鳩摩羅什の『妙法蓮華経』では、方便品第二に、諸法実相として「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」という十如是が説かれておりますが、サンスクリット原典をみるとこの十如是に相当するところは、「どの諸法、どういう諸法、どのような諸法、どういう相を持った諸法、どういう自性を持った諸法」というようになっており十如是ではありません。
サンスクリット原典の「法華経」では十項目ではなく、数えてみると五項目しかありません。
竺法護の訳した「正法華経」も、「諸法」「所由」「法貌」「衆相」「法自然」となっておりほぼ原典に近い表現となっております。これをふつう「五何法」と称します。
この件について教学的に詳しくお話して参ります。
十如是が説かれている『法華経』方便品第二は、お釈迦さまがご自身が覚り得た究極の境地を舎利弗に諭す場面です。
舎利佛よ、わたしが仏に成って以来、いろいろな因縁や種々の譬喩を使い、広く教えを述べ、真実の教えに導くための仮にとる数え切れないほどの便宜的な手段を使って、多くの人々を仏道に導き、諸々の執着から離れさせた。理由は何故かというと、如来は、真実の教えに導くために仮にとる便宜的な手段や、事物に対する正しい認識や、悟りに至らせる方法をすでに身に付けているからだ。
舎利佛よ、如来の事物に対する正しい認識は、広大で奥深く、容易に理解が及ばない。それは、無量であり、何ものにもとらわれず、力があって、畏れるところなく、静かな瞑想の禅定であり、煩悩の束縛から解き放たれる解脱である。心を集中した静かな状態で、深く限界のない境地に入り、かつてない教えを体得し成就したのである。
舎利佛よ、如来は、巧みに種々に物事を良く分析し、巧みに諸々の教えを説き、言動は柔軟で人々の心を励まし喜びを与える。舎利佛よ、要約して言うならば、計り知れないほど多くの、しかも未だかつて示さなかった教えを、仏はことごとく身に付けている。
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ここまで説明してお釈迦さまは舎利弗に告げます。
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止めよう。舎利佛よ。再びこの教えを説く意思はない。
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「えええ! なんで~」と舎利弗は思ったことでしょう。
お釈迦さまはその訳を次のように説明されます。
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理由は何故かというと、仏が身に付けているこの教えは、第一に優れ、類のない、理解しがたい教えであるからだ。ただ仏と仏だけが、あらゆる事物や現象や存在の、あるがままの真実の姿かたちを、究めつくすことができるのだ。
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この言葉が意味するところは、お釈迦さまが伝えたい内容は言葉では伝えられない内容であるということです。なぜならそれは人間の概念を遥かに超えた仏と仏にしか伝わらない究極の法だからです。
仏教では有為と無為といった言葉が用いられますが、有為とは「つくられたもの」、無為とは「つくられないもの」といった意味ですが、そういった意味をふまえた「有為の法」と「無為の法」が説かれております。
有為の法とは、因縁によって形作られたもの。 また、その在り方。 生滅する現象世界の一切の事物をいい「縁起の法門」がこれにあたります。対して無為の法とは、あるがままの意で、 因果の関係に囚われない常住不変の存在、すなわち「真理」のことを言います。
お釈迦さまはこれまで世の中の真理を縁起として説かれてきました。しかしここに至って究極の覚りの世界にあってはその縁起すらも起きないと言われるのです。
縁起ではない真理の法、それが『十如是』という無為の法なんです。
その「無為の法」が、どのような相で、どういう性を持った諸法で、どういう体を持った諸法で、といったことをいっているのが十如是の文句です。無為法の内容を十項目に分けて紹介している訳です。項目の中に因と果、また縁といった項目がありますので「十如是」を縁起の法門だと思われている方が沢山おられます。学者や僧侶の中にも沢山おられます。
しかし有為の縁起ではなく「十如是」は無為の真理の法なんです。
では、その無為の法がサンスクリット原典の『法華経』では五項目で、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』ではなぜ十項目になっているのか、それは「無漏の種子」というお話深く関わってきます。
『成唯識論』に、
「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず。」
といった種子説が説かれておりまして、「無漏種子」の存在が繰り返し主張されております。衆生の阿頼耶識にこの「無漏種子」がなければ、いくら仏道修行を積み重ねても、成仏に至ることはないと言うのです。
ではその「無漏種子」とは何かと言いますと、日蓮大聖人が『曾谷入道殿許御書』の中で次のような事を申されております。
「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」
末法に入って、釈尊在世に結縁した者は次第に少なくなり、権教と実教で成仏する機根の人は皆尽きてしまったと。ですから末法は「過去に仏との結縁が無い」本未有善の衆生が生まれてくる時代なので衆生が仏に成るには、新たな仏縁が必要となります。
本未有善とは「仏に成る為に必要な善行が無い」という意味で、過去に仏との結縁が有ることを本已有善と言います。
正法時代に仏との結縁がある「無漏種子」を備えている修行者(本已有善)は、三昧で『妙法蓮華経』を真言として唱えることで、自身の阿頼耶識に眠っている仏との結縁(無漏種子)が呼び起されて縁起が起きて仏性を観じ取っていきます。しかしそうした本已有善の結縁者は正法・像法時代の中で皆、天上界へ転生していき末法では、仏との結縁が無い本未有善の衆生しか生まれて来ません。
本未有善の衆生は、仏との結縁が無い為、阿頼耶識に「無漏種子」が有りません。そのような修行者がいくら瞑想で阿頼耶識にアクセスしても仏と全く縁が無い為、仏性が開花することはあり得ません。そのことを日蓮聖人は『総勘文抄』の中で次のように申されております。
「三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり。 一とは中道なり法華なり、大とは空諦なり華厳なり、事とは仮諦なり阿含・方等・般若なり、已上一代の総の三諦なり。 之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり。 因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり。 此れを総じて因と云うなり。 縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず。 善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや」
ですからそういった本未有善の衆生には、新たな結縁が必要となってきます。
末法の世には「仏」と同じ対境が三昧において必要だという事です。それが曼荼羅本尊と末法で唱える真言の「南無妙法蓮華経」のお題目です。
仏像を対境として「妙法蓮華経」を唱える三昧(←五文字からなる五何法=五仏性)と、曼荼羅を対境として「南無妙法蓮華経」を唱える三昧とではこの本已有善か本未有善かの違いが奥底にあります。曼荼羅という真如の相と、法華経という真如の性(智慧)とそれを唱える凡夫の体を最初の三如是として「南無妙法蓮華経」に含まれる残りの七如是が本末究竟等します。(三如是+七如是=十如是)
【文証】『三世諸仏総勘文教相廃立』
「今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う」
【文証】『十如是事』
「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり」