実は仏と言えども自我ってまだ存在しているんです。「いやそんな事は無い! 仏は煩悩を滅しているから無我だ!」とやっきになって食って掛かってくるあなたは、まだまだ菩薩の境地は程遠いかと。
実は我々が「仏」仏といっておりますその「仏」って、人間が概念として人間の言葉で定義付けした「仏」ですよね。ですから「仏」として仏を認識している内は、未だ菩薩の境涯に非ずとなります。
自我意識を完全に空じると、仏という存在は自身の世界の中から消滅します。(非空)
それが如来という真如の世界観です。
意識が第七末那識に移ると心臓の動きすらも自身の意志でコントロール出来るようです。禅定で完全に解脱の状態に入ると動物が冬眠状態に入ったように呼吸もごくわずかなものになってはたから見たら生きているのか死んでいるのか分からないような状態になるようです。そこまでは行かなくとも、脳よりの意識が阿頼耶識よりの意識になるとそこに自我という意識は存在しません。
ただ「感じる」という状態ではないでしょうか。
しかし、ちょっと考えて見て下さい。そのような意識が働かない境地で「他者を救ってあげたい」という意識が起こるのでしょうか?
また、自他の分別のない世界観にあって救うべく他者って存在するのでしょうか?
よーく考えて見て下さい。
無我って「我」が無くなった境地の事を言うんですが、お釈迦さまなんかはこの無我の境地です。よく「我」が無いという事を、「自分は実は存在していない」という仏教関係者の方が居られますが、そういう教学を教え込まれると一生悩み続ける事になります。だってわたしって間違いなく今ここに存在しています。
思いっきり自分の頬をつねってみて下さい。幻想や虚像なら痛くないはずです。
実は、この「我」が無いという境地は、自我の事を言ってるんです。普通人間は前五識を対象として第六意識が表層意識として働きます。表層で自覚しうる意識が第六意識です。呼吸を止めようと思ったら止められます。しかし、心臓を止めて下さいと言われて止めれる人はおりません。心臓は潜在意識で動いているからです。
前五識を対象として起こる意識=第六意識 ---(表層意識) 阿頼耶識を対象として起こる意識=第七意識 ---(深層意識)
中諦の覚りが菩薩の覚りになりますが、自我を退治(空じた)したこの境地では、時間という概念が止滅します。時間は人間の脳備える「記憶する能力」によって起きている人間特有の現象です。自然界に時の流れが存在する訳ではありません。
と言っても、「この人何言ってんの」って思いますよね。
逆に「なるほどー」と思える人は、菩薩の境涯に近いです。
九次第定では空無辺、識無辺の次に「無所有処」となりますが、菩薩の覚りを得ますと自身の「我」が完全に止滅して自他を分別する心が無くなります。それによって不二の菩薩の境涯に至ります。
菩薩の境涯では、分け隔てのない慈悲の心が自然とあふれ出て他者救済の道へと向かいます。
ここでの意識は第七末那識にありながら自我という濁ったフィルターが取り払われて、今まで見ていた世界がまた別の世界に観えてきます。それまでは前五識を対象として起っていた縁起(此縁性縁起)が、境涯が変わることで阿頼耶識を対象として起こる縁起(相依性縁起)に変わります。縁起の種類が変わることで立ち上がる世界観もおのずと変わります。
例えばそれまでは口うるさくて嫌いで仕方なかったった職場の上司が、その上司のおかげで実は自分自身が気づかないうちに仕事に対する取組みが、以前に比べて格段と向上していた事に気づき、その上司の存在がとても有難く思えて来たりします。
自身の心が変わる事で、物事や人の認識に大きな変化が顕われそれまでの世界観が次第に変わっていきます。
仮諦の覚りで開く一念三千と、空諦の覚りで開く一念三千の違いです。
そこに出現した宝塔は、金・銀・瑠璃・碼碯などの七種の宝玉でできている荘厳なる塔です。
なぜ七種なのか。
それは、「南無妙法蓮華経」だからです。
その宝塔は宙に浮いて止まります。そこから虚空絵の儀式が始まるのですが、
「虚空とは蓮華なり、経とは大地なり、妙法は天なり、虚空とは中なり、一切衆生の内・菩薩・蓮華に座するなり、此れを妙法蓮華経と説かれたり」
と日蓮大聖人は申されております。三界が一つになった世界観がこのようなシチュエーションで描かれております。
これって初期仏教を学んでいる方ならピンとくるお話ですよね。
九次第定の無色界禅定の空無辺と識無辺で三界の空間の壁と意識層の八層の識層を取っ払って広大な一つの空間が仏国土として開かれた訳です。
虚空絵の説法を始めるにあたってお釈迦さまは三世諸仏の仏菩薩が集まって来れるように国土を整えます。
「見宝塔品第十一」で説かれる、「三変土田」です。
娑婆世界を仏国土へと変える訳ですが、なぜ三変かはもうお解りですよね。
声聞の智慧で「娑婆世界」を「方便余土」に変え、縁覚の智慧で「実報土」に変え、最後に菩薩の智慧で「常寂光土」へと三度に渡って国土を浄化します。
①凡聖同居土:人・天などの凡夫も声聞・縁覚・菩薩・仏の聖者もともに住む国土 ②方便有余土:見思惑を断じまだ塵沙・無明惑を残す二乗や菩薩が住む国土 ③実報無障礙土:別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩が住む国土 ④常寂光土:法身・般若・解脱の三徳をそなえ涅槃にいたっている仏が住む国土
お釈迦さまがこの「三変土田」を行う前に、巨大な宝塔が大地より突如として出現し、空中に浮かんで静止します。まるで『宇宙戦艦ヤマト』のオープニングの大地からヤマトが浮き上がってくるシーンみたいです。そして宝塔の中から、
「素晴らしい、素晴らしい、よくぞ法華経を大衆のために説いてくださった。その通りです、その通りです、あなたが説かれたことは、すべて真実です」
と、大音声が響き渡ります。その賛嘆の声を聞いてその場に居合わせた者達は大いに戸惑い騒ぎ出します。
「こんなことは、今までなかった。いったい、どういうわけで宝塔が大地から現れ、その中から声が発せられたのだろう」
お釈迦さまは答えます。
「この宝塔の中には、多宝如来という名の仏様がおられる。この仏様は、かつて誓ったのです。『法華経が説かれるところがあれば、私の塔はその前に現れ、証明役となって素晴らしい、素晴らしいと賛嘆しよう』と。だから今、法華経が説かれるこの場所に多宝如来の塔が出現して賛嘆したのです」
そこにある菩薩が「それなら、その仏様に会わせてください!」と、申し上げた。
しかし、それには条件があった。
多宝如来が姿を見せるには、釈尊の分身として十方世界で説法している仏たちを、すべて呼びもどさなくてはならないのです。ですからお釈迦さまは、仏たちが集まってこられるように今いる娑婆世界を三回にわたって浄化し、空間を広げて一つの仏国土にしました。
佐野さんの老け方がしぶい
これって新しい表現方法かも
この手法なら簡単にアニメが創れそう。
この四諦と十二因縁の関係は、智顗の『法華玄義』の中で詳しく解き明かされておりますが、それはこちらで詳しくお話して参ります。
ゆゆしき『阿頼耶識システム』 四種四諦 https://zawazawa.jp/bison/topic/15
と順観と逆観の二種の十二因縁を説かれて最後に次のように申されます。
仏が天人と人間の大衆の中でこの教えを説かれたとき、六万億那由他の人は、なにものにもとらわれる事がなくなり、諸々の汚れから心が解放され、皆、深遠微妙な寂静の心境に達し、自他の過去世のあり方を自由に知る宿命明、自他の未来世のあり方を自由に知る天眼明、煩悩を断って迷いのない境地に至る漏尽明の三明、神足通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通・漏尽通の六種の神通力を得、八種の解脱を備える者となった。
解りますか。
ここで言われている事。
『唯識』なんです。
唯識から見る十二因縁がここで示されておりまして次の言葉へと続きます。
第二、第三、第四の説法のときも、ガンジス河の砂の数に等しい千万億那由他の生命のあるものすべては、また、なにものにもとらわれる事がなくなり、諸々の汚れから心が解放された。
続いて今度は逆観の十二因縁が説かれます。
過去世の無始の煩悩(無明)がなくなれば過去世の煩悩によって作った善悪の行業 (行)が滅する。過去世の煩悩によって作った善悪の行業(行)がなくなれば過去世の煩悩によって作った善悪の行業が原因で母胎中に受胎した身体と精神との結合体(識)が滅する。過去世の煩悩によって作った善悪の行業が原因で母胎中に受胎した身体と精神との結合体(識)がなくなれば胎中にあって身心の発育する位(名色)が滅する。
胎中にあって身心の発育する位(名色)がなくなれば胎中にあっての眼耳鼻舌身意の六つの感官(六入)が滅する。胎中にあっての眼耳鼻舌身意の六つの感官(六入)がなくなれば生誕後しばらくの間の事物に関して苦楽を識別することなく、ただ事物に触れて感知しようとする位(触)が滅する。生誕後しばらくの間の事物に関して苦楽を識別することなく、ただ事物に触れて感知しようとする位(触)がなくなれば苦をいとい楽をよろこぶような心の生起する位(受)が滅する。
苦をいとい楽をよろこぶような心の生起する位(受)がなくなれば性欲を起こし異性を求める位(愛)が滅する。性欲を起こし異性を求める位(愛)がなくなれば自分の求めるもののために馳求する位(取)が滅する。自分の求めるもののために馳求する位(取)がなくなれば未来の生活や環境を結果する行為によって業因を積集する位(有)が滅する。未来の生活や環境を結果する行為によって業因を積集する位(有)がなくなれば前の業因によって結果した未来の生存(生)が滅する。
前の業因によって結果した未来の生存(生)がなくなれば老・死・憂・悲・苦・悩が滅する。
「化城喩品」では、
その時、大通智勝如来は、十方の諸々の梵天王、及び十六人の王子の請いを受けて、即時に人間が前世・現世・来世において三界を流転する輪廻のようすを説明した十二因縁の教えを三通りに説かれた。
と言ってお釈迦さまは次のような前振りをして、
沙門であっても婆羅門であっても、天人や、悪魔や、梵天や、その他のいかなるものであっても、説くことの出来ないものであった。
まず四諦を示します。これが一通り目です、
すなわち、その教えとは、『これが苦である、これが苦の原因(集)である、これが苦の滅である、これが苦の滅に至る道である』という教えであった。
なぜ四諦が十二因縁かと言いますと、苦諦・集諦・滅諦・道諦の各々に三諦の真理(空・仮・中)が備わっておりますので4×3=12となります。
そして、
また、人間が前世・現世・来世において三界を流転する輪廻のようすを説明した十二因縁の教えを広く説かれた。
と申されて順観の十二因縁がまず示されます。
これが二通り目です。
過去世の無始の煩悩の根本である無明が外的原因で、過去世の煩悩によって作った善悪の行業(行)が生じる。過去世の煩悩によって作った善悪の行業が外的原因で母胎中に受胎した身体と精神との結合体(識)が生じる。
過去世の煩悩によって作った善悪の行業が原因で母胎中に受胎した身体と精神との結合体(識)が外的原因で、胎中にあって身心の発育する位(名色)が生じる。胎中にあって身心の発育する位(名色)が外的原因で、胎中にあっての眼耳鼻舌身意の六つの感官(六入)が生じる。
胎中にあっての眼耳鼻舌身意の六つの感官(六入)が外的原因で、生誕後しばらくの間の事物に関して苦楽を識別することなく、ただ事物に触れて感知しようとする位(触)が生じる。生誕後しばらくの間の事物に関して苦楽を識別することなく、ただ事物に触れて感知しようとする位(触)が外的原因で、苦をいとい楽をよろこぶような心の生起する位(受)が生じる。
苦をいとい楽をよろこぶような心の生起する位(受)が外的原因で、性欲を起こし異性を求める位(愛)が生じる。性欲を起こし異性を求める位が外的原因で、自分の求めるもののために馳求する位(取)が生じる。
自分の求めるもののために馳求する位(取)が原因で、未来の生活や環境を結果する行為によって業因を積集する位(有)が生じる。未来の生活や環境を結果する行為によって業因を積集する位(有)が原因で、前の業因によって結果した未来の生存(生)が生じる。
前の業因によって結果した未来の生存(生)が外的原因で、老・死・憂・悲・苦・悩が生じる。
仏教では主観や客観での認識ではなく、主観、客観を空じた空観に意識を置いて縁起で物事を捉えます。その縁起は、因が縁によって結果として今現在の姿があると観ます。観るという漢字をあてがうのは「見る」のではなく過去の因や縁を観じ取っていくから「観る」と書いております。観音菩薩が音を「聞く」のではなく音を「観じる」と書くように、仏の空観にあっては五蘊による認識(第六意識)ではなく、深層意識である第七末那識が意識となります。
この因縁果からなる縁起の法門を「法」という角度から説いたのが法説周で、仏の「智慧」という角度から説いたのが譬喩周です。そして最後の因縁説周は「因縁」という角度から因縁果を次のように説いております。
因=釈迦と弟子達の三千塵点劫の過去の因 縁=十二因縁(順観と逆観) 果=現在の師弟の関係(釈迦在世の)
因縁説周では、最初に三千塵点劫の因縁の話があって次に十二因縁が順観と逆観とで紹介されます。そして最後に「化城宝処の譬え」が説かれます。その一連の話の中で最初からしつこいくらいに言い続けている言葉があります。
「今の宮殿の明るい光は昔から一度もあったことがない。」
「どういう因縁によってこの現象が現われたのか。」
という言葉です。途中、それは仏が出現したからだという説明が入るのですが、その後に「化城宝処の譬え」が始まって、結局のところ、この現象は仏が智慧によって起こした現象であったという事が解ります。開三顕一の「法」をここでは因縁をもって示しているんです。法が転じて法身となり、智慧が転じて般若となり、因縁が転じて解脱となって実在の世界に顕われます。
三周の説法の中で一番奥が深いお話だと思います。
そういった事を頭に入れて今一度読み直してみるとおもしろいですよ。 https://syoubou.wordpress.com/妙法蓮華経化城喩品第七(みょうほうれんげきょ/
実は、まだあるんです。このお話の中に組み込まれている大事なお話が。
天台智顗は「四種四諦」を説いておりますが、その根拠となり得る内容がこの「化城喩品」の中に明確に示されております。
『観心本尊抄』の①の「大通の種子を覚知するもの」ですが、これが『法華経』方便品第二の中で説かれている五千起去(ごせんききょ)でしょう。お釈迦さまが法華経を詳しく説こうとされた時、その会座にいた5000人の増上慢の出家者たちが、すでに妙果(悟り)を得ていると自惚れて聞こうとせずに起立して去って行きます。
②の「成仏を許された」弟子達が舎利弗・目連・迦葉・阿難といった記別を授けられた声聞の弟子達の事でしょう。
③の「人界天界の衆生等」と言いますのは、天界と言っても仏教を習得していなくても人としの人生を全うして執着なく最後を迎えれば六欲天に転生します。お釈迦さまの法華経の会座にあっても六欲天の天人達が聴聞しておりますよね。そういった天人を含めて始めて法華経八品を聞きいて発心下種した者達です。
そして④にありますように正法、像法時代でそういったお釈迦さまとの結縁者達はことごとく皆成仏して天上界へ転生していっております。ですから末法の衆生には「仏」と同等の修行の対境が必要不可欠となります。
なぜなら「因」ありと言えども「縁」がなければ縁起は起こらないからです。
因縁説周は、お釈迦さまと声聞の弟子達の過去世の因縁のお話です。成仏の因となるのは『法華経』です。その法華経の種が「仏」という縁に値うことで熟していきます。(熟益)
このように『法華経』は繰り返し説法がなされておりまして、これを「覆講法華」と言いまして化城喩品で出てきます「転輪聖王」もその象徴ではないかと思われます。
転輪聖王という概念は、ヴェーダ時代(紀元前2千年紀)から存在しバラモン教に継承され、その概念がよりはっきり形成されたのはインドにおける仏教やジャイナ教においてである。起源論としては、インドラ神の力を象徴する戦車の車輪とする説や、世界を照らす日輪(太陽)とする説、或いは輪状の武器チャクラムとする説や、マンダラを表すという説もあるが、仏説によれば四つの海に至るまでの大地を、武力を用いる事無く、法の力を以って統治するといった内容になる。
その四つの意味するところが四聖諦、即ち四諦ではないでしょうか。
更に『観心本尊抄』ではこのように申されておられます。
インドに出生した釈迦の説法を聞く釈迦在世の衆生等は、三千塵点劫の大通智勝仏の第十六王子(釈尊の過去世)の法華経説法によって仏果の種を下したものである。その時いらい長期にわたって、調機調養して、いまインドに生まれ釈迦仏が華厳経等の前四味を説くのをきいて助縁となして、大通の種子を覚知するものがあった --- ①。しかし、これは仏の本意ではなくて身体の中に潜んでいた毒がある時に発するようなものであり、爾前経を聞いて種子を覚知したものはこのような毒発等の一分であった。大多数の二乗凡夫等は前四味を助縁とし、しだいに法華経へ来至して種子を顕わし開顕を遂げて成仏を許された --- ②のである。また在世においてはじめて正宗の八品を聞き発心下種した人界天界の衆生等 --- ③は、あるいは一句一偈等を聞いて下種とし、あるいは熟しあるいは脱し、なお法華経で脱しないものも普賢経や涅槃経で脱し、なお洩れたものは正法像法年間におよび、末法の初めに小乗教や権教を助縁として脱し、ことごとく成仏した --- ④。あたかも在世の前四味を聞いて助縁とし、大通の種子を覚知したごとく仏滅後の正像末、二千余年のあいだにことごとく法華に入って成仏を遂げたのである。
「化城喩品」は、お釈迦さまと声聞の弟子達との前世よりの因縁が説き明かされる章で、「化導の始終」「種熟脱の三益」が示されていることから智顗も大変重視しておられました。『法華文句』巻七(下)では次のような事が書かれております。。
佛告諸比丘是十六下。第二明中間常相逢値。 逢値有三種。若相逢遇常受大乘。此輩中間皆已成就不至于今。 若相逢遇遇其退大仍接以小。此輩中間猶故未盡。 今得還聞大乘之教。三但論遇小不論遇大。則中間未度。 于今亦不盡。方始受大乃至滅後得道者是也。
現代語に訳すとこのようになります。
「仏告諸比丘十六の下、第二に中間に常に相逢値することを明す。逢値に三種有り、若し相逢遇して常に大乗を受くれば、此の輩中間に皆已に成就して今に至らず。若し相逢遇して其の大を退するに遇て仍ち接するに小を以てせば、此輩中間に猶故に末だ尽きず、今還て大乗の教を聞くことを得、三に但小に遇うことを論じて大に遇うことを論ぜず。則ち中間に末だ度せず。今に亦尽くさず、方に始めて大を受く、乃至滅後得道の者是なり」
つまり三千塵点劫の時に大乗を信じて実践した者は中間において仏道を成就して釈尊在世には現れないが、大乗を聞いておきながら退転して小乗に落ちた者は、中間では成仏できずに釈尊在世に再び生まれ出でて法華経を再度聴聞して得脱する。さらに小乗に執着して大乗を聞こうとしなかった者は、三千塵点劫の中間では当然成仏できておらず、釈迦在世の世に於いて初めて大乗を聞き、釈尊滅後に大乗を受けて得道するとされている。
要するに三千塵点劫の時点を中間点として釈迦在世の世を終点として「下種益と熟益、そして脱益」が説かれている訳です。
日蓮聖人も『唱法華題目抄』の中で次のように仰せです。
十六王子の法華経説法を聞いた人は幾千万とも分からないほどであった。その説法を聴いてその場で悟りを得ることができた人は不退の位に入った。また、法華経を不十分にしか理解できず、結縁しただけの人々もいたが、その人々は法華経の説法を聞いた場でも、また釈尊在世以前の中間の期間も、不退の位に入らないで三千塵点劫を経てしまった。それゆえに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を輪廻し、只今釈迦如来が法華経を説かれるのを聴いて不退の位に入ったのである。舎利弗・目連・迦葉・阿難などがその人々である。その人々よりも更に信心が薄い人々は、釈尊在世でも悟ることができずに未来無数劫を経過しなければならないのであろうか。それは分からないが、われわれも大通智勝仏の十六の王子に結縁した者であろうか。
舎利弗・目連・迦葉・阿難といえば、「三周の説法」では舎利弗は法説周で、目連と迦葉は譬説周で、阿難は最後の因縁説周で未来に成仏する証しとしての「記別」をそれぞれ授けらております。(熟益)
仏による衆生教化の始終を作物の種が育っていく過程になぞって「下種益・熟益・脱益」の三益に振り分けた「種熟脱の三益」という仏教用語があります。
これは法華経『化城喩品第七』の因縁説周で出てきます大通智勝仏と深く関わってきます。
まず下種益とは、仏が衆生の心田に成仏の種を下すことです。次に熟益とは、下された種を成熟するために衆生を教化して機根を調えること、そして脱益とは、熟した果実を収穫するように衆生を成仏・得脱させることをいいます。この種熟脱の三益は、法華経で初めて説き明かされる法門で、三益が説かれなければ、衆生の成仏の因縁関係が明らかになりません。
因縁説周では過去三千塵点劫という大昔に大通智勝仏という仏がいて、その大通智勝仏が王であった時にもうけた十六人の王子がおりました。大通智勝仏は王子の求めに応じて法華経を説き、それを聞いた十六人の王子は父に代わり、それぞれの因縁に従って父の法華経を重ねて説きます。これを十六王子の法華覆講と言います。「法華覆講」とは、何度も繰り返して法華経の説法をすることを言います。
第十六番目の王子は、娑婆世界において法華経を説きましたが、その王子は釈尊の前世の姿で、その時に教化された衆生は、釈尊の法華経の会座に居合わせた衆生であると釈尊と声聞の弟子達との過去世からの因縁が明かされます。
この大通智勝仏の時代に仏と結縁した事を「大通結縁」と言いまして、因縁説周の大通結縁の話は「迹門の三益」と言われます。
天台智顗がこの「大通結縁の三益」をどのように捉えていたか、こちらの研究論文から伺えます。
大通結縁の第三類について 最上泰滉 https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/4471/files/KJ00004400361.pdf
それを受けて、日蓮大聖人が種熟脱の三益をどう論じたかはこちらの「庵谷論文」で詳しく知ることが出来ます。
日蓮聖人の三益論 庵谷行亨 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/28/1/28_1_252/_pdf/-char/ja
庵谷 行亨教授は、立正大学仏教学部元教授、身延山大学仏教学部特任教授の仏教学者であると同時に日蓮宗の僧侶でもあります。
『三周の説法』の最後の因縁説周は、そういった種子にまつわるお話です。
その④の三因仏性の所で紹介しました日蓮大聖人の『総勘文抄』の次の言葉ですが、
「三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり。 一とは中道なり法華なり、大とは空諦なり華厳なり、事とは仮諦なり阿含・方等・般若なり、已上一代の総の三諦なり。 之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり。 因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり。 此れを総じて因と云うなり。 縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず。 善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや」
三因仏性は一切衆生に備わっていても「善知識の縁」に値わなければそれは顕れないと大聖人は言われております。ではその「善知識の縁」ってなんでしょう。
実はそれが無漏の世界(真如の世界)に備わる仏性の元となる「無漏種子」の事です。
『成唯識論』では本有の無漏種子がなかったならどんなに仏道に励んでも、どんだけ瞑想をやっても仏性を観じ取る事は無いと説かれております。 . . ブログ『唯識に学ぶ・誓喚の折々の記』で紹介されております内容をこちらで要点を掴みやすく読み取れるようにして紹介しておりますのでご確認下さい。 https://zawazawa.jp/bison/topic/9/1
法説周では「法」としての正因が説かれ、譬喩周では「仏の智慧」としての了因が説かれております。
そして最後にお釈迦さまと声聞の弟子達との「縁因」が因縁説周として語られて『妙法蓮華経』の五仏性の中の「三因仏性」が明かされております。 . . <三因仏性> 正因仏性=法説周 了因仏性=譬喩周 縁因仏性=因縁説周
「長者窮子の譬」は心の変化で起こる相依性縁起のお話ですが、『薬草喩品』では此縁性縁起が三草二木の譬として説かれております。
同じお釈迦さまの説法を聞いても声聞・縁覚・菩薩といった境涯の違いから理解もそれぞれに異なり、四悉檀による教説の理解の違いから覚る真理の内容も各々に異なってきます。覚りの内容が異なるので立ち上がる世界観も各々に異なった世界が立ち上がります。それが天台が説く四土説です。 .
『薬草喩品』では、小草が人間や天上の神々、中草が声聞・縁覚の二乗、上草が二乗の教えを通過した菩薩として時間の流れの中で茂っていく三草に譬えられ、小乗から大乗へと仏教が広まっていく経緯も小樹と大樹の二木に譬えられて「三草二木の譬」が語られております。こういった時間の経緯の中で起こる縁起を此縁性縁起と言います。
このように「法」が備える相(資成軌)・性(観照軌)・体(真性軌)の三軌を、 . . 法の譬え =三車火宅の譬 ---(体)真性軌 智慧の譬え=長者窮子の譬 ---(性)観照軌 実相の譬え=三草二木の譬 ---(相)資成軌 . . として説いたのが譬喩周です。
『信解品』の長者窮子の譬について少し掘り下げてお話を致します。
三界と言うのは、凡夫が住む欲界と仏が住む色界、そして真如の世界である無色界の三つの世界の事を言いまして、仏教の世界観はこの三界で構成されております。
空観(色界)にある仏が、「非空」という方便を用いて「有」の凡夫が住む欲界に現れ、方便を取り払って「空」の色界の住処へ戻ります。凡夫はその逆で、実体である「有」を完全に寂滅して「空」に入ろうとします。それが「有る無し」で空を理解した「無の境地」をひたすらに目指す析空に陥った小乗の灰身滅智です。
しかし大乗を起こした通教の利根の菩薩(龍樹)は、小乗のように「有」を滅するのではなく、「非空」の実在における仏を観じることで「有」を滅することなく有(俗諦)を空(真諦)へと転換します。これが体空です。心で観じ取る、いわゆる体感する空(相依性縁起)です。
それによって小乗では滅するべき対象であった煩悩が、大乗では煩悩を菩提へと転じる「煩悩即菩提」が説解き明かされます。
智顗の『摩訶止観』卷第三上には次のようにあります。 . . 從空入假名平等觀者。若是入空尚無空可有何假可入。當知此觀爲化衆生。知眞非眞方便出假故言從空①。分別藥病而無差謬故言入假。 平等者望前稱平等也。前觀破假病不用假法但用眞法②。破一不破一未爲平等。後觀破空病還用假法③。破用既均異時相望故言平等也。(摩訶止觀卷第三上T1911_.46.0024c07~14行目まで) . . 「此の観は衆生を化せんが為なることを眞は眞には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う」 (仏は非空から仮に入るから従空入仮観という)--- ①
「前観は仮を破して仮法を用いず、但だ眞法を用いるのみ」 (前観(凡夫の空観・仮観・中観)は俗諦を破してただ真諦を用いるだけ)--- ②
「後観は空を破して還た仮法(非空)を用う」 (後観(仏の空観・仮観・中観)は非空(有)から非有(空)へ入空観する)--- ③ . . 仏は方便として有を用いる(非空)のですが、さらに用いた有を破して空に入ります(非有)。その仏の空観を観じた凡夫は、本来なら従仮入空観で「有を破して空に入る」ところを「(方便として)有を破して(方便の)空に入る(非有)」に転じることで、有を滅することなく方便として空に入る「非有」の従空入仮観を観じます。
こちらでより詳しく解説しております。
12.維摩經玄疏 https://sinnyo.blog.jp/archives/19878164.html . . この意味するところが智顗の『維摩經玄疏』の中の「能観の三観」の中で次のように書かれております。 . . 「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心(凡夫の従仮入空観)を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず(仏の従空入仮観に入る)。而して能く心の空・仮(真実の仏の空・仮)を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす(悟りの空・仮の非有・非空)。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理(一空一切空観)を照らす。此れは即ち観行即(己心に仏性を観ずる位)なり。」(維摩經玄疏 529a11-15) . . これが具体的にどういう事かと言いますと、今世で身を滅して天上界へ転生する(灰身滅智)しかなかった凡夫が、今世で方便として空へ入る事が出来るということです。(凡夫も仏に成ることが出来るということ)
しかし、「方便として空へ入る(非有)」となると、その前提に破するべき方便としての有(非空)がある訳です。分かりにくい表現なので例えてお話ししましょう。
不幸な境遇に生まれてきた子供がいたとしましょう。不幸な境遇というのが実在の「有」です。「有を滅して空に入る」には、不幸な境遇という事実を打ち消すか、そういった感情を完全に寂滅させるしかありません。
ですがその事実を方便と受け止めるとどうなるでしょう。
意味があって不幸な境遇に生まれてきたのであってその意味を分かっていないから悩み苦しんでいるのです。不幸な境遇は何かを成す為の方便の姿であってその真意を悟った時、不幸な境遇も苦では無くなるのです。その意味(真理)を観じとるのが非空の有から入る非有の仏の従空入仮観(仏の空観)です。これが凡夫が仏の智慧をかりて悟りを得るという「煩悩即菩提」の理です。
この例えから何か思い浮かびませんか。 . . そうです三周の説法の中の「長者窮子の譬」です。 . . ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。
父親は偶然見たその窮子(困窮しきった人物)が息子だと確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるのが嫌で逃げてしまう。長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。
そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を任せ、実の子であることを明かした。
この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表している。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解した内容を釈迦仏に伝える形をとっている。『ウィキペディア』より
譬喩周は、「三車火宅の譬」、「長者窮子の譬」、「三草二木の譬」の三つの譬え話からなります。
『譬喩品』で、お釈尊さまは開三顕一の法理を三つの乗り物に譬え解りやすく「三車火宅の譬」としてお話します。燃え上がる火宅から遊びに夢中になっている子供達を助ける為に父親が方便を用いるお話ですが、
「三界は安きこと無し、なお火宅の如し」
といった文句が良く知られておりますが、この言葉の意味を「意識が三界にあるうちは迷いの凡夫で、三界から抜け出た処に覚りの境地がある」と思っておられる方が結構おられますが、実はこの言葉の意味するところは「九次第定」の空無辺、識無辺の禅定で空間と意識層を空じることで三界を仕切っていた空間と心の識層が無くなって一つの空間、一つの心に集約された真如の世界が顕れるといった「三界唯心」を譬えとして言われている言葉です。
と、説明されて「なるほどー」と即座に理解出来ればあなたは舎利弗に勝るとも劣らない大した境涯の人物です。大方の人は、なんとなーく「そうなんだー」といった感じで解かったような解らないような微妙なニュアンスかと思います。
ですから、お釈迦さまは更に解りやすいように譬え話を用いて説明します。それが次の中根の声聞衆に対して行った譬喩周(ひせっしゅう)です。
『妙法蓮華經』方便品第二には次のように法説周が説かれております。
所以者何。諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。 云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。
所以は何ん、諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう。舎利弗、云何なるをか、諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもうと名くる。
仏はただ一大事の因縁を以てこの世に出現するという箇所です。
続いて「開示悟入」の四つの仏知見が説かれます。
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。 欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。 出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。 是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。
この四仏知見は、一仏乗の法を三つの教えに開いて蔵教・通教・別教として示し、空・仮・中の三諦を悟らせ妙法蓮華経の一心三観へと入らせるという仏の智慧が説かれております。日蓮聖人がこの部分を『御義口伝』の「第三 唯以一大事因縁の事」の中で次のように述べておられます。
「此の大事を説かんが為に仏は出世したもう 我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈(やが)て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字 止観の二字 寂照の二徳 生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、爰を以て之を思う に仏とは九界の衆生の事なり」
直至道場とは、「直達正観」と言いまして瞑想や禅定をするまでもなく直ちに即身成仏することを言います。私達の身にあてはめるなら御本尊と境智冥合した当にその体こそが当体蓮華の入仏知見となります。
南無妙法蓮華経と唱え奉る者は『法華経』で説かれる真如の「七宝塔」に入ることであり、「開仏知見の仏」とは九界所具の仏界であり、「知見」とは妙法の二字、止観の二字、寂照の二徳、生死の二法であり、色心因果であり、所詮知見とは妙法をみることであり、九界所具の仏界を法華経の知見にて開く事であると言われております。
では、どのような因と果が妙法蓮華経の五字に備わっているのかそれを説いているのが「三周の説法」です。まず最初に「法説周」が利根の声聞に対して説かれます。
法説周と言うようにここでは「法」がそのままダイレクトに説かれております。
(相=実相)天界の仏が応身として衆生の欲界に生まれ出る法理。(応身)一大事の因縁
(性=心性)仏が衆生を救わんとする智慧の法理。(報身)四仏知見
(体=当体)その智慧を体現する「法」。(法身)開三顕一の一仏乗の妙法
五仏性の内容は、こちらで紹介しました通り以下に示す五項目です。
「正因仏性」--- 衆生が本来そなえている本有の仏性 「了因仏性」--- 本有の仏性を照らしあらわす智慧のこと 「縁因仏性」--- 智慧を起こす縁となる行法のこと 「果性」 ------ 菩提の果 「果果性」------ 涅槃の果のこと
三つの「因」と二つの「果」で合わせると「因果」です。
仏の悟りを得るということは、仏の法に対する因(修行)を積んでその報いとして悟りとしての果を得るということです。仏法修行者が、仏の悟りを修得するまでの全ての修行のことを万行といいます。菩薩の「五十二位」の悟りや、菩薩が行ずる六つの修行過程「六即」の行位がこれにあたります。これらを因位の万行といいます。そしてその修行の因の報いとして受ける仏に備わる全ての功徳相を果位の万徳といいます。
日蓮大聖人は、『観心本尊抄』で次のような事を申されております。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す 我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲り与え給(たも)う」
ここで仰せの「因行果徳の二法」とは、今説明しました「因位の万行」と「果位の万徳」のことを言います。
歴劫修行が根幹となっている釈迦仏法では、三祇百大劫という気が遠くなる程遥かに長い年月の間に転生し、修行を行わなければ成仏することは出来ません。
仏に成る因を積んでその結果として成仏という果報を得るといった因と果に長い時間差が生じる「因果異時」の立ち場で説かれた厭離断九の仏だからです。因と果に隔たりがあるため個別に説かれた空仮中の三諦も隔たった隔歴(きゃくりゃく)の三諦(別相三観①~③)となります。
それに対して因果倶時(いんがぐじ)の法門を説く円経の『法華経』の通相三観④では、因と果が同時に備わります。妙法を唱うる一念に、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」とありますように三世十方の諸仏のあらゆる因位の修行も果位の万徳も妙法蓮華経の五字に同時にそなわっているのです。
※ ①~④はこちらでご確認下さい
お釈迦さまが涅槃に入るさい、
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定
といった「九次第定」の禅定を行い、そして今度は、逆に滅尽定から、無色界の空無辺処まで戻り、さらに色界の第四禅から初禅まで戻っています。
滅尽定 → 非想非非想処 → 無所有処 → 識無辺処 → 空無辺処 → 第四禅 → 第三禅 → 第二禅 → 初禅
これはおそらく別相三観を①から③へ順観で行い次にそれを逆観で③から①へと意識を向かわせたのでしょう。そして再び、色界の初禅から第四禅へ至り、第四禅から無色界の禅定へとは進まず、この第四禅から直接ニルヴァーナへ入り、ブッダは肉体を捨て去ったと記述されています。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → ニルヴァーナ(涅槃)
この四禅の内容はおそらく、④の通相三観とその三観を最終的に一つに集約した「一心三観」の境地に入って涅槃を迎えたのではなかったのでしょうか。
仮一切仮 → 空一切空 → 中一切中 → 一心三観 → ニルヴァーナ(涅槃)
「三転法輪」は蔵教の声聞・通教の縁覚・別教の菩薩といった三乗に対する説法で円教が最後に加わって智顗が『魔訶止観』の中で説く「四門の料簡」の16観法の相が顕れます。
<蔵教で三徳を説く釈迦(劣応身仏)>--- ① 「仮」資成得顕名為解脱 (解脱) 「空」観照得顕名為般若 (般若) 「中」真性軌得顕名為法身(法身)
<通教で三法を説く釈迦(勝応身仏)>--- ② 「仮」資成軌が仮諦如来蔵 (仮諦) 「空」観照軌が空諦第一義空 (空諦) 「中」真性軌が法性中道第一義諦(中諦)
<別教で三身を説く釈迦(報身仏)>--- ③ 「仮」資成軌即是縁因性(応身) 「空」観照軌即是了因性(報身) 「中」真性軌即是正因性(法身)
<円教で十如是を説く釈迦(法身仏)>--- ④ 「仮」資成軌が功徳善行(相)--- 仮一切仮 「空」観照軌が般若観智(性)--- 空一切空 「中」真性軌が実相諦理(体)--- 中一切中
十如是は円教である『法華経』に至ってはじめて明かされる法門ですので、智顗は三乗の教えを別相の「次第三観(別相三観)」として相待妙としての「三種・三観」を立てます(①~③)。その九項目に開かれた別相三観をベースとして、円融の「通相三観」④が絶待妙として起こります。
張 教授は論文の中で、
真性軌が実相諦理、観照軌が般若観智、資成軌が功徳善行、--- (19) 真性軌が中道諦、観照軌が空諦、資成軌が仮諦--- (18) 真性軌即是正因性、観照軌即是了因性、資成軌即是縁因性--- (15) 真性軌得顕名為法身、観照得顕名為般若、資成得顕名為解脱--- (16)
と智顗の三軌と三法・三因・三徳の関係を紹介されておりますが、日蓮聖人の御文と照らし合わせると、
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/18/4
次のような感じになるかと思います。
<三軌の定義> 真性軌が実相諦理(=体) 観照軌が般若観智(=性) 資成軌が功徳善行(=相)
<三軌と三法(真理)> 真性軌が法性中道第一義諦(中諦) 観照軌が空諦第一義空 (空諦) 資成軌が仮諦如来蔵 (仮諦)
<三軌と三因(真如)> 真性軌即是正因性(法身) 観照軌即是了因性(報身) 資成軌即是縁因性(応身)
<三軌と三徳(実相)> 真性軌得顕名為法身(法身) 観照得顕名為般若 (般若) 資成得顕名為解脱 (解脱)
その相待妙で三乗に開かれた妙法の内容はと言いますと、まず三乗とは仏門に入って得られる声聞・縁覚・菩薩といった三種の境涯のことを言いますが、仏の説法を聞くことで言葉の概念で真理を理解していく境涯を声聞と言います。
「三転法輪」の第一時の蔵教の声聞に対して行われた説法がそれにあたります。蔵教の声聞衆がその説法をどのように理解していったかはこちらで詳しくお話しております。
説一切有部について https://zawazawa.jp/bison/topic/12
縁覚は、観音菩薩の説法を「音を観じる」が如く「聞く」のでは無く「独自の伝達方法」をもって観受ていく境涯です。独覚とも言われるこの境地にあっては、「聞く」という五蘊による凡夫の認識から、仏の認識に視点が変わることで「縁起」を覚っていきます。
通教の縁覚に対して説かれた第二時の説法は『般若経典』を中心とした「空」の説法ですが、こちらで詳しくその内容をお話しております。
「空」の理論 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5?page=2
そして第三時の菩薩に対して行われた「覚りの理論」を説いた説法の内容はこちらでご紹介しております。
四諦の「三転法輪」とは https://zawazawa.jp/bison/topic/14
現代用語では「相対」に対して「絶対」という言葉を用いますが、なぜここでは「相待・絶待」という字を用いているかについて、次に説明致します。
「相待」という言葉は「あいまつ」という意味で縁起という言葉と同じ意味をもっています。要するに「あいまつ」というのは、世の中の全ての事物は、それ自体が独立して成り立つものではなく、相互の関係の中で始めてその存在が成立するといった縁起の関係を含めた言葉なのです。
一人の女性はまず男性に対して女性といいます。そして、両親にむかっては娘であり、夫にむかっては妻であり、子にむかっては母です。
それぞれが、それ自らは「無自性」ではあるが、縁する対象によって女性として、また娘として、妻として、母として顕れます。何に縁するかによって意味合いが変わってくる、そのことを「相待」といった言葉で表しています。
更に、「相対」と「相待」の違いについて説明すると、たとえば電車の中で立っている人と、座席に座っている人がいたとします。相対では「立っている人に対して座っている人」ですから、「立っている人は座っている人よりも辛い」、「座っている人は立っている人よりも楽」、といった比較相対になります。
それに対して相待は、「立っている人がいるから自分は座れている」、「自分が立っていることで、座っている人が楽に乗車出来ている」、といった相互の関係の中の自分となります。(主観認識)
では、それぞれの文を「絶対」と「絶待」に展開してみましょう。
比較相対の「相対」に対する言葉である「絶対」を用いると、「絶対座っている方が楽だよね」となります。かたや「相待」に対する「絶待」はと言いますと、「立っている人がいるから自分は座れている」の文は、「ありがとう」の感謝の心へ展開され、「自分が立っていることで、座っている人が楽に乗車出来ている」の文は、他者貢献による自身の心の満足へと展開されます。
電車の中のささいな出来事ですが、それを比較相対で認識すると、「座っている方が楽だ」という欲が自身の心に生じます。しかし「相待」で認識すると感謝の心や心の満足を得ることが出来ます。
これが相待妙と絶待妙の二妙の力用です。
比較相対で物事を認識する生き方は。我欲が中心となって煩悩に覆われて苦しみの人生となっていきます。相待妙と絶待妙の二妙の力用を備えた妙法(法華経)の認識の中に心をおいてこそ真実の幸福な人生を感じ取っていけるのです。
この二つの妙法は天台智顗が『法華玄義』で、
「妙を明かさば、一には通釈、二に別釈なり。通に又二と為す。一には相待、二には絶待なり」
と解き明かされた『妙法蓮華経』の五仏性に備わる二つの意義です。
この「相待妙」と「絶待妙」は別々にあるものではなく、『妙法蓮華経』の経題の中に同時に含まれているというものです。別々と考えてしまうと、相待妙で法華経を第一とした後、爾前教は必要ありませんので捨てるだけになります。そのように比較対象の考えのみになってしまっているのが日蓮正宗や創価学会の解釈です。
法華経を最高の教えとさとしたいのであれば、相待妙だけでよいはずですが、「二妙」ということですので、もう一つの妙法があります。それが絶待妙です。絶待妙は、一代聖教がすなわち法華経であると考えます。
爾前経の中にも重要な法門がたくさん説かれています。それは捨てるべき教えではなく、法華経を正しく理解していく中で生きてくる教え(体内の権)なのです。法華経が説かれた後は、念仏宗だとか真言宗だとか天台宗だとか言っても意味がないのです。どの水も海に流れ込めばみんな一同に塩味の海水になるのですから。すべては『法華経』に集約されるのです。
「相待妙・絶待妙」の考え方からすると、お釈迦様が説かれた一代聖教は、無駄になるものは何一つないということです。
この部分は円融三諦の根幹部で大変複雑な構成になっております。その理解にあたっては別相三観と通相三観といった二段階の「妙法」の理解が必要となってきます。
『妙法蓮華経』の二種の〝妙法〟として智顗がひも解いた相待妙と絶対妙です。
次章で詳しくお話して参ります。
『相待妙と絶対妙』 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/19
智顗の『法華玄義』巻五の下の次の言葉をもって張 教授は、
明円教三法者、以真性軌為乗体、 不偽名真、不改名性、即正因常住。…… 観照者、 只点真性寂而常照、便是観照、即是第一義空。 資成者、只点真性法界含蔵諸行、無量衆具、即如来蔵。--- (18)
智顗は、真性軌が法性中道第一義諦、観照軌が空諦第一義空、資成軌が仮諦如来蔵であるとしていわゆる「三法」・「三軌」が空・仮・中の三諦であると説く。と自身の見解を述べておられます。
また、次の文から三諦は円融互具であり、三法三軌が円融互具であることから、三果仏性(三徳)も、当然円融互具となります。
一仏乗即具三法、亦名第一義諦、亦名第一義空、亦名如来蔵。 此三不定三、三而論一。一不定一、一而論三。不可思議、不並不別。--- (19)
ここでいう三軌とは、
前明諸諦、若開若合、若粗若妙等、已是真性軌相也。前明諸智、若開若合、 若粗若妙、是観照軌相也。前明諸行、若開若合、若粗若妙、已是資成軌相也。--- (14)
「真性軌」が実相諦理、「観照軌」が般若観智、「資成軌」が功徳善行を指し、三因仏性と三軌が、
真性軌即是正因性、観照軌即是了因性、資成軌即是縁因性。--- (15)
となって、法身・般若・解脱の三徳と三軌もこのような関係になると智顗は説明されております。
真性軌得顕名為法身、観照得顕名為般若、資成得顕名為解脱。--- (16)
智顗のそういった解釈をふまえて日蓮大聖人は『一念三千法門』の中で次のように三諦について述べられております。
第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界・皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即・報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。
三種・三観、三三九諦の相が読み取れます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (14)『法華玄義』巻五下、『大正蔵』巻 33、741 頁中。 (15)『法華玄義』巻五下、『大正蔵』巻 33、744 頁下。 (16)『法華玄義』巻五下、『大正蔵』巻 33、742 頁下。 (18)『法華玄義』巻五下、『大正蔵』巻 33、742 頁中—下。 (19)『法華玄義』巻五下、『大正蔵』巻 33、741 頁中。
五仏性の内容は次の通りです。
このうち「正因仏性・了因仏性・縁因仏性」の三つの仏性をまとめて三因仏性と言います。
正因は本有として元から備わっているものの了因の「智慧」と縁因の「縁」がないとその正因も顕れません。それを日蓮聖人は「善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず」という言葉で言い現わしておられます。
「因」である三因仏性に対し、「果性」と「果果性」は因を元とした果報にあたります。三因によって得られる果徳です。
仏道を実践していくことで様々な覚りを得ていき、如何なる状況にあっても常に誤りのない判断をもって正しい道を歩んでいける様になります。それが「菩提の果」です。--- 果性
そして正しい道を生きて行く事で最終的に執着から離れた臨終を迎えて六道から離れた「涅槃の果」を得て天上界へ転生します。--- 果果性
「張論文」のプリント下部 No.101-109 あたりまで読むと、前回の「十如是と五何法」のお話の中で紹介しました日蓮聖人の『総勘文抄』の次の言葉が天台智顗解釈にとるところだという事が解ります。
実は仏と言えども自我ってまだ存在しているんです。「いやそんな事は無い! 仏は煩悩を滅しているから無我だ!」とやっきになって食って掛かってくるあなたは、まだまだ菩薩の境地は程遠いかと。
実は我々が「仏」仏といっておりますその「仏」って、人間が概念として人間の言葉で定義付けした「仏」ですよね。ですから「仏」として仏を認識している内は、未だ菩薩の境涯に非ずとなります。
自我意識を完全に空じると、仏という存在は自身の世界の中から消滅します。(非空)
それが如来という真如の世界観です。
意識が第七末那識に移ると心臓の動きすらも自身の意志でコントロール出来るようです。禅定で完全に解脱の状態に入ると動物が冬眠状態に入ったように呼吸もごくわずかなものになってはたから見たら生きているのか死んでいるのか分からないような状態になるようです。そこまでは行かなくとも、脳よりの意識が阿頼耶識よりの意識になるとそこに自我という意識は存在しません。
ただ「感じる」という状態ではないでしょうか。
しかし、ちょっと考えて見て下さい。そのような意識が働かない境地で「他者を救ってあげたい」という意識が起こるのでしょうか?
また、自他の分別のない世界観にあって救うべく他者って存在するのでしょうか?
よーく考えて見て下さい。
無我って「我」が無くなった境地の事を言うんですが、お釈迦さまなんかはこの無我の境地です。よく「我」が無いという事を、「自分は実は存在していない」という仏教関係者の方が居られますが、そういう教学を教え込まれると一生悩み続ける事になります。だってわたしって間違いなく今ここに存在しています。
思いっきり自分の頬をつねってみて下さい。幻想や虚像なら痛くないはずです。
実は、この「我」が無いという境地は、自我の事を言ってるんです。普通人間は前五識を対象として第六意識が表層意識として働きます。表層で自覚しうる意識が第六意識です。呼吸を止めようと思ったら止められます。しかし、心臓を止めて下さいと言われて止めれる人はおりません。心臓は潜在意識で動いているからです。
前五識を対象として起こる意識=第六意識 ---(表層意識)
阿頼耶識を対象として起こる意識=第七意識 ---(深層意識)
中諦の覚りが菩薩の覚りになりますが、自我を退治(空じた)したこの境地では、時間という概念が止滅します。時間は人間の脳備える「記憶する能力」によって起きている人間特有の現象です。自然界に時の流れが存在する訳ではありません。
と言っても、「この人何言ってんの」って思いますよね。
逆に「なるほどー」と思える人は、菩薩の境涯に近いです。
九次第定では空無辺、識無辺の次に「無所有処」となりますが、菩薩の覚りを得ますと自身の「我」が完全に止滅して自他を分別する心が無くなります。それによって不二の菩薩の境涯に至ります。
菩薩の境涯では、分け隔てのない慈悲の心が自然とあふれ出て他者救済の道へと向かいます。
ここでの意識は第七末那識にありながら自我という濁ったフィルターが取り払われて、今まで見ていた世界がまた別の世界に観えてきます。それまでは前五識を対象として起っていた縁起(此縁性縁起)が、境涯が変わることで阿頼耶識を対象として起こる縁起(相依性縁起)に変わります。縁起の種類が変わることで立ち上がる世界観もおのずと変わります。
例えばそれまでは口うるさくて嫌いで仕方なかったった職場の上司が、その上司のおかげで実は自分自身が気づかないうちに仕事に対する取組みが、以前に比べて格段と向上していた事に気づき、その上司の存在がとても有難く思えて来たりします。
自身の心が変わる事で、物事や人の認識に大きな変化が顕われそれまでの世界観が次第に変わっていきます。
仮諦の覚りで開く一念三千と、空諦の覚りで開く一念三千の違いです。
そこに出現した宝塔は、金・銀・瑠璃・碼碯などの七種の宝玉でできている荘厳なる塔です。
なぜ七種なのか。
それは、「南無妙法蓮華経」だからです。
その宝塔は宙に浮いて止まります。そこから虚空絵の儀式が始まるのですが、
「虚空とは蓮華なり、経とは大地なり、妙法は天なり、虚空とは中なり、一切衆生の内・菩薩・蓮華に座するなり、此れを妙法蓮華経と説かれたり」
と日蓮大聖人は申されております。三界が一つになった世界観がこのようなシチュエーションで描かれております。
これって初期仏教を学んでいる方ならピンとくるお話ですよね。
九次第定の無色界禅定の空無辺と識無辺で三界の空間の壁と意識層の八層の識層を取っ払って広大な一つの空間が仏国土として開かれた訳です。
虚空絵の説法を始めるにあたってお釈迦さまは三世諸仏の仏菩薩が集まって来れるように国土を整えます。
「見宝塔品第十一」で説かれる、「三変土田」です。
娑婆世界を仏国土へと変える訳ですが、なぜ三変かはもうお解りですよね。
声聞の智慧で「娑婆世界」を「方便余土」に変え、縁覚の智慧で「実報土」に変え、最後に菩薩の智慧で「常寂光土」へと三度に渡って国土を浄化します。
①凡聖同居土:人・天などの凡夫も声聞・縁覚・菩薩・仏の聖者もともに住む国土
②方便有余土:見思惑を断じまだ塵沙・無明惑を残す二乗や菩薩が住む国土
③実報無障礙土:別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩が住む国土
④常寂光土:法身・般若・解脱の三徳をそなえ涅槃にいたっている仏が住む国土
お釈迦さまがこの「三変土田」を行う前に、巨大な宝塔が大地より突如として出現し、空中に浮かんで静止します。まるで『宇宙戦艦ヤマト』のオープニングの大地からヤマトが浮き上がってくるシーンみたいです。そして宝塔の中から、
「素晴らしい、素晴らしい、よくぞ法華経を大衆のために説いてくださった。その通りです、その通りです、あなたが説かれたことは、すべて真実です」
と、大音声が響き渡ります。その賛嘆の声を聞いてその場に居合わせた者達は大いに戸惑い騒ぎ出します。
「こんなことは、今までなかった。いったい、どういうわけで宝塔が大地から現れ、その中から声が発せられたのだろう」
お釈迦さまは答えます。
「この宝塔の中には、多宝如来という名の仏様がおられる。この仏様は、かつて誓ったのです。『法華経が説かれるところがあれば、私の塔はその前に現れ、証明役となって素晴らしい、素晴らしいと賛嘆しよう』と。だから今、法華経が説かれるこの場所に多宝如来の塔が出現して賛嘆したのです」
そこにある菩薩が「それなら、その仏様に会わせてください!」と、申し上げた。
しかし、それには条件があった。
多宝如来が姿を見せるには、釈尊の分身として十方世界で説法している仏たちを、すべて呼びもどさなくてはならないのです。ですからお釈迦さまは、仏たちが集まってこられるように今いる娑婆世界を三回にわたって浄化し、空間を広げて一つの仏国土にしました。
佐野さんの老け方がしぶい
輝いてるね。
これって新しい表現方法かも
この手法なら簡単にアニメが創れそう。
この四諦と十二因縁の関係は、智顗の『法華玄義』の中で詳しく解き明かされておりますが、それはこちらで詳しくお話して参ります。
ゆゆしき『阿頼耶識システム』 四種四諦
https://zawazawa.jp/bison/topic/15
と順観と逆観の二種の十二因縁を説かれて最後に次のように申されます。
仏が天人と人間の大衆の中でこの教えを説かれたとき、六万億那由他の人は、なにものにもとらわれる事がなくなり、諸々の汚れから心が解放され、皆、深遠微妙な寂静の心境に達し、自他の過去世のあり方を自由に知る宿命明、自他の未来世のあり方を自由に知る天眼明、煩悩を断って迷いのない境地に至る漏尽明の三明、神足通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通・漏尽通の六種の神通力を得、八種の解脱を備える者となった。
解りますか。
ここで言われている事。
『唯識』なんです。
唯識から見る十二因縁がここで示されておりまして次の言葉へと続きます。
第二、第三、第四の説法のときも、ガンジス河の砂の数に等しい千万億那由他の生命のあるものすべては、また、なにものにもとらわれる事がなくなり、諸々の汚れから心が解放された。
続いて今度は逆観の十二因縁が説かれます。
過去世の無始の煩悩(無明)がなくなれば過去世の煩悩によって作った善悪の行業 (行)が滅する。過去世の煩悩によって作った善悪の行業(行)がなくなれば過去世の煩悩によって作った善悪の行業が原因で母胎中に受胎した身体と精神との結合体(識)が滅する。過去世の煩悩によって作った善悪の行業が原因で母胎中に受胎した身体と精神との結合体(識)がなくなれば胎中にあって身心の発育する位(名色)が滅する。
胎中にあって身心の発育する位(名色)がなくなれば胎中にあっての眼耳鼻舌身意の六つの感官(六入)が滅する。胎中にあっての眼耳鼻舌身意の六つの感官(六入)がなくなれば生誕後しばらくの間の事物に関して苦楽を識別することなく、ただ事物に触れて感知しようとする位(触)が滅する。生誕後しばらくの間の事物に関して苦楽を識別することなく、ただ事物に触れて感知しようとする位(触)がなくなれば苦をいとい楽をよろこぶような心の生起する位(受)が滅する。
苦をいとい楽をよろこぶような心の生起する位(受)がなくなれば性欲を起こし異性を求める位(愛)が滅する。性欲を起こし異性を求める位(愛)がなくなれば自分の求めるもののために馳求する位(取)が滅する。自分の求めるもののために馳求する位(取)がなくなれば未来の生活や環境を結果する行為によって業因を積集する位(有)が滅する。未来の生活や環境を結果する行為によって業因を積集する位(有)がなくなれば前の業因によって結果した未来の生存(生)が滅する。
前の業因によって結果した未来の生存(生)がなくなれば老・死・憂・悲・苦・悩が滅する。
「化城喩品」では、
その時、大通智勝如来は、十方の諸々の梵天王、及び十六人の王子の請いを受けて、即時に人間が前世・現世・来世において三界を流転する輪廻のようすを説明した十二因縁の教えを三通りに説かれた。
と言ってお釈迦さまは次のような前振りをして、
沙門であっても婆羅門であっても、天人や、悪魔や、梵天や、その他のいかなるものであっても、説くことの出来ないものであった。
まず四諦を示します。これが一通り目です、
すなわち、その教えとは、『これが苦である、これが苦の原因(集)である、これが苦の滅である、これが苦の滅に至る道である』という教えであった。
なぜ四諦が十二因縁かと言いますと、苦諦・集諦・滅諦・道諦の各々に三諦の真理(空・仮・中)が備わっておりますので4×3=12となります。
そして、
また、人間が前世・現世・来世において三界を流転する輪廻のようすを説明した十二因縁の教えを広く説かれた。
と申されて順観の十二因縁がまず示されます。
これが二通り目です。
過去世の無始の煩悩の根本である無明が外的原因で、過去世の煩悩によって作った善悪の行業(行)が生じる。過去世の煩悩によって作った善悪の行業が外的原因で母胎中に受胎した身体と精神との結合体(識)が生じる。
過去世の煩悩によって作った善悪の行業が原因で母胎中に受胎した身体と精神との結合体(識)が外的原因で、胎中にあって身心の発育する位(名色)が生じる。胎中にあって身心の発育する位(名色)が外的原因で、胎中にあっての眼耳鼻舌身意の六つの感官(六入)が生じる。
胎中にあっての眼耳鼻舌身意の六つの感官(六入)が外的原因で、生誕後しばらくの間の事物に関して苦楽を識別することなく、ただ事物に触れて感知しようとする位(触)が生じる。生誕後しばらくの間の事物に関して苦楽を識別することなく、ただ事物に触れて感知しようとする位(触)が外的原因で、苦をいとい楽をよろこぶような心の生起する位(受)が生じる。
苦をいとい楽をよろこぶような心の生起する位(受)が外的原因で、性欲を起こし異性を求める位(愛)が生じる。性欲を起こし異性を求める位が外的原因で、自分の求めるもののために馳求する位(取)が生じる。
自分の求めるもののために馳求する位(取)が原因で、未来の生活や環境を結果する行為によって業因を積集する位(有)が生じる。未来の生活や環境を結果する行為によって業因を積集する位(有)が原因で、前の業因によって結果した未来の生存(生)が生じる。
前の業因によって結果した未来の生存(生)が外的原因で、老・死・憂・悲・苦・悩が生じる。
仏教では主観や客観での認識ではなく、主観、客観を空じた空観に意識を置いて縁起で物事を捉えます。その縁起は、因が縁によって結果として今現在の姿があると観ます。観るという漢字をあてがうのは「見る」のではなく過去の因や縁を観じ取っていくから「観る」と書いております。観音菩薩が音を「聞く」のではなく音を「観じる」と書くように、仏の空観にあっては五蘊による認識(第六意識)ではなく、深層意識である第七末那識が意識となります。
この因縁果からなる縁起の法門を「法」という角度から説いたのが法説周で、仏の「智慧」という角度から説いたのが譬喩周です。そして最後の因縁説周は「因縁」という角度から因縁果を次のように説いております。
因=釈迦と弟子達の三千塵点劫の過去の因
縁=十二因縁(順観と逆観)
果=現在の師弟の関係(釈迦在世の)
因縁説周では、最初に三千塵点劫の因縁の話があって次に十二因縁が順観と逆観とで紹介されます。そして最後に「化城宝処の譬え」が説かれます。その一連の話の中で最初からしつこいくらいに言い続けている言葉があります。
「今の宮殿の明るい光は昔から一度もあったことがない。」
「どういう因縁によってこの現象が現われたのか。」
という言葉です。途中、それは仏が出現したからだという説明が入るのですが、その後に「化城宝処の譬え」が始まって、結局のところ、この現象は仏が智慧によって起こした現象であったという事が解ります。開三顕一の「法」をここでは因縁をもって示しているんです。法が転じて法身となり、智慧が転じて般若となり、因縁が転じて解脱となって実在の世界に顕われます。
三周の説法の中で一番奥が深いお話だと思います。
そういった事を頭に入れて今一度読み直してみるとおもしろいですよ。
https://syoubou.wordpress.com/妙法蓮華経化城喩品第七(みょうほうれんげきょ/
実は、まだあるんです。このお話の中に組み込まれている大事なお話が。
天台智顗は「四種四諦」を説いておりますが、その根拠となり得る内容がこの「化城喩品」の中に明確に示されております。
『観心本尊抄』の①の「大通の種子を覚知するもの」ですが、これが『法華経』方便品第二の中で説かれている五千起去(ごせんききょ)でしょう。お釈迦さまが法華経を詳しく説こうとされた時、その会座にいた5000人の増上慢の出家者たちが、すでに妙果(悟り)を得ていると自惚れて聞こうとせずに起立して去って行きます。
②の「成仏を許された」弟子達が舎利弗・目連・迦葉・阿難といった記別を授けられた声聞の弟子達の事でしょう。
③の「人界天界の衆生等」と言いますのは、天界と言っても仏教を習得していなくても人としの人生を全うして執着なく最後を迎えれば六欲天に転生します。お釈迦さまの法華経の会座にあっても六欲天の天人達が聴聞しておりますよね。そういった天人を含めて始めて法華経八品を聞きいて発心下種した者達です。
そして④にありますように正法、像法時代でそういったお釈迦さまとの結縁者達はことごとく皆成仏して天上界へ転生していっております。ですから末法の衆生には「仏」と同等の修行の対境が必要不可欠となります。
なぜなら「因」ありと言えども「縁」がなければ縁起は起こらないからです。
因縁説周は、お釈迦さまと声聞の弟子達の過去世の因縁のお話です。成仏の因となるのは『法華経』です。その法華経の種が「仏」という縁に値うことで熟していきます。(熟益)
このように『法華経』は繰り返し説法がなされておりまして、これを「覆講法華」と言いまして化城喩品で出てきます「転輪聖王」もその象徴ではないかと思われます。
転輪聖王という概念は、ヴェーダ時代(紀元前2千年紀)から存在しバラモン教に継承され、その概念がよりはっきり形成されたのはインドにおける仏教やジャイナ教においてである。起源論としては、インドラ神の力を象徴する戦車の車輪とする説や、世界を照らす日輪(太陽)とする説、或いは輪状の武器チャクラムとする説や、マンダラを表すという説もあるが、仏説によれば四つの海に至るまでの大地を、武力を用いる事無く、法の力を以って統治するといった内容になる。
その四つの意味するところが四聖諦、即ち四諦ではないでしょうか。
更に『観心本尊抄』ではこのように申されておられます。
インドに出生した釈迦の説法を聞く釈迦在世の衆生等は、三千塵点劫の大通智勝仏の第十六王子(釈尊の過去世)の法華経説法によって仏果の種を下したものである。その時いらい長期にわたって、調機調養して、いまインドに生まれ釈迦仏が華厳経等の前四味を説くのをきいて助縁となして、大通の種子を覚知するものがあった --- ①。しかし、これは仏の本意ではなくて身体の中に潜んでいた毒がある時に発するようなものであり、爾前経を聞いて種子を覚知したものはこのような毒発等の一分であった。大多数の二乗凡夫等は前四味を助縁とし、しだいに法華経へ来至して種子を顕わし開顕を遂げて成仏を許された --- ②のである。また在世においてはじめて正宗の八品を聞き発心下種した人界天界の衆生等 --- ③は、あるいは一句一偈等を聞いて下種とし、あるいは熟しあるいは脱し、なお法華経で脱しないものも普賢経や涅槃経で脱し、なお洩れたものは正法像法年間におよび、末法の初めに小乗教や権教を助縁として脱し、ことごとく成仏した --- ④。あたかも在世の前四味を聞いて助縁とし、大通の種子を覚知したごとく仏滅後の正像末、二千余年のあいだにことごとく法華に入って成仏を遂げたのである。
「化城喩品」は、お釈迦さまと声聞の弟子達との前世よりの因縁が説き明かされる章で、「化導の始終」「種熟脱の三益」が示されていることから智顗も大変重視しておられました。『法華文句』巻七(下)では次のような事が書かれております。。
佛告諸比丘是十六下。第二明中間常相逢値。
逢値有三種。若相逢遇常受大乘。此輩中間皆已成就不至于今。
若相逢遇遇其退大仍接以小。此輩中間猶故未盡。
今得還聞大乘之教。三但論遇小不論遇大。則中間未度。
于今亦不盡。方始受大乃至滅後得道者是也。
現代語に訳すとこのようになります。
「仏告諸比丘十六の下、第二に中間に常に相逢値することを明す。逢値に三種有り、若し相逢遇して常に大乗を受くれば、此の輩中間に皆已に成就して今に至らず。若し相逢遇して其の大を退するに遇て仍ち接するに小を以てせば、此輩中間に猶故に末だ尽きず、今還て大乗の教を聞くことを得、三に但小に遇うことを論じて大に遇うことを論ぜず。則ち中間に末だ度せず。今に亦尽くさず、方に始めて大を受く、乃至滅後得道の者是なり」
つまり三千塵点劫の時に大乗を信じて実践した者は中間において仏道を成就して釈尊在世には現れないが、大乗を聞いておきながら退転して小乗に落ちた者は、中間では成仏できずに釈尊在世に再び生まれ出でて法華経を再度聴聞して得脱する。さらに小乗に執着して大乗を聞こうとしなかった者は、三千塵点劫の中間では当然成仏できておらず、釈迦在世の世に於いて初めて大乗を聞き、釈尊滅後に大乗を受けて得道するとされている。
要するに三千塵点劫の時点を中間点として釈迦在世の世を終点として「下種益と熟益、そして脱益」が説かれている訳です。
日蓮聖人も『唱法華題目抄』の中で次のように仰せです。
十六王子の法華経説法を聞いた人は幾千万とも分からないほどであった。その説法を聴いてその場で悟りを得ることができた人は不退の位に入った。また、法華経を不十分にしか理解できず、結縁しただけの人々もいたが、その人々は法華経の説法を聞いた場でも、また釈尊在世以前の中間の期間も、不退の位に入らないで三千塵点劫を経てしまった。それゆえに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を輪廻し、只今釈迦如来が法華経を説かれるのを聴いて不退の位に入ったのである。舎利弗・目連・迦葉・阿難などがその人々である。その人々よりも更に信心が薄い人々は、釈尊在世でも悟ることができずに未来無数劫を経過しなければならないのであろうか。それは分からないが、われわれも大通智勝仏の十六の王子に結縁した者であろうか。
舎利弗・目連・迦葉・阿難といえば、「三周の説法」では舎利弗は法説周で、目連と迦葉は譬説周で、阿難は最後の因縁説周で未来に成仏する証しとしての「記別」をそれぞれ授けらております。(熟益)
仏による衆生教化の始終を作物の種が育っていく過程になぞって「下種益・熟益・脱益」の三益に振り分けた「種熟脱の三益」という仏教用語があります。
これは法華経『化城喩品第七』の因縁説周で出てきます大通智勝仏と深く関わってきます。
まず下種益とは、仏が衆生の心田に成仏の種を下すことです。次に熟益とは、下された種を成熟するために衆生を教化して機根を調えること、そして脱益とは、熟した果実を収穫するように衆生を成仏・得脱させることをいいます。この種熟脱の三益は、法華経で初めて説き明かされる法門で、三益が説かれなければ、衆生の成仏の因縁関係が明らかになりません。
因縁説周では過去三千塵点劫という大昔に大通智勝仏という仏がいて、その大通智勝仏が王であった時にもうけた十六人の王子がおりました。大通智勝仏は王子の求めに応じて法華経を説き、それを聞いた十六人の王子は父に代わり、それぞれの因縁に従って父の法華経を重ねて説きます。これを十六王子の法華覆講と言います。「法華覆講」とは、何度も繰り返して法華経の説法をすることを言います。
第十六番目の王子は、娑婆世界において法華経を説きましたが、その王子は釈尊の前世の姿で、その時に教化された衆生は、釈尊の法華経の会座に居合わせた衆生であると釈尊と声聞の弟子達との過去世からの因縁が明かされます。
この大通智勝仏の時代に仏と結縁した事を「大通結縁」と言いまして、因縁説周の大通結縁の話は「迹門の三益」と言われます。
天台智顗がこの「大通結縁の三益」をどのように捉えていたか、こちらの研究論文から伺えます。
大通結縁の第三類について 最上泰滉
https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/4471/files/KJ00004400361.pdf
それを受けて、日蓮大聖人が種熟脱の三益をどう論じたかはこちらの「庵谷論文」で詳しく知ることが出来ます。
日蓮聖人の三益論 庵谷行亨
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/28/1/28_1_252/_pdf/-char/ja
庵谷 行亨教授は、立正大学仏教学部元教授、身延山大学仏教学部特任教授の仏教学者であると同時に日蓮宗の僧侶でもあります。
『三周の説法』の最後の因縁説周は、そういった種子にまつわるお話です。
その④の三因仏性の所で紹介しました日蓮大聖人の『総勘文抄』の次の言葉ですが、
「三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり。 一とは中道なり法華なり、大とは空諦なり華厳なり、事とは仮諦なり阿含・方等・般若なり、已上一代の総の三諦なり。 之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり。 因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり。 此れを総じて因と云うなり。 縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず。 善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや」
三因仏性は一切衆生に備わっていても「善知識の縁」に値わなければそれは顕れないと大聖人は言われております。ではその「善知識の縁」ってなんでしょう。
実はそれが無漏の世界(真如の世界)に備わる仏性の元となる「無漏種子」の事です。
『成唯識論』では本有の無漏種子がなかったならどんなに仏道に励んでも、どんだけ瞑想をやっても仏性を観じ取る事は無いと説かれております。
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ブログ『唯識に学ぶ・誓喚の折々の記』で紹介されております内容をこちらで要点を掴みやすく読み取れるようにして紹介しておりますのでご確認下さい。
https://zawazawa.jp/bison/topic/9/1
法説周では「法」としての正因が説かれ、譬喩周では「仏の智慧」としての了因が説かれております。
そして最後にお釈迦さまと声聞の弟子達との「縁因」が因縁説周として語られて『妙法蓮華経』の五仏性の中の「三因仏性」が明かされております。
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<三因仏性>
正因仏性=法説周
了因仏性=譬喩周
縁因仏性=因縁説周
「長者窮子の譬」は心の変化で起こる相依性縁起のお話ですが、『薬草喩品』では此縁性縁起が三草二木の譬として説かれております。
同じお釈迦さまの説法を聞いても声聞・縁覚・菩薩といった境涯の違いから理解もそれぞれに異なり、四悉檀による教説の理解の違いから覚る真理の内容も各々に異なってきます。覚りの内容が異なるので立ち上がる世界観も各々に異なった世界が立ち上がります。それが天台が説く四土説です。
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『薬草喩品』では、小草が人間や天上の神々、中草が声聞・縁覚の二乗、上草が二乗の教えを通過した菩薩として時間の流れの中で茂っていく三草に譬えられ、小乗から大乗へと仏教が広まっていく経緯も小樹と大樹の二木に譬えられて「三草二木の譬」が語られております。こういった時間の経緯の中で起こる縁起を此縁性縁起と言います。
このように「法」が備える相(資成軌)・性(観照軌)・体(真性軌)の三軌を、
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法の譬え =三車火宅の譬 ---(体)真性軌
智慧の譬え=長者窮子の譬 ---(性)観照軌
実相の譬え=三草二木の譬 ---(相)資成軌
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として説いたのが譬喩周です。
『信解品』の長者窮子の譬について少し掘り下げてお話を致します。
三界と言うのは、凡夫が住む欲界と仏が住む色界、そして真如の世界である無色界の三つの世界の事を言いまして、仏教の世界観はこの三界で構成されております。
空観(色界)にある仏が、「非空」という方便を用いて「有」の凡夫が住む欲界に現れ、方便を取り払って「空」の色界の住処へ戻ります。凡夫はその逆で、実体である「有」を完全に寂滅して「空」に入ろうとします。それが「有る無し」で空を理解した「無の境地」をひたすらに目指す析空に陥った小乗の灰身滅智です。
しかし大乗を起こした通教の利根の菩薩(龍樹)は、小乗のように「有」を滅するのではなく、「非空」の実在における仏を観じることで「有」を滅することなく有(俗諦)を空(真諦)へと転換します。これが体空です。心で観じ取る、いわゆる体感する空(相依性縁起)です。
それによって小乗では滅するべき対象であった煩悩が、大乗では煩悩を菩提へと転じる「煩悩即菩提」が説解き明かされます。
智顗の『摩訶止観』卷第三上には次のようにあります。
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從空入假名平等觀者。若是入空尚無空可有何假可入。當知此觀爲化衆生。知眞非眞方便出假故言從空①。分別藥病而無差謬故言入假。 平等者望前稱平等也。前觀破假病不用假法但用眞法②。破一不破一未爲平等。後觀破空病還用假法③。破用既均異時相望故言平等也。(摩訶止觀卷第三上T1911_.46.0024c07~14行目まで)
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「此の観は衆生を化せんが為なることを眞は眞には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う」
(仏は非空から仮に入るから従空入仮観という)--- ①
「前観は仮を破して仮法を用いず、但だ眞法を用いるのみ」
(前観(凡夫の空観・仮観・中観)は俗諦を破してただ真諦を用いるだけ)--- ②
「後観は空を破して還た仮法(非空)を用う」
(後観(仏の空観・仮観・中観)は非空(有)から非有(空)へ入空観する)--- ③
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仏は方便として有を用いる(非空)のですが、さらに用いた有を破して空に入ります(非有)。その仏の空観を観じた凡夫は、本来なら従仮入空観で「有を破して空に入る」ところを「(方便として)有を破して(方便の)空に入る(非有)」に転じることで、有を滅することなく方便として空に入る「非有」の従空入仮観を観じます。
こちらでより詳しく解説しております。
12.維摩經玄疏
https://sinnyo.blog.jp/archives/19878164.html
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この意味するところが智顗の『維摩經玄疏』の中の「能観の三観」の中で次のように書かれております。
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「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心(凡夫の従仮入空観)を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず(仏の従空入仮観に入る)。而して能く心の空・仮(真実の仏の空・仮)を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす(悟りの空・仮の非有・非空)。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理(一空一切空観)を照らす。此れは即ち観行即(己心に仏性を観ずる位)なり。」(維摩經玄疏 529a11-15)
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これが具体的にどういう事かと言いますと、今世で身を滅して天上界へ転生する(灰身滅智)しかなかった凡夫が、今世で方便として空へ入る事が出来るということです。(凡夫も仏に成ることが出来るということ)
しかし、「方便として空へ入る(非有)」となると、その前提に破するべき方便としての有(非空)がある訳です。分かりにくい表現なので例えてお話ししましょう。
不幸な境遇に生まれてきた子供がいたとしましょう。不幸な境遇というのが実在の「有」です。「有を滅して空に入る」には、不幸な境遇という事実を打ち消すか、そういった感情を完全に寂滅させるしかありません。
ですがその事実を方便と受け止めるとどうなるでしょう。
意味があって不幸な境遇に生まれてきたのであってその意味を分かっていないから悩み苦しんでいるのです。不幸な境遇は何かを成す為の方便の姿であってその真意を悟った時、不幸な境遇も苦では無くなるのです。その意味(真理)を観じとるのが非空の有から入る非有の仏の従空入仮観(仏の空観)です。これが凡夫が仏の智慧をかりて悟りを得るという「煩悩即菩提」の理です。
この例えから何か思い浮かびませんか。
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そうです三周の説法の中の「長者窮子の譬」です。
.
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ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。
父親は偶然見たその窮子(困窮しきった人物)が息子だと確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるのが嫌で逃げてしまう。長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。
そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を任せ、実の子であることを明かした。
この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表している。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解した内容を釈迦仏に伝える形をとっている。『ウィキペディア』より
譬喩周は、「三車火宅の譬」、「長者窮子の譬」、「三草二木の譬」の三つの譬え話からなります。
『譬喩品』で、お釈尊さまは開三顕一の法理を三つの乗り物に譬え解りやすく「三車火宅の譬」としてお話します。燃え上がる火宅から遊びに夢中になっている子供達を助ける為に父親が方便を用いるお話ですが、
「三界は安きこと無し、なお火宅の如し」
といった文句が良く知られておりますが、この言葉の意味を「意識が三界にあるうちは迷いの凡夫で、三界から抜け出た処に覚りの境地がある」と思っておられる方が結構おられますが、実はこの言葉の意味するところは「九次第定」の空無辺、識無辺の禅定で空間と意識層を空じることで三界を仕切っていた空間と心の識層が無くなって一つの空間、一つの心に集約された真如の世界が顕れるといった「三界唯心」を譬えとして言われている言葉です。
と、説明されて「なるほどー」と即座に理解出来ればあなたは舎利弗に勝るとも劣らない大した境涯の人物です。大方の人は、なんとなーく「そうなんだー」といった感じで解かったような解らないような微妙なニュアンスかと思います。
ですから、お釈迦さまは更に解りやすいように譬え話を用いて説明します。それが次の中根の声聞衆に対して行った譬喩周(ひせっしゅう)です。
『妙法蓮華經』方便品第二には次のように法説周が説かれております。
所以者何。諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。
云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。
所以は何ん、諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう。舎利弗、云何なるをか、諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもうと名くる。
仏はただ一大事の因縁を以てこの世に出現するという箇所です。
続いて「開示悟入」の四つの仏知見が説かれます。
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。
欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。
出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。
是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。
この四仏知見は、一仏乗の法を三つの教えに開いて蔵教・通教・別教として示し、空・仮・中の三諦を悟らせ妙法蓮華経の一心三観へと入らせるという仏の智慧が説かれております。日蓮聖人がこの部分を『御義口伝』の「第三 唯以一大事因縁の事」の中で次のように述べておられます。
「此の大事を説かんが為に仏は出世したもう 我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈(やが)て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字 止観の二字 寂照の二徳 生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、爰を以て之を思う に仏とは九界の衆生の事なり」
直至道場とは、「直達正観」と言いまして瞑想や禅定をするまでもなく直ちに即身成仏することを言います。私達の身にあてはめるなら御本尊と境智冥合した当にその体こそが当体蓮華の入仏知見となります。
南無妙法蓮華経と唱え奉る者は『法華経』で説かれる真如の「七宝塔」に入ることであり、「開仏知見の仏」とは九界所具の仏界であり、「知見」とは妙法の二字、止観の二字、寂照の二徳、生死の二法であり、色心因果であり、所詮知見とは妙法をみることであり、九界所具の仏界を法華経の知見にて開く事であると言われております。
では、どのような因と果が妙法蓮華経の五字に備わっているのかそれを説いているのが「三周の説法」です。まず最初に「法説周」が利根の声聞に対して説かれます。
法説周と言うようにここでは「法」がそのままダイレクトに説かれております。
(相=実相)天界の仏が応身として衆生の欲界に生まれ出る法理。(応身)一大事の因縁
(性=心性)仏が衆生を救わんとする智慧の法理。(報身)四仏知見
(体=当体)その智慧を体現する「法」。(法身)開三顕一の一仏乗の妙法
五仏性の内容は、こちらで紹介しました通り以下に示す五項目です。
「正因仏性」--- 衆生が本来そなえている本有の仏性
「了因仏性」--- 本有の仏性を照らしあらわす智慧のこと
「縁因仏性」--- 智慧を起こす縁となる行法のこと
「果性」 ------ 菩提の果
「果果性」------ 涅槃の果のこと
三つの「因」と二つの「果」で合わせると「因果」です。
仏の悟りを得るということは、仏の法に対する因(修行)を積んでその報いとして悟りとしての果を得るということです。仏法修行者が、仏の悟りを修得するまでの全ての修行のことを万行といいます。菩薩の「五十二位」の悟りや、菩薩が行ずる六つの修行過程「六即」の行位がこれにあたります。これらを因位の万行といいます。そしてその修行の因の報いとして受ける仏に備わる全ての功徳相を果位の万徳といいます。
日蓮大聖人は、『観心本尊抄』で次のような事を申されております。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す 我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲り与え給(たも)う」
ここで仰せの「因行果徳の二法」とは、今説明しました「因位の万行」と「果位の万徳」のことを言います。
歴劫修行が根幹となっている釈迦仏法では、三祇百大劫という気が遠くなる程遥かに長い年月の間に転生し、修行を行わなければ成仏することは出来ません。
仏に成る因を積んでその結果として成仏という果報を得るといった因と果に長い時間差が生じる「因果異時」の立ち場で説かれた厭離断九の仏だからです。因と果に隔たりがあるため個別に説かれた空仮中の三諦も隔たった隔歴(きゃくりゃく)の三諦(別相三観①~③)となります。
それに対して因果倶時(いんがぐじ)の法門を説く円経の『法華経』の通相三観④では、因と果が同時に備わります。妙法を唱うる一念に、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」とありますように三世十方の諸仏のあらゆる因位の修行も果位の万徳も妙法蓮華経の五字に同時にそなわっているのです。
※ ①~④はこちらでご確認下さい
お釈迦さまが涅槃に入るさい、
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定
といった「九次第定」の禅定を行い、そして今度は、逆に滅尽定から、無色界の空無辺処まで戻り、さらに色界の第四禅から初禅まで戻っています。
滅尽定 → 非想非非想処 → 無所有処 → 識無辺処 → 空無辺処 → 第四禅 → 第三禅 → 第二禅 → 初禅
これはおそらく別相三観を①から③へ順観で行い次にそれを逆観で③から①へと意識を向かわせたのでしょう。そして再び、色界の初禅から第四禅へ至り、第四禅から無色界の禅定へとは進まず、この第四禅から直接ニルヴァーナへ入り、ブッダは肉体を捨て去ったと記述されています。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → ニルヴァーナ(涅槃)
この四禅の内容はおそらく、④の通相三観とその三観を最終的に一つに集約した「一心三観」の境地に入って涅槃を迎えたのではなかったのでしょうか。
仮一切仮 → 空一切空 → 中一切中 → 一心三観 → ニルヴァーナ(涅槃)
「三転法輪」は蔵教の声聞・通教の縁覚・別教の菩薩といった三乗に対する説法で円教が最後に加わって智顗が『魔訶止観』の中で説く「四門の料簡」の16観法の相が顕れます。
<蔵教で三徳を説く釈迦(劣応身仏)>--- ①
「仮」資成得顕名為解脱 (解脱)
「空」観照得顕名為般若 (般若)
「中」真性軌得顕名為法身(法身)
<通教で三法を説く釈迦(勝応身仏)>--- ②
「仮」資成軌が仮諦如来蔵 (仮諦)
「空」観照軌が空諦第一義空 (空諦)
「中」真性軌が法性中道第一義諦(中諦)
<別教で三身を説く釈迦(報身仏)>--- ③
「仮」資成軌即是縁因性(応身)
「空」観照軌即是了因性(報身)
「中」真性軌即是正因性(法身)
<円教で十如是を説く釈迦(法身仏)>--- ④
「仮」資成軌が功徳善行(相)--- 仮一切仮
「空」観照軌が般若観智(性)--- 空一切空
「中」真性軌が実相諦理(体)--- 中一切中
十如是は円教である『法華経』に至ってはじめて明かされる法門ですので、智顗は三乗の教えを別相の「次第三観(別相三観)」として相待妙としての「三種・三観」を立てます(①~③)。その九項目に開かれた別相三観をベースとして、円融の「通相三観」④が絶待妙として起こります。
張 教授は論文の中で、
真性軌が実相諦理、観照軌が般若観智、資成軌が功徳善行、--- (19)
真性軌が中道諦、観照軌が空諦、資成軌が仮諦--- (18)
真性軌即是正因性、観照軌即是了因性、資成軌即是縁因性--- (15)
真性軌得顕名為法身、観照得顕名為般若、資成得顕名為解脱--- (16)
と智顗の三軌と三法・三因・三徳の関係を紹介されておりますが、日蓮聖人の御文と照らし合わせると、
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/18/4
次のような感じになるかと思います。
<三軌の定義>
真性軌が実相諦理(=体)
観照軌が般若観智(=性)
資成軌が功徳善行(=相)
<三軌と三法(真理)>
真性軌が法性中道第一義諦(中諦)
観照軌が空諦第一義空 (空諦)
資成軌が仮諦如来蔵 (仮諦)
<三軌と三因(真如)>
真性軌即是正因性(法身)
観照軌即是了因性(報身)
資成軌即是縁因性(応身)
<三軌と三徳(実相)>
真性軌得顕名為法身(法身)
観照得顕名為般若 (般若)
資成得顕名為解脱 (解脱)
その相待妙で三乗に開かれた妙法の内容はと言いますと、まず三乗とは仏門に入って得られる声聞・縁覚・菩薩といった三種の境涯のことを言いますが、仏の説法を聞くことで言葉の概念で真理を理解していく境涯を声聞と言います。
「三転法輪」の第一時の蔵教の声聞に対して行われた説法がそれにあたります。蔵教の声聞衆がその説法をどのように理解していったかはこちらで詳しくお話しております。
説一切有部について
https://zawazawa.jp/bison/topic/12
縁覚は、観音菩薩の説法を「音を観じる」が如く「聞く」のでは無く「独自の伝達方法」をもって観受ていく境涯です。独覚とも言われるこの境地にあっては、「聞く」という五蘊による凡夫の認識から、仏の認識に視点が変わることで「縁起」を覚っていきます。
通教の縁覚に対して説かれた第二時の説法は『般若経典』を中心とした「空」の説法ですが、こちらで詳しくその内容をお話しております。
「空」の理論
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5?page=2
そして第三時の菩薩に対して行われた「覚りの理論」を説いた説法の内容はこちらでご紹介しております。
四諦の「三転法輪」とは
https://zawazawa.jp/bison/topic/14
現代用語では「相対」に対して「絶対」という言葉を用いますが、なぜここでは「相待・絶待」という字を用いているかについて、次に説明致します。
「相待」という言葉は「あいまつ」という意味で縁起という言葉と同じ意味をもっています。要するに「あいまつ」というのは、世の中の全ての事物は、それ自体が独立して成り立つものではなく、相互の関係の中で始めてその存在が成立するといった縁起の関係を含めた言葉なのです。
一人の女性はまず男性に対して女性といいます。そして、両親にむかっては娘であり、夫にむかっては妻であり、子にむかっては母です。
それぞれが、それ自らは「無自性」ではあるが、縁する対象によって女性として、また娘として、妻として、母として顕れます。何に縁するかによって意味合いが変わってくる、そのことを「相待」といった言葉で表しています。
更に、「相対」と「相待」の違いについて説明すると、たとえば電車の中で立っている人と、座席に座っている人がいたとします。相対では「立っている人に対して座っている人」ですから、「立っている人は座っている人よりも辛い」、「座っている人は立っている人よりも楽」、といった比較相対になります。
それに対して相待は、「立っている人がいるから自分は座れている」、「自分が立っていることで、座っている人が楽に乗車出来ている」、といった相互の関係の中の自分となります。(主観認識)
では、それぞれの文を「絶対」と「絶待」に展開してみましょう。
比較相対の「相対」に対する言葉である「絶対」を用いると、「絶対座っている方が楽だよね」となります。かたや「相待」に対する「絶待」はと言いますと、「立っている人がいるから自分は座れている」の文は、「ありがとう」の感謝の心へ展開され、「自分が立っていることで、座っている人が楽に乗車出来ている」の文は、他者貢献による自身の心の満足へと展開されます。
電車の中のささいな出来事ですが、それを比較相対で認識すると、「座っている方が楽だ」という欲が自身の心に生じます。しかし「相待」で認識すると感謝の心や心の満足を得ることが出来ます。
これが相待妙と絶待妙の二妙の力用です。
比較相対で物事を認識する生き方は。我欲が中心となって煩悩に覆われて苦しみの人生となっていきます。相待妙と絶待妙の二妙の力用を備えた妙法(法華経)の認識の中に心をおいてこそ真実の幸福な人生を感じ取っていけるのです。
この二つの妙法は天台智顗が『法華玄義』で、
「妙を明かさば、一には通釈、二に別釈なり。通に又二と為す。一には相待、二には絶待なり」
と解き明かされた『妙法蓮華経』の五仏性に備わる二つの意義です。
この「相待妙」と「絶待妙」は別々にあるものではなく、『妙法蓮華経』の経題の中に同時に含まれているというものです。別々と考えてしまうと、相待妙で法華経を第一とした後、爾前教は必要ありませんので捨てるだけになります。そのように比較対象の考えのみになってしまっているのが日蓮正宗や創価学会の解釈です。
法華経を最高の教えとさとしたいのであれば、相待妙だけでよいはずですが、「二妙」ということですので、もう一つの妙法があります。それが絶待妙です。絶待妙は、一代聖教がすなわち法華経であると考えます。
爾前経の中にも重要な法門がたくさん説かれています。それは捨てるべき教えではなく、法華経を正しく理解していく中で生きてくる教え(体内の権)なのです。法華経が説かれた後は、念仏宗だとか真言宗だとか天台宗だとか言っても意味がないのです。どの水も海に流れ込めばみんな一同に塩味の海水になるのですから。すべては『法華経』に集約されるのです。
「相待妙・絶待妙」の考え方からすると、お釈迦様が説かれた一代聖教は、無駄になるものは何一つないということです。
この部分は円融三諦の根幹部で大変複雑な構成になっております。その理解にあたっては別相三観と通相三観といった二段階の「妙法」の理解が必要となってきます。
『妙法蓮華経』の二種の〝妙法〟として智顗がひも解いた相待妙と絶対妙です。
次章で詳しくお話して参ります。
『相待妙と絶対妙』
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/19
智顗の『法華玄義』巻五の下の次の言葉をもって張 教授は、
明円教三法者、以真性軌為乗体、
不偽名真、不改名性、即正因常住。…… 観照者、
只点真性寂而常照、便是観照、即是第一義空。
資成者、只点真性法界含蔵諸行、無量衆具、即如来蔵。--- (18)
智顗は、真性軌が法性中道第一義諦、観照軌が空諦第一義空、資成軌が仮諦如来蔵であるとしていわゆる「三法」・「三軌」が空・仮・中の三諦であると説く。と自身の見解を述べておられます。
また、次の文から三諦は円融互具であり、三法三軌が円融互具であることから、三果仏性(三徳)も、当然円融互具となります。
一仏乗即具三法、亦名第一義諦、亦名第一義空、亦名如来蔵。
此三不定三、三而論一。一不定一、一而論三。不可思議、不並不別。--- (19)
ここでいう三軌とは、
前明諸諦、若開若合、若粗若妙等、已是真性軌相也。前明諸智、若開若合、
若粗若妙、是観照軌相也。前明諸行、若開若合、若粗若妙、已是資成軌相也。--- (14)
「真性軌」が実相諦理、「観照軌」が般若観智、「資成軌」が功徳善行を指し、三因仏性と三軌が、
真性軌即是正因性、観照軌即是了因性、資成軌即是縁因性。--- (15)
となって、法身・般若・解脱の三徳と三軌もこのような関係になると智顗は説明されております。
真性軌得顕名為法身、観照得顕名為般若、資成得顕名為解脱。--- (16)
智顗のそういった解釈をふまえて日蓮大聖人は『一念三千法門』の中で次のように三諦について述べられております。
第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界・皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即・報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。
三種・三観、三三九諦の相が読み取れます。
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(14)『法華玄義』巻五下、『大正蔵』巻 33、741 頁中。
(15)『法華玄義』巻五下、『大正蔵』巻 33、744 頁下。
(16)『法華玄義』巻五下、『大正蔵』巻 33、742 頁下。
(18)『法華玄義』巻五下、『大正蔵』巻 33、742 頁中—下。
(19)『法華玄義』巻五下、『大正蔵』巻 33、741 頁中。
五仏性の内容は次の通りです。
「正因仏性」--- 衆生が本来そなえている本有の仏性
「了因仏性」--- 本有の仏性を照らしあらわす智慧のこと
「縁因仏性」--- 智慧を起こす縁となる行法のこと
「果性」 ------ 菩提の果
「果果性」------ 涅槃の果のこと
このうち「正因仏性・了因仏性・縁因仏性」の三つの仏性をまとめて三因仏性と言います。
正因は本有として元から備わっているものの了因の「智慧」と縁因の「縁」がないとその正因も顕れません。それを日蓮聖人は「善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず」という言葉で言い現わしておられます。
「因」である三因仏性に対し、「果性」と「果果性」は因を元とした果報にあたります。三因によって得られる果徳です。
仏道を実践していくことで様々な覚りを得ていき、如何なる状況にあっても常に誤りのない判断をもって正しい道を歩んでいける様になります。それが「菩提の果」です。--- 果性
そして正しい道を生きて行く事で最終的に執着から離れた臨終を迎えて六道から離れた「涅槃の果」を得て天上界へ転生します。--- 果果性
「張論文」のプリント下部 No.101-109 あたりまで読むと、前回の「十如是と五何法」のお話の中で紹介しました日蓮聖人の『総勘文抄』の次の言葉が天台智顗解釈にとるところだという事が解ります。
「三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり。 一とは中道なり法華なり、大とは空諦なり華厳なり、事とは仮諦なり阿含・方等・般若なり、已上一代の総の三諦なり。 之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり。 因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり。 此れを総じて因と云うなり。 縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず。 善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや」