法介の『ゆゆしき世界』

間違いだらけの仏教の常識 / 43

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法介 2023/09/08 (金) 20:11:58 修正

蔵教の第一時法輪で仏因を得た声聞衆は戒・定・慧の三学を習得して天上界へ転生します。天界のどこに転生するかと言えば、声聞の境涯での空の理解は浅い為(析空)、初禅天となります。初禅天はもとは実存の根源とされた「ブラフマン」を神格化したバラモンの神であった梵天が、仏法の守護神となったとされるものです。

第二時の法輪で『般若心経』を理解するに至った阿羅漢衆(縁覚)は、第二禅天へ転生します。第三時法輪で第三禅天へ転生するのは『唯識』を覚った菩薩衆となり欲界の六道の上に声聞・縁覚・菩薩といった転生によって生まれ出でる禅天が色界に存在します。その色界の最上部に位置するのが仏界(四禅天)です。

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第一時法輪で蔵教の声聞衆が戒・定・慧三学を習得して初禅天へと転生していったのに対し、第二時(通教)法輪の縁覚衆は仏・法・僧三法に帰依することで第二禅天に転生します。その事が『観無量寿経』の「第五の観」と「第六の観」に次のようにとかれております。
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第五の観
 次に、まさに水を想ふべし。水を想ふとは、極楽国土に八池水あり。一々の池水は七宝の所成なり。その宝柔軟なり。如意珠王より生じ、分れて十四支となる。一々の支、七宝の色をなす。黄金を渠とし、渠の下にみな雑色の金剛をもて、もつて底の沙とす。一々の水のなかに六十億の七宝の蓮華あり。一々の蓮華、団円正等にして十二由旬なり。その摩尼水、華のあひだに流れ注ぎ、樹を尋りて上下す。その声微妙にして、苦・空・無常・無我・諸波羅蜜を演説す。また諸仏の相好を讃歎するものあり。如意珠王より金色微妙の光明を涌出す。その光、化して百宝色の鳥となる。和鳴哀雅にして、つねに念、念、念を讃ず。これを八功徳水想とし、第五の観と名づく
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第六の観
衆宝国土の一々の界上に五百億の宝楼閣あり。その楼閣のうちに、無量の諸天ありて天の伎楽をなす。また楽器ありて虚空に懸処し、天の宝幢のごとく、鼓たざるにおのづから鳴る。この衆音のなかに、みな、念、念比丘を説く
この想成じをはるを名づけて、ほぼ極楽世界の宝樹・宝地・宝池を見るとす。これを総観の想とし、第六の観と名づく。もしこれを見るものは、無量億劫の極重の悪業を除き、命終ののちにかならずかの国に生ず。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。

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『観無量寿経』の16観法は、四種四諦を説くものですから第五~第八の観が第二時法輪の四諦を示しております。第七の観では、第二禅天の無量寿仏(阿弥陀佛)を観法として観じることが説かれております
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第七の観
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴き、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。なんぢら憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。
この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。
ときに韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼して仏にまうしてまうさく、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべきや」と。
仏、韋提希に告げたまはく、「かの仏を観たてまつらんと欲はんものは、まさに想念を起すべし。七宝の地上において蓮華の想をなせ。その蓮華の一々の葉をして百宝の色をなさしめよ。八万四千の脈あり、なほ天の画のごとし。脈に八万四千の光あり、了々分明に、みな見ることを得しめよ。華葉の小さきは、縦広二百五十由旬なり。かくのごときの蓮華に八万四千の葉あり。一々の葉のあひだにおのおの百億の摩尼珠王ありて、もつて映飾とす。一々の摩尼、千の光明を放つ。その光り蓋のごとく七宝合成せり。あまねく地上を覆へり。釈迦毘楞伽宝をもつてその台とす。この蓮華の台は、八万の金剛・甄叔迦宝・梵摩尼宝・妙真珠網をもつて交飾とす。その台の上において自然に四柱の宝幢あり。一々の宝幢は百千万億の須弥山のごとし。幢上の宝幔は、夜摩天宮のごとし。また五百億の微妙の宝珠ありて、もつて映飾とす。 一々の宝珠に八万四千の光あり。一々の光、八万四千の異種の金色をなす。一々の金色、その宝土に遍し、処々に変化して、おのおの異相をなす。あるいは金剛の台となり、あるいは真珠網となり、あるいは雑華雲となる。十方面において、意に随ひて変現して仏事を施作す。これを華座の想とし、第七の観と名づく」と。

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ここで言う七宝は『法華経』にも出てきます七つの宝で飾られた宝塔、即ち『南無妙法蓮華経』を意味しております。蓮華という言葉が至る所に織り込まれ第八の観では『妙法』という文字が示されます。
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第八の観
仏、阿難に告げたまはく、「かくのごときの妙華、これもと法蔵比丘の願力の所成なり。もしかの仏を念ぜんと欲はんものは、まさにまづこの華座の想をなすべし。この想をなさんとき、雑観することを得ざれ。みなまさに一々にこれを観ずべし。一々の葉・一々の珠・一々の光・一々の台・一々の幢、みな分明ならしめて、鏡のなかにおいて、みづから面像を見るがごとくせよ。この想成ずるものは、五万劫の生死の罪を滅除し、必定してまさに極楽世界に生ずべし。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。
 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ三十二相八十随形なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度阿羅訶三藐三仏陀を観ずべし。かの仏を想はんものは、まづまさに像を想ふべし。閉目・開目に一つの宝像の閻浮檀金色のごとくにして、かの華上に坐せるを見よ。像の坐せるを見をはらば、心眼開くることを得て、了々分明に極楽国の七宝荘厳の宝地・宝池・宝樹行列し、諸天の宝幔その上に弥覆し、衆宝の羅網、虚空のなかに満てるを見ん。かくのごときの事を見ること、きはめて明了にして、掌中を観るがごとくならしめよ。この事を見をはらば、またまさにさらに一つの大蓮華を作して仏の左辺におくべし。前の蓮華のごとくして等しくして異あることなし。また一つの大蓮華を作して仏の右辺におけ。一つの観世音菩薩の像、左の華座に坐すと想へ。また金光を放つこと、前のごとくにして異なし。一つの大勢至菩薩の像、右の華座に坐すと想へ。この想成ずるとき、仏・菩薩の像はみな光明を放つ。その光金色にしてもろもろの宝樹を照らす。一々の樹下にまた三つの蓮華あり。もろもろの蓮華の上におのおの一仏・二菩薩の像ましまして、かの国に遍満す。この想成ずるとき、行者まさに水流光明およびもろもろの宝樹・鳧・雁・鴛鴦のみな妙法を説くを聞くべし。出定・入定につねに妙法を聞かむ。行者の聞きしところのもの、出定のとき憶持して捨てず、修多羅(経文)と合せしめよ。
もし合せざるをば、名づけて妄想とす。もし合することあるをば、名づけて粗想に極楽世界を見るとす(後にのべる眞観と比べて粗とする)。これを像想とし、第八の観と名づく。この観をなすものは、無量億劫の生死の罪を除き、現身のうちにおいて念仏三昧を得ん」と。

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そして次の第三時にあっては、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。」とありますように如来の世界観へと入って行きます。(中諦

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