仏教の重要な概念の一つに「空」があります。
『般若経典』でその空は詳しく説かれておりますが、龍樹がその空を『中論』で詳しくひも解いております。では、お釈迦さまは空をどのように説かれたかと言いますと、お釈迦さまは「無我」として空を説かれました。
無我と言いますと「自分と言う者は実は存在しない」とか「主体が無い」「自我は無い」などと言った事だと思っている方が沢山おられます。実はこれも中村 元 大先生が弘められた「まちがった無我の解釈」になります。
「自分が自分だと思っている自分って実は存在しないんですよ!」
と言われてあなたは納得出来ますか?
思いっきり頬をつねってみて下さい。
痛いですよね。
痛みを感じている自分がそこに居ますよね。自分は間違いなく存在しているんです。お釈迦さまが言われている「無我」は、「自分という存在を認めない」事ではなく、「〝自我〟をもって自分と思ってはいけませんよ」という事なんです。その事をお釈迦さまは次のような言葉でもって説明なされております。
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自我に拠って自己を見ず、
精神を統一し、姿勢正しく、自ら安立し、
動揺することなく、心は静かで、疑惑もない。
こういう境涯に至った人こそ、供養を受けるにふさわしい。
『スッタニパータ』477
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この件に関して、奈良 康明文学博士のおもしろい論文を見つけましたので紹介します。
https://zenken.agu.ac.jp/research/48/15.pdf
博士は、日本の仏教学者・曹洞宗の僧侶であり東京大学から文学博士を授与されており、役職として駒澤大学学長、総長を経て、同大学の名誉教授となっておりまして、僧侶としても法清寺の住職を経て東堂となり、また、永平寺の西堂を務めたりされた方です。
論文の中で博士は、「主体が無い」とか、「自分は存在していない」と考えることがお釈迦さまが説かれた〝無我〟であると主張する一部の上座部の無我解釈が、今では古い考えであるという事を私たちは学ばなければ、正しい仏教観には立てないということを主張されておられます。
先ほどのお釈迦さまの言葉ですが、直訳すると「自己によって自己を見ず」となりましてそれをもって中村先生などは、仏の見識に立てば「自己は存在しない」と考えられた訳です。これは「自己と自我」を同等にみる考えです。奈良 康明 博士は、ここはとても大事なところなので何人かの研究者の訳を引き合いに出され並べて紹介なされておられます。
中村 元:自己によって自己を観じて(中村1993・538頁)
渡辺照宏:自己には自我なしと洞察し(渡邊1982・145頁)
宮坂宥勝:自分に自我を見ることなく(宮坂2002・123頁)
榎本文雄:自我にとらわれて自己を見ることなく(榎本1986・191頁)
村上真完・及川真介:自ら自我を見ず(村上・及川2009・(三)128頁)
中村先生だけが「自己によって自己を」と原文通りに二つの自己を並べていますが、他の先生方は自我と自己とに分けて訳しておられます。そうしないと意味が正しく伝わらないからです。
他の先生方の表現は、「真の自己は〝自我〟によって把握されるべきものではない」といったことを意味しております。