小乗の時代に部派仏教の中で最も優勢な部派であったという「説一切有部」ですが、ここで言う「有部」とは何を指しての「有」なのかをお話して参ります。
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仏教は、一般に、初期仏教・部派仏教・大乗仏教とに分類されます。
初期仏教は、釈迦が生きていた時代を含む部派分裂以前の初期の形態をいい、釈迦が入滅し100年ほど経つと、「律」の解釈から意見が対立して初期仏教教団は上座部と大衆部とに根本分裂して部派仏教時代へ入ります。
その上座部系の中で最も大きな勢力を保っていたのが説一切有部でパーリ語の三蔵を伝えていることからパーリ仏教ともいいます。
大衆部系はその説一切有部と対立して勢力は小さかったものの後の大乗仏教の源流となります。
仏教では諸々の「法」が〝真理〟として説かれており、その法のことをダルマとも言いますが、それら諸々の法のことをまとめて「諸法」と呼びます。
以下に紹介します「福田論文」のプリント下部表示No.29で説一切有部がこの法(ダルマ)をどのように解釈していたかが詳しく説明なされております。
二無心定の成立 福田 琢 教授(専門:仏教学)
http://echo-lab.ddo.jp/libraries/同朋大学/同朋仏教/同朋仏教 30号(1995年7月)/同朋仏教30 004福田 琢「二無心定の成立」.pdf
No.29下段の「心不相応行」の説明のところです。
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〝見る性質をもつダルマ〟(眼)という物質的ダルマ(色法)が美しい光景をとらえれば、それが原因となってこころに〝感受する性質をもつダルマ〟(受)や〝想念のダルマ〟(想)という心的ダルマな(心所法)が発生し、快さをおぼえる。
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この説明は説一切有部が「諸法」の「法」をどのように考えていたかを説明している文章です。そして説明文は次のように続きます。
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しかし次の瞬間〝聞く性質をもつダルマ〟(耳)が騒音をとらえれば、最前の快感は消滅し、今度は不快感が生じる。このように、ダルマは常に因果律にしたがってとどまることなく生成消滅している。諸々のダルマの集合集散によってうつろいゆくこの無常な世界が有為の領域である。
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説一切有部は、このように諸法の法(ダルマ)が縁起によって生成消滅していると考えた訳です。
ですから法は縁起によって存在する。
仏は「無我」を説いたが法(ダルマ)は存在する。
といった主張が説一切有部が唱えた「法有」です。
ここで一つ考えて頂きたいのですが、「法は縁起によって存在する」という言葉ですが、
「法は縁起によって存在する」だから「法は有る」とするか、--- ①
「法は縁起によって存在する」だから「法は無い」とするか、--- ②
①の「法有」を唱えたのが説一切有部です。
②の場合「法無」となりますが、では対立した大衆部は②の「法無」を唱えたのでしょうか?
実は大衆部は、②の「法無」を主張したのではありません。それを主張しているのは現代の禅宗や「真我」を説くヒンズー教です。(有る無しの理論=実体思想)
大衆部で後に大乗仏教を起こした龍樹が説一切有部の「法有」を徹底的に論破していきますが彼が主張したのは「法無」ではなく「空」です。龍樹が『中論』で唱えた空は相依性による縁起でした。対して上座部の説一切有部の縁起は此縁性による縁起でした。
「福田論文」では、物質的ダルマを色法、心的ダルマを心所法として紹介しておりますが現代的に言いかえれば、
物質的ダルマ(色法)=客観認識法
心的ダルマ(心所法)=主観による認識法
といったところで表現されるかと思います。
これは「モノの有り様」と「認識のあり方」のお話です。
モノの有り様=此縁性縁起(客観)
認識のあり方=相依性縁起(主観)
詳しくは、
法介の『ゆゆしき世界』 「空」の理論 にて。
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5?page=2
「空」の理論の中でわたくしは、次のように空を三つに分けて説明しております。
お釈迦さまは「空」を『無我』という角度から説きました。
お釈迦様=人間の空・仮・中(三観)--- 欲界
龍樹は「空」を『中論』で展開しました。
龍 樹 =仏 の空・仮・中(三諦)--- 色界
そして世親が「空」を『唯識』で説きました。
世 親 =如来の空・仮・中(三身)--- 無色界
この三者が説いた「空」はそれぞれ次のような「空」になります。
お釈迦様の空=第六意識を空じる空 (実体視の消滅=析空)
龍 樹 の空=縁起という仏の視点に立つ空(縁起=体空)
世 親 の空=第七末那識の自我を空じる空(法空)
こちらの、
法介の『ゆゆしき世界』 間違いだらけの仏教の常識
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16?page=2
の中で四諦の「三転法輪」を紹介しておりますが、この三者によるところの空の構図がその「三転法輪」を意味しております。
どの次元で空を理解するかで境涯が次のように分かれます。
析空=声聞
体空=縁覚
法空=菩薩
仏教では、「法四依」というのが説かれておりまして、これはお釈迦さまの教えを正しく理解する為の術としてお釈迦さまが遺言的に示された四項目からなるとても大事な指針です。その中に、
依了義経不依不了義経
というのがありまして、「了義経に依りて不了義経に依らざれ」と読みますが、意味は「完結していない経典を拠りどころとせず、完結している経典を拠りどころとしなさい」といったものです。そういった意味でお釈迦さまの一代聖教を見てみると、『法華経』は、間違いなく完結している経典です。なぜそう言いきれるのかと言いますと内容を見れば分かります。
『法華経』では「開三顕一」がまず説かれております。
これは、仏が覚り得た最高の境地が言葉では言い現わせない、人間の概念から完全に抜け出た世界観であって、それを人間に理解させる為には三段階のステップを踏んだ教法を用いないと伝える事が出来ないとお釈迦さまは考えらた訳です。
そのステップ教法が『法華経』で示された三乗の教えです。
声聞の境涯に即した教え(第一ステップ=蔵教)
縁覚の境涯に即した教え(第二ステップ=通教)
菩薩の境涯に即した教え(第三ステップ=別教)
これは人間の思考に沿ったステップです。人間はまず外の情報を客観認識でキャッチします。そしてその感受した情報を吟味(模索)します。そして「これはこういうものだ!」と意識として判断します。そして最終的にそれを概念として脳にインプットしていきます。
蔵教ではまずこの客観認識のシステムに沿ってお釈迦さまは法を説いて行かれます。その客観認識がどのようなシステムになっているかを六根・六境として詳しく解き明かされます。(阿含経典)
六根=認識器官
六境=認識対象
これは「主体と対象」の関係です。〝見る側〟と〝見られる側〟のそれぞれのあり様が詳しく説かれております。
そしてこの六根・六境に六識が加わって眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識といった六つの認識が生じます。これらの一連の働きをまとめて仏教では「五蘊」と言います。(色・受・想・行・識)
この五蘊の働きを全て停止させる為に行う瞑想が第一ステップで「九次第定」としてお釈迦さまが示された蔵教における修行法です。「九次第定」ではまず色界禅定と呼ばれる四段階からなる禅定(四禅)で五蘊を全て停止させます。
これは六根・六境によって起こる第六意識までを初禅・二禅・三禅・四禅といった四段階の禅定で次第に止滅さていく禅定です。
ステップ1である蔵教の「九次第定」は、三乗の境涯の中でも一番低い声聞衆に対して示された教法です。
声聞は仏門に入っても未だ実体思想から抜けきらないでいる境涯です。その蔵教の声聞衆にも理解出来るようにお釈迦さまは実体に即した四諦を説かれます。それが「三転法輪」の第一時の説法(第一ステップ)です。
<蔵教での四諦の説法>
苦諦 - 迷いのこの世は一切が苦であるという真実。
集諦 - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。
滅諦 - 苦の原因の滅という真実。
道諦 - 悟りに導く実践という真実。
四諦の中の最後の「道諦」の実践として八正道が説かれます。
1)正見(正しい見解)
2)正思(正しい思惟しゆい)
3)正語(正しい言葉)
4)正業(正しい行い)
5)正命(正しい生活)
6)正精進(正しい努力)
7)正念(正しい思念)
8)正定(正しい精神統一)
その中の8)正定が「禅定」にあたります。
八正道にあっては1)の正見を得る為に7)の正念と8)の正定が重要な要素となります。
正見とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であって、四諦の真理などを正しく知ることで得られます。その四諦の真理を覚っていくことを四念処といいますが、7)の正念がそれにあたります。
8)の正定とともに正見である仏の智慧を覚っていく為には「正念=四念処」と「正定=禅定」は八正道において大変重要な内容です。
<四念処の内容>
身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
心念処(心念住) - 心(citta)の無常を観ずる(諸行無常)
法念処(法念住) - 諸法の無我を観ずる(諸法無我)
四禅と深い関係にある「四念処」の内容は、龍樹が『大智度論』の中で説き明かした説法の四段階の教説である四悉檀とも関係してくる内容です。
四悉檀とは、仏は説法を聞く者の境涯に応じて四通りの説き方を示すといったもので、次のような内容になります。
①世界悉檀:世間一般における教説。
②各各為人悉檀:機根などが異なる人それぞれに応じた教説。
③対治悉檀:自我を退治した教説。
④第一義悉檀:仏が覚った真理の教説。
四諦の「三転法輪」としてこちらで詳しくお話しております。
間違いだらけの仏教の常識
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16
↑こちらに目を通して頂けると解るかと思いますが、仏教の重要概念である「空」と深く関係してくるお話です。
「ターナヴットー論文」では、
ニヤーカにおける修行道の相互関係 ターナヴットー・ビック
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/37059/files/ib005001.pdf
プリント下部 No.5 で、『中部経典』の「調御地経」の次の文章を紹介し、
如来は更にその彼を調御したまう。「来れ比丘よ、汝は身において身を繰り返し観察して住し、身に俱える尋を尋求すること勿れ。心において受を繰り返し観察して住し、心に俱える尋を尋求すること勿れ。法において法を繰り返し観察して住し、法に俱える尋を尋求すること勿れ。」彼は尋と伺との止息のために、内心静安となり、心一趣性あり、無尋無伺にして、定より生ずる喜と楽とある第二禅を・・・・・第三禅を・・・・・第四禅を具足して住する。
この経典によれば、四念処の修習は四禅の修習と関係があり、四念処の修習によって三明などが得られることが分かる。
とターナヴットー氏は自身の見解を述べております。
では、この経典の文章の意味を考えてみましょう。
「如来は更にその彼を調御したまう」は、如来は修行者に対して次のように指導しますと訳します。「身において身を繰り返し観察して」の意味は、身、即ち五蘊によって対象を認識する訳で、それにあたって「身に俱える尋を尋求すること勿れ」ですので、尋=客観認識によってそれを認識してはいけませんよとなるかと思います。
次に「心において受を繰り返し観察して住し」その対象を心、即ち主観で思いめぐらすことで、「心に俱える尋を尋求すること勿れ」主観で描く客観としての対象を思い描いてはいけませんよとなるかと。で、最後の「法において」は概念でしょう。概念で対象を捉えてはいけませんよといった事を言われていると思います。
ようは対象を客観や主観で認識する事をやめることで、概念が空じられ善や悪、綺麗や汚いといった感情が無くなって心に楽だけが残って四禅に至るといった事を言っているのではないでしょうか。これは龍樹の空に対する四悉檀(四念処の意味する処)の①~③と内容が一致します。
①世界悉檀:世間一般における教説。(客観を空じる)
②各各為人悉檀:機根などが異なる人それぞれに応じた教説。(主観を空じる)
③対治悉檀:自我を退治した教説。(概念を空じる)
第一ステップで四禅として説かれている「九次第定」の初禅・二禅・三禅・四禅といった四段階からなる色界禅定ですが、これは空をどの次元で理解し修行していくかで来世に転生する天界の場所が四禅天として説かれてるのではないでしょうか。
(修行の因)(果徳)
初禅の実践=初禅天へ転生
二禅の実践=二禅天へ転生
三禅の実践=三禅天へ転生
四禅の実践=四禅天へ転生(解脱を習得した阿羅漢)
この第一ステップの四禅は法空を習得しなければ入れない境地です。蔵教の声聞衆でこの四禅を体得した限られた阿羅漢達が欲界から解脱して色界へ入って天上界の仏菩薩から報身の説法を聞いて経典として後世に残して行ったものと考えられます。
この第一ステップ(蔵教)で示された「九次第定」の瞑想法は仏教以前から存在していた個々の禅定をお釈迦さまが仏教バージョンとしてアレンジして取り入れたものです。そのことについて「池田論文」では、次のような文章で詳しく紹介されております。
色界第四禅について 池田 練太郎
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/印度学仏教学研究/印度學佛教學研究第40巻第2号/Vol.40 , No.2(1992)089池田 練太郎「色界第四禅について」.pdf
(プリント下部 No.966-965 ←なぜか逆番)
釈尊は、禅定をどのような意義で捉えていたのか。いわゆる八等至、九次第定と呼ばれる禅定体系の中の、特に色界の第四禅に焦点を当てて考察してみたい。
はじめに、「八等至」について、『長部』経典に見られる記述によって概括しておこう。
まず、初禅では、五蓋の煩悩を捨て去った自分を見て歓喜の心が生じ、それによって身体的に安らぎが 得られ三昧に入り、また、有尋・有伺であるとされる。第二禅は、尋伺が静まって内部に落ち着き、心が一一つ に向かって集中する。第三禅は、念(と正知が具っている状態で、身体的楽が感じられる。そして、第四禅は、不苦不楽で、捨によって念の清らかさがある、とされる。
これら一連の禅定は、jhana(Skt., dhyana)という語によって示されるが、これは、周知のごとく、jhayati(dhyai-)という動詞から造られた語であり、もともと、「考える」という意味合いを持った語であ った。その意味で、「静慮」という漢訳はその本来のニュアンス(心を静かにして考えること)をよく伝えているが、それは、この禅定の本質をもよく表しているといえる。(禅定は静慮とも言われる。)
また、尋と伺は、原始仏教では外界に対して向けられる心の働きを粗い働きと精細な働きに分けて捉えたものであり、これのある無しによって心の状態が区別されていることになる。したがって、無尋・無伺となる第二禅の状態は、外界によって精神が散乱することなく、意識を集中させて思惟(心で深く考えること)している段階に該当することになる。後に、初禅と二禅の間に「中間静慮」の段階が設定され、そこに「無尋唯伺(有伺)」が当てはめられたのは、そうした精神的な流れから見た場合、その事情をよく示しているといえよう。
以上のように見てくると、第三禅の、念と正知が具っている段階が精神を集中して思惟するという点からすると最も適していることが知られる。なぜなら思惟する以上、思考するために用いられる言語・概念には「念」即ち記憶と、「正知」即ち明瞭な認識の存在が不可欠だからである。その意味からすると、第四禅の段階に正知(認識)という知的要素が欠落することは、jhana(考える)の本来の意味が示す働きからは後退したという感を否めない。
そして池田氏は、(No.964)で、
先にみたように、第三禅までは、人間が普通の心身のままで、精神を集中して思惟行動を行っている状態であったのに対し、この第四禅及びそれ以上は呼吸が働かないとされることからみても、むしろ死に近い状態を呈していると見なしうる。
と言って第三禅までの禅定と第四禅及びそれ以上の禅定の違いを説明するにあたり、次のようなエピソードを紹介しておられます。
釈尊は幼少期に初禅の状態を体験したということが示されている6)。 このエピソードが事実であるなら、出家前の釈尊が初禅を体験したということからも、後世色界の四禅とされるに至った禅定の少なくとも最初の段階の本質は、やほり精神を集中して思惟に没頭することに起因する一つの状態であった可能性が高いと推察されるのである。
また、釈尊は出家後まもなくアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタを訪ね、それぞれの無所有処定と非想非非想処定を体験した後に捨て去ったと伝えられるが7)、このことはやはりこれらの禅定を退けた釈尊の立場を明確に示すものと見てよいであろう。さらに、釈尊は2カ月間、人を近づけずに一人で禅定を修したことが伝えられているが8)、そのときの禅定は、持息念(呼吸が伴う念)が中心であったとされている。 この他にも3カ月に亘る禅定が報告されているが9)、いずれもその間に比丘たちとの交渉があったとされていることからみて、滅尽定のような死に近い禅定を実践していたとは見なし難い。(No.963)
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6) Mahasaccaka-sutta, MN., I, pp. 246. cf.水 野弘元 「原始仏教 と目本 曹洞宗」(『道元禅 の思想的研究』1973年, 春秋社刊)pp. 53-58, 69-73. 以下, 註(7)(8)(9)についても同様。
7) Ariyapariyesana-sutta, MN., I, pp. 163-166.
8)『 雑 阿含』巻29; 大正2, 207a.
9) SN, V, p. 13; SN, V, pp 325-326; Vinaya, I, p. 169; Vinaya III, p. 230. etc,
こういった内容を鑑みて『仏教ウェブ入門講座』の禅定の項では、
『仏教ウェブ入門講座』 禅定とは?
https://true-buddhism.com/practice/reflection/
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ブッダの体得された涅槃(仏のさとり)は、四禅八定の延長線上にあるのではなく、まったく別の境地です。
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と紹介されておられます。
何故ならば、これらは仏門に入って最初に得られる声聞という境涯に対して示された第一ステップの教え(蔵教)の内容だからです。
声聞=仏門に入っても未だ実体思想から抜けきらないでいる境涯。
こちらで私が「阿部論文」を紹介しておりますが、
https://zawazawa.jp/bison/topic/13/1
『法蘊足論』の四無量定と勝解:『声聞地』との関連性から 阿部 貴子
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『声聞地』と言いますのは、声聞という境涯の境地のことを言いますが、この論文では『法蘊足論』の内容から欲界~第三禅までが声聞の境地と考えられると論じておられます。
その声聞から五蘊皆空で一段上がった縁覚の境地に入らないと四禅、即ち仏の空観(色界)には至りません。
第二ステップはその縁覚という境涯を対象として説かれた仏の空観に入る為に説かれた「空」の理論についてのお話です。こちらで詳しく紹介しておりますのでご覧ください。
法介の『ゆゆしき世界』 「空」の理論
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5?page=2
ー完ー