証言をできるだけ早期に収集することが重要だ。記憶は時間と共に曖昧になりやすく、事件直後に証言を得ることで、鮮明な記憶に基づいた情報を収集できる。証言を得る際には、誘導的な質問を避けるべきで、質問が証言者に特定の答えを促すことがないよう、オープンエンドな質問を使用することで、証言者の記憶に忠実な情報を引き出す必要がある。また、証言者が他の目撃者やメディアから影響を受けないよう、証言を得る際に視覚的な手がかりを提供しないことも大切で録画など記録として振り返れる媒体が対策になると考える。
目撃証言は裁判において重要な役割を果たしますが、記憶は再構築されやすく、誤りを含む可能性があります。心理学的知見に基づいて、証言の信頼性を高めるためにはどのような対策が必要だと思いますか?
まず、取り調べの環境を整えることが重要になると考える。静かで明るい部屋を選び、必要以上に警察や取り調べの「威圧的な」雰囲気を感じさせないようにする。子どもが落ち着けるよう、壁には柔らかい色調の絵やポスターを飾る、または小さなぬいぐるみやクッションなど親しみやすいアイテムを置くと良い。質問の仕方では、誘導的な質問を避け、オープンエンド質問を優先する。たとえば、「あの時、本当は何があったの?」ではなく、「あの時、どんなことが起きたと思う?」と聞き、子どもの記憶を誘導せず自然に話を引き出す。また、途中で「そうなんだ」「それは大変だったね」と共感的な相づちを打つことで、話しやすい雰囲気を作る。最後に、子どもにプレッシャーを与えないことが肝心だ。「失敗しても大丈夫」「全部覚えていなくてもいいから、思い出せることだけ教えてね」といった励ましの言葉を随所に挟むことで、子どもが「正しいことを言わなければならない」といった重圧感から解放されることでスムーズに引き出すことができると考えた。
緊張や不安を覚える対象を目撃者に限定して話をします。 緊張や不安のようなストレス反応は、逆に記憶の忘却率を低下させる可能性があります。 越智(2001)は「情動的ストレスを喚起させる刺激は、強固な記憶痕跡を形成するために、忘却率が低くなる」と仮説立てています。 目撃者は、事件当初は緊張や不安がある(少なくともリラックスはしていない)と思います。なので、曖昧になるよりも、むしろよく覚えているのではないでしょうか? また、尋問という場面は緊張を伴うと思いますので、感情状態依存効果が働き、むしろ事件当時のことを思い出しやすいかもしれません。
引用 越智 啓太・相良 陽一郎(2001)「情動的ストレスが目撃者の記憶に及ぼす影響」犯罪心理学研究第39巻第2号.17-28.25ページ.
大野のケースで該当する能力論は「ヤクザだから」ですが、それがどこでどういう問題を引き起こしていたかはわかってくれたでしょうか。大野が組み込まれたコミュニケーションの特質を理解してくれたようでよかったと思います。 この授業を履修している以上、正式な名称を使ったほうがいいです。「容疑者」ではなく「被疑者」です。「スティグマ」の用法、元々ゴフマンの用法とは違いませんか。「偏見」と言えば済むのではないかと思います。 3点差し上げます。
大野は検察側の証人ですから、証人として出した時点で、犯人(山口会長)の有罪性を示せない人物とはならないようにしますね、尋問の仕方によって。 最後の方、言わんとすることがよく分かりませんでした。「大野にコントロールされている状況から抜け出す」ことはできていないし、「検察がFAを恐れている」とはとこからそう言えるのですか。 4点差し上げます。
文字数と比較した場合の単語数の優位性は説明されていますが、別の指標と比較しても適切なのかについては触れられていませんね。あなたが指摘するデメリットは結構深刻で、同じことを二度言われたらどうするかという問題もあります。 CQを使用する正当化には失敗していると思いました。論理展開もよくわからないです。 4点差し上げます。
大野が体験を持っているという前提に立った考察になっていませんか。「神様」視点には立てないからどうするかが、ここ数回の授業でみなさんと一緒に考えたはずのことです。 「忠誠心」や「自己保身」によって説明するのは能力論であることはわかりますか。一つの解釈としてならわかりませんが、そういう解釈をすることと大野供述の信用性を判定することはまた別の課題です。 4点差し上げます。
CQの危うい機能については、授業の早い時期から指摘しました。大野の事件はそれを再確認させてくれたと思います。手元に置いてあるかはわかりませんが、一応警察向けの注意事項的なものはできましたね。取調べの高度化への志向によって。本当にそうしないといけないと考えているかがわからないのが悲しいのですが。 能力論については正岡くんと同様、大野についても言及されましたが、正岡くんほど気をつけないといけないものだとは、私には感じられませんでした。ヤクザというものをよく知らないからかもしれません。 授業で聞いたことを整理してまとめてくれたのだと思います。ありがとうございます。 4点差し上げます。
どうして発話量に差がないと一貫して受動的と言えるのですか。尋問者と大野の発話量の比較に基づくのならまだわかります。大野のコントロールの意図がどうしてCQの多さからわかるのですか。それは彼が組み込まれていたコミュニケーションパターンからわかることだと、授業では言ったと思います。「曖昧な応答や記憶のなさは責任を逃れるためや尋問者が意図する方向への誘導を防いでいると考える」、その根拠もよくわからないです。「尋問者からの信用を得るため」かどうかはわかりませんが、大野の受動的な立場によって、わずかながらですが彼の供述に一貫した部分があると評価されたことはあり得るでしょう。この程度で「一貫した供述だ」と評価する裁判所の思考は理解しかねますが。 4点差し上げます。
コミュニケーション分析が追求しているのは、発見されたコミュニケーションパターンがどういう機能を果たしているかを明らかにすることです。その上で供述者の特性に言及します。正岡くんなら「不定さ」ですが、これは難しいのでわからなくてもいいです。パターンがどう機能しているかを明らかにしているのだというところまで理解してくだされば。このことを裁判所が理解できるには、会話分析に関する知識が必要です。勉強してほしいものですね。 最初から「犯人」と想定することはできません。どうしても「神様」の視点(「正解」がわかっている。この場合「誰それが犯人だ」と想定すること)に立ってしまいますね。内部基準を示そうとする鑑定は、「神様」の位置に立つことを回避しないといけません。 5点差し上げます。
今回提起された問題は、CQを使用しないと取調べが進まないということではなく、CQを使用すると供述者のコントロールに乗る可能性があるということではないかと思います。また、CQ自体の問題というより、CQが大野が組み込まれていたコミュニケーションで、大野の体験を明らかにする方向での機能を持っていないということです。 3点差し上げます。
細かい部分が変動していても、大筋が一貫していれば「一貫性あり」と評価されるようです。細かい部分の変動に着目することが意味あることであると主張しないといけない。 「コミュニケーション分析をすることで、供述の中身ではなく形や質について検討できる」のは確かですが、どうして形や質を検討することが重要なのですか。 CQの問題については、調書の作成過程、司法面接などで指摘してきました。ここでもまた復習できましたね。 4点差し上げます。
「外部基準による分析は、内容には触れず、その発話・会話形式だけに着目をする」とは言っていません。また内部基準か外部基準であるかと、内容を見るか形式を見るかも直接関係しません。文字数から信憑性を探ったというのも間違いです。資料をよく読んでみてください。 記憶がなくなっていれば、当然記憶に基づいた発言はできず、記憶に忠実であろうとするならば供述者は沈黙したり、曖昧なことを言わざるを得ないですね。それはあなたがおっしゃる通りです。通常の成人男性であれば、検察官の権威になびくことはむしろ少ないのではと思います。むしろ犯人を処罰したいという正義感の部分で検察と共鳴してしまい、共に被告人が犯人であるストーリーを作り上げる演者になってしまうのではと思います。 自分が主張したいことに同意してくれる限り、検察官も弁護人もコミュニケーションの修正はしないでしょうね。それは裁判官がやるべきではないかと思います。建前では裁判官は中立ですから。 6点差し上げます。
測定の妥当性を考える教材になりました。しかし発話時間は、有声休止(えっと、あのー)や無声休止(沈黙)によっても変化しませんか。私が文節を推した理由は話さなかったと思いますが、思考の単位が反映されるのではないかと考えるからです。あなたが発話時間を推す理由はなんですか。可視化によって測定ができるというのは、発話時間の妥当性の話ではありませんよ。 すでに大野は法廷に出ているのだから、「早く捕まえたいという思い」はないのでは? 会長を庇うことと情報提供を関連づけていますが、これもどうしてなのかよくわからないです。大野が会長を庇いたいと考えているかどうかはわからないですよ。 4点差し上げます。
「発話量で証言の信憑性が得られる」と授業では言っていませんし、一般にも言えないと思います。誤解ではないでしょうか。「間投詞は信憑性を探る上で重要」というのも、どういう根拠に基づくのでしょう。他の「思う」ことについても根拠が語られないので、そういうこともあるかもしれないがないかもしれないという意見でしかなくなります。あるいは多義的な解釈ができるので、あなたが思うような指標としては使えないのではないかと思います。 3点差し上げます。
主尋問はある意味協同作業ですから、サポートしてしまうのは当然と言えば当然なんですよね。ただ、そういうコミュニケーションが供述者の体験を反映しているものと言えるか、逆に反映していなくても言えてしまうものかを考えてもらう資料に、鑑定がなれば成功でしょう。 QがAをコントールするというのが、発問と応答からなるコミュニケーションの暗黙の前提ですが、それに合致しないことが大野の尋問では起きていたのですね。大野尋問における検察のCQが大野への誘導というより、大野のAが検察がCQをするように誘導として機能しているのですよ。ここが大野供述で興味深いところです。発問者の方が誘導するという、これまで授業で扱ってきた事態とは異なる事態であるところに注意してください。 4点差し上げます。
「供述の一貫性が調書の一貫性に依存している」とはまさに大野供述の本質をとらえたものだと思います。このようなことを指摘したら、裁判所はどう評価するでしょうね。 A-Q連鎖で思いついたのですが、IRE連鎖も似ていませんか。生徒が間違った回答をすると教師は同一質問を反復することがありますが、これは生徒が教師をコントロールしていると言えるでしょうか。授業では大野が検察官をコントロールしているという言い方をしましたが、意図というものはわからないので、本来であれば大野を検察官がサポートするようなコミュニケーションが発生していると言うべきかも知れません。IRE連鎖に関与する生徒と教師がそうであるように。また足利の須賀さんも同様と言えるかも知れません。彼が自白らしいものができたのは、取調官が言い淀む須賀さんをフォローしたからです。いずれの場合にも尋問者の解釈が捜査資料に残るだけで、裁判が中立的にならないのは確かです。 元妻供述の評価に彼女の属性が利用されているのはまあ偏見ではありますが、「能力論」ですね、この授業の観点では。しかし彼女の供述を仔細に検討できるほど、質的にも量的にも十分ではなかったので、そういう偏見を抱かなかったとしても信用性の評価は困難という結論になったと思います。 大野が組み込まれる特徴的な尋問コミュニケーション自体が有効なのではなく(他の人なら違うパターンを描くかも知れないので)、さまざまな前提を取り払ってなされるコミュニケーションの分析が有効なのではないとか思います。それ以前に、コミュニケーションパターンから判断するという評価基準がありだと思われないといけないですが、法曹関係者に。 14点差し上げます。
曖昧な応答のままだと証言したことになるか怪しいので、CQによって補完したくなりますね、主尋問の場合は特に。 文字数が増えることが誘導の結果という言い方は正しくないと思います。たとえば、正しく記憶を思い出した場合でも増えるでしょうし、嘘を入念につこうとしても増えるでしょう。誘導しても増えない場合もあり得ますね。CQに対して「はい」と言わせるだけなら。 尋問方法を変えるのですか、尋問の戦略を変えるのですか。後者のような気がします。文字数が増えることがどうしていけないと考えているのかよくわからないのです。冒頭で「誘導的」と言っているからですか。先述の通り、この論理はおかしいと思います。 複数のトピックについて書き散らしている感じがします。一つ一つ改行するなりして区別し、それぞれについて論理的に書いた方がよいと思いました。 6点差し上げます。
供述の形成過程に着目する点では浜田流と同じです。外在的理論を適用することの問題は理解してもらえたでしょうか。 第12回にかかわる採点対象となる投稿は締め切っています(授業週の金曜13時が期限)ので、今回はコメントのみにとどめますね。
「自分で問題提起して自分で回答する」もアリにしましょう。
子どもへの取り調べで、子どもが緊張しないような話し方や態度などの心理学的知見は何だと思いますか。
緊張や不安によって記憶が曖昧になったり変わってしまったりすることはあるのか?
採点対象となる投稿を締め切りました。今回もありがとうございます。引き続いて「リア充大爆発!」の問題提起を受けつけます。
「問題提起」の投稿期間は、12月20日(金)13時から12月25日(水)23時59分(26日に日付が変わる前まで)ですが、締切間際に投稿しても皆さんから意見がもらえないかもしれないので、お早めの投稿をお願いします。
「議論」の投稿する期間は、12月24日(火)0時(23日から日付が変わった時)からですので、しばらくお待ちください。
今回のような容疑者が暴力団という場合、無意識に能力論を唱えやすくなる。今までの講義の事件からも感じていたが、社会的スティグマが裁判の中にも数多く存在していることを知った。仮に様々なスティグマがなくなり、社会の捉え方が変化することは、裁判の判決にも大きく影響することだと感じた。 また最初は尋問者が大野を誘導し、有利な方向性にもっていっているかと考えていた。しかしQAの単位のどこを切るかによって、問答の全体像の見方が大きく変化することを学んだ。
検察が犯人を無罪にしてしまうことを恐れているからこそ、できたパターンだと思った。 検察が犯人を無罪にすることを恐れているがゆえに、大野があいまいな回答をしても、検察がフォローを行ってしまい、周りには事件について語っているように見えてしまっていた。また、周りも山口被告が犯人だろうという思い込みがあり、信用できると判断してしまったのではないかと考えた。 コミュニケーションを見ることで、事件について語っているのが大野ではなく、検察であることに気が付けた。このことで、大野が証人として機能していないことを指摘できた。弁護士が大野の回答が信用できないものだと気が付けても、大野は責任を回避した回答をしていた。そのため、大野が事件について証言できていないということを証明することは難しかったと思う。分析により、大野よりも尋問者の方が発言していることや、CQが多いことを、証明できた。このことは、大野にコントロールされている状況から抜け出すことができる良いきっかけにもなった。このことから、被告人が犯人であるまたは、犯人ではないという思い込みや、検察がFAを恐れていることを忘れてはいけないと思った。
今回の講義の量的分析において、私は単語数はいいアイデアだと感じた。文字数は私をわたしと書いてしまえば1文字から3文字になると先生が仰っていたことから、検察側の供述の受け取り方に一貫性が無くなってしまうと感じた。聞いている全員が同じ受け取り方をできるのは、単語数だと考えたからだ。しかし、単語数にもデメリットがあると考える。それは、回りくどい言い方をされた時である。例えば、これは間違っていますという内容をあえて、合っている訳では無いという風な言い方をされたらこれも単語数が増えてしまうのでは無いかと考えた。これを防ぐために、回りくどい言い方をされた時にはCQを使い、これはこう言いたいのか?といった確認を行うことで供述に改めて理解することができると考えた。 今までCQは誘導になるのでOQを活用すべきと学んできた。しかし曖昧な供述や記憶のなさは、尋問においてCQを増やす要因になっていると感じた。記憶のなさは本当に覚えていなければどうしようもないが、曖昧な供述に関しては尋問を繰り返すことで矛盾を見つけ、真実を細かく理解しようとする姿勢が大切だと感じた。
大野の供述では「記憶がない」「そうかもしれない」といった曖昧な応答が頻出した。この曖昧さは、記憶の性質に起因している可能性がある。記憶は時間の経過や新たな情報の影響を受けやすく、供述の一貫性が必ずしも事実を反映しているとは限らない。また、尋問者から提示された情報を取り込む「ミスインフォメーション効果」によって、供述内容が変容した可能性もある。このような記憶の不確実性を考慮すると、大野の供述の信頼性を完全に担保するのは困難である。詳細な情報を提供することは高い認知負荷を伴うため、曖昧な応答によって負荷を軽減しようとした可能性がある。一方で、尋問者の情報に頼る形で供述が形成されている点は、供述の一貫性が尋問者の質問内容に依存していることを示唆している。供述者が暴力団の関係者であることを踏まえると、社会的なプレッシャーや自己保身が供述内容に影響を与えた可能性が高い。特に「命に代えても守るべき親分」の存在が供述にどのような影響を与えたかは重要な点である。組織の一員としての忠誠心と、個人としての自己保身という相反する動機の間で、供述内容が揺れ動いた可能性がある。事件を通して、供述形成のプロセスをコミュニケーション全体として捉える分析の重要性が示された。従来の「発問-応答」という枠組みを超えて供述の特性を分析することで、証言の信頼性評価や事実認定の新たな視点が得られることが分かった。
本講義を聞き、尋問におけるOQの後にするCQは尋問を受けている人に事後情報を提供してしまうため、注意しなくてはいけないと考えた。また、F22015さんと同じように、OQのみでは情報を得ることができずに終わってしまう取調べが存在すると知った。この危険性や取調べの方法を取調官に知ってもらうために、取調べのルールのようなものを冊子として調書作成を担当している人が見れるようにすると、取調官にその場で伝えることができると考えた。 大野供述の評価で、大野はやくざであるから親分のことは裏切らないだろう、不利益になる自白は正しいといえるだろうなどの先入観、経験則、能力論を無意識に信じていることが正しい事実を知るときに邪魔になってしまうと感じた。甲山事件でも知的能力的に作話ができないという能力論があったため、正岡君の証言が正しいかどうかが判断しにくくなっていたと感じる。経験則や能力論といった確率論には例外があり、その個人に対して語ることができないと改めて理解した。そのため、個人を語るためには、その個人が持っている特徴、内部基準に着目するべきだと考えた。また、それぞれの人物と時間経過ごとによる証言を変化を追った際に、不自然な発言や思い出し方を無視することが多くあるのではないかと思った。この違和感や不自然さを無視しないために、実体験を思い出したことを話すときのその人の特徴を提示することが心理的観点からできることであると考えた。この時に見られる特徴は繰り返されるところであるため、その人が話すことすべてを見なくてはいけない。また、繰り返される部分を特徴であるとするのならば、その人の仕草などの行動も特徴とされるのではないかと考えた。この行動を見るためには動画などの記録が必要となることと、作業量が多くなってしまうことと、実際に行動が繰り返されているかがわからないため、骨折り損になってしまう可能性があることなど多くのデメリットがある。行動に着目するのはあまり効果的でないと考えた。しかし、AIが繰り返している行動を抽出することができるようになれば、取り組んでみてもいいのではないだろうか。
主尋問と反対尋問の平均発話量に大きな差がないことから、大野の立場やスタンスは一貫して受動的であると言える。一方、尋問者は情報提示を多く行っており、特定の回答を誘導する意図が垣間見える。CQが多いことから、尋問者が特定の情報を引き出すために会話をコントロールする意図を感じる。しかし、大野の曖昧な応答や記憶のなさが際立つため、CQの特性やメリットがうまく働かなかった事例だと思った。曖昧な応答や記憶のなさは責任を逃れるためや尋問者が意図する方向への誘導を防いでいると考える。大野が受動的な立場を取っていたのは一貫した供述で尋問者からの信用を得るためではないか。反対尋問も揺るがず、心情を交え、説得的な発言ができることは信用に値すると思う。信用を手にしたら、自らの発言を信じてもらえるため、尋問者を逆に誘導することができる。そのため、基本的に信用できると決めつけることは良くないと思った。
コミュニケーション分析では、記憶違いや曖昧な表現を供述者がしているという点に主に注目し、その人の特徴を判断するというものである。この分析方法は、供述者が犯人である場合と証人のどちらの場合でも使えると感じるが、実際の裁判では犯人が供述者の場合には使いづらかったり、分析が裁判官に通りにくいのではないかと思った。供述者が犯人でも証人でも、実際の会話のラリーにおいて不自然な点を発見し、特徴を発見することができる。しかし、供述者が犯人の阿合、記憶違いや曖昧な表現をするときには「犯人は本当のことを言われて焦っている、罪を認めたくないから曖昧にしている」という一般論や能力論のようなものが無意識に働いてしまうため、犯人にはコミュニケーション分析は使いづらいのではないかと思った。
取調べにおいて、基本的にOQである方が良いという学びをしてきて、それは絶対的で覆ることの無いものだ、というイメージがあった。しかし、今回の大野供述では、OQを続けていると重要な大野からの情報が得られずに終わってしまうという可能性が考えられ、CQをポイントで使用しないと取調べが進まない例があるのだと学んだ。 しかし、コミュニケーション分析により明かされた大野よりも尋問者の平均発話量が多いという事実は避けるべき課題である。CQはあくまで取り調べをスムーズに行うために最終手段として活用するものであり、基本的にはOQで取調べをしなければならない、という認識を研修会などの機会で培っていく必要があると考えた。
大野の供述の信用できる点として「一貫性」を挙げていたが、指示を受けていたという大筋だけが一貫しているのであって、他の細かい部分は違いがある。この違いが尋問者の誘導によってできたものか、記憶の変容によってできたものかは、白黒つけることは難しいのではないかと思う。だからこそ、供述の中身を分析するのではなく、コミュニケーション分析が必要だと考えた。コミュニケーション分析をすることで、供述の中身ではなく形や質について検討できる。 OQをして供述者が答えられないことより、CQをして供述者に情報を与えることの方が危険だと感じた。CQをして供述者が得た情報で調書が作られたら、一見ちゃんとした自白に見えてしまう。情報を与えることで作られた自白が、真の自白と捉えられてしまう。それならば、OQをしてなるべく情報を与えないようにし、尋問者発の情報を使用した自白をさせない方が良いのではないか。
外部基準による分析は、内容には触れず、その発話・会話形式だけに着目をする。 これによって供述者の話すことに信ぴょう性があるかないかを調べている。 今回は文字数に着目をして、質問に答える供述者よりも質問をする検察官のほうが文字数、つまり会話量が多いから供述は本人の語りではないという結果だった。 この件で特徴的だったのは、供述者が検察から答えを引き出しているということである。 しかし、事件からかなりの日数が経過していれば、多くの供述者がこの結果になってしまう可能性は高いのではないか? 検察は被告人を犯人にすることが仕事であるから、供述者に言いよどみや曖昧な表現があれば大なり小なり情報を提供するだろう。実際、どの事件であっても尋問者が供述者に情報を渡していた場面はあった。 ある程度話ができる成人であれば、話に一貫性を持たせられる。かつ、記憶があいまいになっている質問には「覚えていない・どうだったかな」などと答える可能性は高いだろう。その状態で、権威のある検察から「~だったのではないか?」と聞かれたとき、記憶が言われたと通りに補正されたり、そうだったかもしれないと思いこむ。そうなれば今回の供述者と似たような反応が出てしまうのではないかと感じた。 今回は本人が尋問をコントロールをする意図があった。しかし、意図しない間にコントロールが起きていた場合に、そのコミュニケーションを修正していく必要があると考えた。
コミュニケーション分析において、今回の事件では発話量を調べるために文字数を数えていた。しかし、講義でも先生がお話しされていたように、漢字がある時にひらがなでおこしたものと、漢字自体を数えたものは同じ意味だが文字数は違う。そのようになると、やはり単語数や文節、話している時間を測ることが有効だと思った。特に、現在で考えた時に、発話時間を測ることが良いのではないかと考えた。なぜならば、取り調べの可視化により、録音、録画をすることが増え取り調べを何回も見返すことができるからだ。文字を見て発話量を調べると、文節で切るのか、単語で切るのか、全てひらがなにして数えるのかなど、限る部分をどこにするのかなどで、かなり文字数が違ってきてしまう。その点、発話時間で考えると限る部分などがないため、迷いがなく発話量を、みることができるのではないかと思った。録音、録画、があることで何回も測ることができる点も大きい。発話時間を測ることができることからしても、取り調べの可視化はとても大事だと思った。 また、今回の事件では、発問と応答について注目されていた。大野さんの曖昧な応答から、検察官が情報を提供してしまい次の応答をコントロールしていた。検察官側からみると、早く捕まえたいという思いがあり、その影響で曖昧な応答に耐えられなくなったのだろうが、情報を与えてしまっている点でかなり誘導していることになる。今回は、暴力団が絡んでいることもあり、組員は1番上の会長を庇いたくなるのは暴力団では当然ではないかと考えて、情報を提供するような質問をするべきではなかった。誘導することは確実な情報を得るためにしてはいけないことだが、今回は、誘導が大野の庇いたいという思いが重なり事実確定ができなかったのではないかと思った。
発話量で証言の信憑性が得られるのはもちろん、えーと、んー、あーという間投詞は信憑性を探る上で重要だと思った。また、話すまでの間は記憶を辿る際とどう弁明するか、記憶を塗り替えて話すかを考えている時間の判断の区別が難しいと思った。質問を聞き返したり、これはこういった意味ですか?と聞き返すのは自分自身で正しい判断、記憶を伝えようとしているのだと思う。しかし、言葉があたふたしたり区切りがなく、時系列がおかしいと、落ち着きがなくキレ気味で言葉を伝えているため焦りが見える。感情の面で大きく印象に残るために証言に対しての信憑性が薄れると思った。証言が長くなるという点においても、何々をしてという細かくその日の流れや行動を伝えるよりも、大まかにその日は何々してたという方が時間の感覚がないために、証言に対してつかれた時に弁明の時間が長くなる。事件を起こしたことに対しての記憶が大きいためにその日の出来事や流れを把握できていないからではと考えた。
今回の授業では検察が供述者をサポートしてしまっているということが印象的だった。検察の質問に対して曖昧な回答をすることで、検察側が勝手に解釈してくれる。そのため、供述者は自分の体験を供述できていないことが分かる。AQの特性を見ることで供述者らしさを知ることが出来るというのは今までとは違った供述分析の仕方で面白いと感じた。 供述者の発話量が圧倒的に少ない場合、検察官はクローズクエスチョンをせざるを得ない。そしたら今度は検察が供述者を誘導していることになると思った。そこで、いくつか選択肢を提示してその中から選んでもらうことによってクローズクエスチョンよりは誘導的な質問にならないと考えた。
この事件における供述分析は、刑事司法における供述の信頼性や、尋問のコミュニケーション構造がどのように事実認定に影響を与えるかを考察する上で、非常に興味深い事例である。 大野耕一の供述は「一貫性がある」と評価されているが、その「一貫性」が供述内容自体の信頼性を保証するものではない。この点で、「記憶のなさ」から「調書の確認」への移行が指摘されていることは重要である。供述の一貫性が調書の一貫性に依存している場合、それは取調官の誘導や偏りを含む可能性がある。このような場合、供述の一貫性を評価基準とするだけでは、事実の適切な認定が難しいと言える。 「記憶のなさ」や「曖昧な応答」は、供述者が尋問のコントロールを握るための戦略として機能することがある。特に、大野の供述が「Q-A」ではなく「A-Q」という連鎖を形成している点は注目に値する。これは、供述者が積極的に情報を提示するのではなく、尋問者からの情報を引き出して自らの供述に取り込むことによるコントロールを示唆する。このような供述者の行動は、事実認定において供述の客観性を曖昧にし、尋問者側の意図や解釈が結果に強く影響する危険性をはらんでいる。 「記憶のなさ」や「曖昧な応答」は、事実確定における障害となる。特に、大野供述が矛盾や曖昧さを残したまま事実認定を困難にしている点は、供述分析の重要な課題を浮き彫りにしている。尋問者が事実認定の役割を担うことを余儀なくされた場合、供述者の責任ではなく、尋問者の解釈に基づいて判断が行われる可能性がある。このような構造は、司法の公平性に疑問を投げかけるものである。 元妻の証言が「ためにする証言」と評価され、排除されている点は、証人の属性や背景に基づく偏見が影響している可能性がある。一方で、暴力団関係者である大野供述の一貫性が信頼性の根拠とされているのは矛盾を感じる。証言や供述の信用性を評価する際には、供述者の属性や背景だけでなく、供述内容の整合性や外部的な検証可能性に重点を置くべきである。 供述分析における「発問-応答」の基本単位を再検討し、「コミュニケーション」そのものを単位として捉える視点は非常に有効だと考える。本事件の供述分析が、尋問構造や供述者と尋問者の相互作用に焦点を当てた点は、新たな証言評価の可能性を示唆している。 この事件を通じて得られた供述分析の知見は、供述の信頼性評価や尋問構造の影響を検討する上で、刑事司法における重要な教訓を提供している。「記憶のなさ」や「曖昧な応答」といった供述者の戦略、そして尋問者との相互作用が事実認定に及ぼす影響を正確に分析することは、公平で適正な司法を実現するために不可欠である。本事件のような事例は、供述の評価方法や司法手続きの改善に向けたさらなる研究の必要性を示している。
大野のそうかも知れんねのような曖昧な反応がCQにおいて尋問者の文字数を増やしてしまうと考えた。また、文字数が増えることは誘導的であり被疑者の供述を尋問者の都合で制限してしまうと考えた。単独犯への尋問と暴力団など独自のルールや団結力がある人達への尋問は背景が異なるため同じ尋問方法では信用性のある十分な情報採取ができない可能性がある。上の権力が強いという暴力団への尋問を行う前に、暴力団の相関図や一人一人への尋問をOQで幅広く集め、考慮した上でCQをする必要があると考えられる。しかし、先述の通り尋問者の文字数が増えてしまう可能性もあるため、一問一答のような形で話を広げずに端的に情報を採取する必要があると考えた。OQ、CQ共に尋問者の発話回数、文字数が被疑者の数を越えないように情報採取する必要があるといえる。そうすることによって、非誘導的な被疑者主体の質の良い情報採取ができるだろう。
第12回課題 甲山事件を通して、供述の信用性を判断する際には、単に証言者の能力や供述内容だけを見るのではなく、その供述がどのように生まれ、どのように影響を受けたかを分析する必要があることが分かった。特に、知的障害者や子どもの証言は脆弱とされやすいが、供述生成の過程を丁寧に分析することで、誘導や尋問者の影響を見極めることができる。 また、「正岡君らしさ」という個別性に注目した点も重要で、外在的な理論をそのまま適用するのではなく、証言者ごとの特徴を捉えたことで、真実に近づく新しい視点が示された。
今後、同じように証言の信用性が争われる事件でも、甲山事件の教訓を活かし、供述生成のプロセスやコミュニケーションの分析が適切に行われるべきだと考える。
証言をできるだけ早期に収集することが重要だ。記憶は時間と共に曖昧になりやすく、事件直後に証言を得ることで、鮮明な記憶に基づいた情報を収集できる。証言を得る際には、誘導的な質問を避けるべきで、質問が証言者に特定の答えを促すことがないよう、オープンエンドな質問を使用することで、証言者の記憶に忠実な情報を引き出す必要がある。また、証言者が他の目撃者やメディアから影響を受けないよう、証言を得る際に視覚的な手がかりを提供しないことも大切で録画など記録として振り返れる媒体が対策になると考える。
目撃証言は裁判において重要な役割を果たしますが、記憶は再構築されやすく、誤りを含む可能性があります。心理学的知見に基づいて、証言の信頼性を高めるためにはどのような対策が必要だと思いますか?
まず、取り調べの環境を整えることが重要になると考える。静かで明るい部屋を選び、必要以上に警察や取り調べの「威圧的な」雰囲気を感じさせないようにする。子どもが落ち着けるよう、壁には柔らかい色調の絵やポスターを飾る、または小さなぬいぐるみやクッションなど親しみやすいアイテムを置くと良い。質問の仕方では、誘導的な質問を避け、オープンエンド質問を優先する。たとえば、「あの時、本当は何があったの?」ではなく、「あの時、どんなことが起きたと思う?」と聞き、子どもの記憶を誘導せず自然に話を引き出す。また、途中で「そうなんだ」「それは大変だったね」と共感的な相づちを打つことで、話しやすい雰囲気を作る。最後に、子どもにプレッシャーを与えないことが肝心だ。「失敗しても大丈夫」「全部覚えていなくてもいいから、思い出せることだけ教えてね」といった励ましの言葉を随所に挟むことで、子どもが「正しいことを言わなければならない」といった重圧感から解放されることでスムーズに引き出すことができると考えた。
緊張や不安を覚える対象を目撃者に限定して話をします。
緊張や不安のようなストレス反応は、逆に記憶の忘却率を低下させる可能性があります。
越智(2001)は「情動的ストレスを喚起させる刺激は、強固な記憶痕跡を形成するために、忘却率が低くなる」と仮説立てています。
目撃者は、事件当初は緊張や不安がある(少なくともリラックスはしていない)と思います。なので、曖昧になるよりも、むしろよく覚えているのではないでしょうか?
また、尋問という場面は緊張を伴うと思いますので、感情状態依存効果が働き、むしろ事件当時のことを思い出しやすいかもしれません。
引用
越智 啓太・相良 陽一郎(2001)「情動的ストレスが目撃者の記憶に及ぼす影響」犯罪心理学研究第39巻第2号.17-28.25ページ.
大野のケースで該当する能力論は「ヤクザだから」ですが、それがどこでどういう問題を引き起こしていたかはわかってくれたでしょうか。大野が組み込まれたコミュニケーションの特質を理解してくれたようでよかったと思います。
この授業を履修している以上、正式な名称を使ったほうがいいです。「容疑者」ではなく「被疑者」です。「スティグマ」の用法、元々ゴフマンの用法とは違いませんか。「偏見」と言えば済むのではないかと思います。
3点差し上げます。
大野は検察側の証人ですから、証人として出した時点で、犯人(山口会長)の有罪性を示せない人物とはならないようにしますね、尋問の仕方によって。
最後の方、言わんとすることがよく分かりませんでした。「大野にコントロールされている状況から抜け出す」ことはできていないし、「検察がFAを恐れている」とはとこからそう言えるのですか。
4点差し上げます。
文字数と比較した場合の単語数の優位性は説明されていますが、別の指標と比較しても適切なのかについては触れられていませんね。あなたが指摘するデメリットは結構深刻で、同じことを二度言われたらどうするかという問題もあります。
CQを使用する正当化には失敗していると思いました。論理展開もよくわからないです。
4点差し上げます。
大野が体験を持っているという前提に立った考察になっていませんか。「神様」視点には立てないからどうするかが、ここ数回の授業でみなさんと一緒に考えたはずのことです。
「忠誠心」や「自己保身」によって説明するのは能力論であることはわかりますか。一つの解釈としてならわかりませんが、そういう解釈をすることと大野供述の信用性を判定することはまた別の課題です。
4点差し上げます。
CQの危うい機能については、授業の早い時期から指摘しました。大野の事件はそれを再確認させてくれたと思います。手元に置いてあるかはわかりませんが、一応警察向けの注意事項的なものはできましたね。取調べの高度化への志向によって。本当にそうしないといけないと考えているかがわからないのが悲しいのですが。
能力論については正岡くんと同様、大野についても言及されましたが、正岡くんほど気をつけないといけないものだとは、私には感じられませんでした。ヤクザというものをよく知らないからかもしれません。
授業で聞いたことを整理してまとめてくれたのだと思います。ありがとうございます。
4点差し上げます。
どうして発話量に差がないと一貫して受動的と言えるのですか。尋問者と大野の発話量の比較に基づくのならまだわかります。大野のコントロールの意図がどうしてCQの多さからわかるのですか。それは彼が組み込まれていたコミュニケーションパターンからわかることだと、授業では言ったと思います。「曖昧な応答や記憶のなさは責任を逃れるためや尋問者が意図する方向への誘導を防いでいると考える」、その根拠もよくわからないです。「尋問者からの信用を得るため」かどうかはわかりませんが、大野の受動的な立場によって、わずかながらですが彼の供述に一貫した部分があると評価されたことはあり得るでしょう。この程度で「一貫した供述だ」と評価する裁判所の思考は理解しかねますが。
4点差し上げます。
コミュニケーション分析が追求しているのは、発見されたコミュニケーションパターンがどういう機能を果たしているかを明らかにすることです。その上で供述者の特性に言及します。正岡くんなら「不定さ」ですが、これは難しいのでわからなくてもいいです。パターンがどう機能しているかを明らかにしているのだというところまで理解してくだされば。このことを裁判所が理解できるには、会話分析に関する知識が必要です。勉強してほしいものですね。
最初から「犯人」と想定することはできません。どうしても「神様」の視点(「正解」がわかっている。この場合「誰それが犯人だ」と想定すること)に立ってしまいますね。内部基準を示そうとする鑑定は、「神様」の位置に立つことを回避しないといけません。
5点差し上げます。
今回提起された問題は、CQを使用しないと取調べが進まないということではなく、CQを使用すると供述者のコントロールに乗る可能性があるということではないかと思います。また、CQ自体の問題というより、CQが大野が組み込まれていたコミュニケーションで、大野の体験を明らかにする方向での機能を持っていないということです。
3点差し上げます。
細かい部分が変動していても、大筋が一貫していれば「一貫性あり」と評価されるようです。細かい部分の変動に着目することが意味あることであると主張しないといけない。
「コミュニケーション分析をすることで、供述の中身ではなく形や質について検討できる」のは確かですが、どうして形や質を検討することが重要なのですか。
CQの問題については、調書の作成過程、司法面接などで指摘してきました。ここでもまた復習できましたね。
4点差し上げます。
「外部基準による分析は、内容には触れず、その発話・会話形式だけに着目をする」とは言っていません。また内部基準か外部基準であるかと、内容を見るか形式を見るかも直接関係しません。文字数から信憑性を探ったというのも間違いです。資料をよく読んでみてください。
記憶がなくなっていれば、当然記憶に基づいた発言はできず、記憶に忠実であろうとするならば供述者は沈黙したり、曖昧なことを言わざるを得ないですね。それはあなたがおっしゃる通りです。通常の成人男性であれば、検察官の権威になびくことはむしろ少ないのではと思います。むしろ犯人を処罰したいという正義感の部分で検察と共鳴してしまい、共に被告人が犯人であるストーリーを作り上げる演者になってしまうのではと思います。
自分が主張したいことに同意してくれる限り、検察官も弁護人もコミュニケーションの修正はしないでしょうね。それは裁判官がやるべきではないかと思います。建前では裁判官は中立ですから。
6点差し上げます。
測定の妥当性を考える教材になりました。しかし発話時間は、有声休止(えっと、あのー)や無声休止(沈黙)によっても変化しませんか。私が文節を推した理由は話さなかったと思いますが、思考の単位が反映されるのではないかと考えるからです。あなたが発話時間を推す理由はなんですか。可視化によって測定ができるというのは、発話時間の妥当性の話ではありませんよ。
すでに大野は法廷に出ているのだから、「早く捕まえたいという思い」はないのでは? 会長を庇うことと情報提供を関連づけていますが、これもどうしてなのかよくわからないです。大野が会長を庇いたいと考えているかどうかはわからないですよ。
4点差し上げます。
「発話量で証言の信憑性が得られる」と授業では言っていませんし、一般にも言えないと思います。誤解ではないでしょうか。「間投詞は信憑性を探る上で重要」というのも、どういう根拠に基づくのでしょう。他の「思う」ことについても根拠が語られないので、そういうこともあるかもしれないがないかもしれないという意見でしかなくなります。あるいは多義的な解釈ができるので、あなたが思うような指標としては使えないのではないかと思います。
3点差し上げます。
主尋問はある意味協同作業ですから、サポートしてしまうのは当然と言えば当然なんですよね。ただ、そういうコミュニケーションが供述者の体験を反映しているものと言えるか、逆に反映していなくても言えてしまうものかを考えてもらう資料に、鑑定がなれば成功でしょう。
QがAをコントールするというのが、発問と応答からなるコミュニケーションの暗黙の前提ですが、それに合致しないことが大野の尋問では起きていたのですね。大野尋問における検察のCQが大野への誘導というより、大野のAが検察がCQをするように誘導として機能しているのですよ。ここが大野供述で興味深いところです。発問者の方が誘導するという、これまで授業で扱ってきた事態とは異なる事態であるところに注意してください。
4点差し上げます。
「供述の一貫性が調書の一貫性に依存している」とはまさに大野供述の本質をとらえたものだと思います。このようなことを指摘したら、裁判所はどう評価するでしょうね。
A-Q連鎖で思いついたのですが、IRE連鎖も似ていませんか。生徒が間違った回答をすると教師は同一質問を反復することがありますが、これは生徒が教師をコントロールしていると言えるでしょうか。授業では大野が検察官をコントロールしているという言い方をしましたが、意図というものはわからないので、本来であれば大野を検察官がサポートするようなコミュニケーションが発生していると言うべきかも知れません。IRE連鎖に関与する生徒と教師がそうであるように。また足利の須賀さんも同様と言えるかも知れません。彼が自白らしいものができたのは、取調官が言い淀む須賀さんをフォローしたからです。いずれの場合にも尋問者の解釈が捜査資料に残るだけで、裁判が中立的にならないのは確かです。
元妻供述の評価に彼女の属性が利用されているのはまあ偏見ではありますが、「能力論」ですね、この授業の観点では。しかし彼女の供述を仔細に検討できるほど、質的にも量的にも十分ではなかったので、そういう偏見を抱かなかったとしても信用性の評価は困難という結論になったと思います。
大野が組み込まれる特徴的な尋問コミュニケーション自体が有効なのではなく(他の人なら違うパターンを描くかも知れないので)、さまざまな前提を取り払ってなされるコミュニケーションの分析が有効なのではないとか思います。それ以前に、コミュニケーションパターンから判断するという評価基準がありだと思われないといけないですが、法曹関係者に。
14点差し上げます。
曖昧な応答のままだと証言したことになるか怪しいので、CQによって補完したくなりますね、主尋問の場合は特に。
文字数が増えることが誘導の結果という言い方は正しくないと思います。たとえば、正しく記憶を思い出した場合でも増えるでしょうし、嘘を入念につこうとしても増えるでしょう。誘導しても増えない場合もあり得ますね。CQに対して「はい」と言わせるだけなら。
尋問方法を変えるのですか、尋問の戦略を変えるのですか。後者のような気がします。文字数が増えることがどうしていけないと考えているのかよくわからないのです。冒頭で「誘導的」と言っているからですか。先述の通り、この論理はおかしいと思います。
複数のトピックについて書き散らしている感じがします。一つ一つ改行するなりして区別し、それぞれについて論理的に書いた方がよいと思いました。
6点差し上げます。
供述の形成過程に着目する点では浜田流と同じです。外在的理論を適用することの問題は理解してもらえたでしょうか。
第12回にかかわる採点対象となる投稿は締め切っています(授業週の金曜13時が期限)ので、今回はコメントのみにとどめますね。
「自分で問題提起して自分で回答する」もアリにしましょう。
子どもへの取り調べで、子どもが緊張しないような話し方や態度などの心理学的知見は何だと思いますか。
緊張や不安によって記憶が曖昧になったり変わってしまったりすることはあるのか?
採点対象となる投稿を締め切りました。今回もありがとうございます。引き続いて「リア充大爆発!」の問題提起を受けつけます。
「問題提起」の投稿期間は、12月20日(金)13時から12月25日(水)23時59分(26日に日付が変わる前まで)ですが、締切間際に投稿しても皆さんから意見がもらえないかもしれないので、お早めの投稿をお願いします。
「議論」の投稿する期間は、12月24日(火)0時(23日から日付が変わった時)からですので、しばらくお待ちください。
今回のような容疑者が暴力団という場合、無意識に能力論を唱えやすくなる。今までの講義の事件からも感じていたが、社会的スティグマが裁判の中にも数多く存在していることを知った。仮に様々なスティグマがなくなり、社会の捉え方が変化することは、裁判の判決にも大きく影響することだと感じた。
また最初は尋問者が大野を誘導し、有利な方向性にもっていっているかと考えていた。しかしQAの単位のどこを切るかによって、問答の全体像の見方が大きく変化することを学んだ。
検察が犯人を無罪にしてしまうことを恐れているからこそ、できたパターンだと思った。
検察が犯人を無罪にすることを恐れているがゆえに、大野があいまいな回答をしても、検察がフォローを行ってしまい、周りには事件について語っているように見えてしまっていた。また、周りも山口被告が犯人だろうという思い込みがあり、信用できると判断してしまったのではないかと考えた。
コミュニケーションを見ることで、事件について語っているのが大野ではなく、検察であることに気が付けた。このことで、大野が証人として機能していないことを指摘できた。弁護士が大野の回答が信用できないものだと気が付けても、大野は責任を回避した回答をしていた。そのため、大野が事件について証言できていないということを証明することは難しかったと思う。分析により、大野よりも尋問者の方が発言していることや、CQが多いことを、証明できた。このことは、大野にコントロールされている状況から抜け出すことができる良いきっかけにもなった。このことから、被告人が犯人であるまたは、犯人ではないという思い込みや、検察がFAを恐れていることを忘れてはいけないと思った。
今回の講義の量的分析において、私は単語数はいいアイデアだと感じた。文字数は私をわたしと書いてしまえば1文字から3文字になると先生が仰っていたことから、検察側の供述の受け取り方に一貫性が無くなってしまうと感じた。聞いている全員が同じ受け取り方をできるのは、単語数だと考えたからだ。しかし、単語数にもデメリットがあると考える。それは、回りくどい言い方をされた時である。例えば、これは間違っていますという内容をあえて、合っている訳では無いという風な言い方をされたらこれも単語数が増えてしまうのでは無いかと考えた。これを防ぐために、回りくどい言い方をされた時にはCQを使い、これはこう言いたいのか?といった確認を行うことで供述に改めて理解することができると考えた。
今までCQは誘導になるのでOQを活用すべきと学んできた。しかし曖昧な供述や記憶のなさは、尋問においてCQを増やす要因になっていると感じた。記憶のなさは本当に覚えていなければどうしようもないが、曖昧な供述に関しては尋問を繰り返すことで矛盾を見つけ、真実を細かく理解しようとする姿勢が大切だと感じた。
大野の供述では「記憶がない」「そうかもしれない」といった曖昧な応答が頻出した。この曖昧さは、記憶の性質に起因している可能性がある。記憶は時間の経過や新たな情報の影響を受けやすく、供述の一貫性が必ずしも事実を反映しているとは限らない。また、尋問者から提示された情報を取り込む「ミスインフォメーション効果」によって、供述内容が変容した可能性もある。このような記憶の不確実性を考慮すると、大野の供述の信頼性を完全に担保するのは困難である。詳細な情報を提供することは高い認知負荷を伴うため、曖昧な応答によって負荷を軽減しようとした可能性がある。一方で、尋問者の情報に頼る形で供述が形成されている点は、供述の一貫性が尋問者の質問内容に依存していることを示唆している。供述者が暴力団の関係者であることを踏まえると、社会的なプレッシャーや自己保身が供述内容に影響を与えた可能性が高い。特に「命に代えても守るべき親分」の存在が供述にどのような影響を与えたかは重要な点である。組織の一員としての忠誠心と、個人としての自己保身という相反する動機の間で、供述内容が揺れ動いた可能性がある。事件を通して、供述形成のプロセスをコミュニケーション全体として捉える分析の重要性が示された。従来の「発問-応答」という枠組みを超えて供述の特性を分析することで、証言の信頼性評価や事実認定の新たな視点が得られることが分かった。
本講義を聞き、尋問におけるOQの後にするCQは尋問を受けている人に事後情報を提供してしまうため、注意しなくてはいけないと考えた。また、F22015さんと同じように、OQのみでは情報を得ることができずに終わってしまう取調べが存在すると知った。この危険性や取調べの方法を取調官に知ってもらうために、取調べのルールのようなものを冊子として調書作成を担当している人が見れるようにすると、取調官にその場で伝えることができると考えた。
大野供述の評価で、大野はやくざであるから親分のことは裏切らないだろう、不利益になる自白は正しいといえるだろうなどの先入観、経験則、能力論を無意識に信じていることが正しい事実を知るときに邪魔になってしまうと感じた。甲山事件でも知的能力的に作話ができないという能力論があったため、正岡君の証言が正しいかどうかが判断しにくくなっていたと感じる。経験則や能力論といった確率論には例外があり、その個人に対して語ることができないと改めて理解した。そのため、個人を語るためには、その個人が持っている特徴、内部基準に着目するべきだと考えた。また、それぞれの人物と時間経過ごとによる証言を変化を追った際に、不自然な発言や思い出し方を無視することが多くあるのではないかと思った。この違和感や不自然さを無視しないために、実体験を思い出したことを話すときのその人の特徴を提示することが心理的観点からできることであると考えた。この時に見られる特徴は繰り返されるところであるため、その人が話すことすべてを見なくてはいけない。また、繰り返される部分を特徴であるとするのならば、その人の仕草などの行動も特徴とされるのではないかと考えた。この行動を見るためには動画などの記録が必要となることと、作業量が多くなってしまうことと、実際に行動が繰り返されているかがわからないため、骨折り損になってしまう可能性があることなど多くのデメリットがある。行動に着目するのはあまり効果的でないと考えた。しかし、AIが繰り返している行動を抽出することができるようになれば、取り組んでみてもいいのではないだろうか。
主尋問と反対尋問の平均発話量に大きな差がないことから、大野の立場やスタンスは一貫して受動的であると言える。一方、尋問者は情報提示を多く行っており、特定の回答を誘導する意図が垣間見える。CQが多いことから、尋問者が特定の情報を引き出すために会話をコントロールする意図を感じる。しかし、大野の曖昧な応答や記憶のなさが際立つため、CQの特性やメリットがうまく働かなかった事例だと思った。曖昧な応答や記憶のなさは責任を逃れるためや尋問者が意図する方向への誘導を防いでいると考える。大野が受動的な立場を取っていたのは一貫した供述で尋問者からの信用を得るためではないか。反対尋問も揺るがず、心情を交え、説得的な発言ができることは信用に値すると思う。信用を手にしたら、自らの発言を信じてもらえるため、尋問者を逆に誘導することができる。そのため、基本的に信用できると決めつけることは良くないと思った。
コミュニケーション分析では、記憶違いや曖昧な表現を供述者がしているという点に主に注目し、その人の特徴を判断するというものである。この分析方法は、供述者が犯人である場合と証人のどちらの場合でも使えると感じるが、実際の裁判では犯人が供述者の場合には使いづらかったり、分析が裁判官に通りにくいのではないかと思った。供述者が犯人でも証人でも、実際の会話のラリーにおいて不自然な点を発見し、特徴を発見することができる。しかし、供述者が犯人の阿合、記憶違いや曖昧な表現をするときには「犯人は本当のことを言われて焦っている、罪を認めたくないから曖昧にしている」という一般論や能力論のようなものが無意識に働いてしまうため、犯人にはコミュニケーション分析は使いづらいのではないかと思った。
取調べにおいて、基本的にOQである方が良いという学びをしてきて、それは絶対的で覆ることの無いものだ、というイメージがあった。しかし、今回の大野供述では、OQを続けていると重要な大野からの情報が得られずに終わってしまうという可能性が考えられ、CQをポイントで使用しないと取調べが進まない例があるのだと学んだ。
しかし、コミュニケーション分析により明かされた大野よりも尋問者の平均発話量が多いという事実は避けるべき課題である。CQはあくまで取り調べをスムーズに行うために最終手段として活用するものであり、基本的にはOQで取調べをしなければならない、という認識を研修会などの機会で培っていく必要があると考えた。
大野の供述の信用できる点として「一貫性」を挙げていたが、指示を受けていたという大筋だけが一貫しているのであって、他の細かい部分は違いがある。この違いが尋問者の誘導によってできたものか、記憶の変容によってできたものかは、白黒つけることは難しいのではないかと思う。だからこそ、供述の中身を分析するのではなく、コミュニケーション分析が必要だと考えた。コミュニケーション分析をすることで、供述の中身ではなく形や質について検討できる。
OQをして供述者が答えられないことより、CQをして供述者に情報を与えることの方が危険だと感じた。CQをして供述者が得た情報で調書が作られたら、一見ちゃんとした自白に見えてしまう。情報を与えることで作られた自白が、真の自白と捉えられてしまう。それならば、OQをしてなるべく情報を与えないようにし、尋問者発の情報を使用した自白をさせない方が良いのではないか。
外部基準による分析は、内容には触れず、その発話・会話形式だけに着目をする。
これによって供述者の話すことに信ぴょう性があるかないかを調べている。
今回は文字数に着目をして、質問に答える供述者よりも質問をする検察官のほうが文字数、つまり会話量が多いから供述は本人の語りではないという結果だった。
この件で特徴的だったのは、供述者が検察から答えを引き出しているということである。
しかし、事件からかなりの日数が経過していれば、多くの供述者がこの結果になってしまう可能性は高いのではないか?
検察は被告人を犯人にすることが仕事であるから、供述者に言いよどみや曖昧な表現があれば大なり小なり情報を提供するだろう。実際、どの事件であっても尋問者が供述者に情報を渡していた場面はあった。
ある程度話ができる成人であれば、話に一貫性を持たせられる。かつ、記憶があいまいになっている質問には「覚えていない・どうだったかな」などと答える可能性は高いだろう。その状態で、権威のある検察から「~だったのではないか?」と聞かれたとき、記憶が言われたと通りに補正されたり、そうだったかもしれないと思いこむ。そうなれば今回の供述者と似たような反応が出てしまうのではないかと感じた。
今回は本人が尋問をコントロールをする意図があった。しかし、意図しない間にコントロールが起きていた場合に、そのコミュニケーションを修正していく必要があると考えた。
コミュニケーション分析において、今回の事件では発話量を調べるために文字数を数えていた。しかし、講義でも先生がお話しされていたように、漢字がある時にひらがなでおこしたものと、漢字自体を数えたものは同じ意味だが文字数は違う。そのようになると、やはり単語数や文節、話している時間を測ることが有効だと思った。特に、現在で考えた時に、発話時間を測ることが良いのではないかと考えた。なぜならば、取り調べの可視化により、録音、録画をすることが増え取り調べを何回も見返すことができるからだ。文字を見て発話量を調べると、文節で切るのか、単語で切るのか、全てひらがなにして数えるのかなど、限る部分をどこにするのかなどで、かなり文字数が違ってきてしまう。その点、発話時間で考えると限る部分などがないため、迷いがなく発話量を、みることができるのではないかと思った。録音、録画、があることで何回も測ることができる点も大きい。発話時間を測ることができることからしても、取り調べの可視化はとても大事だと思った。
また、今回の事件では、発問と応答について注目されていた。大野さんの曖昧な応答から、検察官が情報を提供してしまい次の応答をコントロールしていた。検察官側からみると、早く捕まえたいという思いがあり、その影響で曖昧な応答に耐えられなくなったのだろうが、情報を与えてしまっている点でかなり誘導していることになる。今回は、暴力団が絡んでいることもあり、組員は1番上の会長を庇いたくなるのは暴力団では当然ではないかと考えて、情報を提供するような質問をするべきではなかった。誘導することは確実な情報を得るためにしてはいけないことだが、今回は、誘導が大野の庇いたいという思いが重なり事実確定ができなかったのではないかと思った。
発話量で証言の信憑性が得られるのはもちろん、えーと、んー、あーという間投詞は信憑性を探る上で重要だと思った。また、話すまでの間は記憶を辿る際とどう弁明するか、記憶を塗り替えて話すかを考えている時間の判断の区別が難しいと思った。質問を聞き返したり、これはこういった意味ですか?と聞き返すのは自分自身で正しい判断、記憶を伝えようとしているのだと思う。しかし、言葉があたふたしたり区切りがなく、時系列がおかしいと、落ち着きがなくキレ気味で言葉を伝えているため焦りが見える。感情の面で大きく印象に残るために証言に対しての信憑性が薄れると思った。証言が長くなるという点においても、何々をしてという細かくその日の流れや行動を伝えるよりも、大まかにその日は何々してたという方が時間の感覚がないために、証言に対してつかれた時に弁明の時間が長くなる。事件を起こしたことに対しての記憶が大きいためにその日の出来事や流れを把握できていないからではと考えた。
今回の授業では検察が供述者をサポートしてしまっているということが印象的だった。検察の質問に対して曖昧な回答をすることで、検察側が勝手に解釈してくれる。そのため、供述者は自分の体験を供述できていないことが分かる。AQの特性を見ることで供述者らしさを知ることが出来るというのは今までとは違った供述分析の仕方で面白いと感じた。
供述者の発話量が圧倒的に少ない場合、検察官はクローズクエスチョンをせざるを得ない。そしたら今度は検察が供述者を誘導していることになると思った。そこで、いくつか選択肢を提示してその中から選んでもらうことによってクローズクエスチョンよりは誘導的な質問にならないと考えた。
この事件における供述分析は、刑事司法における供述の信頼性や、尋問のコミュニケーション構造がどのように事実認定に影響を与えるかを考察する上で、非常に興味深い事例である。
大野耕一の供述は「一貫性がある」と評価されているが、その「一貫性」が供述内容自体の信頼性を保証するものではない。この点で、「記憶のなさ」から「調書の確認」への移行が指摘されていることは重要である。供述の一貫性が調書の一貫性に依存している場合、それは取調官の誘導や偏りを含む可能性がある。このような場合、供述の一貫性を評価基準とするだけでは、事実の適切な認定が難しいと言える。
「記憶のなさ」や「曖昧な応答」は、供述者が尋問のコントロールを握るための戦略として機能することがある。特に、大野の供述が「Q-A」ではなく「A-Q」という連鎖を形成している点は注目に値する。これは、供述者が積極的に情報を提示するのではなく、尋問者からの情報を引き出して自らの供述に取り込むことによるコントロールを示唆する。このような供述者の行動は、事実認定において供述の客観性を曖昧にし、尋問者側の意図や解釈が結果に強く影響する危険性をはらんでいる。
「記憶のなさ」や「曖昧な応答」は、事実確定における障害となる。特に、大野供述が矛盾や曖昧さを残したまま事実認定を困難にしている点は、供述分析の重要な課題を浮き彫りにしている。尋問者が事実認定の役割を担うことを余儀なくされた場合、供述者の責任ではなく、尋問者の解釈に基づいて判断が行われる可能性がある。このような構造は、司法の公平性に疑問を投げかけるものである。
元妻の証言が「ためにする証言」と評価され、排除されている点は、証人の属性や背景に基づく偏見が影響している可能性がある。一方で、暴力団関係者である大野供述の一貫性が信頼性の根拠とされているのは矛盾を感じる。証言や供述の信用性を評価する際には、供述者の属性や背景だけでなく、供述内容の整合性や外部的な検証可能性に重点を置くべきである。
供述分析における「発問-応答」の基本単位を再検討し、「コミュニケーション」そのものを単位として捉える視点は非常に有効だと考える。本事件の供述分析が、尋問構造や供述者と尋問者の相互作用に焦点を当てた点は、新たな証言評価の可能性を示唆している。
この事件を通じて得られた供述分析の知見は、供述の信頼性評価や尋問構造の影響を検討する上で、刑事司法における重要な教訓を提供している。「記憶のなさ」や「曖昧な応答」といった供述者の戦略、そして尋問者との相互作用が事実認定に及ぼす影響を正確に分析することは、公平で適正な司法を実現するために不可欠である。本事件のような事例は、供述の評価方法や司法手続きの改善に向けたさらなる研究の必要性を示している。
大野のそうかも知れんねのような曖昧な反応がCQにおいて尋問者の文字数を増やしてしまうと考えた。また、文字数が増えることは誘導的であり被疑者の供述を尋問者の都合で制限してしまうと考えた。単独犯への尋問と暴力団など独自のルールや団結力がある人達への尋問は背景が異なるため同じ尋問方法では信用性のある十分な情報採取ができない可能性がある。上の権力が強いという暴力団への尋問を行う前に、暴力団の相関図や一人一人への尋問をOQで幅広く集め、考慮した上でCQをする必要があると考えられる。しかし、先述の通り尋問者の文字数が増えてしまう可能性もあるため、一問一答のような形で話を広げずに端的に情報を採取する必要があると考えた。OQ、CQ共に尋問者の発話回数、文字数が被疑者の数を越えないように情報採取する必要があるといえる。そうすることによって、非誘導的な被疑者主体の質の良い情報採取ができるだろう。
第12回課題
甲山事件を通して、供述の信用性を判断する際には、単に証言者の能力や供述内容だけを見るのではなく、その供述がどのように生まれ、どのように影響を受けたかを分析する必要があることが分かった。特に、知的障害者や子どもの証言は脆弱とされやすいが、供述生成の過程を丁寧に分析することで、誘導や尋問者の影響を見極めることができる。
また、「正岡君らしさ」という個別性に注目した点も重要で、外在的な理論をそのまま適用するのではなく、証言者ごとの特徴を捉えたことで、真実に近づく新しい視点が示された。
今後、同じように証言の信用性が争われる事件でも、甲山事件の教訓を活かし、供述生成のプロセスやコミュニケーションの分析が適切に行われるべきだと考える。