仏には法身・報身・応身といった三種の身のあり方が説かれております。
人界に凡夫(応身)として生まれて出て、始成正覚で報身となり久遠実成で法身を顕します。この場合、応身は欲界での身のあり方で、報身は五蘊を空じて定静慮で意識として空観に入った状態です。肉体から完全に解脱した状態ですが身体は未だ備わっております。ですから三界の中では色界となります。
無色界禅定でその色界からも離れて無色界へ入るのですが、無色界では物質的なものは一切存在し得ません。空間も時間すらも存在しない世界が究極の覚りの世界となります。
ここでは思考は働きませんので概念も存在しません。全ての人為的な要素から離れておりますので縁起もここでは起こりません。ですので無為の境地となります。
その無為の境地にあって仏が仏として果たして存在しえるでしょうか。
考えてみてください。
「仏」って〝概念〟ですよね。
仏とは「覚った人」、「全ての覚りを得た人」という言葉で定義付けされた人間が人為的に設けた〝概念〟です。
この「仏」という概念から抜け出た境地が非空の真如の世界です。
仏の空観を空じて入る真如の中観です。
覚りの世界観です。
「非空」と言いますのは、仏教の重要概念であるところの「空」の理解を四段階に分けた析空・体空・法空・非空の最後の「空」の理解となります。
<四悉檀によるところの空の理解の段階分け>
析空=蔵教(但空)
体空=通教(不但空)
法空=別教(但中)
非空=円教(不但中)
「但空」はただ色心諸法の空の理だけを知って、不空、すなわち空でない側面を見ない偏頗な法門で、蔵教の二乗が陥った空の解釈です。
「不但空」とは、通教の空観で、一切の諸法はことごとく〝空〟でありながら、しかも〝空〟のみに偏せず、〝不空〟の側面をも観ずるもの。
「但中」とは別教の法理で、空・仮・中の三諦のうち、空と仮の二辺を除いて、ただ中のみを立てる法門です。
「不但中」とは円教所詮の理で、別教のように空仮の二辺を除いてただ中を立てるのでなく、空仮中の三諦が円融するなかで空諦・仮諦を包含した中諦(中道)を明かす法門となります。
この非空を覚れない人は仏と如来を同一視します。
龍樹が『中論』の第22章「如来の考察」でその違いを述べております。
2.仏と如来の違い
https://butudou.livedoor.blog/archives/17702360.html
この「仏と如来の違い」は、『法華経』で説かれている三五の法門を学ばないと理解には至りません。
三五の法門とは、日蓮大聖人が『兄弟抄』の中で、
「経文に入つて此れを見奉れば二十の大事あり、第一第二の大事は三千塵点劫五百塵点劫と申す二つの法門なり」
と言われました大変重要な御法門です。
法華経の経文には二十の大事な法門があり、中でも第一、第二の大事は三千塵点劫、五百塵点劫という二つの法門であると日蓮大聖人は申されております。また、『法華取要抄』にもこの二つの法門について述べられています。
「今・法華経と諸経とを相対するに一代に超過すること二十種之有り其の中最要二有り所謂三五の二法なり」
今、『法華経』と諸経とを比較すると、法華経が釈尊一代の他の諸経よりもはるかに勝れている点が二十種ある。その中でも最も重要なことが二つある。いわゆる三千塵点劫・五百塵点劫の二法である。
日蓮正宗では、「久遠元初」という言葉を用いて日蓮本仏論を立てておられますが、日蓮大聖人は御書の中で〝久遠元初〟という用語は一度たりとも使われておられません。
上に示した二つの御抄に於いて、最も重要なのは〝三千塵点劫〟と〝五百塵点劫〟の二つの法門であると明確に述べられておられます。
三千塵点劫と言うのは、三周の説法の『化城喩品第七』の因縁説周で出てきます大通智勝仏の時代の「結縁」のお話です。この三千塵点劫の因縁が明かされて迹門の「理の一念三千」が解き明かされます。
「理の一念三千」とは天台智顗が詳しく説き明かした凡夫が仏の覚りを得る為の円融三諦の理論です。
三周の説法で声聞の弟子達が覚ったのはこの理としての一念三千の法門です。
日蓮大聖人は『開目抄』で、
「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず」
と仰せのように、本門で五百塵点劫が明かされて初めて一切衆生成仏の原理である真実の「事の一念三千の法門」が示されます。
菩提樹の下ではじめて覚りを開いたお釈迦さまの事を「始成正覚の仏」と言います。
しかし『法華経』の迹門で自身は今世ではじめて成道したのではなく、既に三千塵点劫の昔において成道していた事を明かします。
この「始成正覚の釈迦」と「三千塵点劫の釈迦」の違いってなんでしょう。
始成正覚の釈迦には肉体が備わっております。三千塵点劫の釈迦には肉体はありません。阿頼耶識に記憶として留められた仏です。
肉体を持った釈迦は五蘊は空じて空観に入っておりますので色(肉体)をともなった状態で世界を観ます。その世界観が色界です。阿頼耶識を因として縁起が起こりますので対象のモノ(色)がそのモノと成り得た因果が観えてきます。
では、三千塵点劫の釈迦はどうでしょう。
阿頼耶識に蓄えられた〝業〟としての仏種なのでここでは縁起は起こりません。
「縁」がないとこの仏種は発芽しません。
ではその縁とはなんでしょう。
他ならぬ『法華経』です。
法華経を読誦することでそれが縁となって阿頼耶識の仏種が他の七識を転識させます(七転識)。
ここでは「色」に相当する要因は関係しません。
前五識は識です。六根ならば目や口や鼻などの感覚器官が「色」に相当しますが転識するのは五識と第六意識と第七末那識の七つの「識」です。
「色」が存在しない世界なのでこれを「無色界」と言います。
(無色界にはまた他の意味も含まれております。後程ご説明します)
この欲界・色界・無色界を三界として観ているのが三種三観にあたります。
別教で説かれている「別相三観」です。
<凡夫の三観>(仮観)
客観
主観
実体
<仏の三身 >(空観)
応身
報身
法身
<如来の三身>(中観)
応身如来
報身如来
法身如来
『観無量寿経』に九品往生として説かれております三三九品の意味するところです。
詳しくはこちらの8から14の項をご参照ください。
https://butudou.livedoor.blog/
『法華経』迹門ではここまでが説かれております。
しかしこの迹門の法門にはある重大な欠陥が含まれております。
それは、法華経を読誦して発芽する仏種が自身の阿頼耶識に備わっているか否かという問題です。
解りやすく言えば、過去に実際に仏の説法を聴聞した記録(記憶)が自身の阿頼耶識に刻まれているか否かという事です。阿頼耶識には全人類の壮大な記録が蓄えられております。その中から末那識の「俺が俺が」の自我意識が自身の記憶を拾い上げ、その業が七識を転識させていきます。良い業であればよい方向に転識し悪しき業であれば悪しき方に七識は転識します。
この阿頼耶識には全ての人類の行いが業として蓄えられておりますのでその阿頼耶識の蔵の中には「仏と仏弟子達」の修行の因も、その報いとして得られる果徳も、仏種として備わっております。しかしそれを拾い上げる「縁」が末那識の「俺が俺が」の自我意識なのですから、過去に仏と縁が無い「俺が俺が」の自我を「縁」としても仏種による七転識は残念ながら起こりません。
『法華経』本門に至って「五百塵点劫の法門」が説かれることで仏と全く縁が無かった衆生も救われていくのですが、それがどうして可能なのかを今から噛み砕いてお話して参ります。
日蓮大聖人が『一代五時鶏図』の中で次のような図を示されておられます。
┌応身──有始有終
始成の三身┼報身──有始無終┬─真言の大日等
└法身──無始無終┘
┌応身┐
久成の三身┼報身┼無始無終
└法身┘
まず「始成の三身」から説明します。
お釈迦さまはインドに生れ出て来ましたので「有始」です。そしてマッラ国のクシナガルに向かう途中に沙羅双樹(さらそうじゅ)の樹の下で亡くなります。なので「有終」となって「有始有終」---(応身)
これは欲界におけるお釈迦さま(仏)のお姿です。
インドに生れ出て(有始)菩提樹の下で覚りを開かれたお釈迦さまは五蘊を空じて空観に入ります。空観では肉体から解脱しておりますので「無終」となって「有始無終」---(報身)
これは色界におけるお釈迦さま(仏)のお姿です。
空観に入って『法華経』を説くお釈迦さまは迹門で「三千塵点劫」を明かして自身の生命が過去より今日まで続いていることを説き明かします(無始)。そして本門で「五百塵点劫」を明かして生命の永遠(無終)を説き明かして「無始無終」となります。---(法身)
真如の世界では時間という概念が生じませんので変化が起こりません。なので生じることも滅することもない「無始無終」です。
>> 12の「始成の三身」では肉体は空じているものの、実際に肉体は備わっております。ですから「無始無終」の法身であってもこの場合の法身は「色界」です。
それに対して三身が「無始無終」である久遠実成の仏(本仏)は、元から肉体を備えてはありません。ですから久遠釈迦は「無色界」となります。
色界に禅定で入る「定静慮」と転生で生まれいずる「生静慮」の二種があることは既にお話したかと思います。
間違いだらけの仏教の常識
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16
定静慮で色界禅定で色界に入り、次に無色界禅定で無色界へ入る「九次第定」は無余涅槃を得る為に行う瞑想です。無余涅槃ですので六道から離れて無色界へ転生(生まれいずる)します。無色界では肉体は伴わないので正真正銘の「無色」です(生静慮)。
日蓮大聖人の『撰時抄』に次のような下りがあります。
阿私陀仙人が悉達太子の生れさせ給いしを見て悲んで云く現生には九十にあまれり太子の成道を見るべからず後生には無色界に生れて五十年の説法の坐にもつらなるべからず正像末にも生るべからずとなげきしがごとし
「無色界に生れて」と書かれております。
これは阿私陀仙人が生静慮で無色界に転生した為、悉達太子(釈迦の出家前の名前)が成道して説法する坐につらなることができなかった事を嘆いたという説明をされている御文になります。
>> 11の「始成の三身」は別教の三種三観の相>> 8となります。(華厳経)
『法華経』に至って明かされる「五百塵点劫の法門」である「久成の三身」が如何なる法門であるかをこちらで詳しくお話しておりますので宜しかったらご覧くださいませ。
無為法(一念三千の法門)
https://zawazawa.jp/bison/topic/25