kagemiya@なりきり

十影さんちの今日のごはん / 25

34 コメント
views
0 フォロー
25
「」んかくん 2020/07/16 (木) 23:13:09


去っていくタクシーのエンジン音を耳にしながら俺はポケットから鍵を取り出した。
キーホルダーで纏めてある鍵のうちのひとつを指先で挟む。花屋『クリノス=アマラントス』の合鍵である。
「さてと。えーと、確か………」
記憶を反芻し、封印解除用の呪文を脳内の書庫から引っ張り出す。この通り、『クリノス=アマラントス』は二重施錠で大変安心なのである。
物理的な方はともかく、無理に封印を破って侵入するとどうなるか聞いたことがあるが………百合先輩は微笑むだけで何も言わなかった。
「εκπτωση για τη λειτουργια μεσαιων επιχειρησεων―――――」
唱えてから通用口の鍵穴へ鍵を差し込んだ。捻るとちゃんと鍵の外れる音がしたので呪文の詠唱は成功していたのだろう。
ほっと溜息をついた俺の耳元で、くすりと微笑むような吐息が零れた。
「……おお、解錠できたね。偉い偉い。これぐらいは出来てくれないとね」
「な、なんだか褒められている気がしませんね………」
振り返ったりせずに返事をした。むしろ今振り返ってしまったら鼻と鼻が擦れ合うような顔の距離感が確定してしまう。さすがに気恥ずかしい。
今の声だってどんな呟きであっても聴き逃がせないほどすぐ近くからしたのだ。
というのも今まさに俺はこの声の主を背負っていた。背負った相手の太ももを腕で支えるオーソドックスなやつである。
背負っている相手とは最早言うまでもなく、この『クリノス=アマラントス』の若き女主人であった。
「あの………もう大丈夫だよ?十影くん。ここから先は私ひとりで何とかするから………」
「何言ってるんです。タクシーに乗り込むまでふらふらして自力じゃまともに歩けなかった人の言っていい台詞じゃありませんよ」
声までいつもの覇気がなくどこか輪郭が薄らぼんやりとしている。なんだか俺まで落ち着かない。
俺は百合先輩の言葉を完璧に無視し、通用口から中へと入った。
シャッターの降りている店内は薄暗く、切り花用のクーラーの動力音だけが低く唸っている。
が、今日はこの店には用はない。俺は百合先輩を背中に背負ったまま、勝手知ったるという足取りで奥へと向かった。
扉を1枚潜れば、そこは栗野邸の住居の一部である『クリノス=アマラントス』から百合先輩の生活スペースへと移り変わる。
「先輩、靴脱がしますよ」
「………ん………」
一拍遅く返ってくる先輩の返事を受けて、腕1本で百合先輩を支えながらという作業にちょっと苦戦しつつも学園指定のローファーを玄関へ投げ捨てる。
整える余裕なんて無いので俺自身も靴を脱ぎ散らかすと、スリッパに履き替えるのもさておいて真っ直ぐに階段を目指した。
一段一段、背中の百合先輩をなるべく揺らさないよう気をつけて登る。
階段に差し掛かって体勢が不安定になったのか、首筋に回されている先輩の腕の力が少し強くなった。
そう意識すると、普段は知ることのない百合先輩の身体の軽さや柔らかさ、背中に押し付けられているふたつの膨らみを感じてどぎまぎするわけだが―――
「………こんな時に何を考えているんだ俺は」
「何か言った?」
「なんでもないです」
邪念退散。病人を背負っているのだ。そういうのは今は無し。
既にこの家の間取りはおよそ知っているので、階段を登りきった俺は迷うこと無く2階にある百合先輩の寝室を目指した。
扉を開け、中に入る。躊躇わず奥へ進んでベッドの上へ慎重に百合先輩の身体を横たえた。
ずっと俺のされるがままになっていた先輩はまるで何かを後悔するかのように、臥せったまま瞼を掌で覆って天を仰いだ。

通報 ...