①
俺がポロシャツの袖に腕を通している間に流姉さんはカルテを書いていた。
「状態は問題なし。これまでのことを考えると油断しちゃ駄目だけど最近はずっと良い傾向が続いているわね」
ボールペンでぐりぐりと記録を書き込んでからこっちを向いてにっこりと笑う。
どことなくその笑顔の影に安堵のようなものを見出してしまうのは長年の付き合いだからだろう。
その心配を感じ取ると以前はちくりと胸に刺さるものがあったが、今は少しだけ素直に受け取ることが出来るようになっていた。
流姉さんの笑顔へ応じるように俺もくすりと微笑んだ。
「だといいんだけどね。大丈夫、ちゃんと薬は常備しているよ。気は抜いてない」
「ま、てんちゃんに関してはそこは心配してないわ。もともと慎重だったもんね。
じゃぁいつものお薬だけ出しておくから、薬局で受け取ってちゃんと飲むこと」
そうぴしりと言って処方箋を印刷機にかける流姉さんは実に凛々しい。
スクラブを着て聴診器を首に引っ掛け、患者ひとりひとりに真摯に接するその姿はまさしく立派な杵崎流内科医師である。
………本当に医師としての流姉さんは尊敬出来るのだが、この診察室に来る前のことを思うとその敬意に陰りが差すのであった。
カルテの続きを書いていた流姉さんが診察室の隅っこの椅子にちょこんと座っていたニコーレへ視線を向けた。
「で、なんでニコちゃんがここにいるの?」
「何言ってるのよリュウ。私はトエーの付き添いよ。私たち、あなたの汚い部屋を綺麗に掃除してきた帰りなのよ」
「うっ」
その幼げな風貌からは思いがけないはきはきとした口調で理由を告げられた途端、一回りくらい流姉さんの存在感が萎んだ。
事実でござる。我々は正午前の診察を受ける前に近所のマンションへ立ち寄り流姉さんの汚部屋を片付けてきたのでござる。
すっかり足の踏み場もないほど物の散乱した部屋はとても三十路独身女の部屋とは思えなかったでござる。さらば婚期。
「生ゴミだけはなんとかゴミ袋に突っ込んでいるのがギリギリ評価点ね。
あとは脱ぎ散らかした服に読んだままで放り投げられた本、ごろごろ転がった酒瓶………。恋人が見れば百年の恋も覚めるわ」
「こ、恋人なんて仕事が忙しいからいません!院内にいい男がいないのが悪いんですぅ―!」
「責めてるのはそこじゃないわよ!」
噛み合わない会話にぷんすかとニコーレが怒った。外見12歳、実年齢24歳に叱られる女医32歳。
ふたりは馬が合うらしく、放っておくと流姉さんとニコーレはいつまでも漫才を繰り広げてしまう。
流姉さんはまだ仕事中だし、このあたりで心を鬼にして流れを断ち切っておくのが俺に求められている役割だろう。
「はいはいそこまで。流姉さん、それじゃ俺たちはこれで。今晩はどうする?」
「ん、夜勤は入ってないし何もなければてんちゃんのお家にお邪魔するわ。今日は肉を食べたい気分ね~」
「肉ね、考えておくよ。診察ありがとう、流姉さん」
肉か。流姉さんが前回うちで夕飯を食べた時は鶏肉だったから牛か豚にするとして、さて何を作ったものか。
まだ財布と携帯電話しか入っていない買い物袋を手にして立ち上がると流姉さんが呼び止めてきた。
「そうそうてんちゃん、はいこれ部屋掃除のお駄賃。これでお昼は美味しいものでも食べなさいな」
「………?別に普段から貰っちゃ無いんだから構わないよ?」
1000円札を3枚握らされてつい首を傾げてしまう。
切っ掛けはもう覚えていないが流姉さんの部屋の掃除は俺が自主的に行っていることだ。
放っておくとゴミ屋敷化しかねないので強制執行とも言う。
首を傾げる俺の側に眠たそうな目をしたニコーレがするりと寄ってきて胡乱げに告げた。
「要するにリュウは夕飯も奮発してねと忖度を求めているのよ。嫌ね、たったこれっぽっちで厚かましいんだから」
「これっぽっちって何よー!?3000円を笑う子は3000円に泣くのよー!!」
「分かったってば。じゃあね、流姉さん」
これ以上ここにいたら長々と話し込んでしまいそうだ。
差し出されたお札を受け取ると、俺はニコーレを連れて土夏総合病院の流姉さんの診察室を後にした。