わたくし、法介が『法華経』を解りやすく、そして染み入る様に明日のジョーの如く「語るべし!語るべし!語るべし!」^^
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法介
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負けん気が強いのか、最澄さんは更にこう言い放つ!
答えていう。そうではない。正法と像法と末法の時代における僧侶のあり方はすべて、さまざまな経典に説かれている。出家のものも在家のものもみなこれを読んでいるのであり、どうして自分のよこしまな生活をむさぼり求めて、国をたもる正しい教えを隠すことなどできようか。ただし、今論じているのは末法の時代であり、名ばかりの比丘しかいないのである。この名ばかりの比丘をこの世のまことの宝とする。そしてこれを福田とするのである。もし末法の時代に戒律をたもつものがいるというなら、それこそおかしなことであって、町中に虎がいるようなものである。だれがこれを信じるであろうか。
「比丘」とはみんさんご存知のように出家して修行を積んだ僧侶のことです。
最澄さんは、
「末法の時代にあっては名ばかりの僧侶しかいない!」
と、言いきり
もし末法の時代に戒律を守る僧侶が居たとしたら
「町中に虎がいるようなもので、ちゃんちゃらおかいいわ!」
「そんなおかしな話、誰が信じるものか!」
みたいな事を言っておられる訳です^^
これを聞いた問者が、
問うていう。正法と像法と末法の僧侶のあり方は、すでに多くの経典に説かれている。末法の時代の名ばかりの比丘をこの世のまことの宝とするということは、経典に説かれていることなのか。
と、びっくりこいて、
「おいおい、そんな名ばかりの僧侶であっても末法では宝として崇めろと経典には説かれているのか!」
と聞きたくもなりますよね。
で、最澄さんは次のような譬え話しを始めます。
答えていう。『大集経』の第九巻に、次のように説かれている。
「たとえば金を最上の宝とするようなものである。もし金がなければ銀を最上の宝とする。もし銀もなければ真鍮などのいつわりの宝を最上の宝とする。もしいつわりの宝もなければ赤銅・白銅・鉄・白蝋・鉛を最上の宝とする。このようなものを世間では宝というが、仏の教えこそ最も尊い宝なのである。もし仏がおらなければ、縁覚をもっとも尊いものとする。もし縁覚もいなければ、阿羅漢をもっとも尊いものとする。もし阿羅漢もいなければ、阿羅漢に達する前の聖者たちを最も尊いものとする。もしその聖者たちもいなければ、禅定を得た凡夫を最も尊いものとする。もし禅定を得た凡夫もいなければ、清らかに戒律をたもつ比丘を最も尊いものとする。もし清らかに戒律をたもつ比丘もいなければ、戒律を破る比丘をもっとも尊いものとする。もし戒律を破る比丘もいなければ、髪を剃って袈裟を身に着けただけの名ばかりの比丘を最も尊い宝とする。
『大集経』って、そこまで言うのね^^
そして、『大集経』では次にホローが入ります。
この名ばかりの比丘は、仏教以外の九十五種のよこしまな教え(九十五種の外道の法)を信じるものにくらべたなら、もっとも尊いものである。すなわち世間から供養を受けるべきものであり、世の人々にとって最初に福田になるものなのである。なぜなら、本当に恐れるべきことは何かを人々に示すことができるからである。名ばかりの比丘であっても、その比丘を安らかに護り育てるものは、やがて無生法忍の覚りを得るであろう」
と。
↑この意味分かります?
末法の僧侶は、「名ばかり」なので覚りを得ることはありません。その僧侶を守り育てる者が「無生法忍」の覚りを得ると経典には書かれているのです。
と、ここで日蓮宗の麦さんからこんな投稿が入りました。(Talk 掲示板より)
法華宗真門流HPより
妙法蓮華経方便品第二 (二)
十如是について
法華経に、万物構造の原理として「十如是」が説かれています。「方便品」に、「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃(いま)し能く諸法の実相を究尽したまえり。」とあります。釈尊が甚深難解の法として説かれた「諸法実相」、すなわち宇宙間の全ての自然現象たる万物は、どのようにして創造され、絶えず変化しつつ向上し、また向下するか、その妙理法則を説明されたのが、「十如是」であります。「所謂諸法・如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」とあるように、如是が十ありますから「十如是」と呼んでいます。「如是」とは、ありのままということで、法則にかなうという意味です。
最初の「如是相」とは、現象界に存在するものは、どんなものでも長短方円・美醜の相(すがた)があって、凡夫の目にも見えますが、本仏釈尊は凡夫の目に見えない極小の世界や極大の世界、霊界の相(すがた)までも見透すことを言い、日蓮聖人は応身仏に配当されています。「如是性」とは心で、万物それ自体が具えている性質、持ち前の智恵を言い、報身仏に配されています。「如是体」とは、前の相と性を兼ね具えたもので、法身仏に配釈されています。「如是力」とは潜在的な能力で、その能力を発揮する動作を「如是作」と言います。そして、善悪の動作が直接原因となることを「如是因」と言います。「如是縁」とは善悪の動作が縁となることで、良縁によって幸せな人生を送る人もあれば、悪縁によって一生不幸に終る人もいます。世の中は全て「縁」が大切です。「如是果」とは、信仰心の有無により、自分の行って来た動作が善悪の結果を生むことで、「如是報」とは、生前における信仰心の有無、善根功徳の有無による善悪の結果が、その報いとなって現れてくることです。現世には、温厚篤実で信心深い人が不幸になり、強欲非道の人が栄えている場合もありますが、それは過去世の「報」によるのであります。
最後の「如是本末究竟等」とは、相・性・体の三如是が根本となって、末の力・作・因・縁・果・報を生むということで、この因果の法則は万人等しく逃れることができない、ということであります。日蓮聖人は『十如是事』(定2030縮202類658)に、
「我身が三身即一の本覚の如来にてありける事を、今経に説て云く、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文。初に如是相とは、我身の色形に顕れたる相を云也。是を応身如来とも、又は解脱とも又は仮諦とも云う也。次に如是性とは我心性を云う也。是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云う也。三に如是体とは、我此の身体也。是を法身如来とも、又は中道とも法性とも寂滅とも云也。されば、此三如是を三身如来とは云也。……此三如是を本として、これよりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成たる也。」 とご指南されています。
なお、「十如是」を三回読みますが、(1)如是相・如是性・如是体と読むのは仮諦の義、(2)是相如・是性如・是体如と読むのは、空諦の義、(3)相如是・性如是・体如是と読むのは中諦の義で、法華経の三諦不思議の妙理を顕しています。しかし、真読の場合は三回共(1)の読み方であります。
十界互具の妙法
次に「十界互具」についてご説明しましょう。
「十界」とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界です。法華経以前の方便の諸経にも、「十界」を説いておりますが、「十界互具」を説かれているのは法華経のみであります。
この世に存在する森羅万象を大別すると、「十界」となりますが、全て因果の法則によって、生かされて生きている不思議な存在ですから、「十法界」と言い、略して「十界」と呼んでいます。この十界の一界ごとに、他の九界を具えているから「百界」となります。そしてその百界の一つ一つに、「十如是」を具えていますので、「千如是」となります。更に千如是の一つ一つに、五蘊世間・衆生世間・国土世間という三種の世間を具えていますから、「三千世間」となります。世間とは世界という意味です。この三千世間が、本仏釈尊の「毎自作是念」の大慈悲の一念に包まれていますので、「一念三千」と呼んでいます。法華経には「十界互具」が説明されていますから、「妙法」と申します。妙法の経力によって、一切衆生が成仏できるという原理と可能性があることを、理論的・哲学的に述べたものを「理の一念三千」と呼び、私達末法の一切衆生が、理論だけでなく、成仏が事実となって顕れることを、「事の一念三千」のお題目と申します。
思うんですけど、麦さんって毎度毎度、ホント良いタイミングでナイスな投稿をぶっこんで来てくれるんでとてもありがたいです。
麦タン、ありがとう^^
では今から末法の僧侶が如何に「名ばかり」であるかを立証して参ります。
麦タンが張ってくれてる「法華宗真門流HPの十如是の説明文」の中に、
「如是体」とは、前の相と性を兼ね具えたもので、法身仏に配釈されています。「如是力」とは潜在的な能力で、その能力を発揮する動作を「如是作」と言います。そして、善悪の動作が直接原因となることを「如是因」と言います。「如是縁」とは善悪の動作が縁となることで、良縁によって幸せな人生を送る人もあれば、悪縁によって一生不幸に終る人もいます。世の中は全て「縁」が大切です。「如是果」とは、信仰心の有無により、自分の行って来た動作が善悪の結果を生むことで、「如是報」とは、生前における信仰心の有無、善根功徳の有無による善悪の結果が、その報いとなって現れてくることです。
とありますよね。
「十如是」って仏と仏にしか伝わらない「無為法」なんですね。
無為法なのになんで↓〝〟の部分が起こりますか?
以下、法華宗真門流HPの十如是の説明文より抜粋-------------
「如是力」とは潜在的な能力で、その能力を発揮する〝動作〟を「如是作」と言います。
「如是縁」とは善悪の〝動作が縁〟となることで
「如是果」とは、信仰心の有無により、自分の行って来た〝動作が善悪の結果を生む〟ことで
「如是報」とは、生前における信仰心の有無、善根功徳の有無による善悪の結果が、〝その報いとなって現れてくること〟です。
この説明文を書かれた末法の「名ばかりの僧侶」さんは、
「十如是」を〝縁起〟だと勘違いしておられるんですね^^
「十如是」は無為法です。
「十如是」は縁起ではありません。当体の真実の姿です。
凡夫の「十如是」と仏の「十如是」と真如の「十如是」とでは、その内容がそれぞれに異なる。
凡夫の「十如是」=実在的要因(相が中心)← 量子力学的解釈
仏 の「十如是」=智慧的要因(性が中心)← 仏の空観的解釈
真如の「十如是」=真理的要因(体が中心)← 三身如来の真理
方便品の「十如是」は凡夫の「十如是」
「三・五の法門」が仏の「十如是」
虚空絵の内容が真如の「十如是」
<凡夫の「十如是」の相・性・体>(第六意識)
凡夫の仮=色即是空 --- ①(此縁性縁起)
凡夫の空=空即是色 --- ②(相依性縁起)
凡夫の中=色即是空 空即是色 --- ③(中道)
<仏の「十如是」の相・性・体>(第七末那識)
仏の仮=応身仏 --- a (此縁性縁起)
仏の空=報身仏 --- b (相依性縁起)
仏の中=法身仏 --- c (而二不二)
<如来の「十如是」の相・性・体>
如来の仮=応身如来 --- A
如来の空=報身如来 --- B
如来の中=法身如来 --- C
詳しくは後程。
「南無妙法蓮華経」って究極の無為法だって知ってました?
曼荼羅を対境としてお題目を唱える行法は、直達正観の法華三昧です。
如是相=曼荼羅
如是性=法華経
如是体=お題目を唱える修行者
この三如是を本として「南・無・妙・法・蓮・華・経」の七是相を因として題目を三唱しますと空・仮・中の三諦が円融します。(十如是の三回読みと同じ意味)
yahoo知恵袋で『法華経』関連の質問をまた一つ立ててみた。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13284702188
竺法護訳の『正法華経』って現代語訳版って出版されているのかな、、、。
『法華経』の方便品で無為法として説かれているのが「十如是」なんですが、「十如是」は無為法という究極の「法」が、相や性や体や力や用や因や縁や果や報が全て一つに収まった法であると言っているんです。
その究極の「法」が「南無妙法蓮華経」なんですね。
相は色相のことで、モノの姿形の事を言います。性はそのモノの心を言います。体はそのモノの真実のあり方です。『般若心経』で色即是空が順観で因縁仮和合して生じた姿が相(色)として存在し、そのモノがそのモノと成り得た因縁は逆観の空即是色で正しく把握出来ます。その相と性を合わせることでそのモノの真実の姿が体として顕れます。この体を当体と言います。
相=色即是空 ---(仮)
性=空即是色 ---(空)
体=色即是空 空即是色 ---(中)
究極の「法」と言いますのは、この「空・仮・中」を
相=応身如来
性=報身如来
体=法身如来
とします。無為の法ですので「如来」です。〝如来〟は真如の世界(無為の世界)を意味する言葉です。
では、その真如の相が『法華経』のどこに示されているかと言いますと、寿量品の「虚空絵の儀式」として描かれております。七つの宝で飾られた宝塔を「南無妙法蓮華経」として両脇に釈迦、多宝の二仏並座が描かれ「上行・無辺行・浄行・安立行」の地涌の菩薩達が陣列として名を連ねております。その真如の無為法の「相」を、日蓮大聖人が一枚の曼荼羅として顕されております。
次に性は何かと言いますとそれは『法華経』それ自体に他なりません。法華経は真理の究極の法を説いた教えなのですから。
そしてその相と性とを合わせて体となりますが、御本尊に向かって法華経を唱える修行者の姿がその体となります。
この相・性・体を軸として残りの七如是が無為法の特性として備わる訳ですが、その七如是が「南無妙法蓮華経」の七文字に含まれております。
それを今から説明して参ります。
残り七如是の中の「如是力」と「如是作」についてまずお話致します。
実は南無妙法蓮華経の「妙法」の二文字がこの「如是力」と「如是作」になるのですが、日蓮聖人が『生死一大事血脈抄』の中で次のように申されております。
「妙は死 法は生なり 此の生死の二法が十界の当体なり 又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云
「生死の二法が十界の当体」と申されております通り、「生の凡夫」と「死の仏」、即ち九界の凡夫と仏界の仏が而二不二で一体となって顕れて十界の当体となります。
この凡夫と仏の仏界レベル(仏界の中の十界)での関係を「体の仏と用の仏」と言います。
今からお話します内容は、密教の内容となりますが「密教」とは顕教に対する言葉で、言葉として顕すことが出来ない「言葉の概念」から完全に抜け出た教えとなります。
日本に密教を伝えたのは空海(6〜7世紀の人物)ですが、空海が中国に渡る少し前の7〜8世紀頃、インドにおいて仏教とヒンドゥー教の対立が起き、そこにペルシャのイスラム勢力が侵攻してきて、3つの宗教の力関係の中でインドにおける仏教は衰退消滅へと向います。
そういった時代の流れの中で仏教の教えの中にヒンドゥー教の教えが混ざり込んでインド仏教史は小乗 、大乗に加えて金剛乗(密教)が加わります。
金剛乗ではヨーガの修行を成就するにあたって「グル」と呼ばれる導師(師匠)の存在が必要不可欠なものとされ、グルへの絶対的帰依が修行では求められます。(グル信仰)
〝金剛〟という言葉は部派仏教時代の経論からみられ、部派仏典の論蔵(アビダルマ)の時代から菩提樹下に於ける釈迦の成道は、金剛座でなされたとする記述がみられますが、〝金剛乗〟の語が出現するのは密教経典からになります。
インド仏教において、「顕教と密教」は説かれておりますが金剛乗の教えは説かれておりません。仏教の「顕教と密教」とヒンドゥー教の「金剛乗」が時代の流れの中で、混合していったものと考えられます。(金剛乗だけに^^)
オウム真理教でもヴァジラヤーナ(金剛乗)が説かれ、グルである麻原彰晃への絶対的帰依が要求され、グルが指示すれば殺人も肯定する教義となってあの凶悪な犯罪が起きてしまいました。
日本では空海が真言密教として東密を弘め、最澄が天台密教として台密を弘めましたが、東密はこの金剛乗の教えが中心となっております。天台密教から密教を取り除けば『法華経』が残りますが、真言密教から密教を取り除くと何も残らないと言われる程、東密の内容はヒンドゥー教的な教えだと言われております。両者の違いが明確に顕われているのが大日法身の解釈の相違です。
東密では大日法身、即ち大日如来は「宇宙を具現化したお姿」として崇められ「宇宙そのもの」を象徴する森羅万象そのものであるとされていますが、この考えは、ヒンドゥー教で説かれる「ブラフマン」そのものです。(ブラフマン=宇宙の根理)
対して台密では、顕教を説く釈迦を応身とし、密教を説く釈迦を法身と見ます。ですから大日法身は釈迦の化身と考えます。
胎蔵系、大日経系の密教のルーツはインド東部で、金剛界系・金剛頂系の密教のルーツはそれよりもよりペルシャ寄りのインド北西部、カシミールあたりだと思われている事から、金剛界系・金剛頂系の密教の方がよりヒンドゥー教の影響を強く受けていたものと考えられます。そういった所にこの東密と台密の大日如来の解釈の相違も端を発しているのかもしれません。
『法華経』の解釈も東密では『大日経』、『金剛頂経』、『蘇悉地経』の密教系の経典の方が勝れていると説きますが、台密では、『法華経』を「一乗教」と呼び、小乗・大乗の諸経典よりも勝れた経典であると位置付けております。しかし『大日経』、『金剛頂経』等は真言や印相の「事密」が説かれているので実践面において勝れていると考えます。
この最澄や空海のお話は平安時代のお話で、13世紀に入って末法の時代が到来すると、『法華経』で説かれていた上行菩薩が鎌倉の世に顕れます。
それが日蓮大聖人その人です。
『法華経』では顕教として示されなかった「事密」を、曼荼羅本尊と南無妙法蓮華経のお題目(真言)として『法華経』の文底から読み取られて顕されます。その衣文となされたのが寿量品の「如来秘密 神通之力」の御文です。
如来がこれまで秘密にして決して語る事がなかった、密教のお話です。
寿量品長行に示されているこの御文は、日蓮大聖人が
「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり」
※ 依文とはより所となる経文のこと。
「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり」
と仰せになられたとても重要な御文です。
では、その「如来秘密神通之力」とはどういうことなのか。
日蓮大聖人は、「如来秘密」について、『三大秘法抄』 に、
「一身即三身なるを名けて秘と為し 三身即一身なるを名けて密と為す、又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」
と仰せです。
そして爾前経にあっては、
「法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」
『開目抄上』
と云われるように、別教において大日法身の無始無終(有名無実の権仏)は説かれていますが、応身・報身の本地は秘して顕されず、『法華経』に至って初めて明かされます。
『法華経』で示されたその応身の本地は、
<応身の本地>
迹門・方便品—三千塵点劫—始成正覚の釈迦 ---(迹仏)
本門・寿量品—五百塵点劫—無始無終の本仏の本地 ---(本仏)
となります。いわゆる「三五の法門」です。
三身が別体として説かれている爾前権教(別教)では、応身・報身の本地やその実態も明かされておりません。
仏(如来)だけが知る秘密なので「如来秘密」になります。
「神通之力」については『諸法実相抄』 に、
「神通之力とは三身の用なり、神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。通は無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり」
と、法身、報身、応身の「用の三身」であると述べられております。
「用の三身」は「体の三身」に対する用語で、『諸法実相抄』に、
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」
と仰せの「倶体・倶用の三身」のことです。三身は、
法身如来
報身如来
応身如来
の三身如来のことを言うのですが、〝如来〟と〝仏〟という言葉がどちらも「仏を意味する言葉」として誤って認識されていることが多いので、本来の正しい解釈を説明しておきます。
まず仏とは修行の因を積むことでその果報としての悟りを得た境地をいいます。ですから仏に成る瞬間が生じる「始成正覚」なのです。
それに対し如来とは、「悟りの境地より来た」の意味で、最初から既に悟りの境地にありますので「久遠実成」と言います。
「始成正覚」の応身のお釈迦様は、五蘊皆空で肉体を空じる事で覚りの境地に入ります。この場合未だ肉体を備えておりますのでそこでの世界観は「色界」となります。
それに対して如来は、〝実体〟(実像)は無く、実体が無いがゆえにその住する処は「無色界」となります。
虚空絵の儀式で宝塔の中に釈迦と多宝の二仏が鎮座して法華経が説かれる様は、仏と如来が同体として妙法にはおさまっているという「当体蓮華」が示された様です。
更に日蓮大聖人が顕された曼荼羅本尊にあっては、その下に〝日蓮〟としたためられております。これは凡夫の立場の日蓮を意味しております。凡夫でありながら三身を身につけた三身即一の無作三身の本仏です。
ここで言う本仏とは、日蓮が本仏という意味ではありません。法華経を唱える行者の身に三身が顕れて三身即一の本仏(真実の仏の姿)と成るという意味です。
『諸法実相抄』に云わく、
「宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」
更に次のように続きます。
「此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり」
その「真如の法」の〝実相〟が十如是として法華経の中に説かれております。
その中の「如是力」と「如是作」が只今紹介しました「体の仏に働く力」と「用の仏が持つ神通之力」になります。
如是力=諸仏が持つ神通の力 ---(用の仏)
如是作=凡夫の体に作用として働く力 ---(体の仏)
南無妙法蓮華経の七文字の「妙法」の二文字は、用の仏と体の仏の生死の二法が一体となった十界の当体です。
妙=仏界の仏 (死)用の仏
法=九界の凡夫(生)体の仏
「妙は死 法は生なり 此の生死の二法が十界の当体なり」
次に南無妙法蓮華経の七文字の中の「蓮華」二文字の意味を説明しようと思います。
法介のほ~『法華経』--- その2へ