色界に禅定で入る「定静慮」と転生で生まれいずる「生静慮」の二種があることは既にお話したかと思います。
間違いだらけの仏教の常識 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16
定静慮で色界禅定で色界に入り、次に無色界禅定で無色界へ入る「九次第定」は無余涅槃を得る為に行う瞑想です。無余涅槃ですので六道から離れて無色界へ転生(生まれいずる)します。無色界では肉体は伴わないので正真正銘の「無色」です(生静慮)。
日蓮大聖人の『撰時抄』に次のような下りがあります。
阿私陀仙人が悉達太子の生れさせ給いしを見て悲んで云く現生には九十にあまれり太子の成道を見るべからず後生には無色界に生れて五十年の説法の坐にもつらなるべからず正像末にも生るべからずとなげきしがごとし
「無色界に生れて」と書かれております。
これは阿私陀仙人が生静慮で無色界に転生した為、悉達太子(釈迦の出家前の名前)が成道して説法する坐につらなることができなかった事を嘆いたという説明をされている御文になります。
>> 12の「始成の三身」では肉体は空じているものの、実際に肉体は備わっております。ですから「無始無終」の法身であってもこの場合の法身は「色界」です。
それに対して三身が「無始無終」である久遠実成の仏(本仏)は、元から肉体を備えてはありません。ですから久遠釈迦は「無色界」となります。
まず「始成の三身」から説明します。
お釈迦さまはインドに生れ出て来ましたので「有始」です。そしてマッラ国のクシナガルに向かう途中に沙羅双樹(さらそうじゅ)の樹の下で亡くなります。なので「有終」となって「有始有終」---(応身)
これは欲界におけるお釈迦さま(仏)のお姿です。
インドに生れ出て(有始)菩提樹の下で覚りを開かれたお釈迦さまは五蘊を空じて空観に入ります。空観では肉体から解脱しておりますので「無終」となって「有始無終」---(報身)
これは色界におけるお釈迦さま(仏)のお姿です。
空観に入って『法華経』を説くお釈迦さまは迹門で「三千塵点劫」を明かして自身の生命が過去より今日まで続いていることを説き明かします(無始)。そして本門で「五百塵点劫」を明かして生命の永遠(無終)を説き明かして「無始無終」となります。---(法身)
真如の世界では時間という概念が生じませんので変化が起こりません。なので生じることも滅することもない「無始無終」です。
日蓮大聖人が『一代五時鶏図』の中で次のような図を示されておられます。
┌応身──有始有終 始成の三身┼報身──有始無終┬─真言の大日等 └法身──無始無終┘
┌応身┐ 久成の三身┼報身┼無始無終 └法身┘
『法華経』本門に至って「五百塵点劫の法門」が説かれることで仏と全く縁が無かった衆生も救われていくのですが、それがどうして可能なのかを今から噛み砕いてお話して参ります。
『法華経』迹門ではここまでが説かれております。
しかしこの迹門の法門にはある重大な欠陥が含まれております。
それは、法華経を読誦して発芽する仏種が自身の阿頼耶識に備わっているか否かという問題です。
解りやすく言えば、過去に実際に仏の説法を聴聞した記録(記憶)が自身の阿頼耶識に刻まれているか否かという事です。阿頼耶識には全人類の壮大な記録が蓄えられております。その中から末那識の「俺が俺が」の自我意識が自身の記憶を拾い上げ、その業が七識を転識させていきます。良い業であればよい方向に転識し悪しき業であれば悪しき方に七識は転識します。
この阿頼耶識には全ての人類の行いが業として蓄えられておりますのでその阿頼耶識の蔵の中には「仏と仏弟子達」の修行の因も、その報いとして得られる果徳も、仏種として備わっております。しかしそれを拾い上げる「縁」が末那識の「俺が俺が」の自我意識なのですから、過去に仏と縁が無い「俺が俺が」の自我を「縁」としても仏種による七転識は残念ながら起こりません。
この欲界・色界・無色界を三界として観ているのが三種三観にあたります。
別教で説かれている「別相三観」です。
<凡夫の三観>(仮観) 客観 主観 実体
<仏の三身 >(空観) 応身 報身 法身
<如来の三身>(中観) 応身如来 報身如来 法身如来
『観無量寿経』に九品往生として説かれております三三九品の意味するところです。
詳しくはこちらの8から14の項をご参照ください。 https://butudou.livedoor.blog/
では、三千塵点劫の釈迦はどうでしょう。
阿頼耶識に蓄えられた〝業〟としての仏種なのでここでは縁起は起こりません。
「縁」がないとこの仏種は発芽しません。
ではその縁とはなんでしょう。
他ならぬ『法華経』です。
法華経を読誦することでそれが縁となって阿頼耶識の仏種が他の七識を転識させます(七転識)。
ここでは「色」に相当する要因は関係しません。
前五識は識です。六根ならば目や口や鼻などの感覚器官が「色」に相当しますが転識するのは五識と第六意識と第七末那識の七つの「識」です。
「色」が存在しない世界なのでこれを「無色界」と言います。
(無色界にはまた他の意味も含まれております。後程ご説明します)
菩提樹の下ではじめて覚りを開いたお釈迦さまの事を「始成正覚の仏」と言います。
しかし『法華経』の迹門で自身は今世ではじめて成道したのではなく、既に三千塵点劫の昔において成道していた事を明かします。
この「始成正覚の釈迦」と「三千塵点劫の釈迦」の違いってなんでしょう。
始成正覚の釈迦には肉体が備わっております。三千塵点劫の釈迦には肉体はありません。阿頼耶識に記憶として留められた仏です。
肉体を持った釈迦は五蘊は空じて空観に入っておりますので色(肉体)をともなった状態で世界を観ます。その世界観が色界です。阿頼耶識を因として縁起が起こりますので対象のモノ(色)がそのモノと成り得た因果が観えてきます。
三千塵点劫と言うのは、三周の説法の『化城喩品第七』の因縁説周で出てきます大通智勝仏の時代の「結縁」のお話です。この三千塵点劫の因縁が明かされて迹門の「理の一念三千」が解き明かされます。
「理の一念三千」とは天台智顗が詳しく説き明かした凡夫が仏の覚りを得る為の円融三諦の理論です。
三周の説法で声聞の弟子達が覚ったのはこの理としての一念三千の法門です。
日蓮大聖人は『開目抄』で、
「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず」
と仰せのように、本門で五百塵点劫が明かされて初めて一切衆生成仏の原理である真実の「事の一念三千の法門」が示されます。
この「仏と如来の違い」は、『法華経』で説かれている三五の法門を学ばないと理解には至りません。
三五の法門とは、日蓮大聖人が『兄弟抄』の中で、
「経文に入つて此れを見奉れば二十の大事あり、第一第二の大事は三千塵点劫五百塵点劫と申す二つの法門なり」
と言われました大変重要な御法門です。
法華経の経文には二十の大事な法門があり、中でも第一、第二の大事は三千塵点劫、五百塵点劫という二つの法門であると日蓮大聖人は申されております。また、『法華取要抄』にもこの二つの法門について述べられています。
「今・法華経と諸経とを相対するに一代に超過すること二十種之有り其の中最要二有り所謂三五の二法なり」
今、『法華経』と諸経とを比較すると、法華経が釈尊一代の他の諸経よりもはるかに勝れている点が二十種ある。その中でも最も重要なことが二つある。いわゆる三千塵点劫・五百塵点劫の二法である。
日蓮正宗では、「久遠元初」という言葉を用いて日蓮本仏論を立てておられますが、日蓮大聖人は御書の中で〝久遠元初〟という用語は一度たりとも使われておられません。
上に示した二つの御抄に於いて、最も重要なのは〝三千塵点劫〟と〝五百塵点劫〟の二つの法門であると明確に述べられておられます。
この非空を覚れない人は仏と如来を同一視します。
龍樹が『中論』の第22章「如来の考察」でその違いを述べております。
2.仏と如来の違い https://butudou.livedoor.blog/archives/17702360.html
「非空」と言いますのは、仏教の重要概念であるところの「空」の理解を四段階に分けた析空・体空・法空・非空の最後の「空」の理解となります。
<四悉檀によるところの空の理解の段階分け> 析空=蔵教(但空) 体空=通教(不但空) 法空=別教(但中) 非空=円教(不但中)
「但空」はただ色心諸法の空の理だけを知って、不空、すなわち空でない側面を見ない偏頗な法門で、蔵教の二乗が陥った空の解釈です。
「不但空」とは、通教の空観で、一切の諸法はことごとく〝空〟でありながら、しかも〝空〟のみに偏せず、〝不空〟の側面をも観ずるもの。
「但中」とは別教の法理で、空・仮・中の三諦のうち、空と仮の二辺を除いて、ただ中のみを立てる法門です。
「不但中」とは円教所詮の理で、別教のように空仮の二辺を除いてただ中を立てるのでなく、空仮中の三諦が円融するなかで空諦・仮諦を包含した中諦(中道)を明かす法門となります。
この「仏」という概念から抜け出た境地が非空の真如の世界です。
仏の空観を空じて入る真如の中観です。
覚りの世界観です。
三周の説法では声聞・縁覚・菩薩の三乗の因果(三種三観)が明かされ、虚空絵では仏の因果が明かされて本門においてはじめて阿頼耶識の〝仏の種子〟としての「十界の因果」が説き顕されます。
この「本因本果の法門」をさらに深く理解する為に、次に「三五の法門」についてお話致します。
「意識」が無く縁起も起きないこの阿頼耶識に、意識として入る事はまずもってあり得ないかと思われます。
初期仏教の「九次第定」ではその意識を止滅させてこの境地に入る訳ですが、ここに入っても意識がありませんので何かを覚るという事も考え難いです。ただ〝無〟の境地に入って六道からの輪廻を解脱するだけの涅槃(無余涅槃)でしかないでしょう。
日蓮大聖人が法身ではなく報身を正意とされているのは、こういったところによるものではないでしょうか。
世間一般的に〝仏〟と言えば「法身」というイメージが強くあるかと思われますが、日蓮や天台教学では仏の〝意識〟は「報身」にあると考えます。それは先に紹介しました「野坂論文」に目を通して頂けますと十分にご納得頂けるかと思います。
「無為」とは縁起が生じないという意味で、究極の覚りの世界(真如の世界)にあっては縁起は起こりません。『唯識』で説かれている第八阿頼耶識がこれにあたります。ここでは意識が働きませんので善悪等の判断も起こりません。ですから長い・短いも綺麗・汚いも嬉しい・悲しいも生じる事も滅する事も何も起こりません。なので無始無終です。
そこにあるのはただ、業(行いの記録)だけです。
しかし、仏が積んで来た修行の因(行い)も、その修行の報いとして得て来た果徳(果報)もここには全て収まっております。ここでの因果は縁起としての因果ではなく、業としての因果です。
日蓮大聖人は『法華真言勝劣事』の中で、
今大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終なり三身の無始無終に非ず、法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之を破りたる五百塵点なり、大日経等の諸大乗経には全く此の義無し
と申され、『開目鈔』でも、
雙林最後の大般涅槃経・四十巻・其の外の法華・前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず
と申されております。
大日経等の諸大乗経典では大日法身の無始無終は説かれてはいるが、応身・報身の無始無終は『法華経』にしか説かれておりません。
そして『開目鈔』で、
本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打やぶて、本門十界の因果をとき顕す。此即本因本果の法門なり
と仰せです。蔵・通・別・円の四教の教えは全て因果を説いたものでした。しかしその「爾前迹門の十界の因果」を打やぶって「本門十界の因果」が説き顕されます。
これが即ち、「本因本果の法門」です。
どういう事だか解りますか。
蔵・通・別・円の四教で示して来た〝因果〟を打ち破った「因果」なんです。
有為の因果ではなく、無為の因果が『法華経』本門では明かされているのです。
『法華経』の本門で「五百億塵点劫」が明かされ、お釈迦さまは実は久遠において既に成仏の覚りを得ていた事が明かされます。その「五百億塵点劫」についての研究論文の中に、
三五塵点に関する一考察―五百億塵点劫実説について― 野坂 教翁
https://gakurin.ac.jp/wp-content/pdf/17/「三五塵点に関する一考察―五百億塵点劫実説について―」.pdf
という「野崎論文」があります。
論文の中で「久遠本仏」と「大日如来」との勝劣が述べられております。
久遠本仏と大日如来との勝劣に関し、法身仏・無始無終である大日如来に対して久遠本仏は三身の無始無終であって諸経に説かない、と述べられている。即ち久遠本仏は三身即一であり、更に法華経の説く五百塵点は無始無終と考えられていたことも看取できる。
『法華真言勝劣事』 問て云く大日経の疏に云く大日如来は無始無終なりと。遥に五百塵点に勝れたり。如何。答ふ…諸大乗経に之を説く。独り大日経のみに非ず。問て云く若爾らば五百塵点は際限有れば有始有終也。無始無終は際限無し。然れば則法華経は諸経に破せ被るるか如何。答て云く…今大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終也。三身の無始無終に非ず。法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之を破したる五百塵点也
また『開目抄』では、応身報身の顕本は法華経でのみ説くと述べており、報身を正意としていることは明らかである。
『開目抄』 其外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず久遠本仏が三身即一・報身正意である理由を述べると、一点目として上冥下契が挙げられる。報身仏による自行があって初めて、法身である真理に到達することが可能であり、応身となって示現することで初めて衆生を教化することができる。もし報身仏が三身の主体でなければ、換言すればもし法身が三身の主体であれば、真理は真理のままであって応身が示現することも無い。報身を実体として三身を具足するからこそ三世に亘る衆生教化が可能である。二点目として自行の成道がある。寿量品の文「我実に成仏してより已来た久遠なること斯の如し」より、仏は久遠本時に成道した、と説かれている。この文から報身仏が主体であり法身に境智冥合したと考えるべきである。もし法身が主体であればそもそもこの成道自体が不要であるので本地の開顕、寿量品自体が方便と見做されることとなる。よって法身正意ではなく報身正意といえるのである
一方、久遠本仏における三身の寿命については『一代五時鷄図』にて全て無始無終と明記している。後述する図を見れば明らかであるが、始成正覚の仏の三身において応身・報身は有始であるが、久遠本仏の三身において三身ともに無始無終となる。
応身―有始有終 始成の三身 報身―有始無終 法身―無始無終 (真言の大日等)
応身―無始無終 久成の三身 報身―無始無終 法身―無始無終
日蓮大聖人はその疑いがどれ程のものであったかを次のような話を用いて説明されます。
観無量寿経において韋提希夫人が子息の阿闍世王に殺されようとし、しかも夫人の夫で阿闍世の父たる頻婆沙羅王が幽閉されて殺されたのは、阿闍世が提婆達多を師としたからである。阿闍世は韋提希夫人をも殺そうとしたが耆婆と月光の二人の大臣に諌められて、これを放ったが、この時に夫人は釈尊に会ってまず第一の質問に「自分の過去世になんの罪業があって、このような悪子を生んだのか。世尊はまたなんの因縁があって提婆達多のごとき悪人と従兄弟の間柄に生まれてきたのか」と、この疑いの中に「世尊はまたなんの因縁があって……」等の疑いは大なる大事である。転輪聖王は敵とともに生まれず、帝釈は鬼とともにいないといわれているが、仏は無量劫以来の大慈悲者であらせられるのになにゆえに大悪逆の達多とともにいるのか。かえって仏ではないのであろうかと疑ったのである。しかれどもその時に仏は答えなかった。されば観経を読誦する人は、法華経の提婆品に来て初めて説き明かされる因縁を聞かなければなんにもならないのである。大涅槃経に迦葉菩薩が三十六の質問を出しているが、それも涌出品におけるこの弥勒の疑いにはおよばない。
仏がこの疑いを晴らさなければ、釈迦一代の聖教はことごとく泡沫となり、一切衆生は疑いの網にかかってしまうであろう。しかるに、この疑いに正しく答えられた寿量の一品が大切なる理由はこのゆえである。
と大聖人は仰せになり、つぎの寿量品の広開近顕遠をもってより具体的にそして明確に「本因本果」が説き明かされていきます。
日蓮大聖人は、この弥勒の疑いの心を次のようにご説明なされておられます。
日本の聖徳太子は人王第三十二代用明天皇の御子である。御年六歳の時、朝鮮半島や中国大陸から渡ってきて学問技芸等を伝来した老人たちを指して「わが弟子なり」とおおせられたので、かの老人たちはまた六歳の太子に合掌して「我が師であらせられる」といったというが、実にふしぎなことである。外典にはまたつぎのような話がある。ある人が道を行くと路傍において、三十歳ばかりの若者が八十歳ばかりの老人をとらえて打っていた、どうしたことかと問えば「この老人はわが子である」と青年が答えたという話にも似ている。
お釈迦さまの言うことが信じられない弥勒菩薩等は更に疑って言った。
「世尊よ、如来は太子であらせられた時、釈の宮を出で、伽耶城を去ること遠からずして道場に坐して悟りを開かれたのである。それよりこのかた始めて四十余年を過ぎたのであるが、世尊よ、いったいどうしてこの少ない期間にこのような偉大な菩薩大衆を化導しておおいなる仏事をなしとげられたのか」
と。一切の菩薩を始め、華厳経より四十余年、それぞれの時々に疑いを設けて一切衆生の疑いを晴らせてきた中に、この疑いこそもっとも第一の疑いである。無量義経において大荘厳菩薩等が四十余年の爾前経は歴劫修行であり、無量義経にいたって始めて速疾成仏道と説かれて生じた疑いにもまさる大疑である。
お釈迦さまは弥勒菩薩の質問に答えて言います。
「弥勒よ、なんじらが昔より未だ見たことのないというこれらの大菩薩たちは、自分がこの娑婆世界において成仏してよりこのかたこの諸々の菩薩を教化し、指導して、その心を調伏して大道心をおこさしめたのである」と。またいわく「われは伽耶城の菩提樹の下に坐して、最正覚を成ずることを得、しかして無上の法輪を転じ、これらの大菩薩を教化して初めて道心をおこさしめ、いまはみな不退の位に住している。乃至自分は久遠よりこのかたこれらの衆を教化した」と涌出品に説き明かしている、これはすなわち略開近顕遠である。
法輪という言葉が出てきますがこれは四諦の法輪説法(三転法輪)の事です。「略開近顕遠」とは、久遠における本因本果をお釈迦さまは、弥勒に対してここではこのように略して語っておられます。
しかし、弥勒等の大菩薩はここで大いに疑いを抱いた。
お釈迦さまが『華厳経』を説かれた時、法慧等の無量の大菩薩が集まった。いかなる人々かと思われた時に、仏はわが善知識であると仰せられたから「そうかもしれない」とその時は思っていた。
その後の大集経を説いた大宝坊や、大品般若経を説いた白鷺池等に集まってきた大菩薩もまた仏の善知識であるように思われた。
しかし今、地から湧き出て来たこの「地涌の菩薩」達は、彼らには似もつかぬ古くて尊げに見える。定めて釈尊のご師匠かなどと思われるのに「初めて道心をおこさしめた」と説いて、かつては幼稚のものであったのを、教化して弟子としたなどと仰せられたことは、大なる疑いである。
そう内心で疑わざる負えなかった弥勒菩薩は、あまりの不思議さに声を出すことすらできなかったが、仏力の加護によるのであろう、つぎのように質問した。
「無量千万億の大衆のもろもろの菩薩は、昔よりいまだかつて見たことのないところである。このもろもろの大威徳・大精進の菩薩衆に対して、だれがそのために法を説いて教化して仏道を成就せしめたのか。誰にしたがって初めて発心し、いずれの仏法をか称揚して修行を積んできたのか。世尊よ、われ昔よりこのかたいまだかつてこのことを見たことがない。願わくば、その住する国土の名を説き聞かせてください。自分はつねに諸国に遊んできたが、いまだかつてこの事を見たことがない。自分はこの地涌の大衆を見てもひとりも知っているひとはない。忽然として大地より涌出せられた。願わくばその因縁を説いてください」 と。そして日蓮大聖人は天台や妙楽の言葉を紹介されます。
天台いわく「寂滅道場における最初の説法より以来、法華経の座にいたるまで十方の大菩薩が絶えず来会してその数は限りないとはいえ、自分は補処の智力をもってことごとく見、ことごとく知っている。しかれどもこの衆においてはひとりをも知らず。しかるに自分は十方に遊戯して諸仏にまのあたり奉仕し、大衆によく識知せられているのである」と。妙楽はさらにこれを釈していわく「智人は将来起こるべきことを知るが愚人は知らない。蛇の道は蛇で、蛇はみずから蛇を知っている」と、このように経文も解釈も説明するところの意味は分明である。要するに初成道より法華の会座にいたるまで、この国土においてもまた十方国土においても、これらの大菩薩を見たてまつらず、また聞いたこともないというのである。
そして弥勒菩薩は心の中で次のように思った。
自分は釈迦仏が出家する以前の太子であった時から、三十歳で成道し、いまの霊鷲山で法華経の説法が開かれるまでの四十二年のあいだ、この世界の菩薩も十方世界より来集した菩薩もみなことごとく知っている。またその上に十方の浄土へも穢土へも、あるいはお使いとしてあるいはみずから遊びに行って、その国々の大菩薩も見聞して知っている。しかしこの地涌の大菩薩はいまだかつて見聞したことがない。この大菩薩のお師匠はどのような仏さまであろうか。よもこの釈迦・多宝・十方の分身の諸仏には似るべくもない仏さまであらせられるであろう。雨の猛烈に降るを見て竜の大なることを知り、華の大きく盛んなるを見てこれを育てている池の深いことは知られるであろう。これらの大菩薩はいかなる国から来て、また誰と申す仏にあい奉り、いかなる大法をか修習し給うているのか。
『開目抄』
その上に地涌千界の大菩薩が大地より出来した。釈尊にとっては第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の樵夫・杣人の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。釈迦仏のあとを嗣ぐといわれた弥勒すら、なお地涌の出現に惑われた。しかしてそれ以下の者の驚きと当惑はひじょうなものであった。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖がましました。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行であらせられる。
そこに出現した地涌の菩薩達は帝釈天が顕れたのかと見間違う程で、その場に居合わせた普賢菩薩や文殊菩薩等が猿に見えてくる程の素晴らしいお姿であったと。中でも先頭に立つ四菩薩は、
この四人は虚空会および霊山会に来集している諸菩薩等が、眼をあわせることも心のおよぶこともなかった。華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も、この菩薩に対すれば翳眼のものが太陽をまともに見られないごとく、いやしい海人が皇帝に向い奉るような状態であった。太公望等の四聖が大衆の中にいるごとく、商山の四人の君子が漢の恵帝に仕えたのと異ならない。じつにぎぎ堂々として尊高であった。釈迦・多宝・十方分身の諸仏をのぞいては、一切衆生の善知識ともたのみ奉るべきであろう。
という程のものでした。
『法華経』涌出品第十五で地涌の四菩薩が出現した時の様子を日蓮大聖人が『開目抄』の中で解りやすく述べておられますので現代語訳で紹介します。
まず、お釈迦さまの『法華経』説法を聴聞していた弟子達が、
「世尊、もしも我らに、仏が世を去られた後のこの娑婆世界にあって、努力し雑念を去り仏道修行に専心してこの経典を護持し、読み節をつけて唱え、書写し、供養する役目を課されるならば、この土において、きっと広くこれを説き奉るでしょう」
と熱い決意を訴えるのですが、お釈迦さまは何とこれを退けます。
「止めよ、仏法に帰依した男子よ、おまえたちはこの経を護持しなくてもよい」
そう言われて弟子達が
「えええ! 何で~!」
とショックに打ちひしがれていると、大地が激しく震動して裂け、そこから金色の光彩を放って無数の地涌の菩薩が出現します。その菩薩達は身体が皆金色で、仏のみが備えている三十二のすぐれた身体的特徴を具えていた。
お釈迦さまが五百塵点劫の久遠より呼び寄せた四菩薩(地涌の菩薩)について大聖人は『開目抄』の中でも次のように表現なされております。
「其の上に地涌千界の大菩薩・大地より出来せり釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢文殊等にも・にるべくもなし、華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集する大菩薩・大日経等の金剛薩タ等の十六の大菩薩なんども此の菩薩に対当すれば獼猴の群る中に帝釈の来り給うが如し、山人に月卿等のまじはるにことならず」
[現代語訳] 釈尊にとっては、第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩や大日経等の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の賤民の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。
大地が裂け、その中から涌き出てきた上行菩薩はじめ無量千万億の地涌の菩薩は、「身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり」と『従地涌出品第十五』には記されています。体が皆金色で、三十二相を具え、無量の光明を放っていたそうです。これは仏と等しい悟りを得た菩薩の最高位である「等覚の菩薩」を意味しています。
法華経本門において五百塵点劫より呼び出だされた「等覚の菩薩」は、菩薩でありながら仏である、「九界即仏界」の十界互具の姿でした。
「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」
の『開目抄』の御文が示すところです。
その菩薩でありながら「仏」の「九界即仏界」の上行菩薩に対し、お釈迦さまは、
「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽」
(我もと菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今なお未だ尽きず)
と、仏でありながら菩薩の道を行ずる「仏界即九界」の姿が示されています。仏界と九界とが、かけ離れている爾前迹門の「厭離断九の仏」ではなく、九界の中に仏界を具そくする十界互具の「菩薩」と、仏界の中に九界を具そくする十界互具の「仏」であるから、寿量品の仏「久遠実成の釈尊」も、久遠から呼び出された上行菩薩も、どちらも「本仏」と成り、本来ならば仏から仏へ成されるはずの結要付嘱の儀式が、仏から上行菩薩への付嘱として説かれています。
この虚空絵の「九界即仏界」「仏界即九界」の結要付嘱の儀式で真の十界互具が示されます。
そして、仏が究極の覚りを得た「本因」と「本果」がこの虚空絵の儀式で「本因本果の法門」として説き明かされていきます。
では、再び虚空絵のお話に戻りまして、日蓮大聖人が『呵責謗法滅罪抄』の中で虚空絵の事を次のように紹介なされております。(現代語訳で紹介します)
釈迦仏は妙法蓮華経の五字を四十余年の間、秘密にされたばかりでなく、法華経迹門十四品に至っても、なお妙法五字を抑えて説かれず、法華経本門寿量品にして初めて本因・本果の蓮華の二字を説き顕わされたのである。この妙法の五字を、釈迦仏は文殊・普賢・弥勒・薬王等の菩薩にも付嘱されなかった。地涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出して妙法を付嘱されたのである。
この儀式は普通の儀式ではなく、宝浄世界の多宝如来が大地から七宝の塔に乗って涌現されたのである。三千大千世界の他に四百万億那由佗の国土を浄め、高さ五百由旬の宝樹をことごとく一箭道に殖え並べて、その宝樹一本の下に五由旬の師子の座を敷き並べ、そこへ十方分身の諸仏がことごとく来て坐られたのである。また釈迦如来は、垢衣を脱いで宝塔を開き、多宝如来と並ばれたのである。この姿を譬えれば、青天に太陽と月とが並んだようなものであり、帝釈天と頂生王とが善法堂にいるようなものである。この世界の文殊等、他方の観音等の菩薩が虚空に雲集した姿は、さながら星が空に充満するようであった。
この時、この娑婆世界には華厳経の七処八会に集まった十方世界の台上の盧舎那仏の弟子たる法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の十方刹土の塵点数の大菩薩が雲集した。更に、方等経の大宝坊に雲集した仏・菩薩、般若経に集まった千仏、須菩提・帝釈等、大日経の八葉九尊の四仏四菩薩、金剛頂経の三十七尊等、涅槃経の倶尸那城へ集まられた十方法界の仏・菩薩を文殊や弥勒等の菩薩はたがいに見知っていて語りあっていたので、これらの大菩薩はその出仕にものなれているように見えたのである。しかし、今この上行をはじめとする四菩薩が出現された後は、釈迦如来にとっては九代の本師で、三世の諸仏の母であられる文殊師利菩薩も、また一生補処といわれた弥勒菩薩等も、この四菩薩に値ったのちではものの数とも見えないほどであった。譬えば山奥のきこりが高貴な月卿等の貴族の中に交わり、また猿が師子の座に列なったようなものである。
釈迦仏はこの人びとを召して妙法蓮華経の五字を付嘱されたのである。その付嘱もただごとではなく、仏は十神力を現じられたのである。釈迦仏は広長舌を色界の頂に付けられたので、諸仏もまた同様にされた。四百万億那由佗の国土の空に諸仏の舌がまるで赤い虹を百千万億並べたように充満したので、実におびただしいことであった。このような不思議の十神力を仏は現じ、結要付嘱といって、法華経の肝心を抜き出して四菩薩に譲り、わが滅後に十方の衆生に与えよと慇懃に付嘱して、そののちまた一つの神力を現じて、文殊等の自界、他方の世界の菩薩・二乗・天人・竜神等には一経および一代聖教を付嘱されたのである。
もとより影が身に随っているように仕えていた迦葉・舎利弗等にも、この五字を譲られなかった。これはさて置こう。文殊・弥勒等に対してはどうして付嘱を惜まれるのか。たとえ滅後に弘めるべき器量がなくとも嫌うべきではない、等々不審であるのを、仏はあるいは他方の菩薩はこの土に縁が少ないと嫌い、あるいはこの土の菩薩であるが、結縁の日が浅いと嫌い、あるいはわが弟子ではあるが初発心の弟子ではないと嫌われたので、四十余年ならびに法華経迹門十四品のうちには一人も初発心の弟子がなく、この四菩薩こそ五百塵点劫より以来、教主釈尊の弟子として初発心の時より、また他の仏に仕えずに迹門・本門の二門をふまなかった人びとであると説かれている。
天台は法華文句の九に「但下方より涌出した本化の菩薩の発誓をみる」等。またいわく「これ我が弟子である。我が法を弘めるべきである」と。妙楽は法華文句記に「子は父の法を弘める」と述べ、道暹は文句の輔正記に「法がこれ久遠実成の法であるから久遠実成の人に付嘱する」と述べている。この妙法蓮華経の五字を仏はこの四菩薩に譲られたのである。ところが仏の滅後、正法千年、像法千年、末法に入って二百二十余年の間に、月氏、漢土、日本さらに一閻浮提の内に、いまだ一度も妙法を弘める四菩薩が出現されないのはどういう事なのであろうか。正しくもお譲りになられなかった文殊師利菩薩は、仏の滅後四百五十年までこの娑婆世界におられて大乗経を弘められ、そののちも香山、清涼山から度度来て、大僧等となって法を弘められた。薬王菩薩は天台大師となり、観世音菩薩は南岳大師となり、弥勒菩薩は傅大士となった。迦葉・阿難等は仏の滅後二十年、四十年法を弘められた。
父が亡くなった通夜の前の夜、兄の家で父と最後の夜を過ごした。
深夜一人で2~3時間は父にお題目を送っただろうか。
唱題を終えて父の枕もとに於いてある父の御書をふと手に取り、何気に開いたページに目をやると、そこには偶然にも次の文句が記されていた。
御書の984ページ『始聞仏乗義』、
「末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず父母も又即身成仏せん此れ第一の孝養なり」
その御文を目にした私の目から止めどもない涙があふれ出た。
おしまい。
父が亡くなる三年前、母が先に旅立ちました。
母の最期は病院でだった。深夜だった為北九州の長男夫婦と次女の三人が付き添っての臨終でした。
姉(次女)が後に私にこう言った。
「法介が居なくて良かった」
その言葉の意味は、兄姉の中で人一倍母を慕っていたのが私だったからです。
姉(長男の嫁)がある時何気に口にした。
「お母さんの時は、ちょっと可哀そうだったよね」
と。
母の死を聞いて良く朝私は父の北九州の家(←長男の家の近所に立てた)に駆け付けた。
横たわる母の顔は、少し苦しげだった。
私は、母の枕もとに寄り添ってずっと一人、題目を送った。
私の妻と三人の子供達も福岡からやって来た。
会館で母と最期の一夜を過ごした時、我が家の皆で母に法華経を唱えお題目を送った。うちの子供達は父が私にしてくれたように、事あるごとに私がこの仏法の正しさ素晴らしさを子供達一人一人に語って来た。
皆、どこの宗派にも団体にも属してはいないが、日蓮仏法を自分の意志で実践している。
家族での勤行・唱題を終えて母の顔を見た妻が言った。
「お母さん、って呼びかけたら今にも目が開きそうな、まるで生きてる見たいに眠ってるね」
翌日、葬儀を終え出棺のさい、皆で棺のふたを閉める時、母の最期の顔は優しく微笑んでいた。
私の娘が小学生だった頃、一緒にモルモットを買って飼育していた。
モコちゃんという名を娘が付けて可愛がっていた。そのモコがある朝急に亡くなって、ゲージから取り上げると既にカチコチに硬直していた。その亡骸を御本尊の前に寝かせて私はずっとお題目をモコちゃんに送った。そして娘が学校から帰って来て、
「モコちゃん抱っこしてごらん」
と娘に渡すと、娘は驚いた。
「柔らかくなってる」
カチコチに硬直していたモコちゃんの体は、生きている時のようにしなやかになっていた。
モコちゃんは娘にお題目の凄さを身をもって教えてくれた。
救急車で兄の自宅まで運ばれた父は、病院で付けられていた管や装置は一切外され、仏間の御本尊の前に布団を敷き、後ろに布団をあてがって上半身を起こして父は唱題を始めました。
私達兄姉も父を囲むように座り父の唱える声にならないお題目にあわせ皆で唱題しました。十数分でしょうか父がもういいといって今度は自分の御書をくれと言い、兄が手渡すと自分が好きな御書のページを開いて目を通すと満足そうに兄に御書を返して、
「寝かせてくれ」
といって当てていた布団をどけ、寝床に就かせると静かに眠りについた。
いや、まだ死んではおりません。
ただ、眠りについただけです。
眠りについてどれくらい経ったであろうか。
2~3時間ぐらいだったかと思います。
私が父の様子を見に行くと、呼吸がだんだん弱くなっていくのを確認しました。
兄が、
「そろそろやね」
と言った。
皆が父を囲み右手を私が左手を長女がそれぞれ握りしめ、
「お父さんありがとう」
と皆がそれぞれ最後の別れを告げた。
それを聞き取ったかのように父の呼吸が静かに止まった。
お父さん、あなたの子として生まれて来た事を誇りに思います。
兄姉皆、同じことを心の中でつぶやいたであろう。
ここに、わたしのyahoo知恵袋での投稿があります。どうか目を通されて下さい。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14280361174
私は元々、常に学会活動の中に「なにかおかしい」を観じておりましたのでこういった性分ゆえに、九州の学会本部にもたびたび物申しに行かせてもらっておりました。
父からよく、
「また吉橋さん(←当時の九州総合長)から、あんたんとこの息子が本部に文句言いに来よったぞ、と言われたよ。」
と、言われて申し訳なかったのですが、何分納得のいかない事に対しては一歩も引けない融通の利かないゆゆしき奴なので^^
そんな父が北九州の病院に入院したと聞いて、東京に就職してちょうど里帰りしていた私の次男を連れて病院に見舞いに行きました。思ったよりも元気そうで安心し、近くの資さんうどんに次男とお昼を取りにいって病室に戻ってみると姉(長女)が同じように見舞いに来ており、
「お父さん! 大丈夫!」
と慌てふためいておりました。主治医の先生も様子を見にこられたんですが、父が先生になにやら必死に伝えておりました。
どうやら父は主治医に「家に帰る」と言いっているようで先生は、
「そんな事は許可出来ません!」
と当たり前のように跳ね除けていたのですが、駆けつけた長男(←こやつも医者)が、
「私が全責任を取りますから」
と申し出て、父を救急車で病院から兄の自宅へと搬送する事になりました。担当医はあきれた容姿で言いました。
「こんな事、私は医者をやってて始めてですよ、、、」
そうですよね。普通は家から病院に救急車で運ばれるものですよね。
流石私の父ですね^^
人がやらない事をやりたがるんです。うちの血筋は、、、。
私の父が亡くなった時に私が体験した不思議なお話を少々。
私の父は、母と結婚するまではキリスト教信者だったのですが、母が長女を生んで翌年に二卵性の長男と次女が双子で生まれまして、三人の育児に気がめいった母が育児ノイローゼになり、母方の創価学会員の叔母から折伏されて学会に入りました。
何事もやる以上は徹底的にやる性分の父で、当時としてはお医者さんの学会員はめずらしくあっという間に初代九州ドクター部長の職無につきました。
父が九州幹部を任された当時九州創価学会の総責任者は、戸田先生から九州広布を託された戸田門下の一番弟子、石田次男さんでした。教学において彼の右に出る者はないと言われた程、教学に精通されていた人物です。創価学会の池田先生の教学が「おかしい」と真っ先に気づかれたのもこの石田次男さんです。戸田先生亡き後三代会長の打診も戸田先生は次男さんになされていたようですが、
「自分はまだ会長職を引き受ける程、覚ってはおりません。」
とお断りなされていたようです。それをここぞとばかり古参の原島宏治理事長を言いくるめて、さっさと会長職をゲットしたのが池田先生です。(原島理事の息子さんが自身の著書の中で当時の状況を詳しく綴っております)ですから池田先生にとって先輩にあたる石田次男さんは、大変やっかいな存在だったのでしょう、小説『人間革命』を使って石田さんのイメージを徹底的に陥れたりしております。
その石田さんが九州広布の総責任者として九州創価学会の基盤を築いておられた昭和30年代、私の父もその石田次男さんの教学を受け継ぐ一人でした。
父の仏教観は池田先生のそれ(外道義)とは異なり、徹底した〝己心の法〟でした。
父は毎日朝必ず2時間の唱題を行いその後に御書を読み、数回に渡って御書を完読しておりました。私も小学生の頃から自分用の御書を与えられ、中学生の時に最初の教学試験いわゆる任用試験を受けました。事あるごとに御書を通して日蓮仏法の正しさ、素晴らしさを私達五人の子供達に教えてくれました。
そんな父が長年住み慣れた福岡の地を去り、兄が住む北九州に母と弟を連れ引っ越しました。そのころに私はネットで石田次男さんが書かれた池田先生の外道義教学を論破された論文と巡り合い、外道信仰(宇宙の法則)になり果てた学会を私は去りました。姉(長女)からは仏敵呼ばわりされ兄(長男)からも非道者呼ばわりされ、親戚一同からも村八分され、学会定番の脱会者=極悪人のレッテルも貼られました。
「仏と凡夫が同時に顕れる」というのはどういう事かと言いますと、「非空」を覚る事で「自身は常に仏と一緒に生きているんだなー」と実感するという事です。
則ち、仏を間近に観じるという事です。
そう心の底から思えた時、不思議な出来事が色々と起きてきます。
『法華経』は三転法輪から更に最終仕上げの第四時説法(開三顕一)となりますので、ここでの「空」の理解は先ほどお話しました、「非空」即ち仏を空じて真如の世界へ入る空です。
この非空を理解しますと仏(天界)と凡夫(欲界)が同時に顕れます(無所有処)。
析空・体空・法空と言った「空」の三段階における理解を覚らせる為にお釈迦さまはスリー・ステップ教法(三乗に開いた教え)を用いられた訳です。
蔵教=析空(倶舎論=阿含経典) 通教=体空(中 論=般若経典) 別教=法空(唯識論=解深密経)
この三つのそれぞれの「空」の特徴はこちらで詳しく解説しておりますのでご覧ください。
「空」の理論 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5
「四諦の三転法輪」の第三時の説法で「法空」を覚って別教の菩薩の境地に入ります。
蔵教で『倶舎論』、通教で『中論』、別教で『唯識論』が説かれますが唯識レベルで空を理解すると「法空」で阿頼耶識システムが発動します。
『倶舎論』レベルでの空の理解=析空(第六意識=顕在意識)人空 『中 論』レベルでの空の理解=体空(第六意識=顕在意識)人空 『唯識論』レベルでの空の理解=法空(第七意識=潜在意識)法空
人空と法空とでは認識の対象が、
人空(第六意識)=前五識 法空(第七意識)=阿頼耶識
猪木だってこう言ってます。(自作の詩)
こんなバカなら憧れちゃいます。
バカにならないように気をつけましょう。
色界に禅定で入る「定静慮」と転生で生まれいずる「生静慮」の二種があることは既にお話したかと思います。
間違いだらけの仏教の常識
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16
定静慮で色界禅定で色界に入り、次に無色界禅定で無色界へ入る「九次第定」は無余涅槃を得る為に行う瞑想です。無余涅槃ですので六道から離れて無色界へ転生(生まれいずる)します。無色界では肉体は伴わないので正真正銘の「無色」です(生静慮)。
日蓮大聖人の『撰時抄』に次のような下りがあります。
阿私陀仙人が悉達太子の生れさせ給いしを見て悲んで云く現生には九十にあまれり太子の成道を見るべからず後生には無色界に生れて五十年の説法の坐にもつらなるべからず正像末にも生るべからずとなげきしがごとし
「無色界に生れて」と書かれております。
これは阿私陀仙人が生静慮で無色界に転生した為、悉達太子(釈迦の出家前の名前)が成道して説法する坐につらなることができなかった事を嘆いたという説明をされている御文になります。
>> 12の「始成の三身」では肉体は空じているものの、実際に肉体は備わっております。ですから「無始無終」の法身であってもこの場合の法身は「色界」です。
それに対して三身が「無始無終」である久遠実成の仏(本仏)は、元から肉体を備えてはありません。ですから久遠釈迦は「無色界」となります。
まず「始成の三身」から説明します。
お釈迦さまはインドに生れ出て来ましたので「有始」です。そしてマッラ国のクシナガルに向かう途中に沙羅双樹(さらそうじゅ)の樹の下で亡くなります。なので「有終」となって「有始有終」---(応身)
これは欲界におけるお釈迦さま(仏)のお姿です。
インドに生れ出て(有始)菩提樹の下で覚りを開かれたお釈迦さまは五蘊を空じて空観に入ります。空観では肉体から解脱しておりますので「無終」となって「有始無終」---(報身)
これは色界におけるお釈迦さま(仏)のお姿です。
空観に入って『法華経』を説くお釈迦さまは迹門で「三千塵点劫」を明かして自身の生命が過去より今日まで続いていることを説き明かします(無始)。そして本門で「五百塵点劫」を明かして生命の永遠(無終)を説き明かして「無始無終」となります。---(法身)
真如の世界では時間という概念が生じませんので変化が起こりません。なので生じることも滅することもない「無始無終」です。
日蓮大聖人が『一代五時鶏図』の中で次のような図を示されておられます。
┌応身──有始有終
始成の三身┼報身──有始無終┬─真言の大日等
└法身──無始無終┘
┌応身┐
久成の三身┼報身┼無始無終
└法身┘
『法華経』本門に至って「五百塵点劫の法門」が説かれることで仏と全く縁が無かった衆生も救われていくのですが、それがどうして可能なのかを今から噛み砕いてお話して参ります。
『法華経』迹門ではここまでが説かれております。
しかしこの迹門の法門にはある重大な欠陥が含まれております。
それは、法華経を読誦して発芽する仏種が自身の阿頼耶識に備わっているか否かという問題です。
解りやすく言えば、過去に実際に仏の説法を聴聞した記録(記憶)が自身の阿頼耶識に刻まれているか否かという事です。阿頼耶識には全人類の壮大な記録が蓄えられております。その中から末那識の「俺が俺が」の自我意識が自身の記憶を拾い上げ、その業が七識を転識させていきます。良い業であればよい方向に転識し悪しき業であれば悪しき方に七識は転識します。
この阿頼耶識には全ての人類の行いが業として蓄えられておりますのでその阿頼耶識の蔵の中には「仏と仏弟子達」の修行の因も、その報いとして得られる果徳も、仏種として備わっております。しかしそれを拾い上げる「縁」が末那識の「俺が俺が」の自我意識なのですから、過去に仏と縁が無い「俺が俺が」の自我を「縁」としても仏種による七転識は残念ながら起こりません。
この欲界・色界・無色界を三界として観ているのが三種三観にあたります。
別教で説かれている「別相三観」です。
<凡夫の三観>(仮観)
客観
主観
実体
<仏の三身 >(空観)
応身
報身
法身
<如来の三身>(中観)
応身如来
報身如来
法身如来
『観無量寿経』に九品往生として説かれております三三九品の意味するところです。
詳しくはこちらの8から14の項をご参照ください。
https://butudou.livedoor.blog/
では、三千塵点劫の釈迦はどうでしょう。
阿頼耶識に蓄えられた〝業〟としての仏種なのでここでは縁起は起こりません。
「縁」がないとこの仏種は発芽しません。
ではその縁とはなんでしょう。
他ならぬ『法華経』です。
法華経を読誦することでそれが縁となって阿頼耶識の仏種が他の七識を転識させます(七転識)。
ここでは「色」に相当する要因は関係しません。
前五識は識です。六根ならば目や口や鼻などの感覚器官が「色」に相当しますが転識するのは五識と第六意識と第七末那識の七つの「識」です。
「色」が存在しない世界なのでこれを「無色界」と言います。
(無色界にはまた他の意味も含まれております。後程ご説明します)
菩提樹の下ではじめて覚りを開いたお釈迦さまの事を「始成正覚の仏」と言います。
しかし『法華経』の迹門で自身は今世ではじめて成道したのではなく、既に三千塵点劫の昔において成道していた事を明かします。
この「始成正覚の釈迦」と「三千塵点劫の釈迦」の違いってなんでしょう。
始成正覚の釈迦には肉体が備わっております。三千塵点劫の釈迦には肉体はありません。阿頼耶識に記憶として留められた仏です。
肉体を持った釈迦は五蘊は空じて空観に入っておりますので色(肉体)をともなった状態で世界を観ます。その世界観が色界です。阿頼耶識を因として縁起が起こりますので対象のモノ(色)がそのモノと成り得た因果が観えてきます。
三千塵点劫と言うのは、三周の説法の『化城喩品第七』の因縁説周で出てきます大通智勝仏の時代の「結縁」のお話です。この三千塵点劫の因縁が明かされて迹門の「理の一念三千」が解き明かされます。
「理の一念三千」とは天台智顗が詳しく説き明かした凡夫が仏の覚りを得る為の円融三諦の理論です。
三周の説法で声聞の弟子達が覚ったのはこの理としての一念三千の法門です。
日蓮大聖人は『開目抄』で、
「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず」
と仰せのように、本門で五百塵点劫が明かされて初めて一切衆生成仏の原理である真実の「事の一念三千の法門」が示されます。
この「仏と如来の違い」は、『法華経』で説かれている三五の法門を学ばないと理解には至りません。
三五の法門とは、日蓮大聖人が『兄弟抄』の中で、
「経文に入つて此れを見奉れば二十の大事あり、第一第二の大事は三千塵点劫五百塵点劫と申す二つの法門なり」
と言われました大変重要な御法門です。
法華経の経文には二十の大事な法門があり、中でも第一、第二の大事は三千塵点劫、五百塵点劫という二つの法門であると日蓮大聖人は申されております。また、『法華取要抄』にもこの二つの法門について述べられています。
「今・法華経と諸経とを相対するに一代に超過すること二十種之有り其の中最要二有り所謂三五の二法なり」
今、『法華経』と諸経とを比較すると、法華経が釈尊一代の他の諸経よりもはるかに勝れている点が二十種ある。その中でも最も重要なことが二つある。いわゆる三千塵点劫・五百塵点劫の二法である。
日蓮正宗では、「久遠元初」という言葉を用いて日蓮本仏論を立てておられますが、日蓮大聖人は御書の中で〝久遠元初〟という用語は一度たりとも使われておられません。
上に示した二つの御抄に於いて、最も重要なのは〝三千塵点劫〟と〝五百塵点劫〟の二つの法門であると明確に述べられておられます。
この非空を覚れない人は仏と如来を同一視します。
龍樹が『中論』の第22章「如来の考察」でその違いを述べております。
2.仏と如来の違い
https://butudou.livedoor.blog/archives/17702360.html
「非空」と言いますのは、仏教の重要概念であるところの「空」の理解を四段階に分けた析空・体空・法空・非空の最後の「空」の理解となります。
<四悉檀によるところの空の理解の段階分け>
析空=蔵教(但空)
体空=通教(不但空)
法空=別教(但中)
非空=円教(不但中)
「但空」はただ色心諸法の空の理だけを知って、不空、すなわち空でない側面を見ない偏頗な法門で、蔵教の二乗が陥った空の解釈です。
「不但空」とは、通教の空観で、一切の諸法はことごとく〝空〟でありながら、しかも〝空〟のみに偏せず、〝不空〟の側面をも観ずるもの。
「但中」とは別教の法理で、空・仮・中の三諦のうち、空と仮の二辺を除いて、ただ中のみを立てる法門です。
「不但中」とは円教所詮の理で、別教のように空仮の二辺を除いてただ中を立てるのでなく、空仮中の三諦が円融するなかで空諦・仮諦を包含した中諦(中道)を明かす法門となります。
この「仏」という概念から抜け出た境地が非空の真如の世界です。
仏の空観を空じて入る真如の中観です。
覚りの世界観です。
三周の説法では声聞・縁覚・菩薩の三乗の因果(三種三観)が明かされ、虚空絵では仏の因果が明かされて本門においてはじめて阿頼耶識の〝仏の種子〟としての「十界の因果」が説き顕されます。
この「本因本果の法門」をさらに深く理解する為に、次に「三五の法門」についてお話致します。
「意識」が無く縁起も起きないこの阿頼耶識に、意識として入る事はまずもってあり得ないかと思われます。
初期仏教の「九次第定」ではその意識を止滅させてこの境地に入る訳ですが、ここに入っても意識がありませんので何かを覚るという事も考え難いです。ただ〝無〟の境地に入って六道からの輪廻を解脱するだけの涅槃(無余涅槃)でしかないでしょう。
日蓮大聖人が法身ではなく報身を正意とされているのは、こういったところによるものではないでしょうか。
世間一般的に〝仏〟と言えば「法身」というイメージが強くあるかと思われますが、日蓮や天台教学では仏の〝意識〟は「報身」にあると考えます。それは先に紹介しました「野坂論文」に目を通して頂けますと十分にご納得頂けるかと思います。
「無為」とは縁起が生じないという意味で、究極の覚りの世界(真如の世界)にあっては縁起は起こりません。『唯識』で説かれている第八阿頼耶識がこれにあたります。ここでは意識が働きませんので善悪等の判断も起こりません。ですから長い・短いも綺麗・汚いも嬉しい・悲しいも生じる事も滅する事も何も起こりません。なので無始無終です。
そこにあるのはただ、業(行いの記録)だけです。
しかし、仏が積んで来た修行の因(行い)も、その修行の報いとして得て来た果徳(果報)もここには全て収まっております。ここでの因果は縁起としての因果ではなく、業としての因果です。
日蓮大聖人は『法華真言勝劣事』の中で、
今大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終なり三身の無始無終に非ず、法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之を破りたる五百塵点なり、大日経等の諸大乗経には全く此の義無し
と申され、『開目鈔』でも、
雙林最後の大般涅槃経・四十巻・其の外の法華・前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず
と申されております。
大日経等の諸大乗経典では大日法身の無始無終は説かれてはいるが、応身・報身の無始無終は『法華経』にしか説かれておりません。
そして『開目鈔』で、
本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打やぶて、本門十界の因果をとき顕す。此即本因本果の法門なり
と仰せです。蔵・通・別・円の四教の教えは全て因果を説いたものでした。しかしその「爾前迹門の十界の因果」を打やぶって「本門十界の因果」が説き顕されます。
これが即ち、「本因本果の法門」です。
どういう事だか解りますか。
蔵・通・別・円の四教で示して来た〝因果〟を打ち破った「因果」なんです。
有為の因果ではなく、無為の因果が『法華経』本門では明かされているのです。
『法華経』の本門で「五百億塵点劫」が明かされ、お釈迦さまは実は久遠において既に成仏の覚りを得ていた事が明かされます。その「五百億塵点劫」についての研究論文の中に、
三五塵点に関する一考察―五百億塵点劫実説について― 野坂 教翁
https://gakurin.ac.jp/wp-content/pdf/17/「三五塵点に関する一考察―五百億塵点劫実説について―」.pdf
という「野崎論文」があります。
論文の中で「久遠本仏」と「大日如来」との勝劣が述べられております。
久遠本仏と大日如来との勝劣に関し、法身仏・無始無終である大日如来に対して久遠本仏は三身の無始無終であって諸経に説かない、と述べられている。即ち久遠本仏は三身即一であり、更に法華経の説く五百塵点は無始無終と考えられていたことも看取できる。
『法華真言勝劣事』
問て云く大日経の疏に云く大日如来は無始無終なりと。遥に五百塵点に勝れたり。如何。答ふ…諸大乗経に之を説く。独り大日経のみに非ず。問て云く若爾らば五百塵点は際限有れば有始有終也。無始無終は際限無し。然れば則法華経は諸経に破せ被るるか如何。答て云く…今大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終也。三身の無始無終に非ず。法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之を破したる五百塵点也
また『開目抄』では、応身報身の顕本は法華経でのみ説くと述べており、報身を正意としていることは明らかである。
『開目抄』
其外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず久遠本仏が三身即一・報身正意である理由を述べると、一点目として上冥下契が挙げられる。報身仏による自行があって初めて、法身である真理に到達することが可能であり、応身となって示現することで初めて衆生を教化することができる。もし報身仏が三身の主体でなければ、換言すればもし法身が三身の主体であれば、真理は真理のままであって応身が示現することも無い。報身を実体として三身を具足するからこそ三世に亘る衆生教化が可能である。二点目として自行の成道がある。寿量品の文「我実に成仏してより已来た久遠なること斯の如し」より、仏は久遠本時に成道した、と説かれている。この文から報身仏が主体であり法身に境智冥合したと考えるべきである。もし法身が主体であればそもそもこの成道自体が不要であるので本地の開顕、寿量品自体が方便と見做されることとなる。よって法身正意ではなく報身正意といえるのである
一方、久遠本仏における三身の寿命については『一代五時鷄図』にて全て無始無終と明記している。後述する図を見れば明らかであるが、始成正覚の仏の三身において応身・報身は有始であるが、久遠本仏の三身において三身ともに無始無終となる。
応身―有始有終
始成の三身 報身―有始無終
法身―無始無終 (真言の大日等)
応身―無始無終
久成の三身 報身―無始無終
法身―無始無終
日蓮大聖人はその疑いがどれ程のものであったかを次のような話を用いて説明されます。
観無量寿経において韋提希夫人が子息の阿闍世王に殺されようとし、しかも夫人の夫で阿闍世の父たる頻婆沙羅王が幽閉されて殺されたのは、阿闍世が提婆達多を師としたからである。阿闍世は韋提希夫人をも殺そうとしたが耆婆と月光の二人の大臣に諌められて、これを放ったが、この時に夫人は釈尊に会ってまず第一の質問に「自分の過去世になんの罪業があって、このような悪子を生んだのか。世尊はまたなんの因縁があって提婆達多のごとき悪人と従兄弟の間柄に生まれてきたのか」と、この疑いの中に「世尊はまたなんの因縁があって……」等の疑いは大なる大事である。転輪聖王は敵とともに生まれず、帝釈は鬼とともにいないといわれているが、仏は無量劫以来の大慈悲者であらせられるのになにゆえに大悪逆の達多とともにいるのか。かえって仏ではないのであろうかと疑ったのである。しかれどもその時に仏は答えなかった。されば観経を読誦する人は、法華経の提婆品に来て初めて説き明かされる因縁を聞かなければなんにもならないのである。大涅槃経に迦葉菩薩が三十六の質問を出しているが、それも涌出品におけるこの弥勒の疑いにはおよばない。
仏がこの疑いを晴らさなければ、釈迦一代の聖教はことごとく泡沫となり、一切衆生は疑いの網にかかってしまうであろう。しかるに、この疑いに正しく答えられた寿量の一品が大切なる理由はこのゆえである。
と大聖人は仰せになり、つぎの寿量品の広開近顕遠をもってより具体的にそして明確に「本因本果」が説き明かされていきます。
日蓮大聖人は、この弥勒の疑いの心を次のようにご説明なされておられます。
日本の聖徳太子は人王第三十二代用明天皇の御子である。御年六歳の時、朝鮮半島や中国大陸から渡ってきて学問技芸等を伝来した老人たちを指して「わが弟子なり」とおおせられたので、かの老人たちはまた六歳の太子に合掌して「我が師であらせられる」といったというが、実にふしぎなことである。外典にはまたつぎのような話がある。ある人が道を行くと路傍において、三十歳ばかりの若者が八十歳ばかりの老人をとらえて打っていた、どうしたことかと問えば「この老人はわが子である」と青年が答えたという話にも似ている。
お釈迦さまの言うことが信じられない弥勒菩薩等は更に疑って言った。
「世尊よ、如来は太子であらせられた時、釈の宮を出で、伽耶城を去ること遠からずして道場に坐して悟りを開かれたのである。それよりこのかた始めて四十余年を過ぎたのであるが、世尊よ、いったいどうしてこの少ない期間にこのような偉大な菩薩大衆を化導しておおいなる仏事をなしとげられたのか」
と。一切の菩薩を始め、華厳経より四十余年、それぞれの時々に疑いを設けて一切衆生の疑いを晴らせてきた中に、この疑いこそもっとも第一の疑いである。無量義経において大荘厳菩薩等が四十余年の爾前経は歴劫修行であり、無量義経にいたって始めて速疾成仏道と説かれて生じた疑いにもまさる大疑である。
お釈迦さまは弥勒菩薩の質問に答えて言います。
「弥勒よ、なんじらが昔より未だ見たことのないというこれらの大菩薩たちは、自分がこの娑婆世界において成仏してよりこのかたこの諸々の菩薩を教化し、指導して、その心を調伏して大道心をおこさしめたのである」と。またいわく「われは伽耶城の菩提樹の下に坐して、最正覚を成ずることを得、しかして無上の法輪を転じ、これらの大菩薩を教化して初めて道心をおこさしめ、いまはみな不退の位に住している。乃至自分は久遠よりこのかたこれらの衆を教化した」と涌出品に説き明かしている、これはすなわち略開近顕遠である。
法輪という言葉が出てきますがこれは四諦の法輪説法(三転法輪)の事です。「略開近顕遠」とは、久遠における本因本果をお釈迦さまは、弥勒に対してここではこのように略して語っておられます。
しかし、弥勒等の大菩薩はここで大いに疑いを抱いた。
お釈迦さまが『華厳経』を説かれた時、法慧等の無量の大菩薩が集まった。いかなる人々かと思われた時に、仏はわが善知識であると仰せられたから「そうかもしれない」とその時は思っていた。
その後の大集経を説いた大宝坊や、大品般若経を説いた白鷺池等に集まってきた大菩薩もまた仏の善知識であるように思われた。
しかし今、地から湧き出て来たこの「地涌の菩薩」達は、彼らには似もつかぬ古くて尊げに見える。定めて釈尊のご師匠かなどと思われるのに「初めて道心をおこさしめた」と説いて、かつては幼稚のものであったのを、教化して弟子としたなどと仰せられたことは、大なる疑いである。
そう内心で疑わざる負えなかった弥勒菩薩は、あまりの不思議さに声を出すことすらできなかったが、仏力の加護によるのであろう、つぎのように質問した。
「無量千万億の大衆のもろもろの菩薩は、昔よりいまだかつて見たことのないところである。このもろもろの大威徳・大精進の菩薩衆に対して、だれがそのために法を説いて教化して仏道を成就せしめたのか。誰にしたがって初めて発心し、いずれの仏法をか称揚して修行を積んできたのか。世尊よ、われ昔よりこのかたいまだかつてこのことを見たことがない。願わくば、その住する国土の名を説き聞かせてください。自分はつねに諸国に遊んできたが、いまだかつてこの事を見たことがない。自分はこの地涌の大衆を見てもひとりも知っているひとはない。忽然として大地より涌出せられた。願わくばその因縁を説いてください」
と。そして日蓮大聖人は天台や妙楽の言葉を紹介されます。
天台いわく「寂滅道場における最初の説法より以来、法華経の座にいたるまで十方の大菩薩が絶えず来会してその数は限りないとはいえ、自分は補処の智力をもってことごとく見、ことごとく知っている。しかれどもこの衆においてはひとりをも知らず。しかるに自分は十方に遊戯して諸仏にまのあたり奉仕し、大衆によく識知せられているのである」と。妙楽はさらにこれを釈していわく「智人は将来起こるべきことを知るが愚人は知らない。蛇の道は蛇で、蛇はみずから蛇を知っている」と、このように経文も解釈も説明するところの意味は分明である。要するに初成道より法華の会座にいたるまで、この国土においてもまた十方国土においても、これらの大菩薩を見たてまつらず、また聞いたこともないというのである。
そして弥勒菩薩は心の中で次のように思った。
自分は釈迦仏が出家する以前の太子であった時から、三十歳で成道し、いまの霊鷲山で法華経の説法が開かれるまでの四十二年のあいだ、この世界の菩薩も十方世界より来集した菩薩もみなことごとく知っている。またその上に十方の浄土へも穢土へも、あるいはお使いとしてあるいはみずから遊びに行って、その国々の大菩薩も見聞して知っている。しかしこの地涌の大菩薩はいまだかつて見聞したことがない。この大菩薩のお師匠はどのような仏さまであろうか。よもこの釈迦・多宝・十方の分身の諸仏には似るべくもない仏さまであらせられるであろう。雨の猛烈に降るを見て竜の大なることを知り、華の大きく盛んなるを見てこれを育てている池の深いことは知られるであろう。これらの大菩薩はいかなる国から来て、また誰と申す仏にあい奉り、いかなる大法をか修習し給うているのか。
『開目抄』
その上に地涌千界の大菩薩が大地より出来した。釈尊にとっては第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の樵夫・杣人の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。釈迦仏のあとを嗣ぐといわれた弥勒すら、なお地涌の出現に惑われた。しかしてそれ以下の者の驚きと当惑はひじょうなものであった。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖がましました。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行であらせられる。
そこに出現した地涌の菩薩達は帝釈天が顕れたのかと見間違う程で、その場に居合わせた普賢菩薩や文殊菩薩等が猿に見えてくる程の素晴らしいお姿であったと。中でも先頭に立つ四菩薩は、
この四人は虚空会および霊山会に来集している諸菩薩等が、眼をあわせることも心のおよぶこともなかった。華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も、この菩薩に対すれば翳眼のものが太陽をまともに見られないごとく、いやしい海人が皇帝に向い奉るような状態であった。太公望等の四聖が大衆の中にいるごとく、商山の四人の君子が漢の恵帝に仕えたのと異ならない。じつにぎぎ堂々として尊高であった。釈迦・多宝・十方分身の諸仏をのぞいては、一切衆生の善知識ともたのみ奉るべきであろう。
という程のものでした。
『法華経』涌出品第十五で地涌の四菩薩が出現した時の様子を日蓮大聖人が『開目抄』の中で解りやすく述べておられますので現代語訳で紹介します。
まず、お釈迦さまの『法華経』説法を聴聞していた弟子達が、
「世尊、もしも我らに、仏が世を去られた後のこの娑婆世界にあって、努力し雑念を去り仏道修行に専心してこの経典を護持し、読み節をつけて唱え、書写し、供養する役目を課されるならば、この土において、きっと広くこれを説き奉るでしょう」
と熱い決意を訴えるのですが、お釈迦さまは何とこれを退けます。
「止めよ、仏法に帰依した男子よ、おまえたちはこの経を護持しなくてもよい」
そう言われて弟子達が
「えええ! 何で~!」
とショックに打ちひしがれていると、大地が激しく震動して裂け、そこから金色の光彩を放って無数の地涌の菩薩が出現します。その菩薩達は身体が皆金色で、仏のみが備えている三十二のすぐれた身体的特徴を具えていた。
お釈迦さまが五百塵点劫の久遠より呼び寄せた四菩薩(地涌の菩薩)について大聖人は『開目抄』の中でも次のように表現なされております。
「其の上に地涌千界の大菩薩・大地より出来せり釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢文殊等にも・にるべくもなし、華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集する大菩薩・大日経等の金剛薩タ等の十六の大菩薩なんども此の菩薩に対当すれば獼猴の群る中に帝釈の来り給うが如し、山人に月卿等のまじはるにことならず」
[現代語訳]
釈尊にとっては、第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩や大日経等の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の賤民の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。
大地が裂け、その中から涌き出てきた上行菩薩はじめ無量千万億の地涌の菩薩は、「身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり」と『従地涌出品第十五』には記されています。体が皆金色で、三十二相を具え、無量の光明を放っていたそうです。これは仏と等しい悟りを得た菩薩の最高位である「等覚の菩薩」を意味しています。
法華経本門において五百塵点劫より呼び出だされた「等覚の菩薩」は、菩薩でありながら仏である、「九界即仏界」の十界互具の姿でした。
「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」
の『開目抄』の御文が示すところです。
その菩薩でありながら「仏」の「九界即仏界」の上行菩薩に対し、お釈迦さまは、
「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽」
(我もと菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今なお未だ尽きず)
と、仏でありながら菩薩の道を行ずる「仏界即九界」の姿が示されています。仏界と九界とが、かけ離れている爾前迹門の「厭離断九の仏」ではなく、九界の中に仏界を具そくする十界互具の「菩薩」と、仏界の中に九界を具そくする十界互具の「仏」であるから、寿量品の仏「久遠実成の釈尊」も、久遠から呼び出された上行菩薩も、どちらも「本仏」と成り、本来ならば仏から仏へ成されるはずの結要付嘱の儀式が、仏から上行菩薩への付嘱として説かれています。
この虚空絵の「九界即仏界」「仏界即九界」の結要付嘱の儀式で真の十界互具が示されます。
そして、仏が究極の覚りを得た「本因」と「本果」がこの虚空絵の儀式で「本因本果の法門」として説き明かされていきます。
では、再び虚空絵のお話に戻りまして、日蓮大聖人が『呵責謗法滅罪抄』の中で虚空絵の事を次のように紹介なされております。(現代語訳で紹介します)
釈迦仏は妙法蓮華経の五字を四十余年の間、秘密にされたばかりでなく、法華経迹門十四品に至っても、なお妙法五字を抑えて説かれず、法華経本門寿量品にして初めて本因・本果の蓮華の二字を説き顕わされたのである。この妙法の五字を、釈迦仏は文殊・普賢・弥勒・薬王等の菩薩にも付嘱されなかった。地涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出して妙法を付嘱されたのである。
この儀式は普通の儀式ではなく、宝浄世界の多宝如来が大地から七宝の塔に乗って涌現されたのである。三千大千世界の他に四百万億那由佗の国土を浄め、高さ五百由旬の宝樹をことごとく一箭道に殖え並べて、その宝樹一本の下に五由旬の師子の座を敷き並べ、そこへ十方分身の諸仏がことごとく来て坐られたのである。また釈迦如来は、垢衣を脱いで宝塔を開き、多宝如来と並ばれたのである。この姿を譬えれば、青天に太陽と月とが並んだようなものであり、帝釈天と頂生王とが善法堂にいるようなものである。この世界の文殊等、他方の観音等の菩薩が虚空に雲集した姿は、さながら星が空に充満するようであった。
この時、この娑婆世界には華厳経の七処八会に集まった十方世界の台上の盧舎那仏の弟子たる法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の十方刹土の塵点数の大菩薩が雲集した。更に、方等経の大宝坊に雲集した仏・菩薩、般若経に集まった千仏、須菩提・帝釈等、大日経の八葉九尊の四仏四菩薩、金剛頂経の三十七尊等、涅槃経の倶尸那城へ集まられた十方法界の仏・菩薩を文殊や弥勒等の菩薩はたがいに見知っていて語りあっていたので、これらの大菩薩はその出仕にものなれているように見えたのである。しかし、今この上行をはじめとする四菩薩が出現された後は、釈迦如来にとっては九代の本師で、三世の諸仏の母であられる文殊師利菩薩も、また一生補処といわれた弥勒菩薩等も、この四菩薩に値ったのちではものの数とも見えないほどであった。譬えば山奥のきこりが高貴な月卿等の貴族の中に交わり、また猿が師子の座に列なったようなものである。
釈迦仏はこの人びとを召して妙法蓮華経の五字を付嘱されたのである。その付嘱もただごとではなく、仏は十神力を現じられたのである。釈迦仏は広長舌を色界の頂に付けられたので、諸仏もまた同様にされた。四百万億那由佗の国土の空に諸仏の舌がまるで赤い虹を百千万億並べたように充満したので、実におびただしいことであった。このような不思議の十神力を仏は現じ、結要付嘱といって、法華経の肝心を抜き出して四菩薩に譲り、わが滅後に十方の衆生に与えよと慇懃に付嘱して、そののちまた一つの神力を現じて、文殊等の自界、他方の世界の菩薩・二乗・天人・竜神等には一経および一代聖教を付嘱されたのである。
もとより影が身に随っているように仕えていた迦葉・舎利弗等にも、この五字を譲られなかった。これはさて置こう。文殊・弥勒等に対してはどうして付嘱を惜まれるのか。たとえ滅後に弘めるべき器量がなくとも嫌うべきではない、等々不審であるのを、仏はあるいは他方の菩薩はこの土に縁が少ないと嫌い、あるいはこの土の菩薩であるが、結縁の日が浅いと嫌い、あるいはわが弟子ではあるが初発心の弟子ではないと嫌われたので、四十余年ならびに法華経迹門十四品のうちには一人も初発心の弟子がなく、この四菩薩こそ五百塵点劫より以来、教主釈尊の弟子として初発心の時より、また他の仏に仕えずに迹門・本門の二門をふまなかった人びとであると説かれている。
天台は法華文句の九に「但下方より涌出した本化の菩薩の発誓をみる」等。またいわく「これ我が弟子である。我が法を弘めるべきである」と。妙楽は法華文句記に「子は父の法を弘める」と述べ、道暹は文句の輔正記に「法がこれ久遠実成の法であるから久遠実成の人に付嘱する」と述べている。この妙法蓮華経の五字を仏はこの四菩薩に譲られたのである。ところが仏の滅後、正法千年、像法千年、末法に入って二百二十余年の間に、月氏、漢土、日本さらに一閻浮提の内に、いまだ一度も妙法を弘める四菩薩が出現されないのはどういう事なのであろうか。正しくもお譲りになられなかった文殊師利菩薩は、仏の滅後四百五十年までこの娑婆世界におられて大乗経を弘められ、そののちも香山、清涼山から度度来て、大僧等となって法を弘められた。薬王菩薩は天台大師となり、観世音菩薩は南岳大師となり、弥勒菩薩は傅大士となった。迦葉・阿難等は仏の滅後二十年、四十年法を弘められた。
父が亡くなった通夜の前の夜、兄の家で父と最後の夜を過ごした。
深夜一人で2~3時間は父にお題目を送っただろうか。
唱題を終えて父の枕もとに於いてある父の御書をふと手に取り、何気に開いたページに目をやると、そこには偶然にも次の文句が記されていた。
御書の984ページ『始聞仏乗義』、
「末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず父母も又即身成仏せん此れ第一の孝養なり」
その御文を目にした私の目から止めどもない涙があふれ出た。
おしまい。
父が亡くなる三年前、母が先に旅立ちました。
母の最期は病院でだった。深夜だった為北九州の長男夫婦と次女の三人が付き添っての臨終でした。
姉(次女)が後に私にこう言った。
「法介が居なくて良かった」
その言葉の意味は、兄姉の中で人一倍母を慕っていたのが私だったからです。
姉(長男の嫁)がある時何気に口にした。
「お母さんの時は、ちょっと可哀そうだったよね」
と。
母の死を聞いて良く朝私は父の北九州の家(←長男の家の近所に立てた)に駆け付けた。
横たわる母の顔は、少し苦しげだった。
私は、母の枕もとに寄り添ってずっと一人、題目を送った。
私の妻と三人の子供達も福岡からやって来た。
会館で母と最期の一夜を過ごした時、我が家の皆で母に法華経を唱えお題目を送った。うちの子供達は父が私にしてくれたように、事あるごとに私がこの仏法の正しさ素晴らしさを子供達一人一人に語って来た。
皆、どこの宗派にも団体にも属してはいないが、日蓮仏法を自分の意志で実践している。
家族での勤行・唱題を終えて母の顔を見た妻が言った。
「お母さん、って呼びかけたら今にも目が開きそうな、まるで生きてる見たいに眠ってるね」
と。
翌日、葬儀を終え出棺のさい、皆で棺のふたを閉める時、母の最期の顔は優しく微笑んでいた。
私の娘が小学生だった頃、一緒にモルモットを買って飼育していた。
モコちゃんという名を娘が付けて可愛がっていた。そのモコがある朝急に亡くなって、ゲージから取り上げると既にカチコチに硬直していた。その亡骸を御本尊の前に寝かせて私はずっとお題目をモコちゃんに送った。そして娘が学校から帰って来て、
「モコちゃん抱っこしてごらん」
と娘に渡すと、娘は驚いた。
「柔らかくなってる」
カチコチに硬直していたモコちゃんの体は、生きている時のようにしなやかになっていた。
モコちゃんは娘にお題目の凄さを身をもって教えてくれた。
救急車で兄の自宅まで運ばれた父は、病院で付けられていた管や装置は一切外され、仏間の御本尊の前に布団を敷き、後ろに布団をあてがって上半身を起こして父は唱題を始めました。
私達兄姉も父を囲むように座り父の唱える声にならないお題目にあわせ皆で唱題しました。十数分でしょうか父がもういいといって今度は自分の御書をくれと言い、兄が手渡すと自分が好きな御書のページを開いて目を通すと満足そうに兄に御書を返して、
「寝かせてくれ」
といって当てていた布団をどけ、寝床に就かせると静かに眠りについた。
いや、まだ死んではおりません。
ただ、眠りについただけです。
眠りについてどれくらい経ったであろうか。
2~3時間ぐらいだったかと思います。
私が父の様子を見に行くと、呼吸がだんだん弱くなっていくのを確認しました。
兄が、
「そろそろやね」
と言った。
皆が父を囲み右手を私が左手を長女がそれぞれ握りしめ、
「お父さんありがとう」
と皆がそれぞれ最後の別れを告げた。
それを聞き取ったかのように父の呼吸が静かに止まった。
お父さん、あなたの子として生まれて来た事を誇りに思います。
兄姉皆、同じことを心の中でつぶやいたであろう。
ここに、わたしのyahoo知恵袋での投稿があります。どうか目を通されて下さい。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14280361174
私は元々、常に学会活動の中に「なにかおかしい」を観じておりましたのでこういった性分ゆえに、九州の学会本部にもたびたび物申しに行かせてもらっておりました。
父からよく、
「また吉橋さん(←当時の九州総合長)から、あんたんとこの息子が本部に文句言いに来よったぞ、と言われたよ。」
と、言われて申し訳なかったのですが、何分納得のいかない事に対しては一歩も引けない融通の利かないゆゆしき奴なので^^
そんな父が北九州の病院に入院したと聞いて、東京に就職してちょうど里帰りしていた私の次男を連れて病院に見舞いに行きました。思ったよりも元気そうで安心し、近くの資さんうどんに次男とお昼を取りにいって病室に戻ってみると姉(長女)が同じように見舞いに来ており、
「お父さん! 大丈夫!」
と慌てふためいておりました。主治医の先生も様子を見にこられたんですが、父が先生になにやら必死に伝えておりました。
どうやら父は主治医に「家に帰る」と言いっているようで先生は、
「そんな事は許可出来ません!」
と当たり前のように跳ね除けていたのですが、駆けつけた長男(←こやつも医者)が、
「私が全責任を取りますから」
と申し出て、父を救急車で病院から兄の自宅へと搬送する事になりました。担当医はあきれた容姿で言いました。
「こんな事、私は医者をやってて始めてですよ、、、」
そうですよね。普通は家から病院に救急車で運ばれるものですよね。
流石私の父ですね^^
人がやらない事をやりたがるんです。うちの血筋は、、、。
私の父が亡くなった時に私が体験した不思議なお話を少々。
私の父は、母と結婚するまではキリスト教信者だったのですが、母が長女を生んで翌年に二卵性の長男と次女が双子で生まれまして、三人の育児に気がめいった母が育児ノイローゼになり、母方の創価学会員の叔母から折伏されて学会に入りました。
何事もやる以上は徹底的にやる性分の父で、当時としてはお医者さんの学会員はめずらしくあっという間に初代九州ドクター部長の職無につきました。
父が九州幹部を任された当時九州創価学会の総責任者は、戸田先生から九州広布を託された戸田門下の一番弟子、石田次男さんでした。教学において彼の右に出る者はないと言われた程、教学に精通されていた人物です。創価学会の池田先生の教学が「おかしい」と真っ先に気づかれたのもこの石田次男さんです。戸田先生亡き後三代会長の打診も戸田先生は次男さんになされていたようですが、
「自分はまだ会長職を引き受ける程、覚ってはおりません。」
とお断りなされていたようです。それをここぞとばかり古参の原島宏治理事長を言いくるめて、さっさと会長職をゲットしたのが池田先生です。(原島理事の息子さんが自身の著書の中で当時の状況を詳しく綴っております)ですから池田先生にとって先輩にあたる石田次男さんは、大変やっかいな存在だったのでしょう、小説『人間革命』を使って石田さんのイメージを徹底的に陥れたりしております。
その石田さんが九州広布の総責任者として九州創価学会の基盤を築いておられた昭和30年代、私の父もその石田次男さんの教学を受け継ぐ一人でした。
父の仏教観は池田先生のそれ(外道義)とは異なり、徹底した〝己心の法〟でした。
父は毎日朝必ず2時間の唱題を行いその後に御書を読み、数回に渡って御書を完読しておりました。私も小学生の頃から自分用の御書を与えられ、中学生の時に最初の教学試験いわゆる任用試験を受けました。事あるごとに御書を通して日蓮仏法の正しさ、素晴らしさを私達五人の子供達に教えてくれました。
そんな父が長年住み慣れた福岡の地を去り、兄が住む北九州に母と弟を連れ引っ越しました。そのころに私はネットで石田次男さんが書かれた池田先生の外道義教学を論破された論文と巡り合い、外道信仰(宇宙の法則)になり果てた学会を私は去りました。姉(長女)からは仏敵呼ばわりされ兄(長男)からも非道者呼ばわりされ、親戚一同からも村八分され、学会定番の脱会者=極悪人のレッテルも貼られました。
「仏と凡夫が同時に顕れる」というのはどういう事かと言いますと、「非空」を覚る事で「自身は常に仏と一緒に生きているんだなー」と実感するという事です。
則ち、仏を間近に観じるという事です。
そう心の底から思えた時、不思議な出来事が色々と起きてきます。
『法華経』は三転法輪から更に最終仕上げの第四時説法(開三顕一)となりますので、ここでの「空」の理解は先ほどお話しました、「非空」即ち仏を空じて真如の世界へ入る空です。
この非空を理解しますと仏(天界)と凡夫(欲界)が同時に顕れます(無所有処)。
析空・体空・法空と言った「空」の三段階における理解を覚らせる為にお釈迦さまはスリー・ステップ教法(三乗に開いた教え)を用いられた訳です。
蔵教=析空(倶舎論=阿含経典)
通教=体空(中 論=般若経典)
別教=法空(唯識論=解深密経)
この三つのそれぞれの「空」の特徴はこちらで詳しく解説しておりますのでご覧ください。
「空」の理論
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5
「四諦の三転法輪」の第三時の説法で「法空」を覚って別教の菩薩の境地に入ります。
蔵教で『倶舎論』、通教で『中論』、別教で『唯識論』が説かれますが唯識レベルで空を理解すると「法空」で阿頼耶識システムが発動します。
『倶舎論』レベルでの空の理解=析空(第六意識=顕在意識)人空
『中 論』レベルでの空の理解=体空(第六意識=顕在意識)人空
『唯識論』レベルでの空の理解=法空(第七意識=潜在意識)法空
人空と法空とでは認識の対象が、
人空(第六意識)=前五識
法空(第七意識)=阿頼耶識
猪木だってこう言ってます。(自作の詩)
こんなバカなら憧れちゃいます。
バカにならないように気をつけましょう。