お話をするにあたって中国人民大学の張 風雷教授の「張論文」を参考論文として紹介しておきます。
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=7605&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
2013年に『東アジア仏教学術論集』で発表された学術論文ですが大変興味深い内容となっております。
『成唯識論』に、
「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず。」
といった種子説が説かれておりまして、「無漏種子」の存在が繰り返し主張されております。衆生の阿頼耶識にこの「無漏種子」がなければ、いくら仏道修行を積み重ねても、成仏に至ることはないと言うのです。
ではその「無漏種子」とは何かと言いますと、日蓮大聖人が『曾谷入道殿許御書』の中で次のような事を申されております。
「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」
末法に入って、釈尊在世に結縁した者は次第に少なくなり、権教と実教で成仏する機根の人は皆尽きてしまったと。ですから末法は「過去に仏との結縁が無い」本未有善の衆生が生まれてくる時代なので衆生が仏に成るには、新たな仏縁が必要となります。
本未有善とは「仏に成る為に必要な善行が無い」という意味で、過去に仏との結縁が有ることを本已有善と言います。
正法時代に仏との結縁がある「無漏種子」を備えている修行者(本已有善)は、三昧で『妙法蓮華経』を真言として唱えることで、自身の阿頼耶識に眠っている仏との結縁(無漏種子)が呼び起されて縁起が起きて仏性を観じ取っていきます。しかしそうした本已有善の結縁者は正法・像法時代の中で皆、天上界へ転生していき末法では、仏との結縁が無い本未有善の衆生しか生まれて来ません。
本未有善の衆生は、仏との結縁が無い為、阿頼耶識に「無漏種子」が有りません。そのような修行者がいくら瞑想で阿頼耶識にアクセスしても仏と全く縁が無い為、仏性が開花することはあり得ません。そのことを日蓮聖人は『総勘文抄』の中で次のように申されております。
「三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり。 一とは中道なり法華なり、大とは空諦なり華厳なり、事とは仮諦なり阿含・方等・般若なり、已上一代の総の三諦なり。 之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり。 因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり。 此れを総じて因と云うなり。 縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず。 善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや」
ですからそういった本未有善の衆生には、新たな結縁が必要となってきます。
末法の世には「仏」と同じ対境が三昧において必要だという事です。それが曼荼羅本尊と末法で唱える真言の「南無妙法蓮華経」のお題目です。
仏像を対境として「妙法蓮華経」を唱える三昧(←五文字からなる五何法=五仏性)と、曼荼羅を対境として「南無妙法蓮華経」を唱える三昧とではこの本已有善か本未有善かの違いが奥底にあります。曼荼羅という真如の相と、法華経という真如の性(智慧)とそれを唱える凡夫の体を最初の三如是として「南無妙法蓮華経」に含まれる残りの七如是が本末究竟等します。(三如是+七如是=十如是)
【文証】『三世諸仏総勘文教相廃立』 「今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う」
【文証】『十如是事』 「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり」
その「無為の法」が、どのような相で、どういう性を持った諸法で、どういう体を持った諸法で、といったことをいっているのが十如是の文句です。無為法の内容を十項目に分けて紹介している訳です。項目の中に因と果、また縁といった項目がありますので「十如是」を縁起の法門だと思われている方が沢山おられます。学者や僧侶の中にも沢山おられます。
しかし有為の縁起ではなく「十如是」は無為の真理の法なんです。
では、その無為の法がサンスクリット原典の『法華経』では五項目で、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』ではなぜ十項目になっているのか、それは「無漏の種子」というお話深く関わってきます。
仏教では有為と無為といった言葉が用いられますが、有為とは「つくられたもの」、無為とは「つくられないもの」といった意味ですが、そういった意味をふまえた「有為の法」と「無為の法」が説かれております。
有為の法とは、因縁によって形作られたもの。 また、その在り方。 生滅する現象世界の一切の事物をいい「縁起の法門」がこれにあたります。対して無為の法とは、あるがままの意で、 因果の関係に囚われない常住不変の存在、すなわち「真理」のことを言います。
お釈迦さまはこれまで世の中の真理を縁起として説かれてきました。しかしここに至って究極の覚りの世界にあってはその縁起すらも起きないと言われるのです。
縁起ではない真理の法、それが『十如是』という無為の法なんです。
十如是が説かれている『法華経』方便品第二は、お釈迦さまがご自身が覚り得た究極の境地を舎利弗に諭す場面です。
舎利佛よ、わたしが仏に成って以来、いろいろな因縁や種々の譬喩を使い、広く教えを述べ、真実の教えに導くための仮にとる数え切れないほどの便宜的な手段を使って、多くの人々を仏道に導き、諸々の執着から離れさせた。理由は何故かというと、如来は、真実の教えに導くために仮にとる便宜的な手段や、事物に対する正しい認識や、悟りに至らせる方法をすでに身に付けているからだ。 舎利佛よ、如来の事物に対する正しい認識は、広大で奥深く、容易に理解が及ばない。それは、無量であり、何ものにもとらわれず、力があって、畏れるところなく、静かな瞑想の禅定であり、煩悩の束縛から解き放たれる解脱である。心を集中した静かな状態で、深く限界のない境地に入り、かつてない教えを体得し成就したのである。 舎利佛よ、如来は、巧みに種々に物事を良く分析し、巧みに諸々の教えを説き、言動は柔軟で人々の心を励まし喜びを与える。舎利佛よ、要約して言うならば、計り知れないほど多くの、しかも未だかつて示さなかった教えを、仏はことごとく身に付けている。 . . ここまで説明してお釈迦さまは舎利弗に告げます。 . . 止めよう。舎利佛よ。再びこの教えを説く意思はない。 . . 「えええ! なんで~」と舎利弗は思ったことでしょう。
お釈迦さまはその訳を次のように説明されます。 . . 理由は何故かというと、仏が身に付けているこの教えは、第一に優れ、類のない、理解しがたい教えであるからだ。ただ仏と仏だけが、あらゆる事物や現象や存在の、あるがままの真実の姿かたちを、究めつくすことができるのだ。 . . この言葉が意味するところは、お釈迦さまが伝えたい内容は言葉では伝えられない内容であるということです。なぜならそれは人間の概念を遥かに超えた仏と仏にしか伝わらない究極の法だからです。
第二時の法輪は、『般若経典』に依るところの空を中心とした説法です。第一時で析空を覚った声聞が縁覚に昇格して体空を覚り、第三時法輪で法空を覚って菩薩の境涯に至ります。
第一時法輪の内容は、ゆゆしき『阿頼耶識システム』でも詳しくお話しております。宜しかったらご覧下さい。
説一切有部について https://zawazawa.jp/bison/topic/12
第二時法輪は「空」の理論としてこちらで詳しくお話しております。
「空」の理論 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5?page=2
第三時法輪については、↓こちらで詳しくお話して参ります。
四諦の「三転法輪」とは https://zawazawa.jp/bison/topic/14
大正大学仏教学研究科の塩入 法道 教授の下記論文で、
中国初期禅観思想における首樗厳三昧について https://ja.wikipedia.org/wiki/信濃国分寺
塩入教授は「首樗厳三昧」を次のように紹介されています。
首楊厳三昧は勇伏三昧、健相三昧などとも訳され、古来多くの三昧の中でも特に重視されていた三昧である。この三昧はその名を冠した『首榜厳三昧経』に詳説されているが、『大智度論』等にも重要な三昧として度々言及されている。また『首樗厳三昧経』の思想は『般若経』『十地経』『維摩経』と密接な関係にあり、『法華経』『浬薬経』にも影響を与えている。首樗厳三昧の特徴は般若空観を思想的背景にもちながら、理念としての空観にとどまらずこれを積極的に実践に適応させているところにある。
天台宗「信濃国分寺」の住職でもあられる塩入教授は更に、
つまりこの三昧は高次の菩薩の三昧であり、凡ての禅観、三昧を摂し、いかなる行為中にあっても常に六波羅蜜を心にかけ、衆生を教化していくものであり、明らかに大乗菩薩の禅観である。
と述べられております。しかし首樗厳三昧の具体的実践については僧伝の類にもあまり記述がなぐ、詳細は知ることができないと言い、この三昧がどのように中国人僧に受容され、実践されたかをより具体的に知るには、南岳慧思つまり天台智顗の師匠である南岳大師が顕した『随自意三昧』や『立誓願文』を見なければならないと述べられ、それらの文献をもとに次のような文章で南岳大師の考えをまとめられておられます。
(南岳慧思は)首榜厳三昧に入るためには随自意三昧を修行しなければならないと主張している。首樗厳三昧と随自意三昧は同二のものと言ってもよいが、般舟三昧とともに大乗三昧として重視されてきた首榜厳三昧は諸三昧の極致であり、十地の菩薩しか達成できないとされているので、そこに到る具体的な方法を随自意三昧として説き、新学の菩薩のために提示したのである。つまり、首樗厳三昧の根本思想---(省略)---いかなる行為においても禅定にあり、しかも常に六波羅蜜を実践するということが理解できない者のために随自意三昧を説くというのである。慧思の随自意三昧の特色は次の通りである。
これらのうち2、3、4、5、7等は『首樗厳三昧経』には直接は説かれておらず、慧思の独創によると考えられる。
首樗厳三昧は、それが中国に伝わつて以来、中国仏教の禅観の展開に多大な影響を与えた。そして傅翁や慧思、さらに本論では触れていないが、天台智顕や後の禅宗の人々の実践思想を生み出す源泉のひとつになったことは確かである。
『佛説首楞嚴三昧經』 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0642_,15,0629b12&key=佛説首楞嚴三昧經卷上&ktn=&mode2=2
16観法では、第9の観から第12の観までが第三時における法輪となりますが、「第9の観」で注目すべき点はここで「念仏三昧」という言葉が出て来るという事です。
この事を見るものは、すなはち十方の一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもつてのゆゑに念仏三昧と名づく。
「念仏三昧」について説かれている初期仏典に支婁迦讖訳の『般舟三昧経』がありまして、
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0048/DB00480L017.pdf
内容を見てみると解りますが、これは「瞑想」ではなく「観法」となっております。瞑想は、止と観とからなりますが、その内容はまず「サマタ瞑想」で五蘊の働きを次第に止滅させ、意識を表層の第六意識から深層の第七意識へ移行させます。そこからは「ヴィパッサナー瞑想」で仏の意識を観じ取っていきます。いわゆる上座部が行う「九次第定」の瞑想がこれです。
それに対し三昧という観法については、澤﨑論文で簡素に紹介されておりますので参照されてみては如何でしょう。
『大智度論』における般舟三昧と首楞厳三昧の関係(澤﨑 瑞央) https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/69/2/69_761/_pdf
(あと話しておく内容) (観音菩薩が顕れる) (念仏三昧でこの領域に入った阿羅漢が『般若心経』の説法を聴聞したのであろう。)
声聞衆が習得した「戒・定・慧」の三学と、縁覚衆が帰依した「仏・法・僧」の三法の相違についてお話します。
学問と言いますのは誰もが理解し納得しうるものでなければなりませんので「客観性」にもとづいた内容でなければなりません。仏門に入りながらも未だ実体思想から抜けきらない声聞という境涯に対し、お釈迦さまは客観性をもって教えを示されます。そこでの教は戒律と禅定であり、それらを習得し八正道を歩むことで真理としての智慧を修学していきます。
声聞という境涯はまだまだ凡夫としての性分(客観視)が強く働いておりますので、実体を空じる行法が凡夫の概念に即した形(学問)で説かれたということです。
戒=仮(実体に即した修行) 定=空(実体を空じる修行) 慧=中(実体における真理)
では、縁覚衆が帰依した「仏・法・僧」の三法はと言いますと、「仏の空観」に意識を置いた『般若心経』の教えが示す以下の諸法の内容となります。
僧(仮観)=「色即是空」(順観) 仏(空観)=「空即是色」(逆観) 法(中観)=「色即是空 空即是色」 学問を語るのが学者です。法を語るのが僧侶(仏法者)です。
学者さん=客観性にもとづく主観の見解(客観思考) お坊さん=客観 → 主観 → 空観 → 中観(四観思考=四諦)
蔵教の第一時法輪で仏因を得た声聞衆は戒・定・慧の三学を習得して天上界へ転生します。天界のどこに転生するかと言えば、声聞の境涯での空の理解は浅い為(析空)、初禅天となります。初禅天はもとは実存の根源とされた「ブラフマン」を神格化したバラモンの神であった梵天が、仏法の守護神となったとされるものです。
第二時の法輪で『般若心経』を理解するに至った阿羅漢衆(縁覚)は、第二禅天へ転生します。第三時法輪で第三禅天へ転生するのは『唯識』を覚った菩薩衆となり欲界の六道の上に声聞・縁覚・菩薩といった転生によって生まれ出でる禅天が色界に存在します。その色界の最上部に位置するのが仏界(四禅天)です。
第一時法輪で蔵教の声聞衆が戒・定・慧の三学を習得して初禅天へと転生していったのに対し、第二時(通教)法輪の縁覚衆は仏・法・僧の三法に帰依することで第二禅天に転生します。その事が『観無量寿経』の「第五の観」と「第六の観」に次のようにとかれております。 . . <第五の観> 次に、まさに水を想ふべし。水を想ふとは、極楽国土に八池水あり。一々の池水は七宝の所成なり。その宝柔軟なり。如意珠王より生じ、分れて十四支となる。一々の支、七宝の色をなす。黄金を渠とし、渠の下にみな雑色の金剛をもて、もつて底の沙とす。一々の水のなかに六十億の七宝の蓮華あり。一々の蓮華、団円正等にして十二由旬なり。その摩尼水、華のあひだに流れ注ぎ、樹を尋りて上下す。その声微妙にして、苦・空・無常・無我・諸波羅蜜を演説す。また諸仏の相好を讃歎するものあり。如意珠王より金色微妙の光明を涌出す。その光、化して百宝色の鳥となる。和鳴哀雅にして、つねに念佛、念法、念僧を讃ず。これを八功徳水想とし、第五の観と名づく。 . . <第六の観> 衆宝国土の一々の界上に五百億の宝楼閣あり。その楼閣のうちに、無量の諸天ありて天の伎楽をなす。また楽器ありて虚空に懸処し、天の宝幢のごとく、鼓たざるにおのづから鳴る。この衆音のなかに、みな念佛、念法、念比丘僧を説く。 この想成じをはるを名づけて、ほぼ極楽世界の宝樹・宝地・宝池を見るとす。これを総観の想とし、第六の観と名づく。もしこれを見るものは、無量億劫の極重の悪業を除き、命終ののちにかならずかの国に生ず。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。 . . 『観無量寿経』の16観法は、四種四諦を説くものですから第五~第八の観が第二時法輪の四諦を示しております。第七の観では、第二禅天の無量寿仏(阿弥陀佛)を観法として観じることが説かれております。 . . <第七の観> 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴き、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。なんぢら憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。 この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。 ときに韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼して仏にまうしてまうさく、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべきや」と。 仏、韋提希に告げたまはく、「かの仏を観たてまつらんと欲はんものは、まさに想念を起すべし。七宝の地上において蓮華の想をなせ。その蓮華の一々の葉をして百宝の色をなさしめよ。八万四千の脈あり、なほ天の画のごとし。脈に八万四千の光あり、了々分明に、みな見ることを得しめよ。華葉の小さきは、縦広二百五十由旬なり。かくのごときの蓮華に八万四千の葉あり。一々の葉のあひだにおのおの百億の摩尼珠王ありて、もつて映飾とす。一々の摩尼、千の光明を放つ。その光り蓋のごとく七宝合成せり。あまねく地上を覆へり。釈迦毘楞伽宝をもつてその台とす。この蓮華の台は、八万の金剛・甄叔迦宝・梵摩尼宝・妙真珠網をもつて交飾とす。その台の上において自然に四柱の宝幢あり。一々の宝幢は百千万億の須弥山のごとし。幢上の宝幔は、夜摩天宮のごとし。また五百億の微妙の宝珠ありて、もつて映飾とす。 一々の宝珠に八万四千の光あり。一々の光、八万四千の異種の金色をなす。一々の金色、その宝土に遍し、処々に変化して、おのおの異相をなす。あるいは金剛の台となり、あるいは真珠網となり、あるいは雑華雲となる。十方面において、意に随ひて変現して仏事を施作す。これを華座の想とし、第七の観と名づく」と。 . . ここで言う七宝は『法華経』にも出てきます七つの宝で飾られた宝塔、即ち『南無妙法蓮華経』を意味しております。蓮華という言葉が至る所に織り込まれ第八の観では『妙法』という文字が示されます。 . . <第八の観> 仏、阿難に告げたまはく、「かくのごときの妙華は、これもと法蔵比丘の願力の所成なり。もしかの仏を念ぜんと欲はんものは、まさにまづこの華座の想をなすべし。この想をなさんとき、雑観することを得ざれ。みなまさに一々にこれを観ずべし。一々の葉・一々の珠・一々の光・一々の台・一々の幢、みな分明ならしめて、鏡のなかにおいて、みづから面像を見るがごとくせよ。この想成ずるものは、五万劫の生死の罪を滅除し、必定してまさに極楽世界に生ずべし。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度阿羅訶三藐三仏陀を観ずべし。かの仏を想はんものは、まづまさに像を想ふべし。閉目・開目に一つの宝像の閻浮檀金色のごとくにして、かの華上に坐せるを見よ。像の坐せるを見をはらば、心眼開くることを得て、了々分明に極楽国の七宝荘厳の宝地・宝池・宝樹行列し、諸天の宝幔その上に弥覆し、衆宝の羅網、虚空のなかに満てるを見ん。かくのごときの事を見ること、きはめて明了にして、掌中を観るがごとくならしめよ。この事を見をはらば、またまさにさらに一つの大蓮華を作して仏の左辺におくべし。前の蓮華のごとくして等しくして異あることなし。また一つの大蓮華を作して仏の右辺におけ。一つの観世音菩薩の像、左の華座に坐すと想へ。また金光を放つこと、前のごとくにして異なし。一つの大勢至菩薩の像、右の華座に坐すと想へ。この想成ずるとき、仏・菩薩の像はみな光明を放つ。その光金色にしてもろもろの宝樹を照らす。一々の樹下にまた三つの蓮華あり。もろもろの蓮華の上におのおの一仏・二菩薩の像ましまして、かの国に遍満す。この想成ずるとき、行者まさに水流光明およびもろもろの宝樹・鳧・雁・鴛鴦のみな妙法を説くを聞くべし。出定・入定につねに妙法を聞かむ。行者の聞きしところのもの、出定のとき憶持して捨てず、修多羅(経文)と合せしめよ。 もし合せざるをば、名づけて妄想とす。もし合することあるをば、名づけて粗想に極楽世界を見るとす(後にのべる眞観と比べて粗とする)。これを像想とし、第八の観と名づく。この観をなすものは、無量億劫の生死の罪を除き、現身のうちにおいて念仏三昧を得ん」と。 . . そして次の第三時にあっては、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。」とありますように如来の世界観へと入って行きます。(中諦)
今、四諦の「三転法輪」についてお話をしておりますが、これは最初に紹介しましたように『解深密経』で説かれている内容です。この『解深密経』は弥勒が説いた事になっておりますが、仏教の真髄を分かっていない学者さんなどは、弥勒菩薩と同じ名の人物が実在していたのだろうなどと主張されたりしておりますが、解脱を習得した阿羅漢が色界禅定で禅天に入ってそこで弥勒菩薩の説法を聞いて来たものだと考えられます。
その『解深密経』の記述から考えると、第一時の小乗の教えはアビダルマ、特に説一切有部の思想(有)、第二時の大乗の教えは般若思想(空)、そして第三時の一切乗の教えは唯識思想(中)となります。二辺を廃して中道を立てるという三教(有・空・中)の構造を玄奘三蔵の弟子である慈恩大師は『法華玄賛』において、それぞれに具体的な経典を当てはめております。第一時教は「阿含経等」、第二時教は「大般若等」、第三時教は「華厳経等」であると。三教の「有・空・中」の有は仮の事ですので次のようになります。
<四諦の三転法輪> 第一時 仮=「阿含経等」 第二時 空=「大般若等」 第三時 中=「華厳経等」
慈恩大師は、この三時を『義林章』では『解深密経』のみならず『金光明経』や『涅槃経』にも説 かれているといい、『法華玄賛』では、『菩薩善戒経』や『法華経』にも説かれていると述べております。『法華経』のそれは三時が直接示されている訳でなく、「開三顕一」や「三周の説法」といった法理において施されているところです。
「三転法輪」の一回目は、仏門に入ってもなお未だ実体思想から離れられないでいる「声聞」という境涯を対象としてなされた説法です。ここでのお釈迦さまの目的は、まずは弟子達を実体思想から離れさせる事にありました。ですからここで示された「四諦」と「八正道」は次の二回目の四諦の説法へと導く為に未だ実体思想から抜け出せないでいる声聞の弟子達を六道輪廻から解脱させ色界へと転生させる為に示された修行内容となっております。
この「解脱」についてですが、但空におちいった修行者の中に、仏教で説く真理は無為の境地(無の境地)なので縁起は起こらず転生はあり得ないと考え、「死後の世界などない」とか「輪廻はあり得ない」と考える人達がおられます。そういった人達が根拠とされるお釈迦さまの言葉に、『中阿含経』や『中部経典第63経』で説かれている「毒矢の喩え」があります。
この喩えは、〝悟り〟よりもまず、〝解脱〟を習得する事の重要性を覚らせる為に説かれたお話です。 . . <毒矢の喩え>
「世の中は常住なるものか。無常なるものか。世界に果てがあるのかないのか。霊魂と肉体は同一か別なのか。死後の世界は存在するのかしないのか」
このマールンクヤの問いに対してお釈迦様は一切答えられず、次の喩をマールンクヤに諭します。
「ある人が毒矢に射られたとする。すぐに治療しなければならないであろう。ところが矢を抜く前に、一体この毒矢を射たのは誰か。弓はどのようなものであるのか。 どんな鏃やじりがついていて、弦つるは何でできているのか。矢羽はどんな鳥の羽であるのかが分からないうちは、矢を抜くことはならぬと言っていたら死んでしまうであろう。必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである。」
お釈迦様は更に言いました。
「生があり、老いがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶え等、人生の苦しみを解決する道があるから私は説いている。毒の矢を抜き去るように苦を速やかに抜き去ることが、いちばん大事なことではないのか」
お釈迦様は、優しい眼差しで、マールンクヤに話します。
「汝はそれらの問いに拘り続けている。マールンクヤよ、世界は常住とか、無常であるとかが解っても、生老病死、 愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、 五蘊盛苦の四苦八苦から自由になる事はないであろう。 私たちはそれらの一切皆苦の現実を見極め、自らの煩悩を克服する事を願っている」
そう言ってお釈迦様は、マールンクヤを次のように諭します。
「悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう。ただしその境地に達したとしても、歳をとり、病気になり、死んでいく、ということを避けることはできない。 ならば何も解決していないではないかと思いたくなるが、真理を悟った人であっても感覚や感受性は変わらないから、悟った人も悟らない人も矢で射られれば同じように痛い。病気になれば同じように苦しい。美しい花や宝石を見れば同じように美しいと思う。 これは誰しも等しく受けるものである」
「ところが真理を知らない人はさらに病気になれば不安と悲しみと疲労に襲われて絶望し、美しい花や宝石を見れば美しいと思うだけでなく、盗んででも自分のものにしたいと執着する。真理を知らない人は良いことも悪いことも全て苦の原因にしてしまう。 しかし悟った人は事実を受け入れても、苦の原因に執着しないのである。今大切なことは、苦悩、煩悩を克服し、心豊かに生きることにある。その苦しみをどうすれば無くすことが出来るかという事だ。真理を知ることよりも先にやるべきことがある」
このように、
「真理を知ることよりも先にやるべきことがある」
と、言われております通りお釈迦さまは、「三転法輪」の一回目に於いては「解脱」という行法を最優先して声聞の弟子達に諭します。
なぜかと言いますと、仏の本当の意味での説法は「解脱した領域」でなければ本当の仏の説法とはならないからです。
最初に四諦の「三転法輪」の話をしましたが、この蔵教で明かされた「五蘊」や「十二因縁」のお話は一回目の四諦の説法です。四諦の内容を思い出して下さい。
苦諦 - 実体視は苦でしかないという真理。 (客観) 集諦 - 苦の原因は愛執に集約されるという真理。(主観) 滅諦 - 苦を滅した悟りの境地があるということ。(空観) 道諦 - 仏道の実践でその境地に至るということ。(中観)
「五蘊の働き」により人は物事を実体視することでモノに対する執着が生まれ、煩悩が起こり苦しみが生じます。(苦諦)
十二因縁はその五蘊を起こす肉体がどういうシステムで形成されるかを説き明かしたものです。(集諦)
そして、お釈迦さまは「四諦」を説くことで滅諦を示し、最終的に「八正道」をもって蔵教の衆生を覚りの道へ導きます。
今お話しておりますのは「蔵教」、即ち三蔵教とも言われます小乗仏教で展開された仏教の教えの内容です。
小乗仏教で詳しく明かされた「十二因縁」の内容は次の通りです。
十二因縁は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12の支分からなります。 . . 1.無明(むみょう):過去世よりの無始の煩悩の事で、煩悩は迷いの心が因となって起こります。
2.行(ぎょう):行為のことで、人間が過去世で煩悩によって作ってきた様々な業(善悪の行為)のこと。
3.識(しき):過去世の煩悩と業によって、この世の母親の胎内で生を受ける最初の心。最初の一念。
4.名色(みょうしき):識が具体的な形となったものです。「名色」の「名」は心、「色」は形を表しています。
5.六処(ろくしょ):眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官の事で、眼、耳、鼻、舌、身、意の六感が形成され六根が形成されます。
6.触(そく):母体から生まれ出て外界の物に触れる事を言います。
7.受(じゅ):外界から種々の言語や知識を受け取り、また経験していくことで人格が次第に形成されていきます。
8.愛(あい):人格が形成されていくことで自我が芽生え、自愛が深まっていきます。
9.取(しゅ):物事に対する執着のことで、執着の心から欲が盛んになっていきます。
10.有(う):欲に支配され物事に執着して生きてた人は、その執着が因となって再び欲界に生まれ出る結果が定まります。生前に積み重ねてきた業によって未来の果報を有すること。「愛」「取」の煩悩に引きずられ、色々な悪業を造って未来に輪廻転生する種を残します。
11.生(しょう):現世で造った業(振舞い)によって未来に生まれること。
12.老死(ろうし):生まれてから老衰してやがて死んで行き、また未来世に生まれ輪廻すること。
「学者が説く仏教」を学んであやまった仏教観に陥っている人達は、「自分は存在しない」と思い込んで「五蘊はもとから存在しない」などとおかしな主張をされたりもしますが、「仏が説く仏教」では五蘊をどのように説いているのかを紹介します。
五陰とは、「色・受・想・行・識」のことで人間が外の世界を認識する働きを示したものです。
色(しき)は、色相(姿・形)を意味し、受(じゅ)はそれを感じ取る感覚いわゆる五感を意味します。人は外界のありさま(色相)を自身の肉体に具わる感覚器官である五感をもって感じ取り、感じ取った情報を脳の中の記憶と照らし合わせて行動に転じます。この記憶と照らし合わせる作業を想像の「想」をもってあわらし、「行」としての行動に転じてその一連の結果が意識(識)として統合され記憶に蓄えられていきます。
例えば、職場で苦手な上司がいるとします。なぜ苦手なのかと言えば、過去にその上司との間で嫌な経験があったからです。ですからその上司の顔(色相)を見る(受)と過去の嫌な記憶がよみがえって(想)、避けるように身を隠します(行)。その一連の行動が自身の記憶の中に識として蓄えられていきます。認識出来る意識層が第六識の表層意識ですが、本人の意識が及ばない深層意識にトラウマとなって無意識的に潜在的に働く意識(第七末那識)もありますが、初期仏教ではそこまで詳しくは明かされておりません。
正確に言えば初期仏典においてお釈迦さまは全てを説かれておりますが、簡単に理解出来る内容から順に解き明かされ次第に高度な教えがひも解かれていきます。それが「蔵教・通教・別教・円教」といったの四教の教えの区分です。
実体のありようを分析し、そこで起こっている問題点をクリアするのが「空」の第一段階の理解でこれを「析空」と言います。
詳しくはこちらで説明しております。
「空」の理論 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5
この「自我」がどのようにして形成されるのかをお釈迦さまは『阿含経典』の中で人間の五蘊の働きとして詳しく説き明かされます。
自我は、人間の意識として存在しておりますが、では人間の「肉体」はどのようなシステムによって形成されるのかと言えば、お釈迦さまはそれを十二因縁(十二縁起とも言う)として詳しく説き明かされました。
人は「自我」によって自分の事を自分だと思い込んでおりますが、
「それは違いますよ!」
その自我はあなたが勝手に思い込んでいる自分であって本当のあなたではありません。なので、
「そのあなたの勝手な思い込みによる〝自我〟をまずは取り消しましょう!」
というのが仏教でいう「無我」です。
「自分はなんて不幸な人間なんだろうか」とか、
「自分だけどうしてこんなに辛い思いをしなくてはいけないのだろう」とか、
「自分はどうしてこんな病気になってしまったんだろう」とか、
人間ってよくよく考えてみますと、果たしてどれだけの人が「自分という存在」に、納得して生きているものでしょう。
実は人間って自分が思っている程、自分の事をあまり良く知り得ていないものなんです。
ここで言う「自分が思っている自分」というのが「自我」です。
そして今そこに存在しているあなた自身が「自分」です。
「自我」によってあなたは「自分」を自分だと思い込んでいませんか?
初期仏教ではこの「自分と自我」の関係について詳しく説き明かされております。
「自分の事は自分が一番分かっている」などと言いますが、
あなたは自分という存在をどのように認識されてますか?
というのが「無我」のお話です。
言いかえれば、
「あなたはどれだけ〝自分〟を正しく理解出来ていますか」
と言うことでもあります。
仏教の重要な概念の一つに「空」があります。
『般若経典』でその空は詳しく説かれておりますが、龍樹がその空を『中論』で詳しくひも解いております。では、お釈迦さまは空をどのように説かれたかと言いますと、お釈迦さまは「無我」として空を説かれました。
無我と言いますと「自分と言う者は実は存在しない」とか「主体が無い」「自我は無い」などと言った事だと思っている方が沢山おられます。実はこれも中村 元 大先生が弘められた「まちがった無我の解釈」になります。
「自分が自分だと思っている自分って実は存在しないんですよ!」
と言われてあなたは納得出来ますか?
思いっきり頬をつねってみて下さい。
痛いですよね。
痛みを感じている自分がそこに居ますよね。自分は間違いなく存在しているんです。お釈迦さまが言われている「無我」は、「自分という存在を認めない」事ではなく、「〝自我〟をもって自分と思ってはいけませんよ」という事なんです。その事をお釈迦さまは次のような言葉でもって説明なされております。 . . 自我に拠って自己を見ず、 精神を統一し、姿勢正しく、自ら安立し、 動揺することなく、心は静かで、疑惑もない。 こういう境涯に至った人こそ、供養を受けるにふさわしい。 『スッタニパータ』477 . . この件に関して、奈良 康明文学博士のおもしろい論文を見つけましたので紹介します。
https://zenken.agu.ac.jp/research/48/15.pdf
博士は、日本の仏教学者・曹洞宗の僧侶であり東京大学から文学博士を授与されており、役職として駒澤大学学長、総長を経て、同大学の名誉教授となっておりまして、僧侶としても法清寺の住職を経て東堂となり、また、永平寺の西堂を務めたりされた方です。
論文の中で博士は、「主体が無い」とか、「自分は存在していない」と考えることがお釈迦さまが説かれた〝無我〟であると主張する一部の上座部の無我解釈が、今では古い考えであるという事を私たちは学ばなければ、正しい仏教観には立てないということを主張されておられます。
先ほどのお釈迦さまの言葉ですが、直訳すると「自己によって自己を見ず」となりましてそれをもって中村先生などは、仏の見識に立てば「自己は存在しない」と考えられた訳です。これは「自己と自我」を同等にみる考えです。奈良 康明 博士は、ここはとても大事なところなので何人かの研究者の訳を引き合いに出され並べて紹介なされておられます。
中村 元:自己によって自己を観じて(中村1993・538頁) 渡辺照宏:自己には自我なしと洞察し(渡邊1982・145頁) 宮坂宥勝:自分に自我を見ることなく(宮坂2002・123頁) 榎本文雄:自我にとらわれて自己を見ることなく(榎本1986・191頁) 村上真完・及川真介:自ら自我を見ず(村上・及川2009・(三)128頁)
中村先生だけが「自己によって自己を」と原文通りに二つの自己を並べていますが、他の先生方は自我と自己とに分けて訳しておられます。そうしないと意味が正しく伝わらないからです。
他の先生方の表現は、「真の自己は〝自我〟によって把握されるべきものではない」といったことを意味しております。
中村先生は仏教学会の権威ですからその影響力は大きく、ウィキペディアの「中観派」の解説ページでも以下のような先生のあやまった仏教観があたかも真実かのように紹介されております。
https://ja.wikipedia.org/wiki/中観派#:~:text=中観派(ちゅうが,基本典籍とする学派。
その解釈(天台の三諦説の事)がナーガールジュナの原意を得ているかどうかについて、中村元は『中論』の原文とチャンドラキールティの註釈などを用いて検討し[23]、結論としては、インドの緒註釈によってこの『中論』第24章第18詩の原意を探るならば、この詩句は縁起・空・仮名・中道という4つの概念が同趣意のものであるということを説いたにほかならず、天台宗や三論宗が後世の中国で説いたように「空をさらに空じた境地に中道が現れる」と考えたのではなかったことが明らかであるとしている[24]。
龍樹は『中論』の中で明らかに三諦を説いております。
中村先生が学者(客観思考)なるがゆえに、それを読み取れていなかっただけの事です。その中村先生のあやまった仏教観は今日の仏教学会では度々指摘されるところとなってきておりますが、そこのところをご存知でない方々の為に少々お話しておきます。
『西遊記』で有名な三蔵法師は、629年にシルクロード陸路でインドに向かい、中国に657部もの経典や仏像などを持って帰還した玄奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)がモデルです。
唯識思想の体系を中国に伝えたのも玄奘で、弟子の慈恩大師が開いた宗派が法相宗です。玄奘はインドで瑜伽行派の戒賢に師事し三転法輪説を修得している。三転法輪説にあっては、 『解深密経』の無自性相品に次のように説かれております。
釈尊は初め第一時にただ声聞乗のために四諦の教えを説かれたが、それは未了義の教えであった。また、昔第二時にただ大乗のために無自性の教えを隠密に説かれたが、それも未了義の教えであった。しかし、今第三時に普く一切乗のために無自性の教えを顕了に説かれた。これこそが了義の教えである。
この三時における釈迦の四諦説法説は、インド瑜伽行派の仏教史観が反映されたもので、天台智顗も同じように四種四諦を説いております。『解深密経』は四教の区分で言えば別教にあたりますので智顗の四種四諦は円教をくわえた四種となります。
インド瑜伽行派の『解深密経』に依るところの三転法輪は、第一時の小乗の教えはアビダルマ、特に説一切有部の思想(有) 、第二時の大乗の教えは般若思想(空) 、第三時の一切乗の教えは唯識思想(中)を意味しており、二辺を廃して中道を立てる「有・空・中」の三教構造からなります。
智顗は「仮・空・中」の三諦として円融三諦を顕しますが、その思想は明らかにインド瑜伽行派のインド仏教思想を継承したものなのですが、こともあろうかあの仏教学の権威とまで言われた中村 元 大先生が、智顗の三諦説はインド仏教には見られない中国仏教独自の思想であるなどと言われましたものですから今日の日本における仏教観は、大変おかしなことになっております。
ネットユーザーの中にも「天台教学は智顗のオリジナルであって釈迦仏教ではない」などといったあやまった考えを持っておられる方が沢山おられます。
仏教における「空」という概念を学ぶ時、多くの方々が中村 元 著書の『龍樹』を手に取って学ばれた事かと思われます。その252ページに、
『中論』を研究したスチェルバツキー、インドP・L・ヴァイディア、同じくN・ダットなどの二、三の学者は、この詩句はたんに、縁起、空、仮名、中道という四つの概念の同一であることを意味していると考え、三諦の思想に言及していない。
と述べ更にチャンドラキールティ(月称)の言葉を引用して、
空がすなわち中道であり、中国一般の解釈のように空を空じた境地に中道が現れるのではない。(P.254)
などとおかしな仏教観を紹介し、
こういうわけで空、仮名、中道は皆縁起の同義語である。(P.255)
といったあたかも「空=仮名=中道=縁起」といった誤解を招く表現をなされ、
天台でいうような三諦の説はどこにもみえず、これらの諸語を同義とみなしている。(P.255)
とまで言いきっておられますので、困ったものです、、、、、。
この一回目と二回目の違いは一回目が第六意識で起こる四諦で、二回目は末那識の第七意識で起こる四諦です。「法空・非空」を覚らないと二回目の四諦は起きません。
析空や体空は「人空」で第六意識で起こる四諦ですので「仏の空観」には入れておらず「欲界の六欲天」に意識は入ります。「空」の法空や非空が理解出来てはじめて人間の意識(第六意識)から解脱して色界の仏の空観に入れます。
析空や体空(人空)で禅定を行っているのが禅宗やヒンズー教などの但空を説く宗教です。
但空とは、「空」を実在思想の「有る無し」で理解し、たんなる「無」だと勘違いしてしまった空の理解です。
こちらの禅宗の解説動画をご覧ください。 https://www.youtube.com/watch?v=nNEUgdj_cuc
「1:11:38」あたりを再生されてみて下さい。空を何にもない無であると講師の仏教学の先生が講義されておられます。そもそも僧侶が、学者さんから仏教を教わっていること自体あり得ない話なのですが、こちらでお話しましたように、
法介のほ~『法華経』--- その① https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/6
末法の僧侶は「名ばかり」の僧侶ですのでそうなってしまうのでしょう。
詳しく説明しますと返って混乱させてしまいますので、シンプルに言います。
くり返しているのです。(四諦の三転法輪)
今回は二回目です。
一回目は仮の実在の世界観(欲界)です。
今回の二回目は空の世界観(色界)です。
では第三禅天はどうでしょうか。
【第三禅天】 ◆少浄光天(しょうじょうこうてん) ・身体から絶えず浄光が出ている梵衆天 ・身長・・・16由旬(約208㎞) ・寿命・・・16劫(691億2000万年)
◆無量浄光天(むりょうじょうこうてん) ・身体から絶えず無量の浄光が出ている梵補天 ・身長・・・32由旬(約416㎞) ・寿命・・・32劫(1382億4000万年)
◆遍照光天(へんじょうこうてん) ・身体から浄光が満ちあふれている大梵天 ・身長・・・64由旬(約832㎞) ・寿命・・・64劫(2764億8000万年)
この解説文では第三禅天では「浄光」が強調されておりますが、その意味するところが見えてきませんのでこちらのサイトの解説文に目を通して見ましょう。
【流れる時代を見る】 http://thetimes.seesaa.net/article/431120434.html
第三禅天 喜ぶを※捨(しゃ)し、正念、正見(すなわち念慧)を得ながら楽と共にある状態 ※捨(心の平静、心が平等で苦楽に傾かない事)
とあります。この「捨(しゃ)し、正念、正見(すなわち念慧)を得ながら楽と共にある状態」の文をググってみますと、ウィキペディアの次の解説ページが検索結果の最上部に表示されます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/四禅
なんと四禅の第三禅の解説文です。
初 禅 - 諸欲・諸不善を離れ、「有尋有伺」ながらも、離による喜・楽と共にある状態。 第二禅 - 「無尋無伺」[注釈 2]であり、内清浄による喜・楽と共にある状態。 第三禅 - 喜を捨し、正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。 第四禅 - 楽が止み、不苦不楽の受が存在する状態。
今わたしは無色界禅定の第三禅についてお話をしています。なのになぜ色界禅定の第三禅の解説に戻ってしまったのでしょう。
次に色界の四禅天の第二天ですが、ここでもある事に気づきます。無色界へと向かう禅定の第二禅では「識」を空じて「識無辺処」に入ります。四禅天の第二天は次のような内容です。
【第二禅天】 ◆少光天(しょうこうてん) ・身体より光明を放つ梵衆天 ・寿命・・・86億4千万年
◆無量光天(むりょうこうてん) ・身体より無量の光明を放つ梵天の大臣 ・寿命・・・172億8千万年
◆発光天(はっこうてん)または光音天 ・身体より雷鳴のような明るさの光を放つ大梵天 ・寿命・・・345億6千万年
ここでは「光」が強調されておりますが、中でも「無量光天」と聞いて何か思い当たる事が御座いませんか?
そうですあの阿弥陀佛の別名が「無量光佛」で、阿弥陀佛と言えば「光明が永遠にわたってかがやき、めぐみのはてしがない仏」として説かれている仏です。空理(空の理論)では「法空」の次に仏の空観を空じる「非空」が最後に空じる対象としてありますが、この空観を空じた「非空」にあっては、欲界・色界・無色界の三界の空間を仕切っていた空間の壁が無くなります。すると欲界にあった凡夫の心の中に色界に居るはずの阿弥陀佛の姿が顕れます。
しかし、最初に行う色界禅定の第4禅で空観に入る訳ですから次に行う無色界禅定の第1禅はその空観、即ち色界に意識はあるはずです。その色界の構造が下に示す四禅天の図ですが「仏教の教えと瞑想〜原始仏教の世界」で紹介されております四禅天の解説文とを良く見比べて思案しますと気づきませんか。
【色界の四禅天の構図】 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d2/色界十八天.PNG/450px-色界十八天.PNG
【色界の四禅天の解説】 https://www.bukkyouoshie.com/tenkai/sikikaibonten.html
◆梵衆天(ぼんしゅうてん) ・第一天 ・身長・・・半由旬(約6.5㎞) ・寿命・・・半劫(21億6千万年)
◆梵輔天(ぼんほてん) ・第二天 ・大梵天王を補佐する大臣 ・身長・・・1由旬(約13㎞) ・寿命・・・1劫(43億2000万年)
◆大梵天(だいぼんてん) ・第三天 ・いわゆる「梵天」。バラモン教やヒンドゥー教のブラフマー神がこの大梵天。 ・身長・・・1由旬(約13㎞) ・寿命・・・1劫半(64億8千万年)
梵衆天・梵輔天・大梵天の寿命の長さです。人間の時間の概念から明らかに抜け出ています。「空」の理論では時間の概念を空じて「法空」に入ります。(五蘊を完全に空じた状態=人間の第六意識の止滅)
色界に入る為に行う色界禅定の四禅と、色界として存在する四禅天の違いが解かるとある重大な事に気がつきます。
それが何かと申しますと色界禅定でまず色界に入ります。そして無色界禅定で無色界へ向かうのが「九次第定」なのですが、この無色界禅定がどの空間で行われるかといった問題です。
定説ですとウィキペディアの解説にあります通り、 . . https://ja.wikipedia.org/wiki/無色界
空無辺処 無色界の第1天。定を抑える一切の想を滅し、虚空(Ākāśā;何もない)に果てがない(無辺; anattā)であると思惟する定。 識無辺処 無色界の第2天。識(ヴィニャーナ)に果てがない(無辺)であると思惟する定。 無所有処 無色界の第3天。何物も無しと思惟する定。 非想非非想処 無色界の最高の天。非有想非無想処とも。何物も無しと思惟する定を超えて極めて昧劣な想のみが存在する定。有における天界の最上部であるため、有頂天とも呼ばれる。 . . 無色界禅定の第1禅で無色界の空無辺処に入り、第2禅で無色界の識無辺処、第3禅で無色界の無所有処、最後に行う第4禅で非想非非想処へ入ると考えられております。
実はこの四禅には、定静慮と生静慮の二種ありまして、「生静慮」は天上界の十七天に再び生を受けて転生することを言います。それに対して「定静慮」は現世において禅定で色界へ意識として入ることを言います。今ここでお話しておりますのは禅定で色界へ入る「定静慮」のお話です。「定静慮」では四禅で五蘊を完全に空じた後に色界へ入ると説かれております。
梵衆天・梵輔天・大梵天の住む梵世の初禅天や少光天・無量光天・極光浄天が居る二禅天、少浄天・無量浄天・遍浄天が住む第三禅天、無雲天・福生天・広果天・無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天が住む第四禅天は、「生静慮」の四禅天のお話です。
この二つの四禅を混同されている方がおられますが、四禅と四禅天とは内容が異なります。 . . ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/四禅 四禅とは、初期仏教で説かれる禅定の4段階のこと。九次第定のひとつをなす。三界の内の色界に相当し、この言葉は、禅定の段階に応じてこの色界を4分割した四禅天の略称としても用いられる[1]。禅天の意味で用いる場合は、初禅天から三禅天まではそれぞれ三種の天をとり、四禅天については外道天などを含む九種の天をとって合計で十八禅天あるとする。ただし、四禅天には諸説あって合計で十六禅天とすることもある。 . . こちらのWeb版「新纂浄土宗大辞典」などは、完全に読む人に誤解を生じさせてしまうような表現となってしまっております。 http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/四禅天
『南伝大蔵経』には、
「婆羅門、是の如く此の梵行は利養、恭敬、名声を功徳とせず、戒成就を功徳とせず、定成就を功徳とせず、知見を功徳とせず。婆羅門、此は彼の不動の心解脱なり、婆羅門、此の梵行は其を目的とし、其を心材とし、其を究竟とすと。」(9巻、361頁)
とあって、戒も禅定も途中であり、目標は、「心解脱」であるとします。「心解脱」とは人間の第六意識からの解脱を意味し『南伝大蔵経』によれば、四禅で全ての五蘊を空じる事で解脱する順序とります。
初期仏典で説かれているこの四諦を、「客観・主観・空観・中観」に割り当てて考えると様々な事が読み取れてきます。
例えば、龍樹が『大智度論』の中で顕した四悉檀(ししつだん)ですがこの四つの悉檀は空の理解の深さの違いから起こります。
① 析空=客観を空じる ② 体空=主観を空じる ③ 法空=法を空じて仏の空観に入る ④ 非空=仏の空観を空じて中観に至る
①と②は未だ第六意識の中の人空です。③で五蘊を全て空じて法空を観じて仏の空観(色界)に入ります。
「九次第定」の色界禅定では第一の初禅は、「有尋・有伺」と言われ、そこに心の統一は成立しているが、しかしなお尋(vitarka 覚)と伺(vicara 観)とが心中に活動している状態です。有尋と有伺の意味するところはつかみ難いとされていますが、『倶舎論』では、
尋伺の別とは、謂わく、心の麁細なり。心の麁性を尋と名づけ、心の細性を伺と名づく。 と述べ、心の粗い作用が尋、微細な作用が伺であると解釈しています。また『清浄道論』では、
尋求が尋である。(それは)思考であると説かれた。それは、対象に心を結合することを特質とする。
さらに「伺」とは、
伺察が伺である。(それは)熟考することであると説かれた。対象を思惟することを特質とする。
と説明されている。これらの事から「尋」が客観による認識で「伺」が主観による認識であろうと考えられます。
この四諦の「三転法輪」は、初転法輪・中転法輪・後転法輪と呼ばれ、初転法輪は声聞乗に対して、中転法輪は縁覚乗に対して、後転法輪は菩薩乗に対してそれぞれ説かれます。この四諦がなぜ3回繰り返し説かれるのかという事は、『法華経』の開三顕一の理論と同じで声聞・縁覚・菩薩といった三乗のそれぞれの機根に応じて四諦が説かれて行ったのではないかという事が経文の内容から読み取れます。
天台智顗は『勝鬘経』と『涅槃経』を根拠として「四種四諦」の教義を顕しますが、これは四諦の「三転十二行相」とおしらく深く関わってくるものだと考えられます。三回繰り返し説かれる「三転十二行相」ですがそれを説く仏の劣応身・勝応身・報身・法身の四身をくわえますと「四種四諦」となるからです。そして智顗はこの「四種四諦」をもとに『観無量寿経』の16観法から「四門の料簡」を読み取ったのではないでしょうか。
実は四諦の真理は3度繰り返されることで完成に至ると『解深密経』の中で説かれておりましてこれを「三転十二行相」と言います。
世尊。初於一時在婆羅尼斯仙人堕処施鹿林中。惟為発趣声聞乗者。以四諦相転正法輪。雖是甚奇甚為希有。一切世間諸天人等先無有能如法転者。而於彼時所転法輪。有上有容是未了義。是諸諍論安足処所。世尊。在昔第二時中惟為発趣修大乗者。依一切法皆無自性無生無滅。本来寂静自性涅槃。以隠密相転正法輪。雖更甚奇甚為希有。而於彼時所転法輪。亦是有上有所容受。猶未了義。是諸諍論安足処所。世尊。於今第三時中普為発趣一切乗者。依一切法皆無自性無生無滅。本来寂静自性涅槃無自性性。以顕了相転正法輪。第一甚奇最為希有。于今世尊所転法輪。無上無容是真了義。非諸諍論安足処所。
世尊は、最初の時にヴァーラーナシーの地の仙人堕処、鹿野苑において、声聞乗へと正しく向かっている者たちに対して、四聖諦とその内容を説かれました。それは希有なる素晴らしいもので、過去に天となれる者や人となれる者、その如何なる者すらもこの世間に転じたことのないひとつの法輪を転じ給われたのです。この世尊が完全に転じた法輪には、更により上のものがあり、更なる余地を残しているものであり、これは未了義であり、論義の基盤となっています。
また世尊は、諸法無自性をはじめと、不生不滅、本来寂静、自性涅槃について、大乗へと正しく向かっている者たちに対して、空性を語るという内容によって、稀有なる素晴らしい第二の法輪が転じ給われたのです。この世尊が転じられた法輪もまた、更により上のものがあり、更なる余地を残しているものであり、未了義であり、論義の基盤となっています。
これらに反して、世尊は諸法無自性をはじめ、不生不滅、本来寂静、自性涅槃について、すべての乗へと正しく向かっている者たちに対して、善く判別され内容をもつ、稀有なる素晴らしい第三の法輪を転じ給われました。この世尊が転ぜられた法輪は、無上なものであり、余地無く、了義であり、論争の基盤とはなっていないのです。
お釈迦さまは入滅なされる直前に説かれた『涅槃経』の中で、自身亡き後の拠りどころとなる指針として「法四依」を示されます。
依義不依語(義に依りて語に依らざれ) 依智不依識(智に依りて識に依らざれ) 依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ) 依法不依人(法に依りて人に依らざれ)
の四つの項目からなる遺言的に残された指針です。この中の四番目の「依法不依人」は法論の場において「根拠となる衣文を示してください」などと言って良く飛び交う文句なので知っておられる方も多いかと思われます。
ここでは、三番目の「依了義経不依不了義経」について少々お話をさせて頂きます。
釈尊が一代にわたって説いた教えのすべてを指して「八万法蔵」と言ったりしますが八万は実際の数ではなくそれだけ数多くの教えをお釈迦さまはお説きになられたという意味でそう言います。その多くの教えは全て一仏乗の「仏の智慧」として集約されていきます。『法華経』を学んでおられる方はご存知かと思いますが、仏は一乗の教えを三乗に開いて個別に各々の詳細を解き明かし、最後にそれら三乗に説いた教えを「開三顕一」として集約して究極の「法」を顕します。
ですから、その部分部分の教えを学ぶのでは無く、「依了義経不依不了義経」に示されるように完結した「了義経」を学びなさいと言われております。「不了義経」とは、真理を完全に説き明かしていない未完全な教えという意味です。
この件に関して日蓮さんが臨終間際に選ばれた六老僧(日昭、日朗、日向、日頂、日持、日興)のお一人であられました日興上人がご自身の『日興遺誡置文』の中で次のような事を書き綴っておられます。
「義道の落居無くして天台の学文す可からざる事」
「義道」とは大聖人の仏法の教義と道理のことで、「落居」とは習得してしっかり胸中に収めることを言います。日蓮仏法を学び習得してからでないと「天台の学問」をいてはならないと戒められている訳です。
日蓮仏法と言いますのは、「了義経」である『法華経』を拠りどころとする仏法です。その日蓮聖人が詳しく解き明かす『法華経』の法理・法門を正しく理解して天台の教学を学ばないと、天台教学を凡夫の浅はかな概念で解釈してしまい、手前勝手な凡夫解釈の教学となってしまうからです。仏教では声聞・縁覚・菩薩・仏といったそれぞれの境涯に即した四種の智慧が説かれており、その四つの智慧を持って経典を読み取っていかなければおかしな解釈に陥ってしまいます。
声聞の智慧 縁覚の智慧 菩薩の智慧 仏 の智慧
この四つの智慧の意味をきちんと理解した上で経典を読んでいかないと仏の深意は決して読み取れません。
ちなみに、これがその現場の写真だ。
直進車はみな右の車線に入っている。左は左折レーンだからだ。
そこを私は真っすぐ直進した。実はこのA交差点の先のB交差点までの短い道路、以前は一車線だった。だから写真の標識のように真ん中の一車線のみが直進指示がなされていた。しかし数年前そこも二車線に拡張工事されて直進出来るように変わった。だが標識はそのままにされていて、ここは普通の優良ドライバーであったら普通直進する状況になっていた。だからここは、警察官側からしたら、違反者を捕まえる格好のテリトリーとなっていた。
未来ある若者達だけに私は彼らにあるべき正しい警察官の姿勢を語り出した。
「市民はみなあなた達が運転するパトカーを目にするとビクッてする」
「何でだと思う?」
「あんたら警察官は違反者を罰する事を目的に勤務してるだろ」
それがおかしいと気づかずに言われるまま切符を切られてきた市民も市民だが、取り締まる警察の方はもっと罪が重い。
先の市役所の件にしてもそうだが、どうして皆、おかしい事に気づかないのか。それはみな〝六根〟が濁っておかしなことをおかしいと判断することが出来なくなってしまっているからなのです。
視点を変える事の大事さを未来ある若者警察官に諭そうとわたしは言った。
「市民の皆さんの為に日々パトロールしているんだという視点にたてば、 真っ先にこのおかしな標識に警察官が気づかなきゃダメでしょう。 それをおかしな標識に従わなかった市民を罰するとは何たることか」
少々反省気味に私の話を謙虚な姿勢で受け止め出した若者に、
「あなた達も、お巡りさん、いつもパトロールお疲れ様」
って、市民の皆さまから言われたら方が働きがいもあるでしょう。と言うと
「確かにそうですね。そう言って頂けると本当にうれしいです」
と素直な返事が返って来た。
が、しかし
切符は切りなおされた、、、、。
そこのところは行政上どうしても融通が利かないらしい、、、、。
そういった経緯があって数か月後、
その場所を走ってたらふと気づいた。
↑標識が撤去され直進可能になっていた。 . . ありがとうお巡りさん^^ . . でもね、この話しには実はとんでもない後日談があるんです。
皆さん聞いて驚くと思います。
ある事(全く前回とは別の件で)で再び警察署に相談に行ったんですね。
で、結構な内容でしたのでわりと上層部の警察官の方が対応して下さったんです。
で、その道路標識の話が出て来て、
「実はあの場所、パトカーも違反切符切られてたんですよ。」
って、おまえら
どこまでバカなんだ、、、、。
私が、信じられなくて、
「え! そんな事があるんですか? だれが、そのパトカー捕まえたんですか?」
と聞くと、助手席に乗っていた警官が切符切ったんですと。
それでもその標識がおかしいって気づけなかった警察官に
市民の安全を任せていいんでしょうかぁ!
交通課には、「道路の標識がおかしい所がある」という苦情を言いに来たという設定にした。違反切符を切られたとか言おうものなら奴らはそれに対して難癖をつけに来たぐらいにしか受け止めない。
で、
交通課の受付の若い兄ちゃんに、こうこうこうであれなんで、もうちょっと話の解るあんたの世話役人あたりを呼んで来て欲しいと言い、相談室に招待された。
最初に応対したゆゆしき奴は、応万な奴でむかついたので思わず言ってしまった、、、。
「おまえはバカか!」
と。すると何事かと奥から親分肌のゆゆしき奴がさっそうと登場した。
こやつはやるな・・・
雰囲気で瞬時に覚った。
如何にも話が解りそうな対応をみせるが、肝心なところでは
「いや、おかしくないですよ~」
切れてな~い、切れてないですよ~と言ってた芸人みたいなフレーズで話をごまかそうとする。場所が場所だけにこちらも慎重な態度でのぞまねば、下手をしたら奴らの思うがままだ。
最終的に奴は、
「確かにおっしゃられている事にも一理ありますね」
と言って、一応公安委員会の方に市民からこのような相談があったと報告しておきますと言って話は収まった。
翌日ピンポ~ンとチャイムが鳴った。
玄関の扉を開けると私に切符を切った若造の警察官二人がそこに立っていた。
昨日、違反現場で切符を切った警察官が、書き損じがあったようで、切符を切りなおさせて下さいと言って来た。
違反切符の切り直しだと、、、、、。
そんな間抜けな警察官、私は今、初めて目の前に見る。
しかし、昨日の現場の状況を思い返してみれば、私はかなり警察官に圧をかけて抗議していた訳で、確かに若造警察官は二人してかなり動揺してはいた。
動揺のあまり書き損じたのであろう、仕方ないので二人を家に入れ、お茶でもだそうかと
「まー。二人ともまずはそこに座んなさい」
とダイニングのテーブル&チェアーに招いた。
二人が言うには、
「我々は勤務中なので立ったままで構いません」
と言う。言われてみれば確かに警察官が勤務中、公園のベンチに腰掛けてたり、食堂に昼飯を食べに来てたり、喫茶店でコーヒー飲んでたりなんて光景、あまり見たことがない。というよりそういう光景を想像すると滑稽でもある。
「なるほど、じゃあ好きにしなさい」
といって私は腰掛けて、コピー用紙と鉛筆を持ち出し、彼らに昨日より詳しく図解であの標識が如何におかしな標識であるかを解り易く説明した。
次は、「道路標識は絶対に守りましょう!」と言い張るまぬけな警察官達のお話です。
うちの近所に↓このような
二つの交差点が連なっている場所がありまして、車線1を左側から走って来た車がB交差点で下方向に左折しようとした場合、車線1は直進禁止、左折のみと標識がなっておりますので、一旦車線2に車線変更し、A交差点を通過した後に再び車線1に戻ってB交差点で左折しなければなりません。
私は、この場合標識を無視して車線1のままA交差点を直進し(標識では直進は禁止です)、車線変更することなくB交差点まできて下方向に左折していました。
いつもそうしていました。
間違いなくそうしていました。
助手席の妻が毎度のように「お父さん、また違反しよる」って言うんですが、私はおかまいなしに、
「ここは標識がおかしいっちゃけん、これでよかと」
といって標識に従わずにいました。
ある日いつものようにその交差点を通過した時、けたたましくサイレンが鳴り響き、
「前の車! 左に寄せて止まりなさい!」
とパトカーから警察官が叫んだ。
そう、前の車とは間違いなく私の車です^^
車を左に寄せて止めると、パトカーから若い警察官が二人降りて来て、
「お父さん、ここは直進禁止ですよ。免許書見せて下さい。」
と窓越しに言ってきた。
私は、車から降りてその警察官に言った。
「私が何の違反をしました?」
目が??になった警察官が、
「今、そこを曲がらずに真っすぐこっちに進んで来たでしょ!」
「はい」と答えた私は、さらに「それがなにか?」と警察官にお尋ねした。
「お父さん。解りますか、あなたは標識に従わずに直進したんです!」
おかしな事を言う警察官に私は言いました。
「その標識、絶対に正しいとあなたは思ってます?」
警察官はこう答えました。
「間違ってるとかじゃないくて、我々は決められたルールに従って違反者を取り締まっているんです。」
と。
それが自分達の任務だと。
そこで私は更に質問した。
「ではお伺いしますが、今まで直進出来る道路のど真ん中にビルが建って、変りにう回路で右に曲がる新しい道路が出来たとしましょう。」
しかし、工事の際うっかり標識を書き換える事を忘れてしまい、標識には今まで通り直進の指示がなされています。その場合、
「あなたは、標識が直進指示になっておりますので、取り合えず直進して一旦ビルに激突してください。」
「とでも言うのかね?」
「あんたのモノの言いようでは、そういう事になりますが?」
警察官は言い返した。
「その場合、状況に応じた安全運転をしなくてはいけないでしょう。」
でしょうに。真っすぐ直進出来るにも関わらず進路変更してまた進路変更してもとの車線に戻る事は、それだけ危険性が増すというもので、私もこの場合、標識に従わず直進する方が安全だと状況判断したからそうしたまでだと説明した。
我々は・・・と市役所の課長さんと同じで、果てしなくゆゆしきバカなのだ。
仕方ないので取り合えず切符は切らせてやった。
あくる日、警察署の交通課に「ゆゆしきバカ共」を退治しに行った。
最初のお話は、今年33になる私の長男に関わるお話です。
彼が中学3年生の時、高校入試で希望の高校に受験しにいった時のお話です。
同じ高校を受験する友達数名で、地下鉄の駅まで自転車でいって、受験を終えてその駅に帰って来たら、皆が止めていた自転車が全て撤去されていたんです、市の役人の手によって。
止めていた場所が駐輪禁止場所だったみたいで、結局子供達は罰金2,000円を各々が払ってそれぞれの自転車を返してもらって帰宅したんですね。
帰宅した息子からその話を聞いた私は、速攻で市役所に怒鳴り込みに行った。
そして市役所の地域整備課の課長を相手に私は言いました。
「収入のない未成年のしかも中学生から、罰金2,000円を徴収しただと!」
「おまえら、バカかぁー!!」
あたり一面に響き渡るその怒声に驚いた役人達が、一斉に私に向けて視線を集中させた。
私に罵倒された課長さんは、その視線の集中の中、次のような事を私に偉そうにのたまわった。
「我々は、市の条例に従って任務を遂行したまでです。」
「条例には違反者から罰金2,000円を徴収するとありますので」
それを聞いて更に呆れた私は、星一徹ばりにちゃぶ台返しまではいかないまでも、思いっ切りテーブルを両手で叩いて、
「お ま え は バカかぁー!!」
と再び怒鳴りつけた。
そして、その課長さんに諭すように言った。
「叱られると思って親に言えない子や、お金のない子は、どするかとか、あんた考えた事あるか?」
なかには、こっそり親の財布からお金をかすめたり、他の子からカツアゲしてお金を用意しようとする事だって十分考えられます。市の役人がとった行動が〝因〟となって新たな犯罪を生み出す可能性が十分に考えられる訳で、それよりも、何をおいても〝私が最も激怒した理由〟は、高校受験という子供達にとって、一世一代の大事な日にお前達〝大人〟は、何をしでかしてくれたんだということです。
中には、試験の出来が良くなくて落ち込んで帰宅の途にあった子だっていたはずです。
「そんな子からあんたらはよくもヘイヘイと罰金2,000円を徴収だと、ふざけなさんなよ」
と意見する私にその課長さん、何て言い返したと思いますか。
「我々には関係ありません。文句があるのでしたら条例を作った人達に文句言われてください」
と、いけしゃーしゃー(って方言?と思ってしらべたら違った)と、あくまで自分達は間違った事はしていませんよーと、ふんずり返かえってやがった。
あきれ果て、完全にブチ切れた私は、
「よし、解った!」
と言い残して家に帰り、知り合いの市議会議員(当時は学会員でしたので公明党の議員に)に連絡し、事の次第を伝えました。すると議員は、
「申し訳ありません。確かに法介さんが仰る通り、この条例は、未成年者に対する配慮が欠けております。お恥ずかしい限りです。直ぐに議会にかけて条例を改正します。」
と真摯な対応をしてくれた。
違反者が〝未成年者〟の場合、その〝保護者〟から徴収する、が正しいありかたです。
そんな事も気づかない〝まぬけな役人達〟は10年以上、このおかしな条例にもとづいて〝子供達〟から〝お金〟を徴収し続けていたのです。子供の保護者も含め、誰もおかしいと気づかすに、、、、。
翌日、あの課長さんからお詫びしたいので役所まで出向いていただけませんかと連絡が入った。昨日とは別人のように態度が一変した課長さんは、へこへこ私に頭を下げて謝罪した。
私はいってやりました。
「私に謝るんじゃなくて、これまで徴収してきた子供達全員に謝んなさい」
と。流石にそんな事は出来るはずもなく、
「任務を遂行するあなた達がまず一番に気づかなくちゃいけないでしょうが」
と滾々と説教して私は帰りました。
上根の菩薩衆に対して説かれたこの「法説周」ですが、上記のように三つの内容からなります。これは次に続く譬説周、因縁説周にも共通する内容ですが各々の説周が三つの内容で構成されております。要はこの 「三周の説法」で三種・三観が説かれている訳です。三種・三観は天台智顗が一念三千の基本形として示した天台教学において最も重要とされる法理です。
三種・三観と言えば、この前お話しました『般若心経』が実はこの「三種・三観」が示されているとお話しましたが、この法華経においても「三種・三観」が示されております。実は初期仏典の三蔵教の中でも「三種・三観」は別の形で説かれております。
「九次第定」がそれにあたります。
色界禅定の初禅で客観を空じて析空を感じ、二禅で主観を空じて体空を感じ、三禅で五蘊全てを空じる事で法空を感じて四禅で空観に入ります。色界禅定はこの空観(色界)に入る為の禅定で空観に入りますと空無辺で欲界・色界・無色界の三界の空間を空じ、識無辺で末那識の自我を完全に退治することで八識の識層を空じます。これによって仏の空観が空じられ(非空)て、無所有処の無色界へ入ります。無所有処では生と死の生死の二法が不二となって同時に顕れます。更に非想非非想処から滅尽定へ入って涅槃となります。
実は『観無量寿経』にも「三種・三観」は説かれております。
14,観無量寿経(その⑤) https://butudou.livedoor.blog/archives/17944347.html
四教の各々でこの三種・三観が説かれております。
蔵教=『九次第定』 通教=『般若心経』 別教=『観無量寿経』 円教=『法華経』
天台智顗の『魔訶止観』の中の「四門の料簡」は、それをひも解いた内容です。 <蔵教の四門>『阿含経典』 蔵教の声聞 通教の縁覚 別教の菩薩 (蔵教を説く応身の釈迦)
<通教の四門>『般若経典』 通教の声聞 通教の縁覚 通教の菩薩 (通教を説く報身の釈迦=観音菩薩)
<別教の四門>『華厳経典』 別教の声聞 別教の縁覚 別教の菩薩 (別教を説く法身の釈迦=大日法身)
<円教の四門>『法華経』 蔵教を説く応身の釈迦 通教を説く報身の釈迦 別教を説く法身の釈迦 法華経を説く円経の釈迦
ちなみにですが、初期仏典で説かれている「戒・定・慧」、「欲界・色界・無色界」、「仏・法・僧」もよくよく考えてみますと次にような事になるかと思われます。
「戒・定・慧」 --- 実在の世界での「凡夫の空・仮・中」 「欲界・色界・無色界」--- 空間における「仏の空・仮・中」 「仏・法・僧」 --- 覚りの世界観における「真如の空・仮・中」
日蓮大聖人は『三大秘法抄』の中で「一念三千の証文は如何に」と問われて次のように返答されておられます。
「問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相・所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり」
一つは「方便品」の諸法実相として示された十如是と衆生をして仏知見を開かせ、示し、悟らせ、入らしめ(開示悟入)ようとする仏の一大事因縁の御文。もう一つは「寿量品」の「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」の本地を明かす御文。
二つ目の「寿量品」の方は後程ご説明させて頂くとしましてここでは「方便品」に絞ってお話を進めさせて頂きます。
大聖人が一念三千の証文とされている「方便品」の十如是は皆さんも良く存じ上げておられるかと思いますが、それは先に説明しました「略開三顕一」として説かれたもので、「広開三顕一」の法説周としましては、長行部分の以下の部分がそれにあたります。 . . 所以者何。諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世 --- ①。
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世 --- ②。
仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生。舎利弗。如来但以。一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三 --- ③。 . . 【大正蔵テキストデータベース表示】 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0262_,09,0007a12&key=能知之。所以者何。諸佛世尊。唯以一大事&ktn=&mode2=2
お話をするにあたって中国人民大学の張 風雷教授の「張論文」を参考論文として紹介しておきます。
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=7605&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
2013年に『東アジア仏教学術論集』で発表された学術論文ですが大変興味深い内容となっております。
『成唯識論』に、
「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず。」
といった種子説が説かれておりまして、「無漏種子」の存在が繰り返し主張されております。衆生の阿頼耶識にこの「無漏種子」がなければ、いくら仏道修行を積み重ねても、成仏に至ることはないと言うのです。
ではその「無漏種子」とは何かと言いますと、日蓮大聖人が『曾谷入道殿許御書』の中で次のような事を申されております。
「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」
末法に入って、釈尊在世に結縁した者は次第に少なくなり、権教と実教で成仏する機根の人は皆尽きてしまったと。ですから末法は「過去に仏との結縁が無い」本未有善の衆生が生まれてくる時代なので衆生が仏に成るには、新たな仏縁が必要となります。
本未有善とは「仏に成る為に必要な善行が無い」という意味で、過去に仏との結縁が有ることを本已有善と言います。
正法時代に仏との結縁がある「無漏種子」を備えている修行者(本已有善)は、三昧で『妙法蓮華経』を真言として唱えることで、自身の阿頼耶識に眠っている仏との結縁(無漏種子)が呼び起されて縁起が起きて仏性を観じ取っていきます。しかしそうした本已有善の結縁者は正法・像法時代の中で皆、天上界へ転生していき末法では、仏との結縁が無い本未有善の衆生しか生まれて来ません。
本未有善の衆生は、仏との結縁が無い為、阿頼耶識に「無漏種子」が有りません。そのような修行者がいくら瞑想で阿頼耶識にアクセスしても仏と全く縁が無い為、仏性が開花することはあり得ません。そのことを日蓮聖人は『総勘文抄』の中で次のように申されております。
「三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり。 一とは中道なり法華なり、大とは空諦なり華厳なり、事とは仮諦なり阿含・方等・般若なり、已上一代の総の三諦なり。 之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり。 因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり。 此れを総じて因と云うなり。 縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず。 善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや」
ですからそういった本未有善の衆生には、新たな結縁が必要となってきます。
末法の世には「仏」と同じ対境が三昧において必要だという事です。それが曼荼羅本尊と末法で唱える真言の「南無妙法蓮華経」のお題目です。
仏像を対境として「妙法蓮華経」を唱える三昧(←五文字からなる五何法=五仏性)と、曼荼羅を対境として「南無妙法蓮華経」を唱える三昧とではこの本已有善か本未有善かの違いが奥底にあります。曼荼羅という真如の相と、法華経という真如の性(智慧)とそれを唱える凡夫の体を最初の三如是として「南無妙法蓮華経」に含まれる残りの七如是が本末究竟等します。(三如是+七如是=十如是)
【文証】『三世諸仏総勘文教相廃立』
「今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う」
【文証】『十如是事』
「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり」
その「無為の法」が、どのような相で、どういう性を持った諸法で、どういう体を持った諸法で、といったことをいっているのが十如是の文句です。無為法の内容を十項目に分けて紹介している訳です。項目の中に因と果、また縁といった項目がありますので「十如是」を縁起の法門だと思われている方が沢山おられます。学者や僧侶の中にも沢山おられます。
しかし有為の縁起ではなく「十如是」は無為の真理の法なんです。
では、その無為の法がサンスクリット原典の『法華経』では五項目で、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』ではなぜ十項目になっているのか、それは「無漏の種子」というお話深く関わってきます。
仏教では有為と無為といった言葉が用いられますが、有為とは「つくられたもの」、無為とは「つくられないもの」といった意味ですが、そういった意味をふまえた「有為の法」と「無為の法」が説かれております。
有為の法とは、因縁によって形作られたもの。 また、その在り方。 生滅する現象世界の一切の事物をいい「縁起の法門」がこれにあたります。対して無為の法とは、あるがままの意で、 因果の関係に囚われない常住不変の存在、すなわち「真理」のことを言います。
お釈迦さまはこれまで世の中の真理を縁起として説かれてきました。しかしここに至って究極の覚りの世界にあってはその縁起すらも起きないと言われるのです。
縁起ではない真理の法、それが『十如是』という無為の法なんです。
十如是が説かれている『法華経』方便品第二は、お釈迦さまがご自身が覚り得た究極の境地を舎利弗に諭す場面です。
舎利佛よ、わたしが仏に成って以来、いろいろな因縁や種々の譬喩を使い、広く教えを述べ、真実の教えに導くための仮にとる数え切れないほどの便宜的な手段を使って、多くの人々を仏道に導き、諸々の執着から離れさせた。理由は何故かというと、如来は、真実の教えに導くために仮にとる便宜的な手段や、事物に対する正しい認識や、悟りに至らせる方法をすでに身に付けているからだ。
舎利佛よ、如来の事物に対する正しい認識は、広大で奥深く、容易に理解が及ばない。それは、無量であり、何ものにもとらわれず、力があって、畏れるところなく、静かな瞑想の禅定であり、煩悩の束縛から解き放たれる解脱である。心を集中した静かな状態で、深く限界のない境地に入り、かつてない教えを体得し成就したのである。
舎利佛よ、如来は、巧みに種々に物事を良く分析し、巧みに諸々の教えを説き、言動は柔軟で人々の心を励まし喜びを与える。舎利佛よ、要約して言うならば、計り知れないほど多くの、しかも未だかつて示さなかった教えを、仏はことごとく身に付けている。
.
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ここまで説明してお釈迦さまは舎利弗に告げます。
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.
止めよう。舎利佛よ。再びこの教えを説く意思はない。
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.
「えええ! なんで~」と舎利弗は思ったことでしょう。
お釈迦さまはその訳を次のように説明されます。
.
.
理由は何故かというと、仏が身に付けているこの教えは、第一に優れ、類のない、理解しがたい教えであるからだ。ただ仏と仏だけが、あらゆる事物や現象や存在の、あるがままの真実の姿かたちを、究めつくすことができるのだ。
.
.
この言葉が意味するところは、お釈迦さまが伝えたい内容は言葉では伝えられない内容であるということです。なぜならそれは人間の概念を遥かに超えた仏と仏にしか伝わらない究極の法だからです。
第二時の法輪は、『般若経典』に依るところの空を中心とした説法です。第一時で析空を覚った声聞が縁覚に昇格して体空を覚り、第三時法輪で法空を覚って菩薩の境涯に至ります。
第一時法輪の内容は、ゆゆしき『阿頼耶識システム』でも詳しくお話しております。宜しかったらご覧下さい。
説一切有部について
https://zawazawa.jp/bison/topic/12
第二時法輪は「空」の理論としてこちらで詳しくお話しております。
「空」の理論
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5?page=2
第三時法輪については、↓こちらで詳しくお話して参ります。
四諦の「三転法輪」とは
https://zawazawa.jp/bison/topic/14
大正大学仏教学研究科の塩入 法道 教授の下記論文で、
中国初期禅観思想における首樗厳三昧について
https://ja.wikipedia.org/wiki/信濃国分寺
塩入教授は「首樗厳三昧」を次のように紹介されています。
首楊厳三昧は勇伏三昧、健相三昧などとも訳され、古来多くの三昧の中でも特に重視されていた三昧である。この三昧はその名を冠した『首榜厳三昧経』に詳説されているが、『大智度論』等にも重要な三昧として度々言及されている。また『首樗厳三昧経』の思想は『般若経』『十地経』『維摩経』と密接な関係にあり、『法華経』『浬薬経』にも影響を与えている。首樗厳三昧の特徴は般若空観を思想的背景にもちながら、理念としての空観にとどまらずこれを積極的に実践に適応させているところにある。
天台宗「信濃国分寺」の住職でもあられる塩入教授は更に、
つまりこの三昧は高次の菩薩の三昧であり、凡ての禅観、三昧を摂し、いかなる行為中にあっても常に六波羅蜜を心にかけ、衆生を教化していくものであり、明らかに大乗菩薩の禅観である。
と述べられております。しかし首樗厳三昧の具体的実践については僧伝の類にもあまり記述がなぐ、詳細は知ることができないと言い、この三昧がどのように中国人僧に受容され、実践されたかをより具体的に知るには、南岳慧思つまり天台智顗の師匠である南岳大師が顕した『随自意三昧』や『立誓願文』を見なければならないと述べられ、それらの文献をもとに次のような文章で南岳大師の考えをまとめられておられます。
(南岳慧思は)首榜厳三昧に入るためには随自意三昧を修行しなければならないと主張している。首樗厳三昧と随自意三昧は同二のものと言ってもよいが、般舟三昧とともに大乗三昧として重視されてきた首榜厳三昧は諸三昧の極致であり、十地の菩薩しか達成できないとされているので、そこに到る具体的な方法を随自意三昧として説き、新学の菩薩のために提示したのである。つまり、首樗厳三昧の根本思想---(省略)---いかなる行為においても禅定にあり、しかも常に六波羅蜜を実践するということが理解できない者のために随自意三昧を説くというのである。慧思の随自意三昧の特色は次の通りである。
これらのうち2、3、4、5、7等は『首樗厳三昧経』には直接は説かれておらず、慧思の独創によると考えられる。
首樗厳三昧は、それが中国に伝わつて以来、中国仏教の禅観の展開に多大な影響を与えた。そして傅翁や慧思、さらに本論では触れていないが、天台智顕や後の禅宗の人々の実践思想を生み出す源泉のひとつになったことは確かである。
『佛説首楞嚴三昧經』
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0642_,15,0629b12&key=佛説首楞嚴三昧經卷上&ktn=&mode2=2
16観法では、第9の観から第12の観までが第三時における法輪となりますが、「第9の観」で注目すべき点はここで「念仏三昧」という言葉が出て来るという事です。
この事を見るものは、すなはち十方の一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもつてのゆゑに念仏三昧と名づく。
「念仏三昧」について説かれている初期仏典に支婁迦讖訳の『般舟三昧経』がありまして、
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0048/DB00480L017.pdf
内容を見てみると解りますが、これは「瞑想」ではなく「観法」となっております。瞑想は、止と観とからなりますが、その内容はまず「サマタ瞑想」で五蘊の働きを次第に止滅させ、意識を表層の第六意識から深層の第七意識へ移行させます。そこからは「ヴィパッサナー瞑想」で仏の意識を観じ取っていきます。いわゆる上座部が行う「九次第定」の瞑想がこれです。
それに対し三昧という観法については、澤﨑論文で簡素に紹介されておりますので参照されてみては如何でしょう。
『大智度論』における般舟三昧と首楞厳三昧の関係(澤﨑 瑞央)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/69/2/69_761/_pdf
(あと話しておく内容)
(観音菩薩が顕れる)
(念仏三昧でこの領域に入った阿羅漢が『般若心経』の説法を聴聞したのであろう。)
声聞衆が習得した「戒・定・慧」の三学と、縁覚衆が帰依した「仏・法・僧」の三法の相違についてお話します。
学問と言いますのは誰もが理解し納得しうるものでなければなりませんので「客観性」にもとづいた内容でなければなりません。仏門に入りながらも未だ実体思想から抜けきらない声聞という境涯に対し、お釈迦さまは客観性をもって教えを示されます。そこでの教は戒律と禅定であり、それらを習得し八正道を歩むことで真理としての智慧を修学していきます。
声聞という境涯はまだまだ凡夫としての性分(客観視)が強く働いておりますので、実体を空じる行法が凡夫の概念に即した形(学問)で説かれたということです。
戒=仮(実体に即した修行)
定=空(実体を空じる修行)
慧=中(実体における真理)
では、縁覚衆が帰依した「仏・法・僧」の三法はと言いますと、「仏の空観」に意識を置いた『般若心経』の教えが示す以下の諸法の内容となります。
僧(仮観)=「色即是空」(順観)
仏(空観)=「空即是色」(逆観)
法(中観)=「色即是空 空即是色」
学問を語るのが学者です。法を語るのが僧侶(仏法者)です。
学者さん=客観性にもとづく主観の見解(客観思考)
お坊さん=客観 → 主観 → 空観 → 中観(四観思考=四諦)
蔵教の第一時法輪で仏因を得た声聞衆は戒・定・慧の三学を習得して天上界へ転生します。天界のどこに転生するかと言えば、声聞の境涯での空の理解は浅い為(析空)、初禅天となります。初禅天はもとは実存の根源とされた「ブラフマン」を神格化したバラモンの神であった梵天が、仏法の守護神となったとされるものです。
第二時の法輪で『般若心経』を理解するに至った阿羅漢衆(縁覚)は、第二禅天へ転生します。第三時法輪で第三禅天へ転生するのは『唯識』を覚った菩薩衆となり欲界の六道の上に声聞・縁覚・菩薩といった転生によって生まれ出でる禅天が色界に存在します。その色界の最上部に位置するのが仏界(四禅天)です。
第一時法輪で蔵教の声聞衆が戒・定・慧の三学を習得して初禅天へと転生していったのに対し、第二時(通教)法輪の縁覚衆は仏・法・僧の三法に帰依することで第二禅天に転生します。その事が『観無量寿経』の「第五の観」と「第六の観」に次のようにとかれております。
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<第五の観>
次に、まさに水を想ふべし。水を想ふとは、極楽国土に八池水あり。一々の池水は七宝の所成なり。その宝柔軟なり。如意珠王より生じ、分れて十四支となる。一々の支、七宝の色をなす。黄金を渠とし、渠の下にみな雑色の金剛をもて、もつて底の沙とす。一々の水のなかに六十億の七宝の蓮華あり。一々の蓮華、団円正等にして十二由旬なり。その摩尼水、華のあひだに流れ注ぎ、樹を尋りて上下す。その声微妙にして、苦・空・無常・無我・諸波羅蜜を演説す。また諸仏の相好を讃歎するものあり。如意珠王より金色微妙の光明を涌出す。その光、化して百宝色の鳥となる。和鳴哀雅にして、つねに念佛、念法、念僧を讃ず。これを八功徳水想とし、第五の観と名づく。
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<第六の観>
衆宝国土の一々の界上に五百億の宝楼閣あり。その楼閣のうちに、無量の諸天ありて天の伎楽をなす。また楽器ありて虚空に懸処し、天の宝幢のごとく、鼓たざるにおのづから鳴る。この衆音のなかに、みな念佛、念法、念比丘僧を説く。
この想成じをはるを名づけて、ほぼ極楽世界の宝樹・宝地・宝池を見るとす。これを総観の想とし、第六の観と名づく。もしこれを見るものは、無量億劫の極重の悪業を除き、命終ののちにかならずかの国に生ず。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。
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『観無量寿経』の16観法は、四種四諦を説くものですから第五~第八の観が第二時法輪の四諦を示しております。第七の観では、第二禅天の無量寿仏(阿弥陀佛)を観法として観じることが説かれております。
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<第七の観>
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴き、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。なんぢら憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。
この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。
ときに韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼して仏にまうしてまうさく、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべきや」と。
仏、韋提希に告げたまはく、「かの仏を観たてまつらんと欲はんものは、まさに想念を起すべし。七宝の地上において蓮華の想をなせ。その蓮華の一々の葉をして百宝の色をなさしめよ。八万四千の脈あり、なほ天の画のごとし。脈に八万四千の光あり、了々分明に、みな見ることを得しめよ。華葉の小さきは、縦広二百五十由旬なり。かくのごときの蓮華に八万四千の葉あり。一々の葉のあひだにおのおの百億の摩尼珠王ありて、もつて映飾とす。一々の摩尼、千の光明を放つ。その光り蓋のごとく七宝合成せり。あまねく地上を覆へり。釈迦毘楞伽宝をもつてその台とす。この蓮華の台は、八万の金剛・甄叔迦宝・梵摩尼宝・妙真珠網をもつて交飾とす。その台の上において自然に四柱の宝幢あり。一々の宝幢は百千万億の須弥山のごとし。幢上の宝幔は、夜摩天宮のごとし。また五百億の微妙の宝珠ありて、もつて映飾とす。 一々の宝珠に八万四千の光あり。一々の光、八万四千の異種の金色をなす。一々の金色、その宝土に遍し、処々に変化して、おのおの異相をなす。あるいは金剛の台となり、あるいは真珠網となり、あるいは雑華雲となる。十方面において、意に随ひて変現して仏事を施作す。これを華座の想とし、第七の観と名づく」と。
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ここで言う七宝は『法華経』にも出てきます七つの宝で飾られた宝塔、即ち『南無妙法蓮華経』を意味しております。蓮華という言葉が至る所に織り込まれ第八の観では『妙法』という文字が示されます。
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<第八の観>
仏、阿難に告げたまはく、「かくのごときの妙華は、これもと法蔵比丘の願力の所成なり。もしかの仏を念ぜんと欲はんものは、まさにまづこの華座の想をなすべし。この想をなさんとき、雑観することを得ざれ。みなまさに一々にこれを観ずべし。一々の葉・一々の珠・一々の光・一々の台・一々の幢、みな分明ならしめて、鏡のなかにおいて、みづから面像を見るがごとくせよ。この想成ずるものは、五万劫の生死の罪を滅除し、必定してまさに極楽世界に生ずべし。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度阿羅訶三藐三仏陀を観ずべし。かの仏を想はんものは、まづまさに像を想ふべし。閉目・開目に一つの宝像の閻浮檀金色のごとくにして、かの華上に坐せるを見よ。像の坐せるを見をはらば、心眼開くることを得て、了々分明に極楽国の七宝荘厳の宝地・宝池・宝樹行列し、諸天の宝幔その上に弥覆し、衆宝の羅網、虚空のなかに満てるを見ん。かくのごときの事を見ること、きはめて明了にして、掌中を観るがごとくならしめよ。この事を見をはらば、またまさにさらに一つの大蓮華を作して仏の左辺におくべし。前の蓮華のごとくして等しくして異あることなし。また一つの大蓮華を作して仏の右辺におけ。一つの観世音菩薩の像、左の華座に坐すと想へ。また金光を放つこと、前のごとくにして異なし。一つの大勢至菩薩の像、右の華座に坐すと想へ。この想成ずるとき、仏・菩薩の像はみな光明を放つ。その光金色にしてもろもろの宝樹を照らす。一々の樹下にまた三つの蓮華あり。もろもろの蓮華の上におのおの一仏・二菩薩の像ましまして、かの国に遍満す。この想成ずるとき、行者まさに水流光明およびもろもろの宝樹・鳧・雁・鴛鴦のみな妙法を説くを聞くべし。出定・入定につねに妙法を聞かむ。行者の聞きしところのもの、出定のとき憶持して捨てず、修多羅(経文)と合せしめよ。
もし合せざるをば、名づけて妄想とす。もし合することあるをば、名づけて粗想に極楽世界を見るとす(後にのべる眞観と比べて粗とする)。これを像想とし、第八の観と名づく。この観をなすものは、無量億劫の生死の罪を除き、現身のうちにおいて念仏三昧を得ん」と。
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そして次の第三時にあっては、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。」とありますように如来の世界観へと入って行きます。(中諦)
今、四諦の「三転法輪」についてお話をしておりますが、これは最初に紹介しましたように『解深密経』で説かれている内容です。この『解深密経』は弥勒が説いた事になっておりますが、仏教の真髄を分かっていない学者さんなどは、弥勒菩薩と同じ名の人物が実在していたのだろうなどと主張されたりしておりますが、解脱を習得した阿羅漢が色界禅定で禅天に入ってそこで弥勒菩薩の説法を聞いて来たものだと考えられます。
その『解深密経』の記述から考えると、第一時の小乗の教えはアビダルマ、特に説一切有部の思想(有)、第二時の大乗の教えは般若思想(空)、そして第三時の一切乗の教えは唯識思想(中)となります。二辺を廃して中道を立てるという三教(有・空・中)の構造を玄奘三蔵の弟子である慈恩大師は『法華玄賛』において、それぞれに具体的な経典を当てはめております。第一時教は「阿含経等」、第二時教は「大般若等」、第三時教は「華厳経等」であると。三教の「有・空・中」の有は仮の事ですので次のようになります。
<四諦の三転法輪>
第一時 仮=「阿含経等」
第二時 空=「大般若等」
第三時 中=「華厳経等」
慈恩大師は、この三時を『義林章』では『解深密経』のみならず『金光明経』や『涅槃経』にも説
かれているといい、『法華玄賛』では、『菩薩善戒経』や『法華経』にも説かれていると述べております。『法華経』のそれは三時が直接示されている訳でなく、「開三顕一」や「三周の説法」といった法理において施されているところです。
「三転法輪」の一回目は、仏門に入ってもなお未だ実体思想から離れられないでいる「声聞」という境涯を対象としてなされた説法です。ここでのお釈迦さまの目的は、まずは弟子達を実体思想から離れさせる事にありました。ですからここで示された「四諦」と「八正道」は次の二回目の四諦の説法へと導く為に未だ実体思想から抜け出せないでいる声聞の弟子達を六道輪廻から解脱させ色界へと転生させる為に示された修行内容となっております。
この「解脱」についてですが、但空におちいった修行者の中に、仏教で説く真理は無為の境地(無の境地)なので縁起は起こらず転生はあり得ないと考え、「死後の世界などない」とか「輪廻はあり得ない」と考える人達がおられます。そういった人達が根拠とされるお釈迦さまの言葉に、『中阿含経』や『中部経典第63経』で説かれている「毒矢の喩え」があります。
この喩えは、〝悟り〟よりもまず、〝解脱〟を習得する事の重要性を覚らせる為に説かれたお話です。
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<毒矢の喩え>
「世の中は常住なるものか。無常なるものか。世界に果てがあるのかないのか。霊魂と肉体は同一か別なのか。死後の世界は存在するのかしないのか」
このマールンクヤの問いに対してお釈迦様は一切答えられず、次の喩をマールンクヤに諭します。
「ある人が毒矢に射られたとする。すぐに治療しなければならないであろう。ところが矢を抜く前に、一体この毒矢を射たのは誰か。弓はどのようなものであるのか。 どんな鏃やじりがついていて、弦つるは何でできているのか。矢羽はどんな鳥の羽であるのかが分からないうちは、矢を抜くことはならぬと言っていたら死んでしまうであろう。必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである。」
お釈迦様は更に言いました。
「生があり、老いがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶え等、人生の苦しみを解決する道があるから私は説いている。毒の矢を抜き去るように苦を速やかに抜き去ることが、いちばん大事なことではないのか」
お釈迦様は、優しい眼差しで、マールンクヤに話します。
「汝はそれらの問いに拘り続けている。マールンクヤよ、世界は常住とか、無常であるとかが解っても、生老病死、 愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、 五蘊盛苦の四苦八苦から自由になる事はないであろう。 私たちはそれらの一切皆苦の現実を見極め、自らの煩悩を克服する事を願っている」
そう言ってお釈迦様は、マールンクヤを次のように諭します。
「悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう。ただしその境地に達したとしても、歳をとり、病気になり、死んでいく、ということを避けることはできない。 ならば何も解決していないではないかと思いたくなるが、真理を悟った人であっても感覚や感受性は変わらないから、悟った人も悟らない人も矢で射られれば同じように痛い。病気になれば同じように苦しい。美しい花や宝石を見れば同じように美しいと思う。 これは誰しも等しく受けるものである」
「ところが真理を知らない人はさらに病気になれば不安と悲しみと疲労に襲われて絶望し、美しい花や宝石を見れば美しいと思うだけでなく、盗んででも自分のものにしたいと執着する。真理を知らない人は良いことも悪いことも全て苦の原因にしてしまう。 しかし悟った人は事実を受け入れても、苦の原因に執着しないのである。今大切なことは、苦悩、煩悩を克服し、心豊かに生きることにある。その苦しみをどうすれば無くすことが出来るかという事だ。真理を知ることよりも先にやるべきことがある」
このように、
「真理を知ることよりも先にやるべきことがある」
と、言われております通りお釈迦さまは、「三転法輪」の一回目に於いては「解脱」という行法を最優先して声聞の弟子達に諭します。
なぜかと言いますと、仏の本当の意味での説法は「解脱した領域」でなければ本当の仏の説法とはならないからです。
最初に四諦の「三転法輪」の話をしましたが、この蔵教で明かされた「五蘊」や「十二因縁」のお話は一回目の四諦の説法です。四諦の内容を思い出して下さい。
苦諦 - 実体視は苦でしかないという真理。 (客観)
集諦 - 苦の原因は愛執に集約されるという真理。(主観)
滅諦 - 苦を滅した悟りの境地があるということ。(空観)
道諦 - 仏道の実践でその境地に至るということ。(中観)
「五蘊の働き」により人は物事を実体視することでモノに対する執着が生まれ、煩悩が起こり苦しみが生じます。(苦諦)
十二因縁はその五蘊を起こす肉体がどういうシステムで形成されるかを説き明かしたものです。(集諦)
そして、お釈迦さまは「四諦」を説くことで滅諦を示し、最終的に「八正道」をもって蔵教の衆生を覚りの道へ導きます。
今お話しておりますのは「蔵教」、即ち三蔵教とも言われます小乗仏教で展開された仏教の教えの内容です。
小乗仏教で詳しく明かされた「十二因縁」の内容は次の通りです。
十二因縁は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12の支分からなります。
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1.無明(むみょう):過去世よりの無始の煩悩の事で、煩悩は迷いの心が因となって起こります。
2.行(ぎょう):行為のことで、人間が過去世で煩悩によって作ってきた様々な業(善悪の行為)のこと。
3.識(しき):過去世の煩悩と業によって、この世の母親の胎内で生を受ける最初の心。最初の一念。
4.名色(みょうしき):識が具体的な形となったものです。「名色」の「名」は心、「色」は形を表しています。
5.六処(ろくしょ):眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官の事で、眼、耳、鼻、舌、身、意の六感が形成され六根が形成されます。
6.触(そく):母体から生まれ出て外界の物に触れる事を言います。
7.受(じゅ):外界から種々の言語や知識を受け取り、また経験していくことで人格が次第に形成されていきます。
8.愛(あい):人格が形成されていくことで自我が芽生え、自愛が深まっていきます。
9.取(しゅ):物事に対する執着のことで、執着の心から欲が盛んになっていきます。
10.有(う):欲に支配され物事に執着して生きてた人は、その執着が因となって再び欲界に生まれ出る結果が定まります。生前に積み重ねてきた業によって未来の果報を有すること。「愛」「取」の煩悩に引きずられ、色々な悪業を造って未来に輪廻転生する種を残します。
11.生(しょう):現世で造った業(振舞い)によって未来に生まれること。
12.老死(ろうし):生まれてから老衰してやがて死んで行き、また未来世に生まれ輪廻すること。
「学者が説く仏教」を学んであやまった仏教観に陥っている人達は、「自分は存在しない」と思い込んで「五蘊はもとから存在しない」などとおかしな主張をされたりもしますが、「仏が説く仏教」では五蘊をどのように説いているのかを紹介します。
五陰とは、「色・受・想・行・識」のことで人間が外の世界を認識する働きを示したものです。
色(しき)は、色相(姿・形)を意味し、受(じゅ)はそれを感じ取る感覚いわゆる五感を意味します。人は外界のありさま(色相)を自身の肉体に具わる感覚器官である五感をもって感じ取り、感じ取った情報を脳の中の記憶と照らし合わせて行動に転じます。この記憶と照らし合わせる作業を想像の「想」をもってあわらし、「行」としての行動に転じてその一連の結果が意識(識)として統合され記憶に蓄えられていきます。
例えば、職場で苦手な上司がいるとします。なぜ苦手なのかと言えば、過去にその上司との間で嫌な経験があったからです。ですからその上司の顔(色相)を見る(受)と過去の嫌な記憶がよみがえって(想)、避けるように身を隠します(行)。その一連の行動が自身の記憶の中に識として蓄えられていきます。認識出来る意識層が第六識の表層意識ですが、本人の意識が及ばない深層意識にトラウマとなって無意識的に潜在的に働く意識(第七末那識)もありますが、初期仏教ではそこまで詳しくは明かされておりません。
正確に言えば初期仏典においてお釈迦さまは全てを説かれておりますが、簡単に理解出来る内容から順に解き明かされ次第に高度な教えがひも解かれていきます。それが「蔵教・通教・別教・円教」といったの四教の教えの区分です。
実体のありようを分析し、そこで起こっている問題点をクリアするのが「空」の第一段階の理解でこれを「析空」と言います。
詳しくはこちらで説明しております。
「空」の理論
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5
この「自我」がどのようにして形成されるのかをお釈迦さまは『阿含経典』の中で人間の五蘊の働きとして詳しく説き明かされます。
自我は、人間の意識として存在しておりますが、では人間の「肉体」はどのようなシステムによって形成されるのかと言えば、お釈迦さまはそれを十二因縁(十二縁起とも言う)として詳しく説き明かされました。
人は「自我」によって自分の事を自分だと思い込んでおりますが、
「それは違いますよ!」
その自我はあなたが勝手に思い込んでいる自分であって本当のあなたではありません。なので、
「そのあなたの勝手な思い込みによる〝自我〟をまずは取り消しましょう!」
というのが仏教でいう「無我」です。
「自分はなんて不幸な人間なんだろうか」とか、
「自分だけどうしてこんなに辛い思いをしなくてはいけないのだろう」とか、
「自分はどうしてこんな病気になってしまったんだろう」とか、
人間ってよくよく考えてみますと、果たしてどれだけの人が「自分という存在」に、納得して生きているものでしょう。
実は人間って自分が思っている程、自分の事をあまり良く知り得ていないものなんです。
ここで言う「自分が思っている自分」というのが「自我」です。
そして今そこに存在しているあなた自身が「自分」です。
「自我」によってあなたは「自分」を自分だと思い込んでいませんか?
初期仏教ではこの「自分と自我」の関係について詳しく説き明かされております。
「自分の事は自分が一番分かっている」などと言いますが、
あなたは自分という存在をどのように認識されてますか?
というのが「無我」のお話です。
言いかえれば、
「あなたはどれだけ〝自分〟を正しく理解出来ていますか」
と言うことでもあります。
仏教の重要な概念の一つに「空」があります。
『般若経典』でその空は詳しく説かれておりますが、龍樹がその空を『中論』で詳しくひも解いております。では、お釈迦さまは空をどのように説かれたかと言いますと、お釈迦さまは「無我」として空を説かれました。
無我と言いますと「自分と言う者は実は存在しない」とか「主体が無い」「自我は無い」などと言った事だと思っている方が沢山おられます。実はこれも中村 元 大先生が弘められた「まちがった無我の解釈」になります。
「自分が自分だと思っている自分って実は存在しないんですよ!」
と言われてあなたは納得出来ますか?
思いっきり頬をつねってみて下さい。
痛いですよね。
痛みを感じている自分がそこに居ますよね。自分は間違いなく存在しているんです。お釈迦さまが言われている「無我」は、「自分という存在を認めない」事ではなく、「〝自我〟をもって自分と思ってはいけませんよ」という事なんです。その事をお釈迦さまは次のような言葉でもって説明なされております。
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自我に拠って自己を見ず、
精神を統一し、姿勢正しく、自ら安立し、
動揺することなく、心は静かで、疑惑もない。
こういう境涯に至った人こそ、供養を受けるにふさわしい。
『スッタニパータ』477
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この件に関して、奈良 康明文学博士のおもしろい論文を見つけましたので紹介します。
https://zenken.agu.ac.jp/research/48/15.pdf
博士は、日本の仏教学者・曹洞宗の僧侶であり東京大学から文学博士を授与されており、役職として駒澤大学学長、総長を経て、同大学の名誉教授となっておりまして、僧侶としても法清寺の住職を経て東堂となり、また、永平寺の西堂を務めたりされた方です。
論文の中で博士は、「主体が無い」とか、「自分は存在していない」と考えることがお釈迦さまが説かれた〝無我〟であると主張する一部の上座部の無我解釈が、今では古い考えであるという事を私たちは学ばなければ、正しい仏教観には立てないということを主張されておられます。
先ほどのお釈迦さまの言葉ですが、直訳すると「自己によって自己を見ず」となりましてそれをもって中村先生などは、仏の見識に立てば「自己は存在しない」と考えられた訳です。これは「自己と自我」を同等にみる考えです。奈良 康明 博士は、ここはとても大事なところなので何人かの研究者の訳を引き合いに出され並べて紹介なされておられます。
中村 元:自己によって自己を観じて(中村1993・538頁)
渡辺照宏:自己には自我なしと洞察し(渡邊1982・145頁)
宮坂宥勝:自分に自我を見ることなく(宮坂2002・123頁)
榎本文雄:自我にとらわれて自己を見ることなく(榎本1986・191頁)
村上真完・及川真介:自ら自我を見ず(村上・及川2009・(三)128頁)
中村先生だけが「自己によって自己を」と原文通りに二つの自己を並べていますが、他の先生方は自我と自己とに分けて訳しておられます。そうしないと意味が正しく伝わらないからです。
他の先生方の表現は、「真の自己は〝自我〟によって把握されるべきものではない」といったことを意味しております。
中村先生は仏教学会の権威ですからその影響力は大きく、ウィキペディアの「中観派」の解説ページでも以下のような先生のあやまった仏教観があたかも真実かのように紹介されております。
https://ja.wikipedia.org/wiki/中観派#:~:text=中観派(ちゅうが,基本典籍とする学派。
その解釈(天台の三諦説の事)がナーガールジュナの原意を得ているかどうかについて、中村元は『中論』の原文とチャンドラキールティの註釈などを用いて検討し[23]、結論としては、インドの緒註釈によってこの『中論』第24章第18詩の原意を探るならば、この詩句は縁起・空・仮名・中道という4つの概念が同趣意のものであるということを説いたにほかならず、天台宗や三論宗が後世の中国で説いたように「空をさらに空じた境地に中道が現れる」と考えたのではなかったことが明らかであるとしている[24]。
龍樹は『中論』の中で明らかに三諦を説いております。
中村先生が学者(客観思考)なるがゆえに、それを読み取れていなかっただけの事です。その中村先生のあやまった仏教観は今日の仏教学会では度々指摘されるところとなってきておりますが、そこのところをご存知でない方々の為に少々お話しておきます。
『西遊記』で有名な三蔵法師は、629年にシルクロード陸路でインドに向かい、中国に657部もの経典や仏像などを持って帰還した玄奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)がモデルです。
唯識思想の体系を中国に伝えたのも玄奘で、弟子の慈恩大師が開いた宗派が法相宗です。玄奘はインドで瑜伽行派の戒賢に師事し三転法輪説を修得している。三転法輪説にあっては、 『解深密経』の無自性相品に次のように説かれております。
釈尊は初め第一時にただ声聞乗のために四諦の教えを説かれたが、それは未了義の教えであった。また、昔第二時にただ大乗のために無自性の教えを隠密に説かれたが、それも未了義の教えであった。しかし、今第三時に普く一切乗のために無自性の教えを顕了に説かれた。これこそが了義の教えである。
この三時における釈迦の四諦説法説は、インド瑜伽行派の仏教史観が反映されたもので、天台智顗も同じように四種四諦を説いております。『解深密経』は四教の区分で言えば別教にあたりますので智顗の四種四諦は円教をくわえた四種となります。
インド瑜伽行派の『解深密経』に依るところの三転法輪は、第一時の小乗の教えはアビダルマ、特に説一切有部の思想(有) 、第二時の大乗の教えは般若思想(空) 、第三時の一切乗の教えは唯識思想(中)を意味しており、二辺を廃して中道を立てる「有・空・中」の三教構造からなります。
智顗は「仮・空・中」の三諦として円融三諦を顕しますが、その思想は明らかにインド瑜伽行派のインド仏教思想を継承したものなのですが、こともあろうかあの仏教学の権威とまで言われた中村 元 大先生が、智顗の三諦説はインド仏教には見られない中国仏教独自の思想であるなどと言われましたものですから今日の日本における仏教観は、大変おかしなことになっております。
ネットユーザーの中にも「天台教学は智顗のオリジナルであって釈迦仏教ではない」などといったあやまった考えを持っておられる方が沢山おられます。
仏教における「空」という概念を学ぶ時、多くの方々が中村 元 著書の『龍樹』を手に取って学ばれた事かと思われます。その252ページに、
『中論』を研究したスチェルバツキー、インドP・L・ヴァイディア、同じくN・ダットなどの二、三の学者は、この詩句はたんに、縁起、空、仮名、中道という四つの概念の同一であることを意味していると考え、三諦の思想に言及していない。
と述べ更にチャンドラキールティ(月称)の言葉を引用して、
空がすなわち中道であり、中国一般の解釈のように空を空じた境地に中道が現れるのではない。(P.254)
などとおかしな仏教観を紹介し、
こういうわけで空、仮名、中道は皆縁起の同義語である。(P.255)
といったあたかも「空=仮名=中道=縁起」といった誤解を招く表現をなされ、
天台でいうような三諦の説はどこにもみえず、これらの諸語を同義とみなしている。(P.255)
とまで言いきっておられますので、困ったものです、、、、、。
この一回目と二回目の違いは一回目が第六意識で起こる四諦で、二回目は末那識の第七意識で起こる四諦です。「法空・非空」を覚らないと二回目の四諦は起きません。
析空や体空は「人空」で第六意識で起こる四諦ですので「仏の空観」には入れておらず「欲界の六欲天」に意識は入ります。「空」の法空や非空が理解出来てはじめて人間の意識(第六意識)から解脱して色界の仏の空観に入れます。
析空や体空(人空)で禅定を行っているのが禅宗やヒンズー教などの但空を説く宗教です。
但空とは、「空」を実在思想の「有る無し」で理解し、たんなる「無」だと勘違いしてしまった空の理解です。
こちらの禅宗の解説動画をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=nNEUgdj_cuc
「1:11:38」あたりを再生されてみて下さい。空を何にもない無であると講師の仏教学の先生が講義されておられます。そもそも僧侶が、学者さんから仏教を教わっていること自体あり得ない話なのですが、こちらでお話しましたように、
法介のほ~『法華経』--- その①
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/6
末法の僧侶は「名ばかり」の僧侶ですのでそうなってしまうのでしょう。
詳しく説明しますと返って混乱させてしまいますので、シンプルに言います。
くり返しているのです。(四諦の三転法輪)
今回は二回目です。
一回目は仮の実在の世界観(欲界)です。
今回の二回目は空の世界観(色界)です。
では第三禅天はどうでしょうか。
【第三禅天】
◆少浄光天(しょうじょうこうてん)
・身体から絶えず浄光が出ている梵衆天
・身長・・・16由旬(約208㎞)
・寿命・・・16劫(691億2000万年)
◆無量浄光天(むりょうじょうこうてん)
・身体から絶えず無量の浄光が出ている梵補天
・身長・・・32由旬(約416㎞)
・寿命・・・32劫(1382億4000万年)
◆遍照光天(へんじょうこうてん)
・身体から浄光が満ちあふれている大梵天
・身長・・・64由旬(約832㎞)
・寿命・・・64劫(2764億8000万年)
この解説文では第三禅天では「浄光」が強調されておりますが、その意味するところが見えてきませんのでこちらのサイトの解説文に目を通して見ましょう。
【流れる時代を見る】
http://thetimes.seesaa.net/article/431120434.html
第三禅天
喜ぶを※捨(しゃ)し、正念、正見(すなわち念慧)を得ながら楽と共にある状態
※捨(心の平静、心が平等で苦楽に傾かない事)
とあります。この「捨(しゃ)し、正念、正見(すなわち念慧)を得ながら楽と共にある状態」の文をググってみますと、ウィキペディアの次の解説ページが検索結果の最上部に表示されます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/四禅
なんと四禅の第三禅の解説文です。
初 禅 - 諸欲・諸不善を離れ、「有尋有伺」ながらも、離による喜・楽と共にある状態。
第二禅 - 「無尋無伺」[注釈 2]であり、内清浄による喜・楽と共にある状態。
第三禅 - 喜を捨し、正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。
第四禅 - 楽が止み、不苦不楽の受が存在する状態。
今わたしは無色界禅定の第三禅についてお話をしています。なのになぜ色界禅定の第三禅の解説に戻ってしまったのでしょう。
次に色界の四禅天の第二天ですが、ここでもある事に気づきます。無色界へと向かう禅定の第二禅では「識」を空じて「識無辺処」に入ります。四禅天の第二天は次のような内容です。
【第二禅天】
◆少光天(しょうこうてん)
・身体より光明を放つ梵衆天
・寿命・・・86億4千万年
◆無量光天(むりょうこうてん)
・身体より無量の光明を放つ梵天の大臣
・寿命・・・172億8千万年
◆発光天(はっこうてん)または光音天
・身体より雷鳴のような明るさの光を放つ大梵天
・寿命・・・345億6千万年
ここでは「光」が強調されておりますが、中でも「無量光天」と聞いて何か思い当たる事が御座いませんか?
そうですあの阿弥陀佛の別名が「無量光佛」で、阿弥陀佛と言えば「光明が永遠にわたってかがやき、めぐみのはてしがない仏」として説かれている仏です。空理(空の理論)では「法空」の次に仏の空観を空じる「非空」が最後に空じる対象としてありますが、この空観を空じた「非空」にあっては、欲界・色界・無色界の三界の空間を仕切っていた空間の壁が無くなります。すると欲界にあった凡夫の心の中に色界に居るはずの阿弥陀佛の姿が顕れます。
しかし、最初に行う色界禅定の第4禅で空観に入る訳ですから次に行う無色界禅定の第1禅はその空観、即ち色界に意識はあるはずです。その色界の構造が下に示す四禅天の図ですが「仏教の教えと瞑想〜原始仏教の世界」で紹介されております四禅天の解説文とを良く見比べて思案しますと気づきませんか。
【色界の四禅天の構図】
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d2/色界十八天.PNG/450px-色界十八天.PNG
【色界の四禅天の解説】
https://www.bukkyouoshie.com/tenkai/sikikaibonten.html
◆梵衆天(ぼんしゅうてん)
・第一天
・身長・・・半由旬(約6.5㎞)
・寿命・・・半劫(21億6千万年)
◆梵輔天(ぼんほてん)
・第二天
・大梵天王を補佐する大臣
・身長・・・1由旬(約13㎞)
・寿命・・・1劫(43億2000万年)
◆大梵天(だいぼんてん)
・第三天
・いわゆる「梵天」。バラモン教やヒンドゥー教のブラフマー神がこの大梵天。
・身長・・・1由旬(約13㎞)
・寿命・・・1劫半(64億8千万年)
梵衆天・梵輔天・大梵天の寿命の長さです。人間の時間の概念から明らかに抜け出ています。「空」の理論では時間の概念を空じて「法空」に入ります。(五蘊を完全に空じた状態=人間の第六意識の止滅)
色界に入る為に行う色界禅定の四禅と、色界として存在する四禅天の違いが解かるとある重大な事に気がつきます。
それが何かと申しますと色界禅定でまず色界に入ります。そして無色界禅定で無色界へ向かうのが「九次第定」なのですが、この無色界禅定がどの空間で行われるかといった問題です。
定説ですとウィキペディアの解説にあります通り、
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https://ja.wikipedia.org/wiki/無色界
空無辺処
無色界の第1天。定を抑える一切の想を滅し、虚空(Ākāśā;何もない)に果てがない(無辺; anattā)であると思惟する定。
識無辺処
無色界の第2天。識(ヴィニャーナ)に果てがない(無辺)であると思惟する定。
無所有処
無色界の第3天。何物も無しと思惟する定。
非想非非想処
無色界の最高の天。非有想非無想処とも。何物も無しと思惟する定を超えて極めて昧劣な想のみが存在する定。有における天界の最上部であるため、有頂天とも呼ばれる。
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無色界禅定の第1禅で無色界の空無辺処に入り、第2禅で無色界の識無辺処、第3禅で無色界の無所有処、最後に行う第4禅で非想非非想処へ入ると考えられております。
実はこの四禅には、定静慮と生静慮の二種ありまして、「生静慮」は天上界の十七天に再び生を受けて転生することを言います。それに対して「定静慮」は現世において禅定で色界へ意識として入ることを言います。今ここでお話しておりますのは禅定で色界へ入る「定静慮」のお話です。「定静慮」では四禅で五蘊を完全に空じた後に色界へ入ると説かれております。
梵衆天・梵輔天・大梵天の住む梵世の初禅天や少光天・無量光天・極光浄天が居る二禅天、少浄天・無量浄天・遍浄天が住む第三禅天、無雲天・福生天・広果天・無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天が住む第四禅天は、「生静慮」の四禅天のお話です。
この二つの四禅を混同されている方がおられますが、四禅と四禅天とは内容が異なります。
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ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/四禅
四禅とは、初期仏教で説かれる禅定の4段階のこと。九次第定のひとつをなす。三界の内の色界に相当し、この言葉は、禅定の段階に応じてこの色界を4分割した四禅天の略称としても用いられる[1]。禅天の意味で用いる場合は、初禅天から三禅天まではそれぞれ三種の天をとり、四禅天については外道天などを含む九種の天をとって合計で十八禅天あるとする。ただし、四禅天には諸説あって合計で十六禅天とすることもある。
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こちらのWeb版「新纂浄土宗大辞典」などは、完全に読む人に誤解を生じさせてしまうような表現となってしまっております。
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/四禅天
『南伝大蔵経』には、
「婆羅門、是の如く此の梵行は利養、恭敬、名声を功徳とせず、戒成就を功徳とせず、定成就を功徳とせず、知見を功徳とせず。婆羅門、此は彼の不動の心解脱なり、婆羅門、此の梵行は其を目的とし、其を心材とし、其を究竟とすと。」(9巻、361頁)
とあって、戒も禅定も途中であり、目標は、「心解脱」であるとします。「心解脱」とは人間の第六意識からの解脱を意味し『南伝大蔵経』によれば、四禅で全ての五蘊を空じる事で解脱する順序とります。
初期仏典で説かれているこの四諦を、「客観・主観・空観・中観」に割り当てて考えると様々な事が読み取れてきます。
苦諦 - 実体視は苦でしかないという真理。 (客観)
集諦 - 苦の原因は愛執に集約されるという真理。(主観)
滅諦 - 苦を滅した悟りの境地があるということ。(空観)
道諦 - 仏道の実践でその境地に至るということ。(中観)
例えば、龍樹が『大智度論』の中で顕した四悉檀(ししつだん)ですがこの四つの悉檀は空の理解の深さの違いから起こります。
① 析空=客観を空じる
② 体空=主観を空じる
③ 法空=法を空じて仏の空観に入る
④ 非空=仏の空観を空じて中観に至る
①と②は未だ第六意識の中の人空です。③で五蘊を全て空じて法空を観じて仏の空観(色界)に入ります。
「九次第定」の色界禅定では第一の初禅は、「有尋・有伺」と言われ、そこに心の統一は成立しているが、しかしなお尋(vitarka 覚)と伺(vicara 観)とが心中に活動している状態です。有尋と有伺の意味するところはつかみ難いとされていますが、『倶舎論』では、
尋伺の別とは、謂わく、心の麁細なり。心の麁性を尋と名づけ、心の細性を伺と名づく。
と述べ、心の粗い作用が尋、微細な作用が伺であると解釈しています。また『清浄道論』では、
尋求が尋である。(それは)思考であると説かれた。それは、対象に心を結合することを特質とする。
さらに「伺」とは、
伺察が伺である。(それは)熟考することであると説かれた。対象を思惟することを特質とする。
と説明されている。これらの事から「尋」が客観による認識で「伺」が主観による認識であろうと考えられます。
この四諦の「三転法輪」は、初転法輪・中転法輪・後転法輪と呼ばれ、初転法輪は声聞乗に対して、中転法輪は縁覚乗に対して、後転法輪は菩薩乗に対してそれぞれ説かれます。この四諦がなぜ3回繰り返し説かれるのかという事は、『法華経』の開三顕一の理論と同じで声聞・縁覚・菩薩といった三乗のそれぞれの機根に応じて四諦が説かれて行ったのではないかという事が経文の内容から読み取れます。
天台智顗は『勝鬘経』と『涅槃経』を根拠として「四種四諦」の教義を顕しますが、これは四諦の「三転十二行相」とおしらく深く関わってくるものだと考えられます。三回繰り返し説かれる「三転十二行相」ですがそれを説く仏の劣応身・勝応身・報身・法身の四身をくわえますと「四種四諦」となるからです。そして智顗はこの「四種四諦」をもとに『観無量寿経』の16観法から「四門の料簡」を読み取ったのではないでしょうか。
実は四諦の真理は3度繰り返されることで完成に至ると『解深密経』の中で説かれておりましてこれを「三転十二行相」と言います。
世尊。初於一時在婆羅尼斯仙人堕処施鹿林中。惟為発趣声聞乗者。以四諦相転正法輪。雖是甚奇甚為希有。一切世間諸天人等先無有能如法転者。而於彼時所転法輪。有上有容是未了義。是諸諍論安足処所。世尊。在昔第二時中惟為発趣修大乗者。依一切法皆無自性無生無滅。本来寂静自性涅槃。以隠密相転正法輪。雖更甚奇甚為希有。而於彼時所転法輪。亦是有上有所容受。猶未了義。是諸諍論安足処所。世尊。於今第三時中普為発趣一切乗者。依一切法皆無自性無生無滅。本来寂静自性涅槃無自性性。以顕了相転正法輪。第一甚奇最為希有。于今世尊所転法輪。無上無容是真了義。非諸諍論安足処所。
世尊は、最初の時にヴァーラーナシーの地の仙人堕処、鹿野苑において、声聞乗へと正しく向かっている者たちに対して、四聖諦とその内容を説かれました。それは希有なる素晴らしいもので、過去に天となれる者や人となれる者、その如何なる者すらもこの世間に転じたことのないひとつの法輪を転じ給われたのです。この世尊が完全に転じた法輪には、更により上のものがあり、更なる余地を残しているものであり、これは未了義であり、論義の基盤となっています。
また世尊は、諸法無自性をはじめと、不生不滅、本来寂静、自性涅槃について、大乗へと正しく向かっている者たちに対して、空性を語るという内容によって、稀有なる素晴らしい第二の法輪が転じ給われたのです。この世尊が転じられた法輪もまた、更により上のものがあり、更なる余地を残しているものであり、未了義であり、論義の基盤となっています。
これらに反して、世尊は諸法無自性をはじめ、不生不滅、本来寂静、自性涅槃について、すべての乗へと正しく向かっている者たちに対して、善く判別され内容をもつ、稀有なる素晴らしい第三の法輪を転じ給われました。この世尊が転ぜられた法輪は、無上なものであり、余地無く、了義であり、論争の基盤とはなっていないのです。
お釈迦さまは入滅なされる直前に説かれた『涅槃経』の中で、自身亡き後の拠りどころとなる指針として「法四依」を示されます。
依義不依語(義に依りて語に依らざれ)
依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)
依法不依人(法に依りて人に依らざれ)
の四つの項目からなる遺言的に残された指針です。この中の四番目の「依法不依人」は法論の場において「根拠となる衣文を示してください」などと言って良く飛び交う文句なので知っておられる方も多いかと思われます。
ここでは、三番目の「依了義経不依不了義経」について少々お話をさせて頂きます。
釈尊が一代にわたって説いた教えのすべてを指して「八万法蔵」と言ったりしますが八万は実際の数ではなくそれだけ数多くの教えをお釈迦さまはお説きになられたという意味でそう言います。その多くの教えは全て一仏乗の「仏の智慧」として集約されていきます。『法華経』を学んでおられる方はご存知かと思いますが、仏は一乗の教えを三乗に開いて個別に各々の詳細を解き明かし、最後にそれら三乗に説いた教えを「開三顕一」として集約して究極の「法」を顕します。
ですから、その部分部分の教えを学ぶのでは無く、「依了義経不依不了義経」に示されるように完結した「了義経」を学びなさいと言われております。「不了義経」とは、真理を完全に説き明かしていない未完全な教えという意味です。
この件に関して日蓮さんが臨終間際に選ばれた六老僧(日昭、日朗、日向、日頂、日持、日興)のお一人であられました日興上人がご自身の『日興遺誡置文』の中で次のような事を書き綴っておられます。
「義道の落居無くして天台の学文す可からざる事」
「義道」とは大聖人の仏法の教義と道理のことで、「落居」とは習得してしっかり胸中に収めることを言います。日蓮仏法を学び習得してからでないと「天台の学問」をいてはならないと戒められている訳です。
日蓮仏法と言いますのは、「了義経」である『法華経』を拠りどころとする仏法です。その日蓮聖人が詳しく解き明かす『法華経』の法理・法門を正しく理解して天台の教学を学ばないと、天台教学を凡夫の浅はかな概念で解釈してしまい、手前勝手な凡夫解釈の教学となってしまうからです。仏教では声聞・縁覚・菩薩・仏といったそれぞれの境涯に即した四種の智慧が説かれており、その四つの智慧を持って経典を読み取っていかなければおかしな解釈に陥ってしまいます。
声聞の智慧
縁覚の智慧
菩薩の智慧
仏 の智慧
この四つの智慧の意味をきちんと理解した上で経典を読んでいかないと仏の深意は決して読み取れません。
ちなみに、これがその現場の写真だ。
直進車はみな右の車線に入っている。左は左折レーンだからだ。
そこを私は真っすぐ直進した。実はこのA交差点の先のB交差点までの短い道路、以前は一車線だった。だから写真の標識のように真ん中の一車線のみが直進指示がなされていた。しかし数年前そこも二車線に拡張工事されて直進出来るように変わった。だが標識はそのままにされていて、ここは普通の優良ドライバーであったら普通直進する状況になっていた。だからここは、警察官側からしたら、違反者を捕まえる格好のテリトリーとなっていた。
未来ある若者達だけに私は彼らにあるべき正しい警察官の姿勢を語り出した。
「市民はみなあなた達が運転するパトカーを目にするとビクッてする」
「何でだと思う?」
「あんたら警察官は違反者を罰する事を目的に勤務してるだろ」
それがおかしいと気づかずに言われるまま切符を切られてきた市民も市民だが、取り締まる警察の方はもっと罪が重い。
先の市役所の件にしてもそうだが、どうして皆、おかしい事に気づかないのか。それはみな〝六根〟が濁っておかしなことをおかしいと判断することが出来なくなってしまっているからなのです。
視点を変える事の大事さを未来ある若者警察官に諭そうとわたしは言った。
「市民の皆さんの為に日々パトロールしているんだという視点にたてば、
真っ先にこのおかしな標識に警察官が気づかなきゃダメでしょう。
それをおかしな標識に従わなかった市民を罰するとは何たることか」
少々反省気味に私の話を謙虚な姿勢で受け止め出した若者に、
「あなた達も、お巡りさん、いつもパトロールお疲れ様」
って、市民の皆さまから言われたら方が働きがいもあるでしょう。と言うと
「確かにそうですね。そう言って頂けると本当にうれしいです」
と素直な返事が返って来た。
が、しかし
切符は切りなおされた、、、、。
そこのところは行政上どうしても融通が利かないらしい、、、、。
そういった経緯があって数か月後、
その場所を走ってたらふと気づいた。
↑標識が撤去され直進可能になっていた。
.
.
ありがとうお巡りさん^^
.
.
でもね、この話しには実はとんでもない後日談があるんです。
皆さん聞いて驚くと思います。
ある事(全く前回とは別の件で)で再び警察署に相談に行ったんですね。
で、結構な内容でしたのでわりと上層部の警察官の方が対応して下さったんです。
で、その道路標識の話が出て来て、
「実はあの場所、パトカーも違反切符切られてたんですよ。」
って、おまえら
どこまでバカなんだ、、、、。
私が、信じられなくて、
「え! そんな事があるんですか?
だれが、そのパトカー捕まえたんですか?」
と聞くと、助手席に乗っていた警官が切符切ったんですと。
それでもその標識がおかしいって気づけなかった警察官に
市民の安全を任せていいんでしょうかぁ!
交通課には、「道路の標識がおかしい所がある」という苦情を言いに来たという設定にした。違反切符を切られたとか言おうものなら奴らはそれに対して難癖をつけに来たぐらいにしか受け止めない。
で、
交通課の受付の若い兄ちゃんに、こうこうこうであれなんで、もうちょっと話の解るあんたの世話役人あたりを呼んで来て欲しいと言い、相談室に招待された。
最初に応対したゆゆしき奴は、応万な奴でむかついたので思わず言ってしまった、、、。
「おまえはバカか!」
と。すると何事かと奥から親分肌のゆゆしき奴がさっそうと登場した。
こやつはやるな・・・
雰囲気で瞬時に覚った。
如何にも話が解りそうな対応をみせるが、肝心なところでは
「いや、おかしくないですよ~」
切れてな~い、切れてないですよ~と言ってた芸人みたいなフレーズで話をごまかそうとする。場所が場所だけにこちらも慎重な態度でのぞまねば、下手をしたら奴らの思うがままだ。
最終的に奴は、
「確かにおっしゃられている事にも一理ありますね」
と言って、一応公安委員会の方に市民からこのような相談があったと報告しておきますと言って話は収まった。
が、しかし
翌日ピンポ~ンとチャイムが鳴った。
玄関の扉を開けると私に切符を切った若造の警察官二人がそこに立っていた。
昨日、違反現場で切符を切った警察官が、書き損じがあったようで、切符を切りなおさせて下さいと言って来た。
違反切符の切り直しだと、、、、、。
そんな間抜けな警察官、私は今、初めて目の前に見る。
しかし、昨日の現場の状況を思い返してみれば、私はかなり警察官に圧をかけて抗議していた訳で、確かに若造警察官は二人してかなり動揺してはいた。
動揺のあまり書き損じたのであろう、仕方ないので二人を家に入れ、お茶でもだそうかと
「まー。二人ともまずはそこに座んなさい」
とダイニングのテーブル&チェアーに招いた。
が、しかし
二人が言うには、
「我々は勤務中なので立ったままで構いません」
と言う。言われてみれば確かに警察官が勤務中、公園のベンチに腰掛けてたり、食堂に昼飯を食べに来てたり、喫茶店でコーヒー飲んでたりなんて光景、あまり見たことがない。というよりそういう光景を想像すると滑稽でもある。
「なるほど、じゃあ好きにしなさい」
といって私は腰掛けて、コピー用紙と鉛筆を持ち出し、彼らに昨日より詳しく図解であの標識が如何におかしな標識であるかを解り易く説明した。
次は、「道路標識は絶対に守りましょう!」と言い張るまぬけな警察官達のお話です。
うちの近所に↓このような
二つの交差点が連なっている場所がありまして、車線1を左側から走って来た車がB交差点で下方向に左折しようとした場合、車線1は直進禁止、左折のみと標識がなっておりますので、一旦車線2に車線変更し、A交差点を通過した後に再び車線1に戻ってB交差点で左折しなければなりません。
私は、この場合標識を無視して車線1のままA交差点を直進し(標識では直進は禁止です)、車線変更することなくB交差点まできて下方向に左折していました。
いつもそうしていました。
間違いなくそうしていました。
助手席の妻が毎度のように「お父さん、また違反しよる」って言うんですが、私はおかまいなしに、
「ここは標識がおかしいっちゃけん、これでよかと」
といって標識に従わずにいました。
ある日いつものようにその交差点を通過した時、けたたましくサイレンが鳴り響き、
「前の車! 左に寄せて止まりなさい!」
とパトカーから警察官が叫んだ。
そう、前の車とは間違いなく私の車です^^
車を左に寄せて止めると、パトカーから若い警察官が二人降りて来て、
「お父さん、ここは直進禁止ですよ。免許書見せて下さい。」
と窓越しに言ってきた。
私は、車から降りてその警察官に言った。
「私が何の違反をしました?」
目が??になった警察官が、
「今、そこを曲がらずに真っすぐこっちに進んで来たでしょ!」
「はい」と答えた私は、さらに「それがなにか?」と警察官にお尋ねした。
「お父さん。解りますか、あなたは標識に従わずに直進したんです!」
おかしな事を言う警察官に私は言いました。
「その標識、絶対に正しいとあなたは思ってます?」
警察官はこう答えました。
「間違ってるとかじゃないくて、我々は決められたルールに従って違反者を取り締まっているんです。」
と。
それが自分達の任務だと。
そこで私は更に質問した。
「ではお伺いしますが、今まで直進出来る道路のど真ん中にビルが建って、変りにう回路で右に曲がる新しい道路が出来たとしましょう。」
しかし、工事の際うっかり標識を書き換える事を忘れてしまい、標識には今まで通り直進の指示がなされています。その場合、
「あなたは、標識が直進指示になっておりますので、取り合えず直進して一旦ビルに激突してください。」
「とでも言うのかね?」
「あんたのモノの言いようでは、そういう事になりますが?」
警察官は言い返した。
「その場合、状況に応じた安全運転をしなくてはいけないでしょう。」
でしょうに。真っすぐ直進出来るにも関わらず進路変更してまた進路変更してもとの車線に戻る事は、それだけ危険性が増すというもので、私もこの場合、標識に従わず直進する方が安全だと状況判断したからそうしたまでだと説明した。
が、しかし
我々は・・・と市役所の課長さんと同じで、果てしなくゆゆしきバカなのだ。
仕方ないので取り合えず切符は切らせてやった。
が、しかし
あくる日、警察署の交通課に「ゆゆしきバカ共」を退治しに行った。
最初のお話は、今年33になる私の長男に関わるお話です。
彼が中学3年生の時、高校入試で希望の高校に受験しにいった時のお話です。
同じ高校を受験する友達数名で、地下鉄の駅まで自転車でいって、受験を終えてその駅に帰って来たら、皆が止めていた自転車が全て撤去されていたんです、市の役人の手によって。
止めていた場所が駐輪禁止場所だったみたいで、結局子供達は罰金2,000円を各々が払ってそれぞれの自転車を返してもらって帰宅したんですね。
帰宅した息子からその話を聞いた私は、速攻で市役所に怒鳴り込みに行った。
そして市役所の地域整備課の課長を相手に私は言いました。
「収入のない未成年のしかも中学生から、罰金2,000円を徴収しただと!」
「おまえら、バカかぁー!!」
あたり一面に響き渡るその怒声に驚いた役人達が、一斉に私に向けて視線を集中させた。
私に罵倒された課長さんは、その視線の集中の中、次のような事を私に偉そうにのたまわった。
「我々は、市の条例に従って任務を遂行したまでです。」
「条例には違反者から罰金2,000円を徴収するとありますので」
それを聞いて更に呆れた私は、星一徹ばりにちゃぶ台返しまではいかないまでも、思いっ切りテーブルを両手で叩いて、
「お ま え は バカかぁー!!」
と再び怒鳴りつけた。
そして、その課長さんに諭すように言った。
「叱られると思って親に言えない子や、お金のない子は、どするかとか、あんた考えた事あるか?」
なかには、こっそり親の財布からお金をかすめたり、他の子からカツアゲしてお金を用意しようとする事だって十分考えられます。市の役人がとった行動が〝因〟となって新たな犯罪を生み出す可能性が十分に考えられる訳で、それよりも、何をおいても〝私が最も激怒した理由〟は、高校受験という子供達にとって、一世一代の大事な日にお前達〝大人〟は、何をしでかしてくれたんだということです。
中には、試験の出来が良くなくて落ち込んで帰宅の途にあった子だっていたはずです。
「そんな子からあんたらはよくもヘイヘイと罰金2,000円を徴収だと、ふざけなさんなよ」
と意見する私にその課長さん、何て言い返したと思いますか。
「我々には関係ありません。文句があるのでしたら条例を作った人達に文句言われてください」
と、いけしゃーしゃー(って方言?と思ってしらべたら違った)と、あくまで自分達は間違った事はしていませんよーと、ふんずり返かえってやがった。
あきれ果て、完全にブチ切れた私は、
「よし、解った!」
と言い残して家に帰り、知り合いの市議会議員(当時は学会員でしたので公明党の議員に)に連絡し、事の次第を伝えました。すると議員は、
「申し訳ありません。確かに法介さんが仰る通り、この条例は、未成年者に対する配慮が欠けております。お恥ずかしい限りです。直ぐに議会にかけて条例を改正します。」
と真摯な対応をしてくれた。
違反者が〝未成年者〟の場合、その〝保護者〟から徴収する、が正しいありかたです。
そんな事も気づかない〝まぬけな役人達〟は10年以上、このおかしな条例にもとづいて〝子供達〟から〝お金〟を徴収し続けていたのです。子供の保護者も含め、誰もおかしいと気づかすに、、、、。
翌日、あの課長さんからお詫びしたいので役所まで出向いていただけませんかと連絡が入った。昨日とは別人のように態度が一変した課長さんは、へこへこ私に頭を下げて謝罪した。
私はいってやりました。
「私に謝るんじゃなくて、これまで徴収してきた子供達全員に謝んなさい」
と。流石にそんな事は出来るはずもなく、
「任務を遂行するあなた達がまず一番に気づかなくちゃいけないでしょうが」
と滾々と説教して私は帰りました。
上根の菩薩衆に対して説かれたこの「法説周」ですが、上記のように三つの内容からなります。これは次に続く譬説周、因縁説周にも共通する内容ですが各々の説周が三つの内容で構成されております。要はこの 「三周の説法」で三種・三観が説かれている訳です。三種・三観は天台智顗が一念三千の基本形として示した天台教学において最も重要とされる法理です。
三種・三観と言えば、この前お話しました『般若心経』が実はこの「三種・三観」が示されているとお話しましたが、この法華経においても「三種・三観」が示されております。実は初期仏典の三蔵教の中でも「三種・三観」は別の形で説かれております。
「九次第定」がそれにあたります。
色界禅定の初禅で客観を空じて析空を感じ、二禅で主観を空じて体空を感じ、三禅で五蘊全てを空じる事で法空を感じて四禅で空観に入ります。色界禅定はこの空観(色界)に入る為の禅定で空観に入りますと空無辺で欲界・色界・無色界の三界の空間を空じ、識無辺で末那識の自我を完全に退治することで八識の識層を空じます。これによって仏の空観が空じられ(非空)て、無所有処の無色界へ入ります。無所有処では生と死の生死の二法が不二となって同時に顕れます。更に非想非非想処から滅尽定へ入って涅槃となります。
実は『観無量寿経』にも「三種・三観」は説かれております。
14,観無量寿経(その⑤)
https://butudou.livedoor.blog/archives/17944347.html
四教の各々でこの三種・三観が説かれております。
蔵教=『九次第定』
通教=『般若心経』
別教=『観無量寿経』
円教=『法華経』
天台智顗の『魔訶止観』の中の「四門の料簡」は、それをひも解いた内容です。
<蔵教の四門>『阿含経典』
蔵教の声聞
通教の縁覚
別教の菩薩
(蔵教を説く応身の釈迦)
<通教の四門>『般若経典』
通教の声聞
通教の縁覚
通教の菩薩
(通教を説く報身の釈迦=観音菩薩)
<別教の四門>『華厳経典』
別教の声聞
別教の縁覚
別教の菩薩
(別教を説く法身の釈迦=大日法身)
<円教の四門>『法華経』
蔵教を説く応身の釈迦
通教を説く報身の釈迦
別教を説く法身の釈迦
法華経を説く円経の釈迦
ちなみにですが、初期仏典で説かれている「戒・定・慧」、「欲界・色界・無色界」、「仏・法・僧」もよくよく考えてみますと次にような事になるかと思われます。
「戒・定・慧」 --- 実在の世界での「凡夫の空・仮・中」
「欲界・色界・無色界」--- 空間における「仏の空・仮・中」
「仏・法・僧」 --- 覚りの世界観における「真如の空・仮・中」
日蓮大聖人は『三大秘法抄』の中で「一念三千の証文は如何に」と問われて次のように返答されておられます。
「問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相・所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり」
一つは「方便品」の諸法実相として示された十如是と衆生をして仏知見を開かせ、示し、悟らせ、入らしめ(開示悟入)ようとする仏の一大事因縁の御文。もう一つは「寿量品」の「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」の本地を明かす御文。
二つ目の「寿量品」の方は後程ご説明させて頂くとしましてここでは「方便品」に絞ってお話を進めさせて頂きます。
大聖人が一念三千の証文とされている「方便品」の十如是は皆さんも良く存じ上げておられるかと思いますが、それは先に説明しました「略開三顕一」として説かれたもので、「広開三顕一」の法説周としましては、長行部分の以下の部分がそれにあたります。
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所以者何。諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世 --- ①。
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世 --- ②。
仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生。舎利弗。如来但以。一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三 --- ③。
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