『西遊記』で有名な三蔵法師は、629年にシルクロード陸路でインドに向かい、中国に657部もの経典や仏像などを持って帰還した玄奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)がモデルです。
唯識思想の体系を中国に伝えたのも玄奘で、弟子の慈恩大師が開いた宗派が法相宗です。玄奘はインドで瑜伽行派の戒賢に師事し三転法輪説を修得している。三転法輪説にあっては、 『解深密経』の無自性相品に次のように説かれております。
釈尊は初め第一時にただ声聞乗のために四諦の教えを説かれたが、それは未了義の教えであった。また、昔第二時にただ大乗のために無自性の教えを隠密に説かれたが、それも未了義の教えであった。しかし、今第三時に普く一切乗のために無自性の教えを顕了に説かれた。これこそが了義の教えである。
この三時における釈迦の四諦説法説は、インド瑜伽行派の仏教史観が反映されたもので、天台智顗も同じように四種四諦を説いております。『解深密経』は四教の区分で言えば別教にあたりますので智顗の四種四諦は円教をくわえた四種となります。
インド瑜伽行派の『解深密経』に依るところの三転法輪は、第一時の小乗の教えはアビダルマ、特に説一切有部の思想(有) 、第二時の大乗の教えは般若思想(空) 、第三時の一切乗の教えは唯識思想(中)を意味しており、二辺を廃して中道を立てる「有・空・中」の三教構造からなります。
智顗は「仮・空・中」の三諦として円融三諦を顕しますが、その思想は明らかにインド瑜伽行派のインド仏教思想を継承したものなのですが、こともあろうかあの仏教学の権威とまで言われた中村 元 大先生が、智顗の三諦説はインド仏教には見られない中国仏教独自の思想であるなどと言われましたものですから今日の日本における仏教観は、大変おかしなことになっております。
ネットユーザーの中にも「天台教学は智顗のオリジナルであって釈迦仏教ではない」などといったあやまった考えを持っておられる方が沢山おられます。
仏教における「空」という概念を学ぶ時、多くの方々が中村 元 著書の『龍樹』を手に取って学ばれた事かと思われます。その252ページに、
『中論』を研究したスチェルバツキー、インドP・L・ヴァイディア、同じくN・ダットなどの二、三の学者は、この詩句はたんに、縁起、空、仮名、中道という四つの概念の同一であることを意味していると考え、三諦の思想に言及していない。
と述べ更にチャンドラキールティ(月称)の言葉を引用して、
空がすなわち中道であり、中国一般の解釈のように空を空じた境地に中道が現れるのではない。(P.254)
などとおかしな仏教観を紹介し、
こういうわけで空、仮名、中道は皆縁起の同義語である。(P.255)
といったあたかも「空=仮名=中道=縁起」といった誤解を招く表現をなされ、
天台でいうような三諦の説はどこにもみえず、これらの諸語を同義とみなしている。(P.255)
とまで言いきっておられますので、困ったものです、、、、、。