智顗は「蓮華」の二文字に、この「三周の説法」の意義が含まれていると申されております。
ではその 法説周・譬説周・因縁説周 からなる三周の説法の内容を見て行きましょう。
とその前に「略開三顕一」は、どういったものかと言いますと、『方便品』の「十如是」がそれにあたります。仏と仏にしか伝わらない「無為の法」をあえて言葉と言う〝概念〟を用いて舎利弗に説いたものです。利根の舎利弗はそれを聞いて即座にそれが「無為の法」である事を覚るのですが、他の弟子達にも解るようにもう少し噛み砕いて説明して欲しいとお釈迦さまにお願いします。
それでお釈迦さまが、
「仕方ねーなー」
とは言わなかったと思いますが、ぶちゃけて「無為の法」を解りやすく語り出したのが三周の説法からなる「広開三顕一」です。
この動画を見てから、
次の動画を見るとおもしろい。
法介も時々こんな感じで切れちゃいます。
「もてあそばれる和尚」というタイトルで観たら更に楽しめるかと。
最後のオチが破壊力あり過ぎです。もはや反則技です。
馬ちゃんと鹿っちで結成されたダンス・ユニット「馬鹿コンビ」です。
思わず麦タンを想像してしまう。
天台智顗の「法華玄義巻七下」の言葉を引用されて、
蓮華という呼び名は、喩えていったものではなく、法華経の法門である「無為法」を指しているのです。法華の法門は、清浄そのものであり、仏になる因行と果徳とを同時に得るといった奥深くすぐれた法門なので、仏はこれを名づけて蓮華としたのです。すなわちこの蓮華が、法華三昧という純一無雑な法華の当体そのものの名前であり、決して譬喩ではないのです。
と紹介されております。そして更に智顗は、こう申されております。
「蓮華」というのは「法の華」それ自体の〝名〟であって決して「草花」を〝譬えて〟言っている訳ではありません。これがまさに『法華経』のことなんです。しかしそれでは人々が理解しがたいので、人間の言葉の〝概念〟に従て草花を譬えとしているのです。
そして『法華経』の「三周の説法」を持ち出して利根の上根の菩薩に対しては「法の華」として説き、中根・下根の二乗(縁覚・声聞)に対しては「蓮華の花という譬え」を用いて説いたと説明されております。ここでいう利根の菩薩とは言うまでもなく、智慧第一と言われた舎利弗です。
法華経の前半部にあたる迹門では「略開三顕一」と「広開三顕一」とからなる「開三顕一」が中心に構成されておりまして、「三周の説法」はその「広開三顕一」にあたります。上根の舎利弗が法説周によって未来成仏の記別を受け、その後の、譬説周・因縁説周によって中根・下根の二乗の成仏が説き明かされます。舎利弗をはじめとする声聞の弟子達はこの三周の説法を聞いて、今まで実践してきた声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の修行が全て一仏乗に集約されることを悟って成仏していきます。
南無妙法蓮華経の蓮華は「当体蓮華」と言いまして「当体」と言いますのは、「実体」に対する言葉で実体は概念によって仮に立ち上がって見える仮設です。その「実体」に対し真実の姿を「当体」と言います。
では真実の姿即ち、真如の無為法としての「蓮華」が如何なるものなのか説明して参ります。
日蓮大聖人は『当体義抄』の中で次のようにこの当体蓮華を説明なされておられます。
現代語訳で紹介します。
「問う、天台大師は法華玄義で妙法蓮華経を当体蓮華と譬喩蓮華の二つの立義で説き明かしている。それでは、その当体蓮華と譬喩蓮華とはどのようなものであろうか。
答う、譬喩の蓮華とは、施開廃の三釈に詳しくあるから、これを見るがよい。当体蓮華の解釈については、法華玄義巻七下に「蓮華は譬えではない。当体そのものの名前である。たとえば住劫の初めには万物に名がなかったが、聖人が道理にのっとり、その道理にふさわしい名をつけていったようなものである」とある。また、法華玄義巻七下に「今、蓮華という呼び名は、喩えていったものではない。それこそ法華経の法門を指しているのである。法華の法門は、清浄そのものであり、因果が奥深くすぐれているので、この法門を名づけて蓮華とするのである。すなわちこの蓮華が、法華三昧という純一無雑な法華の当体そのものの名前であり、決して譬喩ではないのである」と。
またいわく「問う、蓮華というのは、はっきりさせれば、これは法華三昧の蓮華であろうか、草花の蓮華のことだろうか。答う、明らかに、これこそ法華経のことである。だが法華経といっても理解しがたいので、草花を譬えとして使用している。利根のものは蓮華の名前を聞いて、直ちに妙法を理解し、譬喩は必要としないで法華経を悟る。ところが中根・下根の者は、それだけでは悟れず、譬を用いて知ることができる。そこで理解しやすい草花の蓮華をもちいて難解な当体蓮華を譬えたものである。それ故、迹門において、釈尊は三周の説法にあって、上根・中根・下根の機根にそれぞれにかなうような説法を行った。上根のものに約せば蓮華という法の名を、中根、下根の者に約せば蓮華という譬えの名を借りたのである。このように上中下の三根合論し、ならべて法説と譬喩説をあらわしたのである。このように理解すれば、誰がこの問題でどうして論争するであろうか」と。」
「非空」というのは、仏の空観を空じるという意味です。
この「空観を空じる」ことで、意識は色界から無色界へ移ります。九次第定でいうところの空無辺処にあたります。
空観を空じることでそれまで欲界・色界・無色界の三つで構成されていた世界観が一つの世界観に集約さ「空無辺処」となります。
ここでは、人間の全ての概念から抜け出ておりますので人為的な思考が働かなくなって「無為の世界観」となります。これが真如の世界観です。(中諦) . . ここから先は『唯識』の世界観となりますので、それはまた新たなトピックを立ち上げて詳しくお話して参りましょう。
お付き合い頂きましてありがとうございました。
2023/08/23 法介
「空」の理解には実は最後にもう一つありまして、その最後の空の事を「非空」と言います。
この非空は〝仏〟という概念を空じる「空」なのですが、「仏と如来の違い」が分かっていない学者さんはこういった事で悩みます。
佐々木閑の仏教講義 3
ここまで、三段階の空の理解についてお話してきました。「空」の初歩の理解が「有る無し」の実体思想で理解する「析空」です。これはモノを客観的に見る科学や物理学と同じモノの見方です。(此縁性縁起)
次にその客観から主観に意識を切り替えて心で体感する「体空」を龍樹が相依性縁起として『中論』で顕します。
三段階目の「空」は世親が顕した『唯識』で説かれる〝概念〟から起こる「時間の流れ」という出来事を空じた「法空」です。
そしてこの自然界の法則を空じる「法空」に対し、人の主観と客観を空じる「析空」と「体空」を「人空」と呼びます。
人空=主観と客観を空じる ---(析空と体空) 法空=法を空じる ---(法則を空じる)
仏教では真理として「法」が説かれております。これは〝概念〟ではなく〝真理〟です。ここの違いが分からない人が、 . . 「南無妙法蓮華経(真理)は宇宙の法則(概念)なんです。」 . . などと言いだします。法則は人間の〝概念〟によって造り出された科学的、物理学的、数学的定義であるところの「学術的概念」でしかありません。
仏教で説かれている「法理・法門」は、一切衆生を救いたいと願う仏の深い慈悲の心で説かれた「真理の教え」です。
では、その「法」を空じると、いったい何がどうなると言うのでしょう。
例えば、大好きだったお気に入りの茶碗をふとした不注意で落として割ってしまったなんて経験ありませんか?
また、大好きだった人にふられた経験ってないですか?
大事な近親者を亡くされた経験ないですか?
そういった時、人はとても深い悲しみに打ちひしがれます。
そしてその辛い思いをいつまでも引きずって生きている人も沢山おられます。最近ですと「ペットロス症候群」などもその一例でしょう。そういった自身の感情のコントロールが効かない深い悲しみや苦しみを、深層意識レベルで空じるのがこの「法空」です。過去という過ぎ去った出来事を時間的空間をもって空じます。
人間には自信が意識出来る表層意識と、自身が意識しないところで働く深層意識とがあります。
よく「無意識にやってしまうー」とか言いいますよね。自身の意識とは関係なく無意識に働く意識、それを深層意識と言います。例えばピーマンが食べられない人は意識して「嫌いだ」と思う以前に、体が先に拒否反応を示します。また、心臓を意識して動かしている人はまず居ないと思います。自身の意識とは関係のないところで勝手に活動を続けています。そういった人間の意識の奥深いところに潜在的に潜んでいる意識が深層意識です。
仏教ではこれを末那識と言います。
これが世親が『唯識』で解き明かした三段階目の空の深い理解です。
「析空や体空」は人間の肉体による五蘊の働きによって起こる出来事を空じますのでこれを「人空」と言いますが、この末那識によって起こる自然界の出来事を空じる空を「法空」と言います。
実は時間や重力や運動といったいわゆる科学や物理の世界で自然界の「法則」と考えられている出来事は、この人間の深層意識、すなわち末那識によって起こる縁起(出来事)なんです。
飛ぶ矢は、映写機で言えば連続する静止画のフィルムがスクリーンにあるレンズと光源を通過する時だけ映し出される映像です。そうやって映し出された映像では矢は飛んで見えます。この仕組みが人間の五蘊による認識作用です。
放たれた矢の時間における位置の変化を時間の流れを通して見る事で矢は飛んでいるように見えます。これは五蘊の働きによって起こる現象(概念)です。我々人間は〝今〟という今一瞬の時を〝現在〟として認識し、去った出来事を〝過去〟として脳に記憶し〝時間〟という時の流れを感じます。
ただこういった運動は人間が意識的に認識している訳ではありません。
リンゴが木の枝から離れて地面に落下する様子を見て「重力」を確認出来ます。この重力や時間の流れって意識しようがしまいがそのような現象は当たり前の出来事として認識されます。
実はこれ潜在意識の働きなんです。
興味深いところで、古代ギリシアの自然哲学者のゼノンの「運動のパラドックス(逆説)」の中に「飛ぶ矢のパラドックス」というものがあります。弓で放たれた矢をハイスピードカメラで撮らえたら、矢の一瞬の姿は静止して写ります。矢は一瞬一瞬は静止していますがそれを映写機のように連続して再生して映し出す事で我々人間の目には「飛んでいる矢」として認識されます。
〝飛ぶ〟という運動は、人間の脳(過去の映像の記憶)と目(一瞬の姿を撮らえる眼力)があたかも映写機のような役割を成して認識される人間独自の認識作用であって、自然界に備わっている働き(真理)ではないということです。
龍樹が言っている「去る」という行為(運動)もこれと同じことを言っております。
「すでに去ったものは、去ることがない」
というフレーズは、例えば花壇の前に立っている男の姿がテレビ画面に映っているとします。しばらくしてその男は花壇の前から去って行きます。カメラは固定されて花壇を映しています。その画面から見た視聴者には去って行った男は認識されません。(「去る」という運動は認識されない)
「まだ去らないものも、去ることがな」
同じように、男が花壇の前を去る前の映像を見ていて男が去る前にテレビのスイッチを切ってしまえば、男は「花壇の前に立っていた人」として認識され「去る」という運動は認識されません。
「すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、現に去りつつあるものも、また去ることがない」
男が花壇の前から〝動き出した場面だけ〟を見た視聴者は「去りつつある」姿(動いてる姿)だけを認識している訳で、完全には去っていないので「去る」という行為は認識されません。
ということを龍樹は言っています。要はゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」と同じ事を主張している訳です。(運動の否定)
. すでに去ったものは、去ることがない。 まだ去らないものも、去ることがない。 さらに、すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、 現に去りつつあるものも、また去ることがない . . 一見するとあたりまえの事を言っているようで、実は大変深いところを鋭くついた詩です。その真意を解り易いように現代風にアレンジして表現してみましょう。
向かってきている時の救急車のサイレンの音と、救急車が遠ざかっていく時のサイレンの音とでは、「同じ音」にもかかわらず音程の違いが生じます。〝音〟というものは、そのもの自体に「変わらずに有り続ける本質」は無く、人がそれを認識してはじめて生じる〝音〟であって、その人の状況が変わればその音もまた別の音として認識されるという事例です。
龍樹はそれを〝音〟ではなく〝運動〟を取り上げて「去るという行為」を例えに用いて説明しています。去るということは「今ここには既に居ない」という事実が無いと立証されません。しかし既に去っている訳でしてその「ここに居た姿」はもう存在していないので「すでに去ったものは、去ることがない」といった表現になっています。
また、その人がまだ去らずにその場に居たとしたら「まだ去らないものも、去ることがない」となって観測者がどの時点の「去る人」を見ても去るという行為がどこにも存在しないことをパラドックス、即ち逆説の真理として顕しております。
これをもって中村先生は、「それ自身の本質を欠いている」から〝法〟として存在しないと言うのが龍樹の主張だと解釈されてますが、実は龍樹の本意はそういう事にあるのではありません。
この偈が意味するところは、我々があたりまえのように信じ込んでいる〝法則(運動の法則)〟が、実は人間の〝概念〟が造り出すものに過ぎないという事を主張しているのです。
考えてみて下さい。目の前の自身の息子に向かって、
「あなたは誰ですか?」
と尋ねる認知症のおばあちゃんが、引力で落ちたリンゴを見ても、そこにあるのは「落ちたリンゴ」ではなく「地面においてあるリンゴ」でしかありません。「去る」行為が存在し得ないと龍樹が言っているように「引力の法則」も実は存在しません。
モノが落下するといった現象は、人間の脳が持つ〝記憶〟という能力から起こる人間の〝概念〟の中で起こる出来事(縁起)であって、そのような高度な脳を持たない生物においては引力は生じないということになります。
実は龍樹も世親と同じく「概念を空じる」ということを『中論』の中で説いているのですが、それに気づく人は殆ど居られません。あの中村 元 大先生ですら全く気づかれておりません。
龍樹がそれをどこで説いているのかと言いますと、『中論』の第二章「運動の考察」の第一から第十七の偈です。ここで龍樹は「法空」を主張しているのですが、それを読み取れなかった中村 元 大先生は、龍樹の「法空」の〝法〟の意味を次のように説明されております。
法(ダルマ)は「たもつ」という語源から出た語であるが、後期の註釈によれば、「それ自身の本質(自相)を持つから法である」といわれるに至った。これに対して大乗仏教では反対に「それ自身の本質をたもつことを欠いているから法ではない」と主張する。この「それ自身の本質」を有部は「もの」とみなしたのである。(P.90)
この中村先生の説明は、縁起空をもって龍樹は「法空」を主張したという見解です。
では、実際に『中論』の第二章「運動の考察」で龍樹がどのように法空を主張しているのかを説明致します。
最後に世親の「概念を空じる」というお話をしますが、これはちょっと奥が深いです。
このレベルで「空」を理解出来ている人はそんなには居られないかと思われます。
なぜかと言いますと、
「仏と如来って、同じだと思いますか?」
と質問しますと殆どの方が、
「そんなの同じに決まってるじゃないですか!」
と答えるからです。
次に龍樹の「縁起=空」はこのようになります。
貴方が食べたリンゴの「美味しい」と全く同じリンゴを私が食べた「美味しい」って全く同じ「美味しい」でしょうか?
坂道の下に居るあなたと、坂道の上に居る私とではこの坂道は同じように見えるでしょうか?
あなたはそれを「長い」と感じるようですが、私にはそれは「短い」としか思えません。
そういう風に考えると世の中、万人が絶対的に「これはこうだ!」と言いきれることって何かありますか?
時代によっても考え方は変わるものだし、国や国民性によっても価値観は様々です。
常に流動的に変化している世の中にあって、変らずにあり続ける「正しさ」って存在すると思いますか?
あなたにとってはそれが「正解」であっても、他の誰かにとってはそれは正解とはなり得ません。
にも関わらず、あなたのその正しさを無理やり相手に押し付けようとした時、対立が生じます。
国家間の争い事や対立、親子や夫婦間の不仲ってそういった対立から起こります。
最初にお釈迦様の「無我=空」は、こんな感じです。
パンを盗んだ男が居たとしましょう。世間の人達はその男の表面的な姿だけを見て、窃盗を犯したこの男を悪人呼ばわりします。(客観視によるところ)
しかし、その男がどうしてパンを盗んでしまったかという事実関係を調べてみると次のような事が判明しました。(事実関係にもとずいた真実)
(安倍さんを襲撃した山上容疑者などはこういったケースかと)
実は男には飢えに苦しんで今にも死にそうな子供がいて、その子を何とかして助けたいとの一心でパンを盗んでしまったのでした。
その男を、あなたは悪人呼ばわりしますか?
世間一般の「常識」という色メガネで見ると悪人に見える男であっても、見る側がその色眼鏡を外して真実の男の姿をみたら、実は子供想いの優しい父親であった訳です。(実在における真理)
人の見え方って見る側の人間の見方が変われば、そのあり様も全く異なった姿として顕れます。(因縁仮和合)
ですから安易に人を悪人だと決めつけて罵ったり誹謗中傷する行為は、自身の阿頼耶識に悪業を刻む愚かな行為でしかありません。
お釈迦様は無我=空を説き、龍樹は縁起=空を説き、世親は概念を空じる空をそれぞれ説いております。
お釈迦様の空=無我 --- 析空 龍 樹 の空=縁起 --- 体空 世 親 の空=概念 --- 法空
この三者が説いた空は、
析空=無我 --- 客観を空じる 体空=縁起 --- 主観を空じる 法空=概念 --- 概念を空じる
といった内容になりますがこの内容を解りやすく喩えを用いて説明しましょう。
たとえば、「石ころ」を例にとって考えると、通常人間は五蘊の働きにより「石は石」として認識されます。(客観認識)
それが「中観思想」では、
「因となるものが様々な縁と絡み合って最終的に石という姿(果)が形成された=縁起」
となり「唯識思想」では、
「石という概念がある者が石を見たらそこに石が存在するが、石というの概念が未だ無い赤ちゃんが見てもそこに石は存在しない」
といった感じになります。中観思想では実体を空じているのに対し、唯識思想では概念を空じている訳です。 . . この「概念」を空じるとどうなると思いますか? . . なんと時間が止まるんです。 . . 疑う人はこれに目を通されて下さい。
“時間の正体”はどこまで明らかになったか(倉田幸信)
次に『唯識』を説いた世親ですが、龍樹の「中観思想」と世親の「唯識思想」がまるで対立するかのように論じる人達がおられますが、唯識理論は中観理論の上に構築されています。ですから、決して正反対の理論ではありません。
ではその『唯識』の特徴についてですが、「中観と唯識の最大の違い」を述べると解りやすいかと思います。
唯識理論は解深密経という経典を出処としますが、龍樹の中論発表からおよそ200年後に発表されています。 これは世親の兄、無着の瑜伽師地論にそっくりそのまま採用され、弟の世親とともに唯識理論が集大成されます。その内容は、龍樹が前五識・第六識までしか言及していないのに対し、唯識では第七識・第八識まで理論が深められています。
理論的には、中論での依存性(縁起)と言葉の虚構性といった表現が、唯識では依他起相(他に依存する存在形態)と遍計所執相(仮構された存在形態)となっています。
依存性(縁起)→ 依他起相(他に依存する存在形態) 言葉の虚構性(仮設) → 遍計所執相(仮構された存在形態)
異なっているのは、中論では縁起に重点がおかれますが、唯識では概念に着手しております。
つまり、私達が「実体」と思っているものは、因縁によって仮合したものにすぎないのに、それを言葉で実体として捉えて表現しているから顚倒妄想が出てくるというのが中観で、唯識では、仮構された存在形態がまず〝概念〟としてあり、対象物を前五識(五感)で認識することで顚倒妄想が生じると理論展開しているわけです。
仏教における「中観思想」を説いたのは龍樹です。その「中」の意味は、龍樹の主著『中論頌』の中です。龍樹は、この中論等の論書において、般若経経典群の「空観」を大乗仏教の基本的立場と考え、これがブッダの説いた縁起説の真意であるとして、空の理論を哲学的に理論展開し体系化しました。
この空理は「諸存在が縁起しているが故に空である」ということを中心テーマとして論証され、一切の存在は縁起の道理によって成立すると考えます。いかなる存在であろうとも他とは無関係に、それ自体が独立して存在することは不可能であり、それ自体が変わらずにあり続ける永遠不滅の本質は持ちえないとして「無自性」を説きます。
龍樹は「自性がないから一切の存在は〝空〟である」と、ブッダの「縁起の法」を空理からひも解きました。
次に南無妙法蓮華経の七文字の中の「蓮華」二文字の意味を説明しようと思います。
法介のほ~『法華経』--- その2へ
更に次のように続きます。
「此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり」
その「真如の法」の〝実相〟が十如是として法華経の中に説かれております。
その中の「如是力」と「如是作」が只今紹介しました「体の仏に働く力」と「用の仏が持つ神通之力」になります。
如是力=諸仏が持つ神通の力 ---(用の仏)
如是作=凡夫の体に作用として働く力 ---(体の仏)
南無妙法蓮華経の七文字の「妙法」の二文字は、用の仏と体の仏の生死の二法が一体となった十界の当体です。
妙=仏界の仏 (死)用の仏 法=九界の凡夫(生)体の仏
「妙は死 法は生なり 此の生死の二法が十界の当体なり」
虚空絵の儀式で宝塔の中に釈迦と多宝の二仏が鎮座して法華経が説かれる様は、仏と如来が同体として妙法にはおさまっているという「当体蓮華」が示された様です。
更に日蓮大聖人が顕された曼荼羅本尊にあっては、その下に〝日蓮〟としたためられております。これは凡夫の立場の日蓮を意味しております。凡夫でありながら三身を身につけた三身即一の無作三身の本仏です。
ここで言う本仏とは、日蓮が本仏という意味ではありません。法華経を唱える行者の身に三身が顕れて三身即一の本仏(真実の仏の姿)と成るという意味です。
『諸法実相抄』に云わく、
「宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」
「神通之力」については『諸法実相抄』 に、
「神通之力とは三身の用なり、神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。通は無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり」
と、法身、報身、応身の「用の三身」であると述べられております。
「用の三身」は「体の三身」に対する用語で、『諸法実相抄』に、
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」
と仰せの「倶体・倶用の三身」のことです。三身は、
法身如来 報身如来 応身如来
の三身如来のことを言うのですが、〝如来〟と〝仏〟という言葉がどちらも「仏を意味する言葉」として誤って認識されていることが多いので、本来の正しい解釈を説明しておきます。
まず仏とは修行の因を積むことでその果報としての悟りを得た境地をいいます。ですから仏に成る瞬間が生じる「始成正覚」なのです。
それに対し如来とは、「悟りの境地より来た」の意味で、最初から既に悟りの境地にありますので「久遠実成」と言います。
「始成正覚」の応身のお釈迦様は、五蘊皆空で肉体を空じる事で覚りの境地に入ります。この場合未だ肉体を備えておりますのでそこでの世界観は「色界」となります。
それに対して如来は、〝実体〟(実像)は無く、実体が無いがゆえにその住する処は「無色界」となります。
『法華経』で示されたその応身の本地は、
<応身の本地> 迹門・方便品—三千塵点劫—始成正覚の釈迦 ---(迹仏) 本門・寿量品—五百塵点劫—無始無終の本仏の本地 ---(本仏)
となります。いわゆる「三五の法門」です。
三身が別体として説かれている爾前権教(別教)では、応身・報身の本地やその実態も明かされておりません。
仏(如来)だけが知る秘密なので「如来秘密」になります。
寿量品長行に示されているこの御文は、日蓮大聖人が
「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり」 ※ 依文とはより所となる経文のこと。
「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり」
と仰せになられたとても重要な御文です。
では、その「如来秘密神通之力」とはどういうことなのか。
日蓮大聖人は、「如来秘密」について、『三大秘法抄』 に、
「一身即三身なるを名けて秘と為し 三身即一身なるを名けて密と為す、又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」
と仰せです。
そして爾前経にあっては、
「法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」 『開目抄上』
と云われるように、別教において大日法身の無始無終(有名無実の権仏)は説かれていますが、応身・報身の本地は秘して顕されず、『法華経』に至って初めて明かされます。
この最澄や空海のお話は平安時代のお話で、13世紀に入って末法の時代が到来すると、『法華経』で説かれていた上行菩薩が鎌倉の世に顕れます。
それが日蓮大聖人その人です。
『法華経』では顕教として示されなかった「事密」を、曼荼羅本尊と南無妙法蓮華経のお題目(真言)として『法華経』の文底から読み取られて顕されます。その衣文となされたのが寿量品の「如来秘密 神通之力」の御文です。
如来がこれまで秘密にして決して語る事がなかった、密教のお話です。
日本では空海が真言密教として東密を弘め、最澄が天台密教として台密を弘めましたが、東密はこの金剛乗の教えが中心となっております。天台密教から密教を取り除けば『法華経』が残りますが、真言密教から密教を取り除くと何も残らないと言われる程、東密の内容はヒンドゥー教的な教えだと言われております。両者の違いが明確に顕われているのが大日法身の解釈の相違です。
東密では大日法身、即ち大日如来は「宇宙を具現化したお姿」として崇められ「宇宙そのもの」を象徴する森羅万象そのものであるとされていますが、この考えは、ヒンドゥー教で説かれる「ブラフマン」そのものです。(ブラフマン=宇宙の根理)
対して台密では、顕教を説く釈迦を応身とし、密教を説く釈迦を法身と見ます。ですから大日法身は釈迦の化身と考えます。
胎蔵系、大日経系の密教のルーツはインド東部で、金剛界系・金剛頂系の密教のルーツはそれよりもよりペルシャ寄りのインド北西部、カシミールあたりだと思われている事から、金剛界系・金剛頂系の密教の方がよりヒンドゥー教の影響を強く受けていたものと考えられます。そういった所にこの東密と台密の大日如来の解釈の相違も端を発しているのかもしれません。
『法華経』の解釈も東密では『大日経』、『金剛頂経』、『蘇悉地経』の密教系の経典の方が勝れていると説きますが、台密では、『法華経』を「一乗教」と呼び、小乗・大乗の諸経典よりも勝れた経典であると位置付けております。しかし『大日経』、『金剛頂経』等は真言や印相の「事密」が説かれているので実践面において勝れていると考えます。
日本に密教を伝えたのは空海(6〜7世紀の人物)ですが、空海が中国に渡る少し前の7〜8世紀頃、インドにおいて仏教とヒンドゥー教の対立が起き、そこにペルシャのイスラム勢力が侵攻してきて、3つの宗教の力関係の中でインドにおける仏教は衰退消滅へと向います。
そういった時代の流れの中で仏教の教えの中にヒンドゥー教の教えが混ざり込んでインド仏教史は小乗 、大乗に加えて金剛乗(密教)が加わります。
金剛乗ではヨーガの修行を成就するにあたって「グル」と呼ばれる導師(師匠)の存在が必要不可欠なものとされ、グルへの絶対的帰依が修行では求められます。(グル信仰)
〝金剛〟という言葉は部派仏教時代の経論からみられ、部派仏典の論蔵(アビダルマ)の時代から菩提樹下に於ける釈迦の成道は、金剛座でなされたとする記述がみられますが、〝金剛乗〟の語が出現するのは密教経典からになります。
インド仏教において、「顕教と密教」は説かれておりますが金剛乗の教えは説かれておりません。仏教の「顕教と密教」とヒンドゥー教の「金剛乗」が時代の流れの中で、混合していったものと考えられます。(金剛乗だけに^^)
オウム真理教でもヴァジラヤーナ(金剛乗)が説かれ、グルである麻原彰晃への絶対的帰依が要求され、グルが指示すれば殺人も肯定する教義となってあの凶悪な犯罪が起きてしまいました。
残り七如是の中の「如是力」と「如是作」についてまずお話致します。
実は南無妙法蓮華経の「妙法」の二文字がこの「如是力」と「如是作」になるのですが、日蓮聖人が『生死一大事血脈抄』の中で次のように申されております。
「妙は死 法は生なり 此の生死の二法が十界の当体なり 又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云
「生死の二法が十界の当体」と申されております通り、「生の凡夫」と「死の仏」、即ち九界の凡夫と仏界の仏が而二不二で一体となって顕れて十界の当体となります。
この凡夫と仏の仏界レベル(仏界の中の十界)での関係を「体の仏と用の仏」と言います。
今からお話します内容は、密教の内容となりますが「密教」とは顕教に対する言葉で、言葉として顕すことが出来ない「言葉の概念」から完全に抜け出た教えとなります。
では、その真如の相が『法華経』のどこに示されているかと言いますと、寿量品の「虚空絵の儀式」として描かれております。七つの宝で飾られた宝塔を「南無妙法蓮華経」として両脇に釈迦、多宝の二仏並座が描かれ「上行・無辺行・浄行・安立行」の地涌の菩薩達が陣列として名を連ねております。その真如の無為法の「相」を、日蓮大聖人が一枚の曼荼羅として顕されております。
次に性は何かと言いますとそれは『法華経』それ自体に他なりません。法華経は真理の究極の法を説いた教えなのですから。
そしてその相と性とを合わせて体となりますが、御本尊に向かって法華経を唱える修行者の姿がその体となります。
この相・性・体を軸として残りの七如是が無為法の特性として備わる訳ですが、その七如是が「南無妙法蓮華経」の七文字に含まれております。
それを今から説明して参ります。
『法華経』の方便品で無為法として説かれているのが「十如是」なんですが、「十如是」は無為法という究極の「法」が、相や性や体や力や用や因や縁や果や報が全て一つに収まった法であると言っているんです。
その究極の「法」が「南無妙法蓮華経」なんですね。
相は色相のことで、モノの姿形の事を言います。性はそのモノの心を言います。体はそのモノの真実のあり方です。『般若心経』で色即是空が順観で因縁仮和合して生じた姿が相(色)として存在し、そのモノがそのモノと成り得た因縁は逆観の空即是色で正しく把握出来ます。その相と性を合わせることでそのモノの真実の姿が体として顕れます。この体を当体と言います。
相=色即是空 ---(仮) 性=空即是色 ---(空) 体=色即是空 空即是色 ---(中)
究極の「法」と言いますのは、この「空・仮・中」を
相=応身如来 性=報身如来 体=法身如来
とします。無為の法ですので「如来」です。〝如来〟は真如の世界(無為の世界)を意味する言葉です。
グリーズド・ライディング! 高校の修学旅行の出し物で踊ったぜ! もちろんセンターはおれしか考えられないだろ^^
yahoo知恵袋で『法華経』関連の質問をまた一つ立ててみた。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13284702188
竺法護訳の『正法華経』って現代語訳版って出版されているのかな、、、。
智顗は「蓮華」の二文字に、この「三周の説法」の意義が含まれていると申されております。
ではその 法説周・譬説周・因縁説周 からなる三周の説法の内容を見て行きましょう。
とその前に「略開三顕一」は、どういったものかと言いますと、『方便品』の「十如是」がそれにあたります。仏と仏にしか伝わらない「無為の法」をあえて言葉と言う〝概念〟を用いて舎利弗に説いたものです。利根の舎利弗はそれを聞いて即座にそれが「無為の法」である事を覚るのですが、他の弟子達にも解るようにもう少し噛み砕いて説明して欲しいとお釈迦さまにお願いします。
それでお釈迦さまが、
「仕方ねーなー」
とは言わなかったと思いますが、ぶちゃけて「無為の法」を解りやすく語り出したのが三周の説法からなる「広開三顕一」です。
この動画を見てから、
次の動画を見るとおもしろい。
法介も時々こんな感じで切れちゃいます。
「もてあそばれる和尚」というタイトルで観たら更に楽しめるかと。
最後のオチが破壊力あり過ぎです。もはや反則技です。
馬ちゃんと鹿っちで結成されたダンス・ユニット「馬鹿コンビ」です。
思わず麦タンを想像してしまう。
天台智顗の「法華玄義巻七下」の言葉を引用されて、
蓮華という呼び名は、喩えていったものではなく、法華経の法門である「無為法」を指しているのです。法華の法門は、清浄そのものであり、仏になる因行と果徳とを同時に得るといった奥深くすぐれた法門なので、仏はこれを名づけて蓮華としたのです。すなわちこの蓮華が、法華三昧という純一無雑な法華の当体そのものの名前であり、決して譬喩ではないのです。
と紹介されております。そして更に智顗は、こう申されております。
「蓮華」というのは「法の華」それ自体の〝名〟であって決して「草花」を〝譬えて〟言っている訳ではありません。これがまさに『法華経』のことなんです。しかしそれでは人々が理解しがたいので、人間の言葉の〝概念〟に従て草花を譬えとしているのです。
そして『法華経』の「三周の説法」を持ち出して利根の上根の菩薩に対しては「法の華」として説き、中根・下根の二乗(縁覚・声聞)に対しては「蓮華の花という譬え」を用いて説いたと説明されております。ここでいう利根の菩薩とは言うまでもなく、智慧第一と言われた舎利弗です。
法華経の前半部にあたる迹門では「略開三顕一」と「広開三顕一」とからなる「開三顕一」が中心に構成されておりまして、「三周の説法」はその「広開三顕一」にあたります。上根の舎利弗が法説周によって未来成仏の記別を受け、その後の、譬説周・因縁説周によって中根・下根の二乗の成仏が説き明かされます。舎利弗をはじめとする声聞の弟子達はこの三周の説法を聞いて、今まで実践してきた声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の修行が全て一仏乗に集約されることを悟って成仏していきます。
南無妙法蓮華経の蓮華は「当体蓮華」と言いまして「当体」と言いますのは、「実体」に対する言葉で実体は概念によって仮に立ち上がって見える仮設です。その「実体」に対し真実の姿を「当体」と言います。
では真実の姿即ち、真如の無為法としての「蓮華」が如何なるものなのか説明して参ります。
日蓮大聖人は『当体義抄』の中で次のようにこの当体蓮華を説明なされておられます。
現代語訳で紹介します。
「問う、天台大師は法華玄義で妙法蓮華経を当体蓮華と譬喩蓮華の二つの立義で説き明かしている。それでは、その当体蓮華と譬喩蓮華とはどのようなものであろうか。
答う、譬喩の蓮華とは、施開廃の三釈に詳しくあるから、これを見るがよい。当体蓮華の解釈については、法華玄義巻七下に「蓮華は譬えではない。当体そのものの名前である。たとえば住劫の初めには万物に名がなかったが、聖人が道理にのっとり、その道理にふさわしい名をつけていったようなものである」とある。また、法華玄義巻七下に「今、蓮華という呼び名は、喩えていったものではない。それこそ法華経の法門を指しているのである。法華の法門は、清浄そのものであり、因果が奥深くすぐれているので、この法門を名づけて蓮華とするのである。すなわちこの蓮華が、法華三昧という純一無雑な法華の当体そのものの名前であり、決して譬喩ではないのである」と。
またいわく「問う、蓮華というのは、はっきりさせれば、これは法華三昧の蓮華であろうか、草花の蓮華のことだろうか。答う、明らかに、これこそ法華経のことである。だが法華経といっても理解しがたいので、草花を譬えとして使用している。利根のものは蓮華の名前を聞いて、直ちに妙法を理解し、譬喩は必要としないで法華経を悟る。ところが中根・下根の者は、それだけでは悟れず、譬を用いて知ることができる。そこで理解しやすい草花の蓮華をもちいて難解な当体蓮華を譬えたものである。それ故、迹門において、釈尊は三周の説法にあって、上根・中根・下根の機根にそれぞれにかなうような説法を行った。上根のものに約せば蓮華という法の名を、中根、下根の者に約せば蓮華という譬えの名を借りたのである。このように上中下の三根合論し、ならべて法説と譬喩説をあらわしたのである。このように理解すれば、誰がこの問題でどうして論争するであろうか」と。」
「非空」というのは、仏の空観を空じるという意味です。
この「空観を空じる」ことで、意識は色界から無色界へ移ります。九次第定でいうところの空無辺処にあたります。
空観を空じることでそれまで欲界・色界・無色界の三つで構成されていた世界観が一つの世界観に集約さ「空無辺処」となります。
ここでは、人間の全ての概念から抜け出ておりますので人為的な思考が働かなくなって「無為の世界観」となります。これが真如の世界観です。(中諦)
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ここから先は『唯識』の世界観となりますので、それはまた新たなトピックを立ち上げて詳しくお話して参りましょう。
お付き合い頂きましてありがとうございました。
2023/08/23 法介
「空」の理解には実は最後にもう一つありまして、その最後の空の事を「非空」と言います。
この非空は〝仏〟という概念を空じる「空」なのですが、「仏と如来の違い」が分かっていない学者さんはこういった事で悩みます。
佐々木閑の仏教講義 3
ここまで、三段階の空の理解についてお話してきました。「空」の初歩の理解が「有る無し」の実体思想で理解する「析空」です。これはモノを客観的に見る科学や物理学と同じモノの見方です。(此縁性縁起)
次にその客観から主観に意識を切り替えて心で体感する「体空」を龍樹が相依性縁起として『中論』で顕します。
三段階目の「空」は世親が顕した『唯識』で説かれる〝概念〟から起こる「時間の流れ」という出来事を空じた「法空」です。
そしてこの自然界の法則を空じる「法空」に対し、人の主観と客観を空じる「析空」と「体空」を「人空」と呼びます。
人空=主観と客観を空じる ---(析空と体空)
法空=法を空じる ---(法則を空じる)
仏教では真理として「法」が説かれております。これは〝概念〟ではなく〝真理〟です。ここの違いが分からない人が、
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「南無妙法蓮華経(真理)は宇宙の法則(概念)なんです。」
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などと言いだします。法則は人間の〝概念〟によって造り出された科学的、物理学的、数学的定義であるところの「学術的概念」でしかありません。
仏教で説かれている「法理・法門」は、一切衆生を救いたいと願う仏の深い慈悲の心で説かれた「真理の教え」です。
では、その「法」を空じると、いったい何がどうなると言うのでしょう。
例えば、大好きだったお気に入りの茶碗をふとした不注意で落として割ってしまったなんて経験ありませんか?
また、大好きだった人にふられた経験ってないですか?
大事な近親者を亡くされた経験ないですか?
そういった時、人はとても深い悲しみに打ちひしがれます。
そしてその辛い思いをいつまでも引きずって生きている人も沢山おられます。最近ですと「ペットロス症候群」などもその一例でしょう。そういった自身の感情のコントロールが効かない深い悲しみや苦しみを、深層意識レベルで空じるのがこの「法空」です。過去という過ぎ去った出来事を時間的空間をもって空じます。
人間には自信が意識出来る表層意識と、自身が意識しないところで働く深層意識とがあります。
よく「無意識にやってしまうー」とか言いいますよね。自身の意識とは関係なく無意識に働く意識、それを深層意識と言います。例えばピーマンが食べられない人は意識して「嫌いだ」と思う以前に、体が先に拒否反応を示します。また、心臓を意識して動かしている人はまず居ないと思います。自身の意識とは関係のないところで勝手に活動を続けています。そういった人間の意識の奥深いところに潜在的に潜んでいる意識が深層意識です。
仏教ではこれを末那識と言います。
これが世親が『唯識』で解き明かした三段階目の空の深い理解です。
「析空や体空」は人間の肉体による五蘊の働きによって起こる出来事を空じますのでこれを「人空」と言いますが、この末那識によって起こる自然界の出来事を空じる空を「法空」と言います。
実は時間や重力や運動といったいわゆる科学や物理の世界で自然界の「法則」と考えられている出来事は、この人間の深層意識、すなわち末那識によって起こる縁起(出来事)なんです。
飛ぶ矢は、映写機で言えば連続する静止画のフィルムがスクリーンにあるレンズと光源を通過する時だけ映し出される映像です。そうやって映し出された映像では矢は飛んで見えます。この仕組みが人間の五蘊による認識作用です。
放たれた矢の時間における位置の変化を時間の流れを通して見る事で矢は飛んでいるように見えます。これは五蘊の働きによって起こる現象(概念)です。我々人間は〝今〟という今一瞬の時を〝現在〟として認識し、去った出来事を〝過去〟として脳に記憶し〝時間〟という時の流れを感じます。
ただこういった運動は人間が意識的に認識している訳ではありません。
リンゴが木の枝から離れて地面に落下する様子を見て「重力」を確認出来ます。この重力や時間の流れって意識しようがしまいがそのような現象は当たり前の出来事として認識されます。
実はこれ潜在意識の働きなんです。
興味深いところで、古代ギリシアの自然哲学者のゼノンの「運動のパラドックス(逆説)」の中に「飛ぶ矢のパラドックス」というものがあります。弓で放たれた矢をハイスピードカメラで撮らえたら、矢の一瞬の姿は静止して写ります。矢は一瞬一瞬は静止していますがそれを映写機のように連続して再生して映し出す事で我々人間の目には「飛んでいる矢」として認識されます。
〝飛ぶ〟という運動は、人間の脳(過去の映像の記憶)と目(一瞬の姿を撮らえる眼力)があたかも映写機のような役割を成して認識される人間独自の認識作用であって、自然界に備わっている働き(真理)ではないということです。
龍樹が言っている「去る」という行為(運動)もこれと同じことを言っております。
「すでに去ったものは、去ることがない」
というフレーズは、例えば花壇の前に立っている男の姿がテレビ画面に映っているとします。しばらくしてその男は花壇の前から去って行きます。カメラは固定されて花壇を映しています。その画面から見た視聴者には去って行った男は認識されません。(「去る」という運動は認識されない)
「まだ去らないものも、去ることがな」
同じように、男が花壇の前を去る前の映像を見ていて男が去る前にテレビのスイッチを切ってしまえば、男は「花壇の前に立っていた人」として認識され「去る」という運動は認識されません。
「すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、現に去りつつあるものも、また去ることがない」
男が花壇の前から〝動き出した場面だけ〟を見た視聴者は「去りつつある」姿(動いてる姿)だけを認識している訳で、完全には去っていないので「去る」という行為は認識されません。
ということを龍樹は言っています。要はゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」と同じ事を主張している訳です。(運動の否定)
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すでに去ったものは、去ることがない。
まだ去らないものも、去ることがない。
さらに、すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、
現に去りつつあるものも、また去ることがない
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一見するとあたりまえの事を言っているようで、実は大変深いところを鋭くついた詩です。その真意を解り易いように現代風にアレンジして表現してみましょう。
向かってきている時の救急車のサイレンの音と、救急車が遠ざかっていく時のサイレンの音とでは、「同じ音」にもかかわらず音程の違いが生じます。〝音〟というものは、そのもの自体に「変わらずに有り続ける本質」は無く、人がそれを認識してはじめて生じる〝音〟であって、その人の状況が変わればその音もまた別の音として認識されるという事例です。
龍樹はそれを〝音〟ではなく〝運動〟を取り上げて「去るという行為」を例えに用いて説明しています。去るということは「今ここには既に居ない」という事実が無いと立証されません。しかし既に去っている訳でしてその「ここに居た姿」はもう存在していないので「すでに去ったものは、去ることがない」といった表現になっています。
また、その人がまだ去らずにその場に居たとしたら「まだ去らないものも、去ることがない」となって観測者がどの時点の「去る人」を見ても去るという行為がどこにも存在しないことをパラドックス、即ち逆説の真理として顕しております。
これをもって中村先生は、「それ自身の本質を欠いている」から〝法〟として存在しないと言うのが龍樹の主張だと解釈されてますが、実は龍樹の本意はそういう事にあるのではありません。
この偈が意味するところは、我々があたりまえのように信じ込んでいる〝法則(運動の法則)〟が、実は人間の〝概念〟が造り出すものに過ぎないという事を主張しているのです。
考えてみて下さい。目の前の自身の息子に向かって、
「あなたは誰ですか?」
と尋ねる認知症のおばあちゃんが、引力で落ちたリンゴを見ても、そこにあるのは「落ちたリンゴ」ではなく「地面においてあるリンゴ」でしかありません。「去る」行為が存在し得ないと龍樹が言っているように「引力の法則」も実は存在しません。
モノが落下するといった現象は、人間の脳が持つ〝記憶〟という能力から起こる人間の〝概念〟の中で起こる出来事(縁起)であって、そのような高度な脳を持たない生物においては引力は生じないということになります。
実は龍樹も世親と同じく「概念を空じる」ということを『中論』の中で説いているのですが、それに気づく人は殆ど居られません。あの中村 元 大先生ですら全く気づかれておりません。
龍樹がそれをどこで説いているのかと言いますと、『中論』の第二章「運動の考察」の第一から第十七の偈です。ここで龍樹は「法空」を主張しているのですが、それを読み取れなかった中村 元 大先生は、龍樹の「法空」の〝法〟の意味を次のように説明されております。
法(ダルマ)は「たもつ」という語源から出た語であるが、後期の註釈によれば、「それ自身の本質(自相)を持つから法である」といわれるに至った。これに対して大乗仏教では反対に「それ自身の本質をたもつことを欠いているから法ではない」と主張する。この「それ自身の本質」を有部は「もの」とみなしたのである。(P.90)
この中村先生の説明は、縁起空をもって龍樹は「法空」を主張したという見解です。
では、実際に『中論』の第二章「運動の考察」で龍樹がどのように法空を主張しているのかを説明致します。
最後に世親の「概念を空じる」というお話をしますが、これはちょっと奥が深いです。
このレベルで「空」を理解出来ている人はそんなには居られないかと思われます。
なぜかと言いますと、
「仏と如来って、同じだと思いますか?」
と質問しますと殆どの方が、
「そんなの同じに決まってるじゃないですか!」
と答えるからです。
次に龍樹の「縁起=空」はこのようになります。
貴方が食べたリンゴの「美味しい」と全く同じリンゴを私が食べた「美味しい」って全く同じ「美味しい」でしょうか?
坂道の下に居るあなたと、坂道の上に居る私とではこの坂道は同じように見えるでしょうか?
あなたはそれを「長い」と感じるようですが、私にはそれは「短い」としか思えません。
そういう風に考えると世の中、万人が絶対的に「これはこうだ!」と言いきれることって何かありますか?
時代によっても考え方は変わるものだし、国や国民性によっても価値観は様々です。
常に流動的に変化している世の中にあって、変らずにあり続ける「正しさ」って存在すると思いますか?
あなたにとってはそれが「正解」であっても、他の誰かにとってはそれは正解とはなり得ません。
にも関わらず、あなたのその正しさを無理やり相手に押し付けようとした時、対立が生じます。
国家間の争い事や対立、親子や夫婦間の不仲ってそういった対立から起こります。
最初にお釈迦様の「無我=空」は、こんな感じです。
パンを盗んだ男が居たとしましょう。世間の人達はその男の表面的な姿だけを見て、窃盗を犯したこの男を悪人呼ばわりします。(客観視によるところ)
しかし、その男がどうしてパンを盗んでしまったかという事実関係を調べてみると次のような事が判明しました。(事実関係にもとずいた真実)
(安倍さんを襲撃した山上容疑者などはこういったケースかと)
実は男には飢えに苦しんで今にも死にそうな子供がいて、その子を何とかして助けたいとの一心でパンを盗んでしまったのでした。
その男を、あなたは悪人呼ばわりしますか?
世間一般の「常識」という色メガネで見ると悪人に見える男であっても、見る側がその色眼鏡を外して真実の男の姿をみたら、実は子供想いの優しい父親であった訳です。(実在における真理)
人の見え方って見る側の人間の見方が変われば、そのあり様も全く異なった姿として顕れます。(因縁仮和合)
ですから安易に人を悪人だと決めつけて罵ったり誹謗中傷する行為は、自身の阿頼耶識に悪業を刻む愚かな行為でしかありません。
お釈迦様は無我=空を説き、龍樹は縁起=空を説き、世親は概念を空じる空をそれぞれ説いております。
お釈迦様の空=無我 --- 析空
龍 樹 の空=縁起 --- 体空
世 親 の空=概念 --- 法空
この三者が説いた空は、
析空=無我 --- 客観を空じる
体空=縁起 --- 主観を空じる
法空=概念 --- 概念を空じる
といった内容になりますがこの内容を解りやすく喩えを用いて説明しましょう。
たとえば、「石ころ」を例にとって考えると、通常人間は五蘊の働きにより「石は石」として認識されます。(客観認識)
それが「中観思想」では、
「因となるものが様々な縁と絡み合って最終的に石という姿(果)が形成された=縁起」
となり「唯識思想」では、
「石という概念がある者が石を見たらそこに石が存在するが、石というの概念が未だ無い赤ちゃんが見てもそこに石は存在しない」
といった感じになります。中観思想では実体を空じているのに対し、唯識思想では概念を空じている訳です。
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この「概念」を空じるとどうなると思いますか?
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なんと時間が止まるんです。
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疑う人はこれに目を通されて下さい。
“時間の正体”はどこまで明らかになったか(倉田幸信)
次に『唯識』を説いた世親ですが、龍樹の「中観思想」と世親の「唯識思想」がまるで対立するかのように論じる人達がおられますが、唯識理論は中観理論の上に構築されています。ですから、決して正反対の理論ではありません。
ではその『唯識』の特徴についてですが、「中観と唯識の最大の違い」を述べると解りやすいかと思います。
唯識理論は解深密経という経典を出処としますが、龍樹の中論発表からおよそ200年後に発表されています。
これは世親の兄、無着の瑜伽師地論にそっくりそのまま採用され、弟の世親とともに唯識理論が集大成されます。その内容は、龍樹が前五識・第六識までしか言及していないのに対し、唯識では第七識・第八識まで理論が深められています。
理論的には、中論での依存性(縁起)と言葉の虚構性といった表現が、唯識では依他起相(他に依存する存在形態)と遍計所執相(仮構された存在形態)となっています。
依存性(縁起)→ 依他起相(他に依存する存在形態)
言葉の虚構性(仮設) → 遍計所執相(仮構された存在形態)
異なっているのは、中論では縁起に重点がおかれますが、唯識では概念に着手しております。
つまり、私達が「実体」と思っているものは、因縁によって仮合したものにすぎないのに、それを言葉で実体として捉えて表現しているから顚倒妄想が出てくるというのが中観で、唯識では、仮構された存在形態がまず〝概念〟としてあり、対象物を前五識(五感)で認識することで顚倒妄想が生じると理論展開しているわけです。
仏教における「中観思想」を説いたのは龍樹です。その「中」の意味は、龍樹の主著『中論頌』の中です。龍樹は、この中論等の論書において、般若経経典群の「空観」を大乗仏教の基本的立場と考え、これがブッダの説いた縁起説の真意であるとして、空の理論を哲学的に理論展開し体系化しました。
この空理は「諸存在が縁起しているが故に空である」ということを中心テーマとして論証され、一切の存在は縁起の道理によって成立すると考えます。いかなる存在であろうとも他とは無関係に、それ自体が独立して存在することは不可能であり、それ自体が変わらずにあり続ける永遠不滅の本質は持ちえないとして「無自性」を説きます。
龍樹は「自性がないから一切の存在は〝空〟である」と、ブッダの「縁起の法」を空理からひも解きました。
次に南無妙法蓮華経の七文字の中の「蓮華」二文字の意味を説明しようと思います。
法介のほ~『法華経』--- その2へ
更に次のように続きます。
「此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり」
その「真如の法」の〝実相〟が十如是として法華経の中に説かれております。
その中の「如是力」と「如是作」が只今紹介しました「体の仏に働く力」と「用の仏が持つ神通之力」になります。
如是力=諸仏が持つ神通の力 ---(用の仏)
如是作=凡夫の体に作用として働く力 ---(体の仏)
南無妙法蓮華経の七文字の「妙法」の二文字は、用の仏と体の仏の生死の二法が一体となった十界の当体です。
妙=仏界の仏 (死)用の仏
法=九界の凡夫(生)体の仏
「妙は死 法は生なり 此の生死の二法が十界の当体なり」
虚空絵の儀式で宝塔の中に釈迦と多宝の二仏が鎮座して法華経が説かれる様は、仏と如来が同体として妙法にはおさまっているという「当体蓮華」が示された様です。
更に日蓮大聖人が顕された曼荼羅本尊にあっては、その下に〝日蓮〟としたためられております。これは凡夫の立場の日蓮を意味しております。凡夫でありながら三身を身につけた三身即一の無作三身の本仏です。
ここで言う本仏とは、日蓮が本仏という意味ではありません。法華経を唱える行者の身に三身が顕れて三身即一の本仏(真実の仏の姿)と成るという意味です。
『諸法実相抄』に云わく、
「宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」
「神通之力」については『諸法実相抄』 に、
「神通之力とは三身の用なり、神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。通は無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり」
と、法身、報身、応身の「用の三身」であると述べられております。
「用の三身」は「体の三身」に対する用語で、『諸法実相抄』に、
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」
と仰せの「倶体・倶用の三身」のことです。三身は、
法身如来
報身如来
応身如来
の三身如来のことを言うのですが、〝如来〟と〝仏〟という言葉がどちらも「仏を意味する言葉」として誤って認識されていることが多いので、本来の正しい解釈を説明しておきます。
まず仏とは修行の因を積むことでその果報としての悟りを得た境地をいいます。ですから仏に成る瞬間が生じる「始成正覚」なのです。
それに対し如来とは、「悟りの境地より来た」の意味で、最初から既に悟りの境地にありますので「久遠実成」と言います。
「始成正覚」の応身のお釈迦様は、五蘊皆空で肉体を空じる事で覚りの境地に入ります。この場合未だ肉体を備えておりますのでそこでの世界観は「色界」となります。
それに対して如来は、〝実体〟(実像)は無く、実体が無いがゆえにその住する処は「無色界」となります。
『法華経』で示されたその応身の本地は、
<応身の本地>
迹門・方便品—三千塵点劫—始成正覚の釈迦 ---(迹仏)
本門・寿量品—五百塵点劫—無始無終の本仏の本地 ---(本仏)
となります。いわゆる「三五の法門」です。
三身が別体として説かれている爾前権教(別教)では、応身・報身の本地やその実態も明かされておりません。
仏(如来)だけが知る秘密なので「如来秘密」になります。
寿量品長行に示されているこの御文は、日蓮大聖人が
「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり」
※ 依文とはより所となる経文のこと。
「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり」
と仰せになられたとても重要な御文です。
では、その「如来秘密神通之力」とはどういうことなのか。
日蓮大聖人は、「如来秘密」について、『三大秘法抄』 に、
「一身即三身なるを名けて秘と為し 三身即一身なるを名けて密と為す、又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」
と仰せです。
そして爾前経にあっては、
「法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」
『開目抄上』
と云われるように、別教において大日法身の無始無終(有名無実の権仏)は説かれていますが、応身・報身の本地は秘して顕されず、『法華経』に至って初めて明かされます。
この最澄や空海のお話は平安時代のお話で、13世紀に入って末法の時代が到来すると、『法華経』で説かれていた上行菩薩が鎌倉の世に顕れます。
それが日蓮大聖人その人です。
『法華経』では顕教として示されなかった「事密」を、曼荼羅本尊と南無妙法蓮華経のお題目(真言)として『法華経』の文底から読み取られて顕されます。その衣文となされたのが寿量品の「如来秘密 神通之力」の御文です。
如来がこれまで秘密にして決して語る事がなかった、密教のお話です。
日本では空海が真言密教として東密を弘め、最澄が天台密教として台密を弘めましたが、東密はこの金剛乗の教えが中心となっております。天台密教から密教を取り除けば『法華経』が残りますが、真言密教から密教を取り除くと何も残らないと言われる程、東密の内容はヒンドゥー教的な教えだと言われております。両者の違いが明確に顕われているのが大日法身の解釈の相違です。
東密では大日法身、即ち大日如来は「宇宙を具現化したお姿」として崇められ「宇宙そのもの」を象徴する森羅万象そのものであるとされていますが、この考えは、ヒンドゥー教で説かれる「ブラフマン」そのものです。(ブラフマン=宇宙の根理)
対して台密では、顕教を説く釈迦を応身とし、密教を説く釈迦を法身と見ます。ですから大日法身は釈迦の化身と考えます。
胎蔵系、大日経系の密教のルーツはインド東部で、金剛界系・金剛頂系の密教のルーツはそれよりもよりペルシャ寄りのインド北西部、カシミールあたりだと思われている事から、金剛界系・金剛頂系の密教の方がよりヒンドゥー教の影響を強く受けていたものと考えられます。そういった所にこの東密と台密の大日如来の解釈の相違も端を発しているのかもしれません。
『法華経』の解釈も東密では『大日経』、『金剛頂経』、『蘇悉地経』の密教系の経典の方が勝れていると説きますが、台密では、『法華経』を「一乗教」と呼び、小乗・大乗の諸経典よりも勝れた経典であると位置付けております。しかし『大日経』、『金剛頂経』等は真言や印相の「事密」が説かれているので実践面において勝れていると考えます。
日本に密教を伝えたのは空海(6〜7世紀の人物)ですが、空海が中国に渡る少し前の7〜8世紀頃、インドにおいて仏教とヒンドゥー教の対立が起き、そこにペルシャのイスラム勢力が侵攻してきて、3つの宗教の力関係の中でインドにおける仏教は衰退消滅へと向います。
そういった時代の流れの中で仏教の教えの中にヒンドゥー教の教えが混ざり込んでインド仏教史は小乗 、大乗に加えて金剛乗(密教)が加わります。
金剛乗ではヨーガの修行を成就するにあたって「グル」と呼ばれる導師(師匠)の存在が必要不可欠なものとされ、グルへの絶対的帰依が修行では求められます。(グル信仰)
〝金剛〟という言葉は部派仏教時代の経論からみられ、部派仏典の論蔵(アビダルマ)の時代から菩提樹下に於ける釈迦の成道は、金剛座でなされたとする記述がみられますが、〝金剛乗〟の語が出現するのは密教経典からになります。
インド仏教において、「顕教と密教」は説かれておりますが金剛乗の教えは説かれておりません。仏教の「顕教と密教」とヒンドゥー教の「金剛乗」が時代の流れの中で、混合していったものと考えられます。(金剛乗だけに^^)
オウム真理教でもヴァジラヤーナ(金剛乗)が説かれ、グルである麻原彰晃への絶対的帰依が要求され、グルが指示すれば殺人も肯定する教義となってあの凶悪な犯罪が起きてしまいました。
残り七如是の中の「如是力」と「如是作」についてまずお話致します。
実は南無妙法蓮華経の「妙法」の二文字がこの「如是力」と「如是作」になるのですが、日蓮聖人が『生死一大事血脈抄』の中で次のように申されております。
「妙は死 法は生なり 此の生死の二法が十界の当体なり 又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云
「生死の二法が十界の当体」と申されております通り、「生の凡夫」と「死の仏」、即ち九界の凡夫と仏界の仏が而二不二で一体となって顕れて十界の当体となります。
この凡夫と仏の仏界レベル(仏界の中の十界)での関係を「体の仏と用の仏」と言います。
今からお話します内容は、密教の内容となりますが「密教」とは顕教に対する言葉で、言葉として顕すことが出来ない「言葉の概念」から完全に抜け出た教えとなります。
では、その真如の相が『法華経』のどこに示されているかと言いますと、寿量品の「虚空絵の儀式」として描かれております。七つの宝で飾られた宝塔を「南無妙法蓮華経」として両脇に釈迦、多宝の二仏並座が描かれ「上行・無辺行・浄行・安立行」の地涌の菩薩達が陣列として名を連ねております。その真如の無為法の「相」を、日蓮大聖人が一枚の曼荼羅として顕されております。
次に性は何かと言いますとそれは『法華経』それ自体に他なりません。法華経は真理の究極の法を説いた教えなのですから。
そしてその相と性とを合わせて体となりますが、御本尊に向かって法華経を唱える修行者の姿がその体となります。
この相・性・体を軸として残りの七如是が無為法の特性として備わる訳ですが、その七如是が「南無妙法蓮華経」の七文字に含まれております。
それを今から説明して参ります。
『法華経』の方便品で無為法として説かれているのが「十如是」なんですが、「十如是」は無為法という究極の「法」が、相や性や体や力や用や因や縁や果や報が全て一つに収まった法であると言っているんです。
その究極の「法」が「南無妙法蓮華経」なんですね。
相は色相のことで、モノの姿形の事を言います。性はそのモノの心を言います。体はそのモノの真実のあり方です。『般若心経』で色即是空が順観で因縁仮和合して生じた姿が相(色)として存在し、そのモノがそのモノと成り得た因縁は逆観の空即是色で正しく把握出来ます。その相と性を合わせることでそのモノの真実の姿が体として顕れます。この体を当体と言います。
相=色即是空 ---(仮)
性=空即是色 ---(空)
体=色即是空 空即是色 ---(中)
究極の「法」と言いますのは、この「空・仮・中」を
相=応身如来
性=報身如来
体=法身如来
とします。無為の法ですので「如来」です。〝如来〟は真如の世界(無為の世界)を意味する言葉です。
グリーズド・ライディング!
高校の修学旅行の出し物で踊ったぜ!
もちろんセンターはおれしか考えられないだろ^^
yahoo知恵袋で『法華経』関連の質問をまた一つ立ててみた。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13284702188
竺法護訳の『正法華経』って現代語訳版って出版されているのかな、、、。