『成唯識論』に、
「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず。」
といった種子説が説かれておりまして、「無漏種子」の存在が繰り返し主張されております。衆生の阿頼耶識にこの「無漏種子」がなければ、いくら仏道修行を積み重ねても、成仏に至ることはないと言うのです。
ではその「無漏種子」とは何かと言いますと、日蓮大聖人が『曾谷入道殿許御書』の中で次のような事を申されております。
「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」
末法に入って、釈尊在世に結縁した者は次第に少なくなり、権教と実教で成仏する機根の人は皆尽きてしまったと。ですから末法は「過去に仏との結縁が無い」本未有善の衆生が生まれてくる時代なので衆生が仏に成るには、新たな仏縁が必要となります。
本未有善とは「仏に成る為に必要な善行が無い」という意味で、過去に仏との結縁が有ることを本已有善と言います。
正法時代に仏との結縁がある「無漏種子」を備えている修行者(本已有善)は、三昧で『妙法蓮華経』を真言として唱えることで、自身の阿頼耶識に眠っている仏との結縁(無漏種子)が呼び起されて縁起が起きて仏性を観じ取っていきます。しかしそうした本已有善の結縁者は正法・像法時代の中で皆、天上界へ転生していき末法では、仏との結縁が無い本未有善の衆生しか生まれて来ません。
本未有善の衆生は、仏との結縁が無い為、阿頼耶識に「無漏種子」が有りません。そのような修行者がいくら瞑想で阿頼耶識にアクセスしても仏と全く縁が無い為、仏性が開花することはあり得ません。そのことを日蓮聖人は『総勘文抄』の中で次のように申されております。
「三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり。 一とは中道なり法華なり、大とは空諦なり華厳なり、事とは仮諦なり阿含・方等・般若なり、已上一代の総の三諦なり。 之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり。 因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり。 此れを総じて因と云うなり。 縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず。 善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや」
ですからそういった本未有善の衆生には、新たな結縁が必要となってきます。
末法の世には「仏」と同じ対境が三昧において必要だという事です。それが曼荼羅本尊と末法で唱える真言の「南無妙法蓮華経」のお題目です。
仏像を対境として「妙法蓮華経」を唱える三昧(←五文字からなる五何法=五仏性)と、曼荼羅を対境として「南無妙法蓮華経」を唱える三昧とではこの本已有善か本未有善かの違いが奥底にあります。曼荼羅という真如の相と、法華経という真如の性(智慧)とそれを唱える凡夫の体を最初の三如是として「南無妙法蓮華経」に含まれる残りの七如是が本末究竟等します。(三如是+七如是=十如是)
【文証】『三世諸仏総勘文教相廃立』
「今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う」
【文証】『十如是事』
「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり」