>> 53 もぐもぐもぐもぐもぐもぐ。 エンドレス咀嚼音を響かせリスのように頬を膨らませながら出店の食材をモグる少女がそこにいた。 彼女はリット。モザイク市を旅する新世代ワルキューレサーヴァントであり、 最近は羽休めとして天王寺に滞在し、そして今は住吉大社の屋台を食欲のままに食い荒らすリス系美少女である。
「……ん?お、ツクシちゃんにスバルくんや。やっほー、楽しんどるー?」
やってきた二人に気づき、顔を向け挨拶するも、食事の手は止まらない。 ちなみに彼女の隣で普段羽ばたいている白鳥のローちゃんと烏のメーちゃんは買った食事が詰め込まれたビニール袋を咥えているため会話に参加できない。断じて喋らせるのが面倒とかそういう理由ではない。いいね?
天王寺 「ご馳走さん! こっちの蕎麦も悪くねぇな。 しかし、蕎麦湯ねぇのが信じられねぇ 蕎麦湯まで飲んでこそ蕎麦ってもんだろうが」 年季の入った蕎麦屋から、上機嫌で出てきた男がいた。 男、水木トウマの顔は赤い、年越し蕎麦のついでに一杯引っ掻けたようだ。 あーだこーだ言いつつも蕎麦の味には満足だったらしくいつになく上機嫌で街を歩く。 相棒であるケルベロスは寒い中外には出たくないと家に籠っている。 年末の街中というのはどこも店は閉まり、人がいないと言うのにどことなく祝い事のような雰囲気があってトウマはそれが好きだった。 「ん……確かこっちは?」 だが、そんな独特の雰囲気とは違う賑やかな気配を感じトウマは首を傾げた。 方向と声のする距離を頭の中に入れた地図で照らし合わせ何があったか推察する。 「あっちは住吉大社か……二年詣りには早いが行ってみるか」 (あ……ボスが出てるのに紅白見るの忘れてた。ま、ケルベロスが録ってるだろ……) トウマは軽やかな足取りで鼻歌なんて口ずさみつつ住吉大社へと向かった
特設のステージで、男が吠える。 飛び上がるように激しく、浮遊するように夢見心地のエクスペリエンス。 彼を知らぬ者の多くは話題性だけのアイドルと言い、彼を知る者の全てはKAWAIIと言う。確かにKAWAIIとしか言いようがない。 この舞台に選ばれた彼の実力は、本物だ。 自然と拳に力が籠る。それは感動ゆえか、あるいは。 しかして今は駆け出すべきではない。今の自分には何よりもやるべき使命がある。
「彼谷パルヴァライザーさんの『飛行型完全体』ありがとうございました!!」
時は大晦日。このステージはこの地域に古くから伝わる祭事―――紅白歌合戦の中心にある。そして、司会の大役を自分が務めているのだ。
「さて、そろそろ中間発表の時間であるな!今の段階では……白組が優勢である!皆の者ありがとう!」
ここで折り返し。しかしまだまだ気は抜けない。今年を駆け抜けた流星の如きアイドル達を代表し、自分はここに立つ。 側に立つ己の騎士は、今は紅組の司会……この一夜だけはライバルを名乗らせてもらいたい。 その気負いが眼差しに宿っていたのか、パーシヴァルもまた本気の視線を返す。
今年もあと僅か。1年間の想いを込めた、熱唱を此処に!
>> 55 そんな彼女の下に、近づく影が一つ。
「……おい、大丈夫か?」
普段羽織っているレインコートはなく、代わりに赤いジャージをセーラー服の上から着込み。 何時も携えていた無骨な機巧刀の代わりにチューハイの空き缶や日本酒の空き瓶がぎっしり詰まったビニール袋を持った。 そんな如何にも飲み会帰りな彼女の名は、逆神朱音。今目の前で酔いどれているアズキと同年代の少女である。 その袋の内容から、彼女もまた相当な量を飲んでいる筈なのだが……一杯でふらふらになってしまった彼女とは異なり、特に酩酊した様子もなく、顔はぽうっと赤くなってはいるものの、その足つきは確かなものであった。
「ほら、肩を貸してやるから……ここからだとウチが近いな、キツそうなら一辺吐いたほうがいいぞ」
慣れた手つきで今にも倒れそうなアズキの腕を取って体勢を支える。というのも彼女、実は先程まで雀荘で大暴れしており、そんな彼女に一足先にお年玉を振り込んだ挙句ヤケ酒で酔い潰れた、最近知り合った青年を送り届けていたのだ。 ぐでぐでヨットマンを丁寧にベッドに寝かせ、わざわざ律義にゴミを持ち帰っている最中に、こうして同じく酔っ払った彼女と出会い、いつものようにお節介を焼きに近寄ったのだ。
>> 55 「……大丈夫ですか?」 そんなアズキに、声をかけるものがいた。寒空の下、更に寒さを感じさせるような冷めた色のパーカーに、丈の長いスカートを身につけた少女。 顔を見てみれば、それを何処かで見たことがあるのにも気がつくだろう。しかし、それを何処で見たのだったか。中々思い出せない。そんな、地味な顔立ちであった。 それが、無表情なまま、いつの間にか立っている。声をかける割りには、その声音に心配の色はない。青い瞳が、透明な輝きを湛えているばかり。
年末の難波、道頓堀。 過ぎゆく年を楽しく祝おうと、人混みで賑わう繁華街にて。
「……ぅ、ひっく……」
人混みから少し離れるように歩く、千鳥足の少女が一人。 いつもは仏頂面のその顔は仄かに赤く染まり、固く締まっているはずの口元も、今日はどこか緩んでいる様子。 堅苦しい雰囲気はどこへやら、着崩されたシャツの胸元からは、僅かに肌色が覗いている。
……数時間前、彼女、鴈鉄アズキが所属する武装警邏隊で年内最後の忘年会が行われた。 周りは一回り以上も離れた年上の男性ばかり。そんな中に、娘のような年齢の少女が放り込まれればどうなるか。 あれ飲めこれ飲めそれ食べろ、と。蝶よ花よと愛でられて……そんな雰囲気に流されてしまった結果…… 軽い気持ちで飲んだハイボール一杯で、まさかここまで酔ってしまうなんて。
「ふらふらする……あつい……はやく、かえらないと……ぅ、ぷ……」
覚束ない足取り、酩酊が見て取れる表情は、この人混みの中でも一際目だって見える。
/絡み待ちです。他の都市泥の方もどんどん自分なりの年越しイベントを起こしてみて下さい。
年の暮れなど、彼女の暮らしには関係なかった。仕事があれば関係なく引き受けるし、仕事がなくても、別段特別なことをするわけではない。 年越しそばなど、彼女が小学校に入る前に食べたっきりだ。だから、今年もそうするものだと思っていた。 ……だが、今はスバルがいる。何も知らない、本当の子供のような同居人(サーヴァント)が。この子に、それまでと同じ、“普通ではない”年越しをさせるのは、少し気が引けた。 という訳で、影見ツクシは、もこもことしたコートに身を包み、スバルにはもっともこもこしたジャンパーを着せ、「天王寺」の天王寺町にある住吉大社へと足を運んでいた。 此処では、毎年年越しを共に祝うイベントが開かれている。ちょっとした出店じみたものなどもあり、その雰囲気はお祭り宛らだ。
「……こんな風になってたんだ」 「ひとがたくさんです。みんな、なにをしているのですか?」 「もうちょっと待ってれば、分かるよ」
そうして、あちこちを見やるスバルの手を引き、彼女は境内をふらふらと彷徨っていた。其処此処に、見覚えのある顔がある。
「○○○○(クソッ)!」 角を曲がった先にある、道を遮る瓦礫と凄鋼の巨大複合物を目にしたイーサンは、乱暴に舌打ちをする。 ロストHCUが存在する地点の目星がかろうじてつき始めたと思ったらこれだ。 「神戸」内部は一見すると人気のない市街地のようだが、実際には天然、いや人工か、の迷路ようなものだ。 暴走した自動開発プラントと凄鋼によって構造自体が狂っており、しかもそれが変化し続けている。 それに加え、クソッタレな無人兵器がうろついていて、見つかろうものなら容赦なく攻撃を加えてくる。 要するに、ここで迂回路を探そうものなら、お宝は二度と見つからない可能性が高いってことだ。 イーサンは携行していたAA-12を苛立ちのままに構え、目障りな塊に銃口を向けて引き金を引こうとしたところで、思い直して指を離す。 そして、自分でもわざとらしいと感じるほどに大きくため息をつき、呼気とともに湧き上がる感情を吐き出す。 ショットガンではこの障害物を破壊できないし、AA-12をグレネードとして使用するために特殊弾薬のFRAG-12を使ったところで結果は大差ないだろう。 そしてなにより、弾薬はタダではない。 「ったく」 と思わず口に出してしまうが、その続きは口にするには惨めすぎるので何とか飲み込む。 俺の人生はいつだってこうだ。 そんな言葉は他人には聞かせられない。 特に、自分のサーヴァントには。 「お、どうしタ」 後ろからついて来ているギドィルティ・コムが、なんとなく違和感のあるイントネーションでイーサンに声をかけてくる。 「見ての通りだギドィルティ。こいつが通せん坊ってわけだ」 振り返ったイーサンはAA-12で瓦礫と凄鋼でできたオブジェを指す。 「なるホど。オレの出番ってわけだナ」 それを聞いたギドィルティ・コムは、いつになく素直な様子で口を開くと、羽織ったパーカーのポケットに手を突っ込んだまま障害物に近づく。 ギドィルティ・コムと入れ替わるように、イーサンは数歩後ずさる。 ほとんど不死身のようになった体とはいえ、「これ」は何度見ても本能的な忌避感がある。 ギドィルティ・コムが大きすぎる口をぱかりと開くと、その周囲に巨大な口のような幻像が現れる。 はっきりと目に見えているかは分からないが、それが口であるということだけはなぜか明確に分かる。 そして、ギドィルティ・コムががちりと尖った歯を噛み合わせるのと同時に、巨大な口も閉じる。 そこに残ったのはボリボリガリガリと硬そう音を立てて何かを噛んでいるギドィルティ・コムと、大きく削り取られた障害物だ。 その断面は、特大のハンバーガーに思い切りかぶりついた時にできる跡とでもいえばいいだろう。 これは、ギドィルティ・コムにとってはまさに食事なのだ。 目の前に恐るべき捕食者がいるという脅威が、これほどまでに本能的に嫌な感覚を引き起こすのかもしれない。 咀嚼していた何かを飲み込んだギドィルティ・コムは、イーサンに視線を向ける。 それに対してイーサンはうなずいて返す。 何を考えているのか分からないやつだが、たまにはこれで通じるようになった。 ギドィルティ・コムは、大きく削れたものの穴が空くには至っていない障害物に向き直る。 「そうイえば、あのクリスマスケーキっテやつは中々ウマかったゾ」 そう言ってから、今度二口三口とかぶりつく。 ギドィルティ・コムは空いた穴の前でイーサンに向き直ると言葉を続ける。 「でだ。年が明けるト、この国ではモチとかいう白くてノびるもの食べルらしいな。今度はソれをよこセ」 イーサンは思わず苦笑する。 ある意味では、何を考えているのかこの上なく分かりやすいか。 「うるせえ。ハンバーガーで我慢しろ」 「もう飽きタ。それに天使町ラーメンとギョウザもマだ食ってないゾ」 イーサンは、ギドィルティ・コムの恨みがましい視線と言葉を受け流しつつ、空いた穴を通って先へ進む。 後ろからギドィルティ・コムの足音が聞こえる。 もっと扱いやすいサーヴァントの方が良かったと思うことも正直あるが、これはこれで悪くない。 ま、お目当てのブツが首尾よく手に入ったらモチってやつを買ってやるよ。 言質を取られても面倒なので、イーサンは内心で付け加えた。
収監者参號は、セクターゼロ標準収容独房の中央に安置されます。 収容独房にはサーモグラフィカメラを設置し、常に収監者参號の温度上昇を監視します。 想定される変化量を上回る温度上昇が確認された場合は、即座に封鎖プロトコル“望まれぬ篝火”を発動します。 収容独房の管理維持は、耐熱加工及び指定されたキャスターのサーヴァントによる魔術的強化を施された無人ドローンによって行います。 いかなる事情があろうとも、生死を問わず生命体が収容独房に立ち入ることは禁止されています。
今日は珍しく、彼女が夕刻まで外出している。これほど早く帰宅することは、彼女を召喚してからは初めてかもしれない。 帰宅した時に迎える声がないことに、酷く面食らい寂しさを覚えるようになってしまった。何とも、以前の己からは大きく変わったものだと、妙なところで感慨深さを覚える。 ともあれ、彼女がいないのであればやるべき事がある。夕食の準備だ。普段は彼女にお世話になりっぱなしだが、インスタント食品に頼り気味だったとはいえ、これでも自炊していた身である。 彼女に何もかもを頼りきりになるような堕落した真似をするつもりもなく、普段の恩義も兼ねて、これくらいはやらねばならぬ。 というわけで、彼女ほどのものではないが、男鰥の雑な料理をいそいそと始めることとした。作るのは、鍋である。 この頃はよく冷える。温暖化したとは言っても、冬季の冷え込みに歯止めがかかるものではない。鍋の一つでも作って、よくよく温もろうという算段である。 放り込む具材として、冷蔵庫からあるだけの野菜を引っ張り出す。ネギ、白菜、人参、大根、豆腐、まずまず一般的な具材は揃っている。 加えて、買って帰ってきた鶏肉、豚肉、マロニーにえのきやしめじも加えて、今日の献立は水炊き鍋である。 出汁を昆布で取りつつ、通り一遍具材を切る。暇があれば鶏肉を煮込んで少しくらいはスープを取りたいところだが、そんな間はないので、粉末の鶏がらスープを入れて間に合わす。味を見て、少し薄味だったので味の素を少々つまみ入れる。 味が整ったところで、煮えにくいものからポンポンと具材を放り込む。難儀するのがマロニーで、幾ら溶けにくいとはいっても茹で続けるとくたくたになってしまう為、入れるタイミングには要注意である。 彼女であれば見た目にまで気を払うのだろうが、粗雑な自分では、やればやるだけ具材を滅茶苦茶にするのがオチであろう。多少具材の入れ方を丁寧にする程度でお茶を濁す。 具材が煮えてきたら、次いでシメのうどんも軽く水でほぐして用意しておく。まだ足りなければ雑炊でも、と思ったが、それは流石に彼女に食べ過ぎだと言われてしまうだろう。 そもそも、今の段階でも具材の量が多い。つい嘗ての要領で作りすぎてしまうのは、今となっては直した方が良い癖だろう。ここは自重することにする。 「只今戻りました。お待たせしてすみません」 ……と、この辺りまで準備したところで、彼女が帰ってくる。都合が良いな、と思ったが、よく考えてみれば、彼女は『千里眼』を持っているのである。此方の準備に合わせて帰宅することなど造作もなかろう。 これは寧ろ、彼女を労うはずが、逆に気を遣わせて帰りを急かしてしまっただろうか。情けのない気分に陥るところを、しかし、拾い上げてくれるのも、やはり彼女である。 「私がそうしたいと思ったから、そうしたんです。貴方と一緒に、食卓を囲みたいと思ったから」 ……このような殺し文句を言われて顔を綻ばせない人間がいれば、ひとつお目にかかりたいものである。全く以て、彼女には終生勝てる気がしない。 その後は、いつも通りの光景である。ひとり、ひとり、食卓を挟んで向き合う。拍手ではなく、もっと単純な、当たり前の祈り。頂きます、と、細やかな声が二つ重なった。
いい夫婦の日というものが、世の中にはあるという。 多分センセイに聞けば色々教えてくれるのだろうけれど、私は特に興味がないので聞かないことにする。 そんなことより、センセイと、そして卑弥呼様のことだ。 あの二人。“聖杯”ならぬ《聖杯》が紡いだというあの縁は、傍目に見れば「いい夫婦」そのものだ。 よく働き、そして疲れ果てて帰ってくる夫を、家を守りながら待つ妻。 今時時代錯誤かもしれないが、あの二人を見ていると、そんな関係性が極自然なように思えてくるから不思議なものだ。 だから、私はてっきり、二人ともそういう仲なんじゃないか、と思ったりもしたのだが、そうではないらしい。 他にも沢山そう思っている人はいるようだが、聞かれる度、口裏をあわせている訳でもないだろうに、そういう間柄ではない、と答えるのだ。 ……男女の仲は、恋だけではないと、そんな小説を読んだこともある。 ただ、それを実感を以て理解するには、きっとまだ生きた時間が足りていない。 「スバル。君は、どう思う?」 「……? なにが、でしょうか?」 「……ごめん。忘れて」 「そうですか。では、ハービンジャーはわすれることにします……あふぅ」
秋の半ばを通り過ぎ、寒くなってきた夜半。低く唸る家庭用発電機の音をBGMに、スバルと二人で空を見上げ、眠るまでの時間を過ごす。 それが、この子を預かってから、私の日常の一部になっていた。 座席を改造したソファーは、そのままベッドにもなる。他に寝床もないから、私とこの子は、二人で一つのソファーを使って眠っている。 ……自分のサーヴァントでもないのに。家族のように接して。滑稽だ。だけど、それでも、私はこの時間を、失いたくはないと思っている。 目は、随分重たそうに持ち上がっている。眠気を隠せない、そのあどけない表情からは、この子がサーヴァントであるという事実を読み取ることは出来ない。 まるで、今を生きている人間のような。だからこそ、私は、それを愛おしく思って、手放す覚悟ができなくて。 「いい夫婦、かぁ」
……センセイと卑弥呼様を思い出すのも、スバルと離れられないのも。 その暖かさに、惹かれるからだろうか。 夫婦のように、或いは、一つの家族のように。一緒に過ごす温もりが、欲しいからだろうか。
あの二人のように。比翼の鳥、連理の枝、偕老同穴の契りを結ぶような、そんな、かけがえのないものが。
……スバルは、すっかり寝息を立てている。その寝顔に浮かんだ微笑みは、何処か、嘗ていたはずの少女の姿を連想させる。 きっと、ウチ/私には、許されない。逃がされたウチに、逃がした私に、その権利はない。 だから、少しだけ。君の赤銅の髪に触れて、いつか失われるその柔らかな暖かさを、少しだけ。
「君が、ウチのサーヴァントだったら、なあ……」
ジンギスカン……13世紀にモンゴル帝国を築き上げたかの成吉思汗から名を頂いたという、羊肉を用いた日本の料理だ。 遠征中のモンゴル軍において食されたとも言われるが、実際のモンゴル料理との乖離を鑑みるに、俗説の域を出ん。料理としての直接的なルーツは、イスラム系の異民族である回族の料理、烤羊肉(カオヤンロウ)にあろうと推定される。 料理として成立したのは20世紀初頭の日本であり、この時期近代化を迎えた日本では、服飾素材としての羊毛増産を図って羊を飼育する牧畜業者を増やすことが試みられていた。この際、羊毛のみならず羊肉をも消費させることで、収益率を上げ、積極的な羊の牧畜が行われることを期待したという。 しかし、当時の日本では羊肉を食する習慣がなく、為に羊肉料理の開発を行うことが国家によって要請された。これに応え、高等教育機関──当時は師範学校だが、その一つで料理研究が始まった。この際、烤羊肉を元にして開発されたのが、ジンギスカン鍋の始まりだという。 ……ところで、何故突然このようなことを聞いてきたのか。否、奴吾は問われれば何に対しても答えることを業務としているから、問題はないが。
現今アルターエゴの急増が見られる 創造主が消息を絶って以降も続々と何処からか現れては問題を起こす ジェネラギニョールの暴走も止まらない 参加者達の安全保護にもそろそろ限界が来ている ……奴吾はどうすれば良いのだ
世間様ではポッキーの日などと言われる、11月11日である。1の数字を細長い菓子に見立てていることは分かるが、例えば、野菜スティックの日、とか、ストローの日、とか、そんな風に呼ばれないのは、語呂の良さに加えて、製菓メーカーのマーケティングの成果もあろう。……これはギャグで言ったのではない。 ともあれ、日頃あまり買うこともないチョコ菓子をスーパーで手に取ったのは、こんな日にくらい食べてみようか、と思い立ったが故。帰宅してから、今日はこんな日らしいが、と、それを食後の食卓に出してみた。 「ぽっきー、ですか。成る程、1の数字に似ていますね」 菓子としての作り方に興味が湧いたのか、色々と角度を変えながら、彼女はじっとポッキーを見つめる。なんだかシュールな風景を見ている気もするが、深い興味を持って物事に触れるのは、何につけても良いことである。暫く見ていると、ふと我に返って、彼女はそそくさと袋にポッキーを戻した。 「ところで、箱の方に『ぽっきーげえむ』という言葉が書かれていますが、それはなんなのでしょうか」 えへん、と咳払いして続けられた言葉に反応してみれば、成る程、その通りである。はて、何処かで聞いた言葉のような気もするが……と、手元の端末で調べてみたところ、ジュブナイルの思い出作りにうってつけな『ゲーム』の内容が出てきた。 それを読み上げてみると、やや顔を赤らめながら、彼女はなんとなく納得したようだった。ゲームとしての勝敗が云々というより、それをすること自体に意味がある。そういうものに対する興味であったろうか。 食における最上等の娯楽である菓子を使って、そんな余興を楽しめる。考えてみれば、それは、彼女の生きた時代では考えられない奢侈であろう。文明の進歩、文化の遷移というのも、こんな些細なことからこそ感じるものである。否、現代であろうと、食の問題は完全に解決しているわけでもないのだが。 ……などと、色々考えていると、取り敢えず、食べてしまいましょうか、という提案が聞こえてくる。食後すぐにお菓子というのも些か気がひけるが、彼女の方が興味を持っているようで、そこまで言うなら……と、一袋だけ頂くことにした。 案外食べてみるとこういうものは手が動いてしまうもので、久しぶりに食べるチョコレートの味は、やや甘すぎるのを除けば、十分に美味しいと言えるものだった。気づけば、彼女と共に袋の中をほとんど空っぽにしてしまい、残るのは後一つだけとなってしまった。 こういう場合は自分の方が多く食べていることがざらなので、残りは其方が……と言うが、彼女の方も、私は十分に頂きましたから……となる。こうなるとお互い譲り合いの押し付けになってしまい、最終的にじゃんけんで決めるようなことになるのだが、今日は、彼女の方から引いた。分かりました、では……と、袋から残った一本を引き抜いたのを見て、珍しいこともあるものだと眺め——。 はい、どうぞ、と。その一本を、此方に向けて、その細い指で支えて。 「あーん」 ……これに対してどう対応したかは、此処では黙しておく。
ノワルナが姿を消してからジェネラギニョールの様子がおかしい… セーブモードで安定していたムーンセルを再起動するわ独自通貨やスキルをばら撒くわ 挙句の果てにあれだけ嫌っていた非日常である戦闘まで積極的に行っている 彼(あれ)が運営業務の中核を引き継いだ以上奴吾はそれを補佐することしかできないが 心配だ… どうにか彼(あれ)を元に戻すことはできないものか…
ハロウィン。ケルト系の人々の間で執り行われた祭祀を起源とする民間行事、と、辞書を引けば書いてある。が、そんな学術上の話を今日するのは野暮天というものであろう。 お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ、と子供達がご近所を巡る風景も、世界改変前にはあまり見られなくなっていたのだが。「天王寺」、旧新世界にあっては、住人同士の距離が近づいた為か、町内会がハロウィンを主催するようになっていた。 この家でも、玄関先にハロウィン参加者であることを示すジャック・オ・ランタン(キャスターのサーヴァントが作成した本物の魔除け機能付き)が飾られているため、何人かの子供達に市販のお菓子を分け与えた。コンコン、とノックの音がしたのは、また新しい来訪者であろう。 「はいはい、どちら様かな――」 「せんせー!!! トリックオアトリートォ!!!」 「うおぉぉぉぉぉっ!?!?? ……こ、ココノちゃんとツクシか」 「御免なさいセンセイ。トリックオアトリートです」 ……馴染み深い顔が、トリートを与える前にトリックを仕掛けてきたのも、まぁ、いつも通りといえばいつも通りの光景。ココノは、もふもふの手袋と犬耳カチューシャをつけた狼女。ツクシは……魔女であろうか。とんがり帽子に小さな魔法の杖を携えている。 常にはこんな行事に顔を出すような子でもないと思っていたのだが、ツクシには嫌がっている様子もない。彼女なりに楽しんでいるようで何よりである。 「ほらせんせー、お菓子くれへんかったら悪戯やでー!」 「擽りの刑くらいは、覚悟してくださいね?」 ……しかし参った。先程お菓子を切らしたので、今まさに買いに行こうとしたところなのだが。その旨を告げようとすると、後ろから歩み寄る足音が聞こえる。 「あら。こんばんは、ココノさん、ツクシさん」 割烹着を着た彼女だった。いつの間に繕ったのか、前掛けにはハロウィンらしく南瓜のアップリケがくっついている。今日は夕暮れから何やら台所に篭っていたようだが、どうしたのだろうか。 「あ、卑弥呼さん! こんばんはぁー!!!」 「お菓子をくれないと悪戯です、なんて、貴女に言うのは失礼でしょうか」 少女達が彼女にお決まりの文句を言う。半分程冗談交じりだったようだが、彼女はにっこりと微笑むと、懐から何やら小さな袋を取り出した。 「はい、では、可愛い狼さんと魔女さんに、お菓子をぷれぜんとしましょう」 「えっ? 本当ですか?」 「おーやったぁーっ! せんせーからやなくて卑弥呼さんから貰えた!」 ぽすりと、少女達に手渡す袋からは、微かに甘い匂い。少女達に説明して曰く、南瓜を練りこんだくっきー、らしい。そういえば昨日、買い物袋の中にそれらしいものを見かけたが……。まさか、こういう時の為に作っていたのだろうか。 はしゃぎながら駆け去っていくココノと、一礼してそれを慌てて追いかけるツクシ。二人を玄関口で見送りながら、隣で手を振る彼女を見やる。 「いや、有難い。お菓子を用意してくれとったんですな」 「えぇ。子供達が沢山来たら、昨日買った分ではきっと足りなくなるでしょうから」 微笑む彼女の手際の良さと気配りには、感服する。『千里眼』を使った訳ではあるまい。それを使うまでもなく、不足することを分かっていたのだろう。その辺は、些かばかりずぼらな自分とは比べもののにならないほど頼りになる。 「他の子供達に一通り配り終えたら、お夕飯にしましょう。今日は、かぼちゃを使った料理に挑戦してみたんですよ」 「これはこれは。是非ともそれを楽しみにさせて頂きましょか」 ……こんな日常を送ることになるとは、思ってもみなかった。少し前の己を顧みて、改めて思う。些細なことで笑いあって、当たり前のような幸せを享受できる、そんな日が来るとは。 何となく、しんみりとした気分になっていると、突然思い出したように彼女が言い出した。 「嗚呼。そういえば、私も言おうとしていたんです」 「はて。何をです?」 くるりと、此方に向き直り。どこから取り出したものか、鏡で自分の顔を下からライトアップしつつ、手をだらんと前に垂らして幽霊のポーズ。そして、 「とりっくおあとりーと!」 「……む」 やや、面食らう。こんな風に、自分も実践する側に回るとは思っていなかったが。暫し、驚いて呆然としていると、鏡をいそいそとしまいつつ、態とらしく彼女は言った。 「ああ、でも、亨さんはお菓子を持っていないんでしたね」 「はぁ。まぁ、そうなりますな」 「じゃあ……」 にんまりと。普段からは想像もつかない茶目っ気に満ちた笑顔で、彼女は言った。 「悪戯、しちゃいますね?」
――その後、「普段あまり笑わないから」という理由から、彼女に擽りの刑に処され、結果として家の外で阿呆らしいほどの大音声の笑い声を響かせることになってしまったが。まぁ、彼女の楽しそうな顔を思えば、些事であろう。
「奴吾に、貴君に危害を加える意図はない。それが叶う程の能力も持ってはいない。信じられなくば、武装解除にも応じよう」 言いつつ、自身が普段纏う鎧を解除。手に携えた白銀の剣は、鞘に収めて、離れた地点へ置きに行く。 「……あ、なたは、グーラを……傷づ、けません、か?」 「肯定する。加えて重ねるが、そも、奴吾に戦闘能力は殆どない」 そういって、一歩近づこうとするが、身体を震わせて、接近を拒絶する。無理を押しても良いことはない。大人しく、歩みを止める。 「……奴吾は、貴君の存在について問いたい。貴君は何者であるか。参加者か、それとも、創造主によって作られたアルターエゴか。現今頻発する辻斬りとの関連はあるか。これらの事柄についての、応答の可否を問う」 「……」 沈黙。何も浮かばない表情からは感情を読み取れないが、纏う雰囲気は、否定に寄っているように思われる。 此処で強いて聞き出せるならば苦労はないが、それができるほどの力はない。ならば、言葉を重ね、刺激を出力させないように、問うしかない。 「……無理を強いるつもりはない。それをするだけの力が奴吾にはない」 「えっ、あっ」 「ただ。これにだけは応えてもらいたい」 刺激しないように。簡潔な言葉で、要点のみを伝える。 「貴君は、奴吾らを傷つけることを望むか」 「……グーラ、は、そう、したくない、です」
「返答に感謝する。であれば、奴吾は貴君に対しこれ以上近づかず、早急に退去しよう。その意志の確認が、奴吾の主要任務であった」 ……意志の確認は一応取れた。虚偽である可能性は十分にある為、何の保証にもならない、というのが本来のところだが、ないよりはマシだ。 もし今後、彼(あれ)によると思われる辻斬りが頻発するようであれば、奴吾が居場所を特定して、今度は実働部隊に乗り込みを指揮する形になろう。 「あっ……」 「では失礼。重ねて、奴吾が貴君に恐怖を与えてしまったことを謝罪しよう」 鎧を再び展開。剣も回収し、エントランスの外へ。 今回直接遭遇したことで、対象の正体は判明した。今後は、ジェネラギニョールに対し、該当存在についての可能な限りの情報を伝え、辻斬りに関する警報を発することになるだろう。 それで被害がなくなるならば良し。まだ何か起こるようであれば、その時に対応策を打たねばならないが、今の奴吾にできるのは此処まで。 『情報抹消』が阻害するのは、一次的な記録であって、一度記録された情報の発信は止められないと記憶している。一度情報共有さえできれば、対応策も練りやすかろう。 今後の予定を思考しつつ、ジェネラギニョールの居場所を検索して、歩みを進める。 背後にいたはずの少女の姿は、いつの間にか消えていた。 ───そういえば。彼(あれ)は己をグーラと呼んだ。名を聞くことも忘れたとは些か仕事を急ぎすぎたが、一先ず、その名で仮に伝えておくことにしようか……。
「ひ──────」 喉の奥から絞り出したような声を残して、また影は消え去る。後には何の痕跡も残らず、ジェネラギニョールに要請してデータを確認しても、記録は残っていない。 ……しかし、奴吾の記憶には、それは残っている。 つか、つか、と、消え失せた辺りへと歩み寄る。其処に、それが存在した痕跡を探し当てる。足跡だった。こんなものまで再現している辺り、この世界はよく出来ている。 足跡の向かった方向と、これまでの痕跡のマッピングを比較し、暫くの検討の結果、おおよその居場所に目当てがつく。 シティの片隅。些か遠いが、行って確かめる必要はある。腰をあげて、歩き始めた。 創造主の消息が途絶える前、「野良サーヴァントらしき辻斬り」が発生するようになってから、この戦争を運営するものとして、何度か調査を行った。 そして、とうとう見つけたのが、先程見かけた影。しかし、近づくことも能わず、またたく間に逃げられてしまった。 何度か繰り返し、そしてそれについて他のアルターエゴに協力を要請した結果、何故彼(あれ)が逃げ続けられているのか、その理由も把握した。 『情報抹消』。高ランクのそれを有するサーヴァントは、自身の痕跡を機械の類にすら悟らせないという。成る程、調べても調べても記録は残っていないはずである。 それに対する抵抗力、「忘れない」ことに特化したこの霊基が、このような形で役に立つことがあるとは思わなかった。
……サーキットでインパティナツスの様子を影から確認し、其処を通り越してシティへ。 マップに指定した該当座標には、記録上は使用された痕跡のないビルが一つ。しかし、現地についてみれば、どう見ても人が定期的に通っている痕跡がちらほら。 埃が部分的に散り、足跡まで残されているエントランス部。足を踏み入れてみれば、そこここに証拠は発見できた。 これほど分かりやすく残っているものを発見できなくなるのだから、『情報抹消』とは見事なもの───。 「む」 「ひぃっ!?」 ……入り口からは見えぬ物陰に、いた。刀をひしと握りしめ、小さく縮こまって。 がたがたと震えていたのは、少女であった。此方に恐怖の眼差しを向けて、固まってしまった……恐怖? その藍の輝きから見えるのは、どう見ても、恐怖である。しかし、これまでの辻斬りに関する情報を総合すると、明らかな殺意による攻撃を行っていたはず。 それが、こんな少女から発せられるとは……などと、そんなことを思っているようではこの世界では始まらない。 相手はサーヴァント、若しくはアルターエゴである。いずれにせよ、人智を超えた存在であるのに変わりはない。警戒を解くことはできない。のだが。
「……」 ……この恐れようは、どうやら、心底から本当に奴吾を怖がっているもののように見受けられる。 辻斬りとしての凶暴性、殺意の発露は、今の所見られない。本当に、この少女が辻斬りなのであろうか。 アルターエゴであることは確認できるが、なにかの間違いで参加させられた一般人である可能性もある。 その恐怖の眼差しを受け止めて思案すること、十秒程。 「……奴吾に恐怖しているのであれば、酷なことをした。謝罪しよう」 「……え」
「……良い子だから。奴吾の言うことを、聞いてくれ」 「お――」 自身を押し倒している小さな身体に、手を伸ばす。 常に身に纏う鎧も展開を解除し、インナー越しに、彼女の裸体を抱き寄せて、背中を優しく叩く。 「貴君は、いつも良く我慢してくれている。衝動のままに動きたいだろうに、サーキットの中から出ないでいてくれる。偉いな」 「えへへ。そ、そうかー?」 「嗚呼。そうだとも」 叩いた手で、そのまま頭を撫でてやる。こうすると、宛ら犬や猫のように、彼女は目を細める。 くすぐったがる仕草を見せるが、それでも続けていると、段々と動きが落ち着いてくる。その瞳にも、少しだけ、情欲以外の色が見えてくる。 「インパティナツス。貴君は、己の衝動に従うようにデータが構成されている。しかし、全ての衝動に無条件に従ってはいない。我慢することも、少しだけなら出来ているのだ」 「そうかなー。あたし、ムリにガマンなんかしてるつもりはねーぞー」 「ならば、無理をしない範囲で我慢が出来ているということだ。それは、貴君にとって素晴らしい成果だろう」 これは、心の底からの賞賛だ。彼女というアルターエゴの設計上、衝動が発生したら、それに従わずにいることは難しいはず。 それでも、自身から伝えた「サーキットから出ない」という約束事、決まりは守ってくれている。 自身の根幹に反する行為がどれだけ苦しいかを知っているからこそ、其処には手放しの賞賛を送らざるを得ない。
「……そして、それだけ我慢できる貴君なら、奴吾との交合も我慢できないか?」 ――その賞賛に値する忍耐を、利用する。 創造主の言うことすら聞かない彼女が、多少なりともその意図に従っている。 それは、彼女からの指示を伝えた己に、何か特別な感情を抱いているからではないかと、彼は推定している。 彼女が強い執着を示した参加者の統計から、彼女が「一回り以上は年上の男性」を優先して狙う傾向が判明している。 基体となった人物の影響であろうか。恐らく、自身もそういった執着の対象となっているのだろう。だからこそ、彼女にとって難しいであろう我慢を、これまでずっと継続していられるのだろう。 それを、セディヴローモンは利用している。 情けのない手だが、有効だ。これまでも、渋る彼女に言うことを聞かせるときには、こうしてきた。 ……相手を謀るようで負い目を感じているのは、彼女に邪気がないからだろう。 これまで何回、衝動のままに動く彼女をあやしてやったろうか。両手で数えきれなくなったあたりから、覚えることをやめた。覚えるだけ、罪悪感が積もっていく。 「……んー。そんなに、セディヴローモンが言うなら……」 渋々、といった様子を包み隠さず、それでも、首肯してくれる。己とは違って素直な娘だと、自嘲交じりに感心する。 「有難う。よく我慢してくれたな」 「おー? でへへへへ……」 軽く、抱きしめる。これも、いつものルーチン。当人はこれで喜んでいるようなので、報酬として機能しているのだろう。 良い行為には、良い結果を。『良さ』を決めるのが自身だけでなければ、そんな当然の行為にも躊躇いは無かったのだが。 嘆息は飲み込み、無理やり、表情筋を動かして、ぎこちない笑顔を作る。彼女の求めるものは、出来るだけ与えてやる。それで、少しだけ自己満足ができるから。 「……では、その礼だ。交合や戦闘以外で、奴吾に出来ることを言ってみるといい。エリア修復まで、付き合おう」 「お! できることならなんでもって言ったな!そんじゃーなー、まずはー――」
アルターエゴ。人間が持つ一つの感情を核に形成された、人工の英霊。 月の聖杯戦争の裏側で、彼らの想いを、ムーンセルは観測する。
「インパティナツス。これはどうしたことか」 「うへへ……。なぁ、セディヴローモン。進化(エボルブ)しねーか?」
控えめに言っても、致命的な危機である。自身の置かれた状況を客観視して、セディヴローモンは思った。
サーキットの片隅。構成情報に綻びが出た為、目下修復作業中のエリア。 此処にいる月の聖杯戦争運営側きっての問題児、もとい問題エゴ、インパティナツスが何かしらやらかした余波であろうということで、現在該当エリアは、インパティナツス諸共隔離された状態にある。 其処へ、つい様子が気になって、顔を出しに来たのがセディヴローモンの不運である。 修復を管理するジェネラギニョールに一言連絡こそ入れているが、自身の情報をどれほど彼女が把握できているかは分からない。 運良く彼女の配下が巡回にでも来てくれない限り、救援は……当てにしない方が良かろう。 となれば、彼は自分だけの力でインパティナツスをどうにかする必要がある訳である。 ――筋力ステータスEが。 筋力ステータスCを。 しかも、相手は霊基改造だの進化だの、幾らでも自分を強化する手段持ち。 かなり、絶望的である。 (……然し諦める訳にもいかん。今ある手札でなんとかしなければ) 衝動に身を任せ、どこか一線を越えてしまっている瞳を見据える。 これが彼女の在り方とはいえ、それに巻き込まれてしまっては「それもよし」などとは言えない。 「……インパティナツス。奴吾は貴君と交合を行わない。奴吾の上から退いてくれ」 「えー? でも、わざわざ此処に来たってことは、あたしに会いに来たんだろ? そりゃもう嬉しくって……あ゛ーもう我慢できねぇ! ハメっこすっぞセディヴローモン!!!」 単純な要請による回避、失敗。 「奴吾はこの聖杯戦争を運用する立場にある。円滑な進行の為、貴君の特質によって奴吾が機能しなくなる可能性は避けたい」 「かーちゃんのことなんかしらねー。それにセディヴローモンは、この仕事したくねーんだろ? なら進化(エボルブ)してそんなのやめちまえばいいだろー!!」 道理による説得、失敗。 「……インパティナツス」 「お、なんだー? 進化(エボルブ)する気になったかー?」 ……彼自身の能力では、力技で彼女を退けることはできない。 必然、使うのは言葉ということになる。 しかし、彼女を相手に単なる論理ではどうしようもない。 また、こうするしかないか。そう内心で零しながら、セディヴローモンは、次の言葉を発した。
「はい、答えをどうぞ」 「……宇宙、ですか?」 「お見事」 さっきまで何も書いていなかった、大気圏の境界線の更に外側。其処に書き加えられたのは、私の発した答えである二文字。今や、人類の版図から遠く離れてしまった、遥かな空の彼方。 「偶然ってのはおもろいねぇ。届かんと思われとった領域(そら)に、人類は一旦は手ェ伸ばした。其処が実は、神秘を見出した7っちゅう数字に縁があるやなんてね」 黄、青、赤、様々な色のチョークで、『宇宙』のそばに小さな点を散らしながら、センセイは感慨深そうに言った。星、のつもりらしい。輪っか付きの黄色い奴は、土星だろうか。 ずっとずっと昔から、この星の遠くで輝くそれを見て、人は想いを馳せた。時には其処に物語を。時には其処に神威を。そして、時には其処に運命を。垣間見たそれらは、科学の光に掻き消される幻でしかなかったけど、その幻に、託したものもあった。朗々と、語り聞かせるように、センセイは言葉を紡いだ。
何となく、考え込んでしまう。 人は神秘を駆逐して、世界を拡大したという。その過程で消えていったものを、センセイは偲んでいる。 きっとそれは、それとして大事なものだったんだろう。 でも、じゃあ、人類の発展は間違いだったのだろうか? そうして積み重ねられてきた私達が生きる世界は、間違いなのだろうか。 「大気を6つに分けた向こう側。7つ目の天国(セブンス・ヘブン)ならぬ、7つ目の空(セブンス・スカイ)。 今や手放した宇宙こそ、人類の到達すべき至高天(アラボト)やったとしたら……。“聖杯”を受け入れた人間は、終生、飛び立てんのかもしれんなぁ」
終業のチャイムが鳴る。蛍の光が響く中、遠く夕日が沈んでいく。いつの間にか、私もセンセイも、眩しい黄昏を一緒に見つめていた。 ――「天王寺」が、今日も朱に沈んでいく。
「地球は大気で覆われとる、その通り。ほんで、この大気は幾つかの層に分けられる訳やな。成層圏とか名前聞いたことあるんちゃう?」 「はい。詳しくは知りませんけど、空の高いところ……くらいの意味、ですよね」 「まぁそうね。高度11kmから50kmまで。エベレストよりよっぽど高い所を指す訳や」 あ、でも海面上昇で高さの基準面変わっとるかも知らんな……。と考え込みながらも、チョークを使って、地表と大気圏の間を、さっき雲を分けたように分けていく。 ただ、今度入れられた線の数は5つ。大気圏が、6つの層に分けられたことになる。 「下から、境界層・自由大気・成層圏・中間圏・熱圏・外気圏。 今決められとる気象学上の区分やと、大気っちゅうんは、最大でこの6つに分割できる。 この辺は藤田先生の方が詳しいやろうね」 層ごとに少しずつ大気の性質が違って、例えば、普通高度が上がって大気が薄くなるほど温度は下がっていくけど、成層圏だけは、高いところの方が温度が高くなるとか。 それは、成層圏の上の方にオゾン層があって、そこで紫外線が吸収されて暖められるからだそうだ。 ……オゾン層? 「おっと、其処はまだやってなかったっけね」
オゾン。分子記号O3、酸素原子が3つくっついて出来る分子で、強い殺菌作用と紫外線の吸収効果があることで知られている。 オゾン層とは、このオゾンが集まって形成された層のことを指す。 慌てて書き加えられた説明を見て、そういえば温暖化の説明でその単語を聞いたことがあるのを思い出す。 オゾンが太陽から注ぐ紫外線を和らげてくれるお陰で、人間はお天道様の下で生活できるんだ、とかなんとか。これもやっぱり、センセイの授業で聞いたのだったか。 ともかく、こういう訳で、大気は6つの層に分けられる。それは分かった。 「でも、天国は7つに分かれてるんですよね。6つじゃ、1つ足りません」 「その通り。このまんまやと、7つ目の天国(セブンス・ヘブン)、アラボトに当てはまる部分がないように見える。ほなら、7つ目ってなんやろうな」
「何、って」 今私は、この6つでは足りないと言ったばかりだと思うんだけど。 それとも、7つ目が何なのか、私はもう答えられるということなのだろうか。 ちらりと視線をずらせば、センセイが微かに笑って、私を期待の目で見ていた。 多分、そういうことなのだろう。こういう時は、与えられた材料を元に私自身が考えれば、ちゃんと答えを見つけられるようになっている。 ならば、と、板書の内容を最初から追うことにした。
「うぅん……? あっ」 ずっと見ていって、もう一度地球と大気圏の図を見直して、気づく。 6つに分けられたのは、大気圏内の話だ。大気圏の『外』、それを、もう一つの領域として見做すなら。
「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教……所謂アブラハムの宗教て呼ばれる中東発祥の宗教には、天国いう概念がある。まぁ影見は多分知っとるやろうけどね」 カッ、カッ、と、妙にちんまりとしたチョークが、今時珍しい黒板の上を滑っていく。 白い粉が描いたのは、波立った線に不安定に立つ何人かの棒人間と、その上にふわふわ浮かぶ雲、そして羽の生えた棒人間。 どうやら、現世と天国を図示しているつもりらしい(……正直ちょっと分かりにくい)。 「この天国っちゅうんは、まぁ宗教ごと宗派ごとに解釈色々あるんやけど、おもろい考え方が一つあってね」 天国を示す雲から矢印を引き、拡大図を書く。6本の横線が描き入れられて、それは7つに分割された。 「一般社会でもオカルト界隈でも、後魔術世界でも、7は力ある数字やて言われるけど、これなんか分かりやすい例やね。 ユダヤの口伝律法をまとめた書物、タルムードにゃ、天国は7つの領域に分かれとるっちゅう話がある。 これを、そのまんま7つの天国っちゅうて呼ぶんやな」 7。 神が世界を創造するのにかけた時間。仏が生まれて直ぐに刻んだ歩数。ラッキーセブン。虹の色の数。あ、虹の色は国によって数が違うんだっけ。 でも、確かに色々なものに縁が深い数字だ。連想されるものを指折り数えてみると、案外7という数字にまつわるものは多い。
7つに分けられた雲に、1つずつ文字が放り込まれる。ラテン・アルファベットじゃない。 読めないけど、なんとなく、中東地域の言葉っぽさを感じる。それは間違っていなかったようで、これはヘブライ語らしい。 謎アルファベットに、センセイがカタカナで読み仮名を振り、それでようやく読み仮名が分かるようになった。 ヴィロン・ラキア・シェハキム・ゼブル・マオン・マコン・アラボト。下から順番に、こんな名前が付いているのだとか。 しかし、こんなことを急に言い出すなんて、今日の授業は、神学についてやるのだろうか。そういうのは希望した覚えがないけど。 「まぁ、それぞれの天国におる天使とか、宗教宗派による解釈の違いとか、そういうので魔術の解説してもええんやけど、今日はそれとは別の話にしよう」 違った。でも、此処からどう他の話に広がるというのだろう。 「この、人の常住する場所やない、『あちら側』の世界の区分けね。これ実は、地球の環境にも当てはまったりするんよ」 「……どういう意味です?」 地球の環境を7つに分ける。大陸は6つだし、7つの海って概念は人間が勝手に分けたものだし、地殻にもそんな沢山層はなかった……と思う。 はて、なんだろう。 ウンウン唸って考えてる私を見ながら、センセイは、天国の雲から更に矢印を引いた。 その先に、ちょっと歪な円弧を描く。この上にも棒人間が立っているあたり、これは多分地球の表面だろう。 「多分、まだ教えてなかったことやと思うから、此処で教えとこか。影見、地球は何で覆われとる?」 「えーと。空気?」 「正解」 突然聞かれて出てきた当てずっぽうは当たっていたようで、地球の表面から離れたところに、またもう一つの円弧。 二つの線の間を地球の大気圏として、と、黒板をチョークでトントンと叩いて、説明が始まる。
奴吾の知らぬ間に妙な同胞が大勢増えていた。 …ネイヴルサレナ、奇妙な縁であることは肯定するが、その服では身体を冷やす。捕まえないから其処で待て、すぐに礼装を誂える。 …リコリプレス、彼(あれ)もまた奴吾に想うところがあるようだ。何を裡に秘めるかなど知りようはないが、何故彼も下着をつけていないのか。 …インパティナツス、言ったことを守ってくれているな。宜しい。望ましくは、参加者を襲わなくなればよいのだが。それと下着は着けなさい。風邪を引くから。
レイラインの不調で魔力供給が出来とらん?参りましたなそら……。 差し当たり、俺の血ぃでも飲んでもらわんといかんですな。 血は穢れでもありますけんど、其処は堪忍してください。 血があかん言うことでしたら……あー、あんまり綺麗なもんでもないですが、涙か唾液かあたりでも貯めますかな。こっちは衛生的に宜しくないですが。
嵐である。 全球規模での温暖化の進行は海面上昇を引き起こし、為にモザイク市は海洋に浮かぶ孤島の如き様相を呈している。 故に、この超高層建築物は、夏の頃には旧世界同様台風に襲われる。それはおかしなことではない。 ……問題は、今の時期が夏ではなく秋も半ばの頃だということだ。 お陰で、仕事を片付けるのが遅れた自分は、大嵐の中、学校に閉じ込められてしまった。 これが自分の身一つであれば、何のことはない。これくらいの事は少なからずあった。ずぶ濡れになってでも帰っただろう。 しかし、彼女を連れているとなると話は別だ。 「困りましたね」 窓から、大嵐の空模様を見つめて嘆息する。その横顔に浮かんだ困惑に、胸が痛んだ。 自分の仕事を手伝ってくれるという厚意に甘えた結果がこれだ。多少無理を押しても、彼女だけでも帰すべきであったろう。 基本的に、宿直制度の配された学校に、まともに寝泊まりできる場所はあまりない。精々が、新人類には無用の長物であるのに何故か確保されている保健室程度か。 嵐の中に彼女を出すのは論外である。しかし、かといってこんな場所に彼女を留めなければならないのも、痛恨の失策である。深く、自省した。 「亨さん、ところで、どうしましょう」 保健室にて寝床の準備をしつつ、多少の後悔の念を抱いていた折である。彼女から、そんな言葉がかけられた。 彼女が指差しているのは、今まさに用意している寝床。 どうしましょうというと、と尋ねれば、まさに寝床をどうするかという話。どうするも何も、彼女が此処に寝て、自分は適当に待合の椅子にでも座して寝ようかと思うが、と答えれば、少し膨れた顔をする。 「──ダメです。貴方がべっどで寝てください」 とんでもない話である。私はサーヴァントだから別に眠らなくても良い、と彼女は言うが、そんなことで女性に不寝番じみた真似をさせられるほど厚顔無恥ではない。 全く道理にそぐわぬことなど百も承知だが、其処を曲げられるほど器用でもない。暫く、押し合いへし合いの問答が続いた。
──妥協の結果として、二人して一つのベッドにすし詰めになることになった。 阿倍野塔に落ちる落雷を聞きつつ、背中合わせに眠る。些かどころではない、同衾という大問題。男女七歳にして席を同じくせず。承知している。しかしお互いの意見をすり合わせたらこうなってしまったのだ。致し方がない。 ……サーヴァントである彼女が先に眠ることはないだろう。寝静まってから此方が抜け出すという手も使えまい。こうなってしまっては、素直に一緒に寝る他はない。 眼を瞑る。背中合わせに感じるのは、彼女のぬくもり。なるべく触れないように、少し距離を空けようとするが、もうこれ以上は動けない。 人肌。こうして触れたのは、果たして一体何時以来だったろうか。 「おやすみなさい、亨さん」 ──いつもよりもずっと近くで聞こえたその言葉が、妙に快い残響を耳に残していた。
遠い雷鳴が、微かに響いた。 窓から少しだけ見える阿倍野塔は、通天閣の明かりで輝いている。とても集雷機能のついた避雷針を兼ねているとは思えない。 他所の車両から持ってきた上等の座席に寝転んで、ガラスと豪雨の向こうに見る空は、昼間のようだった。あれだけ明るければ、妙なものも寄っては来ないだろう。いいなぁ、と、思わず言葉が溢れる。 しかし、と良く良く考えてみれば、昔は私も雷が怖かった。おばけは他よりずっと怖いが、他のものが怖くないわけでもない。それが、どうしてこれだけ平然と雷を見ていられるようになったのだったっけ。 ……少し記憶の底を浚えば、思い出が手に触れた。何でもない、私がもっと幼かった夏のあの日。この稼業を始めるよりも前のこと。
「雷様が怖いんか。そらそやわなぁ、あないにゴロゴロ言うとったら、ヘソ取られへんか心配になるわなぁ」 すっとぼけた口調で、それでも、決してウチの怖さを笑わないでくれた。真剣な顔。嘘も誤魔化しもない、ちょっと行きすぎなくらいの誠実さ。センセイは、その時もそれを見せてくれた。 「雷さんはな、ヘソ出しとるごんたがおらんか探し回っとるけど、仕事が大変なもんやから、探す時にもなるべく手間かけんと、ちゃちゃっとやってしまいたいんや」 それで、なるべく高い所に降りて、そこから周りを見渡すのだと。だから、雷の音が聞こえても、高い所に近づかなければ、雷様には見つからないし、ヘソも取られないよ、と。高いところから離れた場所にいれば、怖がる必要はないんだと。
きちんと学んだ今なら、センセイの言っていたことは分かる。魔術的にも科学的にも、決して正しくはない。しかし、なるべく子供にも分かりやすく、それでいて恐怖を道理で押し潰すのでもなく、納得を優先した語り方。 あの時のウチも、雷様がなんだかものぐさなおじさんのように思えてきてしまって。それから、雷様を怖がることはなくなった。勿論、落雷の音が聞こえると流石にびくりとしてしまうけど。それだけなら、きっと多くの人と一緒だろう。 ――閃光が、二つ、三つ。暫くして、ゴロゴロッ。ゴロゴロゴロッ。少し首を竦めて、遠くを見つめる。 雨はまだ止まない。けど、止まない雨はない。そうしたら、雷も止まるだろう。 それまで、少しだけ。たまには、ただの子供だった頃を思い出しながらゴロゴロしたって、怒られないはずだ。
……あー、うン。失敗だなこりャ。爆薬の調合弄りすぎたか。まーさか砲身が破裂するたァなァ。 一応鉄鋼の強度は確保した筈なンだがなァ……。 ……ンあ。こりャどうも、市長。態々甲板までお疲れさンです。 ……はァ。近所迷惑。黒珠艦隊のご老体もお冠。魚が逃げて……。副官も仕事を抜け出したのを怒ッてる。 そうは言いますがねェ。思い立ッたら試さずにはいられないのは、あンたも一緒でしョうが。 それに、一応至急の手続きだの決済だのは終わらせてる筈だ。ちョッと休ンだッてバチは当たらねェでしョうよ。 いだッ……え? ならよし? もッと励め? ご近所には話しておく? ……あンたのそういうとこ、本当に助かりますわ。じャ、宜しく頼ンます。 ……そうッスね。またなンかあったら、連絡くださいよ。ちッとは手伝いますから。
釣り糸を垂らす。浮きが沈めば引く。 動作として表せば至極単純なはずだが、何故だか、そうした行為には馴染むものがある。 漁労行為における豊漁祈願の祭祀、風俗、特段そんなものを研究で取り上げたこともない。 だから、馴染むも何もないはずなのだが。こうして垂らした釣り糸に引きがあると、微かに微笑みが浮かぶ。 人に言わせれば、これを趣味というのだそうだが。そんなものと自分に縁があるとは、この都市に来るまでは想像もできなかった。 竿を引き上げる。河豚だ。今日はよく此奴が釣れる。はて、河豚とは群れを作るような魚だったろうか。 足元のバケツを見れば、釣れた河豚が5、6匹ほど。時間としては数時間。釣果としては上々だろう。 さて、後はこれをどう処分するかだが。流石に河豚の調理師免許を持つ人員は記憶にいない。 テトロドトキシンを魔術の素材にでもするものがあれば良いのだが、ヴードゥー系の術者は居ただろうか。 …釣った後のこの時間は、我がことながら無為であろう。さっさと海に返せば良いものを、貧乏性が祟っている。 何故、捨てられないのだったか。ふと浮かんだ疑問は、潮の噎せるような匂いに飲み込まれて、消えた。
ゆめをみる。おとなになったしいなが、げんきにはしりまわるすがたを。 それはみらいのゆめ。しいながきれいに、そしてたくましくそだったみらいのゆめだ。 ……いまのしいなは、しょうじきちょっとやんちゃむすめであばれんぼうだ。げんだいでは、めすがき?というらしい。 らーどーんは「ギリシャ的には普通」とか「まだ可愛げがあるほう」というけれど。わたしはやっぱり、ちょっぴりしんぱい。 しいなには、とくべつなちからがある。かんたんにひとをなげとばせるちから。かんたんにひとをきずつけられるちから。 そういうふしぎなちからには、それにふりまわされないだけのつよいこころがひつようだけれど、いまのしいなには、まだそれはない。 このままだと、しいなはちからにひっぱられて、いつかどこかでかなわないものにであって、そうしていたいめにあってしまうだろう。 いたいめにあうだけなら、まだいい。ひとはころんで、たちあがり、せいちょうするいきものだから。 けれど、このせかいには。いたいいじょうのことをするちからもいっぱいあるから。しいながしんじゃうかもしれないものがたくさんあるから。 だからそのとき、しいながたおれず、たちあがってまえにすすめられるよう、わたしはここにいるの。 だってわたしは、しいなのおねえさんだから。しんちょうはまけてるし、ことばづかいもおさないけれど。 それでも、じんせいけいけんは、わたしのほうがうんとながいから。 だから、しいな。わがままでかわいい、わたしのますたー。 これからさき、いろんなことがあるとおもうけれど。わたしとらーどーんがいっしょにいるからだいじょうぶ。 だから、しいなのだいすきな、おうごんのりんごのかれーをいっぱいたべて。ふかふかべっどでいっしょにすやすやねて。 これからもすくすくと、げんきいっぱいにそだってほしいな。
「もー、まだ寝足りないのー?……しょうがないなあ、あと一分だけだから!」 「んぃー……ねるこは、そだつって、いうからー……すぴー」
ゆめをみる。おとなになったしいなとてをつないで、げんきにはしりまわるみらいを。 そんなひがおとずれるまで、ずっと、しいなといっしょにすごせるひびを。
「オい、マスター。腹がへったぞ。はやく食事にシろ、そろそろハンバーガー以外も食わせロ」 何時ものようにギドィルティが空腹を訴えてきた。毎日三食飯を与えているはずなのに腹が減ったと喚いている。 少し前にも腹が減ったといいながら俺の腕を齧っていたがコイツの食欲はどうなっているんだ。 そんなことを考えながら、唐突に今日が何の日だったかふと思い出した。 ハンバーガー以外が食べたいという不満を漏らす声を背に、俺は出かける準備を行う。 「オい、どこ行くンだマスター。腹がへったぞ」 「うるせぇちょっと待ってろ!おとなしく待ってねぇと飯食わさねぇぞ!」 声を荒げながら自身のサーヴァントにそう言い、抗議の視線を感じながら外へ出た。 しばらくしてから戻ってくると、早く飯にしろと言わんばかりの顔のギドィルティが椅子に座って待っていた。 「戻っタかマスター、イい加減腹が減ったぞ。はやく食事にシろ、どうせまたハンバーガーだロ」
ハンバーガーの何が不満なんだよ、と思いながらも抱えていた多数の紙袋をテーブルに置きながら、その中身を取り出していく。 大量のハンバーガー、何時もの食事内容。しかし今日はそれだけではない。 普段買っているハンバーガーのものではない紙袋から、白いクリームやイチゴで彩られたホールケーキを取り出す。 それもひとつだけではなく、様々なフルーツが特徴のホールケーキや、チョコレートケーキなどのホールケーキを多数取り出した。 「オお、なんダなんダ?今日はヤけに食事の量が多イな、ソれに今日はハンバーガー以外モあるナ」 「まぁ…クリスマスだしな、偶にはいいだろ」 「クリスマスか、よくワからんがハンバーガー以外のウマイものを食えルんダな」
ギドィルティはそう言いながら、楽しそうにどれを先に食べるか見定めている。 その様子だけ見ればただの小さな子供のようだな、と思う。 それと同時にもし自身に家族がいて子供がいれば、同じような感じなのだろうかという考えが浮かぶ。 愛する人がいて、愛する子供がいて、そんな普通の幸せな光景。 そんな光景が浮かび、そんな未来は来ないだろうと否定する。 何を勘違いしているのだろうか。俺にはそんな資格はない。俺に普通の幸せなど有り得ない――― 「ああそうダ、マスター。こういうトキに言うコトバがあったな。アリガトなマスター」 突然アイツはそう言うと、何時ものように大きく歯を見せながら笑顔を見せる。 何時もの見慣れた何でもない笑顔ではあったが、何故だが今日はその笑顔につられて自身も笑みを浮かべた。 「クリスマスだからな、偶にはな…」 これはただの気の迷い、だが今は。今だけは。 この気の迷いも悪くはないのかもしれない。
「うんうん、なカなかうまいぞ。りょうガあと1000倍あればいイんだがな」 「は…?おい、もうあれ全部食ったのかよ!ふざけんじゃねぇよ結構高かったんだぞアレ!それを一瞬で食いやがってクソッたれ!」
まずはサーモンブロックを豪快に切り刻む。 次にネギを輪切りに、大葉を茎を切り適度に千切り入れる。 そしてそれらを混ぜ、狂ったかのように包丁で叩きつける!! 醤油、おろし生姜、隠し味に味噌を少々入れ味を整え、完成だ! これぞ我が至宝「サーモンなめろう」! 米にもあえば日本酒にもあう! ああシソのアクセントが実に最高だ! やはり日本人は聖夜にも米と酒だ! 疲れも寒さも玄関も吹き飛ぶというものだ! どうした両石笑え笑え! 何? 玄関を吹き飛ばしたのは俺? ははは! 皆まで言うな! 玄関無しではその恰好は寒かろうよ何せ胸元丸出しだからな! 何なら俺の家に来るか? 床暖房完備だぞハッハッハッハッハ! などと冗談を言っていたら玄関の恨みを晴らさんとばかりに、 性欲増強剤を限界まで投与された両石お手製の改造性奴隷5体を着払いで送られた おのれ両石めこれほどの怒りとは! 玄関の恨みとはかくも恐ろしい! 親しき仲にも礼儀あり。俺は次からは丁寧に窓を割って侵入しようと 迫りくる両石の肉人形どもを殺しながら胸に固く誓ったのであった。
メリークリスマス! 霧六岡だ! 今年もこの季節と相成った! 実はこの俺、毎年ルナティクスらにクリスマス会の通達をしている。 のだが今年も例年通り参加者0人! 皆それ程までに忙しい労働の奴隷なのか! 聖夜すら祝えぬ悲しきエコノミックアニマルよ! だがそこに手を伸ばすが救い主! 厳重に鍵を掛けられた玄関をプラスチック爆弾で蹴破りサプライズパーティーの時間だ! よぉ両石! 諸人こぞりて! なんだその突如として台風が訪れたかの如き表情は!? 玄関が爆破され無くなった? それは気の毒に……。俺も最近もう一つの記憶において、 全身にダイナマイトの爆風を浴びて重傷と相成ったため爆弾の恐ろしさは非常に分かる! ようし!! 慰安の意も込めてクリスマスならではの食事を貴様にふるまってやろう! クリスマスといえば? チキンか? ケーキか? 断じて否!! 今宵の聖夜は鮭が支配する! 何故か? 巷ではシャケをクリスマスに食すが流行らしい。俺もそれに乗っかりたいと思う。 俺は流行に敏感な男だからな。なんだその時代遅れの軍服を羽織る男を見るような眼は?
昔から、この街のこの日は煌びやかに飾られる。 それは自分にとっては至極当たり前の景色であり、彼女から本当はそういうのではないと言われてさぞ驚いたものだ。 だから恐らくは、自分が生まれる遥か昔から続く伝統のようだ。 階層の吹き抜け部に鎮座する途方もなく巨大な樹木には、眩しいほどの電飾が巻きつけられ、 いつもの複合商店では様々な物品―――特に玩具とゲームがセールを始め親子が殺到する。 各居住区においては、家族水入らず、ケーキを囲んで聖夜を祝っていることだろう。 残念ながら、自分はその輪には入れない。 だが、より盛大なパーティーには参加している。 「―――!!皆、ありがとう―――!!!」 玉滴の汗を散らし、マイクを握りしめ直す。6曲目を歌い切り、ステージの熱気は最高潮。もはや先日からの寒波などどこ吹く風だ。
一昨年から始まった、自分とパーシヴァルのユニット「Ars-L」による聖夜ライブ。最初の年は息絶えそうなほどに疲れ果てていたのを覚えている。 肉体もそうだが、心も。思えばこの時期から活動が本格化し、同時に自分の時間の多くは仕事に費やされた。 勿論、都市軍の指揮官も、アイドルも。何れもがいつか王となる自分に課せられた責任であり、その責を放棄することは許されない。 許されない、のだが。それでも。拒否反応を示す心情を隠すことができなかった。 こともあろうにパーシヴァルの前で、泣き出してしまい……恥ずかしいので思い出すのはやめよう。 ―――だが、そんな不甲斐ない自分を、パーシヴァルは笑って街に連れ出してくれた。半ば強引に予定をキャンセルし抜け出したのだ。 その間だけは立場を忘れられた。一介の10歳ほどの子供として、求めていた喜びを享受することができた。 故に、その年の聖夜が終わる瞬間を、心から惜しんだものだが――― そこですれ違った者―――似た年の子供だったかもしれない、その者の顔を見て、唐突に頭が冷えた。 ライブ、楽しみだったのに。と。 ―――咄嗟に、歌い出した自分がいた。 パーシヴァルも最初は呆気に取られていたが、すぐに自分に続き、気づいた皆に囲まれてそこが新たなライブの会場となった。 奪われるだけでも、与えるだけでもない。 この聖夜を、この街だけの賑やかなクリスマスを、皆で共に楽しもうと。
「では7曲目!HappyHol(ida)y!いくよー!!!」 「―――と、その前に余はしばし遊びに行く故、皆探しに行くがよい!見事探究を果たした者は最前列でこの歌を贈ろう!!」 「ゆくぞ!騎士パーシヴァル!」
そして、これが第一回から続くお約束。 ラストの曲は梅田のどこか。否、この街全てを会場として歌う。 この街の、全ての人に届くように。
HappyHol(ida)y.Merry Xmas!!
聖なる夜。「天王寺」にサンタクロースが現れた、と、都市情報網では話題になっている。 聖ニコラウスが召喚された、或いは該当地域へ現れた、という情報もないから、当然多くの人々が驚き戸惑い、しかしその慶事を喜んでもいる。 事前にカレン・ミツヅリに根回しをしておいたのは正解だっただろう。空への道を断絶した世界も、この細やかな「飛ぶ」という奇跡を許してくれたようだ。 或いは、「この世ならざるもの」としての性質を宿す虚数魔術と、偉大な巫王の呪力による隠匿が、一時的にとはいえ効いたのかもしれないが。 しかし、ともあれこの寒い中、サンタをしてくれたツクシとスバル君、そして彼女にも、労いをしなければなるまい。 という訳で、自身の生活費から負担にならない程度に少しずつ削った金で以て、「難波」で人気のケーキを予約してあったものを引き取ってきた。 普段甘いものを好んで食べるところは見ないものの、土産の菓子などが食卓に出てきた時に顔が緩んでいるのは確認済みだ。きっと子供たちだけでなく、彼女も喜んでくれるだろう。 ……と、考えていたのだが。単身ケーキを受け取ってから帰ると、出迎えてくれた三人ともが何やらそわそわしている。 不思議に思いながらも、外からそれとわからないように覆ってあるケーキを取り出して、卓上に並べようとした途端、声が重なった。 「クリスマスケーキを買ってきました」。え、と思って彼女を見れば、ぽかんとした顔で、自分が買ってきたものと全く同じものを、冷蔵庫から出している最中だった。 顎が開いて戻らなくなった。ツクシは目を丸くした。そのまま、些か気まずい時間が流れた。 しかし、スバル君がにこにこ笑って言ったものだから、そのまま、誰ともなく吹き出してしまった。「おそろいですね。なかよしさんです!」 ああ、全く。仲の良いことだ。考えることまで似通ってしまうとは、確かに「なかよしさん」であろう。 結局、今日だけは「デザートのおかわりあり」だということで、各々、食べるだけ食べることにした。 体重を気にしてか、一切れだけで良いと言っていたツクシも、最終的には、スバル君に押されて二切れ目に手を伸ばしていた。 そのスバル君本人もまた、普段とは少しばかり様子の違う健啖ぶりを見せていた。曰く、「みんなでわけてるからへいきです」、とのこと。自分達4人で分けるから食べ切れる、ということだろうか? そして、彼女も。その所作は、いつもどおりに綺麗で静かなものであったが、いつも以上に柔らかい表情を浮かべていることは、すぐに見て取れた。 「美味しい、ですね?」 微笑むその言葉に、頷く。長らくこんな団欒を囲うことなど、なかったのだが。誰かと一緒に、祭日を祝うというのは、幾つになっても良いものだ。
聖なる夜。もう一人───いや、四人のサンタクロース達は、こうして、静かに時間を過ごしていった。
クリスマスですねカグヤさん! 今夜もとても美しいですねカグヤさん! クリスマスという日にカグヤさんの姿を見ることができて僕はなんて幸せなんだろう! 今までクリスマスを家族とか友達とかと何度も過ごしてきてどれも楽しかったけどここまで僕の心が浮き立つのはやっぱりカグヤさんだけなんだなぁ… ああ雪まで降ってきてホワイトクリスマス! カグヤさんの月のように綺麗な金色の髪に雪が映える! 今この光景を写真に収めるだけで歴史に残る写真が生まれること間違いなし! そんなカグヤさんを見ていると胸の内から言葉にできない気持ちがドンドン溢れ出てこれは…愛…! ああ聞きたい聞きたい!カグヤさんのピアノが聞きたい! むっインスピレーション湧いてくる! 聞いてください僕の気持ちを込めた歌を!ララララー!ラララー! 誰ですか今微妙な歌って言った人!すいません精進します!
街が愉快な、聞き馴染んだ音楽に溢れる時期。 私は決まってあの頃のことを……数年前までの日々を思い出す。 信頼出来る仲間が居た。志を同じくした親友が居た。私を見てくれる、大勢のファンが居た。 あの大舞台で……たくさんの光を浴びて。色とりどりの光の波を、ステージの上から眺めていた。 七色のペンライト、溢れんばかりの歓声、満ちる音楽。目を瞑れば今すぐにでも思い出せるのに。 ……街頭のショーウィンドウに積み重ねられた液晶に映るのは、美しい金髪を揺らす二人組。 妬ましい、と言うつもりもないし羨ましいわけでもない。 ならばこの胸に募る感情は……底のない穴を埋めようと、必死に物を投げ入れては落ちていく、そんな感情は。 …………後悔、なのかな。
聖夜。私が訪れたのは難波から遠く離れたモザイク市、名古屋。 この時期にのみ開催される特殊な大会……『SoD』の特別ルール版に参加すべく、遠路はるばるやって来たというわけだ。 都市軍のクリスマス会に参加するのも何だか気まずいし、かといって一人寂しく聖夜を迎えたくはない。 そしてこの鬱屈とした感情を少しでも誤魔化すように……私は、この薄暗く仄暗い排煙の街に降り立った。 光に溢れるあの舞台とはまさに真逆。こんな所に私が求めるものはないと……わかってはいても、それでも。 『おい、あれ……こるりんじゃねーの?』『マジかよ、この大会に出るつもりか?』『非リアの憂さ晴らしイベントに……』 参加者と思しき周囲の人々からは、そんな事を言いたげな視線がビシビシと飛んでくる。 ……わかってる。それでも、私はいてもたっても居られなかった。どうせもう……守るべきプライドもないんだし。 配信用のカメラをセットし銃器の手入れを済ませておく。まもなく時刻は0時を迎える頃。 どうせ何をしても気持ちが晴れないのなら……せいぜい暴れて暴れて暴れ倒して――――――――
「あっ……あの!」「……へっ」 意識の外から投げかけられた言葉に、思わず小さく声が漏れる。 目を向けるとそこに立っていたのは……自分の歳の半分ほどの、まだ幼い少年だった。 参加者……にしては少々若いか。いかにも新米といった出で立ちの少年は、その手に銃……ではなく、色紙を握り締めていて。 「コルリさん……ですよね。ぼ、ボク……い、いつもコルリさんの配信見てて……」 思いがけない言葉に唖然としてしまった。そしてたどたどしい言葉でその少年は、俯き加減で話を進める。 「立ち回りとか、凄くうまくて……いつも、参考にしてて……コルリさんのおかげで、ボク……初めて勝てて……」 「そ、その……えっと……だから……ボク、コルリさんの……ふぁ、ファンなんです……!」 ……緊張し、泳ぎながらもまっすぐとこちらを見据えるべく向けられた瞳。 純粋で、曇り無く……心の底からの真意で語られたその言葉に、私は思考を奪われてしまった。 ファン。私の、ファン?そりゃ私には……アイドルだった私には、数百ではきかない数のファンがいた。 でもそれは昔の話。アイドルファンなんて正直なもので、今では「私のファン」を名乗る人間などまず居ないだろう。 だというのに彼は……私のファンなのだと語った。私が活動していた頃にはまだ物心も継いていなかったであろう、その少年が。
ああ、そっか。 こんな私でも見てくれている人はいる。 表立って目に見えないだけで……画面の向こうで、私に憧れてくれる人がいるんだ。 その視線は、直接私の身体に届くことはないけど……カメラ越しに、ネット越しに。私を待ってくれている人が居たんだ。 今、目の前で向けられたその真っ直ぐな視線は―――――いつかあの舞台に立っていた時のような。 いや、あのときよりも心地良く……キレイな感触で。
「それで……も、もしよかったら……サインと、あ、あ、握手――――」 差し出された手を握り、少年の頭を撫でる。そして次に、生笑顔のおまけつき。 「……これでも昔はクールキャラで売ってたんだから。私の笑顔はプレミアモノよ?」 そんな言葉を返して立ち上がる。気がつけば試合開始の30秒前、そして聖夜を迎える30秒前だ。 どこか惚けた様子の少年も、カウントダウンを聞いて我に返ったか、頭を振るって己を鼓舞する。 ……立つ舞台は違うけれど。あの日見た光も、歓声も届くことはないけれど。 私を見てくれる人がいる。私を心待ちにして、画面の前で応援してくれている人がいる。 それだけで―――――――もう後悔も、迷いも無くなった。
『SoD:ホリデー・ナイト・フェスティバル!レディ――――――』
戦場より、メリークリスマス。 数年越しの皆へのプレゼント、楽しんでくれるかしらね?
「……辛気臭くなってしもたね。一旦この話は終わりにしよか」 「……はい」 手を一回、ぱちんと叩く。これでこの話はお終い。授業に戻ろう。いつも通りのとぼけた顔で、話を切り替える。 正直なことを言えば、センセイの昔話も気にはなるが、今は学びの時間だ。興味があっても、それは後回し。その代わり、必ず聞く時間は設けてくれる。 答えてくれるかどうかは別だとしても、そういうところへの気配りがあるのは有難い。ちゃんと話を聞いてくれているんだと、そう思える。 「さぁて。これで3つ、人間の身体の成長点を挙げてくれた訳やけど、まあ大体これが肉体的成長で代表的なとこやね」 これまで書いた内容と、男女の半身図の各部位を結びつけて、どういう場所が発達してくるかが示される。 こうして図で見ると、心臓や肺と身長なんかが大きくなってくるのは、多分連動しているのだろうな、と思う。 大きくなった肉体に、欠かさず血液を送り込む為に、連動して心臓が発達し、血に酸素を取り込む為に、肺の機能が主に発達してくるのだろう。 脳については、基礎部分が完成した後、それを補修して仕上げるような形で神経細胞の分裂が続くのだろうか。
面白いと思ったのが、センセイが書き加えた「成長・発達率の線グラフ」だ。 多くの機能が、大人になるにつれて少しずつ発達していくのに対し、免疫の機能だけは、思春期頃に、大人の頃よりもずっと発達しているらしいのだ。 「子供は風の子って言うんは、案外ほんまかもしらんね。実際に大人よりも元気を保つ機能がよく発達しとるんやから」 さっきとは違って、暗い色のない、何処か懐かしむような。さっきあんなに沈み込んだ重さを持っていた目と、同じ人間でもこんなに違うのだろうか、というほど優しい目。 それが向けられている先は、『適々斎塾』の敷地内に隣接して置かれている小学校の方向。 個人指導課程とはカリキュラムも違う為、あちらはもうお昼ごはんを食べ終わった後、昼休みだ。元気に遊んでいる声が聞こえてくる。 ……そんな風にして、「若いもんはいいなあ」なんて言う歳じゃないでしょ。とは直接言わないけど、本当に老け込んでいる。それで本当にまだ二十歳代なのか。
「……あれ。センセイ、線グラフにもう一つ説明がついてないのがありますけど」 ちょっと呆れながら板書していると、ふとそれに気がつく。線グラフは一本一本が別々のことについての数値を示しているはずだけど、一本、なんにも説明されてないグラフが。 「ん? ……あー。あー、あー、あー。それな。取り敢えず書いといて頂戴。詳しいことはまた別の先生が教えてくれはるから……」 「どういうことです?」 珍しい。センセイでは説明できないことでもあるのだろうか。基本的に何を聞いても答えてくれると思っていただけに、ちょっとビックリだ。 と、思ったのだが。言葉を濁していたセンセイが、観念するように絞り出した言葉で、色々納得した。 「其処はやな。所謂『性機能』に関する単元やから、俺が教える訳にはいかんのよ」 「……アッハイ」 ……それは無理だ。私も流石に其処について教わるのは嫌だ。うん。じゃあ仕方ないね。
結局その日は、その部分だけを避けて、教科書でそういう説明を受けて終わった。 センセイはなんともなかったけど、ちょっと私は顔が赤かったかも知れない。 ……ココノもおんなじことになったら恥ずかしがるよね。別に私が初心ってだけじゃないよね。
「宜しい。三つとも正解やね」 黒板の枠内に、先生が赤いチョークでくるっと丸を描く。 こうして目で見える形で評価されると、何だかんだ言っても嬉しいものだ。 回答のそれぞれに矢印がつけられて、そのまま解説が書き加えられていく。 「免疫機能、要するに病原体を排除して健康を保つ力。これっちゅうんは、病原体をやっつけるリンパ球を作る『胸腺』と、それを身体中に運び出す『リンパ管』に頼るところが大きいんやな」 「で、こういう器官は、小学校入る前後くらいから、影見と同じくらい、所謂思春期頃にかけて、急速に発達する」 男女の半身図の真ん中、胸のあたりに、内臓っぽいものが描き入れられる。これが胸腺というものらしい。 喉のあたりに増えたのは、リンパ腺だろうか。風邪をひくと、此処が腫れて痛い。それは、身体中にたくさんリンパ球を送って、身体を治す為の反応なのだそうだ。 「まぁ、“聖杯”のある今の人類には、こういう機能の発達はあんまり関係ないんやけどねぇ」
次いで、筋肉と骨。これについては、それ以外にもたくさん発達するものがあるのだとか。 「具体的には、内臓……特に呼吸器系の機能やね」 それは例えば、肺が成長することで、血液に酸素を取り込む効率が上がり、運動しやすくなるとか。心臓も同じように成長して、血液を身体中に送る力が高まるとか。そういうものらしい。 そういえば、小さい頃よりは……逃がしてもらったあの時よりは、走っても息切れしなくなった気がする。これは根拠のあることだったらしい。 「今のうちに体力はつけといた方がええよ。歳食ったら食うだけ筋肉もつきにくなるからね」 ……妙に実感のこもった言葉は、多分実体験からだろう。センセイが最近、朝早くから学校の敷地周りをジョギングしてひぃひぃ言ってるのを、私は知っている。 バレてないつもりらしいけど、ビオトープを手入れ中の西村先生がバッチリ目撃していたのだ。
最後に、脳について。さっき私が考えていたのは大体合っているらしく、脳細胞は、大体十八から二十歳くらいまで分裂を続け、そこから先は増えることなく減る一方になる。 機能としての完成は、大体六歳くらいまでに完了するそうで、小学生未満の時の記憶が朧げになりやすいのは、単に昔のことだから、というだけではなく、脳機能の発達が未熟だったから、という可能性もあるのだとか。 それでも鮮明に記憶に残っていることがあるなら、それは相当印象的なことなのだろう、とも。……成る程。やっぱりこれも身に覚えがある。 「今の時勢やと、生まれてからすぐに聖杯で調整したら、その辺も確実に記憶したまんま成長できるんかもしらんけど。流石にそれやったて話は聞かんなぁ」 「その時にあったことを後から忘れるなんて、その時には思わないですし。子供ならなおさらですよね」 「まさにその通り。今この瞬間考えとることなんか、ほんの一瞬で思い出せんようになるんにな」 どこか遠い目で見るセンセイの言葉は、センセイ自身の普段の主義あってこそだろう。 忘れられて消えることは、ただ死ぬよりも恐ろしいことだと。だから、覚えておかないといけないのだと。 「影見。写真でもなんでも、大切なもんは、忘れんうちに形に残しておきなさいね」 ……センセイが其処まで忘れることを恐れる理由を、私は知らない。きっと聞いても教えてはくれないだろう。 ただ、言っていることは、良く分かった。忘れてしまえることは、人間が生きていく為に必要な機能で。だからこそ、残酷なまでに優しい。
>> 53
もぐもぐもぐもぐもぐもぐ。
エンドレス咀嚼音を響かせリスのように頬を膨らませながら出店の食材をモグる少女がそこにいた。
彼女はリット。モザイク市を旅する新世代ワルキューレサーヴァントであり、
最近は羽休めとして天王寺に滞在し、そして今は住吉大社の屋台を食欲のままに食い荒らすリス系美少女である。
「……ん?お、ツクシちゃんにスバルくんや。やっほー、楽しんどるー?」
やってきた二人に気づき、顔を向け挨拶するも、食事の手は止まらない。
ちなみに彼女の隣で普段羽ばたいている白鳥のローちゃんと烏のメーちゃんは買った食事が詰め込まれたビニール袋を咥えているため会話に参加できない。断じて喋らせるのが面倒とかそういう理由ではない。いいね?
天王寺
「ご馳走さん! こっちの蕎麦も悪くねぇな。 しかし、蕎麦湯ねぇのが信じられねぇ
蕎麦湯まで飲んでこそ蕎麦ってもんだろうが」
年季の入った蕎麦屋から、上機嫌で出てきた男がいた。
男、水木トウマの顔は赤い、年越し蕎麦のついでに一杯引っ掻けたようだ。
あーだこーだ言いつつも蕎麦の味には満足だったらしくいつになく上機嫌で街を歩く。
相棒であるケルベロスは寒い中外には出たくないと家に籠っている。
年末の街中というのはどこも店は閉まり、人がいないと言うのにどことなく祝い事のような雰囲気があってトウマはそれが好きだった。
「ん……確かこっちは?」
だが、そんな独特の雰囲気とは違う賑やかな気配を感じトウマは首を傾げた。
方向と声のする距離を頭の中に入れた地図で照らし合わせ何があったか推察する。
「あっちは住吉大社か……二年詣りには早いが行ってみるか」
(あ……ボスが出てるのに紅白見るの忘れてた。ま、ケルベロスが録ってるだろ……)
トウマは軽やかな足取りで鼻歌なんて口ずさみつつ住吉大社へと向かった
特設のステージで、男が吠える。
飛び上がるように激しく、浮遊するように夢見心地のエクスペリエンス。
彼を知らぬ者の多くは話題性だけのアイドルと言い、彼を知る者の全てはKAWAIIと言う。確かにKAWAIIとしか言いようがない。
この舞台に選ばれた彼の実力は、本物だ。
自然と拳に力が籠る。それは感動ゆえか、あるいは。
しかして今は駆け出すべきではない。今の自分には何よりもやるべき使命がある。
「彼谷パルヴァライザーさんの『飛行型完全体』ありがとうございました!!」
時は大晦日。このステージはこの地域に古くから伝わる祭事―――紅白歌合戦の中心にある。そして、司会の大役を自分が務めているのだ。
「さて、そろそろ中間発表の時間であるな!今の段階では……白組が優勢である!皆の者ありがとう!」
ここで折り返し。しかしまだまだ気は抜けない。今年を駆け抜けた流星の如きアイドル達を代表し、自分はここに立つ。
側に立つ己の騎士は、今は紅組の司会……この一夜だけはライバルを名乗らせてもらいたい。
その気負いが眼差しに宿っていたのか、パーシヴァルもまた本気の視線を返す。
今年もあと僅か。1年間の想いを込めた、熱唱を此処に!
>> 55
そんな彼女の下に、近づく影が一つ。
「……おい、大丈夫か?」
普段羽織っているレインコートはなく、代わりに赤いジャージをセーラー服の上から着込み。
何時も携えていた無骨な機巧刀の代わりにチューハイの空き缶や日本酒の空き瓶がぎっしり詰まったビニール袋を持った。
そんな如何にも飲み会帰りな彼女の名は、逆神朱音。今目の前で酔いどれているアズキと同年代の少女である。
その袋の内容から、彼女もまた相当な量を飲んでいる筈なのだが……一杯でふらふらになってしまった彼女とは異なり、特に酩酊した様子もなく、顔はぽうっと赤くなってはいるものの、その足つきは確かなものであった。
「ほら、肩を貸してやるから……ここからだとウチが近いな、キツそうなら一辺吐いたほうがいいぞ」
慣れた手つきで今にも倒れそうなアズキの腕を取って体勢を支える。というのも彼女、実は先程まで雀荘で大暴れしており、そんな彼女に一足先にお年玉を振り込んだ挙句ヤケ酒で酔い潰れた、最近知り合った青年を送り届けていたのだ。
ぐでぐでヨットマンを丁寧にベッドに寝かせ、わざわざ律義にゴミを持ち帰っている最中に、こうして同じく酔っ払った彼女と出会い、いつものようにお節介を焼きに近寄ったのだ。
>> 55
「……大丈夫ですか?」
そんなアズキに、声をかけるものがいた。寒空の下、更に寒さを感じさせるような冷めた色のパーカーに、丈の長いスカートを身につけた少女。
顔を見てみれば、それを何処かで見たことがあるのにも気がつくだろう。しかし、それを何処で見たのだったか。中々思い出せない。そんな、地味な顔立ちであった。
それが、無表情なまま、いつの間にか立っている。声をかける割りには、その声音に心配の色はない。青い瞳が、透明な輝きを湛えているばかり。
年末の難波、道頓堀。
過ぎゆく年を楽しく祝おうと、人混みで賑わう繁華街にて。
「……ぅ、ひっく……」
人混みから少し離れるように歩く、千鳥足の少女が一人。
いつもは仏頂面のその顔は仄かに赤く染まり、固く締まっているはずの口元も、今日はどこか緩んでいる様子。
堅苦しい雰囲気はどこへやら、着崩されたシャツの胸元からは、僅かに肌色が覗いている。
……数時間前、彼女、鴈鉄アズキが所属する武装警邏隊で年内最後の忘年会が行われた。
周りは一回り以上も離れた年上の男性ばかり。そんな中に、娘のような年齢の少女が放り込まれればどうなるか。
あれ飲めこれ飲めそれ食べろ、と。蝶よ花よと愛でられて……そんな雰囲気に流されてしまった結果……
軽い気持ちで飲んだハイボール一杯で、まさかここまで酔ってしまうなんて。
「ふらふらする……あつい……はやく、かえらないと……ぅ、ぷ……」
覚束ない足取り、酩酊が見て取れる表情は、この人混みの中でも一際目だって見える。
/絡み待ちです。他の都市泥の方もどんどん自分なりの年越しイベントを起こしてみて下さい。
年の暮れなど、彼女の暮らしには関係なかった。仕事があれば関係なく引き受けるし、仕事がなくても、別段特別なことをするわけではない。同居人 が。この子に、それまでと同じ、“普通ではない”年越しをさせるのは、少し気が引けた。
年越しそばなど、彼女が小学校に入る前に食べたっきりだ。だから、今年もそうするものだと思っていた。
……だが、今はスバルがいる。何も知らない、本当の子供のような
という訳で、影見ツクシは、もこもことしたコートに身を包み、スバルにはもっともこもこしたジャンパーを着せ、「天王寺」の天王寺町にある住吉大社へと足を運んでいた。
此処では、毎年年越しを共に祝うイベントが開かれている。ちょっとした出店じみたものなどもあり、その雰囲気はお祭り宛らだ。
「……こんな風になってたんだ」
「ひとがたくさんです。みんな、なにをしているのですか?」
「もうちょっと待ってれば、分かるよ」
そうして、あちこちを見やるスバルの手を引き、彼女は境内をふらふらと彷徨っていた。其処此処に、見覚えのある顔がある。
「○○○○(クソッ)!」
角を曲がった先にある、道を遮る瓦礫と凄鋼の巨大複合物を目にしたイーサンは、乱暴に舌打ちをする。
ロストHCUが存在する地点の目星がかろうじてつき始めたと思ったらこれだ。
「神戸」内部は一見すると人気のない市街地のようだが、実際には天然、いや人工か、の迷路ようなものだ。
暴走した自動開発プラントと凄鋼によって構造自体が狂っており、しかもそれが変化し続けている。
それに加え、クソッタレな無人兵器がうろついていて、見つかろうものなら容赦なく攻撃を加えてくる。
要するに、ここで迂回路を探そうものなら、お宝は二度と見つからない可能性が高いってことだ。
イーサンは携行していたAA-12を苛立ちのままに構え、目障りな塊に銃口を向けて引き金を引こうとしたところで、思い直して指を離す。
そして、自分でもわざとらしいと感じるほどに大きくため息をつき、呼気とともに湧き上がる感情を吐き出す。
ショットガンではこの障害物を破壊できないし、AA-12をグレネードとして使用するために特殊弾薬のFRAG-12を使ったところで結果は大差ないだろう。
そしてなにより、弾薬はタダではない。
「ったく」
と思わず口に出してしまうが、その続きは口にするには惨めすぎるので何とか飲み込む。
俺の人生はいつだってこうだ。
そんな言葉は他人には聞かせられない。
特に、自分のサーヴァントには。
「お、どうしタ」
後ろからついて来ているギドィルティ・コムが、なんとなく違和感のあるイントネーションでイーサンに声をかけてくる。
「見ての通りだギドィルティ。こいつが通せん坊ってわけだ」
振り返ったイーサンはAA-12で瓦礫と凄鋼でできたオブジェを指す。
「なるホど。オレの出番ってわけだナ」
それを聞いたギドィルティ・コムは、いつになく素直な様子で口を開くと、羽織ったパーカーのポケットに手を突っ込んだまま障害物に近づく。
ギドィルティ・コムと入れ替わるように、イーサンは数歩後ずさる。
ほとんど不死身のようになった体とはいえ、「これ」は何度見ても本能的な忌避感がある。
ギドィルティ・コムが大きすぎる口をぱかりと開くと、その周囲に巨大な口のような幻像が現れる。
はっきりと目に見えているかは分からないが、それが口であるということだけはなぜか明確に分かる。
そして、ギドィルティ・コムががちりと尖った歯を噛み合わせるのと同時に、巨大な口も閉じる。
そこに残ったのはボリボリガリガリと硬そう音を立てて何かを噛んでいるギドィルティ・コムと、大きく削り取られた障害物だ。
その断面は、特大のハンバーガーに思い切りかぶりついた時にできる跡とでもいえばいいだろう。
これは、ギドィルティ・コムにとってはまさに食事なのだ。
目の前に恐るべき捕食者がいるという脅威が、これほどまでに本能的に嫌な感覚を引き起こすのかもしれない。
咀嚼していた何かを飲み込んだギドィルティ・コムは、イーサンに視線を向ける。
それに対してイーサンはうなずいて返す。
何を考えているのか分からないやつだが、たまにはこれで通じるようになった。
ギドィルティ・コムは、大きく削れたものの穴が空くには至っていない障害物に向き直る。
「そうイえば、あのクリスマスケーキっテやつは中々ウマかったゾ」
そう言ってから、今度二口三口とかぶりつく。
ギドィルティ・コムは空いた穴の前でイーサンに向き直ると言葉を続ける。
「でだ。年が明けるト、この国ではモチとかいう白くてノびるもの食べルらしいな。今度はソれをよこセ」
イーサンは思わず苦笑する。
ある意味では、何を考えているのかこの上なく分かりやすいか。
「うるせえ。ハンバーガーで我慢しろ」
「もう飽きタ。それに天使町ラーメンとギョウザもマだ食ってないゾ」
イーサンは、ギドィルティ・コムの恨みがましい視線と言葉を受け流しつつ、空いた穴を通って先へ進む。
後ろからギドィルティ・コムの足音が聞こえる。
もっと扱いやすいサーヴァントの方が良かったと思うことも正直あるが、これはこれで悪くない。
ま、お目当てのブツが首尾よく手に入ったらモチってやつを買ってやるよ。
言質を取られても面倒なので、イーサンは内心で付け加えた。
収監者参號は、セクターゼロ標準収容独房の中央に安置されます。
収容独房にはサーモグラフィカメラを設置し、常に収監者参號の温度上昇を監視します。
想定される変化量を上回る温度上昇が確認された場合は、即座に封鎖プロトコル“望まれぬ篝火”を発動します。
収容独房の管理維持は、耐熱加工及び指定されたキャスターのサーヴァントによる魔術的強化を施された無人ドローンによって行います。
いかなる事情があろうとも、生死を問わず生命体が収容独房に立ち入ることは禁止されています。
今日は珍しく、彼女が夕刻まで外出している。これほど早く帰宅することは、彼女を召喚してからは初めてかもしれない。
帰宅した時に迎える声がないことに、酷く面食らい寂しさを覚えるようになってしまった。何とも、以前の己からは大きく変わったものだと、妙なところで感慨深さを覚える。
ともあれ、彼女がいないのであればやるべき事がある。夕食の準備だ。普段は彼女にお世話になりっぱなしだが、インスタント食品に頼り気味だったとはいえ、これでも自炊していた身である。
彼女に何もかもを頼りきりになるような堕落した真似をするつもりもなく、普段の恩義も兼ねて、これくらいはやらねばならぬ。
というわけで、彼女ほどのものではないが、男鰥の雑な料理をいそいそと始めることとした。作るのは、鍋である。
この頃はよく冷える。温暖化したとは言っても、冬季の冷え込みに歯止めがかかるものではない。鍋の一つでも作って、よくよく温もろうという算段である。
放り込む具材として、冷蔵庫からあるだけの野菜を引っ張り出す。ネギ、白菜、人参、大根、豆腐、まずまず一般的な具材は揃っている。
加えて、買って帰ってきた鶏肉、豚肉、マロニーにえのきやしめじも加えて、今日の献立は水炊き鍋である。
出汁を昆布で取りつつ、通り一遍具材を切る。暇があれば鶏肉を煮込んで少しくらいはスープを取りたいところだが、そんな間はないので、粉末の鶏がらスープを入れて間に合わす。味を見て、少し薄味だったので味の素を少々つまみ入れる。
味が整ったところで、煮えにくいものからポンポンと具材を放り込む。難儀するのがマロニーで、幾ら溶けにくいとはいっても茹で続けるとくたくたになってしまう為、入れるタイミングには要注意である。
彼女であれば見た目にまで気を払うのだろうが、粗雑な自分では、やればやるだけ具材を滅茶苦茶にするのがオチであろう。多少具材の入れ方を丁寧にする程度でお茶を濁す。
具材が煮えてきたら、次いでシメのうどんも軽く水でほぐして用意しておく。まだ足りなければ雑炊でも、と思ったが、それは流石に彼女に食べ過ぎだと言われてしまうだろう。
そもそも、今の段階でも具材の量が多い。つい嘗ての要領で作りすぎてしまうのは、今となっては直した方が良い癖だろう。ここは自重することにする。
「只今戻りました。お待たせしてすみません」
……と、この辺りまで準備したところで、彼女が帰ってくる。都合が良いな、と思ったが、よく考えてみれば、彼女は『千里眼』を持っているのである。此方の準備に合わせて帰宅することなど造作もなかろう。
これは寧ろ、彼女を労うはずが、逆に気を遣わせて帰りを急かしてしまっただろうか。情けのない気分に陥るところを、しかし、拾い上げてくれるのも、やはり彼女である。
「私がそうしたいと思ったから、そうしたんです。貴方と一緒に、食卓を囲みたいと思ったから」
……このような殺し文句を言われて顔を綻ばせない人間がいれば、ひとつお目にかかりたいものである。全く以て、彼女には終生勝てる気がしない。
その後は、いつも通りの光景である。ひとり、ひとり、食卓を挟んで向き合う。拍手ではなく、もっと単純な、当たり前の祈り。頂きます、と、細やかな声が二つ重なった。
いい夫婦の日というものが、世の中にはあるという。
多分センセイに聞けば色々教えてくれるのだろうけれど、私は特に興味がないので聞かないことにする。
そんなことより、センセイと、そして卑弥呼様のことだ。
あの二人。“聖杯”ならぬ《聖杯》が紡いだというあの縁は、傍目に見れば「いい夫婦」そのものだ。
よく働き、そして疲れ果てて帰ってくる夫を、家を守りながら待つ妻。
今時時代錯誤かもしれないが、あの二人を見ていると、そんな関係性が極自然なように思えてくるから不思議なものだ。
だから、私はてっきり、二人ともそういう仲なんじゃないか、と思ったりもしたのだが、そうではないらしい。
他にも沢山そう思っている人はいるようだが、聞かれる度、口裏をあわせている訳でもないだろうに、そういう間柄ではない、と答えるのだ。
……男女の仲は、恋だけではないと、そんな小説を読んだこともある。
ただ、それを実感を以て理解するには、きっとまだ生きた時間が足りていない。
「スバル。君は、どう思う?」
「……? なにが、でしょうか?」
「……ごめん。忘れて」
「そうですか。では、ハービンジャーはわすれることにします……あふぅ」
秋の半ばを通り過ぎ、寒くなってきた夜半。低く唸る家庭用発電機の音をBGMに、スバルと二人で空を見上げ、眠るまでの時間を過ごす。
それが、この子を預かってから、私の日常の一部になっていた。
座席を改造したソファーは、そのままベッドにもなる。他に寝床もないから、私とこの子は、二人で一つのソファーを使って眠っている。
……自分のサーヴァントでもないのに。家族のように接して。滑稽だ。だけど、それでも、私はこの時間を、失いたくはないと思っている。
目は、随分重たそうに持ち上がっている。眠気を隠せない、そのあどけない表情からは、この子がサーヴァントであるという事実を読み取ることは出来ない。
まるで、今を生きている人間のような。だからこそ、私は、それを愛おしく思って、手放す覚悟ができなくて。
「いい夫婦、かぁ」
……センセイと卑弥呼様を思い出すのも、スバルと離れられないのも。
その暖かさに、惹かれるからだろうか。
夫婦のように、或いは、一つの家族のように。一緒に過ごす温もりが、欲しいからだろうか。
あの二人のように。比翼の鳥、連理の枝、偕老同穴の契りを結ぶような、そんな、かけがえのないものが。
……スバルは、すっかり寝息を立てている。その寝顔に浮かんだ微笑みは、何処か、嘗ていたはずの少女の姿を連想させる。
きっと、ウチ/私には、許されない。逃がされたウチに、逃がした私に、その権利はない。
だから、少しだけ。君の赤銅の髪に触れて、いつか失われるその柔らかな暖かさを、少しだけ。
「君が、ウチのサーヴァントだったら、なあ……」
ジンギスカン……13世紀にモンゴル帝国を築き上げたかの成吉思汗から名を頂いたという、羊肉を用いた日本の料理だ。
遠征中のモンゴル軍において食されたとも言われるが、実際のモンゴル料理との乖離を鑑みるに、俗説の域を出ん。料理としての直接的なルーツは、イスラム系の異民族である回族の料理、烤羊肉(カオヤンロウ)にあろうと推定される。
料理として成立したのは20世紀初頭の日本であり、この時期近代化を迎えた日本では、服飾素材としての羊毛増産を図って羊を飼育する牧畜業者を増やすことが試みられていた。この際、羊毛のみならず羊肉をも消費させることで、収益率を上げ、積極的な羊の牧畜が行われることを期待したという。
しかし、当時の日本では羊肉を食する習慣がなく、為に羊肉料理の開発を行うことが国家によって要請された。これに応え、高等教育機関──当時は師範学校だが、その一つで料理研究が始まった。この際、烤羊肉を元にして開発されたのが、ジンギスカン鍋の始まりだという。
……ところで、何故突然このようなことを聞いてきたのか。否、奴吾は問われれば何に対しても答えることを業務としているから、問題はないが。
現今アルターエゴの急増が見られる
創造主が消息を絶って以降も続々と何処からか現れては問題を起こす
ジェネラギニョールの暴走も止まらない
参加者達の安全保護にもそろそろ限界が来ている
……奴吾はどうすれば良いのだ
世間様ではポッキーの日などと言われる、11月11日である。1の数字を細長い菓子に見立てていることは分かるが、例えば、野菜スティックの日、とか、ストローの日、とか、そんな風に呼ばれないのは、語呂の良さに加えて、製菓メーカーのマーケティングの成果もあろう。……これはギャグで言ったのではない。
ともあれ、日頃あまり買うこともないチョコ菓子をスーパーで手に取ったのは、こんな日にくらい食べてみようか、と思い立ったが故。帰宅してから、今日はこんな日らしいが、と、それを食後の食卓に出してみた。
「ぽっきー、ですか。成る程、1の数字に似ていますね」
菓子としての作り方に興味が湧いたのか、色々と角度を変えながら、彼女はじっとポッキーを見つめる。なんだかシュールな風景を見ている気もするが、深い興味を持って物事に触れるのは、何につけても良いことである。暫く見ていると、ふと我に返って、彼女はそそくさと袋にポッキーを戻した。
「ところで、箱の方に『ぽっきーげえむ』という言葉が書かれていますが、それはなんなのでしょうか」
えへん、と咳払いして続けられた言葉に反応してみれば、成る程、その通りである。はて、何処かで聞いた言葉のような気もするが……と、手元の端末で調べてみたところ、ジュブナイルの思い出作りにうってつけな『ゲーム』の内容が出てきた。
それを読み上げてみると、やや顔を赤らめながら、彼女はなんとなく納得したようだった。ゲームとしての勝敗が云々というより、それをすること自体に意味がある。そういうものに対する興味であったろうか。
食における最上等の娯楽である菓子を使って、そんな余興を楽しめる。考えてみれば、それは、彼女の生きた時代では考えられない奢侈であろう。文明の進歩、文化の遷移というのも、こんな些細なことからこそ感じるものである。否、現代であろうと、食の問題は完全に解決しているわけでもないのだが。
……などと、色々考えていると、取り敢えず、食べてしまいましょうか、という提案が聞こえてくる。食後すぐにお菓子というのも些か気がひけるが、彼女の方が興味を持っているようで、そこまで言うなら……と、一袋だけ頂くことにした。
案外食べてみるとこういうものは手が動いてしまうもので、久しぶりに食べるチョコレートの味は、やや甘すぎるのを除けば、十分に美味しいと言えるものだった。気づけば、彼女と共に袋の中をほとんど空っぽにしてしまい、残るのは後一つだけとなってしまった。
こういう場合は自分の方が多く食べていることがざらなので、残りは其方が……と言うが、彼女の方も、私は十分に頂きましたから……となる。こうなるとお互い譲り合いの押し付けになってしまい、最終的にじゃんけんで決めるようなことになるのだが、今日は、彼女の方から引いた。分かりました、では……と、袋から残った一本を引き抜いたのを見て、珍しいこともあるものだと眺め——。
はい、どうぞ、と。その一本を、此方に向けて、その細い指で支えて。
「あーん」
……これに対してどう対応したかは、此処では黙しておく。
ノワルナが姿を消してからジェネラギニョールの様子がおかしい…
彼 が運営業務の中核を引き継いだ以上奴吾はそれを補佐することしかできないが 心配だ…彼 を元に戻すことはできないものか…
セーブモードで安定していたムーンセルを再起動するわ独自通貨やスキルをばら撒くわ
挙句の果てにあれだけ嫌っていた非日常である戦闘まで積極的に行っている
どうにか
ハロウィン。ケルト系の人々の間で執り行われた祭祀を起源とする民間行事、と、辞書を引けば書いてある。が、そんな学術上の話を今日するのは野暮天というものであろう。
お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ、と子供達がご近所を巡る風景も、世界改変前にはあまり見られなくなっていたのだが。「天王寺」、旧新世界にあっては、住人同士の距離が近づいた為か、町内会がハロウィンを主催するようになっていた。
この家でも、玄関先にハロウィン参加者であることを示すジャック・オ・ランタン(キャスターのサーヴァントが作成した本物の魔除け機能付き)が飾られているため、何人かの子供達に市販のお菓子を分け与えた。コンコン、とノックの音がしたのは、また新しい来訪者であろう。
「はいはい、どちら様かな――」
「せんせー!!! トリックオアトリートォ!!!」
「うおぉぉぉぉぉっ!?!?? ……こ、ココノちゃんとツクシか」
「御免なさいセンセイ。トリックオアトリートです」
……馴染み深い顔が、トリートを与える前にトリックを仕掛けてきたのも、まぁ、いつも通りといえばいつも通りの光景。ココノは、もふもふの手袋と犬耳カチューシャをつけた狼女。ツクシは……魔女であろうか。とんがり帽子に小さな魔法の杖を携えている。
常にはこんな行事に顔を出すような子でもないと思っていたのだが、ツクシには嫌がっている様子もない。彼女なりに楽しんでいるようで何よりである。
「ほらせんせー、お菓子くれへんかったら悪戯やでー!」
「擽りの刑くらいは、覚悟してくださいね?」
……しかし参った。先程お菓子を切らしたので、今まさに買いに行こうとしたところなのだが。その旨を告げようとすると、後ろから歩み寄る足音が聞こえる。
「あら。こんばんは、ココノさん、ツクシさん」
割烹着を着た彼女だった。いつの間に繕ったのか、前掛けにはハロウィンらしく南瓜のアップリケがくっついている。今日は夕暮れから何やら台所に篭っていたようだが、どうしたのだろうか。
「あ、卑弥呼さん! こんばんはぁー!!!」
「お菓子をくれないと悪戯です、なんて、貴女に言うのは失礼でしょうか」
少女達が彼女にお決まりの文句を言う。半分程冗談交じりだったようだが、彼女はにっこりと微笑むと、懐から何やら小さな袋を取り出した。
「はい、では、可愛い狼さんと魔女さんに、お菓子をぷれぜんとしましょう」
「えっ? 本当ですか?」
「おーやったぁーっ! せんせーからやなくて卑弥呼さんから貰えた!」
ぽすりと、少女達に手渡す袋からは、微かに甘い匂い。少女達に説明して曰く、南瓜を練りこんだくっきー、らしい。そういえば昨日、買い物袋の中にそれらしいものを見かけたが……。まさか、こういう時の為に作っていたのだろうか。
はしゃぎながら駆け去っていくココノと、一礼してそれを慌てて追いかけるツクシ。二人を玄関口で見送りながら、隣で手を振る彼女を見やる。
「いや、有難い。お菓子を用意してくれとったんですな」
「えぇ。子供達が沢山来たら、昨日買った分ではきっと足りなくなるでしょうから」
微笑む彼女の手際の良さと気配りには、感服する。『千里眼』を使った訳ではあるまい。それを使うまでもなく、不足することを分かっていたのだろう。その辺は、些かばかりずぼらな自分とは比べもののにならないほど頼りになる。
「他の子供達に一通り配り終えたら、お夕飯にしましょう。今日は、かぼちゃを使った料理に挑戦してみたんですよ」
「これはこれは。是非ともそれを楽しみにさせて頂きましょか」
……こんな日常を送ることになるとは、思ってもみなかった。少し前の己を顧みて、改めて思う。些細なことで笑いあって、当たり前のような幸せを享受できる、そんな日が来るとは。
何となく、しんみりとした気分になっていると、突然思い出したように彼女が言い出した。
「嗚呼。そういえば、私も言おうとしていたんです」
「はて。何をです?」
くるりと、此方に向き直り。どこから取り出したものか、鏡で自分の顔を下からライトアップしつつ、手をだらんと前に垂らして幽霊のポーズ。そして、
「とりっくおあとりーと!」
「……む」
やや、面食らう。こんな風に、自分も実践する側に回るとは思っていなかったが。暫し、驚いて呆然としていると、鏡をいそいそとしまいつつ、態とらしく彼女は言った。
「ああ、でも、亨さんはお菓子を持っていないんでしたね」
「はぁ。まぁ、そうなりますな」
「じゃあ……」
にんまりと。普段からは想像もつかない茶目っ気に満ちた笑顔で、彼女は言った。
「悪戯、しちゃいますね?」
――その後、「普段あまり笑わないから」という理由から、彼女に擽りの刑に処され、結果として家の外で阿呆らしいほどの大音声の笑い声を響かせることになってしまったが。まぁ、彼女の楽しそうな顔を思えば、些事であろう。
「奴吾に、貴君に危害を加える意図はない。それが叶う程の能力も持ってはいない。信じられなくば、武装解除にも応じよう」
言いつつ、自身が普段纏う鎧を解除。手に携えた白銀の剣は、鞘に収めて、離れた地点へ置きに行く。
「……あ、なたは、グーラを……傷づ、けません、か?」
「肯定する。加えて重ねるが、そも、奴吾に戦闘能力は殆どない」
そういって、一歩近づこうとするが、身体を震わせて、接近を拒絶する。無理を押しても良いことはない。大人しく、歩みを止める。
「……奴吾は、貴君の存在について問いたい。貴君は何者であるか。参加者か、それとも、創造主によって作られたアルターエゴか。現今頻発する辻斬りとの関連はあるか。これらの事柄についての、応答の可否を問う」
「……」
沈黙。何も浮かばない表情からは感情を読み取れないが、纏う雰囲気は、否定に寄っているように思われる。
此処で強いて聞き出せるならば苦労はないが、それができるほどの力はない。ならば、言葉を重ね、刺激を出力させないように、問うしかない。
「……無理を強いるつもりはない。それをするだけの力が奴吾にはない」
「えっ、あっ」
「ただ。これにだけは応えてもらいたい」
刺激しないように。簡潔な言葉で、要点のみを伝える。
「貴君は、奴吾らを傷つけることを望むか」
「……グーラ、は、そう、したくない、です」
「返答に感謝する。であれば、奴吾は貴君に対しこれ以上近づかず、早急に退去しよう。その意志の確認が、奴吾の主要任務であった」
……意志の確認は一応取れた。虚偽である可能性は十分にある為、何の保証にもならない、というのが本来のところだが、ないよりはマシだ。
もし今後、彼(あれ)によると思われる辻斬りが頻発するようであれば、奴吾が居場所を特定して、今度は実働部隊に乗り込みを指揮する形になろう。
「あっ……」
「では失礼。重ねて、奴吾が貴君に恐怖を与えてしまったことを謝罪しよう」
鎧を再び展開。剣も回収し、エントランスの外へ。
今回直接遭遇したことで、対象の正体は判明した。今後は、ジェネラギニョールに対し、該当存在についての可能な限りの情報を伝え、辻斬りに関する警報を発することになるだろう。
それで被害がなくなるならば良し。まだ何か起こるようであれば、その時に対応策を打たねばならないが、今の奴吾にできるのは此処まで。
『情報抹消』が阻害するのは、一次的な記録であって、一度記録された情報の発信は止められないと記憶している。一度情報共有さえできれば、対応策も練りやすかろう。
今後の予定を思考しつつ、ジェネラギニョールの居場所を検索して、歩みを進める。
背後にいたはずの少女の姿は、いつの間にか消えていた。
───そういえば。彼(あれ)は己をグーラと呼んだ。名を聞くことも忘れたとは些か仕事を急ぎすぎたが、一先ず、その名で仮に伝えておくことにしようか……。
「ひ──────」
喉の奥から絞り出したような声を残して、また影は消え去る。後には何の痕跡も残らず、ジェネラギニョールに要請してデータを確認しても、記録は残っていない。
……しかし、奴吾の記憶には、それは残っている。
つか、つか、と、消え失せた辺りへと歩み寄る。其処に、それが存在した痕跡を探し当てる。足跡だった。こんなものまで再現している辺り、この世界はよく出来ている。
足跡の向かった方向と、これまでの痕跡のマッピングを比較し、暫くの検討の結果、おおよその居場所に目当てがつく。
シティの片隅。些か遠いが、行って確かめる必要はある。腰をあげて、歩き始めた。
創造主の消息が途絶える前、「野良サーヴァントらしき辻斬り」が発生するようになってから、この戦争を運営するものとして、何度か調査を行った。
そして、とうとう見つけたのが、先程見かけた影。しかし、近づくことも能わず、またたく間に逃げられてしまった。
何度か繰り返し、そしてそれについて他のアルターエゴに協力を要請した結果、何故彼(あれ)が逃げ続けられているのか、その理由も把握した。
『情報抹消』。高ランクのそれを有するサーヴァントは、自身の痕跡を機械の類にすら悟らせないという。成る程、調べても調べても記録は残っていないはずである。
それに対する抵抗力、「忘れない」ことに特化したこの霊基が、このような形で役に立つことがあるとは思わなかった。
……サーキットでインパティナツスの様子を影から確認し、其処を通り越してシティへ。
マップに指定した該当座標には、記録上は使用された痕跡のないビルが一つ。しかし、現地についてみれば、どう見ても人が定期的に通っている痕跡がちらほら。
埃が部分的に散り、足跡まで残されているエントランス部。足を踏み入れてみれば、そこここに証拠は発見できた。
これほど分かりやすく残っているものを発見できなくなるのだから、『情報抹消』とは見事なもの───。
「む」
「ひぃっ!?」
……入り口からは見えぬ物陰に、いた。刀をひしと握りしめ、小さく縮こまって。
がたがたと震えていたのは、少女であった。此方に恐怖の眼差しを向けて、固まってしまった……恐怖?
その藍の輝きから見えるのは、どう見ても、恐怖である。しかし、これまでの辻斬りに関する情報を総合すると、明らかな殺意による攻撃を行っていたはず。
それが、こんな少女から発せられるとは……などと、そんなことを思っているようではこの世界では始まらない。
相手はサーヴァント、若しくはアルターエゴである。いずれにせよ、人智を超えた存在であるのに変わりはない。警戒を解くことはできない。のだが。
「……」
……この恐れようは、どうやら、心底から本当に奴吾を怖がっているもののように見受けられる。
辻斬りとしての凶暴性、殺意の発露は、今の所見られない。本当に、この少女が辻斬りなのであろうか。
アルターエゴであることは確認できるが、なにかの間違いで参加させられた一般人である可能性もある。
その恐怖の眼差しを受け止めて思案すること、十秒程。
「……奴吾に恐怖しているのであれば、酷なことをした。謝罪しよう」
「……え」
「……良い子だから。奴吾の言うことを、聞いてくれ」
「お――」
自身を押し倒している小さな身体に、手を伸ばす。
常に身に纏う鎧も展開を解除し、インナー越しに、彼女の裸体を抱き寄せて、背中を優しく叩く。
「貴君は、いつも良く我慢してくれている。衝動のままに動きたいだろうに、サーキットの中から出ないでいてくれる。偉いな」
「えへへ。そ、そうかー?」
「嗚呼。そうだとも」
叩いた手で、そのまま頭を撫でてやる。こうすると、宛ら犬や猫のように、彼女は目を細める。
くすぐったがる仕草を見せるが、それでも続けていると、段々と動きが落ち着いてくる。その瞳にも、少しだけ、情欲以外の色が見えてくる。
「インパティナツス。貴君は、己の衝動に従うようにデータが構成されている。しかし、全ての衝動に無条件に従ってはいない。我慢することも、少しだけなら出来ているのだ」
「そうかなー。あたし、ムリにガマンなんかしてるつもりはねーぞー」
「ならば、無理をしない範囲で我慢が出来ているということだ。それは、貴君にとって素晴らしい成果だろう」
これは、心の底からの賞賛だ。彼女というアルターエゴの設計上、衝動が発生したら、それに従わずにいることは難しいはず。
それでも、自身から伝えた「サーキットから出ない」という約束事、決まりは守ってくれている。
自身の根幹に反する行為がどれだけ苦しいかを知っているからこそ、其処には手放しの賞賛を送らざるを得ない。
「……そして、それだけ我慢できる貴君なら、奴吾との交合も我慢できないか?」
――その賞賛に値する忍耐を、利用する。
創造主の言うことすら聞かない彼女が、多少なりともその意図に従っている。
それは、彼女からの指示を伝えた己に、何か特別な感情を抱いているからではないかと、彼は推定している。
彼女が強い執着を示した参加者の統計から、彼女が「一回り以上は年上の男性」を優先して狙う傾向が判明している。
基体となった人物の影響であろうか。恐らく、自身もそういった執着の対象となっているのだろう。だからこそ、彼女にとって難しいであろう我慢を、これまでずっと継続していられるのだろう。
それを、セディヴローモンは利用している。
情けのない手だが、有効だ。これまでも、渋る彼女に言うことを聞かせるときには、こうしてきた。
……相手を謀るようで負い目を感じているのは、彼女に邪気がないからだろう。
これまで何回、衝動のままに動く彼女をあやしてやったろうか。両手で数えきれなくなったあたりから、覚えることをやめた。覚えるだけ、罪悪感が積もっていく。
「……んー。そんなに、セディヴローモンが言うなら……」
渋々、といった様子を包み隠さず、それでも、首肯してくれる。己とは違って素直な娘だと、自嘲交じりに感心する。
「有難う。よく我慢してくれたな」
「おー? でへへへへ……」
軽く、抱きしめる。これも、いつものルーチン。当人はこれで喜んでいるようなので、報酬として機能しているのだろう。
良い行為には、良い結果を。『良さ』を決めるのが自身だけでなければ、そんな当然の行為にも躊躇いは無かったのだが。
嘆息は飲み込み、無理やり、表情筋を動かして、ぎこちない笑顔を作る。彼女の求めるものは、出来るだけ与えてやる。それで、少しだけ自己満足ができるから。
「……では、その礼だ。交合や戦闘以外で、奴吾に出来ることを言ってみるといい。エリア修復まで、付き合おう」
「お! できることならなんでもって言ったな!そんじゃーなー、まずはー――」
アルターエゴ。人間が持つ一つの感情を核に形成された、人工の英霊。
月の聖杯戦争の裏側で、彼らの想いを、ムーンセルは観測する。
「インパティナツス。これはどうしたことか」
「うへへ……。なぁ、セディヴローモン。進化(エボルブ)しねーか?」
控えめに言っても、致命的な危機である。自身の置かれた状況を客観視して、セディヴローモンは思った。
サーキットの片隅。構成情報に綻びが出た為、目下修復作業中のエリア。
此処にいる月の聖杯戦争運営側きっての問題児、もとい問題エゴ、インパティナツスが何かしらやらかした余波であろうということで、現在該当エリアは、インパティナツス諸共隔離された状態にある。
其処へ、つい様子が気になって、顔を出しに来たのがセディヴローモンの不運である。
修復を管理するジェネラギニョールに一言連絡こそ入れているが、自身の情報をどれほど彼女が把握できているかは分からない。
運良く彼女の配下が巡回にでも来てくれない限り、救援は……当てにしない方が良かろう。
となれば、彼は自分だけの力でインパティナツスをどうにかする必要がある訳である。
――筋力ステータスEが。
筋力ステータスCを。
しかも、相手は霊基改造だの進化だの、幾らでも自分を強化する手段持ち。
かなり、絶望的である。
(……然し諦める訳にもいかん。今ある手札でなんとかしなければ)
衝動に身を任せ、どこか一線を越えてしまっている瞳を見据える。
これが彼女の在り方とはいえ、それに巻き込まれてしまっては「それもよし」などとは言えない。
「……インパティナツス。奴吾は貴君と交合を行わない。奴吾の上から退いてくれ」
「えー? でも、わざわざ此処に来たってことは、あたしに会いに来たんだろ? そりゃもう嬉しくって……あ゛ーもう我慢できねぇ! ハメっこすっぞセディヴローモン!!!」
単純な要請による回避、失敗。
「奴吾はこの聖杯戦争を運用する立場にある。円滑な進行の為、貴君の特質によって奴吾が機能しなくなる可能性は避けたい」
「かーちゃんのことなんかしらねー。それにセディヴローモンは、この仕事したくねーんだろ? なら進化(エボルブ)してそんなのやめちまえばいいだろー!!」
道理による説得、失敗。
「……インパティナツス」
「お、なんだー? 進化(エボルブ)する気になったかー?」
……彼自身の能力では、力技で彼女を退けることはできない。
必然、使うのは言葉ということになる。
しかし、彼女を相手に単なる論理ではどうしようもない。
また、こうするしかないか。そう内心で零しながら、セディヴローモンは、次の言葉を発した。
「はい、答えをどうぞ」
「……宇宙、ですか?」
「お見事」
さっきまで何も書いていなかった、大気圏の境界線の更に外側。其処に書き加えられたのは、私の発した答えである二文字。今や、人類の版図から遠く離れてしまった、遥かな空の彼方。
「偶然ってのはおもろいねぇ。届かんと思われとった領域(そら)に、人類は一旦は手ェ伸ばした。其処が実は、神秘を見出した7っちゅう数字に縁があるやなんてね」
黄、青、赤、様々な色のチョークで、『宇宙』のそばに小さな点を散らしながら、センセイは感慨深そうに言った。星、のつもりらしい。輪っか付きの黄色い奴は、土星だろうか。
ずっとずっと昔から、この星の遠くで輝くそれを見て、人は想いを馳せた。時には其処に物語を。時には其処に神威を。そして、時には其処に運命を。垣間見たそれらは、科学の光に掻き消される幻でしかなかったけど、その幻に、託したものもあった。朗々と、語り聞かせるように、センセイは言葉を紡いだ。
何となく、考え込んでしまう。7つ目の天国 ならぬ、7つ目の空 。至高天 やったとしたら……。“聖杯”を受け入れた人間は、終生、飛び立てんのかもしれんなぁ」
人は神秘を駆逐して、世界を拡大したという。その過程で消えていったものを、センセイは偲んでいる。
きっとそれは、それとして大事なものだったんだろう。
でも、じゃあ、人類の発展は間違いだったのだろうか? そうして積み重ねられてきた私達が生きる世界は、間違いなのだろうか。
「大気を6つに分けた向こう側。
今や手放した宇宙こそ、人類の到達すべき
終業のチャイムが鳴る。蛍の光が響く中、遠く夕日が沈んでいく。いつの間にか、私もセンセイも、眩しい黄昏を一緒に見つめていた。
――「天王寺」が、今日も朱に沈んでいく。
「地球は大気で覆われとる、その通り。ほんで、この大気は幾つかの層に分けられる訳やな。成層圏とか名前聞いたことあるんちゃう?」
「はい。詳しくは知りませんけど、空の高いところ……くらいの意味、ですよね」
「まぁそうね。高度11kmから50kmまで。エベレストよりよっぽど高い所を指す訳や」
あ、でも海面上昇で高さの基準面変わっとるかも知らんな……。と考え込みながらも、チョークを使って、地表と大気圏の間を、さっき雲を分けたように分けていく。
ただ、今度入れられた線の数は5つ。大気圏が、6つの層に分けられたことになる。
「下から、境界層・自由大気・成層圏・中間圏・熱圏・外気圏。
今決められとる気象学上の区分やと、大気っちゅうんは、最大でこの6つに分割できる。
この辺は藤田先生の方が詳しいやろうね」
層ごとに少しずつ大気の性質が違って、例えば、普通高度が上がって大気が薄くなるほど温度は下がっていくけど、成層圏だけは、高いところの方が温度が高くなるとか。
それは、成層圏の上の方にオゾン層があって、そこで紫外線が吸収されて暖められるからだそうだ。
……オゾン層?
「おっと、其処はまだやってなかったっけね」
オゾン。分子記号O3、酸素原子が3つくっついて出来る分子で、強い殺菌作用と紫外線の吸収効果があることで知られている。7つ目の天国 、アラボトに当てはまる部分がないように見える。ほなら、7つ目ってなんやろうな」
オゾン層とは、このオゾンが集まって形成された層のことを指す。
慌てて書き加えられた説明を見て、そういえば温暖化の説明でその単語を聞いたことがあるのを思い出す。
オゾンが太陽から注ぐ紫外線を和らげてくれるお陰で、人間はお天道様の下で生活できるんだ、とかなんとか。これもやっぱり、センセイの授業で聞いたのだったか。
ともかく、こういう訳で、大気は6つの層に分けられる。それは分かった。
「でも、天国は7つに分かれてるんですよね。6つじゃ、1つ足りません」
「その通り。このまんまやと、
「何、って」
今私は、この6つでは足りないと言ったばかりだと思うんだけど。
それとも、7つ目が何なのか、私はもう答えられるということなのだろうか。
ちらりと視線をずらせば、センセイが微かに笑って、私を期待の目で見ていた。
多分、そういうことなのだろう。こういう時は、与えられた材料を元に私自身が考えれば、ちゃんと答えを見つけられるようになっている。
ならば、と、板書の内容を最初から追うことにした。
「うぅん……? あっ」
ずっと見ていって、もう一度地球と大気圏の図を見直して、気づく。
6つに分けられたのは、大気圏内の話だ。大気圏の『外』、それを、もう一つの領域として見做すなら。
「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教……所謂アブラハムの宗教て呼ばれる中東発祥の宗教には、天国いう概念がある。まぁ影見は多分知っとるやろうけどね」
カッ、カッ、と、妙にちんまりとしたチョークが、今時珍しい黒板の上を滑っていく。
白い粉が描いたのは、波立った線に不安定に立つ何人かの棒人間と、その上にふわふわ浮かぶ雲、そして羽の生えた棒人間。
どうやら、現世と天国を図示しているつもりらしい(……正直ちょっと分かりにくい)。
「この天国っちゅうんは、まぁ宗教ごと宗派ごとに解釈色々あるんやけど、おもろい考え方が一つあってね」
天国を示す雲から矢印を引き、拡大図を書く。6本の横線が描き入れられて、それは7つに分割された。
「一般社会でもオカルト界隈でも、後魔術世界でも、7は力ある数字やて言われるけど、これなんか分かりやすい例やね。
ユダヤの口伝律法をまとめた書物、タルムードにゃ、天国は7つの領域に分かれとるっちゅう話がある。
これを、そのまんま7つの天国っちゅうて呼ぶんやな」
7。
神が世界を創造するのにかけた時間。仏が生まれて直ぐに刻んだ歩数。ラッキーセブン。虹の色の数。あ、虹の色は国によって数が違うんだっけ。
でも、確かに色々なものに縁が深い数字だ。連想されるものを指折り数えてみると、案外7という数字にまつわるものは多い。
7つに分けられた雲に、1つずつ文字が放り込まれる。ラテン・アルファベットじゃない。
読めないけど、なんとなく、中東地域の言葉っぽさを感じる。それは間違っていなかったようで、これはヘブライ語らしい。
謎アルファベットに、センセイがカタカナで読み仮名を振り、それでようやく読み仮名が分かるようになった。
ヴィロン・ラキア・シェハキム・ゼブル・マオン・マコン・アラボト。下から順番に、こんな名前が付いているのだとか。
しかし、こんなことを急に言い出すなんて、今日の授業は、神学についてやるのだろうか。そういうのは希望した覚えがないけど。
「まぁ、それぞれの天国におる天使とか、宗教宗派による解釈の違いとか、そういうので魔術の解説してもええんやけど、今日はそれとは別の話にしよう」
違った。でも、此処からどう他の話に広がるというのだろう。
「この、人の常住する場所やない、『あちら側』の世界の区分けね。これ実は、地球の環境にも当てはまったりするんよ」
「……どういう意味です?」
地球の環境を7つに分ける。大陸は6つだし、7つの海って概念は人間が勝手に分けたものだし、地殻にもそんな沢山層はなかった……と思う。
はて、なんだろう。
ウンウン唸って考えてる私を見ながら、センセイは、天国の雲から更に矢印を引いた。
その先に、ちょっと歪な円弧を描く。この上にも棒人間が立っているあたり、これは多分地球の表面だろう。
「多分、まだ教えてなかったことやと思うから、此処で教えとこか。影見、地球は何で覆われとる?」
「えーと。空気?」
「正解」
突然聞かれて出てきた当てずっぽうは当たっていたようで、地球の表面から離れたところに、またもう一つの円弧。
二つの線の間を地球の大気圏として、と、黒板をチョークでトントンと叩いて、説明が始まる。
奴吾の知らぬ間に妙な同胞が大勢増えていた。彼 もまた奴吾に想うところがあるようだ。何を裡に秘めるかなど知りようはないが、何故彼も下着をつけていないのか。
…ネイヴルサレナ、奇妙な縁であることは肯定するが、その服では身体を冷やす。捕まえないから其処で待て、すぐに礼装を誂える。
…リコリプレス、
…インパティナツス、言ったことを守ってくれているな。宜しい。望ましくは、参加者を襲わなくなればよいのだが。それと下着は着けなさい。風邪を引くから。
レイラインの不調で魔力供給が出来とらん?参りましたなそら……。
差し当たり、俺の血ぃでも飲んでもらわんといかんですな。
血は穢れでもありますけんど、其処は堪忍してください。
血があかん言うことでしたら……あー、あんまり綺麗なもんでもないですが、涙か唾液かあたりでも貯めますかな。こっちは衛生的に宜しくないですが。
嵐である。
全球規模での温暖化の進行は海面上昇を引き起こし、為にモザイク市は海洋に浮かぶ孤島の如き様相を呈している。
故に、この超高層建築物は、夏の頃には旧世界同様台風に襲われる。それはおかしなことではない。
……問題は、今の時期が夏ではなく秋も半ばの頃だということだ。
お陰で、仕事を片付けるのが遅れた自分は、大嵐の中、学校に閉じ込められてしまった。
これが自分の身一つであれば、何のことはない。これくらいの事は少なからずあった。ずぶ濡れになってでも帰っただろう。
しかし、彼女を連れているとなると話は別だ。
「困りましたね」
窓から、大嵐の空模様を見つめて嘆息する。その横顔に浮かんだ困惑に、胸が痛んだ。
自分の仕事を手伝ってくれるという厚意に甘えた結果がこれだ。多少無理を押しても、彼女だけでも帰すべきであったろう。
基本的に、宿直制度の配された学校に、まともに寝泊まりできる場所はあまりない。精々が、新人類には無用の長物であるのに何故か確保されている保健室程度か。
嵐の中に彼女を出すのは論外である。しかし、かといってこんな場所に彼女を留めなければならないのも、痛恨の失策である。深く、自省した。
「亨さん、ところで、どうしましょう」
保健室にて寝床の準備をしつつ、多少の後悔の念を抱いていた折である。彼女から、そんな言葉がかけられた。
彼女が指差しているのは、今まさに用意している寝床。
どうしましょうというと、と尋ねれば、まさに寝床をどうするかという話。どうするも何も、彼女が此処に寝て、自分は適当に待合の椅子にでも座して寝ようかと思うが、と答えれば、少し膨れた顔をする。
「──ダメです。貴方がべっどで寝てください」
とんでもない話である。私はサーヴァントだから別に眠らなくても良い、と彼女は言うが、そんなことで女性に不寝番じみた真似をさせられるほど厚顔無恥ではない。
全く道理にそぐわぬことなど百も承知だが、其処を曲げられるほど器用でもない。暫く、押し合いへし合いの問答が続いた。
──妥協の結果として、二人して一つのベッドにすし詰めになることになった。
阿倍野塔に落ちる落雷を聞きつつ、背中合わせに眠る。些かどころではない、同衾という大問題。男女七歳にして席を同じくせず。承知している。しかしお互いの意見をすり合わせたらこうなってしまったのだ。致し方がない。
……サーヴァントである彼女が先に眠ることはないだろう。寝静まってから此方が抜け出すという手も使えまい。こうなってしまっては、素直に一緒に寝る他はない。
眼を瞑る。背中合わせに感じるのは、彼女のぬくもり。なるべく触れないように、少し距離を空けようとするが、もうこれ以上は動けない。
人肌。こうして触れたのは、果たして一体何時以来だったろうか。
「おやすみなさい、亨さん」
──いつもよりもずっと近くで聞こえたその言葉が、妙に快い残響を耳に残していた。
遠い雷鳴が、微かに響いた。
窓から少しだけ見える阿倍野塔は、通天閣の明かりで輝いている。とても集雷機能のついた避雷針を兼ねているとは思えない。
他所の車両から持ってきた上等の座席に寝転んで、ガラスと豪雨の向こうに見る空は、昼間のようだった。あれだけ明るければ、妙なものも寄っては来ないだろう。いいなぁ、と、思わず言葉が溢れる。
しかし、と良く良く考えてみれば、昔は私も雷が怖かった。おばけは他よりずっと怖いが、他のものが怖くないわけでもない。それが、どうしてこれだけ平然と雷を見ていられるようになったのだったっけ。
……少し記憶の底を浚えば、思い出が手に触れた。何でもない、私がもっと幼かった夏のあの日。この稼業を始めるよりも前のこと。
「雷様が怖いんか。そらそやわなぁ、あないにゴロゴロ言うとったら、ヘソ取られへんか心配になるわなぁ」
すっとぼけた口調で、それでも、決してウチの怖さを笑わないでくれた。真剣な顔。嘘も誤魔化しもない、ちょっと行きすぎなくらいの誠実さ。センセイは、その時もそれを見せてくれた。
「雷さんはな、ヘソ出しとるごんたがおらんか探し回っとるけど、仕事が大変なもんやから、探す時にもなるべく手間かけんと、ちゃちゃっとやってしまいたいんや」
それで、なるべく高い所に降りて、そこから周りを見渡すのだと。だから、雷の音が聞こえても、高い所に近づかなければ、雷様には見つからないし、ヘソも取られないよ、と。高いところから離れた場所にいれば、怖がる必要はないんだと。
きちんと学んだ今なら、センセイの言っていたことは分かる。魔術的にも科学的にも、決して正しくはない。しかし、なるべく子供にも分かりやすく、それでいて恐怖を道理で押し潰すのでもなく、納得を優先した語り方。
あの時のウチも、雷様がなんだかものぐさなおじさんのように思えてきてしまって。それから、雷様を怖がることはなくなった。勿論、落雷の音が聞こえると流石にびくりとしてしまうけど。それだけなら、きっと多くの人と一緒だろう。
――閃光が、二つ、三つ。暫くして、ゴロゴロッ。ゴロゴロゴロッ。少し首を竦めて、遠くを見つめる。
雨はまだ止まない。けど、止まない雨はない。そうしたら、雷も止まるだろう。
それまで、少しだけ。たまには、ただの子供だった頃を思い出しながらゴロゴロしたって、怒られないはずだ。
……あー、うン。失敗だなこりャ。爆薬の調合弄りすぎたか。まーさか砲身が破裂するたァなァ。
一応鉄鋼の強度は確保した筈なンだがなァ……。
……ンあ。こりャどうも、市長。態々甲板までお疲れさンです。
……はァ。近所迷惑。黒珠艦隊のご老体もお冠。魚が逃げて……。副官も仕事を抜け出したのを怒ッてる。
そうは言いますがねェ。思い立ッたら試さずにはいられないのは、あンたも一緒でしョうが。
それに、一応至急の手続きだの決済だのは終わらせてる筈だ。ちョッと休ンだッてバチは当たらねェでしョうよ。
いだッ……え? ならよし? もッと励め? ご近所には話しておく?
……あンたのそういうとこ、本当に助かりますわ。じャ、宜しく頼ンます。
……そうッスね。またなンかあったら、連絡くださいよ。ちッとは手伝いますから。
釣り糸を垂らす。浮きが沈めば引く。
動作として表せば至極単純なはずだが、何故だか、そうした行為には馴染むものがある。
漁労行為における豊漁祈願の祭祀、風俗、特段そんなものを研究で取り上げたこともない。
だから、馴染むも何もないはずなのだが。こうして垂らした釣り糸に引きがあると、微かに微笑みが浮かぶ。
人に言わせれば、これを趣味というのだそうだが。そんなものと自分に縁があるとは、この都市に来るまでは想像もできなかった。
竿を引き上げる。河豚だ。今日はよく此奴が釣れる。はて、河豚とは群れを作るような魚だったろうか。
足元のバケツを見れば、釣れた河豚が5、6匹ほど。時間としては数時間。釣果としては上々だろう。
さて、後はこれをどう処分するかだが。流石に河豚の調理師免許を持つ人員は記憶にいない。
テトロドトキシンを魔術の素材にでもするものがあれば良いのだが、ヴードゥー系の術者は居ただろうか。
…釣った後のこの時間は、我がことながら無為であろう。さっさと海に返せば良いものを、貧乏性が祟っている。
何故、捨てられないのだったか。ふと浮かんだ疑問は、潮の噎せるような匂いに飲み込まれて、消えた。
ゆめをみる。おとなになったしいなが、げんきにはしりまわるすがたを。
それはみらいのゆめ。しいながきれいに、そしてたくましくそだったみらいのゆめだ。
……いまのしいなは、しょうじきちょっとやんちゃむすめであばれんぼうだ。げんだいでは、めすがき?というらしい。
らーどーんは「ギリシャ的には普通」とか「まだ可愛げがあるほう」というけれど。わたしはやっぱり、ちょっぴりしんぱい。
しいなには、とくべつなちからがある。かんたんにひとをなげとばせるちから。かんたんにひとをきずつけられるちから。
そういうふしぎなちからには、それにふりまわされないだけのつよいこころがひつようだけれど、いまのしいなには、まだそれはない。
このままだと、しいなはちからにひっぱられて、いつかどこかでかなわないものにであって、そうしていたいめにあってしまうだろう。
いたいめにあうだけなら、まだいい。ひとはころんで、たちあがり、せいちょうするいきものだから。
けれど、このせかいには。いたいいじょうのことをするちからもいっぱいあるから。しいながしんじゃうかもしれないものがたくさんあるから。
だからそのとき、しいながたおれず、たちあがってまえにすすめられるよう、わたしはここにいるの。
だってわたしは、しいなのおねえさんだから。しんちょうはまけてるし、ことばづかいもおさないけれど。
それでも、じんせいけいけんは、わたしのほうがうんとながいから。
だから、しいな。わがままでかわいい、わたしのますたー。
これからさき、いろんなことがあるとおもうけれど。わたしとらーどーんがいっしょにいるからだいじょうぶ。
だから、しいなのだいすきな、おうごんのりんごのかれーをいっぱいたべて。ふかふかべっどでいっしょにすやすやねて。
これからもすくすくと、げんきいっぱいにそだってほしいな。
「もー、まだ寝足りないのー?……しょうがないなあ、あと一分だけだから!」
「んぃー……ねるこは、そだつって、いうからー……すぴー」
ゆめをみる。おとなになったしいなとてをつないで、げんきにはしりまわるみらいを。
そんなひがおとずれるまで、ずっと、しいなといっしょにすごせるひびを。
「オい、マスター。腹がへったぞ。はやく食事にシろ、そろそろハンバーガー以外も食わせロ」
何時ものようにギドィルティが空腹を訴えてきた。毎日三食飯を与えているはずなのに腹が減ったと喚いている。
少し前にも腹が減ったといいながら俺の腕を齧っていたがコイツの食欲はどうなっているんだ。
そんなことを考えながら、唐突に今日が何の日だったかふと思い出した。
ハンバーガー以外が食べたいという不満を漏らす声を背に、俺は出かける準備を行う。
「オい、どこ行くンだマスター。腹がへったぞ」
「うるせぇちょっと待ってろ!おとなしく待ってねぇと飯食わさねぇぞ!」
声を荒げながら自身のサーヴァントにそう言い、抗議の視線を感じながら外へ出た。
しばらくしてから戻ってくると、早く飯にしろと言わんばかりの顔のギドィルティが椅子に座って待っていた。
「戻っタかマスター、イい加減腹が減ったぞ。はやく食事にシろ、どうせまたハンバーガーだロ」
ハンバーガーの何が不満なんだよ、と思いながらも抱えていた多数の紙袋をテーブルに置きながら、その中身を取り出していく。
大量のハンバーガー、何時もの食事内容。しかし今日はそれだけではない。
普段買っているハンバーガーのものではない紙袋から、白いクリームやイチゴで彩られたホールケーキを取り出す。
それもひとつだけではなく、様々なフルーツが特徴のホールケーキや、チョコレートケーキなどのホールケーキを多数取り出した。
「オお、なんダなんダ?今日はヤけに食事の量が多イな、ソれに今日はハンバーガー以外モあるナ」
「まぁ…クリスマスだしな、偶にはいいだろ」
「クリスマスか、よくワからんがハンバーガー以外のウマイものを食えルんダな」
ギドィルティはそう言いながら、楽しそうにどれを先に食べるか見定めている。
その様子だけ見ればただの小さな子供のようだな、と思う。
それと同時にもし自身に家族がいて子供がいれば、同じような感じなのだろうかという考えが浮かぶ。
愛する人がいて、愛する子供がいて、そんな普通の幸せな光景。
そんな光景が浮かび、そんな未来は来ないだろうと否定する。
何を勘違いしているのだろうか。俺にはそんな資格はない。俺に普通の幸せなど有り得ない―――
「ああそうダ、マスター。こういうトキに言うコトバがあったな。アリガトなマスター」
突然アイツはそう言うと、何時ものように大きく歯を見せながら笑顔を見せる。
何時もの見慣れた何でもない笑顔ではあったが、何故だが今日はその笑顔につられて自身も笑みを浮かべた。
「クリスマスだからな、偶にはな…」
これはただの気の迷い、だが今は。今だけは。
この気の迷いも悪くはないのかもしれない。
「うんうん、なカなかうまいぞ。りょうガあと1000倍あればいイんだがな」
「は…?おい、もうあれ全部食ったのかよ!ふざけんじゃねぇよ結構高かったんだぞアレ!それを一瞬で食いやがってクソッたれ!」
まずはサーモンブロックを豪快に切り刻む。
次にネギを輪切りに、大葉を茎を切り適度に千切り入れる。
そしてそれらを混ぜ、狂ったかのように包丁で叩きつける!!
醤油、おろし生姜、隠し味に味噌を少々入れ味を整え、完成だ!
これぞ我が至宝「サーモンなめろう」! 米にもあえば日本酒にもあう!
ああシソのアクセントが実に最高だ! やはり日本人は聖夜にも米と酒だ!
疲れも寒さも玄関も吹き飛ぶというものだ! どうした両石笑え笑え!
何? 玄関を吹き飛ばしたのは俺? ははは! 皆まで言うな!
玄関無しではその恰好は寒かろうよ何せ胸元丸出しだからな!
何なら俺の家に来るか? 床暖房完備だぞハッハッハッハッハ!
などと冗談を言っていたら玄関の恨みを晴らさんとばかりに、
性欲増強剤を限界まで投与された両石お手製の改造性奴隷5体を着払いで送られた
おのれ両石めこれほどの怒りとは! 玄関の恨みとはかくも恐ろしい!
親しき仲にも礼儀あり。俺は次からは丁寧に窓を割って侵入しようと
迫りくる両石の肉人形どもを殺しながら胸に固く誓ったのであった。
メリークリスマス! 霧六岡だ! 今年もこの季節と相成った!
実はこの俺、毎年ルナティクスらにクリスマス会の通達をしている。
のだが今年も例年通り参加者0人! 皆それ程までに忙しい労働の奴隷なのか!
聖夜すら祝えぬ悲しきエコノミックアニマルよ! だがそこに手を伸ばすが救い主!
厳重に鍵を掛けられた玄関をプラスチック爆弾で蹴破りサプライズパーティーの時間だ!
よぉ両石! 諸人こぞりて! なんだその突如として台風が訪れたかの如き表情は!?
玄関が爆破され無くなった? それは気の毒に……。俺も最近もう一つの記憶において、
全身にダイナマイトの爆風を浴びて重傷と相成ったため爆弾の恐ろしさは非常に分かる!
ようし!! 慰安の意も込めてクリスマスならではの食事を貴様にふるまってやろう!
クリスマスといえば? チキンか? ケーキか? 断じて否!! 今宵の聖夜は鮭が支配する!
何故か? 巷ではシャケをクリスマスに食すが流行らしい。俺もそれに乗っかりたいと思う。
俺は流行に敏感な男だからな。なんだその時代遅れの軍服を羽織る男を見るような眼は?
昔から、この街のこの日は煌びやかに飾られる。
それは自分にとっては至極当たり前の景色であり、彼女から本当はそういうのではないと言われてさぞ驚いたものだ。
だから恐らくは、自分が生まれる遥か昔から続く伝統のようだ。
階層の吹き抜け部に鎮座する途方もなく巨大な樹木には、眩しいほどの電飾が巻きつけられ、
いつもの複合商店では様々な物品―――特に玩具とゲームがセールを始め親子が殺到する。
各居住区においては、家族水入らず、ケーキを囲んで聖夜を祝っていることだろう。
残念ながら、自分はその輪には入れない。
だが、より盛大なパーティーには参加している。
「―――!!皆、ありがとう―――!!!」
玉滴の汗を散らし、マイクを握りしめ直す。6曲目を歌い切り、ステージの熱気は最高潮。もはや先日からの寒波などどこ吹く風だ。
一昨年から始まった、自分とパーシヴァルのユニット「Ars-L」による聖夜ライブ。最初の年は息絶えそうなほどに疲れ果てていたのを覚えている。
肉体もそうだが、心も。思えばこの時期から活動が本格化し、同時に自分の時間の多くは仕事に費やされた。
勿論、都市軍の指揮官も、アイドルも。何れもがいつか王となる自分に課せられた責任であり、その責を放棄することは許されない。
許されない、のだが。それでも。拒否反応を示す心情を隠すことができなかった。
こともあろうにパーシヴァルの前で、泣き出してしまい……恥ずかしいので思い出すのはやめよう。
―――だが、そんな不甲斐ない自分を、パーシヴァルは笑って街に連れ出してくれた。半ば強引に予定をキャンセルし抜け出したのだ。
その間だけは立場を忘れられた。一介の10歳ほどの子供として、求めていた喜びを享受することができた。
故に、その年の聖夜が終わる瞬間を、心から惜しんだものだが―――
そこですれ違った者―――似た年の子供だったかもしれない、その者の顔を見て、唐突に頭が冷えた。
ライブ、楽しみだったのに。と。
―――咄嗟に、歌い出した自分がいた。
パーシヴァルも最初は呆気に取られていたが、すぐに自分に続き、気づいた皆に囲まれてそこが新たなライブの会場となった。
奪われるだけでも、与えるだけでもない。
この聖夜を、この街だけの賑やかなクリスマスを、皆で共に楽しもうと。
「では7曲目!HappyHol(ida)y!いくよー!!!」
「―――と、その前に余はしばし遊びに行く故、皆探しに行くがよい!見事探究を果たした者は最前列でこの歌を贈ろう!!」
「ゆくぞ!騎士パーシヴァル!」
そして、これが第一回から続くお約束。
ラストの曲は梅田のどこか。否、この街全てを会場として歌う。
この街の、全ての人に届くように。
HappyHol(ida)y.Merry Xmas!!
聖なる夜。「天王寺」にサンタクロースが現れた、と、都市情報網では話題になっている。
聖ニコラウスが召喚された、或いは該当地域へ現れた、という情報もないから、当然多くの人々が驚き戸惑い、しかしその慶事を喜んでもいる。
事前にカレン・ミツヅリに根回しをしておいたのは正解だっただろう。空への道を断絶した世界も、この細やかな「飛ぶ」という奇跡を許してくれたようだ。
或いは、「この世ならざるもの」としての性質を宿す虚数魔術と、偉大な巫王の呪力による隠匿が、一時的にとはいえ効いたのかもしれないが。
しかし、ともあれこの寒い中、サンタをしてくれたツクシとスバル君、そして彼女にも、労いをしなければなるまい。
という訳で、自身の生活費から負担にならない程度に少しずつ削った金で以て、「難波」で人気のケーキを予約してあったものを引き取ってきた。
普段甘いものを好んで食べるところは見ないものの、土産の菓子などが食卓に出てきた時に顔が緩んでいるのは確認済みだ。きっと子供たちだけでなく、彼女も喜んでくれるだろう。
……と、考えていたのだが。単身ケーキを受け取ってから帰ると、出迎えてくれた三人ともが何やらそわそわしている。
不思議に思いながらも、外からそれとわからないように覆ってあるケーキを取り出して、卓上に並べようとした途端、声が重なった。
「クリスマスケーキを買ってきました」。え、と思って彼女を見れば、ぽかんとした顔で、自分が買ってきたものと全く同じものを、冷蔵庫から出している最中だった。
顎が開いて戻らなくなった。ツクシは目を丸くした。そのまま、些か気まずい時間が流れた。
しかし、スバル君がにこにこ笑って言ったものだから、そのまま、誰ともなく吹き出してしまった。「おそろいですね。なかよしさんです!」
ああ、全く。仲の良いことだ。考えることまで似通ってしまうとは、確かに「なかよしさん」であろう。
結局、今日だけは「デザートのおかわりあり」だということで、各々、食べるだけ食べることにした。
体重を気にしてか、一切れだけで良いと言っていたツクシも、最終的には、スバル君に押されて二切れ目に手を伸ばしていた。
そのスバル君本人もまた、普段とは少しばかり様子の違う健啖ぶりを見せていた。曰く、「みんなでわけてるからへいきです」、とのこと。自分達4人で分けるから食べ切れる、ということだろうか?
そして、彼女も。その所作は、いつもどおりに綺麗で静かなものであったが、いつも以上に柔らかい表情を浮かべていることは、すぐに見て取れた。
「美味しい、ですね?」
微笑むその言葉に、頷く。長らくこんな団欒を囲うことなど、なかったのだが。誰かと一緒に、祭日を祝うというのは、幾つになっても良いものだ。
聖なる夜。もう一人───いや、四人のサンタクロース達は、こうして、静かに時間を過ごしていった。
クリスマスですねカグヤさん!
今夜もとても美しいですねカグヤさん!
クリスマスという日にカグヤさんの姿を見ることができて僕はなんて幸せなんだろう!
今までクリスマスを家族とか友達とかと何度も過ごしてきてどれも楽しかったけどここまで僕の心が浮き立つのはやっぱりカグヤさんだけなんだなぁ…
ああ雪まで降ってきてホワイトクリスマス!
カグヤさんの月のように綺麗な金色の髪に雪が映える!
今この光景を写真に収めるだけで歴史に残る写真が生まれること間違いなし!
そんなカグヤさんを見ていると胸の内から言葉にできない気持ちがドンドン溢れ出てこれは…愛…!
ああ聞きたい聞きたい!カグヤさんのピアノが聞きたい!
むっインスピレーション湧いてくる!
聞いてください僕の気持ちを込めた歌を!ララララー!ラララー!
誰ですか今微妙な歌って言った人!すいません精進します!
街が愉快な、聞き馴染んだ音楽に溢れる時期。
私は決まってあの頃のことを……数年前までの日々を思い出す。
信頼出来る仲間が居た。志を同じくした親友が居た。私を見てくれる、大勢のファンが居た。
あの大舞台で……たくさんの光を浴びて。色とりどりの光の波を、ステージの上から眺めていた。
七色のペンライト、溢れんばかりの歓声、満ちる音楽。目を瞑れば今すぐにでも思い出せるのに。
……街頭のショーウィンドウに積み重ねられた液晶に映るのは、美しい金髪を揺らす二人組。
妬ましい、と言うつもりもないし羨ましいわけでもない。
ならばこの胸に募る感情は……底のない穴を埋めようと、必死に物を投げ入れては落ちていく、そんな感情は。
…………後悔、なのかな。
聖夜。私が訪れたのは難波から遠く離れたモザイク市、名古屋。
この時期にのみ開催される特殊な大会……『SoD』の特別ルール版に参加すべく、遠路はるばるやって来たというわけだ。
都市軍のクリスマス会に参加するのも何だか気まずいし、かといって一人寂しく聖夜を迎えたくはない。
そしてこの鬱屈とした感情を少しでも誤魔化すように……私は、この薄暗く仄暗い排煙の街に降り立った。
光に溢れるあの舞台とはまさに真逆。こんな所に私が求めるものはないと……わかってはいても、それでも。
『おい、あれ……こるりんじゃねーの?』『マジかよ、この大会に出るつもりか?』『非リアの憂さ晴らしイベントに……』
参加者と思しき周囲の人々からは、そんな事を言いたげな視線がビシビシと飛んでくる。
……わかってる。それでも、私はいてもたっても居られなかった。どうせもう……守るべきプライドもないんだし。
配信用のカメラをセットし銃器の手入れを済ませておく。まもなく時刻は0時を迎える頃。
どうせ何をしても気持ちが晴れないのなら……せいぜい暴れて暴れて暴れ倒して――――――――
「あっ……あの!」「……へっ」
意識の外から投げかけられた言葉に、思わず小さく声が漏れる。
目を向けるとそこに立っていたのは……自分の歳の半分ほどの、まだ幼い少年だった。
参加者……にしては少々若いか。いかにも新米といった出で立ちの少年は、その手に銃……ではなく、色紙を握り締めていて。
「コルリさん……ですよね。ぼ、ボク……い、いつもコルリさんの配信見てて……」
思いがけない言葉に唖然としてしまった。そしてたどたどしい言葉でその少年は、俯き加減で話を進める。
「立ち回りとか、凄くうまくて……いつも、参考にしてて……コルリさんのおかげで、ボク……初めて勝てて……」
「そ、その……えっと……だから……ボク、コルリさんの……ふぁ、ファンなんです……!」
……緊張し、泳ぎながらもまっすぐとこちらを見据えるべく向けられた瞳。
純粋で、曇り無く……心の底からの真意で語られたその言葉に、私は思考を奪われてしまった。
ファン。私の、ファン?そりゃ私には……アイドルだった私には、数百ではきかない数のファンがいた。
でもそれは昔の話。アイドルファンなんて正直なもので、今では「私のファン」を名乗る人間などまず居ないだろう。
だというのに彼は……私のファンなのだと語った。私が活動していた頃にはまだ物心も継いていなかったであろう、その少年が。
ああ、そっか。
こんな私でも見てくれている人はいる。
表立って目に見えないだけで……画面の向こうで、私に憧れてくれる人がいるんだ。
その視線は、直接私の身体に届くことはないけど……カメラ越しに、ネット越しに。私を待ってくれている人が居たんだ。
今、目の前で向けられたその真っ直ぐな視線は―――――いつかあの舞台に立っていた時のような。
いや、あのときよりも心地良く……キレイな感触で。
「それで……も、もしよかったら……サインと、あ、あ、握手――――」
差し出された手を握り、少年の頭を撫でる。そして次に、生笑顔のおまけつき。
「……これでも昔はクールキャラで売ってたんだから。私の笑顔はプレミアモノよ?」
そんな言葉を返して立ち上がる。気がつけば試合開始の30秒前、そして聖夜を迎える30秒前だ。
どこか惚けた様子の少年も、カウントダウンを聞いて我に返ったか、頭を振るって己を鼓舞する。
……立つ舞台は違うけれど。あの日見た光も、歓声も届くことはないけれど。
私を見てくれる人がいる。私を心待ちにして、画面の前で応援してくれている人がいる。
それだけで―――――――もう後悔も、迷いも無くなった。
『SoD:ホリデー・ナイト・フェスティバル!レディ――――――』
戦場より、メリークリスマス。
数年越しの皆へのプレゼント、楽しんでくれるかしらね?
「……辛気臭くなってしもたね。一旦この話は終わりにしよか」
「……はい」
手を一回、ぱちんと叩く。これでこの話はお終い。授業に戻ろう。いつも通りのとぼけた顔で、話を切り替える。
正直なことを言えば、センセイの昔話も気にはなるが、今は学びの時間だ。興味があっても、それは後回し。その代わり、必ず聞く時間は設けてくれる。
答えてくれるかどうかは別だとしても、そういうところへの気配りがあるのは有難い。ちゃんと話を聞いてくれているんだと、そう思える。
「さぁて。これで3つ、人間の身体の成長点を挙げてくれた訳やけど、まあ大体これが肉体的成長で代表的なとこやね」
これまで書いた内容と、男女の半身図の各部位を結びつけて、どういう場所が発達してくるかが示される。
こうして図で見ると、心臓や肺と身長なんかが大きくなってくるのは、多分連動しているのだろうな、と思う。
大きくなった肉体に、欠かさず血液を送り込む為に、連動して心臓が発達し、血に酸素を取り込む為に、肺の機能が主に発達してくるのだろう。
脳については、基礎部分が完成した後、それを補修して仕上げるような形で神経細胞の分裂が続くのだろうか。
面白いと思ったのが、センセイが書き加えた「成長・発達率の線グラフ」だ。
多くの機能が、大人になるにつれて少しずつ発達していくのに対し、免疫の機能だけは、思春期頃に、大人の頃よりもずっと発達しているらしいのだ。
「子供は風の子って言うんは、案外ほんまかもしらんね。実際に大人よりも元気を保つ機能がよく発達しとるんやから」
さっきとは違って、暗い色のない、何処か懐かしむような。さっきあんなに沈み込んだ重さを持っていた目と、同じ人間でもこんなに違うのだろうか、というほど優しい目。
それが向けられている先は、『適々斎塾』の敷地内に隣接して置かれている小学校の方向。
個人指導課程とはカリキュラムも違う為、あちらはもうお昼ごはんを食べ終わった後、昼休みだ。元気に遊んでいる声が聞こえてくる。
……そんな風にして、「若いもんはいいなあ」なんて言う歳じゃないでしょ。とは直接言わないけど、本当に老け込んでいる。それで本当にまだ二十歳代なのか。
「……あれ。センセイ、線グラフにもう一つ説明がついてないのがありますけど」
ちょっと呆れながら板書していると、ふとそれに気がつく。線グラフは一本一本が別々のことについての数値を示しているはずだけど、一本、なんにも説明されてないグラフが。
「ん? ……あー。あー、あー、あー。それな。取り敢えず書いといて頂戴。詳しいことはまた別の先生が教えてくれはるから……」
「どういうことです?」
珍しい。センセイでは説明できないことでもあるのだろうか。基本的に何を聞いても答えてくれると思っていただけに、ちょっとビックリだ。
と、思ったのだが。言葉を濁していたセンセイが、観念するように絞り出した言葉で、色々納得した。
「其処はやな。所謂『性機能』に関する単元やから、俺が教える訳にはいかんのよ」
「……アッハイ」
……それは無理だ。私も流石に其処について教わるのは嫌だ。うん。じゃあ仕方ないね。
結局その日は、その部分だけを避けて、教科書でそういう説明を受けて終わった。
センセイはなんともなかったけど、ちょっと私は顔が赤かったかも知れない。
……ココノもおんなじことになったら恥ずかしがるよね。別に私が初心ってだけじゃないよね。
「宜しい。三つとも正解やね」
黒板の枠内に、先生が赤いチョークでくるっと丸を描く。
こうして目で見える形で評価されると、何だかんだ言っても嬉しいものだ。
回答のそれぞれに矢印がつけられて、そのまま解説が書き加えられていく。
「免疫機能、要するに病原体を排除して健康を保つ力。これっちゅうんは、病原体をやっつけるリンパ球を作る『胸腺』と、それを身体中に運び出す『リンパ管』に頼るところが大きいんやな」
「で、こういう器官は、小学校入る前後くらいから、影見と同じくらい、所謂思春期頃にかけて、急速に発達する」
男女の半身図の真ん中、胸のあたりに、内臓っぽいものが描き入れられる。これが胸腺というものらしい。
喉のあたりに増えたのは、リンパ腺だろうか。風邪をひくと、此処が腫れて痛い。それは、身体中にたくさんリンパ球を送って、身体を治す為の反応なのだそうだ。
「まぁ、“聖杯”のある今の人類には、こういう機能の発達はあんまり関係ないんやけどねぇ」
次いで、筋肉と骨。これについては、それ以外にもたくさん発達するものがあるのだとか。
「具体的には、内臓……特に呼吸器系の機能やね」
それは例えば、肺が成長することで、血液に酸素を取り込む効率が上がり、運動しやすくなるとか。心臓も同じように成長して、血液を身体中に送る力が高まるとか。そういうものらしい。
そういえば、小さい頃よりは……逃がしてもらったあの時よりは、走っても息切れしなくなった気がする。これは根拠のあることだったらしい。
「今のうちに体力はつけといた方がええよ。歳食ったら食うだけ筋肉もつきにくなるからね」
……妙に実感のこもった言葉は、多分実体験からだろう。センセイが最近、朝早くから学校の敷地周りをジョギングしてひぃひぃ言ってるのを、私は知っている。
バレてないつもりらしいけど、ビオトープを手入れ中の西村先生がバッチリ目撃していたのだ。
最後に、脳について。さっき私が考えていたのは大体合っているらしく、脳細胞は、大体十八から二十歳くらいまで分裂を続け、そこから先は増えることなく減る一方になる。
機能としての完成は、大体六歳くらいまでに完了するそうで、小学生未満の時の記憶が朧げになりやすいのは、単に昔のことだから、というだけではなく、脳機能の発達が未熟だったから、という可能性もあるのだとか。
それでも鮮明に記憶に残っていることがあるなら、それは相当印象的なことなのだろう、とも。……成る程。やっぱりこれも身に覚えがある。
「今の時勢やと、生まれてからすぐに聖杯で調整したら、その辺も確実に記憶したまんま成長できるんかもしらんけど。流石にそれやったて話は聞かんなぁ」
「その時にあったことを後から忘れるなんて、その時には思わないですし。子供ならなおさらですよね」
「まさにその通り。今この瞬間考えとることなんか、ほんの一瞬で思い出せんようになるんにな」
どこか遠い目で見るセンセイの言葉は、センセイ自身の普段の主義あってこそだろう。
忘れられて消えることは、ただ死ぬよりも恐ろしいことだと。だから、覚えておかないといけないのだと。
「影見。写真でもなんでも、大切なもんは、忘れんうちに形に残しておきなさいね」
……センセイが其処まで忘れることを恐れる理由を、私は知らない。きっと聞いても教えてはくれないだろう。
ただ、言っていることは、良く分かった。忘れてしまえることは、人間が生きていく為に必要な機能で。だからこそ、残酷なまでに優しい。