冤罪でよく言われる話として痴漢冤罪がSNSなどで話題にあがる。この時に警察や駅員は「早くはいたほうが楽になる」などと一方的に悪者と決めつけ精神的追い詰めたり、「会社に迷惑がかかる」などの社会的に追い詰められたりしてしまい、公平性という観点で考えられていない。また、さらに「痴漢をした悪者を成敗する」という正義的な行為を行っているという感情が強くなってしまい、冤罪を被ってしまった人の話を聞けない状況である可能性もある。このようなそれぞれの心理状況によって、正常な判断ができない状況が問題点としてあるだろう。しかし、痴漢冤罪においては指紋検査をすることを言えば、冤罪を証明することができることがあるという話を聞く。このように、一歩引いた立場からの情報や分析といったものが公平性を欠いてしまう心理的な問題を解決する手段であると感じた。
人間は法のもとに生きていてそれに逆らえない からこそ治安が保たれたりそれが根付き定着しているのだと感じると共に心理学視点で見ると矛盾を感じる点や強引さが目立つと感じた。事情聴取の惨さや裁判までのプロセス、そもそも 証言が正しい!のではなく正しくするために様々な手数をある程度の期間を儲けて準備するため(ここに事情聴取なども加わる)に、圧のかかるやり方で罪をあぶりだそうとしているのでは、とも受け取ることが出来るのではないかと思う。そのため精神的に耐えられなかった者が損をし、冤罪などが生まれるのではないかと感じた。よく冤罪のニュースなどに対して殆どが可哀想、警察が悪い、などのコメントが目立つが一部 疑われる方が悪い、してないなら貫け、というコメントも多いように感じる。少しでも心理的視点がここに組み込まれたら、精神的に辛い状況を強いられるというそもそもの根源が絶たれ、より正確な結果が出せるのではないかと思う。
過去に冤罪事件を取り扱ったテレビを見たことがあったが、取り調べの圧に負けてしまいやっていない犯罪を認めてしまったという内容であった。この時、正しい証言の取り調べを行うには、質問の仕方を誘導しないような聞き方に工夫する必要があると知った。誘導的な質問をすることは、実はそうだったのではないかという架空の記憶を作り出せるのだと感じた。検察側はその人が有罪であることを認めさせるような質問をするとするならば、質問の仕方によって証言が変わる可能性があることを事件にかかわる人は認知しなければならないと思う。判決を人間が行う以上、法的な処置だけでなく心理学の観点からも見なければならないと感じた。
最近では防犯カメラや色々なものの履歴などから証拠を出すことができるが、それでも基本は人間からの事情聴取である。人間は「忘れる」という機能を有している。それを乗り越えてどのように思い出させるか。なんとしても犯人を捕まえたい検察(警察)側は良かれと思って人の記憶を歪めてしまうような質問をする。検察(警察)側がもし心理学の知識を少し待っていたら、記憶を歪めないような質問の技術をもっていたら冤罪はもっと少なくなっていただろうか。それぞれの職業に役割があるからこそ、その専門の知識を入れることに集中してしまうが人間と関わる以上、人間の心理的な動きに注目するような心理学には逆らえないと思った。
取り調べなどよりも法廷での証言が優先されるということを聞いて、緊張で取り調べと違うことを言ってしまったり全く違うことを言ってしまったりするのではないかと考え、法廷での証言の難しさを感じた。また人の記憶は急に思い出されたり徐々に鮮明になったり、簡単に書き換えられてしまします。このことから質問をする際に記憶を書き換えないような聞き方をすることが重要だと思った。例えば、「このことについて覚えていることはありませんか」というように自分の記憶をそのまま伝えてもらえるような質問をすることが大切だと感じた。特に子どもは長期的に記憶することが難しく、質問に対して誘導されやすいので特に注意するべきだと考えた。
私たちは一見自由に選択し、生きているように感じる。しかし、その背景には社会的環境に影響を与える法が存在していて私たちの行動を制限している事を認識した。そう考えると、私達は全く自由ではないなと思う。社会で生きることは、自由から掛け離れ自らを縛る鎖の中に身を投じることなのだと考えた。 また、裁判にて第一証言として使われるのが事件から何ヶ月も先になってからという話に驚いた。記憶の分野こそ、心理学を生かす必要性があるし、十分に必要性を証明できるだろう。
自分の認識と法の決まりでは異なることがあること、何が正しいということがないからこそ法にそって進めていくが、その決まりを全ての人間が認識できているわけではないので誤った情報や理解をしていたという結果に繋げられるのが難しさだと改めて感じました。また、心身喪失は無罪として認められるという判断について、偽れることもあるからこそ慎重に判断するべきであるし、そうなってしまった過程や心情なども大切だけれど人を殺めてしまったという点に置いての結果に目を向けたときに,個人的に有罪判決が妥当だと思います。
質問の仕方によっては記憶を歪めたり、誘導してしまったり、無い記憶を作り出してしまうことがあるということを学び、取り調べには想像以上に配慮が必要なのだと感じた。ドラマなどでよく見る威圧的な取り調べは被疑者に虚偽の自白をさせたり、記憶の中でやっていないのにやったことにすり変わってしまう可能性が大きく、私たちのイメージとは異なるのだと思った。また、虐待の事例で、子供に面接をする時にも質問の仕方には十分な配慮があると学んだが、私は大人よりも子供への対応の方が特に配慮しなければならないのではないかと感じた。その理由として、子供は大人の言うことは正しい、と思ってしまったり〇〇だよね?という聞き方をされると大人に比べて「違う」ということが難しいのではないかと思ったからだ。子供相手の場合は、大人と同等の配慮というよりその立場の差を考慮する必要があると感じた。
また、責任能力の話が講義内で上がりましたが個人的に読んでいた論文が分かりやすいかなと思ったので載せておきます。10年以上前のものですが、心身喪失及び心身耗弱と判断されたポイントがまとめられた事例がいくつか載っているので良ければご参照ください。
https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/record/16807/files/141010170101_知的障害者の刑事責任能力判断に関する近時の判例の動向.pdf
「緒方あゆみ.知的障害者の刑事責任能力判断に関する近時の判例の動向.中京ロイヤー,17巻,1号,p.1-18.」
私たちは法に縛られながら生きているが、世の中の風潮がそうさせているともいえると感じる。”法だから”と全てを縛ってしまうと被疑者の供述や自白においての表現の自由を制約していると感じた。罪を法だけで判断することのように全て見えるもので行動を制約することではなく、人間の内在する感情や気持ちを明らかにし罪の全容を信ぴょう性の高いものにするためには心理学が必要だと強く感じた。
ここに投稿します。投稿者名は「学籍番号の最後の数字を除いたもの」です。たとえば、F222008の人ならば「F22200」となります(最後の「8」を省略します)。
冤罪でよく言われる話として痴漢冤罪がSNSなどで話題にあがる。この時に警察や駅員は「早くはいたほうが楽になる」などと一方的に悪者と決めつけ精神的追い詰めたり、「会社に迷惑がかかる」などの社会的に追い詰められたりしてしまい、公平性という観点で考えられていない。また、さらに「痴漢をした悪者を成敗する」という正義的な行為を行っているという感情が強くなってしまい、冤罪を被ってしまった人の話を聞けない状況である可能性もある。このようなそれぞれの心理状況によって、正常な判断ができない状況が問題点としてあるだろう。しかし、痴漢冤罪においては指紋検査をすることを言えば、冤罪を証明することができることがあるという話を聞く。このように、一歩引いた立場からの情報や分析といったものが公平性を欠いてしまう心理的な問題を解決する手段であると感じた。
人間は法のもとに生きていてそれに逆らえない からこそ治安が保たれたりそれが根付き定着しているのだと感じると共に心理学視点で見ると矛盾を感じる点や強引さが目立つと感じた。事情聴取の惨さや裁判までのプロセス、そもそも 証言が正しい!のではなく正しくするために様々な手数をある程度の期間を儲けて準備するため(ここに事情聴取なども加わる)に、圧のかかるやり方で罪をあぶりだそうとしているのでは、とも受け取ることが出来るのではないかと思う。そのため精神的に耐えられなかった者が損をし、冤罪などが生まれるのではないかと感じた。よく冤罪のニュースなどに対して殆どが可哀想、警察が悪い、などのコメントが目立つが一部 疑われる方が悪い、してないなら貫け、というコメントも多いように感じる。少しでも心理的視点がここに組み込まれたら、精神的に辛い状況を強いられるというそもそもの根源が絶たれ、より正確な結果が出せるのではないかと思う。
過去に冤罪事件を取り扱ったテレビを見たことがあったが、取り調べの圧に負けてしまいやっていない犯罪を認めてしまったという内容であった。この時、正しい証言の取り調べを行うには、質問の仕方を誘導しないような聞き方に工夫する必要があると知った。誘導的な質問をすることは、実はそうだったのではないかという架空の記憶を作り出せるのだと感じた。検察側はその人が有罪であることを認めさせるような質問をするとするならば、質問の仕方によって証言が変わる可能性があることを事件にかかわる人は認知しなければならないと思う。判決を人間が行う以上、法的な処置だけでなく心理学の観点からも見なければならないと感じた。
最近では防犯カメラや色々なものの履歴などから証拠を出すことができるが、それでも基本は人間からの事情聴取である。人間は「忘れる」という機能を有している。それを乗り越えてどのように思い出させるか。なんとしても犯人を捕まえたい検察(警察)側は良かれと思って人の記憶を歪めてしまうような質問をする。検察(警察)側がもし心理学の知識を少し待っていたら、記憶を歪めないような質問の技術をもっていたら冤罪はもっと少なくなっていただろうか。それぞれの職業に役割があるからこそ、その専門の知識を入れることに集中してしまうが人間と関わる以上、人間の心理的な動きに注目するような心理学には逆らえないと思った。
取り調べなどよりも法廷での証言が優先されるということを聞いて、緊張で取り調べと違うことを言ってしまったり全く違うことを言ってしまったりするのではないかと考え、法廷での証言の難しさを感じた。また人の記憶は急に思い出されたり徐々に鮮明になったり、簡単に書き換えられてしまします。このことから質問をする際に記憶を書き換えないような聞き方をすることが重要だと思った。例えば、「このことについて覚えていることはありませんか」というように自分の記憶をそのまま伝えてもらえるような質問をすることが大切だと感じた。特に子どもは長期的に記憶することが難しく、質問に対して誘導されやすいので特に注意するべきだと考えた。
私たちは一見自由に選択し、生きているように感じる。しかし、その背景には社会的環境に影響を与える法が存在していて私たちの行動を制限している事を認識した。そう考えると、私達は全く自由ではないなと思う。社会で生きることは、自由から掛け離れ自らを縛る鎖の中に身を投じることなのだと考えた。
また、裁判にて第一証言として使われるのが事件から何ヶ月も先になってからという話に驚いた。記憶の分野こそ、心理学を生かす必要性があるし、十分に必要性を証明できるだろう。
自分の認識と法の決まりでは異なることがあること、何が正しいということがないからこそ法にそって進めていくが、その決まりを全ての人間が認識できているわけではないので誤った情報や理解をしていたという結果に繋げられるのが難しさだと改めて感じました。また、心身喪失は無罪として認められるという判断について、偽れることもあるからこそ慎重に判断するべきであるし、そうなってしまった過程や心情なども大切だけれど人を殺めてしまったという点に置いての結果に目を向けたときに,個人的に有罪判決が妥当だと思います。
質問の仕方によっては記憶を歪めたり、誘導してしまったり、無い記憶を作り出してしまうことがあるということを学び、取り調べには想像以上に配慮が必要なのだと感じた。ドラマなどでよく見る威圧的な取り調べは被疑者に虚偽の自白をさせたり、記憶の中でやっていないのにやったことにすり変わってしまう可能性が大きく、私たちのイメージとは異なるのだと思った。また、虐待の事例で、子供に面接をする時にも質問の仕方には十分な配慮があると学んだが、私は大人よりも子供への対応の方が特に配慮しなければならないのではないかと感じた。その理由として、子供は大人の言うことは正しい、と思ってしまったり〇〇だよね?という聞き方をされると大人に比べて「違う」ということが難しいのではないかと思ったからだ。子供相手の場合は、大人と同等の配慮というよりその立場の差を考慮する必要があると感じた。
また、責任能力の話が講義内で上がりましたが個人的に読んでいた論文が分かりやすいかなと思ったので載せておきます。10年以上前のものですが、心身喪失及び心身耗弱と判断されたポイントがまとめられた事例がいくつか載っているので良ければご参照ください。
https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/record/16807/files/141010170101_知的障害者の刑事責任能力判断に関する近時の判例の動向.pdf
「緒方あゆみ.知的障害者の刑事責任能力判断に関する近時の判例の動向.中京ロイヤー,17巻,1号,p.1-18.」
私たちは法に縛られながら生きているが、世の中の風潮がそうさせているともいえると感じる。”法だから”と全てを縛ってしまうと被疑者の供述や自白においての表現の自由を制約していると感じた。罪を法だけで判断することのように全て見えるもので行動を制約することではなく、人間の内在する感情や気持ちを明らかにし罪の全容を信ぴょう性の高いものにするためには心理学が必要だと強く感じた。
ここに投稿します。投稿者名は「学籍番号の最後の数字を除いたもの」です。たとえば、F222008の人ならば「F22200」となります(最後の「8」を省略します)。