高校時代、嫁さんと一緒に映画館に観に行きました。
嫁さんはサンディのような優等生でした!
もちろんグリースでバッチし決めてました!
高校1年の頃からサタディ・ナイト・フィーバーしてました。
映画の真似してソニーのウォークマンでレッツ・ダンシング! 法介はどこで踊ってたでしょう?
和尚の為にこれも貼っておこう。
これも絶対貼っておきたい。
取り合えず世良さん貼っとこ。
「南無妙法蓮華経」って究極の無為法だって知ってました?
曼荼羅を対境としてお題目を唱える行法は、直達正観の法華三昧です。
如是相=曼荼羅 如是性=法華経 如是体=お題目を唱える修行者
この三如是を本として「南・無・妙・法・蓮・華・経」の七是相を因として題目を三唱しますと空・仮・中の三諦が円融します。(十如是の三回読みと同じ意味)
「十如是」は縁起ではありません。当体の真実の姿です。
凡夫の「十如是」と仏の「十如是」と真如の「十如是」とでは、その内容がそれぞれに異なる。
凡夫の「十如是」=実在的要因(相が中心)← 量子力学的解釈 仏 の「十如是」=智慧的要因(性が中心)← 仏の空観的解釈 真如の「十如是」=真理的要因(体が中心)← 三身如来の真理
方便品の「十如是」は凡夫の「十如是」 「三・五の法門」が仏の「十如是」 虚空絵の内容が真如の「十如是」
<凡夫の「十如是」の相・性・体>(第六意識) 凡夫の仮=色即是空 --- ①(此縁性縁起) 凡夫の空=空即是色 --- ②(相依性縁起) 凡夫の中=色即是空 空即是色 --- ③(中道)
<仏の「十如是」の相・性・体>(第七末那識) 仏の仮=応身仏 --- a (此縁性縁起) 仏の空=報身仏 --- b (相依性縁起) 仏の中=法身仏 --- c (而二不二)
<如来の「十如是」の相・性・体> 如来の仮=応身如来 --- A 如来の空=報身如来 --- B 如来の中=法身如来 --- C
詳しくは後程。
この説明文を書かれた末法の「名ばかりの僧侶」さんは、
「十如是」を〝縁起〟だと勘違いしておられるんですね^^
「十如是」は無為法です。
以下、法華宗真門流HPの十如是の説明文より抜粋-------------
「如是力」とは潜在的な能力で、その能力を発揮する〝動作〟を「如是作」と言います。
「如是縁」とは善悪の〝動作が縁〟となることで
「如是果」とは、信仰心の有無により、自分の行って来た〝動作が善悪の結果を生む〟ことで
「如是報」とは、生前における信仰心の有無、善根功徳の有無による善悪の結果が、〝その報いとなって現れてくること〟です。
麦タンが張ってくれてる「法華宗真門流HPの十如是の説明文」の中に、
「如是体」とは、前の相と性を兼ね具えたもので、法身仏に配釈されています。「如是力」とは潜在的な能力で、その能力を発揮する動作を「如是作」と言います。そして、善悪の動作が直接原因となることを「如是因」と言います。「如是縁」とは善悪の動作が縁となることで、良縁によって幸せな人生を送る人もあれば、悪縁によって一生不幸に終る人もいます。世の中は全て「縁」が大切です。「如是果」とは、信仰心の有無により、自分の行って来た動作が善悪の結果を生むことで、「如是報」とは、生前における信仰心の有無、善根功徳の有無による善悪の結果が、その報いとなって現れてくることです。
とありますよね。
「十如是」って仏と仏にしか伝わらない「無為法」なんですね。
無為法なのになんで↓〝〟の部分が起こりますか?
思うんですけど、麦さんって毎度毎度、ホント良いタイミングでナイスな投稿をぶっこんで来てくれるんでとてもありがたいです。
麦タン、ありがとう^^
では今から末法の僧侶が如何に「名ばかり」であるかを立証して参ります。
と、ここで日蓮宗の麦さんからこんな投稿が入りました。(Talk 掲示板より)
法華宗真門流HPより
妙法蓮華経方便品第二 (二)
十如是について 法華経に、万物構造の原理として「十如是」が説かれています。「方便品」に、「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃(いま)し能く諸法の実相を究尽したまえり。」とあります。釈尊が甚深難解の法として説かれた「諸法実相」、すなわち宇宙間の全ての自然現象たる万物は、どのようにして創造され、絶えず変化しつつ向上し、また向下するか、その妙理法則を説明されたのが、「十如是」であります。「所謂諸法・如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」とあるように、如是が十ありますから「十如是」と呼んでいます。「如是」とは、ありのままということで、法則にかなうという意味です。
最初の「如是相」とは、現象界に存在するものは、どんなものでも長短方円・美醜の相(すがた)があって、凡夫の目にも見えますが、本仏釈尊は凡夫の目に見えない極小の世界や極大の世界、霊界の相(すがた)までも見透すことを言い、日蓮聖人は応身仏に配当されています。「如是性」とは心で、万物それ自体が具えている性質、持ち前の智恵を言い、報身仏に配されています。「如是体」とは、前の相と性を兼ね具えたもので、法身仏に配釈されています。「如是力」とは潜在的な能力で、その能力を発揮する動作を「如是作」と言います。そして、善悪の動作が直接原因となることを「如是因」と言います。「如是縁」とは善悪の動作が縁となることで、良縁によって幸せな人生を送る人もあれば、悪縁によって一生不幸に終る人もいます。世の中は全て「縁」が大切です。「如是果」とは、信仰心の有無により、自分の行って来た動作が善悪の結果を生むことで、「如是報」とは、生前における信仰心の有無、善根功徳の有無による善悪の結果が、その報いとなって現れてくることです。現世には、温厚篤実で信心深い人が不幸になり、強欲非道の人が栄えている場合もありますが、それは過去世の「報」によるのであります。
最後の「如是本末究竟等」とは、相・性・体の三如是が根本となって、末の力・作・因・縁・果・報を生むということで、この因果の法則は万人等しく逃れることができない、ということであります。日蓮聖人は『十如是事』(定2030縮202類658)に、
「我身が三身即一の本覚の如来にてありける事を、今経に説て云く、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文。初に如是相とは、我身の色形に顕れたる相を云也。是を応身如来とも、又は解脱とも又は仮諦とも云う也。次に如是性とは我心性を云う也。是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云う也。三に如是体とは、我此の身体也。是を法身如来とも、又は中道とも法性とも寂滅とも云也。されば、此三如是を三身如来とは云也。……此三如是を本として、これよりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成たる也。」 とご指南されています。
なお、「十如是」を三回読みますが、(1)如是相・如是性・如是体と読むのは仮諦の義、(2)是相如・是性如・是体如と読むのは、空諦の義、(3)相如是・性如是・体如是と読むのは中諦の義で、法華経の三諦不思議の妙理を顕しています。しかし、真読の場合は三回共(1)の読み方であります。
十界互具の妙法 次に「十界互具」についてご説明しましょう。 「十界」とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界です。法華経以前の方便の諸経にも、「十界」を説いておりますが、「十界互具」を説かれているのは法華経のみであります。
この世に存在する森羅万象を大別すると、「十界」となりますが、全て因果の法則によって、生かされて生きている不思議な存在ですから、「十法界」と言い、略して「十界」と呼んでいます。この十界の一界ごとに、他の九界を具えているから「百界」となります。そしてその百界の一つ一つに、「十如是」を具えていますので、「千如是」となります。更に千如是の一つ一つに、五蘊世間・衆生世間・国土世間という三種の世間を具えていますから、「三千世間」となります。世間とは世界という意味です。この三千世間が、本仏釈尊の「毎自作是念」の大慈悲の一念に包まれていますので、「一念三千」と呼んでいます。法華経には「十界互具」が説明されていますから、「妙法」と申します。妙法の経力によって、一切衆生が成仏できるという原理と可能性があることを、理論的・哲学的に述べたものを「理の一念三千」と呼び、私達末法の一切衆生が、理論だけでなく、成仏が事実となって顕れることを、「事の一念三千」のお題目と申します。
↑この意味分かります?
末法の僧侶は、「名ばかり」なので覚りを得ることはありません。その僧侶を守り育てる者が「無生法忍」の覚りを得ると経典には書かれているのです。
そして、『大集経』では次にホローが入ります。
この名ばかりの比丘は、仏教以外の九十五種のよこしまな教え(九十五種の外道の法)を信じるものにくらべたなら、もっとも尊いものである。すなわち世間から供養を受けるべきものであり、世の人々にとって最初に福田になるものなのである。なぜなら、本当に恐れるべきことは何かを人々に示すことができるからである。名ばかりの比丘であっても、その比丘を安らかに護り育てるものは、やがて無生法忍の覚りを得るであろう」
と。
で、最澄さんは次のような譬え話しを始めます。
答えていう。『大集経』の第九巻に、次のように説かれている。
「たとえば金を最上の宝とするようなものである。もし金がなければ銀を最上の宝とする。もし銀もなければ真鍮などのいつわりの宝を最上の宝とする。もしいつわりの宝もなければ赤銅・白銅・鉄・白蝋・鉛を最上の宝とする。このようなものを世間では宝というが、仏の教えこそ最も尊い宝なのである。もし仏がおらなければ、縁覚をもっとも尊いものとする。もし縁覚もいなければ、阿羅漢をもっとも尊いものとする。もし阿羅漢もいなければ、阿羅漢に達する前の聖者たちを最も尊いものとする。もしその聖者たちもいなければ、禅定を得た凡夫を最も尊いものとする。もし禅定を得た凡夫もいなければ、清らかに戒律をたもつ比丘を最も尊いものとする。もし清らかに戒律をたもつ比丘もいなければ、戒律を破る比丘をもっとも尊いものとする。もし戒律を破る比丘もいなければ、髪を剃って袈裟を身に着けただけの名ばかりの比丘を最も尊い宝とする。
『大集経』って、そこまで言うのね^^
これを聞いた問者が、 問うていう。正法と像法と末法の僧侶のあり方は、すでに多くの経典に説かれている。末法の時代の名ばかりの比丘をこの世のまことの宝とするということは、経典に説かれていることなのか。
と、びっくりこいて、
「おいおい、そんな名ばかりの僧侶であっても末法では宝として崇めろと経典には説かれているのか!」
と聞きたくもなりますよね。
「比丘」とはみんさんご存知のように出家して修行を積んだ僧侶のことです。
最澄さんは、
「末法の時代にあっては名ばかりの僧侶しかいない!」
と、言いきり
もし末法の時代に戒律を守る僧侶が居たとしたら
「町中に虎がいるようなもので、ちゃんちゃらおかいいわ!」
「そんなおかしな話、誰が信じるものか!」
みたいな事を言っておられる訳です^^
負けん気が強いのか、最澄さんは更にこう言い放つ!
答えていう。そうではない。正法と像法と末法の時代における僧侶のあり方はすべて、さまざまな経典に説かれている。出家のものも在家のものもみなこれを読んでいるのであり、どうして自分のよこしまな生活をむさぼり求めて、国をたもる正しい教えを隠すことなどできようか。ただし、今論じているのは末法の時代であり、名ばかりの比丘しかいないのである。この名ばかりの比丘をこの世のまことの宝とする。そしてこれを福田とするのである。もし末法の時代に戒律をたもつものがいるというなら、それこそおかしなことであって、町中に虎がいるようなものである。だれがこれを信じるであろうか。
それに対し問者が「末法の時代」についてこのように鋭く問い返す。
問うていう。さまざまな経や律では、戒律を破るものをきびしく制し、教団に入ることを許していない。戒律を破るものでさえこの通りであり、まして無戒のものはいうまでもないことである。ところが今あらためて末法の時代について論じ、末法には戒律がないという。しかし教団の中にもとより無戒のものはいないのだから、それについて論じるのは、傷もないのに傷ついているというようなものではないか。
さらに『末法灯明記』で伝教大師は問者に対し次のように答えます。
問うていう。そうであれば、今はどの時代にあたるか。
答えていう。釈尊の入滅された年代には多くの説があるけれども、とりあえず二つの説をあげる。一つには法上師などの説であるり、『周書異記』によって、釈尊は周の第五代穆王満の五十三年に入滅されたとする。この説にしたがえば、その年からわが国の延暦二十年(※西暦801年)に至るまで千七百五十年を経ている。二つには費長房などの説であり、魯の『春秋』によって、釈尊は周の第二十代匡王班四年に入滅されたとする。この説にしたがえば、その年からわが国の延暦二十年に至るまで千四百十年を経ているから、今は像法の時代の最後にあたる。
そして最澄(伝教大師)さんは、ここから衝撃的な事を語りだします。
像法の最後の時の僧侶のあり方はすでに末法と同じである。すなわち末法の時代であれば、ただ仏の説かれた言葉が残っているだけで、行もなくさとりもない。もし戒律があるのならその戒律を破るということもあり得る。しかし末法の時代にはすでにたもつべき戒律がないのに、いったいどの戒律を破ることで戒律を破ったといえるものであろうか。戒律を破ることすらないのに、まして戒律をたもつことなどあるはずもない。だから『大集経』には、
「仏の入滅後、たもつべき戒律を持たない無戒のものが世の中に満ちあふれるであろう」
と説かれているのである。
さらに『末法灯明記』には次のような事がかかれております。
『摩訶摩耶経』によれば、
「仏の入滅後、はじめの五百年は、摩訶迦葉などの七人の聖者が次々に仏の教えをたもち、失われることはないが、五百年の後には、正しい仏の教えがなくなってしまうであろう。六百年になると、仏教以外の九十五種の教えがはびこるが、馬鳴菩薩が世に現れて、それらの誤った教えを打ち破るであろう。七百年には、龍樹菩薩が世に現れてよこしまな考えを打ち砕くであろう。八百年には、比丘がほしいままに振る舞い、わずかに一人二人し覚りを得るものがいなくなるであろう。九百年には、比丘や比丘尼を召使いのように見て軽んじるであろう。千年には、不浄観が説かれると、怒って聞こうとしないであろう。千百年には、僧侶も妻や夫を持ち、戒律を謗るであろう。千二百年には、僧侶の多くは子供を持つであろう。千三百年には、僧侶の袈裟が在家のものの衣服のように白くなるであろう。千四百年には、出家のものも在家のものも、仏弟子でありながら殺生をするようになり、三宝の財物さえ売り払うであろう。千五百年には、拘セン弥国にいる二人の僧が互いの是非を争い、ついには殺し合うであろう。このため仏の教えはこの世から消え去り、竜宮の宮殿に隠れてしまうのである」
と説かれている。これらによれば、千五百年の後には戒律も禅定も智慧もなくなってしまっているのである。だから『大集経』の第五十一巻に、
「わたしが世を去った後、最初の五百年間は、多くの比丘たちはわたしが説いたままに行を修めて覚りを得ることが確かであろう。次の五百年間は、禅定を修めることが盛んであろう。次の五百年間は、多くの教えを聞くことが盛んであろう。次の五百年間は、寺をつくることが盛んであろう。最後の五百年間は、争いが盛んになり、仏の教えはこの世から姿を消してしまうであろう」
と説かれているのである。これは、はじめの三つの五百年間は、時の経過にしたがいながら、戒律と禅定と智慧の三つが確かにたもたれるということである。すなわち先に引いた説の、正法五百年、像法千年という二つの時代にあたる。次の、寺をつくることが盛んな時代から後は、すべて末法である。だから窺基の『金剛般若会釈』に、
「正法の時代は五百年間、像法の時代は千年であって、この千五百年の後には仏の教えはなくなってしまう」
といっているのである。これにより、釈尊の入滅から千五百年を経た後は、末法の時代であることがわかる。
お釈迦さまは「空」を『無我』という角度から説きました。
お釈迦様=人間の空・仮・中(三観)--- 欲界
龍樹は「空」を『中論』で展開しました。
龍 樹 =仏 の空・仮・中(三諦)--- 色界
そして世親が「空」を『唯識』で説きました。
世 親 =如来の空・仮・中(三身)--- 無色界
この三者が説いた「空」はそれぞれ次のような「空」になります。
お釈迦様の空=第六意識を空じる空 (実体視の消滅) 龍 樹 の空=縁起という仏の視点に立つ空(縁起=空) 世 親 の空=第七末那識の自我を空じる空(法空)
では早速、法華経が説かれた意味についてお話を始めて参ります。
仏教では正法・像法・末法と言ういわゆる「三時」という三つの時代区分が説かれているのをご存知でしょうか。
お釈尊様が入滅されて時代が移り変わって行くうちに、次第に仏教が衰退し末法に至っては『大集経』に「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」と記されておりまして、お釈迦さまが説かれた教えはこの世から姿を消してしまうであろうと言われております。
伝教大師の『末法灯明記』にその事が次のように書かれております。
わたしが世を去った後、最初の五百年間は、多くの比丘たちはわたしが説いたままに行を修めてさとりを得ることが確かであろう。(ここでは初果を得ることをさとりという) 次の五百年間は、禅定を修めることが盛んであろう。次の五百年間は、多くの教えを聞くことが盛んであろう。次の五百年間は、寺をつくることが盛んであろう。最後の五百年間は、争いが盛んになり、仏の教えはこの世から姿を消してしまうであろう。(現代語訳)
ここはyahooの『知恵袋』での質問の総括として質問終了後に書かせて頂きます。
ほ~『法華経』の第一回目は、法華経が説かれた意味について、まずお話したいと思います。
と、その前に
「法華経って釈迦が説いた経典じゃないってネットで聞きましたよー!」
って言う方が必ずおられますので、yahooの『知恵袋』で次のような質問を立ててみました。
yahooの『知恵袋』~
『法華経』についてお尋ねします。
『法華経』は仏説ですか?
それとも仏説ではありませんか?
皆さんのご意見をお聞かせください。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13284418203
仏教は言葉の概念から離れて、主観に意識を持っていき、更にその凡夫の主観を空じる事で「仏の空観」に意識として入って行きます。空はその「空観」に入る為の理論として説かれた教えです。
「析空」や「体空」は凡夫の「主観と客観」から起こる縁起で『般若心経』で説かれている「色即是空」と「空即是色」がそれを言い現わしております。この主観と客観という二観でモノを見ることで正しく対象となるモノを認識出来ます。この二観でのモノの見方を「中観」といいます。
<凡夫の〝観〟としての空・仮・中> 客観「色即是空」--- 此縁性縁起(仮観) 主観「空即是色」--- 相依性縁起(空観) 中観「色即是空 空即是色」 (中観)
この凡夫の〝観〟に対し仏の〝諦〟という言葉が仏教では用いられます。〝あきらかにする〟と言った意味での〝諦〟です。実は『般若心経』の「色即是空 空即是色」という文句はこの凡夫の三観を言ったもので、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の三種の不不が「仏の三諦」を示しております。先に説明しました「不生不滅」も「不垢不浄」も五蘊が働かない肉体から解脱して意識として存在している仏の「此縁性縁起」と「相依性縁起」のお話です。
<仏の〝諦〟としての空・仮・中> 仮諦「不生不滅」--- 析空による縁起(応身の釈迦) 空諦「不垢不浄」--- 体空による縁起(報身の釈迦) 中諦「不増不減」--- 法空による縁起(法身の釈迦)
その三種の不不の最後の「不増不減」(増えることも減ることもない)の意味するところを今からお話致します。
析空で理解する「空」は、モノの状態の「有る無し」を論じます。科学の水のお話を考えてみてください。水が液体として「有る」状態。分解して気体となって見えなくなった(無い)状態。車がの姿が「有る」状態。パーツ化して車の姿が無くなった状態。テーブルにしても然り。
このような「空」の初歩の理解で宗教を展開しているのが学者さんから仏教を学んでいるこういった宗派です。
東福寺公開講座 『仏教講座』第5回
動画の終わりの方で講師の花園大学名誉教授の沖本克己先生が、
「禅宗では『般若心経』はまじめに取り扱っておりません」とか
「空でなんにも無い、なんにも無いと言っているだけす」などと
大変おかしな事を言っておられます。
そもそも仏教学の学者さんは、仏教を学術的に研究されておられる学者さん達です。学術なので皆が納得しうる客観性に軸をおいた論証となります。ここで言う客観性が何を指すか分かりますか。
文献が残っているかとか、経典のどこにその言葉が示されているかといった誰もが納得しうる根拠です。しかし仏教ではこの「言葉」から離れる事をまず教えられます。なぜならこの「言葉」という概念によって様々な「実体」が立ち上がって見えてくるからです。
初期仏典で説かれた「無我」ですが、自我意識(第六意識)を形成する元となる五蘊の働きを完全に止滅させる事で「無我」の境地に入ります。自分という者が存在しないとか言ってるのではありません。五蘊の働きを空じることで自我意識(第六意識)が働かない境地へ禅定で入る事を説いているのです。
普通の人には五蘊は当たり前の事として働いています。
だって自分の頬を思いっきりつねってみて下さい。
「痛くな~い! ぜんぜん痛くな~いですよ!」って人居られますか?
次に二番目の「不垢不浄」(汚いことも綺麗なこともない)について説明します。
これは最初の「不生不滅」(生じることも滅することもない)が実体に即した真理なのに対し、実体の姿、即ち「色相」から離れて心の変化で起こる「相依性縁起」を意味します。心である「性」を因として起こる縁起です。
綺麗だとか汚いって誰が決めるでしょう?
それは個人の主観の問題です。
大好きな人と過ごす時間はあっという間に過ぎますが、大っ嫌いな上司の説教はとても長がーーーーーく観じます。同じ一時間であっても長く感じたり短くかんじたりします。
リンゴを「美味しい!」と好んで食べる人も居れば、「こんなのまずくて食えない!」といって食べない人も居られます。
坂道を上から見下ろせば「下り坂」ですが、下に居る人達から見たら「上り坂」です。
見る人、味わう人、感じる人が変わればその対象のモノの有り方もまた異なってきます。そういった相互関係によって生じる縁起を「相依性縁起」と言います。龍樹が『中論』で詳しく解き明かした内容で空の更に踏み入った深い理解です。
「空」をモノの状態と思い込んでいる上座部の人達は「主体は有りません!」といい、禅宗の人達は「実体は有りません!」と激しく主張されます。「空」をモノの状態の「有る」とか「無い」といった形容詞として理解している訳ですが、このような空の理解は「析空」の特徴の一つでもあります。
そういった〝状態〟としてのモノのあり様を捉える客観認識法(実在法)とは違って、相依性で起こる縁起は、モノのあり様ではなく、それを見ている人物の心のあり様を中心として起こる心の変化、即ち主観として起こる縁起となります。この「相依性縁起」は体感を空じる「空」なので「体空」といいます。
此縁性縁起=析空(客観) 相依性縁起=体空(主観)
龍樹は『中論』の中で、実はもう一つ大事な縁起を解き明かしております。しかしその内容を読み取れなかったのが昭和の仏教学界の権威と称されたかの中村 元大先生です。
中村先生は龍樹の「空理」をこの2種の縁起までしか読み取れなかった為、龍樹を二諦論者と誤った見解を世に弘めてしまいました。
実はこの「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の三つの不不からなる文句の意味するところ、おそらくその仏の深意を読み取った学者は未だ一人として居られないかと思われます。もし居られましたら教えて頂きたい。
経典というのは境涯で読み取るものなんですけど、仏門に入りながらも未だ実体思想から抜けきらないでいる「声聞」という境涯は、実体を形成する「言葉」にしきりに執着してやむことがありません。その良い例がここでの禅さんのこういった発言です。
「照見五蘊皆空」は、「五蘊は皆空なりと照見して」と読み下しますがそれを現代語訳しますと「 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。」となります。つまり、ここでは「照見」が動詞として、「空」は形容詞として使われています。対してもし「空」が動詞として使われるのなら、空五蘊(五蘊を空じる)とならなければなりません。中国語を習った人には常識ですが、動詞が先に来るのです。
経典を文法的にしか読まれておられません。仏が云わんとされている奥深いその深意を全く読み取る気概の欠片も感じられません。ただただ文法のお遊びを楽しんでいるとしか思えない、、、。
お釈迦様は涅槃に入られる直前に『涅槃経』を説かれますが、その中の四依品では、釈迦亡き後、仏の法を正しく習得していく術として大事な四項目が「法四依」として示されております。
依義不依語(義に依りて語に依らざれ) 依智不依識(智に依りて識に依らざれ) 依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ) 依法不依人(法に依りて人に依らざれ)
この仏が遺言として残された大事な指針を無視して真実の仏の教えの習得はあり得ません。その第一項の依義不依語(義に依りて語に依らざれ)の意味するところは、言葉に捉われるのでは無く、その意味するところを深く考えていきなさいという教訓です。やれパーリだのサンスクリットだのと原典こそがお釈迦様の深意だとか声だかに叫んでおられる方々がおられますが、そういうのを愚の骨頂と言うのです。
仏教が何たるかを全く解っておられない、、、、、。
ここで示されている不不からなる三つの言葉は、実は大変重要な意味を含んでおります。まず最初の「不生不滅」、すなわち生じることも滅することもないというのは、「此縁性縁起」を意味しております。
「生じることも滅することもない」、だから仏とは永遠不滅なんだと単純でおバカな発想に走った愚かな仏道修行者がどれだけ続出したことか、、、、。
良く「空」を説明するのに、「車をパーツに分解したら車の姿は無くなります」とか、「テーブルの脚を外したら天板と棒になってテーブルは消滅します」とか言いますよね。様々な構成要素が因縁仮和合し仮の姿として存在している(仮設)と説く縁起の法門です。それを科学的学術論証で言うならば、水は科学分解して水素と酸素になったらその液体としての姿を消し、気体として目には見えない存在として空気中に漂う。しかし再び結合すれば水となり氷点下まで冷やしたら今度は氷と成って個体化する。「この物質のあり様を〝空〟と言う」と成ります。
しかしこれは「空」の初歩的な理解でして、こういった細かく細分化してそのモノの本質に迫る見方を「析空」といいます。時間の流れの中でモノの状態の変化をつぶさに観察する事で証明される物質の時間にともなう変化を捉えた科学や物理でいうところの学術論証です。(実体に即した真理)
これを仏教では『阿含経典』の中で「此縁性縁起」として解き明かされております。「此れある時、彼有り」といった表現でモノが縁によってそのあり様が変化していくといった実体における真理を説いた教えです。その此縁性縁起にあっては、モノは構成要素が集まったり分離することでそのあり様を変化させるがその構成要素が減ったり生じたりしている訳では無く、因縁仮和合しているに過ぎません。
もう一度言います。
「生じたり滅したり」している訳ではありません。
「舎利子 是諸法空相」
(舎利子、この諸法の空相(空の世界観)は、)
「不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識」 (生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。故に、空観においては、色相もなく、受想行識も働かない。)
ここでも最初に「是諸法空相」(この諸法の空相(空の世界観)は、)とはっきりと言われております。
そして次の文句も多くの方が勘違いされている箇所です。「生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。」これをもって生じることも滅することもないんだから空を「無」なんだと勘違いしている人が一杯おられます。しかし、ここで言う「生じることも滅することもない」の意味は、そんな事ではないんです。
すると今度はこんな事を彼は言い出します。
「モニターは様々な構成要素が因縁仮和合してるのだし、それを認識する者も等しく因縁仮和合しているのだから、実体は無いんです!」
構成要素が因縁仮和合してモニターがそこに存在していて、それを人間が五蘊の働きで認識し、概念でもってモニターとして認識されます。未だモニターという概念の無い一歳児が見てもそこにはモニターは存在しません。それ自体は有るんですが、モニターとして認識されないと考えるのが正しい「空」の理解です。
そもそも「空」を説く『般若心経』では、最初に
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」
(観音さまは智恵の完成の修行を極められ、それを行う時)
って言っておられまして、これって観音さまのお話なんですね。観音さまって肉体って備わっていると思いますか?
解脱してますので肉体はありません。なので五蘊も当然のように働きません。
ですから
「照見五蘊皆空 度一切苦厄」
五蘊を皆〝空(空っぽ)〟とみなす。(五蘊を空じる)ことで、一切の苦しみや災いから抜け出すことが出来ました。
ここでの「空」は、形容詞と動詞の二つの意味を含んでいます。しかしここで大事な事はそんな事ではないんです。「観音さまの場合は」ということで、我々凡夫は肉体を備えておりますので五蘊は普通に働きます。
その「但空」について、少々お話しさせて頂きます。
その前に、とある掲示板で禅宗の方が大変おもしろい事を言っておりましたのでご紹介いたします。わたしがその禅宗の禅さんに、
「五蘊を空じている人がどうして画面の文字が読み取れるんですか?」
と尋ねましたら、
「それは画面を認識してるからに決まっているでしょう!」
と言われまして、
「認識という作用が五蘊の働きなのですが、、、。」と突っ込みますと、
今度は、
「そもそも五蘊は空なんだから、実体なんて生じもしなければ滅しもしません!」
とこれまたおかしな事を言ってこられます。
そもそも「五蘊は空なんだから」とは、一体彼は五蘊をなんだと思っておられるのやら、、、、。
五蘊は人間が外の情報を五感で感知し、それを意識が経験値として脳に記憶し「概念」として構築していく働きを言います。その五蘊がもとから「空っぽ」だと禅さんは言いわれます。
それは人間には「概念」は存在しないと言っているのと同じ事になります。
人間はさまざまなモノを概念化する事で、様々なモノを「実体」として認識します。
目の前のテーブル、コップ、パソコンといったモノを我々は概念によってテーブル、コップ、パソコンとして認識している訳です。
五蘊を「空じる」という事は、まず目を閉じてみて下さい。テーブル、コップ、パソコンは消えましたよね。これは眼識の働きを停止させたからモノの「色相」、即ち姿かたちが消滅した訳です。これを眼識を空じるといいます。同じように鼻識や舌識、耳識、身識を空じていくと人間の意識の働きは止滅していきます。これが色界禅定と言いまして、禅天に意識として入って行く瞑想法です。この禅定という瞑想を行う事で人間の五蘊の働きを完全に停止させる事が出来ます。
この瞑想をしない限り通常、人間はこの五蘊が働いてその働きによってモノを「実体」として認識します。
『般若心経』に「五蘊皆空」という文句がありまして、これは「全ての五蘊を空じる」といった意味なのですが、禅宗で「空」を学ばれておられる方は五蘊そのものが、もともと「空」としてあるものと教えられているようです。
「空」を何も無い「空っぽ」というモノの状態(形容詞)だと思っておられる訳です。
このような「空」の理解を空をたんなる「無」と解釈した「但空」と呼びます。
空を実体思想でしか理解出来なかった小乗仏教や禅宗に強く見られる傾向です。
「空」を形容詞だと思い込んでいる方がおられますが、「空を空じる」という有名な言葉がある事をご存知でしょうか。仏典では「空っぽ」という形容詞と「空にする」という動詞としての二種類の使われ方がなされております。
こちらのサイトに目を通して頂きたい。 空の思想史
↑より引用↓
空の思想を眺める前に、最初に理解しなければならないのは、空は概念として孤立(自立)していないということだろうか。わかりやすくいえば空は「空じる」という動作的な過程であらわれる意味であって、すなわち思惟であって、行為なのである。
また、こちらのサイトでも「空じる」行為として紹介されております。 空じる!
パソコンで見る場合表示画面を150%ぐらいにしてやると
とても見やすい。
広告も非表示に出来るんだー。
良い感じー。
そうしましたら、元コマンダーさんはこのように申されました。
「科学と宗教を分別しているのでは?」
しかし、私が言っているのは、
「科学的に見たら分別。 仏教的に見たら無分別。」
という事です。
それに対し、元コマンドーさんは
「否定はしない…! 反論すれば分別した事になる」
と申されました。中々お話が解る方だなと私は感心致しました。
そこえ、リダンさんが次のようなご意見を投稿されました。
「分別した凡夫からみた場合 個別に阿頼耶識があるように見えます。 それぞれの阿頼耶識が受信送信をおこない同期しているのか。
阿頼耶識があって、 分別した末那識がそれぞれの自我を形成しているのか。」
リダンさん、分別した凡夫を「通教の菩薩」と考えて見て下さい。
菩薩なので阿頼耶識を覚っています。しかし通教という「空」の理解(第二段階の理解)なので、個別に阿頼耶識があるように見えます。
そう考えて天台智顗の四門の料簡(観無量寿経の16観法)の内容を今一度ご確認ください。
14,観無量寿経(その5) https://butudou.livedoor.blog/archives/17944347.html
<通教の菩薩> 分別した凡夫からみた場合、 個別に阿頼耶識があるように見える。
<円教の菩薩> 分別しない凡夫からみた場合、 同体に阿頼耶識があるように見える。
空の三段階目の深い理解は、自我を完全に退治して起こる縁起(=空)です。自我を退治することで末那識がニュートラル状態になります。(サングラスを外した状態)これが三段階目の空っぽ、即ち空です。(末那識を空にする)
末那識を空にして阿頼耶識を因として起こす縁起、それが因果俱時で起きる縁起です。
現在・過去・未来の分別が起きませんので、今一瞬の出来事の中に、過去も未来も同時に同体で観じ取ります。
直感的に観じ取ります。わたしはそれを幾度となく経験してきております。(法介伝参照) この人なんか変だなーて観じた人は後々問題を起こしたり、この人なんか凄いと直感的に観じた人は、後世で偉大な功績を成しえたり、そういうのが直感的に観じ取れるようになっていきます。
高校時代、嫁さんと一緒に映画館に観に行きました。
嫁さんはサンディのような優等生でした!
もちろんグリースでバッチし決めてました!
高校1年の頃からサタディ・ナイト・フィーバーしてました。
映画の真似してソニーのウォークマンでレッツ・ダンシング!
法介はどこで踊ってたでしょう?
和尚の為にこれも貼っておこう。
これも絶対貼っておきたい。
取り合えず世良さん貼っとこ。
「南無妙法蓮華経」って究極の無為法だって知ってました?
曼荼羅を対境としてお題目を唱える行法は、直達正観の法華三昧です。
如是相=曼荼羅
如是性=法華経
如是体=お題目を唱える修行者
この三如是を本として「南・無・妙・法・蓮・華・経」の七是相を因として題目を三唱しますと空・仮・中の三諦が円融します。(十如是の三回読みと同じ意味)
「十如是」は縁起ではありません。当体の真実の姿です。
凡夫の「十如是」と仏の「十如是」と真如の「十如是」とでは、その内容がそれぞれに異なる。
凡夫の「十如是」=実在的要因(相が中心)← 量子力学的解釈
仏 の「十如是」=智慧的要因(性が中心)← 仏の空観的解釈
真如の「十如是」=真理的要因(体が中心)← 三身如来の真理
方便品の「十如是」は凡夫の「十如是」
「三・五の法門」が仏の「十如是」
虚空絵の内容が真如の「十如是」
<凡夫の「十如是」の相・性・体>(第六意識)
凡夫の仮=色即是空 --- ①(此縁性縁起)
凡夫の空=空即是色 --- ②(相依性縁起)
凡夫の中=色即是空 空即是色 --- ③(中道)
<仏の「十如是」の相・性・体>(第七末那識)
仏の仮=応身仏 --- a (此縁性縁起)
仏の空=報身仏 --- b (相依性縁起)
仏の中=法身仏 --- c (而二不二)
<如来の「十如是」の相・性・体>
如来の仮=応身如来 --- A
如来の空=報身如来 --- B
如来の中=法身如来 --- C
詳しくは後程。
この説明文を書かれた末法の「名ばかりの僧侶」さんは、
「十如是」を〝縁起〟だと勘違いしておられるんですね^^
「十如是」は無為法です。
以下、法華宗真門流HPの十如是の説明文より抜粋-------------
「如是力」とは潜在的な能力で、その能力を発揮する〝動作〟を「如是作」と言います。
「如是縁」とは善悪の〝動作が縁〟となることで
「如是果」とは、信仰心の有無により、自分の行って来た〝動作が善悪の結果を生む〟ことで
「如是報」とは、生前における信仰心の有無、善根功徳の有無による善悪の結果が、〝その報いとなって現れてくること〟です。
麦タンが張ってくれてる「法華宗真門流HPの十如是の説明文」の中に、
「如是体」とは、前の相と性を兼ね具えたもので、法身仏に配釈されています。「如是力」とは潜在的な能力で、その能力を発揮する動作を「如是作」と言います。そして、善悪の動作が直接原因となることを「如是因」と言います。「如是縁」とは善悪の動作が縁となることで、良縁によって幸せな人生を送る人もあれば、悪縁によって一生不幸に終る人もいます。世の中は全て「縁」が大切です。「如是果」とは、信仰心の有無により、自分の行って来た動作が善悪の結果を生むことで、「如是報」とは、生前における信仰心の有無、善根功徳の有無による善悪の結果が、その報いとなって現れてくることです。
とありますよね。
「十如是」って仏と仏にしか伝わらない「無為法」なんですね。
無為法なのになんで↓〝〟の部分が起こりますか?
思うんですけど、麦さんって毎度毎度、ホント良いタイミングでナイスな投稿をぶっこんで来てくれるんでとてもありがたいです。
麦タン、ありがとう^^
では今から末法の僧侶が如何に「名ばかり」であるかを立証して参ります。
と、ここで日蓮宗の麦さんからこんな投稿が入りました。(Talk 掲示板より)
法華宗真門流HPより
妙法蓮華経方便品第二 (二)
十如是について
法華経に、万物構造の原理として「十如是」が説かれています。「方便品」に、「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃(いま)し能く諸法の実相を究尽したまえり。」とあります。釈尊が甚深難解の法として説かれた「諸法実相」、すなわち宇宙間の全ての自然現象たる万物は、どのようにして創造され、絶えず変化しつつ向上し、また向下するか、その妙理法則を説明されたのが、「十如是」であります。「所謂諸法・如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」とあるように、如是が十ありますから「十如是」と呼んでいます。「如是」とは、ありのままということで、法則にかなうという意味です。
最初の「如是相」とは、現象界に存在するものは、どんなものでも長短方円・美醜の相(すがた)があって、凡夫の目にも見えますが、本仏釈尊は凡夫の目に見えない極小の世界や極大の世界、霊界の相(すがた)までも見透すことを言い、日蓮聖人は応身仏に配当されています。「如是性」とは心で、万物それ自体が具えている性質、持ち前の智恵を言い、報身仏に配されています。「如是体」とは、前の相と性を兼ね具えたもので、法身仏に配釈されています。「如是力」とは潜在的な能力で、その能力を発揮する動作を「如是作」と言います。そして、善悪の動作が直接原因となることを「如是因」と言います。「如是縁」とは善悪の動作が縁となることで、良縁によって幸せな人生を送る人もあれば、悪縁によって一生不幸に終る人もいます。世の中は全て「縁」が大切です。「如是果」とは、信仰心の有無により、自分の行って来た動作が善悪の結果を生むことで、「如是報」とは、生前における信仰心の有無、善根功徳の有無による善悪の結果が、その報いとなって現れてくることです。現世には、温厚篤実で信心深い人が不幸になり、強欲非道の人が栄えている場合もありますが、それは過去世の「報」によるのであります。
最後の「如是本末究竟等」とは、相・性・体の三如是が根本となって、末の力・作・因・縁・果・報を生むということで、この因果の法則は万人等しく逃れることができない、ということであります。日蓮聖人は『十如是事』(定2030縮202類658)に、
「我身が三身即一の本覚の如来にてありける事を、今経に説て云く、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文。初に如是相とは、我身の色形に顕れたる相を云也。是を応身如来とも、又は解脱とも又は仮諦とも云う也。次に如是性とは我心性を云う也。是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云う也。三に如是体とは、我此の身体也。是を法身如来とも、又は中道とも法性とも寂滅とも云也。されば、此三如是を三身如来とは云也。……此三如是を本として、これよりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成たる也。」 とご指南されています。
なお、「十如是」を三回読みますが、(1)如是相・如是性・如是体と読むのは仮諦の義、(2)是相如・是性如・是体如と読むのは、空諦の義、(3)相如是・性如是・体如是と読むのは中諦の義で、法華経の三諦不思議の妙理を顕しています。しかし、真読の場合は三回共(1)の読み方であります。
十界互具の妙法
次に「十界互具」についてご説明しましょう。
「十界」とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界です。法華経以前の方便の諸経にも、「十界」を説いておりますが、「十界互具」を説かれているのは法華経のみであります。
この世に存在する森羅万象を大別すると、「十界」となりますが、全て因果の法則によって、生かされて生きている不思議な存在ですから、「十法界」と言い、略して「十界」と呼んでいます。この十界の一界ごとに、他の九界を具えているから「百界」となります。そしてその百界の一つ一つに、「十如是」を具えていますので、「千如是」となります。更に千如是の一つ一つに、五蘊世間・衆生世間・国土世間という三種の世間を具えていますから、「三千世間」となります。世間とは世界という意味です。この三千世間が、本仏釈尊の「毎自作是念」の大慈悲の一念に包まれていますので、「一念三千」と呼んでいます。法華経には「十界互具」が説明されていますから、「妙法」と申します。妙法の経力によって、一切衆生が成仏できるという原理と可能性があることを、理論的・哲学的に述べたものを「理の一念三千」と呼び、私達末法の一切衆生が、理論だけでなく、成仏が事実となって顕れることを、「事の一念三千」のお題目と申します。
↑この意味分かります?
末法の僧侶は、「名ばかり」なので覚りを得ることはありません。その僧侶を守り育てる者が「無生法忍」の覚りを得ると経典には書かれているのです。
そして、『大集経』では次にホローが入ります。
この名ばかりの比丘は、仏教以外の九十五種のよこしまな教え(九十五種の外道の法)を信じるものにくらべたなら、もっとも尊いものである。すなわち世間から供養を受けるべきものであり、世の人々にとって最初に福田になるものなのである。なぜなら、本当に恐れるべきことは何かを人々に示すことができるからである。名ばかりの比丘であっても、その比丘を安らかに護り育てるものは、やがて無生法忍の覚りを得るであろう」
と。
で、最澄さんは次のような譬え話しを始めます。
答えていう。『大集経』の第九巻に、次のように説かれている。
「たとえば金を最上の宝とするようなものである。もし金がなければ銀を最上の宝とする。もし銀もなければ真鍮などのいつわりの宝を最上の宝とする。もしいつわりの宝もなければ赤銅・白銅・鉄・白蝋・鉛を最上の宝とする。このようなものを世間では宝というが、仏の教えこそ最も尊い宝なのである。もし仏がおらなければ、縁覚をもっとも尊いものとする。もし縁覚もいなければ、阿羅漢をもっとも尊いものとする。もし阿羅漢もいなければ、阿羅漢に達する前の聖者たちを最も尊いものとする。もしその聖者たちもいなければ、禅定を得た凡夫を最も尊いものとする。もし禅定を得た凡夫もいなければ、清らかに戒律をたもつ比丘を最も尊いものとする。もし清らかに戒律をたもつ比丘もいなければ、戒律を破る比丘をもっとも尊いものとする。もし戒律を破る比丘もいなければ、髪を剃って袈裟を身に着けただけの名ばかりの比丘を最も尊い宝とする。
『大集経』って、そこまで言うのね^^
これを聞いた問者が、
問うていう。正法と像法と末法の僧侶のあり方は、すでに多くの経典に説かれている。末法の時代の名ばかりの比丘をこの世のまことの宝とするということは、経典に説かれていることなのか。
と、びっくりこいて、
「おいおい、そんな名ばかりの僧侶であっても末法では宝として崇めろと経典には説かれているのか!」
と聞きたくもなりますよね。
「比丘」とはみんさんご存知のように出家して修行を積んだ僧侶のことです。
最澄さんは、
「末法の時代にあっては名ばかりの僧侶しかいない!」
と、言いきり
もし末法の時代に戒律を守る僧侶が居たとしたら
「町中に虎がいるようなもので、ちゃんちゃらおかいいわ!」
「そんなおかしな話、誰が信じるものか!」
みたいな事を言っておられる訳です^^
負けん気が強いのか、最澄さんは更にこう言い放つ!
答えていう。そうではない。正法と像法と末法の時代における僧侶のあり方はすべて、さまざまな経典に説かれている。出家のものも在家のものもみなこれを読んでいるのであり、どうして自分のよこしまな生活をむさぼり求めて、国をたもる正しい教えを隠すことなどできようか。ただし、今論じているのは末法の時代であり、名ばかりの比丘しかいないのである。この名ばかりの比丘をこの世のまことの宝とする。そしてこれを福田とするのである。もし末法の時代に戒律をたもつものがいるというなら、それこそおかしなことであって、町中に虎がいるようなものである。だれがこれを信じるであろうか。
それに対し問者が「末法の時代」についてこのように鋭く問い返す。
問うていう。さまざまな経や律では、戒律を破るものをきびしく制し、教団に入ることを許していない。戒律を破るものでさえこの通りであり、まして無戒のものはいうまでもないことである。ところが今あらためて末法の時代について論じ、末法には戒律がないという。しかし教団の中にもとより無戒のものはいないのだから、それについて論じるのは、傷もないのに傷ついているというようなものではないか。
さらに『末法灯明記』で伝教大師は問者に対し次のように答えます。
問うていう。そうであれば、今はどの時代にあたるか。
答えていう。釈尊の入滅された年代には多くの説があるけれども、とりあえず二つの説をあげる。一つには法上師などの説であるり、『周書異記』によって、釈尊は周の第五代穆王満の五十三年に入滅されたとする。この説にしたがえば、その年からわが国の延暦二十年(※西暦801年)に至るまで千七百五十年を経ている。二つには費長房などの説であり、魯の『春秋』によって、釈尊は周の第二十代匡王班四年に入滅されたとする。この説にしたがえば、その年からわが国の延暦二十年に至るまで千四百十年を経ているから、今は像法の時代の最後にあたる。
そして最澄(伝教大師)さんは、ここから衝撃的な事を語りだします。
像法の最後の時の僧侶のあり方はすでに末法と同じである。すなわち末法の時代であれば、ただ仏の説かれた言葉が残っているだけで、行もなくさとりもない。もし戒律があるのならその戒律を破るということもあり得る。しかし末法の時代にはすでにたもつべき戒律がないのに、いったいどの戒律を破ることで戒律を破ったといえるものであろうか。戒律を破ることすらないのに、まして戒律をたもつことなどあるはずもない。だから『大集経』には、
「仏の入滅後、たもつべき戒律を持たない無戒のものが世の中に満ちあふれるであろう」
と説かれているのである。
さらに『末法灯明記』には次のような事がかかれております。
『摩訶摩耶経』によれば、
「仏の入滅後、はじめの五百年は、摩訶迦葉などの七人の聖者が次々に仏の教えをたもち、失われることはないが、五百年の後には、正しい仏の教えがなくなってしまうであろう。六百年になると、仏教以外の九十五種の教えがはびこるが、馬鳴菩薩が世に現れて、それらの誤った教えを打ち破るであろう。七百年には、龍樹菩薩が世に現れてよこしまな考えを打ち砕くであろう。八百年には、比丘がほしいままに振る舞い、わずかに一人二人し覚りを得るものがいなくなるであろう。九百年には、比丘や比丘尼を召使いのように見て軽んじるであろう。千年には、不浄観が説かれると、怒って聞こうとしないであろう。千百年には、僧侶も妻や夫を持ち、戒律を謗るであろう。千二百年には、僧侶の多くは子供を持つであろう。千三百年には、僧侶の袈裟が在家のものの衣服のように白くなるであろう。千四百年には、出家のものも在家のものも、仏弟子でありながら殺生をするようになり、三宝の財物さえ売り払うであろう。千五百年には、拘セン弥国にいる二人の僧が互いの是非を争い、ついには殺し合うであろう。このため仏の教えはこの世から消え去り、竜宮の宮殿に隠れてしまうのである」
と説かれている。これらによれば、千五百年の後には戒律も禅定も智慧もなくなってしまっているのである。だから『大集経』の第五十一巻に、
「わたしが世を去った後、最初の五百年間は、多くの比丘たちはわたしが説いたままに行を修めて覚りを得ることが確かであろう。次の五百年間は、禅定を修めることが盛んであろう。次の五百年間は、多くの教えを聞くことが盛んであろう。次の五百年間は、寺をつくることが盛んであろう。最後の五百年間は、争いが盛んになり、仏の教えはこの世から姿を消してしまうであろう」
と説かれているのである。これは、はじめの三つの五百年間は、時の経過にしたがいながら、戒律と禅定と智慧の三つが確かにたもたれるということである。すなわち先に引いた説の、正法五百年、像法千年という二つの時代にあたる。次の、寺をつくることが盛んな時代から後は、すべて末法である。だから窺基の『金剛般若会釈』に、
「正法の時代は五百年間、像法の時代は千年であって、この千五百年の後には仏の教えはなくなってしまう」
といっているのである。これにより、釈尊の入滅から千五百年を経た後は、末法の時代であることがわかる。
お釈迦さまは「空」を『無我』という角度から説きました。
お釈迦様=人間の空・仮・中(三観)--- 欲界
龍樹は「空」を『中論』で展開しました。
龍 樹 =仏 の空・仮・中(三諦)--- 色界
そして世親が「空」を『唯識』で説きました。
世 親 =如来の空・仮・中(三身)--- 無色界
この三者が説いた「空」はそれぞれ次のような「空」になります。
お釈迦様の空=第六意識を空じる空 (実体視の消滅)
龍 樹 の空=縁起という仏の視点に立つ空(縁起=空)
世 親 の空=第七末那識の自我を空じる空(法空)
では早速、法華経が説かれた意味についてお話を始めて参ります。
仏教では正法・像法・末法と言ういわゆる「三時」という三つの時代区分が説かれているのをご存知でしょうか。
お釈尊様が入滅されて時代が移り変わって行くうちに、次第に仏教が衰退し末法に至っては『大集経』に「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」と記されておりまして、お釈迦さまが説かれた教えはこの世から姿を消してしまうであろうと言われております。
伝教大師の『末法灯明記』にその事が次のように書かれております。
わたしが世を去った後、最初の五百年間は、多くの比丘たちはわたしが説いたままに行を修めてさとりを得ることが確かであろう。(ここでは初果を得ることをさとりという) 次の五百年間は、禅定を修めることが盛んであろう。次の五百年間は、多くの教えを聞くことが盛んであろう。次の五百年間は、寺をつくることが盛んであろう。最後の五百年間は、争いが盛んになり、仏の教えはこの世から姿を消してしまうであろう。(現代語訳)
ここはyahooの『知恵袋』での質問の総括として質問終了後に書かせて頂きます。
ほ~『法華経』の第一回目は、法華経が説かれた意味について、まずお話したいと思います。
と、その前に
「法華経って釈迦が説いた経典じゃないってネットで聞きましたよー!」
って言う方が必ずおられますので、yahooの『知恵袋』で次のような質問を立ててみました。
yahooの『知恵袋』~
『法華経』についてお尋ねします。
『法華経』は仏説ですか?
それとも仏説ではありませんか?
皆さんのご意見をお聞かせください。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13284418203
仏教は言葉の概念から離れて、主観に意識を持っていき、更にその凡夫の主観を空じる事で「仏の空観」に意識として入って行きます。空はその「空観」に入る為の理論として説かれた教えです。
「析空」や「体空」は凡夫の「主観と客観」から起こる縁起で『般若心経』で説かれている「色即是空」と「空即是色」がそれを言い現わしております。この主観と客観という二観でモノを見ることで正しく対象となるモノを認識出来ます。この二観でのモノの見方を「中観」といいます。
<凡夫の〝観〟としての空・仮・中>
客観「色即是空」--- 此縁性縁起(仮観)
主観「空即是色」--- 相依性縁起(空観)
中観「色即是空 空即是色」 (中観)
この凡夫の〝観〟に対し仏の〝諦〟という言葉が仏教では用いられます。〝あきらかにする〟と言った意味での〝諦〟です。実は『般若心経』の「色即是空 空即是色」という文句はこの凡夫の三観を言ったもので、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の三種の不不が「仏の三諦」を示しております。先に説明しました「不生不滅」も「不垢不浄」も五蘊が働かない肉体から解脱して意識として存在している仏の「此縁性縁起」と「相依性縁起」のお話です。
<仏の〝諦〟としての空・仮・中>
仮諦「不生不滅」--- 析空による縁起(応身の釈迦)
空諦「不垢不浄」--- 体空による縁起(報身の釈迦)
中諦「不増不減」--- 法空による縁起(法身の釈迦)
その三種の不不の最後の「不増不減」(増えることも減ることもない)の意味するところを今からお話致します。
析空で理解する「空」は、モノの状態の「有る無し」を論じます。科学の水のお話を考えてみてください。水が液体として「有る」状態。分解して気体となって見えなくなった(無い)状態。車がの姿が「有る」状態。パーツ化して車の姿が無くなった状態。テーブルにしても然り。
このような「空」の初歩の理解で宗教を展開しているのが学者さんから仏教を学んでいるこういった宗派です。
東福寺公開講座 『仏教講座』第5回
動画の終わりの方で講師の花園大学名誉教授の沖本克己先生が、
「禅宗では『般若心経』はまじめに取り扱っておりません」とか
「空でなんにも無い、なんにも無いと言っているだけす」などと
大変おかしな事を言っておられます。
そもそも仏教学の学者さんは、仏教を学術的に研究されておられる学者さん達です。学術なので皆が納得しうる客観性に軸をおいた論証となります。ここで言う客観性が何を指すか分かりますか。
文献が残っているかとか、経典のどこにその言葉が示されているかといった誰もが納得しうる根拠です。しかし仏教ではこの「言葉」から離れる事をまず教えられます。なぜならこの「言葉」という概念によって様々な「実体」が立ち上がって見えてくるからです。
初期仏典で説かれた「無我」ですが、自我意識(第六意識)を形成する元となる五蘊の働きを完全に止滅させる事で「無我」の境地に入ります。自分という者が存在しないとか言ってるのではありません。五蘊の働きを空じることで自我意識(第六意識)が働かない境地へ禅定で入る事を説いているのです。
普通の人には五蘊は当たり前の事として働いています。
だって自分の頬を思いっきりつねってみて下さい。
「痛くな~い! ぜんぜん痛くな~いですよ!」って人居られますか?
次に二番目の「不垢不浄」(汚いことも綺麗なこともない)について説明します。
これは最初の「不生不滅」(生じることも滅することもない)が実体に即した真理なのに対し、実体の姿、即ち「色相」から離れて心の変化で起こる「相依性縁起」を意味します。心である「性」を因として起こる縁起です。
綺麗だとか汚いって誰が決めるでしょう?
それは個人の主観の問題です。
大好きな人と過ごす時間はあっという間に過ぎますが、大っ嫌いな上司の説教はとても長がーーーーーく観じます。同じ一時間であっても長く感じたり短くかんじたりします。
リンゴを「美味しい!」と好んで食べる人も居れば、「こんなのまずくて食えない!」といって食べない人も居られます。
坂道を上から見下ろせば「下り坂」ですが、下に居る人達から見たら「上り坂」です。
見る人、味わう人、感じる人が変わればその対象のモノの有り方もまた異なってきます。そういった相互関係によって生じる縁起を「相依性縁起」と言います。龍樹が『中論』で詳しく解き明かした内容で空の更に踏み入った深い理解です。
「空」をモノの状態と思い込んでいる上座部の人達は「主体は有りません!」といい、禅宗の人達は「実体は有りません!」と激しく主張されます。「空」をモノの状態の「有る」とか「無い」といった形容詞として理解している訳ですが、このような空の理解は「析空」の特徴の一つでもあります。
そういった〝状態〟としてのモノのあり様を捉える客観認識法(実在法)とは違って、相依性で起こる縁起は、モノのあり様ではなく、それを見ている人物の心のあり様を中心として起こる心の変化、即ち主観として起こる縁起となります。この「相依性縁起」は体感を空じる「空」なので「体空」といいます。
此縁性縁起=析空(客観)
相依性縁起=体空(主観)
龍樹は『中論』の中で、実はもう一つ大事な縁起を解き明かしております。しかしその内容を読み取れなかったのが昭和の仏教学界の権威と称されたかの中村 元大先生です。
中村先生は龍樹の「空理」をこの2種の縁起までしか読み取れなかった為、龍樹を二諦論者と誤った見解を世に弘めてしまいました。
実はこの「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の三つの不不からなる文句の意味するところ、おそらくその仏の深意を読み取った学者は未だ一人として居られないかと思われます。もし居られましたら教えて頂きたい。
経典というのは境涯で読み取るものなんですけど、仏門に入りながらも未だ実体思想から抜けきらないでいる「声聞」という境涯は、実体を形成する「言葉」にしきりに執着してやむことがありません。その良い例がここでの禅さんのこういった発言です。
「照見五蘊皆空」は、「五蘊は皆空なりと照見して」と読み下しますがそれを現代語訳しますと「 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。」となります。つまり、ここでは「照見」が動詞として、「空」は形容詞として使われています。対してもし「空」が動詞として使われるのなら、空五蘊(五蘊を空じる)とならなければなりません。中国語を習った人には常識ですが、動詞が先に来るのです。
経典を文法的にしか読まれておられません。仏が云わんとされている奥深いその深意を全く読み取る気概の欠片も感じられません。ただただ文法のお遊びを楽しんでいるとしか思えない、、、。
お釈迦様は涅槃に入られる直前に『涅槃経』を説かれますが、その中の四依品では、釈迦亡き後、仏の法を正しく習得していく術として大事な四項目が「法四依」として示されております。
依義不依語(義に依りて語に依らざれ)
依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)
依法不依人(法に依りて人に依らざれ)
この仏が遺言として残された大事な指針を無視して真実の仏の教えの習得はあり得ません。その第一項の依義不依語(義に依りて語に依らざれ)の意味するところは、言葉に捉われるのでは無く、その意味するところを深く考えていきなさいという教訓です。やれパーリだのサンスクリットだのと原典こそがお釈迦様の深意だとか声だかに叫んでおられる方々がおられますが、そういうのを愚の骨頂と言うのです。
仏教が何たるかを全く解っておられない、、、、、。
ここで示されている不不からなる三つの言葉は、実は大変重要な意味を含んでおります。まず最初の「不生不滅」、すなわち生じることも滅することもないというのは、「此縁性縁起」を意味しております。
「生じることも滅することもない」、だから仏とは永遠不滅なんだと単純でおバカな発想に走った愚かな仏道修行者がどれだけ続出したことか、、、、。
良く「空」を説明するのに、「車をパーツに分解したら車の姿は無くなります」とか、「テーブルの脚を外したら天板と棒になってテーブルは消滅します」とか言いますよね。様々な構成要素が因縁仮和合し仮の姿として存在している(仮設)と説く縁起の法門です。それを科学的学術論証で言うならば、水は科学分解して水素と酸素になったらその液体としての姿を消し、気体として目には見えない存在として空気中に漂う。しかし再び結合すれば水となり氷点下まで冷やしたら今度は氷と成って個体化する。「この物質のあり様を〝空〟と言う」と成ります。
しかしこれは「空」の初歩的な理解でして、こういった細かく細分化してそのモノの本質に迫る見方を「析空」といいます。時間の流れの中でモノの状態の変化をつぶさに観察する事で証明される物質の時間にともなう変化を捉えた科学や物理でいうところの学術論証です。(実体に即した真理)
これを仏教では『阿含経典』の中で「此縁性縁起」として解き明かされております。「此れある時、彼有り」といった表現でモノが縁によってそのあり様が変化していくといった実体における真理を説いた教えです。その此縁性縁起にあっては、モノは構成要素が集まったり分離することでそのあり様を変化させるがその構成要素が減ったり生じたりしている訳では無く、因縁仮和合しているに過ぎません。
もう一度言います。
「生じたり滅したり」している訳ではありません。
「舎利子 是諸法空相」
(舎利子、この諸法の空相(空の世界観)は、)
「不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識」
(生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。故に、空観においては、色相もなく、受想行識も働かない。)
ここでも最初に「是諸法空相」(この諸法の空相(空の世界観)は、)とはっきりと言われております。
そして次の文句も多くの方が勘違いされている箇所です。「生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。」これをもって生じることも滅することもないんだから空を「無」なんだと勘違いしている人が一杯おられます。しかし、ここで言う「生じることも滅することもない」の意味は、そんな事ではないんです。
すると今度はこんな事を彼は言い出します。
「モニターは様々な構成要素が因縁仮和合してるのだし、それを認識する者も等しく因縁仮和合しているのだから、実体は無いんです!」
構成要素が因縁仮和合してモニターがそこに存在していて、それを人間が五蘊の働きで認識し、概念でもってモニターとして認識されます。未だモニターという概念の無い一歳児が見てもそこにはモニターは存在しません。それ自体は有るんですが、モニターとして認識されないと考えるのが正しい「空」の理解です。
そもそも「空」を説く『般若心経』では、最初に
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」
(観音さまは智恵の完成の修行を極められ、それを行う時)
って言っておられまして、これって観音さまのお話なんですね。観音さまって肉体って備わっていると思いますか?
解脱してますので肉体はありません。なので五蘊も当然のように働きません。
ですから
「照見五蘊皆空 度一切苦厄」
五蘊を皆〝空(空っぽ)〟とみなす。(五蘊を空じる)ことで、一切の苦しみや災いから抜け出すことが出来ました。
ここでの「空」は、形容詞と動詞の二つの意味を含んでいます。しかしここで大事な事はそんな事ではないんです。「観音さまの場合は」ということで、我々凡夫は肉体を備えておりますので五蘊は普通に働きます。
その「但空」について、少々お話しさせて頂きます。
その前に、とある掲示板で禅宗の方が大変おもしろい事を言っておりましたのでご紹介いたします。わたしがその禅宗の禅さんに、
「五蘊を空じている人がどうして画面の文字が読み取れるんですか?」
と尋ねましたら、
「それは画面を認識してるからに決まっているでしょう!」
と言われまして、
「認識という作用が五蘊の働きなのですが、、、。」と突っ込みますと、
今度は、
「そもそも五蘊は空なんだから、実体なんて生じもしなければ滅しもしません!」
とこれまたおかしな事を言ってこられます。
そもそも「五蘊は空なんだから」とは、一体彼は五蘊をなんだと思っておられるのやら、、、、。
五蘊は人間が外の情報を五感で感知し、それを意識が経験値として脳に記憶し「概念」として構築していく働きを言います。その五蘊がもとから「空っぽ」だと禅さんは言いわれます。
それは人間には「概念」は存在しないと言っているのと同じ事になります。
人間はさまざまなモノを概念化する事で、様々なモノを「実体」として認識します。
目の前のテーブル、コップ、パソコンといったモノを我々は概念によってテーブル、コップ、パソコンとして認識している訳です。
五蘊を「空じる」という事は、まず目を閉じてみて下さい。テーブル、コップ、パソコンは消えましたよね。これは眼識の働きを停止させたからモノの「色相」、即ち姿かたちが消滅した訳です。これを眼識を空じるといいます。同じように鼻識や舌識、耳識、身識を空じていくと人間の意識の働きは止滅していきます。これが色界禅定と言いまして、禅天に意識として入って行く瞑想法です。この禅定という瞑想を行う事で人間の五蘊の働きを完全に停止させる事が出来ます。
この瞑想をしない限り通常、人間はこの五蘊が働いてその働きによってモノを「実体」として認識します。
『般若心経』に「五蘊皆空」という文句がありまして、これは「全ての五蘊を空じる」といった意味なのですが、禅宗で「空」を学ばれておられる方は五蘊そのものが、もともと「空」としてあるものと教えられているようです。
「空」を何も無い「空っぽ」というモノの状態(形容詞)だと思っておられる訳です。
このような「空」の理解を空をたんなる「無」と解釈した「但空」と呼びます。
空を実体思想でしか理解出来なかった小乗仏教や禅宗に強く見られる傾向です。
「空」を形容詞だと思い込んでいる方がおられますが、「空を空じる」という有名な言葉がある事をご存知でしょうか。仏典では「空っぽ」という形容詞と「空にする」という動詞としての二種類の使われ方がなされております。
こちらのサイトに目を通して頂きたい。
空の思想史
↑より引用↓
空の思想を眺める前に、最初に理解しなければならないのは、空は概念として孤立(自立)していないということだろうか。わかりやすくいえば空は「空じる」という動作的な過程であらわれる意味であって、すなわち思惟であって、行為なのである。
また、こちらのサイトでも「空じる」行為として紹介されております。
空じる!
パソコンで見る場合表示画面を150%ぐらいにしてやると
とても見やすい。
広告も非表示に出来るんだー。
良い感じー。
そうしましたら、元コマンダーさんはこのように申されました。
「科学と宗教を分別しているのでは?」
しかし、私が言っているのは、
「科学的に見たら分別。
仏教的に見たら無分別。」
という事です。
それに対し、元コマンドーさんは
「否定はしない…!
反論すれば分別した事になる」
と申されました。中々お話が解る方だなと私は感心致しました。
そこえ、リダンさんが次のようなご意見を投稿されました。
「分別した凡夫からみた場合
個別に阿頼耶識があるように見えます。
それぞれの阿頼耶識が受信送信をおこない同期しているのか。
阿頼耶識があって、
分別した末那識がそれぞれの自我を形成しているのか。」
リダンさん、分別した凡夫を「通教の菩薩」と考えて見て下さい。
菩薩なので阿頼耶識を覚っています。しかし通教という「空」の理解(第二段階の理解)なので、個別に阿頼耶識があるように見えます。
そう考えて天台智顗の四門の料簡(観無量寿経の16観法)の内容を今一度ご確認ください。
14,観無量寿経(その5)
https://butudou.livedoor.blog/archives/17944347.html
<通教の菩薩>
分別した凡夫からみた場合、
個別に阿頼耶識があるように見える。
<円教の菩薩>
分別しない凡夫からみた場合、
同体に阿頼耶識があるように見える。
空の三段階目の深い理解は、自我を完全に退治して起こる縁起(=空)です。自我を退治することで末那識がニュートラル状態になります。(サングラスを外した状態)これが三段階目の空っぽ、即ち空です。(末那識を空にする)
末那識を空にして阿頼耶識を因として起こす縁起、それが因果俱時で起きる縁起です。
現在・過去・未来の分別が起きませんので、今一瞬の出来事の中に、過去も未来も同時に同体で観じ取ります。
直感的に観じ取ります。わたしはそれを幾度となく経験してきております。(法介伝参照)
この人なんか変だなーて観じた人は後々問題を起こしたり、この人なんか凄いと直感的に観じた人は、後世で偉大な功績を成しえたり、そういうのが直感的に観じ取れるようになっていきます。