本当に解決したならば、経典が本当に意味がないものだったとしても知らぬままその結論は出せない、読んでみて結局必要なかったと知るだけです。そもそも解決していたなら経典を読んで問題になるはずもありません。
でも経典を読まないままに読む必要はないとするのはそれを読んだら悟りから離れるから読まないという思い込みであり、我であり、それはそのまま解決してないことを意味します。
とはいえ主客一如であるうちは煩悩から解放され、戻ってしまってもまた入る事によって解決とすると言うならばそれはそれで1つの解決ではあると思います。
だから私は継続的な解決であり、永続的ではない、とは言いますがそれは相手がどう思うかであって私の問題ではない。
固定観念を破るのは他人ではなく自分ですからね。リダンと似てるのよなぁ。
主客一如の体験は素晴らしい事ですね。でもそれが=悟りとはならないと思います。 それによって無我を理解したならば主客一如に固執する我は生まれませんね。
空という概念の理解を空っぽとか、何もないという答えになるのは致し方ないのか、とも思います。
主客一如は主体と客体の区別のなくなる一体化であり、唯識でも言われる見分はあれど相分はないの部分に関わってきます。
何の理解もないままその体験をしたならば、その相分はない、というのを存在しないと感じてしまうでしょう。
そうなると空の理解が空っぽとか、何も無いという理解になります。
それはつまり縁起が関係ないと言う理由にもなります。 この体験だけでは無常や縁起の理解はないですから。勿論完全にないとは言いません。 でも縁起を知らぬまま根本的な解決には至りません。 実体はなくても生じているんです。それの理解が足りぬままでは主客一如に固執する我には気付かないでしょう。
お
😀
おはー
なんや
遮断してなかったんか?
オトナになったな
テスト
休日は
闇の中の光をテーマに 宗教研究をする
ユーチューブは 闇と光を覗けるのがある
https://m.youtube.com/shorts/r7YeOuFOMyI
大阪のぐり下も カオスらしい
😫
書き込み口がでてきたな
試してみてくれ
でおー
これでどうだ?
あー分かった!
もう一か所設定するとこがあった
投稿するにはメンバーである必要がありますって
なってるな、、、
あれ?
ログアウトして見たら
でおーの言うとおりだ
設定は何度見ても
フリー投稿可能になっているんだが
勘違いしてないか?
間違いなく
ここ↓でそうなるのか? https://zawazawa.jp/bison/topic/38
ここ↓で間違いないか? https://zawazawa.jp/bison/topic/38
他ならそうなるかと思うが
だから、
そういうのを早く教えてくれって
え?
そうなん
どんだけ殻に閉じこもってんだ、、、
書き込み口がないぞ〜
おもろない奴等だ、、、
だったらこの企画
ボツにするか
あいつら
書き込む気が無いだけなのかな
ここと同じ設定だから
それはあり得んのだが、、、
向こうは書き込めないのか?
ここ↓ https://zawazawa.jp/bison/topic/38
シカに
大変やったなー
シカは 知恵袋でゲキオコやったんやろなー 😫
たらいま〜
さて、本腰入れてブログを書き進めるとするかー
以下は、安澄の『中論疏記』の該当部分を現代日本語に訳したものです。この部分は「法無我」や「生空」といった仏教の核心的な教義を説明し、特に小乗仏教における「空」の理解を詳述しています。
疏(注釈)の中で、「もし我が存在しないとすれば」という部分では、第二に「法無我」を明らかにしている。この解釈は、『中論』第18巻に基づいており、論主(龍樹)が小乗経を引用して次のように述べている。
「空門とは、生空(個々の生命に関する空)と法空(現象や法則に関する空)を意味する。『頻婆娑羅王迎佛経』の中で、仏は王にこう説いている。『色(形あるもの)が生じるとき、それは単に空が生じるのであり、色が消滅するときも、それは単に空が消滅するのである。すべての行い(諸行)も同じであり、この中には「我」や「人」や「神」といった実体は存在しない。また、人がこの世から次の世へ移るといった実体も存在しない。ただ、因縁によって和合し、仮に名付けられたものが存在するだけである。凡夫や愚かな人々は、その名にとらわれて実体を求めてしまう』」。
仏は『大空経』の中でも、十二因縁について次のように説いている。「無明から老死までの過程は空である。もし誰かが『これは老死である』と言うなら、または『誰が老死するのか』と言うなら、そのどちらも誤った見解である」。
「『誰が老死するのか』という問いは、衆生(人)の空性を意味する。この問い自体が誤った見解である。『これは老死である』と主張することは、法(事物そのもの)の空性を示している。無明についても同様に空である」と述べている。
慧影の注釈では、小乗仏教の立場から説明されている。小乗経典では、生空については説明するが、法空を十分には説明しきれていない。例えば、「誰が老死するのか」という問いが誤りであるとされるのは、自己や他者といった実体を想定すること自体が誤解であるためである。
「これは老死である」という場合、老死という法が実体的に存在すると執着することも誤解であり、それを「法空」として解釈する。
また、『楞伽経』や『摂論』では、小乗仏教では「人空」は理解できるが、「法空」には至らないと指摘している。『楞伽経』第七巻では、菩薩が仏に次のように質問している。「声聞は無我(自己の空性)を理解するが、法無我(現象の空性)には到達していない」と。また、『摂論』でも「声聞は人空には通達するが、法空には到達しない」と述べられている。
生空と法空の違い
小乗仏教の限界
大乗仏教の優位性
安澄の注釈は、小乗仏教の「空」の理解を批判的に検討しつつ、大乗仏教の哲学的深さを強調しています。この解説により、仏教の核心である「空」の教えが一層明確になります。
でおー、規制外しておいたぞ
https://talk.jp/boards/shugi/1732073417
ほーかいくんも
こんな
難しい世界にチャレンジする 頭脳に 感銘するー
うーむ
ほんま、 仕事日には 関与したくない 難しいことが好きなんやなー 白旗〜
😭
ここのダルマ太郎さんの回答蘭 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11306899971
ヤフー知恵袋のネタおくれー
ほーかいくんは まだ 外で遊んでそうだなー?
本当に解決したならば、経典が本当に意味がないものだったとしても知らぬままその結論は出せない、読んでみて結局必要なかったと知るだけです。そもそも解決していたなら経典を読んで問題になるはずもありません。
でも経典を読まないままに読む必要はないとするのはそれを読んだら悟りから離れるから読まないという思い込みであり、我であり、それはそのまま解決してないことを意味します。
とはいえ主客一如であるうちは煩悩から解放され、戻ってしまってもまた入る事によって解決とすると言うならばそれはそれで1つの解決ではあると思います。
だから私は継続的な解決であり、永続的ではない、とは言いますがそれは相手がどう思うかであって私の問題ではない。
固定観念を破るのは他人ではなく自分ですからね。リダンと似てるのよなぁ。
主客一如の体験は素晴らしい事ですね。でもそれが=悟りとはならないと思います。
それによって無我を理解したならば主客一如に固執する我は生まれませんね。
空という概念の理解を空っぽとか、何もないという答えになるのは致し方ないのか、とも思います。
主客一如は主体と客体の区別のなくなる一体化であり、唯識でも言われる見分はあれど相分はないの部分に関わってきます。
何の理解もないままその体験をしたならば、その相分はない、というのを存在しないと感じてしまうでしょう。
そうなると空の理解が空っぽとか、何も無いという理解になります。
それはつまり縁起が関係ないと言う理由にもなります。
この体験だけでは無常や縁起の理解はないですから。勿論完全にないとは言いません。
でも縁起を知らぬまま根本的な解決には至りません。
実体はなくても生じているんです。それの理解が足りぬままでは主客一如に固執する我には気付かないでしょう。
お
😀
おはー
なんや
遮断してなかったんか?
オトナになったな
😀
テスト
休日は
闇の中の光をテーマに
宗教研究をする
ユーチューブは
闇と光を覗けるのがある
https://m.youtube.com/shorts/r7YeOuFOMyI
大阪のぐり下も
カオスらしい
😫
書き込み口がでてきたな
😀
試してみてくれ
でおー
これでどうだ?
あー分かった!
もう一か所設定するとこがあった
投稿するにはメンバーである必要がありますって
なってるな、、、
あれ?
ログアウトして見たら
でおーの言うとおりだ
設定は何度見ても
フリー投稿可能になっているんだが
勘違いしてないか?
間違いなく
ここ↓でそうなるのか?
https://zawazawa.jp/bison/topic/38
ここ↓で間違いないか?
https://zawazawa.jp/bison/topic/38
他ならそうなるかと思うが
だから、
そういうのを早く教えてくれって
え?
そうなん
どんだけ殻に閉じこもってんだ、、、
書き込み口がないぞ〜
😀
おもろない奴等だ、、、
だったらこの企画
ボツにするか
あいつら
書き込む気が無いだけなのかな
ここと同じ設定だから
それはあり得んのだが、、、
向こうは書き込めないのか?
ここ↓
https://zawazawa.jp/bison/topic/38
シカに
大変やったなー
シカは
知恵袋でゲキオコやったんやろなー
😫
たらいま〜
😀
さて、本腰入れてブログを書き進めるとするかー
以下は、安澄の『中論疏記』の該当部分を現代日本語に訳したものです。この部分は「法無我」や「生空」といった仏教の核心的な教義を説明し、特に小乗仏教における「空」の理解を詳述しています。
和訳
疏(注釈)の中で、「もし我が存在しないとすれば」という部分では、第二に「法無我」を明らかにしている。この解釈は、『中論』第18巻に基づいており、論主(龍樹)が小乗経を引用して次のように述べている。
「空門とは、生空(個々の生命に関する空)と法空(現象や法則に関する空)を意味する。『頻婆娑羅王迎佛経』の中で、仏は王にこう説いている。『色(形あるもの)が生じるとき、それは単に空が生じるのであり、色が消滅するときも、それは単に空が消滅するのである。すべての行い(諸行)も同じであり、この中には「我」や「人」や「神」といった実体は存在しない。また、人がこの世から次の世へ移るといった実体も存在しない。ただ、因縁によって和合し、仮に名付けられたものが存在するだけである。凡夫や愚かな人々は、その名にとらわれて実体を求めてしまう』」。
仏は『大空経』の中でも、十二因縁について次のように説いている。「無明から老死までの過程は空である。もし誰かが『これは老死である』と言うなら、または『誰が老死するのか』と言うなら、そのどちらも誤った見解である」。
「『誰が老死するのか』という問いは、衆生(人)の空性を意味する。この問い自体が誤った見解である。『これは老死である』と主張することは、法(事物そのもの)の空性を示している。無明についても同様に空である」と述べている。
慧影の注釈では、小乗仏教の立場から説明されている。小乗経典では、生空については説明するが、法空を十分には説明しきれていない。例えば、「誰が老死するのか」という問いが誤りであるとされるのは、自己や他者といった実体を想定すること自体が誤解であるためである。
「これは老死である」という場合、老死という法が実体的に存在すると執着することも誤解であり、それを「法空」として解釈する。
また、『楞伽経』や『摂論』では、小乗仏教では「人空」は理解できるが、「法空」には至らないと指摘している。『楞伽経』第七巻では、菩薩が仏に次のように質問している。「声聞は無我(自己の空性)を理解するが、法無我(現象の空性)には到達していない」と。また、『摂論』でも「声聞は人空には通達するが、法空には到達しない」と述べられている。
ポイント
生空と法空の違い
小乗仏教の限界
大乗仏教の優位性
安澄の注釈は、小乗仏教の「空」の理解を批判的に検討しつつ、大乗仏教の哲学的深さを強調しています。この解説により、仏教の核心である「空」の教えが一層明確になります。
でおー、規制外しておいたぞ
https://talk.jp/boards/shugi/1732073417
ほーかいくんも
こんな
難しい世界にチャレンジする
頭脳に
感銘するー
😀
うーむ
ほんま、
仕事日には
関与したくない
難しいことが好きなんやなー
白旗〜
😭
ここのダルマ太郎さんの回答蘭
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11306899971
ヤフー知恵袋のネタおくれー
😀
ほーかいくんは
まだ
外で遊んでそうだなー?
😀