日蓮大聖人は『実相寺御書』の中で、
「夫れ法華経の妙の一字に二義有り一は相待妙・麤を破して妙を顕す二は絶待妙・麤を開して妙を顕す」
と仰せになり妙法には、麤法に対する妙法と麤法を開いて顕す妙法との二つの意義があると御指南あそばされております。
麤法(そほう)とは、粗雑な劣った法という意味で最高の教えである法華経の「妙法」に対する言葉です。「麤法を破して妙を顕す」というのは麤法と妙法とを比較対象することで、教えの勝劣を示して法華経を最高の教えとします。そうやって顕された法華経が「相待妙」です。
それに対して「絶待妙」は「麤法を開して妙を顕す」なのですが、そのことを大聖人様は『諸宗問答抄』の中で、
「絶待妙と申すは開会の法門にて候なり」
と仰せになっております。「開会」とは、法華経の教えがあまりに高度過ぎて衆生にとっては難信難解な教えな為、お釈迦様は、本来は一仏乗の教えである法華経を声聞・縁覚・菩薩といった三乗の教えに開き、それぞれの機根に即した形で法を説いていきます。そして開いた三乗の教えを再び一つに会わせて集約して最後に法華経を顕します。この開いて示した三乗の教えを一つに会わせて示すことを法華経の「開会」といいます。
これを「開三顕一」と言いまして、仏は真理の法を衆生に知らしめる為に、三乗に開いて各々の境涯に即した真理をステップ的に示し、段階ごとに深まる法理・法門の教えを悟らせて究極の世界へと入らせます。
その事が『妙法蓮華經』方便品第二の中で「開示悟入の四仏知見」として次のように示されております。
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諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。
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[訓読]
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。
この二つの妙法は天台智顗が『法華玄義』で、
「妙を明かさば、一には通釈、二に別釈なり。通に又二と為す。一には相待、二には絶待なり」
と解き明かされた『妙法蓮華経』の五仏性に備わる二つの意義です。
この「相待妙」と「絶待妙」は別々にあるものではなく、『妙法蓮華経』の経題の中に同時に含まれているというものです。別々と考えてしまうと、相待妙で法華経を第一とした後、爾前教は必要ありませんので捨てるだけになります。そのように比較対象の考えのみになってしまっているのが日蓮正宗や創価学会の解釈です。
法華経を最高の教えとさとしたいのであれば、相待妙だけでよいはずですが、「二妙」ということですので、もう一つの妙法があります。それが絶待妙です。絶待妙は、一代聖教がすなわち法華経であると考えます。
爾前経の中にも重要な法門がたくさん説かれています。それは捨てるべき教えではなく、法華経を正しく理解していく中で生きてくる教え(体内の権)なのです。法華経が説かれた後は、念仏宗だとか真言宗だとか天台宗だとか言っても意味がないのです。どの水も海に流れ込めばみんな一同に塩味の海水になるのですから。すべては『法華経』に集約されるのです。
「相待妙・絶待妙」の考え方からすると、お釈迦様が説かれた一代聖教は、無駄になるものは何一つないということです。
現代用語では「相対」に対して「絶対」という言葉を用いますが、なぜここでは「相待・絶待」という字を用いているかについて、次に説明致します。
「相待」という言葉は「あいまつ」という意味で縁起という言葉と同じ意味をもっています。要するに「あいまつ」というのは、世の中の全ての事物は、それ自体が独立して成り立つものではなく、相互の関係の中で始めてその存在が成立するといった縁起の関係を含めた言葉なのです。
一人の女性はまず男性に対して女性といいます。そして、両親にむかっては娘であり、夫にむかっては妻であり、子にむかっては母です。
それぞれが、それ自らは「無自性」ではあるが、縁する対象によって女性として、また娘として、妻として、母として顕れます。何に縁するかによって意味合いが変わってくる、そのことを「相待」といった言葉で表しています。
更に、「相対」と「相待」の違いについて説明すると、たとえば電車の中で立っている人と、座席に座っている人がいたとします。相対では「立っている人に対して座っている人」ですから、「立っている人は座っている人よりも辛い」、「座っている人は立っている人よりも楽」、といった比較相対になります。
それに対して相待は、「立っている人がいるから自分は座れている」、「自分が立っていることで、座っている人が楽に乗車出来ている」、といった相互の関係の中の自分となります。(主観認識)
では、それぞれの文を「絶対」と「絶待」に展開してみましょう。
比較相対の「相対」に対する言葉である「絶対」を用いると、「絶対座っている方が楽だよね」となります。かたや「相待」に対する「絶待」はと言いますと、「立っている人がいるから自分は座れている」の文は、「ありがとう」の感謝の心へ展開され、「自分が立っていることで、座っている人が楽に乗車出来ている」の文は、他者貢献による自身の心の満足へと展開されます。
電車の中のささいな出来事ですが、それを比較相対で認識すると、「座っている方が楽だ」という欲が自身の心に生じます。しかし「相待」で認識すると感謝の心や心の満足を得ることが出来ます。
これが相待妙と絶待妙の二妙の力用です。
比較相対で物事を認識する生き方は。我欲が中心となって煩悩に覆われて苦しみの人生となっていきます。相待妙と絶待妙の二妙の力用を備えた妙法(法華経)の認識の中に心をおいてこそ真実の幸福な人生を感じ取っていけるのです。
その相待妙で三乗に開かれた妙法の内容はと言いますと、まず三乗とは仏門に入って得られる声聞・縁覚・菩薩といった三種の境涯のことを言いますが、仏の説法を聞くことで言葉の概念で真理を理解していく境涯を声聞と言います。
「三転法輪」の第一時の蔵教の声聞に対して行われた説法がそれにあたります。蔵教の声聞衆がその説法をどのように理解していったかはこちらで詳しくお話しております。
説一切有部について
https://zawazawa.jp/bison/topic/12
縁覚は、観音菩薩の説法を「音を観じる」が如く「聞く」のでは無く「独自の伝達方法」をもって観受ていく境涯です。独覚とも言われるこの境地にあっては、「聞く」という五蘊による凡夫の認識から、仏の認識に視点が変わることで「縁起」を覚っていきます。
通教の縁覚に対して説かれた第二時の説法は『般若経典』を中心とした「空」の説法ですが、こちらで詳しくその内容をお話しております。
「空」の理論
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5?page=2
そして第三時の菩薩に対して行われた「覚りの理論」を説いた説法の内容はこちらでご紹介しております。
四諦の「三転法輪」とは
https://zawazawa.jp/bison/topic/14
張 教授は論文の中で、
真性軌が実相諦理、観照軌が般若観智、資成軌が功徳善行、--- (19)
真性軌が中道諦、観照軌が空諦、資成軌が仮諦--- (18)
真性軌即是正因性、観照軌即是了因性、資成軌即是縁因性--- (15)
真性軌得顕名為法身、観照得顕名為般若、資成得顕名為解脱--- (16)
と智顗の三軌と三法・三因・三徳の関係を紹介されておりますが、日蓮聖人の御文と照らし合わせると、
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/18/4
次のような感じになるかと思います。
<三軌の定義>
真性軌が実相諦理(=体)
観照軌が般若観智(=性)
資成軌が功徳善行(=相)
<三軌と三法(真理)>
真性軌が法性中道第一義諦(中諦)
観照軌が空諦第一義空 (空諦)
資成軌が仮諦如来蔵 (仮諦)
<三軌と三因(真如)>
真性軌即是正因性(法身)
観照軌即是了因性(報身)
資成軌即是縁因性(応身)
<三軌と三徳(実相)>
真性軌得顕名為法身(法身)
観照得顕名為般若 (般若)
資成得顕名為解脱 (解脱)
「三転法輪」は蔵教の声聞・通教の縁覚・別教の菩薩といった三乗に対する説法で円教が最後に加わって智顗が『魔訶止観』の中で説く「四門の料簡」の16観法の相が顕れます。
<蔵教で三徳を説く釈迦(劣応身仏)>--- ①
「仮」資成得顕名為解脱 (解脱)
「空」観照得顕名為般若 (般若)
「中」真性軌得顕名為法身(法身)
<通教で三法を説く釈迦(勝応身仏)>--- ②
「仮」資成軌が仮諦如来蔵 (仮諦)
「空」観照軌が空諦第一義空 (空諦)
「中」真性軌が法性中道第一義諦(中諦)
<別教で三身を説く釈迦(報身仏)>--- ③
「仮」資成軌即是縁因性(応身)
「空」観照軌即是了因性(報身)
「中」真性軌即是正因性(法身)
<円教で十如是を説く釈迦(法身仏)>--- ④
「仮」資成軌が功徳善行(相)--- 仮一切仮
「空」観照軌が般若観智(性)--- 空一切空
「中」真性軌が実相諦理(体)--- 中一切中
十如是は円教である『法華経』に至ってはじめて明かされる法門ですので、智顗は三乗の教えを別相の「次第三観(別相三観)」として相待妙としての「三種・三観」を立てます(①~③)。その九項目に開かれた別相三観をベースとして、円融の「通相三観」④が絶待妙として起こります。
お釈迦さまが涅槃に入るさい、
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定
といった「九次第定」の禅定を行い、そして今度は、逆に滅尽定から、無色界の空無辺処まで戻り、さらに色界の第四禅から初禅まで戻っています。
滅尽定 → 非想非非想処 → 無所有処 → 識無辺処 → 空無辺処 → 第四禅 → 第三禅 → 第二禅 → 初禅
これはおそらく別相三観を①から③へ順観で行い次にそれを逆観で③から①へと意識を向かわせたのでしょう。そして再び、色界の初禅から第四禅へ至り、第四禅から無色界の禅定へとは進まず、この第四禅から直接ニルヴァーナへ入り、ブッダは肉体を捨て去ったと記述されています。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → ニルヴァーナ(涅槃)
この四禅の内容はおそらく、④の通相三観とその三観を最終的に一つに集約した「一心三観」の境地に入って涅槃を迎えたのではなかったのでしょうか。
仮一切仮 → 空一切空 → 中一切中 → 一心三観 → ニルヴァーナ(涅槃)