雨が強く降っていた。
常ならば打ち付ける肉の熱を奪うそれは、今の女にとってさしたる意味はない。元よりこの肉には、命の温度など残ってはいない。身体ごと溶け込んで、泥に染みていくようだ、と錯覚した。
仰向けに倒れ伏す姿勢のまま、無理を押して首だけを起こす。たったそれだけで骨は軋み、肉は裂け、命は摩耗していく。胎に突き立つ刃は、まるで墓標の様にも見えた。
思考はあらゆる負の感情を越え、最早微睡みにも等しい。但し、向かう先にある眠りは、永遠のものだろう。一度堕ちれば、もう目を覚ますこともない。果たして女にとってそれは、救いかもしれなかった。
くだらない執着の末路が此れだ、と考える。奪い、殺し、勝ち取る事に忌憚を覚えないのならば、こんな感情は残すべきでは無かったのだ。
女は、産まれ落ちたその時より、あらゆる人間性を奪われ続けた。それは搾取では無く。ひとつの機能として完成する為に、余分を削ぎ落とすように。肉体の構成が人間からかけ離れる度に、中身までも作り変えられた。心などと言う不確かな物を残す事を、彼女の所有者は良しとしなかった。
ならば、何故こんな感情を抱いてしまったのだろうか。
「――――」
得る筈だった、得たいと願った何かの名を呼ぼうとして、最早発声の機能までも失われた事を自覚する。
―――ハ、ハ、ハ。
笑い声を聞いた気がした。けれど、それは錯覚だろう。その声の主は、もうこの世には居ない。遥か彼方の黎明より呼び起こされた魂は、既に在るべき場所へと帰った。
思えば、彼と言葉を交わすことは殆ど無かった。女はそれに必要を見出だせなかったし、彼も、取り立ててその姿勢を否定することは無かった。
けれど今、その男を想う。
神の血を宿す偉大なる王。武勇轟くその弓は、かの英雄に技を授ける程に。
しかし、師たる王を殺したのはその英雄だった。
何故かと問われれば、なんの事はない。
己よりも優れた弓の腕を持つ者に、娘を与える。王のその言葉に従い己の力を示した英雄に対して、しかし王が与えた物は敵意と憎悪だった。己の言葉を翻し、英雄を貶めんとした邪智の王は、当たり前のように英雄によって倒される。
例えその英雄が狂気の只中にあったとしても。正義は英雄にあり、王こそが悪だった。その英雄の物語において、王は、超えるべき数多の試練の唯一つに過ぎない。
命尽きようとする今、女は、数え切れぬ程の武勇を積み立てた大英雄よりも、愚かな王へと思いを馳せる。
国も家族も、己の愛した全てを失い、命尽き果てるその王の無念を推し量る事は出来ない。彼はその時、己の行いを悔いただろうか。それとも、ただ嘗ての弟子への憎悪に身を焦がしたのか。
答えを知る機会は、最早永遠に失われている。
ああ。きっと。
それを知りたかったのだと女は思う。
かの王は子を想い、道理を捻じ曲げてでも己の意思を貫いた。例えそれが愚かしくとも。愛する機会すら与えられなかった女にとって、それは、太陽のように眩しく、尊く見えた。
王が最期に何かを思ったように。女も今、何かを思う。
思考は雨音に掻き消され、意思は泥に溶け落ちる。かの王が女の最期を知る事もまた、永遠に訪れはしない。