SNっぽい聖杯戦争こと第五次土夏聖杯戦争用のSSや怪文書などを投下する用途のスレッドです。 アーカイブとしての保存や、絡み後の後日談などにお使いください。
「美しい? へぇこの姿を見てもそれが言える?」 俺の余程のアホ面が彼女の加虐心を刺激したらしい。 それまでのどこか達観していた表情からなぶっていい獲物を見つけた獣のように表情が変わった。 いや、表情だけではない。人の姿から徐々にすべてが蜘蛛へと変わっていく。 ああ、だが。だが、それを見ても不思議と彼女を化け物だと思う気にはならなかった。 「この蜘蛛の姿でも?」 蜘蛛の牙が目前に迫る。 「ああ。何故かな。元々虫は嫌いじゃないが」 「……変人?」 俺の言葉に彼女は顔を離した。 蜘蛛の姿だが、引いているのが分かる。 「…………失礼。今のは、今のは忘れてくれ」 そこで急に冷静に戻った。 頭を下げ、刃を納める。姿こそ異形だが、少なくとも話は出来るようだ。 「変なのに召喚されちゃったなぁ」 「君に言われたくないがな」 此方に敵意はないと判断したのか、人の姿に戻った。 軽口に対して言い返す。 「で、結局君は何者だ?」 「ああ、クラス? キャスターよ、あの姿も見せたから真名も分かるでしょう?この国だと土蜘蛛とかってのがいるんだっけ」 「クラス?キャスター?真名?」 参った。何を言っているか分からない。 キャスターと言うのが、彼女の真の名を隠す為のものであることは察することが出来たが。 「貴方が呼んだんでしょ、聖杯戦争に?令呪もあるし」 キャスターが俺の右腕を指差した。 見るといつの間にか魔力に満ちた紋様が刻まれていた。 「あー……もしかして素人さん?」 物珍しそうな目で紋様を見ていた俺に気付いたのか、キャスターが問い掛ける。 「半分正解だ。……聖杯戦争とは魔術師同士の戦闘とばかり思っていた。そうか、俺が参加者の一人になったのか」 「じゃあ最初から教えなきゃダメかぁ……」 「すまないが、よろしく頼む」 先が思いやられるなぁ……キャスターはため息を付く。 流石にため息をつきたいのは此方だ、と軽口を返す気にはならなかった。 真っ先によりにもよって期末テスト真っ只中だぞ、どうするんだ?と思った私はまだ教師であるらしいと思いながら。
夕方の教室に二人の男女が椅子に座り相対していた。 竹内太桜は緊張した面持ちで目の前の黒瀬正峰を見ている。 一年間生徒として教えを受けた来たが相変わらず何を考えているのか、どう思っているのか分かりづらい。 それでもあの騒ぎのあった7月以降は大分分かるようになった方だが。
「……ふむ、ちゃんと全部終わっているな。竹内、よく頑張った。これで問題なく進級出来るぞ」 黒瀬は山のように積まれたノートやプリントを全て見終えると、丁寧にそれらを横に動かし僅かに笑みを見せた。 「よ、良かったぁ……」 大きな溜め息をついた太桜はそこでガタンと椅子から崩れ落ちた。 「竹内…! 大丈夫か?」 進級出来るかの瀬戸際から解放され、緊張の糸が切れたのか全身の力が抜けたようだ。 背中から倒れそうになった太桜を黒瀬は素早く右腕で支えた。 二人の顔が近づき、夕日で照らされる。
「……あ。す、すみません先生」 「無理はするな、ここの所忙しかっただろう」 背中を支えたまま、太桜を椅子へと座らせる黒瀬。 「大丈夫か?顔が赤いようだが?」 「だ、大丈夫です!」 狼狽する太桜に首を傾げて席へと戻る黒瀬。 「まぁ、大丈夫ならいいが。自分で帰れるか?なんだったら家まで送るぞ」 「送って!?いえ、本当に大丈夫です!大丈夫です!」 「そうか……そう言えば竹内の家は喫茶店だったが将来は家業を継ぐのか?」 「えっと、それは進路の話でしょうか?」 「ああ、わるい。そこまで深刻な話じゃないちょっとした雑談だ、3年も私が担任になるとは限らないからな」 黒瀬の言葉に太桜の顔が僅かにひきつる それを察したのか、黒瀬は再び笑みを見せ、口調を砕けたものへと変える。 「将来的には家業を継ぎたいと思っていますが、進学が就職か迷っています……私の成績で進学や就職が出来るかも」
「まだ半年は猶予がある。ゆっくりと考えればいい。 竹内が進学や就職したいと言うなら私がなんとかするから安心してくれ」 深刻な太桜の表情を見て、諭すような優しく声をかけると場をなごませるために冗談めかしてははは、と黒瀬は笑った。 「しかし、喫茶店か。何度か伺った事があるが良い雰囲気のお店だった。 もし喫茶店をやるならああいう店の店主になりたいものだ」 !? 「竹内と結婚してあのお店のマスターになるだろう男は幸せものだな、俺も結婚するならそう言う相手がいい。……おっとセクハラになってしまうな!」 !? 「せ、先生!も、もう遅いので帰ります!」 「ん?ああ、もうこんな時間か。体調は大丈夫か?」 「だ、大丈夫です!本当に!大丈夫!大丈夫だから!」 顔を赤くした足早に教室を飛び出した太桜に再び首を傾げた黒瀬は提出されたノートやプリントを片付け始めた。
おわり
…懐かしい人を見ている。 背が高くて、彫りの深い顔立ちで、私が知る限り冗談なんて一度も口にしなかった人が、今は私の目の前で、苦しそうに横たわっている。
“……百合。後の事は分かっているな”
弱々しくか細い声に、行儀良くはい、と答える。 巌のように頑なで厳しかったこの人は、私が物心ついた頃から病弱で、よく咳をしていた。
“お前なら、一人でもやっていける。花屋も、栗野の跡取りも……”
そうは言いながらも、彼の目は心配そうに私を見ていたのを覚えている。 家宝の球根の事とか、優曇華や金花茶の取り扱いとか、秘密の温室の管理とか。今まで教さえてくれなかったことを矢継ぎ早に話す姿を見て、子供心に気が付いていた。
──────たぶん。 この人は、今日には居なくなってしまうのだろうと。
戦争が起きたのだ。 国と国とが戦うわけではなく、人と人とが戦う戦争。それも、たった7人で。 戦っていた人々は、皆魔術師だった。よくわからない理由で、よくわからない方法で殺し合った。 そのうちの一人が、目の前の人だった。
でも、知っていることはそれぐらいだった。 その事について、あの人はそれまでほとんど何も語らなかった。 だけど、この人が病弱なのも、私に魔術を教え続けてきたのも、今まさに私の前で力尽きようとしているのも─────その戦争のせいだ、という事は知っていた。
“百合。聖杯はいずれ現れる。 アレを手に入れるのは、栗野の義務だ…… 何より、魔術師として生きていくのなら……避けては、通れない道だ……”
「はい、父さん」
だから、私はこの人の遺志を継がなければならないのだ。そう聞かされてきた。そう信じてきた。 ─────この時までは。
“……だが……” “……お前の、義務ではない……”
その言葉で、私のそれまでの人生は変わってしまった。
「……父さん……?」
彼はひどく大きな咳をして、一層苦しそうに身をよじり、喉で言葉を詰まらせていた。 たぶん。今考えると、あの人はすごく大きな決断を下そうとしていたんだと思う。 それこそ今まで生きてきた意味や目的を、全部投げうってしまうぐらいの。
ぐったりと横たわったあの人は、最後の力を振り絞るように。 私に向かって、今でも夢に見る言葉を告げた。
“──────百合。私を赦してくれ。”
“……お前には……魔術など、教えるべきではなかった……”
“お前は、お前だけは……”
“幸せに、生きてくれ─────”
…それが最後。 その時のあの人の顔は、今まで私が見てきたどんなあの人の顔とも違うものだった。
あの人の事は好きではなかった。 魔術師として優れていたが、父親としては優れていなかった。 彼は師として私を教えたが、父としては愛してくれなかった。 ただ、それがあの戦争のせいなのだ、と言う事は知っていた。
だから、耐えてきたのだ。私も魔術師として、この人の後を継いで立派にならなければならないのだと言い聞かせてきた。 でも。あの時、あの人は確かに─────
私の、父だった。
「……父さん………父……さん………!!」
流すつもりのなかった涙が溢れてくる。 漏らすつもりのなかった嗚咽が湧き出てくる。
何度あの人に呼び掛けても、返事はもうなかった。
「─────私、どうしたらいいの─────」
あの人はそれまで魔術師だった。それでも彼は最後の最後で、魔術師としてではなく父親として言葉を遺した。 だから、その瞬間に私の進む道は隠れてしまった。
それから色々、紆余曲折あって私─────栗野百合は成長した。 父が戦いに赴いた日から、十八年。 この時が来て欲しいわけではなかったけれど、気持ちは知らず逸っている。
あの人は何故、私にあんな言葉を遺したのか。 それを明らかにしてくれるのは、あと少しで始まろうとしている、そのイベントだけだろうから。
「ごめんね、父さん」
私にとってあの人は、未だに魔術師だった。
2009年 7月4日
「なんだ百合!今日はもう帰るのか?」
放課後。3-Aの教室を出がかりに、聴き慣れた声に呼び止められた。 心地よく低い声に反射的に振り返り、私は声の主に微笑んで言う。
「うん、今から帰るところだよ。定休日だけど、用事があるから」
「そうか。バイトも無しに一人でやってんだもんな。大変だなぁ。」 「園芸部で育ててたハイビスカスが開花したんだよ。一番に見て貰いたかったんだけどなぁ」
この子は絹留雅美。 学校の中でも、私の親友と呼べるだけの関係だ。周りからは粗野で凶暴のレッテルを貼られている……いわゆる不良生徒。『園芸部の女帝』とか呼ばれているらしい。 なぜか私とはかなり波長が合うらしくて、花を求めて店に来てからは指数関数的に仲良くなっていったっけ。 たぶん、心ねが似てるのかもしれないけど。
「ほんと!?ハワイアンだったよね!見たかったな……」
「仕事なら仕方ねえよ。また明日見に来な。一日しか咲かねえわけじゃなし」
「……うん、そうする。じゃ……」
「おう、またな!」
そういって彼女は、私の言う「用事」を店の事だと思って、気を遣って送り出してくれた。 このように、とても優しい子なのだ。側から見ている限りでは怖いところもあるかもしれないが。 私にとっては、日常のシーンの象徴。魔術師という身の上からすれば、一般人とあまり深い仲になり過ぎるのは良くないけど…… 思ったより、仲良くなり過ぎちゃったかも。 ……自分でも無意識のうちに、自棄になっているのかもしれない。
そんなことを考えながら、それ以来は誰とも話さず家路につく。私は日常に生きる栗野百合ではなくなる。 残りの半日。今日は、今日こそは完全に、非日常の栗野百合に切り替わらなくてなならない─────
家に帰ってきた私の目に最初に入ってきたのは、点滅する留守電のランプだった。
「………そうだよね。もう、いい加減に催促が来るか……」
電話番号を見ただけで誰からの物かわかるし、内容も予想できる。 凍巳紗灯鳥……彼女からのものだ。わざわざ掛けてくるということは、つまり…… 再生ボタンを押すと、受話器から女性の声がした。
『もしもし。分かってると思うけど、期限は明日までですからね。残る席は少ないんですから。』 『君に限ってそういう事は無いでしょうけど───もしマスターの権利を放棄するというのなら、今日中に連絡して?』
『君には既に令呪の兆しが現れているのだから、早くサーヴァントを召喚して令呪を開いて下さい。もっとも、聖杯戦争に参加しないといのならば話は別です。教会はいつでも君を歓迎していますからね。』 『それではまた、クリノさん。』
留守電はそこで切れた。 戦うなら今日中に支度しろ。戦わないなら目障りだから早く降りろ。 監督役としては尤もだが、私にとっては神経を逆撫でするような言葉に変わりはない。
「……言われなくても。」
引き延ばしも今日が限界だ。 これまでは父さんの遺言と葛藤し続けてきた。……だが、もうそうもいかない。 戦う準備はできている。私は……この戦争に参加すると決めたのだから。
「何か縁のあるものが遺ってれば、良かったんだけどな。」
聖杯戦争に参加する魔術師は、この日に備えて召喚用の触媒を用意するものなのだが、私には”縁”を示す品物がなかった。 サーヴァントは呼び出せる。その気になれば今すぐに呼び出して契約もできる。 この街の霊地は栗野の管轄だから、良い条件も活性化の時間帯も知っている。 だが、触媒が無いのではコンパス無しで航海に出るようなものだ。一種の賭けだ。 しかし生憎触媒はおろか、戦争に関する文献など、形に残る記録は私の家には一切遺されていない。父から教わった事が全てだ。
「(…やっぱり、参加するなって事なのかな。)」
そんな予感が私の脳裏を迸るが、すぐに振り払う。 昨夜、地下室で発見したものは確かに凄いものだった。閉じると時間が内部で凍るカバン。18年前の火事を逃れた数少ないもので、昔から……「栗野」が「クリノス」だった時代から、貴重な花の保存に使われていたらしい。家宝やら何やらが沢山入っているので、これが実質的に栗野の至宝なんだろう。 不凋花アマラントスの球根をはじめ、黒蓮ロートス、シダの花、竹の花、月下美人、銀竜草、優曇華…… 既に絶滅した花や存在しないとされている花まで含めた、伝説的な花ばかりだ。 これはこれで凄いが、しかしサーヴァント召喚の役に立つかと言えば……
「……まあ、いいか。」 「”不凋花は全てを咲く”。……何が出てきても、おかしくないもんね」
栗野随一の至宝、不凋花の球根を握りしめる。 こうなったら本番勝負だ。
───────── ────── ────
深夜。 時計の針は2時を指している。 念には念を入れて、時報で確認もしたから間違いない。 これが私にとって、最も波長の良い時間だった。
「───消去の中に退去。退去の陣を四つ囲んで召喚の陣で囲む……」
地下室の床に陣を刻む。 サーヴァント召喚にさして大きな儀式は必要ない。 聖杯が勝手に招いてくれる。マスターは彼等に魔力を提供するのが第一。
「───素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。 降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
本来なら血液で描くところだが、今回は魔力を与えて育てた薔薇の染液で。 咲く意味は「結合」。少しは縁になってくれると良いが……実質的には験担ぎのようなものだ。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。 繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
「────Αρχή(セット)」
私の中にある、形のないスイッチを入れる。 体の中身が入れ替わるような感覚。 通常の神経が反転して、魔力を伝わらせる回路へと切り替わる。
これより栗野百合は人ではなく、ただ、神秘を成し得る為だけの部品となる。
「────ッ」
身体が熱い。 大気に満たされるマナが肉体に吸収され、私の身体を満たし、同時に崩壊させるような感覚。 魔術回路である私を、私の肉体が拒絶する。全身を刺す、這いずるような痛みに目を瞑り、汗を流す。 しかし同時に─────そこには、確かな手応えがあった。
正直に言って、私はこの瞬間まで怖れていた。魔術の道を歩むことを。戦争に参加することを。 でも、もう後戻りはできない。今の私はただ魔力を注ぎ込む電源として、召喚陣というシステムを稼働させるだけだ。
「──────告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。」
視界が閉ざされる。 血の滲むような声で、言葉を最後まで紡ぐ。
「誓いを此処に。 我は常世総ての善と成る者、 我は常世総ての悪を敷く者。
汝三大の言霊を纏う七天、 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ───!」
──────閉じた網膜の向こうで、眩い閃光が弾けるのを感じた。 乱舞するエーテルの濁流の中にあってなお、私はその向こう側に何かが現れた感覚というものは無かった。 徐々に視覚が回復する。私の目にはその時、暗い地下室の景色すらもまばゆく鮮烈に映っていた。
陶磁のように白い肌が見えた。次には燻んだ銀の頭髪。その閉じた目蓋が徐々に開かれると同時に、璧玉のような蒼色の瞳が顕となる。 それは男だった。人形のように無機質な、然し憂いを含んだ表情。中世欧州然とした鎧に身を包み、手には鳥のような意匠の施された長大な獲物。
「───────」
私は未だに、眼前の出来事が現実かどうかを測り兼ねていた。自ら信念を持って喚び出した筈の使い魔。 それが圧倒的な存在感と共に目の前に顕現した事に対し、動揺を隠しきれなかった。 まるで人間と大差ない。……否、それは違う。 間違いなく、目の前に在る”これ”は、圧倒的な魔力の塊だ。人間の姿をしているけど、人間以上の”亡霊”であることに、疑いの余地はなかった。
圧倒されているうちに、サーヴァントは完全にこちらを認識した様だった。 手に持った獲物を狭い室内で器用に振り回し、石突を床に突き立てる。 鋭い金属音が室内に響き渡ると共に、私も我に帰る。それと同時に、この男が口を開いた。
「……サーヴァント、ランサー。召喚に応じ参上した。」
「……ランサー……」
男の言葉を反芻する。 最速の英霊とも呼ばれるランサーは、聖杯戦争に於いても有力な三騎士のクラスの一端だ。 セイバーで無かったのは少し残念だが、何が出て来るか分からない状態で喚び出されたクラスとしては、十二分の成果と言えるだろう。
「貴方が、私のマスターか?」
凝として此方を見据えるランサーが私に問いかける。またしても思索に意識を奪われていた私は目の前のサーヴァントに意識を戻し、はっきりと返答した。
「───百合。栗野百合。」 「あなたを喚び出したのは、私……。」
首元を晒して、右肩の令呪……マスターとしての象徴を見せながら言う。
「……良いだろう。」
納得したような、納得していないような調子で淡々とそれを認めたランサーは、その宝石のような双眸をこちらに向け、問い掛けるように言う。
「百合。私は今より、貴方の槍と成ろう。」 「但し、共に戦い抜く覚悟が有る限りに於いては……だがな。」
まるでこちらを見透かしているかのように、試すような言葉を投げ掛けてくる様に、少しどきりとさせられる。 やはりサーヴァントはサーヴァント。人智を超えた存在である以上は、こちらの些細な悩みなども手に取るように分かるという事だろうか。
「……覚悟なら、してる。」
「聖杯戦争は児戯では無いぞ。」
しかし再びランサーは、私の根底を突くように覚悟を問い、かえって決意を揺るがすような発言を繰り返す。それは私の不安定な足元を、躊躇なく崩そうとするような冷ややかさを持っていて。 ……そしてそれは、私に少し苛立ちを抱かせるには十分だった。 私はずけずけとランサーの目の前まで歩いて行って、顔を近付けて宣言する。
「……いい?私はこの日の為にずっと準備して来たんだよ。私に資格が無いって言うつもりなら、マスターとして許さないから。」
ランサーは目を少し開いて、変わらずこちらを凝視していた。しかし、その中に含まれる感情は……”驚き”が強かったように見えた。
「む……失礼した」
これは少し意外だった。 今までの態度から、つっけんどんで歯に絹着せぬ人物だと判断しかけたのだが。割合、話は分かるようだ。 少なくとも今のちょっとした諍いで、悪人の類では無いらしい事が確かになったのは収穫だっただろうか。
「そう……分かればいいけど。」 「それでランサー、あなたはどこのサーヴァントなの?」
「……ああ、私の真名は……」
そこまで口にして、ランサーは口を噤む。 何かしら思案しているような一瞬の間を置いて、彼はこう言った。
「……いや、明かさない方が良いだろう。不都合になるかも知れない」
「不都合?」
「ああ。万が一露呈すれば、此方が不利になる」
成程。年齢が若いから、実力不足と判断されたのだろうか。 未だに道に迷っているような私の本質を見透かされているのならば仕方ないが、そう簡単に真名を教える事は無いということか。 ……明らかにナメられてる。それなら、こっちにも考えがあるんだから。
「……分かった。ランサーには、私がマスターって言う自覚が無いのね。」 「そう言う事なら、早く私を認めさせないと。」
「?……待て、何故そうなる?」
「あなたがそう言ったんですぅー。」
「???」
怪訝な顔をするランサーを尻目に、言葉を続ける。
「……でも困ったな。真名が分からないと、あなたがどれぐらい強いのかも分からないから。」
「それならば問題ない。貴方がマスターであればな。」 「(……契約(パス)を介して供給されるこの魔力量……彼女が卓越した魔術師である事に疑いの余地はない)」 「(見た目は若いが、才能も実力も申し分ない。私も全力をもって戦えるだろう。……精神面が如何かは、今は判らないが……)」
「─────ふーん。」
こちらを信用してるんだか、信用してないんだか。……いまいち真意が掴み取れないサーヴァントだが、それでも問題無いと言う程度には、腕に覚えがあるということだろう。 ならば私はマスターとして、彼を思う存分に使うまでだ。
「ならランサー。さっそく仕事があるんだけど。」
「早くもか。良いだろう、ただ私は貴方の槍として、道を阻む障害を─────」
ランサーが決め台詞を言うか言わないかといううちに、私はクリップどめされた大量の書類と電卓を渡した。
「────────ん?」
「うち、花屋やってるの。それ今月分の収支。朝までに計算しておいてくれると助かるな。」
「─────────」
呆然とすること十秒。 ようやく思考を取り戻したランサーは、地下室から出ようとする私を急いで呼び止めた。
「……百合、これは……」
「使い魔、でしょ?寝なくても良いのは知ってるんだから。私は明日に備えて寝るけど、よろしくね。」
「それは、そうだが……」
「マスターは私。貴方はサーヴァント。いい?」
ここまで言ったら流石に反論も出来なくなったと見える。黙って机に向かって書類を広げ始めたのを確認すると、私は二階の自室に戻って行った。 ……私がマスターって事は、まず分からせられたかな。
① ■の命は苦痛と共にあった。 もう何度体験したか分からない、地の獄をひたひたと歩いていく作業。 赤。黒。まるで粉砕機に押し込まれたみたい。■がぐちゃぐちゃのどろどろになって押し潰される。 赤。黒。まるでミキサーに注がれたみたい。■がぐちゃぐちゃのどろどろになって掻き混ぜられる。 赤。黒。まるでコンロに焚べられたみたい。■がぐちゃぐちゃのどろどろになって沸騰する。 歩みが苦しい。呼吸が苦しい。鼓動が苦しい。生きることが苦しい。 鉄砲水に押し流される他愛のない命のよう。水底と濁流の間で磨り潰されてぺしゃんこにされる。 押し寄せる真っ黒い波濤の全てが■を叱責し、弾劾し、非難していた。 お前が生きているのはおかしい。お前だけ生きているのはおかしい。お前は終わっていなければならない命だ。 ああ。それに対して他に何が言えるというのだろう。 すみません。ごめんなさい。のうのうと生を繋いでいて申し訳ありません。 身を平たくし、縮こまらせて、それがどうにか過ぎ去るのをただ待つ■の姿はとうに骸のようだった。 痛い。それでも生きようとする肉体器官の全てがその罵りを浴びて苦痛を叫ぶ。 血の一滴一滴までもが砂に変わるかのようだ。こんなに苦しいのなら、いっそ生など欲しくはない。 けれど■を否定するその痛みこそが、痛むことで■に己の生を実感させていた。 ここは終わりのない地獄の底。命あることを罪とする■の刑場。 ―――それでも。このユメには不思議なことに、終わりがある。 ■にとって最も苦しいことは痛みではなく、その終わりだった。 どうしていつも、その終わりの果てに、この手には美しい一輪の花を握っているのだろう―――
② そうして、目が覚めた。 ゆっくりと瞼を開いていく。焦点が少しずつ定まっていく像の中には人の顔がひとつ映っていた。 誰かと思うまでもない。それは物心ついたときからずっと目にしてきた人の顔だ。 黒髪のショートヘア。昔、といってもこの人が大学生だった頃はまだ長い髪だった。どちらも似合っているからいいのだけれど。 「………流姉さん。今日は1日中診療じゃなかったの」 「ん、ちょっと同僚に頼んで午前中だけ代わってもらったわ。 急なことでも快く引き受けてもらえるのはお姉ちゃんの人徳の賜物なのです、ぶい」 少しおどけた調子で笑った流姉さんがVサインをする。つられて俺も少し笑ってしまった。 布団の中で鈍い頭を少しずつ回し、自分の状態を確かめる。 視界がぼんやりと滲み、悪寒が体を蝕んでいる。寒いのはそれだけではなく、びっしょりと寝汗をかいているからだろう。 午後の授業中に体調が悪化しだして、それでもその時はまだ歩いて帰ることが出来る範疇だった。 しかしそれで無理を押して自分の家まで辿り着いて、その後の記憶があまりない。 辛うじて覚えているのは流姉さんに気分が優れないという旨をメールで送ったことだけだ。 首を回すことすら辛かったが、どうにか少しだけ横に倒して壁掛けの時計を伺う。次の日の朝であることを針が示していた。 「昨日の夜に仕事終えてこっちに来たら、ベッドの上でうんうん唸っているんですもの。 どうせ今日もしばらくはへばってるだろうと思ったから早めに連絡して正解だったわね」 鞄を開いててきぱきと診療道具を取り出す内科医。そうか。ということは昨日の晩はうちに流姉さんは泊まったのか。 「………昨日の夜、何食べたの」 「冷蔵庫の中の残り物! と言いたいところだったけどなぁんにも無かったから閉店時間ギリギリの『シーマニア』に飛び込んだわ」 「ごめん………」 「いいのよ。このへんにコンビニが無いのが悪いの」 そうじゃなくて。何も用意できていなかったことを謝ったのだけれど。 微妙に食い違う会話はいつものこと。流姉さんは特に躊躇ったり俺に了解を得ること無く俺のシャツをめくって胸へ聴診器を当てた。 その後体温計で体温を測ったり、俺の口を開けさせて喉奥の様子を確かめたり。内科医として当然の処置を行っていく。 「またいつもの夢?」 身体のあちこちを触診しながら流姉さんは聞いてきた。 「………うん」 「そっか」
③ 流姉さんは俺の肯定に対しそう答えるだけで根掘り葉掘り聞いていくるようなことはない。 流姉さんのそういう聞くべきことと聞かない方がいいことを敏感に嗅ぎ分けるセンスには内心感謝していた。 俺にとって夢といえばアレのことだった。アレは説明しろと言われても出来るものではない。 発作を起こしたり体調を崩したりした時に決まって見る、魂が焦げ付くような恐ろしい夢。 流姉さん曰く、その夢を見ている時の俺は酷い魘され方をしているらしい。 流姉さんのことだ。内心決して穏やかではないだろう。それでも俺に気を遣わせまいとして憂慮をおくびにも出さない。 ありがたいが、それ以上に申し訳なかった。 親代わりのこの人に俺はたくさんのことをしてもらってばかりだ。これまでの人生で、どれだけのことをこの人に返せただろう。 「………うん、いつものみたいね。少なくとも今日1日は安静にしていなさい。きっとそれで良くなるでしょう」 「ありがとう………ごめんね」 「はいはい。てんちゃん、お腹減ってない?」 「少し………でも流姉さん、料理できないでしょ」 「ふふーん。そう言うと思ってレトルトのお粥を買ってきてあるのだ。 い、いくらなんでもお湯沸かしてレトルト温めるくらいは私にだって出来るからね!?」 そうですね。そのくらいは出来ないと現代人としてどうかと思います。 お粥のレトルトをこれみよがしに見せびらかす流姉さんに苦笑することで、陰鬱な気分がほんの少し晴れた。 まったく、この人には敵わない。 「それに気になってた漫画の全巻セットも持ってきたからてんちゃんちで半日過ごすのに何の支障もないんだな~。 じゃ、私これ温めてくるね!温められるからね!そこんとこ心配しちゃダメよてんちゃん!」 「………分かった分かった。お願い、流姉さん」 俺がそう言うとにっこりと笑って流姉さんは俺の部屋を出ていった。 流姉さんが出ていったのを確かめたあとで、俺は小さく溜め息を付いた。身体に籠もった熱のせいで息すら熱い。 ひとりになると、反芻されるのはいつもの夢。 あの夢は終わりのない地獄の底。命あることを罪とする俺の刑場。 ―――それでも。このユメには不思議なことに、終わりがある。 俺にとって最も苦しいことは痛みではなく、その終わりだった。 どうしていつも、その終わりの果てに、この手には美しい一輪の花を握っているのだろう。 ………階下から流姉さんの悲鳴が聞こえてくる。お湯を沸騰させるだけなのに悪戦苦闘しているらしい。 苦笑の形に頬が無理やり引き攣られる。十影典河。もうすぐ2年生になろうかという冬の事だった。
雨が強く降っていた。 常ならば打ち付ける肉の熱を奪うそれは、今の女にとってさしたる意味はない。元よりこの肉には、命の温度など残ってはいない。身体ごと溶け込んで、泥に染みていくようだ、と錯覚した。 仰向けに倒れ伏す姿勢のまま、無理を押して首だけを起こす。たったそれだけで骨は軋み、肉は裂け、命は摩耗していく。胎に突き立つ刃は、まるで墓標の様にも見えた。 思考はあらゆる負の感情を越え、最早微睡みにも等しい。但し、向かう先にある眠りは、永遠のものだろう。一度堕ちれば、もう目を覚ますこともない。果たして女にとってそれは、救いかもしれなかった。 くだらない執着の末路が此れだ、と考える。奪い、殺し、勝ち取る事に忌憚を覚えないのならば、こんな感情は残すべきでは無かったのだ。 女は、産まれ落ちたその時より、あらゆる人間性を奪われ続けた。それは搾取では無く。ひとつの機能として完成する為に、余分を削ぎ落とすように。肉体の構成が人間からかけ離れる度に、中身までも作り変えられた。心などと言う不確かな物を残す事を、彼女の所有者は良しとしなかった。 ならば、何故こんな感情を抱いてしまったのだろうか。 「――――」 得る筈だった、得たいと願った何かの名を呼ぼうとして、最早発声の機能までも失われた事を自覚する。 ―――ハ、ハ、ハ。 笑い声を聞いた気がした。けれど、それは錯覚だろう。その声の主は、もうこの世には居ない。遥か彼方の黎明より呼び起こされた魂は、既に在るべき場所へと帰った。 思えば、彼と言葉を交わすことは殆ど無かった。女はそれに必要を見出だせなかったし、彼も、取り立ててその姿勢を否定することは無かった。 けれど今、その男を想う。 神の血を宿す偉大なる王。武勇轟くその弓は、かの英雄に技を授ける程に。 しかし、師たる王を殺したのはその英雄だった。 何故かと問われれば、なんの事はない。 己よりも優れた弓の腕を持つ者に、娘を与える。王のその言葉に従い己の力を示した英雄に対して、しかし王が与えた物は敵意と憎悪だった。己の言葉を翻し、英雄を貶めんとした邪智の王は、当たり前のように英雄によって倒される。 例えその英雄が狂気の只中にあったとしても。正義は英雄にあり、王こそが悪だった。その英雄の物語において、王は、超えるべき数多の試練の唯一つに過ぎない。 命尽きようとする今、女は、数え切れぬ程の武勇を積み立てた大英雄よりも、愚かな王へと思いを馳せる。 国も家族も、己の愛した全てを失い、命尽き果てるその王の無念を推し量る事は出来ない。彼はその時、己の行いを悔いただろうか。それとも、ただ嘗ての弟子への憎悪に身を焦がしたのか。 答えを知る機会は、最早永遠に失われている。 ああ。きっと。 それを知りたかったのだと女は思う。 かの王は子を想い、道理を捻じ曲げてでも己の意思を貫いた。例えそれが愚かしくとも。愛する機会すら与えられなかった女にとって、それは、太陽のように眩しく、尊く見えた。 王が最期に何かを思ったように。女も今、何かを思う。 思考は雨音に掻き消され、意思は泥に溶け落ちる。かの王が女の最期を知る事もまた、永遠に訪れはしない。
深夜の土夏市街、その夜の闇の中、月明かりの影を縫うようにフードを被り黒いウィンドブレーカーを着た人影が疾る。 連続殺人をはじめとした連日の騒ぎから表通りでも流石に人通りは少ない。 (……だろうな、生徒に出ないように言ったし、自分でも外出は控える) 人影の正体、黒瀬正峰はなるべく暗いところを目立たぬように音を立てずに走りながら物思いにふける。 しかし、今の黒瀬は教師である“私”(黒瀬)ではなく、裏の世界に足を踏み入れた“俺”(黒瀬)だ。 だから殺人鬼やサーヴァントや魔術師の闊歩する夜の闇を駆ける必要があった。 (クロセー、子蜘蛛の仕込み終わったよ) キャスターからの念話に足を止める。 念話こそ覚え使えるようになったが、集中せずに使えるほど黒瀬は器用ではなかった。 (分かった、先に戻っていてくれ。此方も罠とカメラの設置を終えたら戻る) (はいはーい、冷蔵庫のコーラでも飲んで待ってる……) (キャスター?) キャスターからの気の抜けた返答が途絶える。 緊張感を持って問い掛ける黒瀬。 (クロセ、ライダーがそっちの方に向かった。ライダーのマスターに捕捉されたかもしれない。私も向かうから今すぐ戻って) キャスターの言葉に周囲を見渡すが、人影も使い魔の気配もしない。 だが、こと魔術に関してはキャスターの方が比べ物にならないほど優れており、熟達している。 だから、黒瀬はその言葉に従う事とした。 (分かった。最短距離で戻る) 最短距離、即ち道を使わず屋根や塀の上を駆け抜けようとした黒瀬の目に見覚えのある姿が写った。 「……軽井沢?」 どこかふらふらと熱に浮かされたように動く自身の生徒の姿を見掛けた黒瀬はフードを外し、声を掛けた。 「軽井沢、どうしたこんな夜中にコンビニにでも行くのか?」 「あ……先生」 黒瀬の顔を見て、どこか怯えるような様子の軽井沢。 「説教臭い事は言いたくないがこんなご時世だ。私が送るから帰りなさい」 努めて冷静にいつも通りの“私”で、しかしすぐ“俺”を出せるように警戒は怠らずに話す。 「先生……」 「なんだ?」 軽井沢の目には涙が浮かんでいる。恐怖?いや…… 「ごめんね」 軽井沢の声を聞いて、嫌な予感がした。 それは何度かの修羅場を潜り抜けた勘であり、血がもたらす虫の知らせ。 瞬時に身構えた黒瀬の目に月の光に反射して光る銀色。 黒瀬は刃物だと瞬時に認識していた。 おそらくは何者かに操られている。と瞬時に判断した黒瀬は右腕或いは腹を狙った軽井沢の一撃を利き腕ではない左腕で受けると決めた。 動きは全くの素人だ。深く行っても骨で止まる。血を見れば正気に戻るだろう。 そして、刃を腕で受けた瞬間。 するり、と言わんばかりにまるで豆腐でも切るように刃、包丁は黒瀬の左腕を切り落とした。 「……っ!」 声は出なかった。 ただ、反射的に立ったままの姿勢で軽井沢の鳩尾を蹴り飛ばしていた。 遅れて痛みが来る。奥歯を噛み締め痛みに耐えると短刀でウィンドブレーカーを裂き、右手で縛り上げ応急的に血を止める。 綺麗に斬れた。急げばくっつくだろう、多分。問題はどう学園で誤魔化すか、だ! それにしてもあの包丁、なんらかの呪物、概念兵装か! ぐるぐると頭の中を色んな考えが順序を巡って争い会う。ああ!それよりも今は軽井沢だ。
「軽井沢!」 「ひっ……!」 子供のように身を縮ませて怯えている。 正気に戻ったか、と肩を撫で下ろす。 「大丈夫か、軽井沢?……ああ、左手か?こんなのは大丈夫だ、今の医療は凄いからな病院に行けばすぐにくっつく」 血をポタポタと滴る黒瀬の左腕を見て震えている軽井沢に冗談めかして笑みを見せる黒瀬。 怯えている軽井沢を落ち着かせようと必死だった。 だから、軽井沢の手に未だ包丁、骨喰いが握られている事に気付かなかった。 「あぁ……!ぁあーーーっ!」 立ち上がると錯乱状態のまま、体ごと突っ込んで来る軽井沢。 反射的に短刀を右手に握り込もうとして、止めろ!と教師である黒瀬が叫ぶ。 「くっ!」 片腕でもなんとかなる、いやせねばならない! (クロセ!?何があったの!くっ!お前はライダー……!) 黒瀬の異変に気付いたキャスターからの念話が途絶えた。 「キャスター!」 意識が一瞬逸れたその瞬間。 ぶすり、と骨喰いが黒瀬の腹に刺さった。 ぐりぐりと強引に骨喰いが引き抜かれ、もう一刺し、二刺し、三刺し。 恐慌状態のまま、軽井沢は黒瀬を刺し続け、いつしか黒瀬の息が途絶えた事に気付いたのか力が抜け、地面に膝をつけた黒瀬の体を横目に呆然としたまま軽井沢は立ち去った。
「ああ……くそ、なんてこった。まさか、軽井沢がライダーのマスターとは……クソッタレ、体が痛ぇ、息するだけで痛ぇ」 黒瀬は辛うじて息があった。 残った右手で顔を拭う、今まで令呪から感じたキャスターの気配がない。 「ライダーにやられたかキャスター……」 痛みに耐えきれず仰向けになる。 キャスターに教えられた万が一の手段、令呪の魔力を再生能力の活性化に回しているが、ダメそうだ。血を流しすぎたか。 すまない、キャスター。君に教えて貰った事を全て無駄にしてしまった。 最後の力を振り絞り、短刀を溝に投げ捨てる。 こんな時に限って星が綺麗に見える。 ああ、まだ1学期も終わってないのに、何故軽井沢が私を刺したか聞いて、軽井沢を止めねばならないのに。 ……お前達は気を付けろ、栗野、十影。 体が動かない。頭が、働かない。目が…見えない。耳が、何も…………
幕開けrouteB-3 内容: 黒瀬視点、百合と黒瀬がお互いの正体を知る。
分岐条件: 黒瀬がキャスターと調査資料を擦り合わせ、栗野家が土夏のセカンドオーナーと言う確信を得る。
「……ああ、全く。 今日は本当に運がないらしい」 蜘蛛を従えた黒頭巾は溜め息を付くとウィンドブレーカーのフードを外した。 「黒瀬、先生……?」 百合の顔が驚愕に歪み、魔術師栗野百合からただの栗野百合へと変わる。 そこにあった顔は百合も見慣れた物だった。 いつものようにどこか曖昧な笑みを浮かべて印象に残らない姿ではない。 黒一色の装束に身を包んだ、裏の世界の住人黒瀬正峰がそこにはいた。
「先生、なんで……まさか、アサシンに」 「違う。無理矢理何も分からないままこの戦いに参加させれている……。助けてくれ。……とでも言えば良かったかね?」 黒瀬はどこかすがるような百合の言葉をはっきりとした口調で否定する。 「残念だが、私は……いや俺は俺の理を持って俺の意思でこの戦いに参加している」 周囲にいた蜘蛛が下がり、闇の中に姿を隠す。 「知らない仲ではない。退くなら今日は目を瞑ろう。戦うなら全力を持って相手をしよう」 黒瀬が言葉を区切り、百合は息を呑んだ。 空気がひりつく。まるで炎の前に立っているように皮膚がちりちりとする。 聖杯戦争、これが生と死のやり取りの場に立つと言うこと……百合は思わず拳を強く握り込んだ。 「だが、そのどちらも選べない、選ばない。 或いは別の答えも持っていないというのであれば……君は、今日脱落する」 そこで黒瀬は短刀を鞘から抜き払い、百合へと突き付ける。 それは百合の覚悟を確かめるかのようにも思えた。 一瞬、百合の目が揺れ動く。 ランサーは黒瀬のサーヴァントに足止めされているのだろうか。 「ランサーは来ない、俺のサーヴァントが足止めをしている」 黒瀬は白刃を振りかざし、百合へと飛び掛かる。 「くっ……サルビア!Prune-pyr!」 牽制に百合より放たれたそれは破壊に指向された純然たるエネルギー。 黒瀬は横飛びにそれを避け地面を一回転すると、伏せたまま再び百合へと視線を向ける。 肩先が掠ったのか、ウィンドブレーカーに穴が空いていた。 (掠っただけでこれか、牽制程度なのに大した威力だ。流石は土夏のセカンドオーナー、魔術師としては一級品だな) 黒瀬はズキズキとした肩への痛みを表に出さず、ゆっくりと立ち上がる。 やはり、真っ正面からは分が悪い。
「牽制にしても随分と緩い手だな。 躊躇っているのか? 魔術師らしくもない」 ゆらりゆらりと左右に揺れながら、なるべく相手が動揺する言葉を選択して投げ掛ける。 「……っ! ハイビスカス!Prune-air!」 魔術師らしくない、黒瀬の言葉に思わず父の遺言がリフレインした。 動揺を隠すために次の手を撃つ。ハイビスカスを三本束ねての電撃。 エネルギーは避けられても光の速度の電撃は避けられない。 だが、その一撃は思考にリソースが避けなかったとはいえあまりにも大雑把に過ぎた。 百合の視界から電撃に打たれる筈の黒瀬が消えた。 電撃により、辺りは明るい。百合の目にははっきりと黒瀬が写っていた左右には避けてはいない。上に跳んだと言うなら気づく筈だ。なら…… 「下!?」 すぐさま視線を下げる。 電撃という明かりにより生まれた校舎の影、そこに潜んだ黒瀬は極端に腰を落とした這うような姿勢で百合へと迫っていた。 既に目の前にいる。迎撃は、間に合わない! 「遅いぞ、栗野」 いつも通りの抑揚のない声が、百合の耳に届いた。 下から突き上げる右の掌底、寸前で気付いた百合は身を捩り避けようとする。 掌の端が百合の顎が掠り、脳が揺さぶられた。 脳震盪で意識が遠退き、膝から崩れ落ちる。 瞬間、なにかが百合の体を浚った。
『ごめん、黒瀬!ランサーに突破された!』 黒瀬の頭の中にキャスターからの念話が届いた。 『ああ、目の前にいる』 『……今すぐ行くから逃げて』 黒瀬のあくまで落ち着いた言葉に、キャスターが低い真剣な声を返す。 『向こう次第だな』 「……キャスターのマスター」 ランサーと相対する黒瀬に、百合を左手で抱えたランサーが声を掛ける。 真っ正面にいるのに仕掛けないという事は少なくとも殺意はないのか。 「なんだ」 「マスターとの会話は聞いていた。退くのならば目を瞑ろうと言っていたな、あの言葉に二言はないだろうな」 ランサーは話ながらも槍を構え、周囲の気配を油断なく探る。 キャスターが追い付いてくる事を想定、或いは第三勢力を警戒しているのか。 それは、ランサーが戦い慣れた戦士である事を物語っていた。 「ああ、言った。そして二言も追撃もないと約束しよう」 キャスターが来るまで時間を稼げば意識を失った百合を庇い続けるランサーを倒せるか、痛手を負わせられるだろう。 だが、それは黒瀬の本意ではない。 「……では退かせてもらう」 ランサーは槍を仕舞い、百合を両腕で抱える。 「待て。ランサー、栗野に伝えろ。……次はない、と」 「……確かに」 黒瀬の言葉に頷いたランサーは振り向くと闇の中へと消えた。 『ランサーは撤退したぞ、キャスター』 『見てたから知ってるよ、でも良いわけ?』 『ああ、構わない』 『ふーん、ま、私は別に良いけどね。しばらく霊体化して周囲を見て回っとくね』 「ああ、頼む……ふーっ」 黒瀬は大きく息を吐いた。 よりにもよって生徒に聖杯戦争の参加者がいるとか悪い冗談にも程がある。 ああ、気が抜けたら肩が痛んできた……。 思わず空を見上げる。月と一番星が煌々と夜空に輝いていた。
「っ……ここは……? 私は確か、黒瀬先生と……」 百合が意識を取り戻したのは自宅のベッドの上だった。 自分は黒瀬からの一撃を受けて意識が飛んだ、そこまでは覚えている。 「マスター、意識を取り戻したか」 いつの間にか百合の傍らにランサーが立っていた。 「ランサー、私は……」 意識がはっきりしない。百合は思わずランサーに問い掛けた。 「………はっきり言おう。マスター、君は負けた」 「……は? 何を言ってた」 「正確に言えば見逃された、か。キャスターのマスターから言伝てを預かっている。……次はない、と」 「私は……負けたの?」 「ああ、奴(の教師としての恩情)に感謝するがいい。君は戦うに値しないと思われたか……(或いは彼が教え子と戦いたくなかったのか)」 「…………」 「マスター、(良い機会だ)今一度戦う理由を見つめ直すが良い(そうすればもう一度戦う理由が見出だせる筈だ)」 「………………ごめん、ランサー。一人にして」 「分かった……休むが良い(君ならば必ずもう一度立ち上がれる)」 「父さん……私は……」
三月に入ろうかと言う時分。まだ少しばかり肌寒さが残り、ジャンパーの上から風を感じる。その名に違わず義務的な六年間を終え、あと少し経てば、また新しい三年間を迎えようと言う時期だった。 私は宛もなく、見慣れた道を進む。共に歩むのは、夕焼けに歪に引き伸ばされた己の影だけだ。 なんだか、ひどく静かだった。世界中から誰も彼もいなくなって、自分だけが取り残されたような感覚。きっとそれは錯覚だったけれど。私は、どれだけ歩んでも此処から何処にも辿り着けないのだと言う確信だけはあった。 「――――――」 母の最期の言葉を思い出す。頭の奥の方がズキリ、と痛んで、思考を停止させる。歩みだけは、一定のまま。 別離の予兆はあった。母は、元より身体の弱い人だったし、私を産んでからはずっと悪化の一途を辿っていたと聞いている。 そう。聞いている、だけだ。私と母の関係性は、いつだって何処か他人事で。すれ違う事すらも、満足に出来た試しがない。全て終わってしまった今になっても、それは変わりなく。 母との別れは、悲しい。月並みな言葉だけれど、それが一番端的で、自分の感情を言葉にするのには適していた。 けれど、寂しくはない。母が居た時から、ずっと私は独りだったのだから。何も変わっていない。変わる事も出来ない。孤独には、既に慣れきってしまった。或いは、共に歩む影と同じように、其処に有るのが当たり前で、もう何の感慨も抱けなくなっただけかも知れなかった。 感情は、老衰するように緩やかに死地に向かい、歩みはあくまで淀みなく。 そうして暫く進み続けると、小さな公園に行き遭う。別に、目的地という訳では無い。元より、目的のない歩みだったのだから、当然だ。それでも其処に踏み入ったのは、せめて何処か辿り着くところがあるのだと、自分を騙したかったからだろう。 「…………」 公園の有り様もまた、私にとって代わり映えする所は無かった。失望は無い。希望なんて、最初から抱いてはいないのだから。 けれど、一つだけ。何となしに、錆び付いたブランコに向けた目の端に、不意に留まるものがあった。 寂れて人気の無い公園だというのに、一本だけ植えられた小さな桜の木。辛うじて桜の色に染まってはいるが、まだ満開には程遠く、如何にも見栄えしない。そのすぐ傍に、しゃがみ込むように、うずくまるようにする人影がある。 小さな背中だ。そう感じたのは、何も距離のせいだけではあるまい。私はゆっくりと、その背中へと歩みを進める。 すぐ後ろまで辿り着いて、まじまじとその背中を眺める。ぶかぶかの制服に身を包んだ少年だった。年齢は、私とそう変わらないように見える。学生なのはまず間違いないとして、ひとつ上、と言ったところか。 男の子は、成長期に合わせて大きめの制服を買う、なんて話を何処かで聞いたけれど。この時期になってもこの有り様では、未だ成長には乏しいのだろう。 襟元からちらりと除く首筋はやたらに生白くて、およそ生気という物を感じさせない。すぐそこに居ると言うのに、吹けば何処かに消えてしまいそうな、希薄な存在感。幽霊でも見ているのだろうか、なんて突拍子も無い事を考えてしまう。柳の木の下じゃあるまいし。 「何を、しているんですか」 そんな風に声を掛けたのは、思えば全くもって私らしくも無い。きっと、くだらない感傷に浸っていたせいだろう。突然飛び込んできた見慣れないものに、少しだけ触れてみたくなったのだ。 「猫が―――」 とだけ。その人は、顔も上げずにぽつりと声に出して、その先は続けなかった。そして、その必要も無かった。 一歩進んで見下ろした、桜の木の根本。浅く掘られた穴の中に、眠るように横たわる斑模様の子猫。触れずとも分かる。其処にはもう、生命の熱は残っていない。 おおよその見当はついた。この辺りで命を落としたこの子猫を見つけた少年は、お節介にも供養の為にと穴を掘って、今まさに埋めてやる所だったのだろう。少年の手は土に塗れて、爪の中まで黒く染まっている。 馬鹿馬鹿しい、と思った。 態々こんな事をしなくても、お役所なり何処かに電話してやれば良かったのだ。いや、そんな事をせずとも、往来の真ん中でも無し、見て見ぬふりで放っておけば良い。ましてやこんな所に勝手に穴を掘って、却って迷惑ですらある。そんなものは、自己満足でしか無いだろう。 思う事は色々あったけれど。私には、そのどれも口に出す事は出来なかった。 子猫を見下ろす彼の無表情が、私には何故だか、今にも泣き出しそうに見えたから。唇を噛み締めて、何かを堪えているように見えたから。 「ばかですね、お兄さんは」 辛うじて溢れた憎まれ口は、何故だか酷く震えていて。此方の方が、よっぽど泣きそうな声だった。 返す声色は、そんな声よりずっと穏やかに。 「そうだね。俺は、馬鹿だ」 そう言って、その人はようやく顔を上げた。 苦笑いみたいなその笑顔を見て、綺麗な人だ、なんて。柄にも無いことを思ったのは、夕日に目が眩んだせいだろう。
それから、二人で一緒になって子猫を埋めてやった。と言っても、後は上からは土をかけてやるだけだから、それまでのお兄さんの苦労と比べればさしたる手間でもない。 それでもそれなりに時間はかかって。気づいた時には夕日は沈みきって、辺りは薄暗くなっていた。それまで二人共、何も話さなかった。 「ごめん、こんな時間まで。親御さん、心配してるよな」 そんな彼の言葉を、私は取り立てて否定しなかった。それをすると、美しいと思えた今までの時間が、全部台無しになるような気がしたから。 それでも、家まで送ると言うお節介は固辞して、公園の出口で逆方向に別れる。 「また―――」 また、会えますか。なんて。そんな言葉を口にしようとして、尻すぼみに声は途切れる。それをただの別れの挨拶と捉えたのか、 「うん、それじゃあ、また」 それだけ口にして、お兄さんは自分の方向へと歩み出す。きっとそんな機会は訪れないだろうと、お互い分かっている。別に示し合わせて再会するほどに、仲を深めたわけでも無い。互いに名前だって知らないのだ。 けれど。もしも。また、会えたのなら。その時は、もう少し話がしてみたいと思った。
陽光の中、桜並木を歩く。周囲は穏やかな賑わいに包まれている。三年間を終えて、また新たな三年間へ。歩みは一定に。この暖かさを、何処かで空々しく感じている。 「――――――」 不意に、すれ違った誰かを知っている気がした。 「あのっ……!」 呼び止めて、振り返った顔は。いくらか精悍になったけれど、綺麗なままだった。 「えっと……」 その人は、困ったような表情で固まっている。 ああ。そんなのは、分かっていたことだ。あんな、一時間にも満たない時を、お互いに後生大切にしているだなんて。そんな風に信じられるほどに、私はロマンチストではいられなかった。 「……いえ、人違いだったみたいです」 失礼しました、先輩。とだけ続けて、それからもう振り返らず、歩みに戻る。 これは、始まらなかった関係。初恋にもなれなかった何か。私の心は今も、緩やかに死地へと向かっている。
Certain rainy day/Rumor Case 1:The "Red Coat"
「日常」という言葉はどうしても「何事もない日々」って印象を与えるけれど。 でも、日々の暮らしの中で本当の意味で何も起こらない日というものはなかなかないわけで。 これもまた、ボクの日常の中で起こった、たいしたことのない出来事、その一つの記憶というわけだ。 それはつまり、あのころはまだ他愛のない話のタネでしかなかったということ。 それがこの後、実感を持って迫ってくることになるだなんて、そんなのボクらに想像できるはずがなかったんだ。
高校二年生の夏休みを少し先に控えた、六月のある日のこと。 しとどに降る梅雨の霧雨のコーラスの中、ボクこと松山茉莉、親友の竹内太桜、そして同じく親友の梅村海深は学園の図書館にいた。 入り口から一番遠い、四人掛けの座席。すなわちボクらが確保しているテーブルいっぱいに散らかっているのは、数学や古文などの教科書たちだ。デザインもカラーリングもまるでバラバラなそれは、けれどもどこかお堅い画一的な雰囲気を醸し出している。教育のために作られた書籍たちは、そんな「書籍」としても模範生たるように生み出されているのかな、なんて思うことがたびたびあった。 四月に無事火蜥蜴学園二年生に進学し、五月の体育大会を終えたボクたちが直面する次なる行事は、言うまでもなく定期テストである。なにせ、二年生初めての試験だ。何事においてもスタートダッシュにおいて成功しておくことは後に繋がる。特に今年はおそらく「デキる」と思えるクラスメイトが二人も目星がついている以上、事前準備を万全に済ませておくに越したことはない。そういった理由もあって早めに準備を始めることにしたのである。 火蜥蜴学園の図書館は全体的に木目調の作りで、床や壁に止まらず読書用のテーブルもまた木製だ。教室や老化の無機質なリノリウムと比べるとどこか暖かみのあるこの部屋には、梅雨の季節特有のしっとりとした雰囲気が落ちている。 定期テストまでの間に何か大きな行事の予定は差し挟まれてはいないとはいえ、試験まではまだ1ヶ月以上の時間を残している。そのためか、今の図書室の机の埋まり具合はまだ三割程度といったところ。読書に訪れた生徒の数もやはりまばらで、高校の図書室という場所が日常的に混雑するような場所ではないことを差し引いても、やや閑散としている。心なしか雨の音がはっきりと聞こえていた。
ころん、と太桜の手から鉛筆が落ちた。 「……すまん松山。また分からん問題が見つかった」 太桜が数学の教科書を帽子のように頭に乗せながら泣きついてきた。放課後は勉強をすべきだ、と彼女がボクたちを誘ってきてからまだせいぜい一時間程度。その間に既に質問には七回も答えていた。 「二次方程式なのだがな……どうにも因数分解ができんのだ」 そう言われて彼女のノートを見下ろす。 y=5x^2-7x+1。そりゃあ因数分解できるわけがない。それは解の公式を使う奴だよ、と説明してやると、今度は太桜はノートにy=ax^2+bx+c……と書き始めた。 「ストップストップ! もしかして太桜、解の公式覚えてないの!?」 驚くボクに、太桜は当然だろう、といった面持ちで返す。 「しかし、数学の&ruby(みやこ){京}教諭はこの式は暗記ではなく毎度導出できるようにしておけ、と言っていたじゃないか。だからこそ自分も億劫と思いつつも毎度一から用意しているのだぞ」 「いやいや! そんなの暗記でいいって! それ出来るようになってる必要ないから!」 「だがしかし京教諭は……」 「確かに導出できるようにしとくのは大切かもしれないけどさ、テストでいちいちやってたら間に合わないよ!?」 「だが……」 「いいから暗記しちゃって! 絶対その方が得だから!」 「むぅ……松山がそこまで言うのなら……」 しぶしぶといった様子で了承する太桜。しかしそのペンの運びは遅く、明らかに集中力やモチベーションが落ちているのが見て取れる。 ではこちらは、と海深の方に目を向けると、こちらは完全にお遊びモードに入っていた。 海深の国語のノートの半ページで、やけにリアルなライオンが二頭、仲睦まじそうにじゃれ合っている。両方とも鬣が着いているのが気になるところだが、とにかく完全に集中力が切れてしまっているのは間違いない。少し早い気もするが、一息休憩を入れた方が良さそうだ。 「なんか、ちょっとボク喉渇いちゃったな。海深たちはいい?」 「あっ、海深も飲みたいかも。太桜ちゃんも来るよね?」 海深のその台詞を聞いて、太桜も心底助かったというふうにかじり付いていたノートから顔を上げた。 「あ、ああ! そうだな! 自分も行こう!」 彼女のそんな大声に、貸し出しカウンターの図書委員が軽く顔を歪めていた。
この学校の多目的ホールは図書室から出てすぐ右手、体育館へ向かう途中にある。学園祭のときには運営本部になったり昼休みには移動購買部が訪れたりするそこは、普段は三人掛けの小さなベンチがいくつか並ぶ学生用の談話スペースになっている。そしてここは学園内で唯一自動販売機が常設されている場所でもあった。 その自動販売機でボクは缶のミルクコーヒーを、太桜はペットボトルの緑茶を、海深は同じくペットボトルの乳酸菌飲料を買って、ボクらは一番近いベンチに並んで座った。 「それにしてももうすっかり梅雨だねぇ」 このホールの校庭側は一面が窓になっているため、外の様子がよく見える。降りしきる雨はいよいよ勢いを増し、水はけの悪い学園の校庭を泥沼へと変貌させていた。今日はたまたま三人とも部活動が休みであったが、学校自体はまだ部活動休止期間には入っておらず、遠くに吹奏楽部が調音をするときのやや間の抜けた金管の音階や、この雨のために仕方なく屋内トレーニングに勤しむ野球部やサッカー部のかけ声が小さく聞こえてくる。そしてそんな雑多な生活音を包み込むように、激しくも一定のリズムを刻む雨音が歌っていた。 「そういや太桜。傘、ちゃんと持ってきた?」 「む、もちろんだとも。こういうときのために鞄には常に蝙蝠を忍ばせているんだ」 「それってつまり普通の傘は忘れたってことじゃあ……」 「ぐっ……。なかなか痛いところを突いてくるじゃないか松山……」 悔しそうに目を瞑る太桜に突っ込みたくなる衝動を抑えながらコーヒーを煽ると、その向こう側から海深がぴょこっと顔を出してきた。 「海深はレインコート持ってきたよ。お父さんの会社の新しいやつ!」 にこにこ顔でバッ、とそれを広げる。というか、鞄もないのにずっと持ち歩いていたのか。 海深のレインコートは遠目から見ても目立つような派手なデザインだった。おそらくは澄んだ水の中を泳ぐ金魚たちがデザインモチーフなのだろう。地の色は淡いブルーだが、そこに所狭しと泳ぎ回る魚の影がプリントされている。ブルー部分が半透明な素材で出来ておりやや透け感を感じさせる一方、魚影は鮮やかなほどの不透明な赤色だ。結果的に魚影の方が全体を覆う面積としてはかなり多くを占めているため、一見した印象だとレインコート自体が真っ赤に見えかねない。 かわいいよね!と満面の笑みで見せつけられるが、いまいちボクには良さが分からなかった。 「ちょっとどぎつすぎない? なんかそれ……」 その色合いがちょうど、クラスメイトから今日耳にした都市伝説にそっくりだったから。
「"&ruby(レッドコート){赤い服の男}"みたい」
そんなことを、口走ったのだった。
「いや、最近そんな話を聞いたんだ。夜な夜な獲物を求めてこの街を歩き回る赤い怪物の話」 「なにそれ。また都市伝説? あんまりそういうの鵜呑みにするの海深よくないと思うけどなぁ」 海深が呆れたようにベンチに座り直す。元々オカルト否定派の海深であるが、それ以上に自分がかわいいと思ったレインコートを怪物の衣装扱いされたのが不満のようだった。やや罪悪感を覚えてしまう。 「まあそう言うな梅村。案外そんな与太話にこそ噂が潜んでいたりするものだぞ」 太桜の謎のフォローにもむくれ顔のままだ。 「それで茉莉ちゃん、 "&ruby(レッドコート){赤い服の男}" って?」 そんなむくれ顔のまま海深が問いかけてくる。それに併せて、友人たちから聞いた様々なパターンの "&ruby(レッドコート){赤い服の男}" の話を順を追って話していく。別称として「赤マントさん」などがあること、出自は多岐に渡るが基本的には殺人者であること、正体は人間でないパターンが多いことなどを大まかに話したとことで、纏めに入る。 「うーん、まとめるとタイプとしては口裂け女とかトイレの花子さんに近いかな。姿を見ること自体がタブーとされている一方で、『こうすれば逃れられる』っていうおまじないの類いも色々と設定されてる感じ。まあこういう場合、逃れられるための方策って後付けのことが多いんだけどね。まあとにかく怪物の存在そのものが真実かどうかは置いておくとして、『元ネタ』の存在がいそうな感じがするね」 「元ネタだと!? 待て松山、それはつまり」 「変質者じゃないかなぁ」 身も蓋もないことを言う海深。いや、ボクも大体考えていたことは同じであるのだが、こうもバッサリと切り捨てられてしまうとロマンというものがない。外見はボクたちの中で一番女の子らしいくせに、やたらリアリストなのだ。 「あとは……やたら『3』って数字がよく出てくるね」 「数字?」 太桜の問いかけに首肯する。 「うん。これは『赤マントさん』に付随してる話が多いんだけど、『3回唱えると~』とか『3時33分33秒に3階の窓から~』とか、なんか『3』にまつわる言説が多いんだよ」 「……派生する前の何かがあるのかも」 神妙な顔で海深が言った。彼女にしては珍しく食いついている。 「何かって?」
「わかんないけどね」
ボクの問いかけに、海深はあっさりそう言って肩をすくめた。 「ぜーんぶ3が付くんだったら、元ネタになった変質者と関係あるのかな、って思っただけだよ」 えへへ、と舌を出しながら海深が笑った。かわいい。 「さて、そろそろ戻ろうよ。なんだかんだで海深たち結構話し込んじゃったみたいだよ」 そう言って、ぐいっとペットボトルを煽る。それに釣られて太桜も立ち上がった。 「そうだな。松山に見てもらえる間に問題集のあの章だけでも終わらせねば」 初めからボクに頼る気満々なのは気になるところだが、まあ太桜が乗り気なのはよいことだ。 ボクも一気に缶コーヒーを飲み干した。図書室への飲食物の持ち込みは厳禁である。すっかりぬるくなっていたコーヒーだけれど、人工甘味料が舌に残す後味がなんだか爽やかな印象を与えた。
「そういえば、後一月もすれば日食だね」 「む、いつの間にかそんなに近くなっていたか」 「専用のメガネは買ってある?」 「もちろんだよ! 楽しみだなぁ、日食。何十年に一度しかないんだっけ」 「詳しくは忘れたけどこのレベルのは下手したら百年単位で見れないかもしれなかったはずだよ」 「なにっ、本当か?」 「じゃあ絶対全員で見なきゃだねっ」 「うん、そうだ」
「絶対、ボクたち全員で!」
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「美しい? へぇこの姿を見てもそれが言える?」
俺の余程のアホ面が彼女の加虐心を刺激したらしい。
それまでのどこか達観していた表情からなぶっていい獲物を見つけた獣のように表情が変わった。
いや、表情だけではない。人の姿から徐々にすべてが蜘蛛へと変わっていく。
ああ、だが。だが、それを見ても不思議と彼女を化け物だと思う気にはならなかった。
「この蜘蛛の姿でも?」
蜘蛛の牙が目前に迫る。
「ああ。何故かな。元々虫は嫌いじゃないが」
「……変人?」
俺の言葉に彼女は顔を離した。
蜘蛛の姿だが、引いているのが分かる。
「…………失礼。今のは、今のは忘れてくれ」
そこで急に冷静に戻った。
頭を下げ、刃を納める。姿こそ異形だが、少なくとも話は出来るようだ。
「変なのに召喚されちゃったなぁ」
「君に言われたくないがな」
此方に敵意はないと判断したのか、人の姿に戻った。
軽口に対して言い返す。
「で、結局君は何者だ?」
「ああ、クラス? キャスターよ、あの姿も見せたから真名も分かるでしょう?この国だと土蜘蛛とかってのがいるんだっけ」
「クラス?キャスター?真名?」
参った。何を言っているか分からない。
キャスターと言うのが、彼女の真の名を隠す為のものであることは察することが出来たが。
「貴方が呼んだんでしょ、聖杯戦争に?令呪もあるし」
キャスターが俺の右腕を指差した。
見るといつの間にか魔力に満ちた紋様が刻まれていた。
「あー……もしかして素人さん?」
物珍しそうな目で紋様を見ていた俺に気付いたのか、キャスターが問い掛ける。
「半分正解だ。……聖杯戦争とは魔術師同士の戦闘とばかり思っていた。そうか、俺が参加者の一人になったのか」
「じゃあ最初から教えなきゃダメかぁ……」
「すまないが、よろしく頼む」
先が思いやられるなぁ……キャスターはため息を付く。
流石にため息をつきたいのは此方だ、と軽口を返す気にはならなかった。
真っ先によりにもよって期末テスト真っ只中だぞ、どうするんだ?と思った私はまだ教師であるらしいと思いながら。
夕方の教室に二人の男女が椅子に座り相対していた。
竹内太桜は緊張した面持ちで目の前の黒瀬正峰を見ている。
一年間生徒として教えを受けた来たが相変わらず何を考えているのか、どう思っているのか分かりづらい。
それでもあの騒ぎのあった7月以降は大分分かるようになった方だが。
「……ふむ、ちゃんと全部終わっているな。竹内、よく頑張った。これで問題なく進級出来るぞ」
黒瀬は山のように積まれたノートやプリントを全て見終えると、丁寧にそれらを横に動かし僅かに笑みを見せた。
「よ、良かったぁ……」
大きな溜め息をついた太桜はそこでガタンと椅子から崩れ落ちた。
「竹内…! 大丈夫か?」
進級出来るかの瀬戸際から解放され、緊張の糸が切れたのか全身の力が抜けたようだ。
背中から倒れそうになった太桜を黒瀬は素早く右腕で支えた。
二人の顔が近づき、夕日で照らされる。
「……あ。す、すみません先生」
「無理はするな、ここの所忙しかっただろう」
背中を支えたまま、太桜を椅子へと座らせる黒瀬。
「大丈夫か?顔が赤いようだが?」
「だ、大丈夫です!」
狼狽する太桜に首を傾げて席へと戻る黒瀬。
「まぁ、大丈夫ならいいが。自分で帰れるか?なんだったら家まで送るぞ」
「送って!?いえ、本当に大丈夫です!大丈夫です!」
「そうか……そう言えば竹内の家は喫茶店だったが将来は家業を継ぐのか?」
「えっと、それは進路の話でしょうか?」
「ああ、わるい。そこまで深刻な話じゃないちょっとした雑談だ、3年も私が担任になるとは限らないからな」
黒瀬の言葉に太桜の顔が僅かにひきつる
それを察したのか、黒瀬は再び笑みを見せ、口調を砕けたものへと変える。
「将来的には家業を継ぎたいと思っていますが、進学が就職か迷っています……私の成績で進学や就職が出来るかも」
「まだ半年は猶予がある。ゆっくりと考えればいい。 竹内が進学や就職したいと言うなら私がなんとかするから安心してくれ」
深刻な太桜の表情を見て、諭すような優しく声をかけると場をなごませるために冗談めかしてははは、と黒瀬は笑った。
「しかし、喫茶店か。何度か伺った事があるが良い雰囲気のお店だった。 もし喫茶店をやるならああいう店の店主になりたいものだ」
!?
「竹内と結婚してあのお店のマスターになるだろう男は幸せものだな、俺も結婚するならそう言う相手がいい。……おっとセクハラになってしまうな!」
!?
「せ、先生!も、もう遅いので帰ります!」
「ん?ああ、もうこんな時間か。体調は大丈夫か?」
「だ、大丈夫です!本当に!大丈夫!大丈夫だから!」
顔を赤くした足早に教室を飛び出した太桜に再び首を傾げた黒瀬は提出されたノートやプリントを片付け始めた。
おわり
…懐かしい人を見ている。
背が高くて、彫りの深い顔立ちで、私が知る限り冗談なんて一度も口にしなかった人が、今は私の目の前で、苦しそうに横たわっている。
“……百合。後の事は分かっているな”
弱々しくか細い声に、行儀良くはい、と答える。
巌のように頑なで厳しかったこの人は、私が物心ついた頃から病弱で、よく咳をしていた。
“お前なら、一人でもやっていける。花屋も、栗野の跡取りも……”
そうは言いながらも、彼の目は心配そうに私を見ていたのを覚えている。
家宝の球根の事とか、優曇華や金花茶の取り扱いとか、秘密の温室の管理とか。今まで教さえてくれなかったことを矢継ぎ早に話す姿を見て、子供心に気が付いていた。
──────たぶん。
この人は、今日には居なくなってしまうのだろうと。
戦争が起きたのだ。
国と国とが戦うわけではなく、人と人とが戦う戦争。それも、たった7人で。
戦っていた人々は、皆魔術師だった。よくわからない理由で、よくわからない方法で殺し合った。
そのうちの一人が、目の前の人だった。
でも、知っていることはそれぐらいだった。
その事について、あの人はそれまでほとんど何も語らなかった。
だけど、この人が病弱なのも、私に魔術を教え続けてきたのも、今まさに私の前で力尽きようとしているのも─────その戦争のせいだ、という事は知っていた。
“百合。聖杯はいずれ現れる。
アレを手に入れるのは、栗野の義務だ……
何より、魔術師として生きていくのなら……避けては、通れない道だ……”
「はい、父さん」
だから、私はこの人の遺志を継がなければならないのだ。そう聞かされてきた。そう信じてきた。
─────この時までは。
“……だが……”
“……お前の、義務ではない……”
その言葉で、私のそれまでの人生は変わってしまった。
「……父さん……?」
彼はひどく大きな咳をして、一層苦しそうに身をよじり、喉で言葉を詰まらせていた。
たぶん。今考えると、あの人はすごく大きな決断を下そうとしていたんだと思う。
それこそ今まで生きてきた意味や目的を、全部投げうってしまうぐらいの。
ぐったりと横たわったあの人は、最後の力を振り絞るように。
私に向かって、今でも夢に見る言葉を告げた。
“──────百合。私を赦してくれ。”
“……お前には……魔術など、教えるべきではなかった……”
“お前は、お前だけは……”
“幸せに、生きてくれ─────”
…それが最後。
その時のあの人の顔は、今まで私が見てきたどんなあの人の顔とも違うものだった。
あの人の事は好きではなかった。
魔術師として優れていたが、父親としては優れていなかった。
彼は師として私を教えたが、父としては愛してくれなかった。
ただ、それがあの戦争のせいなのだ、と言う事は知っていた。
だから、耐えてきたのだ。私も魔術師として、この人の後を継いで立派にならなければならないのだと言い聞かせてきた。
でも。あの時、あの人は確かに─────
私の、父だった。
「……父さん………父……さん………!!」
流すつもりのなかった涙が溢れてくる。
漏らすつもりのなかった嗚咽が湧き出てくる。
何度あの人に呼び掛けても、返事はもうなかった。
「─────私、どうしたらいいの─────」
あの人はそれまで魔術師だった。それでも彼は最後の最後で、魔術師としてではなく父親として言葉を遺した。
だから、その瞬間に私の進む道は隠れてしまった。
それから色々、紆余曲折あって私─────栗野百合は成長した。
父が戦いに赴いた日から、十八年。
この時が来て欲しいわけではなかったけれど、気持ちは知らず逸っている。
あの人は何故、私にあんな言葉を遺したのか。
それを明らかにしてくれるのは、あと少しで始まろうとしている、そのイベントだけだろうから。
「ごめんね、父さん」
私にとってあの人は、未だに魔術師だった。
2009年
7月4日
「なんだ百合!今日はもう帰るのか?」
放課後。3-Aの教室を出がかりに、聴き慣れた声に呼び止められた。
心地よく低い声に反射的に振り返り、私は声の主に微笑んで言う。
「うん、今から帰るところだよ。定休日だけど、用事があるから」
「そうか。バイトも無しに一人でやってんだもんな。大変だなぁ。」
「園芸部で育ててたハイビスカスが開花したんだよ。一番に見て貰いたかったんだけどなぁ」
この子は絹留雅美。
学校の中でも、私の親友と呼べるだけの関係だ。周りからは粗野で凶暴のレッテルを貼られている……いわゆる不良生徒。『園芸部の女帝』とか呼ばれているらしい。
なぜか私とはかなり波長が合うらしくて、花を求めて店に来てからは指数関数的に仲良くなっていったっけ。
たぶん、心ねが似てるのかもしれないけど。
「ほんと!?ハワイアンだったよね!見たかったな……」
「仕事なら仕方ねえよ。また明日見に来な。一日しか咲かねえわけじゃなし」
「……うん、そうする。じゃ……」
「おう、またな!」
そういって彼女は、私の言う「用事」を店の事だと思って、気を遣って送り出してくれた。
このように、とても優しい子なのだ。側から見ている限りでは怖いところもあるかもしれないが。
私にとっては、日常のシーンの象徴。魔術師という身の上からすれば、一般人とあまり深い仲になり過ぎるのは良くないけど……
思ったより、仲良くなり過ぎちゃったかも。
……自分でも無意識のうちに、自棄になっているのかもしれない。
そんなことを考えながら、それ以来は誰とも話さず家路につく。私は日常に生きる栗野百合ではなくなる。
残りの半日。今日は、今日こそは完全に、非日常の栗野百合に切り替わらなくてなならない─────
家に帰ってきた私の目に最初に入ってきたのは、点滅する留守電のランプだった。
「………そうだよね。もう、いい加減に催促が来るか……」
電話番号を見ただけで誰からの物かわかるし、内容も予想できる。
凍巳紗灯鳥……彼女からのものだ。わざわざ掛けてくるということは、つまり……
再生ボタンを押すと、受話器から女性の声がした。
『もしもし。分かってると思うけど、期限は明日までですからね。残る席は少ないんですから。』
『君に限ってそういう事は無いでしょうけど───もしマスターの権利を放棄するというのなら、今日中に連絡して?』
『君には既に令呪の兆しが現れているのだから、早くサーヴァントを召喚して令呪を開いて下さい。もっとも、聖杯戦争に参加しないといのならば話は別です。教会はいつでも君を歓迎していますからね。』
『それではまた、クリノさん。』
留守電はそこで切れた。
戦うなら今日中に支度しろ。戦わないなら目障りだから早く降りろ。
監督役としては尤もだが、私にとっては神経を逆撫でするような言葉に変わりはない。
「……言われなくても。」
引き延ばしも今日が限界だ。
これまでは父さんの遺言と葛藤し続けてきた。……だが、もうそうもいかない。
戦う準備はできている。私は……この戦争に参加すると決めたのだから。
「何か縁のあるものが遺ってれば、良かったんだけどな。」
聖杯戦争に参加する魔術師は、この日に備えて召喚用の触媒を用意するものなのだが、私には”縁”を示す品物がなかった。
サーヴァントは呼び出せる。その気になれば今すぐに呼び出して契約もできる。
この街の霊地は栗野の管轄だから、良い条件も活性化の時間帯も知っている。
だが、触媒が無いのではコンパス無しで航海に出るようなものだ。一種の賭けだ。
しかし生憎触媒はおろか、戦争に関する文献など、形に残る記録は私の家には一切遺されていない。父から教わった事が全てだ。
「(…やっぱり、参加するなって事なのかな。)」
そんな予感が私の脳裏を迸るが、すぐに振り払う。
昨夜、地下室で発見したものは確かに凄いものだった。閉じると時間が内部で凍るカバン。18年前の火事を逃れた数少ないもので、昔から……「栗野」が「クリノス」だった時代から、貴重な花の保存に使われていたらしい。家宝やら何やらが沢山入っているので、これが実質的に栗野の至宝なんだろう。
不凋花アマラントスの球根をはじめ、黒蓮ロートス、シダの花、竹の花、月下美人、銀竜草、優曇華……
既に絶滅した花や存在しないとされている花まで含めた、伝説的な花ばかりだ。
これはこれで凄いが、しかしサーヴァント召喚の役に立つかと言えば……
「……まあ、いいか。」
「”不凋花は全てを咲く”。……何が出てきても、おかしくないもんね」
栗野随一の至宝、不凋花の球根を握りしめる。
こうなったら本番勝負だ。
─────────
──────
────
深夜。
時計の針は2時を指している。
念には念を入れて、時報で確認もしたから間違いない。
これが私にとって、最も波長の良い時間だった。
「───消去の中に退去。退去の陣を四つ囲んで召喚の陣で囲む……」
地下室の床に陣を刻む。
サーヴァント召喚にさして大きな儀式は必要ない。
聖杯が勝手に招いてくれる。マスターは彼等に魔力を提供するのが第一。
「───素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。
降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
本来なら血液で描くところだが、今回は魔力を与えて育てた薔薇の染液で。
咲く意味は「結合」。少しは縁になってくれると良いが……実質的には験担ぎのようなものだ。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。
繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
「────Αρχή(セット)」
私の中にある、形のないスイッチを入れる。
体の中身が入れ替わるような感覚。
通常の神経が反転して、魔力を伝わらせる回路へと切り替わる。
これより栗野百合は人ではなく、ただ、神秘を成し得る為だけの部品となる。
「────ッ」
身体が熱い。
大気に満たされるマナが肉体に吸収され、私の身体を満たし、同時に崩壊させるような感覚。
魔術回路である私を、私の肉体が拒絶する。全身を刺す、這いずるような痛みに目を瞑り、汗を流す。
しかし同時に─────そこには、確かな手応えがあった。
正直に言って、私はこの瞬間まで怖れていた。魔術の道を歩むことを。戦争に参加することを。
でも、もう後戻りはできない。今の私はただ魔力を注ぎ込む電源として、召喚陣というシステムを稼働させるだけだ。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。
繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
「────Αρχή(セット)」
私の中にある、形のないスイッチを入れる。
体の中身が入れ替わるような感覚。
通常の神経が反転して、魔力を伝わらせる回路へと切り替わる。
これより栗野百合は人ではなく、ただ、神秘を成し得る為だけの部品となる。
「────ッ」
身体が熱い。
大気に満たされるマナが肉体に吸収され、私の身体を満たし、同時に崩壊させるような感覚。
魔術回路である私を、私の肉体が拒絶する。全身を刺す、這いずるような痛みに目を瞑り、汗を流す。
しかし同時に─────そこには、確かな手応えがあった。
正直に言って、私はこの瞬間まで怖れていた。魔術の道を歩むことを。戦争に参加することを。
でも、もう後戻りはできない。今の私はただ魔力を注ぎ込む電源として、召喚陣というシステムを稼働させるだけだ。
「──────告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。」
視界が閉ざされる。
血の滲むような声で、言葉を最後まで紡ぐ。
「誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、
我は常世総ての悪を敷く者。
汝三大の言霊を纏う七天、
抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ───!」
──────閉じた網膜の向こうで、眩い閃光が弾けるのを感じた。
乱舞するエーテルの濁流の中にあってなお、私はその向こう側に何かが現れた感覚というものは無かった。
徐々に視覚が回復する。私の目にはその時、暗い地下室の景色すらもまばゆく鮮烈に映っていた。
陶磁のように白い肌が見えた。次には燻んだ銀の頭髪。その閉じた目蓋が徐々に開かれると同時に、璧玉のような蒼色の瞳が顕となる。
それは男だった。人形のように無機質な、然し憂いを含んだ表情。中世欧州然とした鎧に身を包み、手には鳥のような意匠の施された長大な獲物。
「───────」
私は未だに、眼前の出来事が現実かどうかを測り兼ねていた。自ら信念を持って喚び出した筈の使い魔。
それが圧倒的な存在感と共に目の前に顕現した事に対し、動揺を隠しきれなかった。
まるで人間と大差ない。……否、それは違う。
間違いなく、目の前に在る”これ”は、圧倒的な魔力の塊だ。人間の姿をしているけど、人間以上の”亡霊”であることに、疑いの余地はなかった。
「───────」
圧倒されているうちに、サーヴァントは完全にこちらを認識した様だった。
手に持った獲物を狭い室内で器用に振り回し、石突を床に突き立てる。
鋭い金属音が室内に響き渡ると共に、私も我に帰る。それと同時に、この男が口を開いた。
「……サーヴァント、ランサー。召喚に応じ参上した。」
「……ランサー……」
男の言葉を反芻する。
最速の英霊とも呼ばれるランサーは、聖杯戦争に於いても有力な三騎士のクラスの一端だ。
セイバーで無かったのは少し残念だが、何が出て来るか分からない状態で喚び出されたクラスとしては、十二分の成果と言えるだろう。
「貴方が、私のマスターか?」
凝として此方を見据えるランサーが私に問いかける。またしても思索に意識を奪われていた私は目の前のサーヴァントに意識を戻し、はっきりと返答した。
「───百合。栗野百合。」
「あなたを喚び出したのは、私……。」
首元を晒して、右肩の令呪……マスターとしての象徴を見せながら言う。
「……良いだろう。」
納得したような、納得していないような調子で淡々とそれを認めたランサーは、その宝石のような双眸をこちらに向け、問い掛けるように言う。
「百合。私は今より、貴方の槍と成ろう。」
「但し、共に戦い抜く覚悟が有る限りに於いては……だがな。」
まるでこちらを見透かしているかのように、試すような言葉を投げ掛けてくる様に、少しどきりとさせられる。
やはりサーヴァントはサーヴァント。人智を超えた存在である以上は、こちらの些細な悩みなども手に取るように分かるという事だろうか。
「……覚悟なら、してる。」
「聖杯戦争は児戯では無いぞ。」
しかし再びランサーは、私の根底を突くように覚悟を問い、かえって決意を揺るがすような発言を繰り返す。それは私の不安定な足元を、躊躇なく崩そうとするような冷ややかさを持っていて。
……そしてそれは、私に少し苛立ちを抱かせるには十分だった。
私はずけずけとランサーの目の前まで歩いて行って、顔を近付けて宣言する。
「……いい?私はこの日の為にずっと準備して来たんだよ。私に資格が無いって言うつもりなら、マスターとして許さないから。」
ランサーは目を少し開いて、変わらずこちらを凝視していた。しかし、その中に含まれる感情は……”驚き”が強かったように見えた。
「む……失礼した」
これは少し意外だった。
今までの態度から、つっけんどんで歯に絹着せぬ人物だと判断しかけたのだが。割合、話は分かるようだ。
少なくとも今のちょっとした諍いで、悪人の類では無いらしい事が確かになったのは収穫だっただろうか。
「そう……分かればいいけど。」
「それでランサー、あなたはどこのサーヴァントなの?」
「……ああ、私の真名は……」
そこまで口にして、ランサーは口を噤む。
何かしら思案しているような一瞬の間を置いて、彼はこう言った。
「……いや、明かさない方が良いだろう。不都合になるかも知れない」
「不都合?」
「ああ。万が一露呈すれば、此方が不利になる」
成程。年齢が若いから、実力不足と判断されたのだろうか。
未だに道に迷っているような私の本質を見透かされているのならば仕方ないが、そう簡単に真名を教える事は無いということか。
……明らかにナメられてる。それなら、こっちにも考えがあるんだから。
「……分かった。ランサーには、私がマスターって言う自覚が無いのね。」
「そう言う事なら、早く私を認めさせないと。」
「?……待て、何故そうなる?」
「あなたがそう言ったんですぅー。」
「???」
怪訝な顔をするランサーを尻目に、言葉を続ける。
「……でも困ったな。真名が分からないと、あなたがどれぐらい強いのかも分からないから。」
「それならば問題ない。貴方がマスターであればな。」
「(……契約(パス)を介して供給されるこの魔力量……彼女が卓越した魔術師である事に疑いの余地はない)」
「(見た目は若いが、才能も実力も申し分ない。私も全力をもって戦えるだろう。……精神面が如何かは、今は判らないが……)」
「─────ふーん。」
こちらを信用してるんだか、信用してないんだか。……いまいち真意が掴み取れないサーヴァントだが、それでも問題無いと言う程度には、腕に覚えがあるということだろう。
ならば私はマスターとして、彼を思う存分に使うまでだ。
「ならランサー。さっそく仕事があるんだけど。」
「早くもか。良いだろう、ただ私は貴方の槍として、道を阻む障害を─────」
ランサーが決め台詞を言うか言わないかといううちに、私はクリップどめされた大量の書類と電卓を渡した。
「────────ん?」
「うち、花屋やってるの。それ今月分の収支。朝までに計算しておいてくれると助かるな。」
「─────────」
呆然とすること十秒。
ようやく思考を取り戻したランサーは、地下室から出ようとする私を急いで呼び止めた。
「……百合、これは……」
「使い魔、でしょ?寝なくても良いのは知ってるんだから。私は明日に備えて寝るけど、よろしくね。」
「それは、そうだが……」
「マスターは私。貴方はサーヴァント。いい?」
ここまで言ったら流石に反論も出来なくなったと見える。黙って机に向かって書類を広げ始めたのを確認すると、私は二階の自室に戻って行った。
……私がマスターって事は、まず分からせられたかな。
①
■の命は苦痛と共にあった。
もう何度体験したか分からない、地の獄をひたひたと歩いていく作業。
赤。黒。まるで粉砕機に押し込まれたみたい。■がぐちゃぐちゃのどろどろになって押し潰される。
赤。黒。まるでミキサーに注がれたみたい。■がぐちゃぐちゃのどろどろになって掻き混ぜられる。
赤。黒。まるでコンロに焚べられたみたい。■がぐちゃぐちゃのどろどろになって沸騰する。
歩みが苦しい。呼吸が苦しい。鼓動が苦しい。生きることが苦しい。
鉄砲水に押し流される他愛のない命のよう。水底と濁流の間で磨り潰されてぺしゃんこにされる。
押し寄せる真っ黒い波濤の全てが■を叱責し、弾劾し、非難していた。
お前が生きているのはおかしい。お前だけ生きているのはおかしい。お前は終わっていなければならない命だ。
ああ。それに対して他に何が言えるというのだろう。
すみません。ごめんなさい。のうのうと生を繋いでいて申し訳ありません。
身を平たくし、縮こまらせて、それがどうにか過ぎ去るのをただ待つ■の姿はとうに骸のようだった。
痛い。それでも生きようとする肉体器官の全てがその罵りを浴びて苦痛を叫ぶ。
血の一滴一滴までもが砂に変わるかのようだ。こんなに苦しいのなら、いっそ生など欲しくはない。
けれど■を否定するその痛みこそが、痛むことで■に己の生を実感させていた。
ここは終わりのない地獄の底。命あることを罪とする■の刑場。
―――それでも。このユメには不思議なことに、終わりがある。
■にとって最も苦しいことは痛みではなく、その終わりだった。
どうしていつも、その終わりの果てに、この手には美しい一輪の花を握っているのだろう―――
②
そうして、目が覚めた。
ゆっくりと瞼を開いていく。焦点が少しずつ定まっていく像の中には人の顔がひとつ映っていた。
誰かと思うまでもない。それは物心ついたときからずっと目にしてきた人の顔だ。
黒髪のショートヘア。昔、といってもこの人が大学生だった頃はまだ長い髪だった。どちらも似合っているからいいのだけれど。
「………流姉さん。今日は1日中診療じゃなかったの」
「ん、ちょっと同僚に頼んで午前中だけ代わってもらったわ。
急なことでも快く引き受けてもらえるのはお姉ちゃんの人徳の賜物なのです、ぶい」
少しおどけた調子で笑った流姉さんがVサインをする。つられて俺も少し笑ってしまった。
布団の中で鈍い頭を少しずつ回し、自分の状態を確かめる。
視界がぼんやりと滲み、悪寒が体を蝕んでいる。寒いのはそれだけではなく、びっしょりと寝汗をかいているからだろう。
午後の授業中に体調が悪化しだして、それでもその時はまだ歩いて帰ることが出来る範疇だった。
しかしそれで無理を押して自分の家まで辿り着いて、その後の記憶があまりない。
辛うじて覚えているのは流姉さんに気分が優れないという旨をメールで送ったことだけだ。
首を回すことすら辛かったが、どうにか少しだけ横に倒して壁掛けの時計を伺う。次の日の朝であることを針が示していた。
「昨日の夜に仕事終えてこっちに来たら、ベッドの上でうんうん唸っているんですもの。
どうせ今日もしばらくはへばってるだろうと思ったから早めに連絡して正解だったわね」
鞄を開いててきぱきと診療道具を取り出す内科医。そうか。ということは昨日の晩はうちに流姉さんは泊まったのか。
「………昨日の夜、何食べたの」
「冷蔵庫の中の残り物!
と言いたいところだったけどなぁんにも無かったから閉店時間ギリギリの『シーマニア』に飛び込んだわ」
「ごめん………」
「いいのよ。このへんにコンビニが無いのが悪いの」
そうじゃなくて。何も用意できていなかったことを謝ったのだけれど。
微妙に食い違う会話はいつものこと。流姉さんは特に躊躇ったり俺に了解を得ること無く俺のシャツをめくって胸へ聴診器を当てた。
その後体温計で体温を測ったり、俺の口を開けさせて喉奥の様子を確かめたり。内科医として当然の処置を行っていく。
「またいつもの夢?」
身体のあちこちを触診しながら流姉さんは聞いてきた。
「………うん」
「そっか」
③
流姉さんは俺の肯定に対しそう答えるだけで根掘り葉掘り聞いていくるようなことはない。
流姉さんのそういう聞くべきことと聞かない方がいいことを敏感に嗅ぎ分けるセンスには内心感謝していた。
俺にとって夢といえばアレのことだった。アレは説明しろと言われても出来るものではない。
発作を起こしたり体調を崩したりした時に決まって見る、魂が焦げ付くような恐ろしい夢。
流姉さん曰く、その夢を見ている時の俺は酷い魘され方をしているらしい。
流姉さんのことだ。内心決して穏やかではないだろう。それでも俺に気を遣わせまいとして憂慮をおくびにも出さない。
ありがたいが、それ以上に申し訳なかった。
親代わりのこの人に俺はたくさんのことをしてもらってばかりだ。これまでの人生で、どれだけのことをこの人に返せただろう。
「………うん、いつものみたいね。少なくとも今日1日は安静にしていなさい。きっとそれで良くなるでしょう」
「ありがとう………ごめんね」
「はいはい。てんちゃん、お腹減ってない?」
「少し………でも流姉さん、料理できないでしょ」
「ふふーん。そう言うと思ってレトルトのお粥を買ってきてあるのだ。
い、いくらなんでもお湯沸かしてレトルト温めるくらいは私にだって出来るからね!?」
そうですね。そのくらいは出来ないと現代人としてどうかと思います。
お粥のレトルトをこれみよがしに見せびらかす流姉さんに苦笑することで、陰鬱な気分がほんの少し晴れた。
まったく、この人には敵わない。
「それに気になってた漫画の全巻セットも持ってきたからてんちゃんちで半日過ごすのに何の支障もないんだな~。
じゃ、私これ温めてくるね!温められるからね!そこんとこ心配しちゃダメよてんちゃん!」
「………分かった分かった。お願い、流姉さん」
俺がそう言うとにっこりと笑って流姉さんは俺の部屋を出ていった。
流姉さんが出ていったのを確かめたあとで、俺は小さく溜め息を付いた。身体に籠もった熱のせいで息すら熱い。
ひとりになると、反芻されるのはいつもの夢。
あの夢は終わりのない地獄の底。命あることを罪とする俺の刑場。
―――それでも。このユメには不思議なことに、終わりがある。
俺にとって最も苦しいことは痛みではなく、その終わりだった。
どうしていつも、その終わりの果てに、この手には美しい一輪の花を握っているのだろう。
………階下から流姉さんの悲鳴が聞こえてくる。お湯を沸騰させるだけなのに悪戦苦闘しているらしい。
苦笑の形に頬が無理やり引き攣られる。十影典河。もうすぐ2年生になろうかという冬の事だった。
雨が強く降っていた。
常ならば打ち付ける肉の熱を奪うそれは、今の女にとってさしたる意味はない。元よりこの肉には、命の温度など残ってはいない。身体ごと溶け込んで、泥に染みていくようだ、と錯覚した。
仰向けに倒れ伏す姿勢のまま、無理を押して首だけを起こす。たったそれだけで骨は軋み、肉は裂け、命は摩耗していく。胎に突き立つ刃は、まるで墓標の様にも見えた。
思考はあらゆる負の感情を越え、最早微睡みにも等しい。但し、向かう先にある眠りは、永遠のものだろう。一度堕ちれば、もう目を覚ますこともない。果たして女にとってそれは、救いかもしれなかった。
くだらない執着の末路が此れだ、と考える。奪い、殺し、勝ち取る事に忌憚を覚えないのならば、こんな感情は残すべきでは無かったのだ。
女は、産まれ落ちたその時より、あらゆる人間性を奪われ続けた。それは搾取では無く。ひとつの機能として完成する為に、余分を削ぎ落とすように。肉体の構成が人間からかけ離れる度に、中身までも作り変えられた。心などと言う不確かな物を残す事を、彼女の所有者は良しとしなかった。
ならば、何故こんな感情を抱いてしまったのだろうか。
「――――」
得る筈だった、得たいと願った何かの名を呼ぼうとして、最早発声の機能までも失われた事を自覚する。
―――ハ、ハ、ハ。
笑い声を聞いた気がした。けれど、それは錯覚だろう。その声の主は、もうこの世には居ない。遥か彼方の黎明より呼び起こされた魂は、既に在るべき場所へと帰った。
思えば、彼と言葉を交わすことは殆ど無かった。女はそれに必要を見出だせなかったし、彼も、取り立ててその姿勢を否定することは無かった。
けれど今、その男を想う。
神の血を宿す偉大なる王。武勇轟くその弓は、かの英雄に技を授ける程に。
しかし、師たる王を殺したのはその英雄だった。
何故かと問われれば、なんの事はない。
己よりも優れた弓の腕を持つ者に、娘を与える。王のその言葉に従い己の力を示した英雄に対して、しかし王が与えた物は敵意と憎悪だった。己の言葉を翻し、英雄を貶めんとした邪智の王は、当たり前のように英雄によって倒される。
例えその英雄が狂気の只中にあったとしても。正義は英雄にあり、王こそが悪だった。その英雄の物語において、王は、超えるべき数多の試練の唯一つに過ぎない。
命尽きようとする今、女は、数え切れぬ程の武勇を積み立てた大英雄よりも、愚かな王へと思いを馳せる。
国も家族も、己の愛した全てを失い、命尽き果てるその王の無念を推し量る事は出来ない。彼はその時、己の行いを悔いただろうか。それとも、ただ嘗ての弟子への憎悪に身を焦がしたのか。
答えを知る機会は、最早永遠に失われている。
ああ。きっと。
それを知りたかったのだと女は思う。
かの王は子を想い、道理を捻じ曲げてでも己の意思を貫いた。例えそれが愚かしくとも。愛する機会すら与えられなかった女にとって、それは、太陽のように眩しく、尊く見えた。
王が最期に何かを思ったように。女も今、何かを思う。
思考は雨音に掻き消され、意思は泥に溶け落ちる。かの王が女の最期を知る事もまた、永遠に訪れはしない。
深夜の土夏市街、その夜の闇の中、月明かりの影を縫うようにフードを被り黒いウィンドブレーカーを着た人影が疾る。
連続殺人をはじめとした連日の騒ぎから表通りでも流石に人通りは少ない。
(……だろうな、生徒に出ないように言ったし、自分でも外出は控える)
人影の正体、黒瀬正峰はなるべく暗いところを目立たぬように音を立てずに走りながら物思いにふける。
しかし、今の黒瀬は教師である“私”(黒瀬)ではなく、裏の世界に足を踏み入れた“俺”(黒瀬)だ。
だから殺人鬼やサーヴァントや魔術師の闊歩する夜の闇を駆ける必要があった。
(クロセー、子蜘蛛の仕込み終わったよ)
キャスターからの念話に足を止める。
念話こそ覚え使えるようになったが、集中せずに使えるほど黒瀬は器用ではなかった。
(分かった、先に戻っていてくれ。此方も罠とカメラの設置を終えたら戻る)
(はいはーい、冷蔵庫のコーラでも飲んで待ってる……)
(キャスター?)
キャスターからの気の抜けた返答が途絶える。
緊張感を持って問い掛ける黒瀬。
(クロセ、ライダーがそっちの方に向かった。ライダーのマスターに捕捉されたかもしれない。私も向かうから今すぐ戻って)
キャスターの言葉に周囲を見渡すが、人影も使い魔の気配もしない。
だが、こと魔術に関してはキャスターの方が比べ物にならないほど優れており、熟達している。
だから、黒瀬はその言葉に従う事とした。
(分かった。最短距離で戻る)
最短距離、即ち道を使わず屋根や塀の上を駆け抜けようとした黒瀬の目に見覚えのある姿が写った。
「……軽井沢?」
どこかふらふらと熱に浮かされたように動く自身の生徒の姿を見掛けた黒瀬はフードを外し、声を掛けた。
「軽井沢、どうしたこんな夜中にコンビニにでも行くのか?」
「あ……先生」
黒瀬の顔を見て、どこか怯えるような様子の軽井沢。
「説教臭い事は言いたくないがこんなご時世だ。私が送るから帰りなさい」
努めて冷静にいつも通りの“私”で、しかしすぐ“俺”を出せるように警戒は怠らずに話す。
「先生……」
「なんだ?」
軽井沢の目には涙が浮かんでいる。恐怖?いや……
「ごめんね」
軽井沢の声を聞いて、嫌な予感がした。
それは何度かの修羅場を潜り抜けた勘であり、血がもたらす虫の知らせ。
瞬時に身構えた黒瀬の目に月の光に反射して光る銀色。
黒瀬は刃物だと瞬時に認識していた。
おそらくは何者かに操られている。と瞬時に判断した黒瀬は右腕或いは腹を狙った軽井沢の一撃を利き腕ではない左腕で受けると決めた。
動きは全くの素人だ。深く行っても骨で止まる。血を見れば正気に戻るだろう。
そして、刃を腕で受けた瞬間。
するり、と言わんばかりにまるで豆腐でも切るように刃、包丁は黒瀬の左腕を切り落とした。
「……っ!」
声は出なかった。
ただ、反射的に立ったままの姿勢で軽井沢の鳩尾を蹴り飛ばしていた。
遅れて痛みが来る。奥歯を噛み締め痛みに耐えると短刀でウィンドブレーカーを裂き、右手で縛り上げ応急的に血を止める。
綺麗に斬れた。急げばくっつくだろう、多分。問題はどう学園で誤魔化すか、だ!
それにしてもあの包丁、なんらかの呪物、概念兵装か!
ぐるぐると頭の中を色んな考えが順序を巡って争い会う。ああ!それよりも今は軽井沢だ。
「軽井沢!」
「ひっ……!」
子供のように身を縮ませて怯えている。
正気に戻ったか、と肩を撫で下ろす。
「大丈夫か、軽井沢?……ああ、左手か?こんなのは大丈夫だ、今の医療は凄いからな病院に行けばすぐにくっつく」
血をポタポタと滴る黒瀬の左腕を見て震えている軽井沢に冗談めかして笑みを見せる黒瀬。
怯えている軽井沢を落ち着かせようと必死だった。
だから、軽井沢の手に未だ包丁、骨喰いが握られている事に気付かなかった。
「あぁ……!ぁあーーーっ!」
立ち上がると錯乱状態のまま、体ごと突っ込んで来る軽井沢。
反射的に短刀を右手に握り込もうとして、止めろ!と教師である黒瀬が叫ぶ。
「くっ!」
片腕でもなんとかなる、いやせねばならない!
(クロセ!?何があったの!くっ!お前はライダー……!)
黒瀬の異変に気付いたキャスターからの念話が途絶えた。
「キャスター!」
意識が一瞬逸れたその瞬間。
ぶすり、と骨喰いが黒瀬の腹に刺さった。
ぐりぐりと強引に骨喰いが引き抜かれ、もう一刺し、二刺し、三刺し。
恐慌状態のまま、軽井沢は黒瀬を刺し続け、いつしか黒瀬の息が途絶えた事に気付いたのか力が抜け、地面に膝をつけた黒瀬の体を横目に呆然としたまま軽井沢は立ち去った。
「ああ……くそ、なんてこった。まさか、軽井沢がライダーのマスターとは……クソッタレ、体が痛ぇ、息するだけで痛ぇ」
黒瀬は辛うじて息があった。
残った右手で顔を拭う、今まで令呪から感じたキャスターの気配がない。
「ライダーにやられたかキャスター……」
痛みに耐えきれず仰向けになる。
キャスターに教えられた万が一の手段、令呪の魔力を再生能力の活性化に回しているが、ダメそうだ。血を流しすぎたか。
すまない、キャスター。君に教えて貰った事を全て無駄にしてしまった。
最後の力を振り絞り、短刀を溝に投げ捨てる。
こんな時に限って星が綺麗に見える。
ああ、まだ1学期も終わってないのに、何故軽井沢が私を刺したか聞いて、軽井沢を止めねばならないのに。
……お前達は気を付けろ、栗野、十影。
体が動かない。頭が、働かない。目が…見えない。耳が、何も…………
幕開けrouteB-3
内容:
黒瀬視点、百合と黒瀬がお互いの正体を知る。
分岐条件:
黒瀬がキャスターと調査資料を擦り合わせ、栗野家が土夏のセカンドオーナーと言う確信を得る。
「……ああ、全く。 今日は本当に運がないらしい」
蜘蛛を従えた黒頭巾は溜め息を付くとウィンドブレーカーのフードを外した。
「黒瀬、先生……?」
百合の顔が驚愕に歪み、魔術師栗野百合からただの栗野百合へと変わる。
そこにあった顔は百合も見慣れた物だった。
いつものようにどこか曖昧な笑みを浮かべて印象に残らない姿ではない。
黒一色の装束に身を包んだ、裏の世界の住人黒瀬正峰がそこにはいた。
「先生、なんで……まさか、アサシンに」
「違う。無理矢理何も分からないままこの戦いに参加させれている……。助けてくれ。……とでも言えば良かったかね?」
黒瀬はどこかすがるような百合の言葉をはっきりとした口調で否定する。
「残念だが、私は……いや俺は俺の理を持って俺の意思でこの戦いに参加している」
周囲にいた蜘蛛が下がり、闇の中に姿を隠す。
「知らない仲ではない。退くなら今日は目を瞑ろう。戦うなら全力を持って相手をしよう」
黒瀬が言葉を区切り、百合は息を呑んだ。
空気がひりつく。まるで炎の前に立っているように皮膚がちりちりとする。
聖杯戦争、これが生と死のやり取りの場に立つと言うこと……百合は思わず拳を強く握り込んだ。
「だが、そのどちらも選べない、選ばない。
或いは別の答えも持っていないというのであれば……君は、今日脱落する」
そこで黒瀬は短刀を鞘から抜き払い、百合へと突き付ける。
それは百合の覚悟を確かめるかのようにも思えた。
一瞬、百合の目が揺れ動く。
ランサーは黒瀬のサーヴァントに足止めされているのだろうか。
「ランサーは来ない、俺のサーヴァントが足止めをしている」
黒瀬は白刃を振りかざし、百合へと飛び掛かる。
「くっ……サルビア!Prune-pyr!」
牽制に百合より放たれたそれは破壊に指向された純然たるエネルギー。
黒瀬は横飛びにそれを避け地面を一回転すると、伏せたまま再び百合へと視線を向ける。
肩先が掠ったのか、ウィンドブレーカーに穴が空いていた。
(掠っただけでこれか、牽制程度なのに大した威力だ。流石は土夏のセカンドオーナー、魔術師としては一級品だな)
黒瀬はズキズキとした肩への痛みを表に出さず、ゆっくりと立ち上がる。
やはり、真っ正面からは分が悪い。
「牽制にしても随分と緩い手だな。 躊躇っているのか? 魔術師らしくもない」
ゆらりゆらりと左右に揺れながら、なるべく相手が動揺する言葉を選択して投げ掛ける。
「……っ! ハイビスカス!Prune-air!」
魔術師らしくない、黒瀬の言葉に思わず父の遺言がリフレインした。
動揺を隠すために次の手を撃つ。ハイビスカスを三本束ねての電撃。
エネルギーは避けられても光の速度の電撃は避けられない。
だが、その一撃は思考にリソースが避けなかったとはいえあまりにも大雑把に過ぎた。
百合の視界から電撃に打たれる筈の黒瀬が消えた。
電撃により、辺りは明るい。百合の目にははっきりと黒瀬が写っていた左右には避けてはいない。上に跳んだと言うなら気づく筈だ。なら……
「下!?」
すぐさま視線を下げる。
電撃という明かりにより生まれた校舎の影、そこに潜んだ黒瀬は極端に腰を落とした這うような姿勢で百合へと迫っていた。
既に目の前にいる。迎撃は、間に合わない!
「遅いぞ、栗野」
いつも通りの抑揚のない声が、百合の耳に届いた。
下から突き上げる右の掌底、寸前で気付いた百合は身を捩り避けようとする。
掌の端が百合の顎が掠り、脳が揺さぶられた。
脳震盪で意識が遠退き、膝から崩れ落ちる。
瞬間、なにかが百合の体を浚った。
『ごめん、黒瀬!ランサーに突破された!』
黒瀬の頭の中にキャスターからの念話が届いた。
『ああ、目の前にいる』
『……今すぐ行くから逃げて』
黒瀬のあくまで落ち着いた言葉に、キャスターが低い真剣な声を返す。
『向こう次第だな』
「……キャスターのマスター」
ランサーと相対する黒瀬に、百合を左手で抱えたランサーが声を掛ける。
真っ正面にいるのに仕掛けないという事は少なくとも殺意はないのか。
「なんだ」
「マスターとの会話は聞いていた。退くのならば目を瞑ろうと言っていたな、あの言葉に二言はないだろうな」
ランサーは話ながらも槍を構え、周囲の気配を油断なく探る。
キャスターが追い付いてくる事を想定、或いは第三勢力を警戒しているのか。
それは、ランサーが戦い慣れた戦士である事を物語っていた。
「ああ、言った。そして二言も追撃もないと約束しよう」
キャスターが来るまで時間を稼げば意識を失った百合を庇い続けるランサーを倒せるか、痛手を負わせられるだろう。
だが、それは黒瀬の本意ではない。
「……では退かせてもらう」
ランサーは槍を仕舞い、百合を両腕で抱える。
「待て。ランサー、栗野に伝えろ。……次はない、と」
「……確かに」
黒瀬の言葉に頷いたランサーは振り向くと闇の中へと消えた。
『ランサーは撤退したぞ、キャスター』
『見てたから知ってるよ、でも良いわけ?』
『ああ、構わない』
『ふーん、ま、私は別に良いけどね。しばらく霊体化して周囲を見て回っとくね』
「ああ、頼む……ふーっ」
黒瀬は大きく息を吐いた。
よりにもよって生徒に聖杯戦争の参加者がいるとか悪い冗談にも程がある。
ああ、気が抜けたら肩が痛んできた……。
思わず空を見上げる。月と一番星が煌々と夜空に輝いていた。
「っ……ここは……? 私は確か、黒瀬先生と……」
百合が意識を取り戻したのは自宅のベッドの上だった。
自分は黒瀬からの一撃を受けて意識が飛んだ、そこまでは覚えている。
「マスター、意識を取り戻したか」
いつの間にか百合の傍らにランサーが立っていた。
「ランサー、私は……」
意識がはっきりしない。百合は思わずランサーに問い掛けた。
「………はっきり言おう。マスター、君は負けた」
「……は? 何を言ってた」
「正確に言えば見逃された、か。キャスターのマスターから言伝てを預かっている。……次はない、と」
「私は……負けたの?」
「ああ、奴(の教師としての恩情)に感謝するがいい。君は戦うに値しないと思われたか……(或いは彼が教え子と戦いたくなかったのか)」
「…………」
「マスター、(良い機会だ)今一度戦う理由を見つめ直すが良い(そうすればもう一度戦う理由が見出だせる筈だ)」
「………………ごめん、ランサー。一人にして」
「分かった……休むが良い(君ならば必ずもう一度立ち上がれる)」
「父さん……私は……」
三月に入ろうかと言う時分。まだ少しばかり肌寒さが残り、ジャンパーの上から風を感じる。その名に違わず義務的な六年間を終え、あと少し経てば、また新しい三年間を迎えようと言う時期だった。
私は宛もなく、見慣れた道を進む。共に歩むのは、夕焼けに歪に引き伸ばされた己の影だけだ。
なんだか、ひどく静かだった。世界中から誰も彼もいなくなって、自分だけが取り残されたような感覚。きっとそれは錯覚だったけれど。私は、どれだけ歩んでも此処から何処にも辿り着けないのだと言う確信だけはあった。
「――――――」
母の最期の言葉を思い出す。頭の奥の方がズキリ、と痛んで、思考を停止させる。歩みだけは、一定のまま。
別離の予兆はあった。母は、元より身体の弱い人だったし、私を産んでからはずっと悪化の一途を辿っていたと聞いている。
そう。聞いている、だけだ。私と母の関係性は、いつだって何処か他人事で。すれ違う事すらも、満足に出来た試しがない。全て終わってしまった今になっても、それは変わりなく。
母との別れは、悲しい。月並みな言葉だけれど、それが一番端的で、自分の感情を言葉にするのには適していた。
けれど、寂しくはない。母が居た時から、ずっと私は独りだったのだから。何も変わっていない。変わる事も出来ない。孤独には、既に慣れきってしまった。或いは、共に歩む影と同じように、其処に有るのが当たり前で、もう何の感慨も抱けなくなっただけかも知れなかった。
感情は、老衰するように緩やかに死地に向かい、歩みはあくまで淀みなく。
そうして暫く進み続けると、小さな公園に行き遭う。別に、目的地という訳では無い。元より、目的のない歩みだったのだから、当然だ。それでも其処に踏み入ったのは、せめて何処か辿り着くところがあるのだと、自分を騙したかったからだろう。
「…………」
公園の有り様もまた、私にとって代わり映えする所は無かった。失望は無い。希望なんて、最初から抱いてはいないのだから。
けれど、一つだけ。何となしに、錆び付いたブランコに向けた目の端に、不意に留まるものがあった。
寂れて人気の無い公園だというのに、一本だけ植えられた小さな桜の木。辛うじて桜の色に染まってはいるが、まだ満開には程遠く、如何にも見栄えしない。そのすぐ傍に、しゃがみ込むように、うずくまるようにする人影がある。
小さな背中だ。そう感じたのは、何も距離のせいだけではあるまい。私はゆっくりと、その背中へと歩みを進める。
すぐ後ろまで辿り着いて、まじまじとその背中を眺める。ぶかぶかの制服に身を包んだ少年だった。年齢は、私とそう変わらないように見える。学生なのはまず間違いないとして、ひとつ上、と言ったところか。
男の子は、成長期に合わせて大きめの制服を買う、なんて話を何処かで聞いたけれど。この時期になってもこの有り様では、未だ成長には乏しいのだろう。
襟元からちらりと除く首筋はやたらに生白くて、およそ生気という物を感じさせない。すぐそこに居ると言うのに、吹けば何処かに消えてしまいそうな、希薄な存在感。幽霊でも見ているのだろうか、なんて突拍子も無い事を考えてしまう。柳の木の下じゃあるまいし。
「何を、しているんですか」
そんな風に声を掛けたのは、思えば全くもって私らしくも無い。きっと、くだらない感傷に浸っていたせいだろう。突然飛び込んできた見慣れないものに、少しだけ触れてみたくなったのだ。
「猫が―――」
とだけ。その人は、顔も上げずにぽつりと声に出して、その先は続けなかった。そして、その必要も無かった。
一歩進んで見下ろした、桜の木の根本。浅く掘られた穴の中に、眠るように横たわる斑模様の子猫。触れずとも分かる。其処にはもう、生命の熱は残っていない。
おおよその見当はついた。この辺りで命を落としたこの子猫を見つけた少年は、お節介にも供養の為にと穴を掘って、今まさに埋めてやる所だったのだろう。少年の手は土に塗れて、爪の中まで黒く染まっている。
馬鹿馬鹿しい、と思った。
態々こんな事をしなくても、お役所なり何処かに電話してやれば良かったのだ。いや、そんな事をせずとも、往来の真ん中でも無し、見て見ぬふりで放っておけば良い。ましてやこんな所に勝手に穴を掘って、却って迷惑ですらある。そんなものは、自己満足でしか無いだろう。
思う事は色々あったけれど。私には、そのどれも口に出す事は出来なかった。
子猫を見下ろす彼の無表情が、私には何故だか、今にも泣き出しそうに見えたから。唇を噛み締めて、何かを堪えているように見えたから。
「ばかですね、お兄さんは」
辛うじて溢れた憎まれ口は、何故だか酷く震えていて。此方の方が、よっぽど泣きそうな声だった。
返す声色は、そんな声よりずっと穏やかに。
「そうだね。俺は、馬鹿だ」
そう言って、その人はようやく顔を上げた。
苦笑いみたいなその笑顔を見て、綺麗な人だ、なんて。柄にも無いことを思ったのは、夕日に目が眩んだせいだろう。
それから、二人で一緒になって子猫を埋めてやった。と言っても、後は上からは土をかけてやるだけだから、それまでのお兄さんの苦労と比べればさしたる手間でもない。
それでもそれなりに時間はかかって。気づいた時には夕日は沈みきって、辺りは薄暗くなっていた。それまで二人共、何も話さなかった。
「ごめん、こんな時間まで。親御さん、心配してるよな」
そんな彼の言葉を、私は取り立てて否定しなかった。それをすると、美しいと思えた今までの時間が、全部台無しになるような気がしたから。
それでも、家まで送ると言うお節介は固辞して、公園の出口で逆方向に別れる。
「また―――」
また、会えますか。なんて。そんな言葉を口にしようとして、尻すぼみに声は途切れる。それをただの別れの挨拶と捉えたのか、
「うん、それじゃあ、また」
それだけ口にして、お兄さんは自分の方向へと歩み出す。きっとそんな機会は訪れないだろうと、お互い分かっている。別に示し合わせて再会するほどに、仲を深めたわけでも無い。互いに名前だって知らないのだ。
けれど。もしも。また、会えたのなら。その時は、もう少し話がしてみたいと思った。
陽光の中、桜並木を歩く。周囲は穏やかな賑わいに包まれている。三年間を終えて、また新たな三年間へ。歩みは一定に。この暖かさを、何処かで空々しく感じている。
「――――――」
不意に、すれ違った誰かを知っている気がした。
「あのっ……!」
呼び止めて、振り返った顔は。いくらか精悍になったけれど、綺麗なままだった。
「えっと……」
その人は、困ったような表情で固まっている。
ああ。そんなのは、分かっていたことだ。あんな、一時間にも満たない時を、お互いに後生大切にしているだなんて。そんな風に信じられるほどに、私はロマンチストではいられなかった。
「……いえ、人違いだったみたいです」
失礼しました、先輩。とだけ続けて、それからもう振り返らず、歩みに戻る。
これは、始まらなかった関係。初恋にもなれなかった何か。私の心は今も、緩やかに死地へと向かっている。
Certain rainy day/Rumor Case 1:The "Red Coat"
「日常」という言葉はどうしても「何事もない日々」って印象を与えるけれど。
でも、日々の暮らしの中で本当の意味で何も起こらない日というものはなかなかないわけで。
これもまた、ボクの日常の中で起こった、たいしたことのない出来事、その一つの記憶というわけだ。
それはつまり、あのころはまだ他愛のない話のタネでしかなかったということ。
それがこの後、実感を持って迫ってくることになるだなんて、そんなのボクらに想像できるはずがなかったんだ。
高校二年生の夏休みを少し先に控えた、六月のある日のこと。
しとどに降る梅雨の霧雨のコーラスの中、ボクこと松山茉莉、親友の竹内太桜、そして同じく親友の梅村海深は学園の図書館にいた。
入り口から一番遠い、四人掛けの座席。すなわちボクらが確保しているテーブルいっぱいに散らかっているのは、数学や古文などの教科書たちだ。デザインもカラーリングもまるでバラバラなそれは、けれどもどこかお堅い画一的な雰囲気を醸し出している。教育のために作られた書籍たちは、そんな「書籍」としても模範生たるように生み出されているのかな、なんて思うことがたびたびあった。
四月に無事火蜥蜴学園二年生に進学し、五月の体育大会を終えたボクたちが直面する次なる行事は、言うまでもなく定期テストである。なにせ、二年生初めての試験だ。何事においてもスタートダッシュにおいて成功しておくことは後に繋がる。特に今年はおそらく「デキる」と思えるクラスメイトが二人も目星がついている以上、事前準備を万全に済ませておくに越したことはない。そういった理由もあって早めに準備を始めることにしたのである。
火蜥蜴学園の図書館は全体的に木目調の作りで、床や壁に止まらず読書用のテーブルもまた木製だ。教室や老化の無機質なリノリウムと比べるとどこか暖かみのあるこの部屋には、梅雨の季節特有のしっとりとした雰囲気が落ちている。
定期テストまでの間に何か大きな行事の予定は差し挟まれてはいないとはいえ、試験まではまだ1ヶ月以上の時間を残している。そのためか、今の図書室の机の埋まり具合はまだ三割程度といったところ。読書に訪れた生徒の数もやはりまばらで、高校の図書室という場所が日常的に混雑するような場所ではないことを差し引いても、やや閑散としている。心なしか雨の音がはっきりと聞こえていた。
ころん、と太桜の手から鉛筆が落ちた。
「……すまん松山。また分からん問題が見つかった」
太桜が数学の教科書を帽子のように頭に乗せながら泣きついてきた。放課後は勉強をすべきだ、と彼女がボクたちを誘ってきてからまだせいぜい一時間程度。その間に既に質問には七回も答えていた。
「二次方程式なのだがな……どうにも因数分解ができんのだ」
そう言われて彼女のノートを見下ろす。
y=5x^2-7x+1。そりゃあ因数分解できるわけがない。それは解の公式を使う奴だよ、と説明してやると、今度は太桜はノートにy=ax^2+bx+c……と書き始めた。
「ストップストップ! もしかして太桜、解の公式覚えてないの!?」
驚くボクに、太桜は当然だろう、といった面持ちで返す。
「しかし、数学の&ruby(みやこ){京}教諭はこの式は暗記ではなく毎度導出できるようにしておけ、と言っていたじゃないか。だからこそ自分も億劫と思いつつも毎度一から用意しているのだぞ」
「いやいや! そんなの暗記でいいって! それ出来るようになってる必要ないから!」
「だがしかし京教諭は……」
「確かに導出できるようにしとくのは大切かもしれないけどさ、テストでいちいちやってたら間に合わないよ!?」
「だが……」
「いいから暗記しちゃって! 絶対その方が得だから!」
「むぅ……松山がそこまで言うのなら……」
しぶしぶといった様子で了承する太桜。しかしそのペンの運びは遅く、明らかに集中力やモチベーションが落ちているのが見て取れる。
ではこちらは、と海深の方に目を向けると、こちらは完全にお遊びモードに入っていた。 海深の国語のノートの半ページで、やけにリアルなライオンが二頭、仲睦まじそうにじゃれ合っている。両方とも鬣が着いているのが気になるところだが、とにかく完全に集中力が切れてしまっているのは間違いない。少し早い気もするが、一息休憩を入れた方が良さそうだ。
「なんか、ちょっとボク喉渇いちゃったな。海深たちはいい?」
「あっ、海深も飲みたいかも。太桜ちゃんも来るよね?」
海深のその台詞を聞いて、太桜も心底助かったというふうにかじり付いていたノートから顔を上げた。
「あ、ああ! そうだな! 自分も行こう!」
彼女のそんな大声に、貸し出しカウンターの図書委員が軽く顔を歪めていた。
この学校の多目的ホールは図書室から出てすぐ右手、体育館へ向かう途中にある。学園祭のときには運営本部になったり昼休みには移動購買部が訪れたりするそこは、普段は三人掛けの小さなベンチがいくつか並ぶ学生用の談話スペースになっている。そしてここは学園内で唯一自動販売機が常設されている場所でもあった。
その自動販売機でボクは缶のミルクコーヒーを、太桜はペットボトルの緑茶を、海深は同じくペットボトルの乳酸菌飲料を買って、ボクらは一番近いベンチに並んで座った。
「それにしてももうすっかり梅雨だねぇ」
このホールの校庭側は一面が窓になっているため、外の様子がよく見える。降りしきる雨はいよいよ勢いを増し、水はけの悪い学園の校庭を泥沼へと変貌させていた。今日はたまたま三人とも部活動が休みであったが、学校自体はまだ部活動休止期間には入っておらず、遠くに吹奏楽部が調音をするときのやや間の抜けた金管の音階や、この雨のために仕方なく屋内トレーニングに勤しむ野球部やサッカー部のかけ声が小さく聞こえてくる。そしてそんな雑多な生活音を包み込むように、激しくも一定のリズムを刻む雨音が歌っていた。
「そういや太桜。傘、ちゃんと持ってきた?」
「む、もちろんだとも。こういうときのために鞄には常に蝙蝠を忍ばせているんだ」
「それってつまり普通の傘は忘れたってことじゃあ……」
「ぐっ……。なかなか痛いところを突いてくるじゃないか松山……」
悔しそうに目を瞑る太桜に突っ込みたくなる衝動を抑えながらコーヒーを煽ると、その向こう側から海深がぴょこっと顔を出してきた。
「海深はレインコート持ってきたよ。お父さんの会社の新しいやつ!」
にこにこ顔でバッ、とそれを広げる。というか、鞄もないのにずっと持ち歩いていたのか。
海深のレインコートは遠目から見ても目立つような派手なデザインだった。おそらくは澄んだ水の中を泳ぐ金魚たちがデザインモチーフなのだろう。地の色は淡いブルーだが、そこに所狭しと泳ぎ回る魚の影がプリントされている。ブルー部分が半透明な素材で出来ておりやや透け感を感じさせる一方、魚影は鮮やかなほどの不透明な赤色だ。結果的に魚影の方が全体を覆う面積としてはかなり多くを占めているため、一見した印象だとレインコート自体が真っ赤に見えかねない。
かわいいよね!と満面の笑みで見せつけられるが、いまいちボクには良さが分からなかった。
「ちょっとどぎつすぎない? なんかそれ……」
その色合いがちょうど、クラスメイトから今日耳にした都市伝説にそっくりだったから。
「"&ruby(レッドコート){赤い服の男}"みたい」
そんなことを、口走ったのだった。
「いや、最近そんな話を聞いたんだ。夜な夜な獲物を求めてこの街を歩き回る赤い怪物の話」
「なにそれ。また都市伝説? あんまりそういうの鵜呑みにするの海深よくないと思うけどなぁ」
海深が呆れたようにベンチに座り直す。元々オカルト否定派の海深であるが、それ以上に自分がかわいいと思ったレインコートを怪物の衣装扱いされたのが不満のようだった。やや罪悪感を覚えてしまう。
「まあそう言うな梅村。案外そんな与太話にこそ噂が潜んでいたりするものだぞ」
太桜の謎のフォローにもむくれ顔のままだ。
「それで茉莉ちゃん、 "&ruby(レッドコート){赤い服の男}" って?」
そんなむくれ顔のまま海深が問いかけてくる。それに併せて、友人たちから聞いた様々なパターンの "&ruby(レッドコート){赤い服の男}" の話を順を追って話していく。別称として「赤マントさん」などがあること、出自は多岐に渡るが基本的には殺人者であること、正体は人間でないパターンが多いことなどを大まかに話したとことで、纏めに入る。
「うーん、まとめるとタイプとしては口裂け女とかトイレの花子さんに近いかな。姿を見ること自体がタブーとされている一方で、『こうすれば逃れられる』っていうおまじないの類いも色々と設定されてる感じ。まあこういう場合、逃れられるための方策って後付けのことが多いんだけどね。まあとにかく怪物の存在そのものが真実かどうかは置いておくとして、『元ネタ』の存在がいそうな感じがするね」
「元ネタだと!? 待て松山、それはつまり」
「変質者じゃないかなぁ」
身も蓋もないことを言う海深。いや、ボクも大体考えていたことは同じであるのだが、こうもバッサリと切り捨てられてしまうとロマンというものがない。外見はボクたちの中で一番女の子らしいくせに、やたらリアリストなのだ。
「あとは……やたら『3』って数字がよく出てくるね」
「数字?」
太桜の問いかけに首肯する。
「うん。これは『赤マントさん』に付随してる話が多いんだけど、『3回唱えると~』とか『3時33分33秒に3階の窓から~』とか、なんか『3』にまつわる言説が多いんだよ」
「……派生する前の何かがあるのかも」
神妙な顔で海深が言った。彼女にしては珍しく食いついている。
「何かって?」
「わかんないけどね」
ボクの問いかけに、海深はあっさりそう言って肩をすくめた。
「ぜーんぶ3が付くんだったら、元ネタになった変質者と関係あるのかな、って思っただけだよ」
えへへ、と舌を出しながら海深が笑った。かわいい。
「さて、そろそろ戻ろうよ。なんだかんだで海深たち結構話し込んじゃったみたいだよ」
そう言って、ぐいっとペットボトルを煽る。それに釣られて太桜も立ち上がった。
「そうだな。松山に見てもらえる間に問題集のあの章だけでも終わらせねば」
初めからボクに頼る気満々なのは気になるところだが、まあ太桜が乗り気なのはよいことだ。
ボクも一気に缶コーヒーを飲み干した。図書室への飲食物の持ち込みは厳禁である。すっかりぬるくなっていたコーヒーだけれど、人工甘味料が舌に残す後味がなんだか爽やかな印象を与えた。
「そういえば、後一月もすれば日食だね」
「む、いつの間にかそんなに近くなっていたか」
「専用のメガネは買ってある?」
「もちろんだよ! 楽しみだなぁ、日食。何十年に一度しかないんだっけ」
「詳しくは忘れたけどこのレベルのは下手したら百年単位で見れないかもしれなかったはずだよ」
「なにっ、本当か?」
「じゃあ絶対全員で見なきゃだねっ」
「うん、そうだ」
「絶対、ボクたち全員で!」