法介の『ゆゆしき世界』

「空」の理論

46 コメント
views
0 フォロー

「空」は仏教において大変重要な概念の一つで、その思想といいますか理論はとても奥が深く理解するのが大変なテーマです。

ここでは、わたしが実際に某匿名掲示板の宗教板で禅宗の方とその「空」について議論しました内容を紹介致します。

法介
作成: 2023/08/08 (火) 16:08:47
最終更新: 2023/09/28 (木) 12:23:21
通報 ...
  • 最新
  •  
9
法介 2023/08/08 (火) 18:17:37 修正

その「但空」について、少々お話しさせて頂きます。

その前に、とある掲示板で禅宗の方が大変おもしろい事を言っておりましたのでご紹介いたします。わたしがその禅宗の禅さんに、

「五蘊を空じている人がどうして画面の文字が読み取れるんですか?」

と尋ねましたら、

「それは画面を認識してるからに決まっているでしょう!」

と言われまして、

「認識という作用が五蘊の働きなのですが、、、。」と突っ込みますと、

今度は、

「そもそも五蘊は空なんだから、実体なんて生じもしなければ滅しもしません!」

とこれまたおかしな事を言ってこられます。

そもそも「五蘊は空なんだから」とは、一体彼は五蘊をなんだと思っておられるのやら、、、、。

五蘊は人間が外の情報を五感で感知し、それを意識が経験値として脳に記憶し「概念」として構築していく働きを言います。その五蘊がもとから「空っぽ」だと禅さんは言いわれます。

それは人間には「概念」は存在しないと言っているのと同じ事になります。

人間はさまざまなモノを概念化する事で、様々なモノを「実体」として認識します。

目の前のテーブル、コップ、パソコンといったモノを我々は概念によってテーブル、コップ、パソコンとして認識している訳です。

五蘊を「空じる」という事は、まず目を閉じてみて下さい。テーブル、コップ、パソコンは消えましたよね。これは眼識の働きを停止させたからモノの「色相」、即ち姿かたちが消滅した訳です。これを眼識を空じるといいます。同じように鼻識や舌識、耳識、身識を空じていくと人間の意識の働きは止滅していきます。これが色界禅定と言いまして、禅天に意識として入って行く瞑想法です。この禅定という瞑想を行う事で人間の五蘊の働きを完全に停止させる事が出来ます。

この瞑想をしない限り通常、人間はこの五蘊が働いてその働きによってモノを「実体」として認識します。

11
法介 2023/08/08 (火) 21:05:30 修正

すると今度はこんな事を彼は言い出します。

「モニターは様々な構成要素が因縁仮和合してるのだし、それを認識する者も等しく因縁仮和合しているのだから、実体は無いんです!」

構成要素が因縁仮和合してモニターがそこに存在していて、それを人間が五蘊の働きで認識し、概念でもってモニターとして認識されます。未だモニターという概念の無い一歳児が見てもそこにはモニターは存在しません。それ自体は有るんですが、モニターとして認識されないと考えるのが正しい「空」の理解です。

そもそも「空」を説く『般若心経』では、最初に

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」

(観音さまは智恵の完成の修行を極められ、それを行う時)

って言っておられまして、これって観音さまのお話なんですね。観音さまって肉体って備わっていると思いますか?

解脱してますので肉体はありません。なので五蘊も当然のように働きません

ですから

「照見五蘊皆空 度一切苦厄」

五蘊を皆〝空(空っぽ)〟とみなす。(五蘊を空じる)ことで、一切の苦しみや災いから抜け出すことが出来ました。

ここでの「空」は、形容詞と動詞の二つの意味を含んでいます。しかしここで大事な事はそんな事ではないんです。「観音さまの場合は」ということで、我々凡夫は肉体を備えておりますので五蘊は普通に働きます

12
法介 2023/08/08 (火) 21:40:30

「舎利子 是諸法空相」

(舎利子、この諸法の空相(空の世界観)は、)

「不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識」

(生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。故に、空観においては、色相もなく、受想行識も働かない。)

ここでも最初に「是諸法空相」(この諸法の空相(空の世界観)は、)とはっきりと言われております。

そして次の文句も多くの方が勘違いされている箇所です。「生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。」これをもって生じることも滅することもないんだから空を「無」なんだと勘違いしている人が一杯おられます。しかし、ここで言う「生じることも滅することもない」の意味は、そんな事ではないんです。

13
法介 2023/08/09 (水) 05:37:03 修正

実はこの「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の三つの不不からなる文句の意味するところ、おそらくその仏の深意を読み取った学者は未だ一人として居られないかと思われます。もし居られましたら教えて頂きたい。

経典というのは境涯で読み取るものなんですけど、仏門に入りながらも未だ実体思想から抜けきらないでいる「声聞」という境涯は、実体を形成する「言葉」にしきりに執着してやむことがありません。その良い例がここでの禅さんのこういった発言です。

「照見五蘊皆空」は、「五蘊は皆空なりと照見して」と読み下しますがそれを現代語訳しますと「 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。」となります。つまり、ここでは「照見」が動詞として、「空」は形容詞として使われています。対してもし「空」が動詞として使われるのなら、空五蘊(五蘊を空じる)とならなければなりません。中国語を習った人には常識ですが、動詞が先に来るのです。

経典を文法的にしか読まれておられません。仏が云わんとされている奥深いその深意を全く読み取る気概の欠片も感じられません。ただただ文法のお遊びを楽しんでいるとしか思えない、、、。

お釈迦様は涅槃に入られる直前に『涅槃経』を説かれますが、その中の四依品では、釈迦亡き後、仏の法を正しく習得していく術として大事な四項目が「法四依」として示されております。

 依義不依語(義に依りて語に依らざれ)
 依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
 依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)
 依法不依人(法に依りて人に依らざれ)

この仏が遺言として残された大事な指針を無視して真実の仏の教えの習得はあり得ません。その第一項の依義不依語(義に依りて語に依らざれ)の意味するところは、言葉に捉われるのでは無く、その意味するところを深く考えていきなさいという教訓です。やれパーリだのサンスクリットだのと原典こそがお釈迦様の深意だとか声だかに叫んでおられる方々がおられますが、そういうのを愚の骨頂と言うのです。

仏教が何たるかを全く解っておられない、、、、、。

ここで示されている不不からなる三つの言葉は、実は大変重要な意味を含んでおります。まず最初の「不生不滅」、すなわち生じることも滅することもないというのは、「此縁性縁起」を意味しております。

「生じることも滅することもない」、だから仏とは永遠不滅なんだと単純でおバカな発想に走った愚かな仏道修行者がどれだけ続出したことか、、、、。

良く「空」を説明するのに、「車をパーツに分解したら車の姿は無くなります」とか、「テーブルの脚を外したら天板と棒になってテーブルは消滅します」とか言いますよね。様々な構成要素が因縁仮和合し仮の姿として存在している(仮設)と説く縁起の法門です。それを科学的学術論証で言うならば、水は科学分解して水素と酸素になったらその液体としての姿を消し、気体として目には見えない存在として空気中に漂う。しかし再び結合すれば水となり氷点下まで冷やしたら今度は氷と成って個体化する。「この物質のあり様を〝空〟と言う」と成ります。

しかしこれは「空」の初歩的な理解でして、こういった細かく細分化してそのモノの本質に迫る見方を「析空」といいます。時間の流れの中でモノの状態の変化をつぶさに観察する事で証明される物質の時間にともなう変化を捉えた科学や物理でいうところの学術論証です。(実体に即した真理)

これを仏教では『阿含経典』の中で「此縁性縁起」として解き明かされております。「此れある時、彼有り」といった表現でモノが縁によってそのあり様が変化していくといった実体における真理を説いた教えです。その此縁性縁起にあっては、モノは構成要素が集まったり分離することでそのあり様を変化させるがその構成要素が減ったり生じたりしている訳では無く、因縁仮和合しているに過ぎません。

もう一度言います。

「生じたり滅したり」している訳ではありません。

14
法介 2023/08/09 (水) 08:21:00 修正

次に二番目の「不垢不浄」(汚いことも綺麗なこともない)について説明します。

これは最初の「不生不滅」(生じることも滅することもない)が実体に即した真理なのに対し、実体の姿、即ち「色相」から離れて心の変化で起こる「相依性縁起」を意味します。心である「性」を因として起こる縁起です。

綺麗だとか汚いって誰が決めるでしょう?

それは個人の主観の問題です。

大好きな人と過ごす時間はあっという間に過ぎますが、大っ嫌いな上司の説教はとても長がーーーーーく観じます。同じ一時間であっても長く感じたり短くかんじたりします。

リンゴを「美味しい!」と好んで食べる人も居れば、「こんなのまずくて食えない!」といって食べない人も居られます。

坂道を上から見下ろせば「下り坂」ですが、下に居る人達から見たら「上り坂」です。

見る人、味わう人、感じる人が変わればその対象のモノの有り方もまた異なってきます。そういった相互関係によって生じる縁起を「相依性縁起」と言います。龍樹が『中論』で詳しく解き明かした内容で空の更に踏み入った深い理解です。

「空」をモノの状態と思い込んでいる上座部の人達は「主体は有りません!」といい、禅宗の人達は「実体は有りません!」と激しく主張されます。「空」をモノの状態の「有る」とか「無い」といった形容詞として理解している訳ですが、このような空の理解は「析空」の特徴の一つでもあります。

そういった〝状態〟としてのモノのあり様を捉える客観認識法(実在法)とは違って、相依性で起こる縁起は、モノのあり様ではなく、それを見ている人物の心のあり様を中心として起こる心の変化、即ち主観として起こる縁起となります。この「相依性縁起」は体感を空じる「空」なので「体空」といいます。

 此縁性縁起=析空(客観)
 相依性縁起=体空(主観)

龍樹は『中論』の中で、実はもう一つ大事な縁起を解き明かしております。しかしその内容を読み取れなかったのが昭和の仏教学界の権威と称されたかの中村 元大先生です。

中村先生は龍樹の「空理」をこの2種の縁起までしか読み取れなかった為、龍樹を二諦論者と誤った見解を世に弘めてしまいました。

15
法介 2023/08/09 (水) 08:44:14

そもそも仏教学の学者さんは、仏教を学術的に研究されておられる学者さん達です。学術なので皆が納得しうる客観性に軸をおいた論証となります。ここで言う客観性が何を指すか分かりますか。

文献が残っているかとか、経典のどこにその言葉が示されているかといった誰もが納得しうる根拠です。しかし仏教ではこの「言葉」から離れる事をまず教えられます。なぜならこの「言葉」という概念によって様々な「実体」が立ち上がって見えてくるからです。

初期仏典で説かれた「無我」ですが、自我意識(第六意識)を形成する元となる五蘊の働きを完全に止滅させる事で「無我」の境地に入ります。自分という者が存在しないとか言ってるのではありません。五蘊の働きを空じることで自我意識(第六意識)が働かない境地へ禅定で入る事を説いているのです。

普通の人には五蘊は当たり前の事として働いています。

だって自分の頬を思いっきりつねってみて下さい。

「痛くな~い! ぜんぜん痛くな~いですよ!」って人居られますか?

16
法介 2023/08/09 (水) 09:04:24 修正

析空で理解する「空」は、モノの状態の「有る無し」を論じます。科学の水のお話を考えてみてください。水が液体として「有る」状態。分解して気体となって見えなくなった(無い)状態。車がの姿が「有る」状態。パーツ化して車の姿が無くなった状態。テーブルにしても然り。

このような「空」の初歩の理解で宗教を展開しているのが学者さんから仏教を学んでいるこういった宗派です。

東福寺公開講座 『仏教講座』第5回

動画の終わりの方で講師の花園大学名誉教授の沖本克己先生が、

「禅宗では『般若心経』はまじめに取り扱っておりません」とか

「空でなんにも無い、なんにも無いと言っているだけす」などと

大変おかしな事を言っておられます。

17
法介 2023/08/09 (水) 09:11:33 修正

仏教は言葉の概念から離れて、主観に意識を持っていき、更にその凡夫の主観を空じる事で「仏の空観」に意識として入って行きます。空はその「空観」に入る為の理論として説かれた教えです。

「析空」や「体空」は凡夫の「主観と客観」から起こる縁起で『般若心経』で説かれている「色即是空」と「空即是色」がそれを言い現わしております。この主観と客観という二観でモノを見ることで正しく対象となるモノを認識出来ます。この二観でのモノの見方を「中観」といいます。

凡夫の〝〟としての空・仮・中>
 客観「色即是空」--- 此縁性縁起(仮観)
 主観「空即是色」--- 相依性縁起(空観)
 中観「色即是空 空即是色」  (中観)

この凡夫の〝観〟に対し仏の〝諦〟という言葉が仏教では用いられます。〝あきらかにする〟と言った意味での〝諦〟です。実は『般若心経』の「色即是空 空即是色」という文句はこの凡夫の三観を言ったもので、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の三種の不不が「仏の三諦」を示しております。先に説明しました「不生不滅」も「不垢不浄」も五蘊が働かない肉体から解脱して意識として存在している仏の「此縁性縁起」と「相依性縁起」のお話です。

の〝〟としての空・仮・中>
 仮諦「不生不滅」--- 析空による縁起(応身の釈迦)
 空諦「不垢不浄」--- 体空による縁起(報身の釈迦)
 中諦「不増不減」--- 法空による縁起(法身の釈迦)

その三種の不不の最後の「不増不減」(増えることも減ることもない)の意味するところを今からお話致します。

19
法介 2023/08/18 (金) 12:50:32 修正

お釈迦さまは「空」を『無我』という角度から説きました。

 お釈迦様=人間の空・仮・中(三観)--- 欲界

龍樹は「空」を『中論』で展開しました。

 龍 樹 = の空・仮・中(三諦)--- 色界

そして世親が「空」を『唯識』で説きました。

 世 親 =如来の空・仮・中(三身)--- 無色界

この三者が説いた「空」はそれぞれ次のような「空」になります。

 お釈迦様の空=第六意識を空じる空    (実体視の消滅)
 龍 樹 の空=縁起という仏の視点に立つ空(縁起=空)
 世 親 の空=第七末那識の自我を空じる空(法空)

20
法介 2023/08/21 (月) 04:21:49

仏教における「中観思想」を説いたのは龍樹です。その「中」の意味は、龍樹の主著『中論頌』の中です。龍樹は、この中論等の論書において、般若経経典群の「空観」を大乗仏教の基本的立場と考え、これがブッダの説いた縁起説の真意であるとして、空の理論を哲学的に理論展開し体系化しました。

この空理は「諸存在が縁起しているが故に空である」ということを中心テーマとして論証され、一切の存在は縁起の道理によって成立すると考えます。いかなる存在であろうとも他とは無関係に、それ自体が独立して存在することは不可能であり、それ自体が変わらずにあり続ける永遠不滅の本質は持ちえないとして「無自性」を説きます。

龍樹は「自性がないから一切の存在は〝〟である」と、ブッダの「縁起の法」を空理からひも解きました

21
法介 2023/08/21 (月) 04:53:41

次に『唯識』を説いた世親ですが、龍樹の「中観思想」と世親の「唯識思想」がまるで対立するかのように論じる人達がおられますが、唯識理論は中観理論の上に構築されています。ですから、決して正反対の理論ではありません。

ではその『唯識』の特徴についてですが、「中観と唯識の最大の違い」を述べると解りやすいかと思います。

唯識理論は解深密経という経典を出処としますが、龍樹の中論発表からおよそ200年後に発表されています。
これは世親の兄、無着の瑜伽師地論にそっくりそのまま採用され、弟の世親とともに唯識理論が集大成されます。その内容は、龍樹が前五識・第六識までしか言及していないのに対し、唯識では第七識・第八識まで理論が深められています。

理論的には、中論での依存性(縁起)と言葉の虚構性といった表現が、唯識では依他起相(他に依存する存在形態)と遍計所執相(仮構された存在形態)となっています。

 依存性(縁起)→ 依他起相(他に依存する存在形態)
 言葉の虚構性(仮設) → 遍計所執相(仮構された存在形態)

異なっているのは、中論では縁起に重点がおかれますが、唯識では概念に着手しております。

つまり、私達が「実体」と思っているものは、因縁によって仮合したものにすぎないのに、それを言葉で実体として捉えて表現しているから顚倒妄想が出てくるというのが中観で、唯識では、仮構された存在形態がまず〝概念〟としてあり、対象物を前五識(五感)で認識することで顚倒妄想が生じると理論展開しているわけです。

22
法介 2023/08/21 (月) 05:08:03 修正

たとえば、「石ころ」を例にとって考えると、通常人間は五蘊の働きにより「石は石」として認識されます。(客観認識)

それが「中観思想」では、

「因となるものが様々な縁と絡み合って最終的に石という姿(果)が形成された=縁起」

となり「唯識思想」では、

「石という概念がある者が石を見たらそこに石が存在するが、石というの概念が未だ無い赤ちゃんが見てもそこに石は存在しない」

といった感じになります。中観思想では実体を空じているのに対し、唯識思想では概念を空じている訳です。
.
.

この「概念」を空じるとどうなると思いますか?
.
.

なんと時間が止まるんです。
.
.

疑う人はこれに目を通されて下さい。

“時間の正体”はどこまで明らかになったか(倉田幸信)

23
法介 2023/08/21 (月) 08:54:57

お釈迦様は無我=空を説き、龍樹は縁起=空を説き、世親は概念を空じる空をそれぞれ説いております。

 お釈迦様の空=無我 --- 析空
 龍 樹 の空=縁起 --- 体空
 世 親 の空=概念 --- 法空

この三者が説いた空は、

 析空=無我 --- 客観を空じる
 体空=縁起 --- 主観を空じる
 法空=概念 --- 概念を空じる

といった内容になりますがこの内容を解りやすく喩えを用いて説明しましょう。

24
法介 2023/08/21 (月) 09:14:32 修正

最初にお釈迦様の「無我=空」は、こんな感じです。

パンを盗んだ男が居たとしましょう。世間の人達はその男の表面的な姿だけを見て、窃盗を犯したこの男を悪人呼ばわりします。(客観視によるところ)

しかし、その男がどうしてパンを盗んでしまったかという事実関係を調べてみると次のような事が判明しました。(事実関係にもとずいた真実)

(安倍さんを襲撃した山上容疑者などはこういったケースかと)

実は男には飢えに苦しんで今にも死にそうな子供がいて、その子を何とかして助けたいとの一心でパンを盗んでしまったのでした。

その男を、あなたは悪人呼ばわりしますか?

世間一般の「常識」という色メガネで見ると悪人に見える男であっても、見る側がその色眼鏡を外して真実の男の姿をみたら、実は子供想いの優しい父親であった訳です。(実在における真理)

人の見え方って見る側の人間の見方が変われば、そのあり様も全く異なった姿として顕れます。(因縁仮和合)

ですから安易に人を悪人だと決めつけて罵ったり誹謗中傷する行為は、自身の阿頼耶識に悪業を刻む愚かな行為でしかありません。

25
法介 2023/08/21 (月) 09:31:33

次に龍樹の「縁起=空」はこのようになります。

貴方が食べたリンゴの「美味しい」と全く同じリンゴを私が食べた「美味しい」って全く同じ「美味しい」でしょうか?

坂道の下に居るあなたと、坂道の上に居る私とではこの坂道は同じように見えるでしょうか?

あなたはそれを「長い」と感じるようですが、私にはそれは「短い」としか思えません。

そういう風に考えると世の中、万人が絶対的に「これはこうだ!」と言いきれることって何かありますか?

時代によっても考え方は変わるものだし、国や国民性によっても価値観は様々です。

常に流動的に変化している世の中にあって、変らずにあり続ける「正しさ」って存在すると思いますか?

あなたにとってはそれが「正解」であっても、他の誰かにとってはそれは正解とはなり得ません。

にも関わらず、あなたのその正しさを無理やり相手に押し付けようとした時、対立が生じます。

国家間の争い事や対立、親子や夫婦間の不仲ってそういった対立から起こります。

26
法介 2023/08/21 (月) 09:41:17 修正

最後に世親の「概念を空じる」というお話をしますが、これはちょっと奥が深いです。

このレベルで「空」を理解出来ている人はそんなには居られないかと思われます。

なぜかと言いますと、

「仏と如来って、同じだと思いますか?」

と質問しますと殆どの方が、

「そんなの同じに決まってるじゃないですか!」

と答えるからです。

27
法介 2023/08/21 (月) 15:12:23

実は龍樹も世親と同じく「概念を空じる」ということを『中論』の中で説いているのですが、それに気づく人は殆ど居られません。あの中村 元 大先生ですら全く気づかれておりません。

龍樹がそれをどこで説いているのかと言いますと、『中論』の第二章「運動の考察」の第一から第十七の偈です。ここで龍樹は「法空」を主張しているのですが、それを読み取れなかった中村 元 大先生は、龍樹の「法空」の〝法〟の意味を次のように説明されております。

法(ダルマ)は「たもつ」という語源から出た語であるが、後期の註釈によれば、「それ自身の本質(自相)を持つから法である」といわれるに至った。これに対して大乗仏教では反対に「それ自身の本質をたもつことを欠いているから法ではない」と主張する。この「それ自身の本質」を有部は「もの」とみなしたのである。(P.90)

この中村先生の説明は、縁起空をもって龍樹は「法空」を主張したという見解です。

では、実際に『中論』の第二章「運動の考察」で龍樹がどのように法空を主張しているのかを説明致します。

28
法介 2023/08/21 (月) 17:39:55 修正

.
 すでに去ったものは、去ることがない。
 まだ去らないものも、去ることがない。
 さらに、すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、
 現に去りつつあるものも、また去ることがない
.
.
一見するとあたりまえの事を言っているようで、実は大変深いところを鋭くついた詩です。その真意を解り易いように現代風にアレンジして表現してみましょう。

向かってきている時の救急車のサイレンの音と、救急車が遠ざかっていく時のサイレンの音とでは、「同じ音」にもかかわらず音程の違いが生じます。〝音〟というものは、そのもの自体に「変わらずに有り続ける本質」は無く、人がそれを認識してはじめて生じる〝音〟であって、その人の状況が変わればその音もまた別の音として認識されるという事例です。

龍樹はそれを〝音〟ではなく〝運動〟を取り上げて「去るという行為」を例えに用いて説明しています。去るということは「今ここには既に居ない」という事実が無いと立証されません。しかし既に去っている訳でしてその「ここに居た姿」はもう存在していないので「すでに去ったものは、去ることがない」といった表現になっています。

また、その人がまだ去らずにその場に居たとしたら「まだ去らないものも、去ることがない」となって観測者がどの時点の「去る人」を見ても去るという行為がどこにも存在しないことをパラドックス、即ち逆説の真理として顕しております。

これをもって中村先生は、「それ自身の本質を欠いている」から〝法〟として存在しないと言うのが龍樹の主張だと解釈されてますが、実は龍樹の本意はそういう事にあるのではありません。

この偈が意味するところは、我々があたりまえのように信じ込んでいる〝法則(運動の法則)〟が、実は人間の〝概念〟が造り出すものに過ぎないという事を主張しているのです。

考えてみて下さい。目の前の自身の息子に向かって、

「あなたは誰ですか?」

と尋ねる認知症のおばあちゃんが、引力で落ちたリンゴを見ても、そこにあるのは「落ちたリンゴ」ではなく「地面においてあるリンゴ」でしかありません。「去る」行為が存在し得ないと龍樹が言っているように「引力の法則」も実は存在しません。

モノが落下するといった現象は、人間の脳が持つ〝記憶〟という能力から起こる人間の〝概念〟の中で起こる出来事(縁起)であって、そのような高度な脳を持たない生物においては引力は生じないということになります。

37
法介 2023/08/23 (水) 08:15:49

興味深いところで、古代ギリシアの自然哲学者のゼノンの「運動のパラドックス(逆説)」の中に「飛ぶ矢のパラドックス」というものがあります。弓で放たれた矢をハイスピードカメラで撮らえたら、矢の一瞬の姿は静止して写ります。矢は一瞬一瞬は静止していますがそれを映写機のように連続して再生して映し出す事で我々人間の目には「飛んでいる矢」として認識されます。

〝飛ぶ〟という運動は、人間の脳(過去の映像の記憶)と目(一瞬の姿を撮らえる眼力)があたかも映写機のような役割を成して認識される人間独自の認識作用であって、自然界に備わっている働き(真理)ではないということです。

龍樹が言っている「去る」という行為(運動)もこれと同じことを言っております。

「すでに去ったものは、去ることがない」

というフレーズは、例えば花壇の前に立っている男の姿がテレビ画面に映っているとします。しばらくしてその男は花壇の前から去って行きます。カメラは固定されて花壇を映しています。その画面から見た視聴者には去って行った男は認識されません。(「去る」という運動は認識されない)

「まだ去らないものも、去ることがな」

同じように、男が花壇の前を去る前の映像を見ていて男が去る前にテレビのスイッチを切ってしまえば、男は「花壇の前に立っていた人」として認識され「去る」という運動は認識されません。

「すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、現に去りつつあるものも、また去ることがない」

男が花壇の前から〝動き出した場面だけ〟を見た視聴者は「去りつつある」姿(動いてる姿)だけを認識している訳で、完全には去っていないので「去る」という行為は認識されません。

ということを龍樹は言っています。要はゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」と同じ事を主張している訳です。(運動の否定)

38
法介 2023/08/23 (水) 08:16:41

飛ぶ矢は、映写機で言えば連続する静止画のフィルムがスクリーンにあるレンズと光源を通過する時だけ映し出される映像です。そうやって映し出された映像では矢は飛んで見えます。この仕組みが人間の五蘊による認識作用です。

放たれた矢の時間における位置の変化を時間の流れを通して見る事で矢は飛んでいるように見えます。これは五蘊の働きによって起こる現象(概念)です。我々人間は〝今〟という今一瞬の時を〝現在〟として認識し、去った出来事を〝過去〟として脳に記憶し〝時間〟という時の流れを感じます。

ただこういった運動は人間が意識的に認識している訳ではありません

リンゴが木の枝から離れて地面に落下する様子を見て「重力」を確認出来ます。この重力や時間の流れって意識しようがしまいがそのような現象は当たり前の出来事として認識されます。

実はこれ潜在意識の働きなんです。

39
法介 2023/08/23 (水) 08:18:26

人間には自信が意識出来る表層意識と、自身が意識しないところで働く深層意識とがあります。

よく「無意識にやってしまうー」とか言いいますよね。自身の意識とは関係なく無意識に働く意識、それを深層意識と言います。例えばピーマンが食べられない人は意識して「嫌いだ」と思う以前に、体が先に拒否反応を示します。また、心臓を意識して動かしている人はまず居ないと思います。自身の意識とは関係のないところで勝手に活動を続けています。そういった人間の意識の奥深いところに潜在的に潜んでいる意識が深層意識です。

仏教ではこれを末那識と言います

これが世親が『唯識』で解き明かした三段階目の空の深い理解です。

「析空や体空」は人間の肉体による五蘊の働きによって起こる出来事を空じますのでこれを「人空」と言いますが、この末那識によって起こる自然界の出来事を空じる空を「法空」と言います

実は時間や重力や運動といったいわゆる科学や物理の世界で自然界の「法則」と考えられている出来事は、この人間の深層意識、すなわち末那識によって起こる縁起(出来事)なんです。

40
法介 2023/08/23 (水) 08:18:51 修正

では、その「法」を空じると、いったい何がどうなると言うのでしょう。

例えば、大好きだったお気に入りの茶碗をふとした不注意で落として割ってしまったなんて経験ありませんか?

また、大好きだった人にふられた経験ってないですか?

大事な近親者を亡くされた経験ないですか?

そういった時、人はとても深い悲しみに打ちひしがれます。

そしてその辛い思いをいつまでも引きずって生きている人も沢山おられます。最近ですと「ペットロス症候群」などもその一例でしょう。そういった自身の感情のコントロールが効かない深い悲しみや苦しみを、深層意識レベルで空じるのがこの「法空」です。過去という過ぎ去った出来事を時間的空間をもって空じます

42
法介 2023/08/23 (水) 09:03:02 修正

ここまで、三段階の空の理解についてお話してきました。「空」の初歩の理解が「有る無し」の実体思想で理解する「析空」です。これはモノを客観的に見る科学や物理学と同じモノの見方です。(此縁性縁起

次にその客観から主観に意識を切り替えて心で体感する「体空」を龍樹が相依性縁起として『中論』で顕します。

三段階目の「空」は世親が顕した『唯識』で説かれる〝概念〟から起こる「時間の流れ」という出来事を空じた「法空」です。

そしてこの自然界の法則を空じる「法空」に対し、人の主観と客観を空じる「析空」と「体空」を「人空」と呼びます。

 人空=主観と客観を空じる ---(析空と体空)
 法空=法を空じる ---(法則を空じる)

仏教では真理として「法」が説かれております。これは〝概念〟ではなく〝真理〟です。ここの違いが分からない人が、
.
.

「南無妙法蓮華経(真理)は宇宙の法則(概念)なんです。」
.
.

などと言いだします。法則は人間の〝概念〟によって造り出された科学的、物理学的、数学的定義であるところの「学術的概念」でしかありません。

仏教で説かれている「法理・法門」は、一切衆生を救いたいと願う仏の深い慈悲の心で説かれた「真理の教え」です。

45
法介 2023/08/23 (水) 09:59:51 修正

「空」の理解には実は最後にもう一つありまして、その最後の空の事を「非空」と言います。

この非空は〝仏〟という概念を空じる「空」なのですが、「仏と如来の違い」が分かっていない学者さんはこういった事で悩みます。

佐々木閑の仏教講義 3

46
法介 2023/08/23 (水) 10:00:26 修正

「非空」というのは、仏の空観を空じるという意味です。

この「空観を空じる」ことで、意識は色界から無色界へ移ります。九次第定でいうところの空無辺処にあたります

空観を空じることでそれまで欲界・色界・無色界の三つで構成されていた世界観が一つの世界観に集約さ「空無辺処」となります。

ここでは、人間の全ての概念から抜け出ておりますので人為的な思考が働かなくなって「無為の世界観」となります。これが真如の世界観です。(中諦
.
.

ここから先は『唯識』の世界観となりますので、それはまた新たなトピックを立ち上げて詳しくお話して参りましょう。

お付き合い頂きましてありがとうございました。

              2023/08/23 法介