①
まるで雑巾の水をゆっくりと絞るかのように、だらだらと自分の中から水が零れ落ちていく。
グラウンドの隅にある塀で出来た日陰の下で海深はそんな錯覚を覚えていた。
「………暑………」
梅村海深。高校1年生。6月。恐るべきピンチを迎えている。
倦んだ視線をグラウンドの中央へ向ければそこにはいくつものテント、上がる歓声、ビデオカメラが回る保護者席。
火蜥蜴高等学校は今まさに体育祭の真っ最中だった。
とはいえ海深に体育祭へかける熱意やモチベーションなどは微塵もない。
年々厳しさを増すばかりの日本の気候は6月の時点で早くも外気温30度を優に超え、それは熱に弱い海深の体力を容赦なく奪っていく。
確かに柔道の選手として基礎体力はそれなりに培っているが、それで灼熱の中でも平気で動けるかどうかといえば向き不向きがあるのだ。
心なしかまだ羽化も果たしていないだろう蝉の鳴き声の幻聴すらする。ぐったりと手足を地面へ投げ出し、塀に背中を預けた。
塀に触れた背中はひんやりとしている………と思いきや、午前中の直射日光によって焼けた鉄板がやや冷えた程度には熱せられ全く冷たくない。
吐く息が体温より高く感じる。あと出場しなければならないプログラムはいくつだったか。考えるのも億劫だ。
そのくらいに海深は炎天下というものが大の苦手だった。季節は夏以外であれば春や秋がいいし、もっと言えば冬でも全然構わない。
喉が乾いた。だが立ち上がるのさえ面倒だ。高気温と高湿度のダブルパンチを受け、何もかも嫌になった。そんな時だった。
「どうしたの」
「………………?」
不意にかかった声。海深はゆっくりと目の前の人影を見上げた。
率直に言えば。まるで幽霊みたいだなと思った。それくらい唐突に、何の気配や存在感もなく彼は目の前に現れたのだ。
視線を上げていって顔を見るなりすぐ誰か分かった。彼はその顔つきだけで私たち1年生の間で有名な男子生徒だった。
まるで女の子みたいに端正な顔立ち。ちょっとびっくりするくらい抜きん出た美形。噂じゃ芸能事務所にスカウトされたこともあるという。
そんなふうに女子生徒の間で噂される、いわくつきの男子生徒。十影典河が体操着姿でじっと海深を見つめていた。
実を言えば自分こと梅村海深は彼と中学校を同じくしていたのだが在学中の三年間、大した接点も無く過ごした相手だった。
その間、その容姿の美麗さについては何度も耳にしたがほぼ会話することはなかった。だから、今この時が最初の接点ということになる。
今だって同じクラスだが、時折ふと目に飛び込む姿――薄ぼんやりと窓の外を見る、その儚げな仕草――に一瞬目を奪われるくらいだ。
近づいてくるまで気づかなかった存在の希薄さに驚きながら海深は疲れ切った表情へなんとか愛想だけ作って答えた。
「う、ううん。大丈夫。海深はちょっと暑いの苦手で………それだけだから、大丈夫だよ」
「………分かった。ちょっとここで待ってて」
そう言って彼はくるりと踵を返し、どこかへと歩いて行ってしまう。
呆然とその後姿を見つめながら海深はいろいろと記憶の反芻を行っていた。
曰く。十影くんは喘息持ちなのだという。身体が強くなく、この体育祭でも学年全体で行う競技以外にはエントリーしていない。
体育祭を億劫がる生徒の中ではそれをやっかむ者は幾人かいたが、体調の問題であれば仕方がないと決着が付いていた。
実を言えば、自分もほんの少し彼の立場を羨望して、直後に彼の肉体の問題を踏まえれば不謹慎だと慌てて脳内で自己却下した身だ。
そのようなものだから、海深はふと彼の心境を思った。
確かに自分のように暑さに参っているような者は体育祭など無ければいいと思っている。だがそれは実際に体育祭へ参加しているから思えることだ。
目の前でみんなが参加している体育祭に自分だけ加われない。それは、それ相応の疎外感が彼にはあるのではないか―――
………なんて。得体のしれないことを考えている内に、ふと気づくと帰ってきた典河がへたり込む自分の横に座ろうとしていた。