「三転法輪」の一回目は、仏門に入ってもなお未だ実体思想から離れられないでいる「声聞」という境涯を対象としてなされた説法です。ここでのお釈迦さまの目的は、まずは弟子達を実体思想から離れさせる事にありました。ですからここで示された「四諦」と「八正道」は次の二回目の四諦の説法へと導く為に未だ実体思想から抜け出せないでいる声聞の弟子達を六道輪廻から解脱させ色界へと転生させる為に示された修行内容となっております。
この「解脱」についてですが、但空におちいった修行者の中に、仏教で説く真理は無為の境地(無の境地)なので縁起は起こらず転生はあり得ないと考え、「死後の世界などない」とか「輪廻はあり得ない」と考える人達がおられます。そういった人達が根拠とされるお釈迦さまの言葉に、『中阿含経』や『中部経典第63経』で説かれている「毒矢の喩え」があります。
この喩えは、〝悟り〟よりもまず、〝解脱〟を習得する事の重要性を覚らせる為に説かれたお話です。
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<毒矢の喩え>
「世の中は常住なるものか。無常なるものか。世界に果てがあるのかないのか。霊魂と肉体は同一か別なのか。死後の世界は存在するのかしないのか」
このマールンクヤの問いに対してお釈迦様は一切答えられず、次の喩をマールンクヤに諭します。
「ある人が毒矢に射られたとする。すぐに治療しなければならないであろう。ところが矢を抜く前に、一体この毒矢を射たのは誰か。弓はどのようなものであるのか。 どんな鏃やじりがついていて、弦つるは何でできているのか。矢羽はどんな鳥の羽であるのかが分からないうちは、矢を抜くことはならぬと言っていたら死んでしまうであろう。必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである。」
お釈迦様は更に言いました。
「生があり、老いがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶え等、人生の苦しみを解決する道があるから私は説いている。毒の矢を抜き去るように苦を速やかに抜き去ることが、いちばん大事なことではないのか」
お釈迦様は、優しい眼差しで、マールンクヤに話します。
「汝はそれらの問いに拘り続けている。マールンクヤよ、世界は常住とか、無常であるとかが解っても、生老病死、 愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、 五蘊盛苦の四苦八苦から自由になる事はないであろう。 私たちはそれらの一切皆苦の現実を見極め、自らの煩悩を克服する事を願っている」
そう言ってお釈迦様は、マールンクヤを次のように諭します。
「悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう。ただしその境地に達したとしても、歳をとり、病気になり、死んでいく、ということを避けることはできない。 ならば何も解決していないではないかと思いたくなるが、真理を悟った人であっても感覚や感受性は変わらないから、悟った人も悟らない人も矢で射られれば同じように痛い。病気になれば同じように苦しい。美しい花や宝石を見れば同じように美しいと思う。 これは誰しも等しく受けるものである」
「ところが真理を知らない人はさらに病気になれば不安と悲しみと疲労に襲われて絶望し、美しい花や宝石を見れば美しいと思うだけでなく、盗んででも自分のものにしたいと執着する。真理を知らない人は良いことも悪いことも全て苦の原因にしてしまう。 しかし悟った人は事実を受け入れても、苦の原因に執着しないのである。今大切なことは、苦悩、煩悩を克服し、心豊かに生きることにある。その苦しみをどうすれば無くすことが出来るかという事だ。真理を知ることよりも先にやるべきことがある」
このように、
「真理を知ることよりも先にやるべきことがある」
と、言われております通りお釈迦さまは、「三転法輪」の一回目に於いては「解脱」という行法を最優先して声聞の弟子達に諭します。
なぜかと言いますと、仏の本当の意味での説法は「解脱した領域」でなければ本当の仏の説法とはならないからです。