③
それは熱帯夜となる予感を感じさせる、蒸し暑い夕暮れだった。
定期的に通っているスイミングジムを終え、買い物をして帰ると、玄関を開けると俺のものではない靴が2足あった。
「………」
どちらも女物。動揺はない。この家では珍しくないことだ。
そもそも俺が開ける前に鍵が開いていた時点でこの可能性は考慮していた。むしろこの靴が無ければ泥棒を疑わなければならなくなる。
スリッパに履き替え、重たい買い物袋を手に提げて廊下を行くと奥の方からテレビの音が響いてくる。
空調が効いた涼しいリビングのソファに腰掛けていた人々の正体は案の定だった。
「あら、お帰り~てんちゃ~ん」
「あ、てんかくん………お邪魔してるね。迷惑じゃないかなって言ったんだけど流先生が聞かなくて」
「何よなっつん、嘘ばっかり。誘ったらあっという間に支度終わらせてた癖に」
「わ、わわわっ!?そ、そんなこと無いからねてんかくん!?やっ、てんかくんちに来たくないってわけじゃなくてっ!?」
何故か顔を赤くした棗が流姉さんの口を塞ごうと取っ組み合いを始めた。
この家で俺以外に人の声が響くとしたら、このふたり以外に無い。
時々こうして俺の様子を見に来る………ついでに、俺の作る料理を貪り食って行く流姉さん。
その流姉さんに連れられてやってくる、昔は俺と病室が一緒で今は俺と同じように一人暮らしをしている棗。
普段は俺以外に誰もいないこの静かな洋館が少し賑やかになるとすればこのふたりが来ている時だけだった。
「ああ、いらっしゃい」
毎度のことなので大仰に返事をすることもなく、俺は一言投げてそのままキッチンへ向かった。
突然の来訪であったが基本的に纏めて買って冷蔵庫に保管しておくので問題はない。一人前が三人前になるだけだ。
それで対応できないなら献立を変えればいい。今日は幸いにも分量を調節するだけで済みそうだった。
買い物袋を足元に置いて、てきぱきと冷蔵庫に入れるものとそうではないものを分けて仕舞っていく。
中学校に入ってすぐに一人暮らしを始めた時は何をするにしても四苦八苦していたが、そんな生活も2年と半年も過ぎればもう慣れたものだ。
ハンガーで吊っていた愛用のエプロンを首にかけ、何の気なくシンクを見た時、ようやく俺はそれに気付いた。
「………なにこれ」
思わずそんな疑問が口をついて出た。それが何であるかは分かったが、何故ここにあるのかが分からなかった。
俺のぼやきが耳に届いたのか、すぐさま流姉さんの楽しそうな返事がリビングの方から返ってきた。
「あ、気付いた?それね~、うちの病院がやってる屋上緑化の一貫で収穫できたスイカなのよ。
もともとは芝生で覆ってただけだったのにみんな勝手なもの植えるものだから最近はなんだか野菜畑みたくなってきちゃって、あっはっは」
「なるほど。そういう」
言われてみると合点が行く。シンクにこうして無造作に転がっているこのスイカ、商用のものと比べてもやや小ぶりだ。
表面にもところどころ傷があり、農家の手によってちゃんとした手入れをされて育てられたものではないという話は間違いなさそうだった。
「実は成ったけど持て余してるって話だったからせっかくだから貰ってきてみたわ。食べられるかしら?」
「さあ。割ってみないことにはなんとも」
そう答えながら俺はスイカを持ち上げてまな板の上に置いた。
冷やして食べるにしても適当な大きさにカットしないと冷蔵庫に入らない。今日の食事を作り始める前にやっつけてしまおう。
包丁を取り出し、緑と黒の縞模様の果実へと刃を添える。包丁の峰に手を添え、体重かけて一気に両断した。
ぱっくりと二分されたスイカの表面はしっかりと赤く染まっている。こうして見る分には特に問題はなさそうな、ただのスイカだ。
そのまま同じ要領でスイカを四等分にし、実の端の方を包丁で小さくカットして口に入れてみた。
全く食べられないということはない。ないのだが。
「………あんまり甘くないな」
率直な感想だった。まあ、屋上緑化の庭園で勝手に育ったスイカなんてこんなものなのかもしれない。
それか、もともと原種のスイカというのは甘くないものだそうだから先祖返りでも起こしたのかもしれなかった。
さて。ではこれをどうするか。捨ててしまうのはあまりに無体だ。甘くないだけでスイカ自体の風味はきちんとある。
2年半の間にインプットされた脳内のレシピブックを紐解いているうちにひとつ思い当たり、冷蔵庫の中を確認した。
問題ない。材料は全部揃っている。今晩の料理にも抵触しない。ただどうしても時間が必要だから、今からやっておくべきだろう。
そう結論が出て、次々に必要なものを冷蔵庫から取り出している時だった。