今回は「当体蓮華」について語ります。
259e67dbae
法介
通報 ...
南無妙法蓮華経の蓮華は「当体蓮華」と言いまして「当体」と言いますのは、「実体」に対する言葉で実体は概念によって仮に立ち上がって見える仮設です。その「実体」に対し真実の姿を「当体」と言います。
では真実の姿即ち、真如の無為法としての「蓮華」が如何なるものなのか説明して参ります。
日蓮大聖人は『当体義抄』の中で次のようにこの当体蓮華を説明なされておられます。
現代語訳で紹介します。
「問う、天台大師は法華玄義で妙法蓮華経を当体蓮華と譬喩蓮華の二つの立義で説き明かしている。それでは、その当体蓮華と譬喩蓮華とはどのようなものであろうか。
答う、譬喩の蓮華とは、施開廃の三釈に詳しくあるから、これを見るがよい。当体蓮華の解釈については、法華玄義巻七下に「蓮華は譬えではない。当体そのものの名前である。たとえば住劫の初めには万物に名がなかったが、聖人が道理にのっとり、その道理にふさわしい名をつけていったようなものである」とある。また、法華玄義巻七下に「今、蓮華という呼び名は、喩えていったものではない。それこそ法華経の法門を指しているのである。法華の法門は、清浄そのものであり、因果が奥深くすぐれているので、この法門を名づけて蓮華とするのである。すなわちこの蓮華が、法華三昧という純一無雑な法華の当体そのものの名前であり、決して譬喩ではないのである」と。
またいわく「問う、蓮華というのは、はっきりさせれば、これは法華三昧の蓮華であろうか、草花の蓮華のことだろうか。答う、明らかに、これこそ法華経のことである。だが法華経といっても理解しがたいので、草花を譬えとして使用している。利根のものは蓮華の名前を聞いて、直ちに妙法を理解し、譬喩は必要としないで法華経を悟る。ところが中根・下根の者は、それだけでは悟れず、譬を用いて知ることができる。そこで理解しやすい草花の蓮華をもちいて難解な当体蓮華を譬えたものである。それ故、迹門において、釈尊は三周の説法にあって、上根・中根・下根の機根にそれぞれにかなうような説法を行った。上根のものに約せば蓮華という法の名を、中根、下根の者に約せば蓮華という譬えの名を借りたのである。このように上中下の三根合論し、ならべて法説と譬喩説をあらわしたのである。このように理解すれば、誰がこの問題でどうして論争するであろうか」と。」
天台智顗の「法華玄義巻七下」の言葉を引用されて、
蓮華という呼び名は、喩えていったものではなく、法華経の法門である「無為法」を指しているのです。法華の法門は、清浄そのものであり、仏になる因行と果徳とを同時に得るといった奥深くすぐれた法門なので、仏はこれを名づけて蓮華としたのです。すなわちこの蓮華が、法華三昧という純一無雑な法華の当体そのものの名前であり、決して譬喩ではないのです。
と紹介されております。そして更に智顗は、こう申されております。
「蓮華」というのは「法の華」それ自体の〝名〟であって決して「草花」を〝譬えて〟言っている訳ではありません。これがまさに『法華経』のことなんです。しかしそれでは人々が理解しがたいので、人間の言葉の〝概念〟に従て草花を譬えとしているのです。
そして『法華経』の「三周の説法」を持ち出して利根の上根の菩薩に対しては「法の華」として説き、中根・下根の二乗(縁覚・声聞)に対しては「蓮華の花という譬え」を用いて説いたと説明されております。ここでいう利根の菩薩とは言うまでもなく、智慧第一と言われた舎利弗です。
法華経の前半部にあたる迹門では「略開三顕一」と「広開三顕一」とからなる「開三顕一」が中心に構成されておりまして、「三周の説法」はその「広開三顕一」にあたります。上根の舎利弗が法説周によって未来成仏の記別を受け、その後の、譬説周・因縁説周によって中根・下根の二乗の成仏が説き明かされます。舎利弗をはじめとする声聞の弟子達はこの三周の説法を聞いて、今まで実践してきた声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の修行が全て一仏乗に集約されることを悟って成仏していきます。
智顗は「蓮華」の二文字に、この「三周の説法」の意義が含まれていると申されております。
ではその 法説周・譬説周・因縁説周 からなる三周の説法の内容を見て行きましょう。
とその前に「略開三顕一」は、どういったものかと言いますと、『方便品』の「十如是」がそれにあたります。仏と仏にしか伝わらない「無為の法」をあえて言葉と言う〝概念〟を用いて舎利弗に説いたものです。利根の舎利弗はそれを聞いて即座にそれが「無為の法」である事を覚るのですが、他の弟子達にも解るようにもう少し噛み砕いて説明して欲しいとお釈迦さまにお願いします。
それでお釈迦さまが、
「仕方ねーなー」
とは言わなかったと思いますが、ぶちゃけて「無為の法」を解りやすく語り出したのが三周の説法からなる「広開三顕一」です。
日蓮大聖人は『三大秘法抄』の中で「一念三千の証文は如何に」と問われて次のように返答されておられます。
「問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相・所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり」
一つは「方便品」の諸法実相として示された十如是と衆生をして仏知見を開かせ、示し、悟らせ、入らしめ(開示悟入)ようとする仏の一大事因縁の御文。もう一つは「寿量品」の「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」の本地を明かす御文。
二つ目の「寿量品」の方は後程ご説明させて頂くとしましてここでは「方便品」に絞ってお話を進めさせて頂きます。
大聖人が一念三千の証文とされている「方便品」の十如是は皆さんも良く存じ上げておられるかと思いますが、それは先に説明しました「略開三顕一」として説かれたもので、「広開三顕一」の法説周としましては、長行部分の以下の部分がそれにあたります。
.
.
所以者何。諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世 --- ①。
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世 --- ②。
仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生。舎利弗。如来但以。一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三 --- ③。
.
.
【大正蔵テキストデータベース表示】
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0262_,09,0007a12&key=能知之。所以者何。諸佛世尊。唯以一大事&ktn=&mode2=2
上根の菩薩衆に対して説かれたこの「法説周」ですが、上記のように三つの内容からなります。これは次に続く譬説周、因縁説周にも共通する内容ですが各々の説周が三つの内容で構成されております。要はこの 「三周の説法」で三種・三観が説かれている訳です。三種・三観は天台智顗が一念三千の基本形として示した天台教学において最も重要とされる法理です。
三種・三観と言えば、この前お話しました『般若心経』が実はこの「三種・三観」が示されているとお話しましたが、この法華経においても「三種・三観」が示されております。実は初期仏典の三蔵教の中でも「三種・三観」は別の形で説かれております。
「九次第定」がそれにあたります。
色界禅定の初禅で客観を空じて析空を感じ、二禅で主観を空じて体空を感じ、三禅で五蘊全てを空じる事で法空を感じて四禅で空観に入ります。色界禅定はこの空観(色界)に入る為の禅定で空観に入りますと空無辺で欲界・色界・無色界の三界の空間を空じ、識無辺で末那識の自我を完全に退治することで八識の識層を空じます。これによって仏の空観が空じられ(非空)て、無所有処の無色界へ入ります。無所有処では生と死の生死の二法が不二となって同時に顕れます。更に非想非非想処から滅尽定へ入って涅槃となります。
実は『観無量寿経』にも「三種・三観」は説かれております。
14,観無量寿経(その⑤)
https://butudou.livedoor.blog/archives/17944347.html
四教の各々でこの三種・三観が説かれております。
蔵教=『九次第定』
通教=『般若心経』
別教=『観無量寿経』
円教=『法華経』
天台智顗の『魔訶止観』の中の「四門の料簡」は、それをひも解いた内容です。
<蔵教の四門>『阿含経典』
蔵教の声聞
通教の縁覚
別教の菩薩
(蔵教を説く応身の釈迦)
<通教の四門>『般若経典』
通教の声聞
通教の縁覚
通教の菩薩
(通教を説く報身の釈迦=観音菩薩)
<別教の四門>『華厳経典』
別教の声聞
別教の縁覚
別教の菩薩
(別教を説く法身の釈迦=大日法身)
<円教の四門>『法華経』
蔵教を説く応身の釈迦
通教を説く報身の釈迦
別教を説く法身の釈迦
法華経を説く円経の釈迦
ちなみにですが、初期仏典で説かれている「戒・定・慧」、「欲界・色界・無色界」、「仏・法・僧」もよくよく考えてみますと次にような事になるかと思われます。
「戒・定・慧」 --- 実在の世界での「凡夫の空・仮・中」
「欲界・色界・無色界」--- 空間における「仏の空・仮・中」
「仏・法・僧」 --- 覚りの世界観における「真如の空・仮・中」