法介の『ゆゆしき世界』

虚空絵(二) 法介のほ~『法華経』その⑧

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仏でありながら菩薩の道を行ずる「仏界即九界」の釈迦仏から、菩薩でありながら仏の三十二相を具えた「九界即仏界」の上行菩薩に対して行われた「結要付嘱を虚空絵(一)でお話しました。

ここでは、虚空絵で明かされる「本因本果の法門」について詳しくお話して参ります。

法介
作成: 2023/10/17 (火) 05:02:53
最終更新: 2023/10/17 (火) 05:06:36
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法介 2023/10/17 (火) 05:58:39 修正

『法華経』涌出品第十五で地涌の四菩薩が出現した時の様子を日蓮大聖人が『開目抄』の中で解りやすく述べておられますので現代語訳で紹介します。

まず、お釈迦さまの『法華経』説法を聴聞していた弟子達が、

「世尊、もしも我らに、仏が世を去られた後のこの娑婆世界にあって、努力し雑念を去り仏道修行に専心してこの経典を護持し、読み節をつけて唱え、書写し、供養する役目を課されるならば、この土において、きっと広くこれを説き奉るでしょう」

と熱い決意を訴えるのですが、お釈迦さまは何とこれを退けます。

「止めよ、仏法に帰依した男子よ、おまえたちはこの経を護持しなくてもよい」

そう言われて弟子達が

「えええ! 何で~!」

とショックに打ちひしがれていると、大地が激しく震動して裂け、そこから金色の光彩を放って無数の地涌の菩薩が出現します。その菩薩達は身体が皆金色で、仏のみが備えている三十二のすぐれた身体的特徴を具えていた。

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法介 2023/10/17 (火) 06:08:57

開目抄

 その上に地涌千界の大菩薩が大地より出来した。釈尊にとっては第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の樵夫・杣人の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。釈迦仏のあとを嗣ぐといわれた弥勒すら、なお地涌の出現に惑われた。しかしてそれ以下の者の驚きと当惑はひじょうなものであった。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖がましました。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行であらせられる。

そこに出現した地涌の菩薩達は帝釈天が顕れたのかと見間違う程で、その場に居合わせた普賢菩薩や文殊菩薩等が猿に見えてくる程の素晴らしいお姿であったと。中でも先頭に立つ四菩薩は、

 この四人は虚空会および霊山会に来集している諸菩薩等が、眼をあわせることも心のおよぶこともなかった。華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も、この菩薩に対すれば翳眼のものが太陽をまともに見られないごとく、いやしい海人が皇帝に向い奉るような状態であった。太公望等の四聖が大衆の中にいるごとく、商山の四人の君子が漢の恵帝に仕えたのと異ならない。じつにぎぎ堂々として尊高であった。釈迦・多宝・十方分身の諸仏をのぞいては、一切衆生の善知識ともたのみ奉るべきであろう。

という程のものでした。

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法介 2023/10/17 (火) 06:12:33

そして弥勒菩薩は心の中で次のように思った。

 自分は釈迦仏が出家する以前の太子であった時から、三十歳で成道し、いまの霊鷲山で法華経の説法が開かれるまでの四十二年のあいだ、この世界の菩薩も十方世界より来集した菩薩もみなことごとく知っている。またその上に十方の浄土へも穢土へも、あるいはお使いとしてあるいはみずから遊びに行って、その国々の大菩薩も見聞して知っている。しかしこの地涌の大菩薩はいまだかつて見聞したことがない。この大菩薩のお師匠はどのような仏さまであろうか。よもこの釈迦・多宝・十方の分身の諸仏には似るべくもない仏さまであらせられるであろう。雨の猛烈に降るを見て竜の大なることを知り、華の大きく盛んなるを見てこれを育てている池の深いことは知られるであろう。これらの大菩薩はいかなる国から来て、また誰と申す仏にあい奉り、いかなる大法をか修習し給うているのか。

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法介 2023/10/17 (火) 06:21:41

そう内心で疑わざる負えなかった弥勒菩薩は、あまりの不思議さに声を出すことすらできなかったが、仏力の加護によるのであろう、つぎのように質問した。

「無量千万億の大衆のもろもろの菩薩は、昔よりいまだかつて見たことのないところである。このもろもろの大威徳・大精進の菩薩衆に対して、だれがそのために法を説いて教化して仏道を成就せしめたのか。誰にしたがって初めて発心し、いずれの仏法をか称揚して修行を積んできたのか。世尊よ、われ昔よりこのかたいまだかつてこのことを見たことがない。願わくば、その住する国土の名を説き聞かせてください。自分はつねに諸国に遊んできたが、いまだかつてこの事を見たことがない。自分はこの地涌の大衆を見てもひとりも知っているひとはない。忽然として大地より涌出せられた。願わくばその因縁を説いてください」

と。そして日蓮大聖人は天台や妙楽の言葉を紹介されます。

 天台いわく「寂滅道場における最初の説法より以来、法華経の座にいたるまで十方の大菩薩が絶えず来会してその数は限りないとはいえ、自分は補処の智力をもってことごとく見、ことごとく知っている。しかれどもこの衆においてはひとりをも知らず。しかるに自分は十方に遊戯して諸仏にまのあたり奉仕し、大衆によく識知せられているのである」と。妙楽はさらにこれを釈していわく「智人は将来起こるべきことを知るが愚人は知らない。蛇の道は蛇で、蛇はみずから蛇を知っている」と、このように経文も解釈も説明するところの意味は分明である。要するに初成道より法華の会座にいたるまで、この国土においてもまた十方国土においても、これらの大菩薩を見たてまつらず、また聞いたこともないというのである。

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法介 2023/10/17 (火) 09:07:31

お釈迦さまは弥勒菩薩の質問に答えて言います。

「弥勒よ、なんじらが昔より未だ見たことのないというこれらの大菩薩たちは、自分がこの娑婆世界において成仏してよりこのかたこの諸々の菩薩を教化し、指導して、その心を調伏して大道心をおこさしめたのである」と。またいわく「われは伽耶城の菩提樹の下に坐して、最正覚を成ずることを得、しかして無上の法輪を転じ、これらの大菩薩を教化して初めて道心をおこさしめ、いまはみな不退の位に住している。乃至自分は久遠よりこのかたこれらの衆を教化した」と涌出品に説き明かしている、これはすなわち略開近顕遠である。

法輪という言葉が出てきますがこれは四諦の法輪説法(三転法輪)の事です。「略開近顕遠」とは、久遠における本因本果をお釈迦さまは、弥勒に対してここではこのように略して語っておられます。

しかし、弥勒等の大菩薩はここで大いに疑いを抱いた。

お釈迦さまが『華厳経』を説かれた時、法慧等の無量の大菩薩が集まった。いかなる人々かと思われた時に、仏はわが善知識であると仰せられたから「そうかもしれない」とその時は思っていた。

その後の大集経を説いた大宝坊や、大品般若経を説いた白鷺池等に集まってきた大菩薩もまた仏の善知識であるように思われた。

しかし今、地から湧き出て来たこの「地涌の菩薩」達は、彼らには似もつかぬ古くて尊げに見える。定めて釈尊のご師匠かなどと思われるのに「初めて道心をおこさしめた」と説いて、かつては幼稚のものであったのを、教化して弟子としたなどと仰せられたことは、大なる疑いである。

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法介 2023/10/17 (火) 09:14:51

日蓮大聖人は、この弥勒の疑いの心を次のようにご説明なされておられます。

日本の聖徳太子は人王第三十二代用明天皇の御子である。御年六歳の時、朝鮮半島や中国大陸から渡ってきて学問技芸等を伝来した老人たちを指して「わが弟子なり」とおおせられたので、かの老人たちはまた六歳の太子に合掌して「我が師であらせられる」といったというが、実にふしぎなことである。外典にはまたつぎのような話がある。ある人が道を行くと路傍において、三十歳ばかりの若者が八十歳ばかりの老人をとらえて打っていた、どうしたことかと問えば「この老人はわが子である」と青年が答えたという話にも似ている。

お釈迦さまの言うことが信じられない弥勒菩薩等は更に疑って言った。

「世尊よ、如来は太子であらせられた時、釈の宮を出で、伽耶城を去ること遠からずして道場に坐して悟りを開かれたのである。それよりこのかた始めて四十余年を過ぎたのであるが、世尊よ、いったいどうしてこの少ない期間にこのような偉大な菩薩大衆を化導しておおいなる仏事をなしとげられたのか」

と。一切の菩薩を始め、華厳経より四十余年、それぞれの時々に疑いを設けて一切衆生の疑いを晴らせてきた中に、この疑いこそもっとも第一の疑いである。無量義経において大荘厳菩薩等が四十余年の爾前経は歴劫修行であり、無量義経にいたって始めて速疾成仏道と説かれて生じた疑いにもまさる大疑である。

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法介 2023/10/17 (火) 09:27:24 修正

日蓮大聖人はその疑いがどれ程のものであったかを次のような話を用いて説明されます。

 観無量寿経において韋提希夫人が子息の阿闍世王に殺されようとし、しかも夫人の夫で阿闍世の父たる頻婆沙羅王が幽閉されて殺されたのは、阿闍世が提婆達多を師としたからである。阿闍世は韋提希夫人をも殺そうとしたが耆婆と月光の二人の大臣に諌められて、これを放ったが、この時に夫人は釈尊に会ってまず第一の質問に「自分の過去世になんの罪業があって、このような悪子を生んだのか。世尊はまたなんの因縁があって提婆達多のごとき悪人と従兄弟の間柄に生まれてきたのか」と、この疑いの中に「世尊はまたなんの因縁があって……」等の疑いは大なる大事である。転輪聖王は敵とともに生まれず、帝釈は鬼とともにいないといわれているが、仏は無量劫以来の大慈悲者であらせられるのになにゆえに大悪逆の達多とともにいるのか。かえって仏ではないのであろうかと疑ったのである。しかれどもその時に仏は答えなかった。されば観経を読誦する人は、法華経の提婆品に来て初めて説き明かされる因縁を聞かなければなんにもならないのである。大涅槃経に迦葉菩薩が三十六の質問を出しているが、それも涌出品におけるこの弥勒の疑いにはおよばない。

仏がこの疑いを晴らさなければ、釈迦一代の聖教はことごとく泡沫となり、一切衆生は疑いの網にかかってしまうであろう。しかるに、この疑いに正しく答えられた寿量の一品が大切なる理由はこのゆえである。

と大聖人は仰せになり、つぎの寿量品の広開近顕遠をもってより具体的にそして明確に「本因本果」が説き明かされていきます。

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法介 2023/10/18 (水) 04:40:12 修正

『法華経』の本門で「五百億塵点劫」が明かされ、お釈迦さまは実は久遠において既に成仏の覚りを得ていた事が明かされます。その「五百億塵点劫」についての研究論文の中に、

三五塵点に関する一考察―五百億塵点劫実説について―  野坂 教翁

https://gakurin.ac.jp/wp-content/pdf/17/「三五塵点に関する一考察―五百億塵点劫実説について―」.pdf

という「野崎論文」があります。

論文の中で「久遠本仏」と「大日如来」との勝劣が述べられております。

久遠本仏と大日如来との勝劣に関し、法身仏・無始無終である大日如来に対して久遠本仏は三身の無始無終であって諸経に説かない、と述べられている。即ち久遠本仏は三身即一であり、更に法華経の説く五百塵点は無始無終と考えられていたことも看取できる。

法華真言勝劣事
問て云く大日経の疏に云く大日如来は無始無終なりと。遥に五百塵点に勝れたり。如何。答ふ…諸大乗経に之を説く。独り大日経のみに非ず。問て云く若爾らば五百塵点は際限有れば有始有終也。無始無終は際限無し。然れば則法華経は諸経に破せ被るるか如何。答て云く…今大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終也。三身の無始無終に非ず。法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之を破したる五百塵点也

また『開目抄』では、応身報身の顕本は法華経でのみ説くと述べており、報身を正意としていることは明らかである。

開目抄
其外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず久遠本仏が三身即一・報身正意である理由を述べると、一点目として上冥下契が挙げられる。報身仏による自行があって初めて、法身である真理に到達することが可能であり、応身となって示現することで初めて衆生を教化することができる。もし報身仏が三身の主体でなければ、換言すればもし法身が三身の主体であれば、真理は真理のままであって応身が示現することも無い。報身を実体として三身を具足するからこそ三世に亘る衆生教化が可能である。二点目として自行の成道がある。寿量品の文「我実に成仏してより已来た久遠なること斯の如し」より、仏は久遠本時に成道した、と説かれている。この文から報身仏が主体であり法身に境智冥合したと考えるべきである。もし法身が主体であればそもそもこの成道自体が不要であるので本地の開顕、寿量品自体が方便と見做されることとなる。よって法身正意ではなく報身正意といえるのである

一方、久遠本仏における三身の寿命については『一代五時鷄図』にて全て無始無終と明記している。後述する図を見れば明らかであるが、始成正覚の仏の三身において応身・報身は有始であるが、久遠本仏の三身において三身ともに無始無終となる。

        応身―有始有終
 始成の三身  報身―有始無終 
        法身―無始無終 (真言の大日等)

        応身―無始無終
 久成の三身  報身―無始無終 
        法身―無始無終

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法介 2023/10/18 (水) 05:09:15

日蓮大聖人は『法華真言勝劣事』の中で、

今大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終なり三身の無始無終に非ず、法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之を破りたる五百塵点なり、大日経等の諸大乗経には全く此の義無し

と申され、『開目鈔』でも、

雙林最後の大般涅槃経・四十巻・其の外の法華・前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず

と申されております。

大日経等の諸大乗経典では大日法身の無始無終は説かれてはいるが、応身・報身の無始無終は『法華経』にしか説かれておりません。

そして『開目鈔』で、

本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打やぶて、本門十界の因果をとき顕す。此即本因本果の法門なり

と仰せです。蔵・通・別・円の四教の教えは全て因果を説いたものでした。しかしその「爾前迹門の十界の因果」を打やぶって「本門十界の因果」が説き顕されます。

これが即ち、「本因本果の法門」です。

どういう事だか解りますか。

蔵・通・別・円の四教で示して来た〝因果〟を打ち破った「因果」なんです。

有為の因果ではなく、無為の因果が『法華経』本門では明かされているのです。

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法介 2023/10/18 (水) 05:36:06

無為」とは縁起が生じないという意味で、究極の覚りの世界(真如の世界)にあっては縁起は起こりません。『唯識』で説かれている第八阿頼耶識がこれにあたります。ここでは意識が働きませんので善悪等の判断も起こりません。ですから長い・短いも綺麗・汚いも嬉しい・悲しいも生じる事も滅する事も何も起こりません。なので無始無終です

そこにあるのはただ、(行いの記録)だけです。

しかし、仏が積んで来た修行の因(行い)も、その修行の報いとして得て来た果徳(果報)もここには全て収まっております。ここでの因果は縁起としての因果ではなく、業としての因果です。

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法介 2023/10/18 (水) 06:01:59

「意識」が無く縁起も起きないこの阿頼耶識に、意識として入る事はまずもってあり得ないかと思われます。

初期仏教の「九次第定」ではその意識を止滅させてこの境地に入る訳ですが、ここに入っても意識がありませんので何かを覚るという事も考え難いです。ただ〝無〟の境地に入って六道からの輪廻を解脱するだけの涅槃(無余涅槃)でしかないでしょう。

日蓮大聖人が法身ではなく報身を正意とされているのは、こういったところによるものではないでしょうか。

世間一般的に〝仏〟と言えば「法身」というイメージが強くあるかと思われますが、日蓮や天台教学では仏の〝意識〟は「報身」にあると考えます。それは先に紹介しました「野坂論文」に目を通して頂けますと十分にご納得頂けるかと思います。

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法介 2023/10/18 (水) 06:32:16 修正

三周の説法では声聞・縁覚・菩薩の三乗の因果(三種三観)が明かされ、虚空絵では仏の因果が明かされて本門においてはじめて阿頼耶識の〝仏の種子〟としての「十界の因果」が説き顕されます。

この「本因本果の法門」をさらに深く理解する為に、次に「三五の法門」についてお話致します。