今日はもう帰るのか?」
放課後。3-Aの教室を出がかりに、聴き慣れた声に呼び止められた。
心地よく低い声に反射的に振り返り、私は声の主に微笑んで言う。
「うん、今から帰るところだよ。定休日だけど、用事があるから」
「そうか。バイトも無しに一人でやってんだもんな。大変だなぁ。」
「園芸部で育ててたハイビスカスが開花したんだよ。一番に見て貰いたかったんだけどなぁ」
この子は絹留雅美。
学校の中でも、私の親友と呼べるだけの関係だ。周りからは粗野で凶暴のレッテルを貼られている……いわゆる不良生徒。『園芸部の女帝』とか呼ばれているらしい。
なぜか私とはかなり波長が合うらしくて、花を求めて店に来てからは指数関数的に仲良くなっていったっけ。
たぶん、心ねが似てるのかもしれないけど。
「ほんと!?ハワイアンだったよね!見たかったな……」
「仕事なら仕方ねえよ。また明日見に来な。一日しか咲かねえわけじゃなし」
「……うん、そうする。じゃ……」
「おう、またな!」
そういって彼女は、私の言う「用事」を店の事だと思って、気を遣って送り出してくれた。
このように、とても優しい子なのだ。側から見ている限りでは怖いところもあるかもしれないが。
私にとっては、日常のシーンの象徴。魔術師という身の上からすれば、一般人とあまり深い仲になり過ぎるのは良くないけど……
思ったより、仲良くなり過ぎちゃったかも。
……自分でも無意識のうちに、自棄になっているのかもしれない。
そんなことを考えながら、それ以来は誰とも話さず家路につく。私は日常に生きる栗野百合ではなくなる。
残りの半日。今日は、今日こそは完全に、非日常の栗野百合に切り替わらなくてなならない─────
④
「………うどんの買い置きは無かったはずだから十中八九お粥で来るとは思ってたけど。なるほどこうなったか」
ベッドに横になったまま半身だけ起き上がった百合先輩が唸った。手にした茶碗から漂う香りを嗅いでのご感想である。
「鶏ガラスープと香り付けのごま油で中華風のお粥にしてみましたけど、好みじゃありませんでした?」
「ううん。でも十影くん、どっちかというと洋風派じゃない。
だからリゾットを作ってくるんじゃないかなって予想してたから、ちょっと意外だっただけ」
そんなに洋風の料理ばかり作っていただろうか。和洋中、なんでも作るつもりでいたが、言われてみるとそんな気もしてくる。
トレーを小脇に抱えたまま、俺はそっと百合先輩の様子を伺った。相変わらず気怠そうで復調したようではない。
ただ、パジャマを着て萎れている姿はなんというか………普段の百合先輩にない魅力があるのを否めない。
今更だがここは百合先輩の寝室なのだ。そう意識すると、なんだか無性に背中がむず痒くなってきた。
「まあ、今回はこんなふうに仕上げてみました。口に出来るだけでいいので食べてください」
据わりの悪さを誤魔化すように俺は百合先輩に匙を渡す。
百合先輩は掬った匙の上の粥をしげしげと見つめた後、おもむろにぱくりと咥えてみせた。
「あむ………」
もそもそといつもよりスローペースで咀嚼している。その口角が食べるのと同じくらいゆっくりと上がっていった。
「………ん。なんだか優しい味がするね。そんなに濃い味付けじゃないけど、生姜の香りがよく効いてて美味しいよ」
「良かった。素直に塩味にするか迷ったんですが、薄めに整えれば食べにくいって程にはならないかなって」
「うん。このくらいなら大丈夫。喉に引っかかるようなものも無いし………。ああ、この歯ごたえ。ささみ使ったんだ」
「冷蔵庫に入っていたんで使ってみたんですけど、使う予定があったならすみません」
「ううん。特に決まってなかったからいいよ。………ふふ。丁寧に細かく裂いてある。
私、十影くんの料理好きだな。食べる人のことを凄く考えて作ってるよね、いつも」
「………ど、どうも」
先輩がやけに素直な褒め方をするものでつい返事が吃ってしまった。
普段ならここでワンクッション置いてからかったり冗談を入れてくる。なんだか本当に別人みたいだ。
百合先輩は時折ちらちらを伺いながら匙を往復させて粥を少しずつ口にしていった。
食欲はきちんとあるようで安心する。あんまり食べても身体に毒だが何も胃に入れないのも不健康的だ。
「十影くんはお昼どうするの?」
「まだ少し鍋に余っているので洗い物ついでにそれを食べます。ちょっと足りないようなら帰って何か摘もうかと。
先輩が休んだら一旦うちに帰りますけど、また夜来ます。その時はセイバーを連れてきますね。男手だけだと、その、不便ですから」
風邪を引いた時は風呂に入ってはいけないというのは迷信でぬるま湯に少し浸かるくらいなら問題ない。
その方が汗を拭くより身体も綺麗になって気分の晴れやかさも違う。とはいえ介助の手はあった方がいいだろうし、それなら女手が必要だ。
かちん、と音がした。茶碗の底に匙が置かれる。百合先輩は綺麗に粥を完食し、ふう、と息をついた。
「全部食べちゃった。口にするまでは半分くらいしか食べられないかなと思ってたけど、ここは十影くんの料理の腕を褒めておこうかな。
ふわ………なんだかお腹一杯になって薬が効いてきたら眠くなってきちゃった………」
茶碗を俺に渡してコップから水を飲んだ百合先輩が脱力してぽすんと上半身をベッドに預ける。
言葉通りその瞼は既に重そうで、とろとろと鈍くまばたきを繰り返していた。
「先輩、薬飲んだんですか?」
「十影くんが料理している間に家伝のをね。あれを飲んで一晩もすれば明日の朝にはいつも通りだよ」
栗野家の家伝の薬というとあの苦いんだか痛いんだか分からない味のアレだろうか。経験者としてはぞっとしない。
瞳を半開きにしてうつらうつらと眠たそうな百合先輩の横で椅子に座り直す。眠りにつくまではここにいることにしよう。
そう思って百合先輩の横顔を見つめていたら、ふいに先輩が首を傾げて俺の方へぼんやりとした視線を送ってきた。
「………あのね、十影くん」
「なんです、先輩」
百合先輩は表情を緩めてふにゃふにゃの笑顔を浮かべた。弱々しくて、だからこそ鼓動が跳ね上がるような可愛い微笑みだった。
「十影くんが背負ってくれた時ね。
思ったより広い肩幅なんだなぁ、とか、見た目より筋肉がついててがっちりした身体なんだなぁ、とか。
十影くんが男の子なんだなぁ、って実感して、凄くドキドキした。格好良かったんだ………」
―――百合先輩が寝息を立てるまで、顔の火照りを冷まそうと水差しからコップに3杯ほど水を飲んだが、全く効き目がなかった。
③
汲んだ水を百合先輩の寝室に置いてきた俺が次にしたこととは、栗野宅の冷蔵庫を拝見することだった。
「さて、何があるかな………」
なんだか百合先輩の日頃の食生活を覗いているようで少し気が引けるが、背に腹は代えられない。
冷蔵庫の中に入っている諸々をざっくり斜めに観察していく。するといろいろ使えそうな食材が目に留まっていった。
「生姜、青葱、卵、あと鳥のささみか………あんまり具を多くしすぎてもなんだしな………」
病人の喉を通るものだ。あまり刺激物を入れるわけにもいかないだろう。
この中でも生姜は是非使うべきだ。消化吸収促進や抗炎症作用など、これでもかと風邪に効く成分に満ちている。
万病の薬と崇められているのは伊達ではないのだ。俺も料理によく使うので我が家では欠片ではなく塊で常備されている。
「これだけあれば、あとは………あった!」
炊飯ジャーの蓋を開けて思わず笑みが零れた。炊けた白米がまだ残っている。
あの状態の百合先輩がそれほどたくさん食べるとも思えないからこれだけあれば十分だろう。
立て掛けてあったまな板を設置。シンク下の収納スペースの扉を開けると包丁を収めるスペースを発見したのでそこから包丁を抜き取った。
まずは小ぶりの鍋に水を注ぎ、火にかける。栗野宅は最近流行りのIHヒーターではなくうちと同じガスコンロだった。
沸騰するまでに食材の用意を進めていく。
生姜は微塵切り。青葱も微塵切り。それぞれ別の容器に取っておいておく。
ささみは白い筋の両側に包丁で切り込みを入れ、包丁の背でしごくようにして筋を取り除いておいた。
炊飯釜に残っていた白米を全部茶碗によそい、炊飯釜をシンクで洗っていると鍋がいい調子に泡を吹いてくる。
このお湯に早速白米を投入………するのではなく、まずささみをそっと投入した。一緒に塩をふたつまみほど加える。
病人にこのささみをそのままの大きさで食べさせるわけにはいかない。細かくして食べやすくする必要がある。
ささみを入れたら鍋の火を止め、5~6分ほど放置する。こうすることでささみが固くぱさぱさにならないのだ。
そうして置いておいたささみは時間になったら一旦取り出し、まな板の上で粗熱を取っておく。
茹で汁を捨て、再度水を鍋に注いで加熱する。本当はこの茹で汁も使いたいところだが、後で調味料を足すことを考えるとちょっとしょっぱすぎる。
沸騰したら鍋に白米を入れて煮る。その間に冷めたささみを手で出来るだけ細かく裂いていった。包丁で刻むよりこちらのほうが口当たりがいい。
白米が丁度いい塩梅に煮えてきたら、ここに刻んだ生姜とささみを加えて火を通す。
といっても生姜は刻んであるし、ささみは一度熱を通しているのでそれほど時間はかからない。
調味料用のラックに備えてあった鶏ガラスープの素を気持ち薄味程度に加えて味を整えたら、
「たったこれだけのことがなかなかどうして………いつまでたっても卵は難しいや」
溶いた卵を少しずつ鍋の中に回し入れていった。『の』の字を描くように細く注ぎ込むのがコツだ。
一気に注いでしまうと卵がふわふわに仕上がらないのでそれなりに注意を要求する工程である。
注いだ卵が固まってきたタイミングで再び残りの卵を注ぐ。これを溶き卵が無くなるまで繰り返し、無くなったら鍋の火を止める。
先程の茶碗に鍋の中身を盛ったら、刻み青葱を散らし、小さじ半分程度のごま油で香りをつければ―――
②
「油断した………。このところ忙しかったせいですっかり気が緩んでた………。
魔術刻印の周期が合わないのなんて普段なら少し休めば回復するんだけど、風邪気味だったところにダブルパンチで来られるとね………」
「びっくりしましたよ。突然倒れるんですから。たまたま俺が一緒にいて良かったです」
「………確かに、そのあたりの事情に通じてる十影くんが近くにいたのは不幸中の幸いだったかな。
他の人が見たら大騒ぎされちゃいそうだし。………でも、お店開ける準備しなきゃ………」
そう呟きながら、百合先輩が身体を起こそうとしてベッドに手をついた。
しかし、力を込めてもぶるぶると腕が震えるばかりで起き上がることが出来ない。これでは立ち上がれもしないだろう。言わんこっちゃない。
「駄目ですよ。今日は臨時休業です。シャッターにも張り紙しておきますからね。先輩が嫌って言ってもそうしますから」
「トカゲくんの意地悪」
「何とでも言ってください。あとトカゲじゃなくてトエイです」
恨みがましい視線を百合先輩が向けてくるがきっぱりと撥ね付けた。駄目なものは駄目でござる。
こんなグロッキー状態で店の仕事なんてされたらこっちこそたまったものじゃない。何にも手がつかなくなること請け合いだ。
ややあって諦めたのか、ベッドに体を預けた先輩が自分の腕を撫で回した。
そこには栗野家の魔術刻印が刻まれている。その家の研究成果を回路の刻印として子孫へと受け継ぐもの。
魔術師にとっては最大の家宝であると同時に呪いでもある。宿主との波長が合わなくなるとこうして体調を崩したりもするらしい。
「………仕方ないか。ごめんね十影くん、迷惑かける」
「いいですよ。こんな時くらいちゃんと大人しくして身体を治してください」
「………ぁ」
言い含めながら百合先輩の額に手を伸ばして触れる。驚いたように先輩が小さく呻いた。
やはり熱がある。決して具合は良くなさそうだ。いつもの気丈さを全く喪失した、力のない眼差しがぼんやりと俺を映していた。
「ひとまず制服から着替えたほうがいいですね。汗も拭かないと。あと必要なものは………」
「十影くん」
「はい?」
「だから、着替えたいんだけど」
百合先輩の頬が赤かったのは、風邪による熱のせいだったのか、それとも恥ずかしかったからか。
ここで慌てて出ていこうとしかけた俺の心が踏みとどまったのは、そう言って俺を見る先輩の元気の無さに不安を感じたからだろう。
「………手伝いましょうか?」
自分でも言っていて顔が熱くなるのを感じたが、さっきまであんなにふらついていたのだ。着替えるだけでも一苦労かもしれない。
そうしなければならないほど百合先輩が弱っていたとしたらそれこそ恥ずかしがってなんていられない。
しかし邪念が無いとは言い難い。ただでさえぐったりとした百合先輩は却って色気が増していて目に毒だ。
俺は余所見をしたまま百合先輩を着替えさせられるだろうか―――
「………じゃあ、お願いしようかな?上も下も全部脱がして、ちゃんと寝間着に着替えさせてね」
「ひとりでも出来そうですね、分かりました。水を汲んできます。飲むための水差しの分と、あと汗を拭くための洗面桶とタオルに」
「ちぇー」
熱に浮かされつつも百合先輩が悪戯っ子みたいな顔で笑ったのでひとまず大丈夫そうだと判断した。
大丈夫だから、なんて言われてたら逆に心配していた。それは俺をからかう余裕すらないってことになる。
多分その時は汗を拭くことよりも先に流姉さんの待つ病院へ先輩を担ぎ込むことを考えていただろう。
そういうことなら俺が先輩の着替えを拝んでいていい道理はない。必要なものを頭の中でリストアップしながらベッドの側から踵を返す。
壁に掛けられた時計が目に入った。短針は頂点を既に回っている。もうとっくにお昼時だ。
「ああ、もうこんな時間ですね。先輩、食欲ありますか?」
「ん………少しなら。あんまり重たいものは気分じゃないけど………」
「じゃ、水を汲んできたら何か適当に作ってきます。台所お借りしますね」
ドアノブを捻って百合先輩の寝室から廊下に出る。百合先輩の視線が絶たれるとついぽりぽりと頬を指先で掻いてしまった。
ぼんやりして、まるで意気の無い百合先輩と接するのは全然勝手が違って、どうにも落ち着かない。
①
去っていくタクシーのエンジン音を耳にしながら俺はポケットから鍵を取り出した。
キーホルダーで纏めてある鍵のうちのひとつを指先で挟む。花屋『クリノス=アマラントス』の合鍵である。
「さてと。えーと、確か………」
記憶を反芻し、封印解除用の呪文を脳内の書庫から引っ張り出す。この通り、『クリノス=アマラントス』は二重施錠で大変安心なのである。
物理的な方はともかく、無理に封印を破って侵入するとどうなるか聞いたことがあるが………百合先輩は微笑むだけで何も言わなかった。
「εκπτωση για τη λειτουργια μεσαιων επιχειρησεων―――――」
唱えてから通用口の鍵穴へ鍵を差し込んだ。捻るとちゃんと鍵の外れる音がしたので呪文の詠唱は成功していたのだろう。
ほっと溜息をついた俺の耳元で、くすりと微笑むような吐息が零れた。
「……おお、解錠できたね。偉い偉い。これぐらいは出来てくれないとね」
「な、なんだか褒められている気がしませんね………」
振り返ったりせずに返事をした。むしろ今振り返ってしまったら鼻と鼻が擦れ合うような顔の距離感が確定してしまう。さすがに気恥ずかしい。
今の声だってどんな呟きであっても聴き逃がせないほどすぐ近くからしたのだ。
というのも今まさに俺はこの声の主を背負っていた。背負った相手の太ももを腕で支えるオーソドックスなやつである。
背負っている相手とは最早言うまでもなく、この『クリノス=アマラントス』の若き女主人であった。
「あの………もう大丈夫だよ?十影くん。ここから先は私ひとりで何とかするから………」
「何言ってるんです。タクシーに乗り込むまでふらふらして自力じゃまともに歩けなかった人の言っていい台詞じゃありませんよ」
声までいつもの覇気がなくどこか輪郭が薄らぼんやりとしている。なんだか俺まで落ち着かない。
俺は百合先輩の言葉を完璧に無視し、通用口から中へと入った。
シャッターの降りている店内は薄暗く、切り花用のクーラーの動力音だけが低く唸っている。
が、今日はこの店には用はない。俺は百合先輩を背中に背負ったまま、勝手知ったるという足取りで奥へと向かった。
扉を1枚潜れば、そこは栗野邸の住居の一部である『クリノス=アマラントス』から百合先輩の生活スペースへと移り変わる。
「先輩、靴脱がしますよ」
「………ん………」
一拍遅く返ってくる先輩の返事を受けて、腕1本で百合先輩を支えながらという作業にちょっと苦戦しつつも学園指定のローファーを玄関へ投げ捨てる。
整える余裕なんて無いので俺自身も靴を脱ぎ散らかすと、スリッパに履き替えるのもさておいて真っ直ぐに階段を目指した。
一段一段、背中の百合先輩をなるべく揺らさないよう気をつけて登る。
階段に差し掛かって体勢が不安定になったのか、首筋に回されている先輩の腕の力が少し強くなった。
そう意識すると、普段は知ることのない百合先輩の身体の軽さや柔らかさ、背中に押し付けられているふたつの膨らみを感じてどぎまぎするわけだが―――
「………こんな時に何を考えているんだ俺は」
「何か言った?」
「なんでもないです」
邪念退散。病人を背負っているのだ。そういうのは今は無し。
既にこの家の間取りはおよそ知っているので、階段を登りきった俺は迷うこと無く2階にある百合先輩の寝室を目指した。
扉を開け、中に入る。躊躇わず奥へ進んでベッドの上へ慎重に百合先輩の身体を横たえた。
ずっと俺のされるがままになっていた先輩はまるで何かを後悔するかのように、臥せったまま瞼を掌で覆って天を仰いだ。
ぐったりと横たわったあの人は、最後の力を振り絞るように。
私に向かって、今でも夢に見る言葉を告げた。
“──────百合。私を赦してくれ。”
“……お前には……魔術など、教えるべきではなかった……”
“お前は、お前だけは……”
“幸せに、生きてくれ─────”
…それが最後。
その時のあの人の顔は、今まで私が見てきたどんなあの人の顔とも違うものだった。
あの人の事は好きではなかった。
魔術師として優れていたが、父親としては優れていなかった。
彼は師として私を教えたが、父としては愛してくれなかった。
ただ、それがあの戦争のせいなのだ、と言う事は知っていた。
だから、耐えてきたのだ。私も魔術師として、この人の後を継いで立派にならなければならないのだと言い聞かせてきた。
でも。あの時、あの人は確かに─────
私の、父だった。
「……父さん………父……さん………!!」
流すつもりのなかった涙が溢れてくる。
漏らすつもりのなかった嗚咽が湧き出てくる。
何度あの人に呼び掛けても、返事はもうなかった。
「─────私、どうしたらいいの─────」
あの人はそれまで魔術師だった。それでも彼は最後の最後で、魔術師としてではなく父親として言葉を遺した。
だから、その瞬間に私の進む道は隠れてしまった。
それから色々、紆余曲折あって私─────栗野百合は成長した。
父が戦いに赴いた日から、十八年。
この時が来て欲しいわけではなかったけれど、気持ちは知らず逸っている。
あの人は何故、私にあんな言葉を遺したのか。
それを明らかにしてくれるのは、あと少しで始まろうとしている、そのイベントだけだろうから。
「ごめんね、父さん」
私にとってあの人は、未だに魔術師だった。
2009年
7月4日
…懐かしい人を見ている。
背が高くて、彫りの深い顔立ちで、私が知る限り冗談なんて一度も口にしなかった人が、今は私の目の前で、苦しそうに横たわっている。
“……百合。後の事は分かっているな”
弱々しくか細い声に、行儀良くはい、と答える。
巌のように頑なで厳しかったこの人は、私が物心ついた頃から病弱で、よく咳をしていた。
“お前なら、一人でもやっていける。花屋も、栗野の跡取りも……”
そうは言いながらも、彼の目は心配そうに私を見ていたのを覚えている。
家宝の球根の事とか、優曇華や金花茶の取り扱いとか、秘密の温室の管理とか。今まで教さえてくれなかったことを矢継ぎ早に話す姿を見て、子供心に気が付いていた。
──────たぶん。
この人は、今日には居なくなってしまうのだろうと。
戦争が起きたのだ。
国と国とが戦うわけではなく、人と人とが戦う戦争。それも、たった7人で。
戦っていた人々は、皆魔術師だった。よくわからない理由で、よくわからない方法で殺し合った。
そのうちの一人が、目の前の人だった。
でも、知っていることはそれぐらいだった。
その事について、あの人はそれまでほとんど何も語らなかった。
だけど、この人が病弱なのも、私に魔術を教え続けてきたのも、今まさに私の前で力尽きようとしているのも─────その戦争のせいだ、という事は知っていた。
“百合。聖杯はいずれ現れる。
アレを手に入れるのは、栗野の義務だ……
何より、魔術師として生きていくのなら……避けては、通れない道だ……”
「はい、父さん」
だから、私はこの人の遺志を継がなければならないのだ。そう聞かされてきた。そう信じてきた。
─────この時までは。
“……だが……”
“……お前の、義務ではない……”
その言葉で、私のそれまでの人生は変わってしまった。
「……父さん……?」
彼はひどく大きな咳をして、一層苦しそうに身をよじり、喉で言葉を詰まらせていた。
たぶん。今考えると、あの人はすごく大きな決断を下そうとしていたんだと思う。
それこそ今まで生きてきた意味や目的を、全部投げうってしまうぐらいの。
夕方の教室に二人の男女が椅子に座り相対していた。
竹内太桜は緊張した面持ちで目の前の黒瀬正峰を見ている。
一年間生徒として教えを受けた来たが相変わらず何を考えているのか、どう思っているのか分かりづらい。
それでもあの騒ぎのあった7月以降は大分分かるようになった方だが。
「……ふむ、ちゃんと全部終わっているな。竹内、よく頑張った。これで問題なく進級出来るぞ」
黒瀬は山のように積まれたノートやプリントを全て見終えると、丁寧にそれらを横に動かし僅かに笑みを見せた。
「よ、良かったぁ……」
大きな溜め息をついた太桜はそこでガタンと椅子から崩れ落ちた。
「竹内…! 大丈夫か?」
進級出来るかの瀬戸際から解放され、緊張の糸が切れたのか全身の力が抜けたようだ。
背中から倒れそうになった太桜を黒瀬は素早く右腕で支えた。
二人の顔が近づき、夕日で照らされる。
「……あ。す、すみません先生」
「無理はするな、ここの所忙しかっただろう」
背中を支えたまま、太桜を椅子へと座らせる黒瀬。
「大丈夫か?顔が赤いようだが?」
「だ、大丈夫です!」
狼狽する太桜に首を傾げて席へと戻る黒瀬。
「まぁ、大丈夫ならいいが。自分で帰れるか?なんだったら家まで送るぞ」
「送って!?いえ、本当に大丈夫です!大丈夫です!」
「そうか……そう言えば竹内の家は喫茶店だったが将来は家業を継ぐのか?」
「えっと、それは進路の話でしょうか?」
「ああ、わるい。そこまで深刻な話じゃないちょっとした雑談だ、3年も私が担任になるとは限らないからな」
黒瀬の言葉に太桜の顔が僅かにひきつる
それを察したのか、黒瀬は再び笑みを見せ、口調を砕けたものへと変える。
「将来的には家業を継ぎたいと思っていますが、進学が就職か迷っています……私の成績で進学や就職が出来るかも」
「まだ半年は猶予がある。ゆっくりと考えればいい。 竹内が進学や就職したいと言うなら私がなんとかするから安心してくれ」
深刻な太桜の表情を見て、諭すような優しく声をかけると場をなごませるために冗談めかしてははは、と黒瀬は笑った。
「しかし、喫茶店か。何度か伺った事があるが良い雰囲気のお店だった。 もし喫茶店をやるならああいう店の店主になりたいものだ」
!?
「竹内と結婚してあのお店のマスターになるだろう男は幸せものだな、俺も結婚するならそう言う相手がいい。……おっとセクハラになってしまうな!」
!?
「せ、先生!も、もう遅いので帰ります!」
「ん?ああ、もうこんな時間か。体調は大丈夫か?」
「だ、大丈夫です!本当に!大丈夫!大丈夫だから!」
顔を赤くした足早に教室を飛び出した太桜に再び首を傾げた黒瀬は提出されたノートやプリントを片付け始めた。
おわり
「美しい? へぇこの姿を見てもそれが言える?」
俺の余程のアホ面が彼女の加虐心を刺激したらしい。
それまでのどこか達観していた表情からなぶっていい獲物を見つけた獣のように表情が変わった。
いや、表情だけではない。人の姿から徐々にすべてが蜘蛛へと変わっていく。
ああ、だが。だが、それを見ても不思議と彼女を化け物だと思う気にはならなかった。
「この蜘蛛の姿でも?」
蜘蛛の牙が目前に迫る。
「ああ。何故かな。元々虫は嫌いじゃないが」
「……変人?」
俺の言葉に彼女は顔を離した。
蜘蛛の姿だが、引いているのが分かる。
「…………失礼。今のは、今のは忘れてくれ」
そこで急に冷静に戻った。
頭を下げ、刃を納める。姿こそ異形だが、少なくとも話は出来るようだ。
「変なのに召喚されちゃったなぁ」
「君に言われたくないがな」
此方に敵意はないと判断したのか、人の姿に戻った。
軽口に対して言い返す。
「で、結局君は何者だ?」
「ああ、クラス? キャスターよ、あの姿も見せたから真名も分かるでしょう?この国だと土蜘蛛とかってのがいるんだっけ」
「クラス?キャスター?真名?」
参った。何を言っているか分からない。
キャスターと言うのが、彼女の真の名を隠す為のものであることは察することが出来たが。
「貴方が呼んだんでしょ、聖杯戦争に?令呪もあるし」
キャスターが俺の右腕を指差した。
見るといつの間にか魔力に満ちた紋様が刻まれていた。
「あー……もしかして素人さん?」
物珍しそうな目で紋様を見ていた俺に気付いたのか、キャスターが問い掛ける。
「半分正解だ。……聖杯戦争とは魔術師同士の戦闘とばかり思っていた。そうか、俺が参加者の一人になったのか」
「じゃあ最初から教えなきゃダメかぁ……」
「すまないが、よろしく頼む」
先が思いやられるなぁ……キャスターはため息を付く。
流石にため息をつきたいのは此方だ、と軽口を返す気にはならなかった。
真っ先によりにもよって期末テスト真っ只中だぞ、どうするんだ?と思った私はまだ教師であるらしいと思いながら。
素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。 降り立つ風には壁を。
四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。
閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。
繰り返すつどに五度。
ただ、満たされる刻を破却する。
告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従…
そこまで読んで妙に嫌な予感がした。
これ以上は取り返しの付かない事になる。
そんな胸騒ぎを感じ、ノートから指を外し、机から離れる。
辺りを見渡せば、足元に召喚用の魔方陣が描かれている事に気づいた。
触れては不味いと一歩退く。
退いた拍子に机に置いてあったガラス片に指が当たり指を切る、数センチほど深く切った。
「……っ!」
慌てて指を抑えるが血が飛び散り、召喚陣へとかかった。
瞬間、まるで数年ぶりに動く機械のようにそれは鈍い光を放ち始める。
「まさか、血を切っ掛けとして儀式が起動したのか!?」
直感が叫んでいる、これは止められない。
一瞬、すぐさま逃げ出す事も考えたが、この召喚陣から呼び出されるものを放っておくわけにはいかない。
俺が呼び出してしまったものなら始末は自分の手でつけなくては。
ウィンドブレーカーのフードを外し、右手で左腰に差していた短刀を抜く。右手がやけに熱く感じた。
召喚されたと同時に急所を狙って切りつければ最悪でも相討ちには持ち込める。…筈だ。
召喚陣の光が収束し、衝撃が疾った。
「……来る」
本能的な怯えから来る震えを理性と意識で抑え込む。
今更何をビビってる?化け物と相対したのは一度や二度じゃないだろう。
呼吸を整えろ、意識を集中しろ、俺は目の前のものを切り捨てる刃だ。
衝撃が止んだ時、召喚陣の上に何者かが立っていた。
粉塵に目を細めて辛うじて見えた後ろ姿は菫色に染めた修道士風のローブ。フードの横からローブと同じ色の長い髪が見えた。
少なくとも人型ではあるらしい。
「……何者だ」
唾を飲み込み、乾いた喉を潤すと警戒は解かずに誰何する。
「何者か、とは随分な言い方だね、自分で呼んだのに」
それは振り向くとフードを外す。
菫色の髪が揺れ、どこか愉快そうに赤い瞳がこちらを見据えていた。
「美しい……」
何を言ってるのか。
きっと俺は頭がぶっ壊れたに違いない。
くそっ、どうにかなりそうだ。或いはもうどうにかなっているのか。
───────────2009年、7月3日深夜。土夏市旧土夏の廃墟
。
人生とは後悔と反省の連続である。
誰が言ったわけではない、個人的な持論だ。
人は自分の行いに後悔して、反省をして、また何かをやって後悔する。
そうやって少しずつ後悔や反省を減らすわけだが、中にはわかっていても行動して後悔や反省の回数を減らせない者もいる。
具体的に言えば自分だが。
今の自分の心境は絶賛後悔中だ。
再従兄弟の頼みに応じて18年前の聖杯戦争について調べはじめたのはいい。
成果はあった。参加したと思われる人間をある程度(とは言っても数十人はいるが)絞る事が出来たし、18年前の土夏大火災が聖杯戦争を起因とするものであるという確証に近いものを得ることか出来た。
そして、そこから逆算して土夏市で数十年おきに奇妙な事件が起き続けている、つまりは聖杯戦争が行われているということも。
しかし、図書館や区役所で調べた資料だけでは満足出来ずに、調べあげた聖杯戦争の跡地と思われる場所に来たのは完全に誤りだった。
まさか、推定ではあるが魔術師の工房を見つけてしまうとは。
正確に言えば工房のような場所ではあるが。
土夏大火災によって被災した旧土夏。
旧土夏には18年前の土夏大火災で焼失したり、廃墟となった家は少なくない。
特に相続人が見つからず土地や廃墟には手をつけられず未だに廃墟が取り壊されていない場所さえある。
そんな旧土夏の一角、かつては住宅地であった場所にそれはあった。
それは聖杯戦争の参加者、或いは参加さえも出来なかった脱落者と思われる人物の邸宅。
18年前の土夏大火災直前に不審死を遂げ、しかも捜査が不自然に打ち切られている人物。
おそらく聖杯戦争絡みだろうと当たりを付けた俺は足を伸ばし、旧土夏まで来たわけだ。……期末テストの真っ只中に。
そろそろ忙しくなると言うより忙しいので、遠巻きに調査して適度な所で帰ろうとしていた俺は何かに呼ばれるような感覚を覚えた。
躊躇はしたが、結局は邸宅の跡地に足踏み入れてしまった。
そこで見つけたのは入念に隠された地下室の入り口。おそらくは人払いの結界が何かの切っ掛けで崩壊したのだろう。
地下室には火災が及ばなかったのか、中はおそらくは当時のまま残されていた。
室内は意外と広かった。およそ5畳程の空間にはクモの巣があちこちに張られており、木の机に椅子、パイプラックに何らかの薬品や呪物、本が置かれている。
こんな封鎖空間で良く生きていた物だと感心する。見れば害虫、黒くて早いあいつを餌にしていたようだ。
一見しただけではただの作業用の地下室にも見える。しかしそこに立てば、魔術の触りだけ知っている程度の俺でも分かる異質な雰囲気、人を拒絶する空間、魔術師の工房がそこにはあった。
最もしっかりした工房ではない。
どこか素人くさい、或いは突貫工事の仮の工房といった印象を感じた。
折角ここまで来たのだ、半ばヤケになって何か手がかりはないかと探る。
机の上にはノートと古文書のようなものが置いてある。
大半は掠れて読めないが、ラテン語や英語、日本語が混在しているようだ。
「……術式……英霊召喚…? サーヴァント?」
辛うじて読める文字に指を這わせる。どうも何かを召喚する際の手順のようだ。
⑥
「―――で、これが思ったよりも固まらなくて結局口にできたのは帰る直前だったっけ」
キッチンに響くのは水栓から流れた水がシンクを打つ音だ。
それが断続的に途切れるのは棗がその水でジェラートを入れていた器を洗っているからだった。
俺は洗ったそばから手渡されるガラスの器をタオルで拭いて食器置きに引っ掛けていく。
話に相槌を打ちつつ、次の器を受け取ろうとして俺は横に立つ棗の方へ視線を向けた。
「そうそう。何度も取り出してかき混ぜすぎたとか、ガラスのボウルじゃなくてアルミのボウルにすればよかったとか。
今から思うとよくもレシピ本でちょっと見かけただけのものを見切り発車で作ろうとしたもんだよ」
………視界の中の棗はあの頃の記憶の中の彼女よりいくらか大人びている。
身長はさほど伸びなかったが顔つきはほんの少しだけあどけない少女から女性のそれになった。
体つきに関しては………その、ある特定の部位がやたら育ったものだと思わないでもないが、男の俺からはノーコメントとしておこう。
「でも美味しかったよ、てんかくん。それはちゃんと覚えてる。
凄くなめらかな舌触りでまるでお店で食べるのみたいだって思ったなぁ。
あとガラスコップに入ったジェラートにいつの間にかチョコチップが混ぜてあって、なるべくスイカっぽくしようとしたんだなって」
「種っぽく見せようとしてね。今だったら容器も緑のものを選びたいな。
まあ、わざわざスイカを買ってきてまで作らないと思うから………次があるとしたら流姉さんが持ち込んでくるもの次第かな。
流姉さんが何を押し付けてくるかなんて予想するのは難しいけど」
くすくすとキッチンに俺と棗の笑声が溢れた。
同じように窓を開け放った縁側の方からも笑い声がここまで届いてくる。
流姉さんが持ってきた花火セットでセイバーたちが遊んでいるのだ。
スージィさんと今晩は出かけているニコーレがそれを知ったらきっと怒るだろう。私もやりたかったと。
内容物に打ち上げ花火があったので絶対ここで使わせないよう百合先輩には頼み込んでおいた。でないと流姉さんはノリで火をつけかねない。
そのくらいの大人としての常識はあると信じたいのだが、そのくらいの大人としての常識を無視しかねない怖さがあのドラゴンにはある。
5つ分の器の洗い物なんて終わるのはあっという間で、最後のそれを片付けると俺はエプロンを外してハンガーにかけた。
タオルで手を拭いながら、ひと仕事に付き合ってくれた棗に微笑みかける。
「よし、今日の洗い物は全部終わり。いつも手伝ってくれてありがとう、棗」
「いえいえ、どういたしまして。………さっきの流先生の話で思い出したけど、あの頃と比べるとてんかくんもいろいろ変わったね」
「ん、そうかな?人間的に成長できているってことなら嬉しいんだけど、自分じゃそんなに変わった気はしないな」
「そんなことないよ。ちゃんと笑うようになったもん。ほら、前は全然笑わなかったから」
そうだろうか。これについてもあまりきちんとした自覚はない。
当時の自分が特別に感情を戒めていたというつもりはない。ただ普通にしていた、それだけだ。
まあ、笑わない人間だと思われるよりは良いことだろう。棗からそう見えていたのなら尚更だ。
そんな話をしていたからか、ふと思い出したことがあった。ちょうど棗とふたりきりだったのもあり、特に深い考えもなく口にした。
「そういえば棗、あの時………ジェラートを仕込み終わった後だったかな。突然何かにびっくりしたような顔していたよね」
「………え」
「今だから聞くけど、あれは何だったの?」
途端に棗が硬直した。ぴくりと頬が強ばる。まさしくあの時みたいな驚いたような顔になった。
「い………いや~、そんなことあったっけ?もう覚えてなかったよ!ごめんね!」
「あ、うん?覚えていないなら仕方ないからいいんだけど。………どしたの?」
「なんでもない!なんでもないよ!あーっ、わたしも花火しに行こうかな!じゃあねてんかくん、後のことはよろしくね!」
よろしくも何も、ふたりで全部終わらせたばかりなのだが。
俺の横をすり抜けてあっという間に棗はセイバーたちの元へと早足で行ってしまった。
そうして首をかしげる俺の耳には、棗が誰にも聞こえないように呟いた言葉はやはり聞こえることはなかったのだった。
「その全然笑わないあの時のてんかくんが急に笑ったからびっくりするやらどきどきするやらしたんだよ!………もぉ!」
⑤
「便利だよねこれ………」
「ハンドプロセッサーのこと?ひとつあると何役もこなしてくれるし、あれこれ使わなくていいから洗い物も減るし、楽だよ」
「ふーん………わたしも買おうかな………」
なんて喋っている間にもボウルの中には綺麗に混ざりあった液体がひとつ出来上がっていた。
スプーンで少しだけ掬って味を確かめてみる。もう少し甘くてもいい気もするがこんなものだろう。
代わりに料理用のラム酒をほんの少しだけ加えて軽くかき混ぜておいた。
「はい、出来上がり」
「え?これで終わり?」
「調理の工程自体は。後はこれを凍らせて固めるだけだよ。ちょくちょく取り出してかき混ぜる必要はあるけど。
これから夕飯だって作らなきゃいけないんだ。そんな時間のかかるようなもの作れないよ」
やや気の抜けたような棗へそう答えながら俺はボウルにラップで蓋をして冷凍庫の扉を開けた。
傾いて零れたりしないよう、平衡を保たせてしっかりと安置する。
ひとまずこれであのスイカを無駄にしなくて済むだろう。流姉さんもこれなら文句は言わないはずだ。
「よし、これでいい加減にして夕飯の用意を始めないと………ん。どしたの」
「………あ、あのね。てんかくん」
冷凍庫の扉を閉じて振り返ると、棗がそのままそこに立っていた。
両手の指を体の前で組み合わせ、何か言い出しにくそうにもごもごと唇を震わせている。
その視線がちらりと上を向き、見下ろす俺の視線と絡み合った。
「てんかくんはなるべく自分で出来ることは自分でやりたいのは分かってるんだけど………。
この後もわたしが手伝っちゃ………ダメ、かな………?」
俺より一回りばかり小さな背丈の棗が上目遣いで俺の顔色をうかがうように言った。
見つめられているといたたまれないような、くすぐったいような、そんな変な気持ちになってくる。
なんだか俺が悪いことをしているみたいだ。むず痒くなってきた頬を指で掻きながら、しかし答えは決まっていた。
他ならぬ棗にそう言われてしまったら、断るより頷く理由の方が大きくなる。
「―――うん。助かるよ棗。その、ありがとう」
「………ふぇ」
俺としては特別な素振りで言ったつもりはなかった。
けれどそれを聞いた、いや見た棗は急に目を丸くし、それから落ち着かない様子で視線を明後日の方向へ向ける。
こころなしか動きもぎくしゃくとした。油の差さっていない機械みたいだ。
「ま、任せて!大丈夫だよ!なんでもするよ!何でも言ってねてんかくん!………あー、びっくりした………」
「う、うん。ありがたいけど………なんでびっくり?」
「えっ!?いやその………こっちの話だから!気にしないで!」
両手を顔の前で振って必死で話題を遠ざけようとする棗。
結局最後まで何のことか分からないまま、俺はピーラーとジャガイモを棗に渡したのだった。
季節は真夏。1分1秒でも長く世界を熱しようと踏みとどまっていた太陽がようやく沈みかけて、窓の外には宵闇が忍び寄ろうとしていた頃のことだった。
④
「あの………」
背後から投げかけられるおずおずとした声。姿勢そのままで顔だけ振り返った。
棗がそこに立って、じっと俺のことを見上げていた。表情には少しだけ緊張の香りがある。
「てんかくん、何か………手伝おうか?」
「………」
これがきっと棗以外の誰かなら『俺がやるからいいよ』と口にしていただろう。
ずっと他人の手で生かされ続けてきた命だ。自分で出来ることはせめて自分だけで完結させたいというのは常に抱く思いだった。
だが棗は少しだけ例外だった。流姉さんの勧めを押し切って一人暮らしを始めてから、ちょくちょくこうして共に食卓を囲む彼女は。
流姉さんのかつての言葉が俺の頭の中でリフレインする。
『てんちゃんもにぶちんね~。そういうときはね、"手伝おうか"って聞いてるんじゃなくて"手伝いたいです"って言ってるのよ』
………なお、流姉さんは別の意味で頼れない。味見せずにいい加減に作ろうとする流姉さんが携わると謎料理が出来上がってしまう。
俺は生クリームの入ったパックを取り出しながら、棗に言った。
「じゃあ、お願いしていいかな」
「………!うん、任せて!」
そう答えながら棗が嬉しそうに笑ったことに内心首を傾げつつ1歩寄って棗が作業するためのスペースを空けた。
収納スペースからボウルを2つ取り出してキッチンへ並べながら、同時に棗へ指示を出した。
「そのスイカ、実を削いで皮と分けたら綺麗に種を取って。そしたら、ハンドプロセッサーがあるからボウルの中でピューレにしてね」
「う、うん。分かったよ、始めるね」
頷いた棗は包丁を手に取ると、スムーズな動きでスイカの実と皮の境目に刃を入れだした。
棗も俺と同じように中学生の身でありながら一人暮らしをしている身だ。自炊の心得があるのは俺も知っている。
なので特に心配もなく、作業を棗に任せて俺は計量器を取り出した。
まず卵を割って黄身だけ取り出し、もうひとつのボウルの中へ。泡立て器の先端で突いて割っておく。
そこへ牛乳、グラニュー糖、生クリームを次々に計量して注ぎ込んだ。
通常の調理はともかくとして製菓は分量計算が命だという。あまり生活の中でお菓子を作る習慣はないが、ここは従っておこう。
ムラが無くなるよう泡立て器で丁寧にかき混ぜている間に隣でハンドプロセッサーがモーター音を立て始めていた。
「もう皮も種も取り終わったのか。相変わらず早いね」
「こういう手先だけ見つめて集中する作業って得意なんだよね。こんな感じでどうかな?」
ブレードによって撹拌され、ドロドロの赤い液体になったスイカの入ったボウルを棗が差し出してくる。
計量器に乗せて測ってみた。多少分量を調節する必要があるかと思っていたが、小ぶりだったぶんこれ全部でちょうどいいくらいの量だ。
「うん。大丈夫だ。さて、これとこれを全部混ぜて………と」
スイカを俺がかき混ぜていた混合液の入ったボウルへ全て注ぎ込んだ。棗が使っていたハンドプロセッサーでしっかり混ぜ合わせる。
真っ赤だったスイカのピューレがあっという間に薄いピンク色の液体に変わっていく様を横から棗がしげしげと見つめていた。
③
それは熱帯夜となる予感を感じさせる、蒸し暑い夕暮れだった。
定期的に通っているスイミングジムを終え、買い物をして帰ると、玄関を開けると俺のものではない靴が2足あった。
「………」
どちらも女物。動揺はない。この家では珍しくないことだ。
そもそも俺が開ける前に鍵が開いていた時点でこの可能性は考慮していた。むしろこの靴が無ければ泥棒を疑わなければならなくなる。
スリッパに履き替え、重たい買い物袋を手に提げて廊下を行くと奥の方からテレビの音が響いてくる。
空調が効いた涼しいリビングのソファに腰掛けていた人々の正体は案の定だった。
「あら、お帰り~てんちゃ~ん」
「あ、てんかくん………お邪魔してるね。迷惑じゃないかなって言ったんだけど流先生が聞かなくて」
「何よなっつん、嘘ばっかり。誘ったらあっという間に支度終わらせてた癖に」
「わ、わわわっ!?そ、そんなこと無いからねてんかくん!?やっ、てんかくんちに来たくないってわけじゃなくてっ!?」
何故か顔を赤くした棗が流姉さんの口を塞ごうと取っ組み合いを始めた。
この家で俺以外に人の声が響くとしたら、このふたり以外に無い。
時々こうして俺の様子を見に来る………ついでに、俺の作る料理を貪り食って行く流姉さん。
その流姉さんに連れられてやってくる、昔は俺と病室が一緒で今は俺と同じように一人暮らしをしている棗。
普段は俺以外に誰もいないこの静かな洋館が少し賑やかになるとすればこのふたりが来ている時だけだった。
「ああ、いらっしゃい」
毎度のことなので大仰に返事をすることもなく、俺は一言投げてそのままキッチンへ向かった。
突然の来訪であったが基本的に纏めて買って冷蔵庫に保管しておくので問題はない。一人前が三人前になるだけだ。
それで対応できないなら献立を変えればいい。今日は幸いにも分量を調節するだけで済みそうだった。
買い物袋を足元に置いて、てきぱきと冷蔵庫に入れるものとそうではないものを分けて仕舞っていく。
中学校に入ってすぐに一人暮らしを始めた時は何をするにしても四苦八苦していたが、そんな生活も2年と半年も過ぎればもう慣れたものだ。
ハンガーで吊っていた愛用のエプロンを首にかけ、何の気なくシンクを見た時、ようやく俺はそれに気付いた。
「………なにこれ」
思わずそんな疑問が口をついて出た。それが何であるかは分かったが、何故ここにあるのかが分からなかった。
俺のぼやきが耳に届いたのか、すぐさま流姉さんの楽しそうな返事がリビングの方から返ってきた。
「あ、気付いた?それね~、うちの病院がやってる屋上緑化の一貫で収穫できたスイカなのよ。
もともとは芝生で覆ってただけだったのにみんな勝手なもの植えるものだから最近はなんだか野菜畑みたくなってきちゃって、あっはっは」
「なるほど。そういう」
言われてみると合点が行く。シンクにこうして無造作に転がっているこのスイカ、商用のものと比べてもやや小ぶりだ。
表面にもところどころ傷があり、農家の手によってちゃんとした手入れをされて育てられたものではないという話は間違いなさそうだった。
「実は成ったけど持て余してるって話だったからせっかくだから貰ってきてみたわ。食べられるかしら?」
「さあ。割ってみないことにはなんとも」
そう答えながら俺はスイカを持ち上げてまな板の上に置いた。
冷やして食べるにしても適当な大きさにカットしないと冷蔵庫に入らない。今日の食事を作り始める前にやっつけてしまおう。
包丁を取り出し、緑と黒の縞模様の果実へと刃を添える。包丁の峰に手を添え、体重かけて一気に両断した。
ぱっくりと二分されたスイカの表面はしっかりと赤く染まっている。こうして見る分には特に問題はなさそうな、ただのスイカだ。
そのまま同じ要領でスイカを四等分にし、実の端の方を包丁で小さくカットして口に入れてみた。
全く食べられないということはない。ないのだが。
「………あんまり甘くないな」
率直な感想だった。まあ、屋上緑化の庭園で勝手に育ったスイカなんてこんなものなのかもしれない。
それか、もともと原種のスイカというのは甘くないものだそうだから先祖返りでも起こしたのかもしれなかった。
さて。ではこれをどうするか。捨ててしまうのはあまりに無体だ。甘くないだけでスイカ自体の風味はきちんとある。
2年半の間にインプットされた脳内のレシピブックを紐解いているうちにひとつ思い当たり、冷蔵庫の中を確認した。
問題ない。材料は全部揃っている。今晩の料理にも抵触しない。ただどうしても時間が必要だから、今からやっておくべきだろう。
そう結論が出て、次々に必要なものを冷蔵庫から取り出している時だった。
②
「流姉さん、ついこないだ『やっぱり暑い夜のビールは最高ね!夏はこうでなくちゃ!』とかなんとか言ってたじゃないか。
で、買ってきた枝豆を全部ひとりで食い尽くして。………それより食後のデザートが出来たんだけどみんなで食べないか?」
「あ、てんかくん」
おさげにした三つ編みを尻尾のように揺らして軽く振り返った棗が俺を見て微笑んだ。
彼女の前でゆっくりと器の中身を崩さないようにお盆を床へ置くと、何も言わずとも他の3人へとデザートを回すのを手伝ってくれた。
花火セットの内容物を確認していたセイバーと百合先輩や、セイバーが送風機の役割を放棄したので自分で団扇を仰いでいた流姉さんも続いてこちらを向いた。
「へぇ、アイスクリーム?てんちゃん気が利いてるわね~」
「残念。ジェラート。アイスクリームと大差は無いけどさ」
「………ああ、夕飯を作る前から何か余所事をやってるなと思ってたけどこれだったんだね」
さすがに自分でも料理をやる百合先輩はそれだけでおおよその工程が頭に浮かんだらしい。合点が行ったというように呟いた。
俺が一番端に座っていた棗のさらに奥へ腰掛ける頃、気の早い流姉さんはもうスプーンを咥えていた。
「わお、つめたーい!暑い時に食べる冷たいものはやっぱり最高ね!」
「………む、本当ですね。この香ばしい香り………コーヒー味ですか、テンカ」
「インスタントコーヒーを混ぜただけなんだよ。何を入れても違った味になるし楽しいよね、ジェラート」
ぱくぱく食べてしまう流姉さんと違いセイバーは一口ずつ丹念に味わって食べようとしてくれる。綻ぶ表情が稚気に富んでいて少し嬉しい。
みんなに器が行き渡ったのを確認して、さぁ俺も食べようとスプーンを握った時だった。ふと流姉さんが急に思い出したようにぽつりと呟いた。
「そういえば前にもこんなことあったわよね。暑い夏の日に、急に食後のデザートだってこういうの出してきて」
「え?前っていつ頃の話なんです?流さん」
「てんちゃんたちがまだ中学生の頃だったかしら。そうそう、なっつんも一緒にいたわ。私が連れてきたからだけど」
「………ああ」
という声が喉から漏れたのは俺だけではない。全く同じタイミングで棗も発していた。
確かに、そんなことがあった。別に何か特別な転機だったとかそういうことは全く無いが、今でも覚えている。
「ちょうど日にちも今と同じ頃だったっけ?あの時は確かね―――」
頼んでもいないのに流姉さんがぺらぺらと昔話を喋りだした。
窓をあちこち開け放っているせいで吹き抜けていく風が、縁側に吊られている風鈴をちりんと透明に鳴らした。
①
「あっつー………あつーい………なんだってこう暑いのかしらね………」
庭に面する縁側からやたら気怠げな声が上がった。
大窓を全て開け放った縁側の縁へだらしなく足を放り出して腰掛けているのは我らが流姉さんである。
今にも縁側へ伸びてしまいそうな流姉さんを2年くらい前の納涼祭の日付がプリントされた団扇が隣から風を送っていた。
送風機と化したセイバーは何も羽織らないキャミソール姿だ。剥き出しの鎖骨とか肩とか首筋とか、たまに視線のやり場に困る。
「ですがリュウ。今宵は風も吹いています。涼を取るには十分では?」
「いっつも涼し気な顔をしてるセイバーちゃんが言っても納得できなーい。
だいたいこの家はてんちゃんの健康志向でなかなか冷房つけたがらないじゃない。みんな身体が慣れてるから平気なのよ。
あたしゃ1日中ガンガン冷房かかった病院で仕事してるのよ?暑さに弱くなるのは不可抗力ってものよ」
「同意しかねますね流さん。私だって労働環境は似たようなものですけどこのくらい平気ですよ?
夏場は室内も強めに冷房かけておかないと花なんてすぐ萎れてしまいますからね」
同じように縁側に座り、指で摘んだ線香花火がまばゆく火花を散らす様を見ていた百合先輩がにやりと笑った。
実際『クリノス=アマラントス』の店内はいつも涼しい。いや寒い。お花様に人間のほうが快適温度を合わせるのである。
ちょっと心配になるくらいなので百合先輩は我が家では是非人間にとって快適に過ごしてほしいものだ。
なかなか同意を得られないことにが不服なのか、流姉さんはこの縁側に並んで座る最後のひとりに狙いを定めた。
「なっつんはどう?あたしがぶーぶー文句を言っても許されるくらい暑いと思わない?
歯止めのかからない地球温暖化と日本の亜熱帯化に警鐘を鳴らしたくならない?今すぐこのリビングに冷房を効かせるべきだと決意しない?」
「えっ!?けほっこほっ………えっと、どうなんでしょう?」
急に話を振られた棗はちょうどお盆の上でびっしりと汗をかいていた麦茶のグラスを煽っていた。
話が自分に向いてくるとは考えていなかったらしい。少し噎せてから慎重にお盆の上にグラスを戻し、困ったように微笑んだ。
「ここのリビングは広いですし、今から窓を閉めて空調入れても涼しくなるのはだいぶ後………だと思いますよ」
「え~、でも~、だって~」
いい歳しておきながら全く困ったものである。
構ってほしくて本人も実はどうでもいいと思っているだろう話題を回すあのドラゴンをいい加減止めておかなければならない。
キッチンで作業していた俺は5人分の器とスプーンを乗せたお盆を抱えて、縁側で涼んでいる女性陣へと歩み寄った。
④
「………へえ」
食卓の席にちょこんと腰掛けていたニコーレは目の前に置かれた丼に視線を落としてじっと見つめた。
「というわけで今日の昼食はマグロとアボカドの丼飯です。食器は箸でもスプーンでも好きな方を使って、どうぞ召し上がれ」
テーブルの上には丼が3つ。俺とセイバーとニコーレのぶん。実にシンプルな昼食である。
とはいえ彩りに関しては申し分ない。曰く、料理は赤・黄・緑の三色が揃っていると美味しく見えるそうだ。
その点これはマグロの赤、黄身の黄、アボカドの緑と完全に取り揃えている。手軽でありながら出来のいい料理だった。
「ふーん。あの紅い身の生魚がこうなったわけね。それじゃ、いただきます」
ニコーレはスプーンを手に取ると丼に突っ込んで掬い上げる。
マグロとアボカド、そして酢飯が乗ったスプーンがニコーレの小さな口に吸い込まれていった。
直後、驚く前に口元に手を遣ったのはお嬢様らしい高貴な仕草………なんだろうと思う。少なくともそう見えた。
「………美味しい。生の魚なのに生き物の臭みがまるで無いわ。
ただひたすらに旨味がずしりと舌へ乗り上げてきて………いっそ暴力的ですらあるわね」
「マグロは生で食べるのが美味しいからね。半端に熱を通しちゃうと途端に食感がぼそぼそしちゃって、なかなか扱いが難しいんだけど」
「うん。それにこの果実のねっとりとした食感とコクがそれをなおさら引き立てている。
そこに卵の黄身までもが加われば………テンカ、今日も君の作る食事は私を満足させてやまない」
そう評しつつ、セイバーは美味しいものを食べる時に浮かべるあのふわふわした笑顔を浮かべていた。
こちらは箸を器用に使って丼の中身を口に運んでいる。動かし方は非の打ち所がない。
サーヴァントが聖杯から与えられるという知識は箸の使い方まで教えてくれるのだろうか、彼女が箸の扱いに困っていたところを見た覚えはない。
まあ、なんでも天才肌を発揮してこなしてしまうセイバーのことだから独学で習得してしまったのかもしれないけれど。
「七味とかわさびとか加えればこれはこれで引き締まった味になるんだけど、ニコーレが苦手だからね。
そこは個々人でお好きなように、ってことで。このままでも美味しいでしょう?」
「ええ!今のままでも十分美味しいわ、むしろこのままが好きよ。
魚を生のまま食べるという文化も悪くないものね………スーにも作らせてみようかしら」
「いやそれは………どうだろ」
にこにこと満足げな笑みで丼の中身を頬張るニコーレには悪いが、あの女執事さんがこの飯を食べたら何と言うことやら。
最悪『何というものをお嬢様の口にさせて!』と怒られるかも。いや怒られないかな。分からない。
よほど舌に馴染んだのか早くも丼の半分ほどを平らげたニコーレがどことなく幸福そうな雰囲気で微笑んだ。
「ふむ。朝からトエーとデートをして、お昼は魅力的な食事。その上夜は豪勢な肉料理だったかしら?ご機嫌な一日ね」
「………デート?」
耳にした途端、丼の中身を脇目も振らずに口にしていたセイバーの顔がすっと持ち上がった。
聞き捨てならぬとじっと俺を見つめるその青い視線に感情の色が見当たらない。それが逆に怖い。
「確か今日は通院とのことだったががやけに早い時間帯から行くのだなと不思議に思ってたんだ」
「ち、違っ。それは流姉さんの部屋の片付け、ニコはその応援をしてくれたってだけで!」
「テンカ。そのような言い訳をしなくてもいい。テンカとニコーレはいわば魔術にあっては弟子と師という関係だ。
多少親密であっても私から異論はない。異論はな。………ふーん………ふたりで………ふーん………」
まるで低温調理されるみたいにじっくりとセイバーの生暖かい眼差しで熱を通されつつある俺が慌ててニコーレを見る。
丼にスプーンを入れて口に頬張っていたニコーレは、俺の視線に気づくと小さく笑った。
「ふふっ」
外見相応でも、実年齢相応でもない。はにかんだような、軽やかで可愛らしい笑顔だった。