お釈迦さまは入滅なされる直前に説かれた『涅槃経』の中で、自身亡き後の拠りどころとなる指針として「法四依」を示されます。
依義不依語(義に依りて語に依らざれ)
依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)
依法不依人(法に依りて人に依らざれ)
の四つの項目からなる遺言的に残された指針です。この中の四番目の「依法不依人」は法論の場において「根拠となる衣文を示してください」などと言って良く飛び交う文句なので知っておられる方も多いかと思われます。
ここでは、三番目の「依了義経不依不了義経」について少々お話をさせて頂きます。
釈尊が一代にわたって説いた教えのすべてを指して「八万法蔵」と言ったりしますが八万は実際の数ではなくそれだけ数多くの教えをお釈迦さまはお説きになられたという意味でそう言います。その多くの教えは全て一仏乗の「仏の智慧」として集約されていきます。『法華経』を学んでおられる方はご存知かと思いますが、仏は一乗の教えを三乗に開いて個別に各々の詳細を解き明かし、最後にそれら三乗に説いた教えを「開三顕一」として集約して究極の「法」を顕します。
ですから、その部分部分の教えを学ぶのでは無く、「依了義経不依不了義経」に示されるように完結した「了義経」を学びなさいと言われております。「不了義経」とは、真理を完全に説き明かしていない未完全な教えという意味です。
この件に関して日蓮さんが臨終間際に選ばれた六老僧(日昭、日朗、日向、日頂、日持、日興)のお一人であられました日興上人がご自身の『日興遺誡置文』の中で次のような事を書き綴っておられます。
「義道の落居無くして天台の学文す可からざる事」
「義道」とは大聖人の仏法の教義と道理のことで、「落居」とは習得してしっかり胸中に収めることを言います。日蓮仏法を学び習得してからでないと「天台の学問」をいてはならないと戒められている訳です。
日蓮仏法と言いますのは、「了義経」である『法華経』を拠りどころとする仏法です。その日蓮聖人が詳しく解き明かす『法華経』の法理・法門を正しく理解して天台の教学を学ばないと、天台教学を凡夫の浅はかな概念で解釈してしまい、手前勝手な凡夫解釈の教学となってしまうからです。仏教では声聞・縁覚・菩薩・仏といったそれぞれの境涯に即した四種の智慧が説かれており、その四つの智慧を持って経典を読み取っていかなければおかしな解釈に陥ってしまいます。
声聞の智慧
縁覚の智慧
菩薩の智慧
仏 の智慧
この四つの智慧の意味をきちんと理解した上で経典を読んでいかないと仏の深意は決して読み取れません。