「一般に人はこう行動するはずだ」というのが「あたかも正義」であるという表現は、今回の供述分析の評価としては理解しかねますね。その前提は経験則的で、例外の存在は当然あるわけなので、注意して用いるべき原則であるという主張ならわかりますが、別に「正義」を主張しているわけではないと思います。「人は人を完全に理解することは出来ない」なんて当たり前なので、この一文はなくていいと思います。むしろなくした方が、論理展開としては整然としませんか。「人のことを理解できるか」が問題なのではなく、経験則には例外があるということを言いたいのだと思いますので。そのあとの流れがよくわからない。どういうことが主張したかったのでしょうか。 3点差し上げます。
アリバイのなさから保育士さんを犯人だと決めつけた。そのような前提があったから、目撃証言を聴取、評価する際に確証バイアスが生じて、保育士犯人説に適合する部分ばかり(曖昧な供述なら、適合する情報を含んでいると解釈して)受け取ってしまったということですか。確証バイアスばかりではありませんが、認知の歪みが発問や供述評価に影響することは多々ありますね。 いいことを言っているようですが、文章に反復が多く、整理されていないため損をしていると思いました。もったいないです。 5点差し上げます。
あなたの主張がうまく取れませんでした。いくつか指摘します。「供述が実体験とは異なる場合」とありますが、実体験と供述が照合できることは信頼ある記録がない限り無理ですよ。「意図に一貫性が無い場合」に「虚偽供述の形成過程が見えにくくなってしまう」という論理がわからないです。そもそも最初から「虚偽」だと言えないし。意図が一貫していたら形成過程はよく見えるのですか。「最終的に出来上がった物語のみに視点を当て、それをもとに検討してしまうのは、供述の整合性に欠ける」という文章は意味が取れません。投稿する場合は推敲をお願いします。もったいないと思います。 2点差し上げます。
正確に覚えていないと、逆行的構成をしたり、心理の流れを無視した供述になってしまうのですか。記憶が曖昧になって、曖昧な部分を推論として物語を構成するとなれば、逆行的構成は生じやすくなるでしょうが、むしろ心理の流れは精緻になる気がします。 後の部分は授業で言ったことがそのまま書かれています。理解してくれてよかったです。 4点差し上げます。
「補完的な客観的基準」とは何ですか。供述は物証に支えられていることが一応原則なので、その基準が物証だと言うのなら、すでにそうなっています。「取調べ過程の可視化や記録の透明性」とありますが、可視化されていればそもそも誘導であることは明らかになりますので、誘導に依拠することを指摘する供述分析は不要に思えるのですが。 「法的要件」の話はどこに出ているのですか。 4点差し上げます。
供述分析には解釈が入る余地がありますから、絶対的ではあり得ないですね。「補助的なものとして考える」とありますが、何の補助として考えるのですか。 「その供述の信憑性や嘘をつく人が上手かった場合」とありますが、信憑性は判断されるものであって、前提となるわけではないので、ここに入っているのは奇異に感じられます。 4点差し上げます。
「取り調べにおいて、犯人しか知りえない情報なのか、そうではないのかの見極めもしなければならない」のは大原則ですね。 無知の暴露の問題については先にコメントしました。 「細かく話してしまったがゆえ、これは犯人しか知りえないと判断される」のは当然ではありませんか。任意性とか、二次情報の可能性をどう排除するかを考えるべきですね。また「犯人ではないのに」と言うことはできません。それこそが捜査と裁判が解答すべきことだから。 4点差し上げます。
真相究明になっているように見えるのが気になります。捜査法への提言としてはわかりますが、心理学徒のやることではない。やってはいけないと言っているのではなく、心理学を学んでいる人は他にやることがあるよ、という意味です。 調べてみた場合は出典を。出典によって、見解が違う場合があるので、何に基づいてあなたが話しているかを明確にすることは必要です。 3点差し上げます。
実体験がなく嘘に基づいて話す場合、逆行的構成が起きやすいということですか。 逆行的構成は実体験がある場合でも生じますが、どういう条件で出やすいかというあなたの疑問については、すでに研究があるはずです。 3点差し上げます。
無知であることとよく覚えていないことは、確かに区別が難しいですね。ただ無知の暴露の場合は記憶の曖昧さが言及されず、「確信があるかのように」間違ったこと(現実と異なること)を「一貫して」供述している部分に適用されていると思われます。 適切な発問方法が用いられたという前提で考えてみます。なぜなら、そうでない場合、心理の流れがおかしい供述は発問方法に起因することが多いからです。そのとき「どう質問すればいいですか」も何もないですよね。まず「適切な発問をしろ」としか言えない。話を戻します。心理の流れがおかしい供述が出てきた場合、どうしてそういう行動をしたのかを尋ねてみてもいいかもしれません。「火をつけたあとなのに、早く逃げようとは思わなかったのですか」とか。しかしこう発問してしまうと、取調べ側が自分の仮説通りのことを言わせてしまう危険もあるので、そういう供述が採取されたとしてそのまま調書を作ればいいと思います。そしてそういう供述をする人を起訴するかどうか、有罪とするかどうか、あるいは証人だったら信用できるかどうかを判断すれば。なお、こういう供述内容に頼る評価方法は、どうしても供述者は話の整合性が判断できるという前提に基づくので、限界があると思います。話が作れない子どもや障害者とか。 8点差し上げます。
個人属性を無視しろと言っているのではなく、個々の特性以前に共通した認知や判断というものが、共通して人には存在しているだろうという仮定が有効かどうかを吟味すべきかと思います。あなたの主張には、相手に再考しないといけないなと思わせる根拠が欠けているように思います。 取調べ専門職を作ることが難しいかどうか、まず考えてみることが必要ですね。検察官の時間不足が原因で供述者個々の特性を吟味することができず、捜査の結果が不適切なものになるという意見のようです。しかし時間があったとしても、供述者の特性を吟味する訓練を検察官が受けていなければ、適切な評価は難しいでしょう。検察官になる人の教育としてどういうものがなされているかを考えてみればよいでしょう。学部時代どういう教育を受けたのでしょうね。司法試験とはどういうことが問われるのでしょう。司法研修ではどういう訓練がなされるのでしょう? このように考えていくと、問題の所在がもっとよくわかってくると思います。自分で問いを探していくこういう営みが、「研究」と呼ばれるのですね。既存の知識や他人の意見を摂取する勉強も大切ですが、大学生なので研究をしてみるとよいと思います。 5点差し上げます。
認知面接や司法面接等の発問に留意した方法を警察や検察が使用するようになれば、そもそも誘導や二次情報にまつわる供述形成は防止できます。不適切な取調べ方法を放置しておいて供述分析の研修をするというのは、適切な捜査方法の実現に寄与しないのではと思います。なぜ検察に供述分析を学ぶことが必要だと考えますか。 4点差し上げます。
まさに主観的価値について他者が評価しないといけないので、この分析は難しいです。「普通人は・・・」という経験則に依拠してしまうので、例外が想定できてしまいます。そして複数の解釈が成り立ってしまいます。 あなたの推奨する発問方法だと、供述者が合理的な物語を作ってしまうので、聞き方だけでは信用性を評価できないかもしれない。そのような発問をした上で、他の供述や証拠との矛盾を指摘し、それをどう弁明するかをみる必要がありそうです。 5点差し上げます。
「取り調べ側の力量が問われながら、相手側のボロが出てくることを待つというように発展の話だ」という冒頭の一文の意味がよく取れず、それ以降の文章もよくわからず、どうにもコメントができません。すみません。 2点差し上げます。
逆行的構成分析について誤解があるようです。時間の流れ(未来のことは不確定である)が反映されていない、予言者的な供述を指摘することが逆行的構成分析です。単に矛盾をみつけているのではありません。 3点差し上げます。
心理学者の解釈を裁判官は聞かない、あるいは聞いていないように判決が書かれているというのが実情だと思われます。袴田事件の再審判決もそうでした。何度も授業で言っていることですが、心理学者の分析は裁判官からしてみると自分達が行なっている「心証形成」と同じだと思っていて、その領域への関与は裁判官のみが許されるものと考えているので、心理学者の話は聞いていないことになるのだと思います。心理学者の鑑定を「証拠」とみなすなら心証形成の材料の一つとなるだけなので、証拠と考えた裁判官は心理学者の話を聞きます。三村事件の木谷裁判官は証拠とみなし、その評価をしていました。 3点差し上げます。
浮かんできた疑問は大切にして、考えてみてください。 無知の暴露は誘導でも生じます。諸分析は相互排他的ではなく重なる部分もあります。供述分析は、結局外部の力が関与していることを指摘できればいい(と言うか、可視化されていない以上、どういう力かは特定が難しい)のです。 4点差し上げます。
採点対象となる投稿を締め切りました。今回もありがとうございます。
一般に人はこう行動するはずだというあたかも正義のような思考は人間関係を築く術をもち、世間で言われている常識が当たり前とされる社会で生きることに抵抗がない人にのみ適用される。しかし、どんなに近しい人であっても人は人を完全に理解することは出来ないと考える。一般的とされる人間観に反する人がいることは事実であるため、大多数と例外に割り切るべきである。例外の人をこれは大前提として、言説の目的を問うことが大切であると考えられる。例外をあげることにどのような意図があり、その一部の人々による影響がどれほど重要かを明確にしておくべきであると思う。
適当ではない供述が、正当な証言または自白であると調書に記載される。これは、初めから確証している情報を持って、誘導による供述を適応の恣意性によって適当であると判断し、そのような確信がまた誘導を産むからではないか。
今回の講義で例に上がった甲山事件を挙げてみる。 この事件は、関係者の中でアリバイのない女性が被疑者となった。 検察は取り調べの際に、「アリバイを証明できないなら有罪である」といった内容の問い詰めをしたという。 アリバイがないという根拠から、他の可能性を考慮せず女性が犯人であるという確証めいた考えがあったのではないだろうか。 そのような確証バイアスを持った状態で園児に取り調べを行うと、園児は女性が犯人だと思わせるような情報に誘導されてしまう。それは、園児が大人の情報に記憶を汚染されやすい子供であり、精神遅滞を持っていることでその可能性も高いからである。
しかし、園児の供述が逆行的構成であるにも関わらず精査しないで証言として提出したのは、取り調べを行った検察の確証バイアスが、園児の証言は正当であるという恣意的な判断を行ってしまったのではないか。
証拠や証言を、犯行の証拠であると恣意的に判断してしまうのは、検察に確証バイアスがあるからだと考える。
そのような誘導された証言や自主を減らすために様々な分析があるだろう。そのような分析を正しく活用するために、確証バイアスを持った状態を自覚する必要があると感じた。
心理学的供述分析において、公判での供述が実体験をもとにした供述、または実体験には由来しない供述なのかを心理学的知識や技術を使って明らかにすることが重要であると考える。検察側が有罪を立証するために必要な情報を選びそれをもとに裁判所が信用性を判断するという枠組みの中で、例えば供述が実体験とは異なる場合や事件を起こした意図に一貫性が無い場合(今回授業での三村事件など)は、その虚偽供述の形成過程が見えにくくなってしまうことがある。さらに、甲山の園児の目撃証言のように、捜査側が、供述の矛盾や物証の食い違いを供述者に突きつけ、供述者が修正を繰り返し、筋の通った虚偽供述を作り上げてしまう。最終的に出来上がった物語のみに視点を当て、それをもとに検討してしまうのは、供述の整合性に欠ける。筋が通っているということに視点を当てるのはもちろん大事なことではあるが、対人間であるため事件当時の心情だったり、事件を起こしてしまった背景などに目を向けることも重要であると考える。心理学的記憶の特性など基づき、それはどのような記憶として残りどのような供述として出てくるか、それを検討していくべきである。
逆行的構成分析と心理の流れ分析は、供述の真実性を検証する上で重要な手法であり、特に矛盾や不自然さを通じて作話や虚偽の可能性を明らかにする点で有効な分析だということを理解した。逆行的構成分析は、供述中に未来の出来事が過去や現在に影響を与えているような矛盾を指摘し、真の体験か否かを判断する。一方、心理の流れ分析は、行為と意図の自然な連鎖が供述に現れているかを検討し、その不在や不自然さを虚偽の可能性として断定する。しかし、これらの手法は、記憶の再構築やストレスによる混乱が影響する場合はもっと慎重に使用されるべきだと感じる。なぜなら、事件や事故の当事者や目撃者は、極度のストレスや緊張状態に置かれることが多くあり、出来事を正確に覚えていることは稀なことが多いと思う。また、時間が経つほど記憶が薄れ、曖昧になりやすいため、事実とは異なる供述が自然に生じる場合があるからだ。また、心理学的分析と法的運用の間にはギャップが存在し、調書作成において行為だけでなく意図や動機を記載するルールの整備が必要だと感じた。これらの手法がさらに精密化され、心理学的分析を過信しすぎず、ほかの客観的証拠や証言と照らし合わせることが重要になる。
今回の授業で学んだ浜田の供述分析は、供述の信頼性を心理学的に深く分析する点で画期的な手法だが、その適用には注意が必要だと考える。理由としては、嘘分析における「了解」は、「一般に人はこう行動するはずだ」という経験則に基づいており、解釈者の主観に依存するリスクがある。この主観性が解釈論争を引き起こし、供述の信頼性評価の客観性を損なう可能性があるからだ。「了解」や「自然さ」といった解釈者の主観に依存する部分については、補完的な客観的基準を設けるべきだと思う。また、取調べ過程の可視化や記録の透明性を高めることで、この手法の有効性をさらに向上させることができる。理由としては、取り調べを可視化することで供述が変遷した理由が供述者自身なのかそれとも取調官の誘導や圧力によるものなのか判断することができるからである。以上のことから供述分析が法廷での証拠評価に効果的に貢献するためには、心理学的な知見と法的要件を統合する取り組みが不可欠であると考える。
嘘分析という供述変遷が供述者の「嘘」に帰属できるかを検討する方法を初めて知った。その方法には文字通り嘘なのかどうか見極めるためや、新しい証拠などが見つかる可能性があるというメリットに反してデメリットもあると考えられる。それは、やはりその供述の信憑性や嘘をつく人が上手かった場合がある。その場合それらの供述をうのみにするのはとても危険であるしその信憑性が疑われる。だから、この嘘分析を絶対的なものと考えるのではなく補助的なものとして考えるのが最適だと思った。それは今まで裁判心理で学んできた分析方法にも言えると思う。またそれらの分析をその事件や被疑者に合わせて使い分けたり複数使うことが最もだと思った。
取り調べにおいて、犯人しか知りえない情報なのか、そうではないのかの見極めもしなければならないのかと感じた。無知の暴露は、今まで学んできた記憶の変容の影響もうけてしまうのではないかと考えた。 秘密の暴露であれば、供述の内容が物的証拠として繋がることで、言った供述は嘘ではなかったと判断してよいと思う。しかし無知の暴露については、仮に犯人であったとしても詳細な質問をされても本当に覚えていない犯人もいると思う。犯罪とはいえ、自分の行動を詳細にかつ完璧に答えられる人は少ない。また逆に、犯人ではないのに細かく話してしまったがゆえ、これは犯人しか知りえないと判断される可能性もあると考えた。事件発生から時がたってからの取り調べなら、記憶が変容されていることも考慮していかなければならないと思う。
甲山事件において調べてみたところ,証人となりうる者が、知的障害であった園児であったために、正確な証言を聞き出すのが難しかったと書かれてあった。警察の判断では園児の「女性が園児を連れ出すのを見た」という証言,事件の不自然さや園児だけではマンホールの蓋を動かすことは到底できないと思っていたという理由から殺人罪起訴へつながっている。しかし、園児の女児からは園児複数人によりマンホールの開け閉めはできたと証言され、事件ではなく事故であったと供述された。このことから、警察の一方的な決めつけや証言者が障害を持っているという理由から、証言の明確さが失われるという判断は私は、難しいと思った。警察側は起きた結果から物事の背景を予測していき、直接的に結びつけることで犯人への特定,判断を下すことに繋がった。しかし、園児などの証言を徐々に得られることで結果に対してより明確さが生まれると思った。結果から遡り原因を考えることも必要だが、園児の中でも記憶の差であったり,証言の違いが見られているため判断基準が難しいことも事実だと思う。しかし、最初から警察側だけでの憶測や判断するのではなく、後に結果につながっていく、過程となる証言や原因の部分にも着目することが必要だと思った。
今回の講義で説明のあった逆行的構成分析について、嘘をつくときは知っているはずの情報と知らないはずの情報のつじつま合わせではかなりほころびが出やすく、話している内容の矛盾が出やすい箇所だと思う。そのため、その脆弱な点を確実に突くためのやり方を分析方法として確立させることは実に有効だと思った。しかし、講義内でも語られた飼っている犬に異変が起きたことで警察を呼んだ男性がのちの松本サリン事件の実行犯だと疑われたというエピソードからもわかる通り、逆行的構成は真の体験の語りでも起こりうるという問題も存在する。ゆえに、逆行的構成の起こりうる条件や状況を研究し、明らかにすることも重要だと感じた。
秘密の暴露は、供述と物的証拠がつながっていることから、信頼できるといえる。このことを中心に、事件の内容を考えていくことが無難だと考えた。無知の暴露では、話されてもいい情報がないということは怪しいと感じるが、実際には詳しく覚えていないだけということも考えられる。事件発生後すぐに、取調べが行われた場合であれば、判断材料として利用していいと思った。しかし、事件発生からしばらくたった後の取調べでは、あまり役に立たないのではないかと考えた。 質問 体験の流れからおかしいと感じた場合はどのように質問をすればいいのでしょうか。講義内で紹介されていた、ある放火事件の被疑者供述を例にした場合、質問をどのように行えば、影響を減らすことができるのか知りたいです。供述から、「取りに戻ったのですか」など具体的に指摘して、本当かどうか質問するのは、違ったかもしれないという風に思わせ、実際にあったとしても、無かったことになる可能性があると思います。しかし、指摘せずに「もう一度お願いします」といっても、供述が正されるとは限らず、求めていた回答が話されるまで聞き続けてしまうのではないかと考えています。適切な質問を行うためにはどうすればよいでしょうか。
一般的に人はこう行動するはずだという一般論にあてはめて被疑者を見ることが本当にできるのかと思った。検察官や裁判官は被疑者を一般の中の個人として見るのではなく、被疑者の特性や性格、成育歴などから被疑者という個人を見るべきだと思った。また、これは被疑者でけではなく甲山事件の目撃者の園児のようなケースにも適用し、目撃供述を検討するべきだ。 質問です。供述の内容が取調官由来のものであったり、被疑者を誘導していたり、そのようなことばかりだとは思いませんが、そのようなことがあるなら、取り調べをする専門の職業を作ったら良いのではと思うのですが、それは難しいですか? 話を聞いた限りでは検察官は非常に忙しそうで、一つ一つの事件にずっとかまっていられないから、取り調べが杜撰になったり、被疑者や目撃者の特性を考える時間もなかったりするのではないかという印象を受けました。検察の中でも取り調べをを行う担当を分けたら一つ一つの事件に時間が割けるのではないかと思ったのですが、そうしても現状は変わらないのでしょうか?
嘘分析や無知の暴露分析といった供述分析は、話を聞く限りとても有効であり、冤罪を防ぐことができる可能性を上げることができると思ったが、実際には取調官はこの分析を知らないなどの理由から有効には使えていない。有効に使えるようにするために検察の研修や勉強で供述分析の有用性や方法を学び、不自然な嘘や記憶の齟齬を見つけられるようにすることが必要であると感じる。現在もこれからも、取り調べの方法や考え方を突然変えていくというのは難しいため、心理の専門家と検察での情報連携をして、供述分析をしていくことで、供述の中での不自然な点を見つけ出すことができるとともに冤罪が発生してしまうことも減らすことができると思った。
三村事件での共犯女性の犯行動機について、三村への愛情を隠すために嘘の供述をしたことを評価するのは彼女の主観的価値に踏み込むことになり、かなり難しい問題であると感じた。 「保険金の分け前が欲しかった」という供述を隠すため、「三村への愛情」を嘘の供述として挙げるならまだしも逆のパターンは合理性に欠ける。もし、その嘘に何らかの意味があるとすれば、裁判の判決通り「三村への愛情」が彼女にとって罪が重くなることよりも大きな不利益があるということになる。彼女が「三村への愛情」を明かすことはつまり、悪評高い三村を愛していて、しかもそれが不倫関係であったという世間からのラベリングを認めてしまうことになる。それは、彼女にとって一生涯つきまとうかもしれない評価であり、もし社会復帰が出来たとしても何らかの困難がつきまとう可能性が考えられる。これを避けるためについた嘘が本当にそれだけの価値があるものなのか。また、世間からの評価を彼女が恐れていたとするならば、なぜ彼女は世間体を気にしていたのか。 例えば、母親が不倫による離婚を経験し、社会からの厳しい評価に苦しむ姿を見たことが、被疑者の価値観に影響を与えた可能性がある。 また、犯罪歴が疑われている人物が逮捕され、その関係者まで世間から疑いの目を向けられているニュースが当時報道されて、彼女がそれを目にしていたら、“同じようになるかもしれない”と不安になるだろう。被疑者の主観的価値観の形成背景を分析することで、供述内容の信頼性を判断するための重要な手がかりを得られると考える。具体的には、育った家庭環境や地域性、文化的背景といった要因が供述にどのような影響を与えたのかを探る必要がある。しかし、上述したような“分かりやすく体験に基づいて形成された主観的価値”の他に、人間は“無意識に持ち合わせる主観的価値”もあるだろう。例えば、父方の祖父母宅に行くといつも女性は料理をしていて、男性は全く料理をしなかったため、時代にそぐわないはずの“女性は料理をするものである”という価値観が強かった、などである。特別これといった体験談はなくても、その人が育ってきた環境や周囲の影響によって無意識に形成されていく主観的価値もあると考える。そのため、その人が我慢を美徳とする地域性の中で育ったのか、それとも困ったら人に頼ることをモットーとする地域性で育ったのか、など様々な要因から影響され、主観的価値観を形成しているはずである。そこを分析することで供述が信頼できるかどうかを判断する材料にできるのではないかと考えた。 具体的には、「“三村への愛情”はあなたにとってどのようなものでしたか?」という尋ね方をするなど、オープンクエスチョンを心がけ、それを打ち明けたことで何か不安に思うことは無いか、ということを尋ねることが考えられる。
今回の講義では、取り調べ側の力量が問われながら、相手側のボロが出てくることを待つというように発展の話だと捉えた。オープンクエスチョンやクローズクエスチョンのような相手の記憶を歪めない質問方法で話を聞くことで、その話の矛盾する点、不自然な点を探すことができる。特に、無知の暴露分析の無知の暴露は、犯人を庇っている場合や冤罪だが、犯人にされそうになっている人がいる時に起こるものではないかと思う。犯人を庇うということは、本物の犯人を捕まえることが出来ていないと言うことになる。本来の犯人を逃したことで、起こらなくても良かった犯罪が起こる可能性がある。その可能性を潰すために有効だと思った。また前述の通り、なんらかの証拠のせいで冤罪が起きようとしている時にも有効であると考える。取り調べを録音、録画することと組み合わせて、再度内容を確認した時、犯人ならば知っていることを相手が知らない事実があれば、一件冤罪を防ぐこともできるのではないかと考えた。
今回の授業を聞いて逆行的構成分析が供述の分析でとても有効であることを学んだ。逆行的構成分析を行うことで、被疑者の発言の矛盾を見つけることができる。しかし、うそを隠すために緻密に話を作る人がいるとしたら逆行的構成分析を使っても効果がないのではないかと考えた。例えば複数人で犯行に及んだとしたらそのメンバーであらかじめ供述内容を緻密に話し合って食い違いがないように計画立てている場合、供述分析をしても矛盾が生じないのではないかと考えた。
質問 講義中に質問できなかったためここで質問させていただきます。 裁判官との解釈が異なった場合、どこまで心理師の解釈が裁判官に反映されるのか疑問に思った。裁判官はエリートなので普通の人とは判断基準が違う可能性があると先生がおっしゃっていました。そのため、裁判官の解釈だけでは誤った判断をしてしまうことがあるので心理師の解釈などを聞くと思うが、その心理師の解釈がどれだけ裁判官の意見に反映されるのかが気になった。
甲山事件の目撃証言は子どもの証言であったが、もし仮に被疑者の教師が子どもたちから悪いイメージを持たれていて、先生を痛い目に遭わせようとし口裏を合わせて犯人は先生と言っていた可能性もあると考えられる。また、小学校高学年からギャンググループが形成される時期のため、教育現場において事件が発生した際、目撃証言とギャングエイジ・グループとの関連はあるのか疑問を持った。目撃証言とギャングエイジ・グループとの関連は、意図的または意志を持って作話をすることや嘘をつくことが難しいため障害者への関連は少ないと考える。したがって、障害を持っていない子ども教育現場において関連が見られるのではないかと考える。無知の暴露分析では、被疑者がその現場にいなくて本当にわからないことでも取調べ官からの誘導尋問で仕方なくその状況を答えるといったこともありうると考えられる。結果無知の暴露はその無知の部分を空白のままにするのか、誘導尋問で無理やり答えさせるのか取調べ官次第であるといえる。しかし、無知の暴露が冤罪を見抜くことができるとするのなら、司法側からみて心理技法の信頼性が上がるかもしれないだろう。
「警察・検察は犯人を捕まえるという義務や国民からの期待」が「質問の仕方や調書の書き方が適正化」を阻害するというような話はしていないと思います。適正化しにくいではなく、「適正な取調べにならないことがある」と言った方がよくないですか。 授業で述べられたことは「真理」ではありませんので、鵜呑みにするのでなく考えてみることも必要ではないかと思います。 3点差し上げます。
どこが虚言なのかは別の証拠との関連とかでわかるかもしれないです。あとは矛盾がないように、問い詰めていくでしょうね。あらゆる取調べが「正解」不在ですから、難しいです。取調べに取調官の裁量や能力の差が多ければ公平にはならないですね。だから司法面接のような聴取方法を標準化することが求められるのかもしれません。 2点差し上げます。
警察や検察が何がなんでも犯人にしてやろうとして動くことはまずない(と信じたい)と思うので、CQに対する「はい」の解釈も取調べ状況によります。それでいいのか、聞き返す場合もあると思います。 時間に逆行して話す方法は、認知面接で利用されていることを話しました。それを被疑者面接でも応用しようということですね。 4点差し上げます。
供述調書は伝聞証拠だということと、物証による裏付けが基本的に必要であることを踏まえた上で考えることが必要だと重ました。調書の危険性を不必要に強調することもまた間違いです。書き方とか解釈の方法の統一とはどういうものを想定していますか。考える材料がほしいです。基本的に、刑法の構成要件、有責性、情状酌量の余地などを踏まえて書かれるという点では、書き方や解釈の基準はあります。 下級、上級というのは審理の性能のよさではなく、複数回の検討を保障する点にあるのだと思います。下級審の審理に間違いがないかを検討し、それを支持しないのであれば、どういう点で間違いがあるのかをちゃんと指摘して判決を出します。同じ証拠、解釈、論理で判決だけ違うということではないので、矛盾はしていません。なお最高裁は下級審に憲法違反があるかどうかを判断するのが役割であるため、少し位置付けが違います。 3点差し上げます。
誘導尋問・高圧的尋問が不利益事実の供述をもたらすのは自白の場合だったらよくわかります。その他の証言ではどうでしょうか。詳細すぎる供述が怪しいというのはその通りで、痴漢冤罪の被害証言にそういうものが散見されるようです。しかし難しいのは、どこから怪しいとしますか。記述の設定は難しいと思います。ここを心理学が研究すべきだと思うのですけれども。迫真性、一貫性については授業で述べたことを追認してもらえたようでよかったです。 4点差し上げます。
「一般に人はこう行動するはずだ」というのが「あたかも正義」であるという表現は、今回の供述分析の評価としては理解しかねますね。その前提は経験則的で、例外の存在は当然あるわけなので、注意して用いるべき原則であるという主張ならわかりますが、別に「正義」を主張しているわけではないと思います。「人は人を完全に理解することは出来ない」なんて当たり前なので、この一文はなくていいと思います。むしろなくした方が、論理展開としては整然としませんか。「人のことを理解できるか」が問題なのではなく、経験則には例外があるということを言いたいのだと思いますので。そのあとの流れがよくわからない。どういうことが主張したかったのでしょうか。
3点差し上げます。
アリバイのなさから保育士さんを犯人だと決めつけた。そのような前提があったから、目撃証言を聴取、評価する際に確証バイアスが生じて、保育士犯人説に適合する部分ばかり(曖昧な供述なら、適合する情報を含んでいると解釈して)受け取ってしまったということですか。確証バイアスばかりではありませんが、認知の歪みが発問や供述評価に影響することは多々ありますね。
いいことを言っているようですが、文章に反復が多く、整理されていないため損をしていると思いました。もったいないです。
5点差し上げます。
あなたの主張がうまく取れませんでした。いくつか指摘します。「供述が実体験とは異なる場合」とありますが、実体験と供述が照合できることは信頼ある記録がない限り無理ですよ。「意図に一貫性が無い場合」に「虚偽供述の形成過程が見えにくくなってしまう」という論理がわからないです。そもそも最初から「虚偽」だと言えないし。意図が一貫していたら形成過程はよく見えるのですか。「最終的に出来上がった物語のみに視点を当て、それをもとに検討してしまうのは、供述の整合性に欠ける」という文章は意味が取れません。投稿する場合は推敲をお願いします。もったいないと思います。
2点差し上げます。
正確に覚えていないと、逆行的構成をしたり、心理の流れを無視した供述になってしまうのですか。記憶が曖昧になって、曖昧な部分を推論として物語を構成するとなれば、逆行的構成は生じやすくなるでしょうが、むしろ心理の流れは精緻になる気がします。
後の部分は授業で言ったことがそのまま書かれています。理解してくれてよかったです。
4点差し上げます。
「補完的な客観的基準」とは何ですか。供述は物証に支えられていることが一応原則なので、その基準が物証だと言うのなら、すでにそうなっています。「取調べ過程の可視化や記録の透明性」とありますが、可視化されていればそもそも誘導であることは明らかになりますので、誘導に依拠することを指摘する供述分析は不要に思えるのですが。
「法的要件」の話はどこに出ているのですか。
4点差し上げます。
供述分析には解釈が入る余地がありますから、絶対的ではあり得ないですね。「補助的なものとして考える」とありますが、何の補助として考えるのですか。
「その供述の信憑性や嘘をつく人が上手かった場合」とありますが、信憑性は判断されるものであって、前提となるわけではないので、ここに入っているのは奇異に感じられます。
4点差し上げます。
「取り調べにおいて、犯人しか知りえない情報なのか、そうではないのかの見極めもしなければならない」のは大原則ですね。
無知の暴露の問題については先にコメントしました。
「細かく話してしまったがゆえ、これは犯人しか知りえないと判断される」のは当然ではありませんか。任意性とか、二次情報の可能性をどう排除するかを考えるべきですね。また「犯人ではないのに」と言うことはできません。それこそが捜査と裁判が解答すべきことだから。
4点差し上げます。
真相究明になっているように見えるのが気になります。捜査法への提言としてはわかりますが、心理学徒のやることではない。やってはいけないと言っているのではなく、心理学を学んでいる人は他にやることがあるよ、という意味です。
調べてみた場合は出典を。出典によって、見解が違う場合があるので、何に基づいてあなたが話しているかを明確にすることは必要です。
3点差し上げます。
実体験がなく嘘に基づいて話す場合、逆行的構成が起きやすいということですか。
逆行的構成は実体験がある場合でも生じますが、どういう条件で出やすいかというあなたの疑問については、すでに研究があるはずです。
3点差し上げます。
無知であることとよく覚えていないことは、確かに区別が難しいですね。ただ無知の暴露の場合は記憶の曖昧さが言及されず、「確信があるかのように」間違ったこと(現実と異なること)を「一貫して」供述している部分に適用されていると思われます。
適切な発問方法が用いられたという前提で考えてみます。なぜなら、そうでない場合、心理の流れがおかしい供述は発問方法に起因することが多いからです。そのとき「どう質問すればいいですか」も何もないですよね。まず「適切な発問をしろ」としか言えない。話を戻します。心理の流れがおかしい供述が出てきた場合、どうしてそういう行動をしたのかを尋ねてみてもいいかもしれません。「火をつけたあとなのに、早く逃げようとは思わなかったのですか」とか。しかしこう発問してしまうと、取調べ側が自分の仮説通りのことを言わせてしまう危険もあるので、そういう供述が採取されたとしてそのまま調書を作ればいいと思います。そしてそういう供述をする人を起訴するかどうか、有罪とするかどうか、あるいは証人だったら信用できるかどうかを判断すれば。なお、こういう供述内容に頼る評価方法は、どうしても供述者は話の整合性が判断できるという前提に基づくので、限界があると思います。話が作れない子どもや障害者とか。
8点差し上げます。
個人属性を無視しろと言っているのではなく、個々の特性以前に共通した認知や判断というものが、共通して人には存在しているだろうという仮定が有効かどうかを吟味すべきかと思います。あなたの主張には、相手に再考しないといけないなと思わせる根拠が欠けているように思います。
取調べ専門職を作ることが難しいかどうか、まず考えてみることが必要ですね。検察官の時間不足が原因で供述者個々の特性を吟味することができず、捜査の結果が不適切なものになるという意見のようです。しかし時間があったとしても、供述者の特性を吟味する訓練を検察官が受けていなければ、適切な評価は難しいでしょう。検察官になる人の教育としてどういうものがなされているかを考えてみればよいでしょう。学部時代どういう教育を受けたのでしょうね。司法試験とはどういうことが問われるのでしょう。司法研修ではどういう訓練がなされるのでしょう? このように考えていくと、問題の所在がもっとよくわかってくると思います。自分で問いを探していくこういう営みが、「研究」と呼ばれるのですね。既存の知識や他人の意見を摂取する勉強も大切ですが、大学生なので研究をしてみるとよいと思います。
5点差し上げます。
認知面接や司法面接等の発問に留意した方法を警察や検察が使用するようになれば、そもそも誘導や二次情報にまつわる供述形成は防止できます。不適切な取調べ方法を放置しておいて供述分析の研修をするというのは、適切な捜査方法の実現に寄与しないのではと思います。なぜ検察に供述分析を学ぶことが必要だと考えますか。
4点差し上げます。
まさに主観的価値について他者が評価しないといけないので、この分析は難しいです。「普通人は・・・」という経験則に依拠してしまうので、例外が想定できてしまいます。そして複数の解釈が成り立ってしまいます。
あなたの推奨する発問方法だと、供述者が合理的な物語を作ってしまうので、聞き方だけでは信用性を評価できないかもしれない。そのような発問をした上で、他の供述や証拠との矛盾を指摘し、それをどう弁明するかをみる必要がありそうです。
5点差し上げます。
「取り調べ側の力量が問われながら、相手側のボロが出てくることを待つというように発展の話だ」という冒頭の一文の意味がよく取れず、それ以降の文章もよくわからず、どうにもコメントができません。すみません。
2点差し上げます。
逆行的構成分析について誤解があるようです。時間の流れ(未来のことは不確定である)が反映されていない、予言者的な供述を指摘することが逆行的構成分析です。単に矛盾をみつけているのではありません。
3点差し上げます。
心理学者の解釈を裁判官は聞かない、あるいは聞いていないように判決が書かれているというのが実情だと思われます。袴田事件の再審判決もそうでした。何度も授業で言っていることですが、心理学者の分析は裁判官からしてみると自分達が行なっている「心証形成」と同じだと思っていて、その領域への関与は裁判官のみが許されるものと考えているので、心理学者の話は聞いていないことになるのだと思います。心理学者の鑑定を「証拠」とみなすなら心証形成の材料の一つとなるだけなので、証拠と考えた裁判官は心理学者の話を聞きます。三村事件の木谷裁判官は証拠とみなし、その評価をしていました。
3点差し上げます。
浮かんできた疑問は大切にして、考えてみてください。
無知の暴露は誘導でも生じます。諸分析は相互排他的ではなく重なる部分もあります。供述分析は、結局外部の力が関与していることを指摘できればいい(と言うか、可視化されていない以上、どういう力かは特定が難しい)のです。
4点差し上げます。
採点対象となる投稿を締め切りました。今回もありがとうございます。
一般に人はこう行動するはずだというあたかも正義のような思考は人間関係を築く術をもち、世間で言われている常識が当たり前とされる社会で生きることに抵抗がない人にのみ適用される。しかし、どんなに近しい人であっても人は人を完全に理解することは出来ないと考える。一般的とされる人間観に反する人がいることは事実であるため、大多数と例外に割り切るべきである。例外の人をこれは大前提として、言説の目的を問うことが大切であると考えられる。例外をあげることにどのような意図があり、その一部の人々による影響がどれほど重要かを明確にしておくべきであると思う。
適当ではない供述が、正当な証言または自白であると調書に記載される。これは、初めから確証している情報を持って、誘導による供述を適応の恣意性によって適当であると判断し、そのような確信がまた誘導を産むからではないか。
今回の講義で例に上がった甲山事件を挙げてみる。
この事件は、関係者の中でアリバイのない女性が被疑者となった。
検察は取り調べの際に、「アリバイを証明できないなら有罪である」といった内容の問い詰めをしたという。
アリバイがないという根拠から、他の可能性を考慮せず女性が犯人であるという確証めいた考えがあったのではないだろうか。
そのような確証バイアスを持った状態で園児に取り調べを行うと、園児は女性が犯人だと思わせるような情報に誘導されてしまう。それは、園児が大人の情報に記憶を汚染されやすい子供であり、精神遅滞を持っていることでその可能性も高いからである。
しかし、園児の供述が逆行的構成であるにも関わらず精査しないで証言として提出したのは、取り調べを行った検察の確証バイアスが、園児の証言は正当であるという恣意的な判断を行ってしまったのではないか。
証拠や証言を、犯行の証拠であると恣意的に判断してしまうのは、検察に確証バイアスがあるからだと考える。
そのような誘導された証言や自主を減らすために様々な分析があるだろう。そのような分析を正しく活用するために、確証バイアスを持った状態を自覚する必要があると感じた。
心理学的供述分析において、公判での供述が実体験をもとにした供述、または実体験には由来しない供述なのかを心理学的知識や技術を使って明らかにすることが重要であると考える。検察側が有罪を立証するために必要な情報を選びそれをもとに裁判所が信用性を判断するという枠組みの中で、例えば供述が実体験とは異なる場合や事件を起こした意図に一貫性が無い場合(今回授業での三村事件など)は、その虚偽供述の形成過程が見えにくくなってしまうことがある。さらに、甲山の園児の目撃証言のように、捜査側が、供述の矛盾や物証の食い違いを供述者に突きつけ、供述者が修正を繰り返し、筋の通った虚偽供述を作り上げてしまう。最終的に出来上がった物語のみに視点を当て、それをもとに検討してしまうのは、供述の整合性に欠ける。筋が通っているということに視点を当てるのはもちろん大事なことではあるが、対人間であるため事件当時の心情だったり、事件を起こしてしまった背景などに目を向けることも重要であると考える。心理学的記憶の特性など基づき、それはどのような記憶として残りどのような供述として出てくるか、それを検討していくべきである。
逆行的構成分析と心理の流れ分析は、供述の真実性を検証する上で重要な手法であり、特に矛盾や不自然さを通じて作話や虚偽の可能性を明らかにする点で有効な分析だということを理解した。逆行的構成分析は、供述中に未来の出来事が過去や現在に影響を与えているような矛盾を指摘し、真の体験か否かを判断する。一方、心理の流れ分析は、行為と意図の自然な連鎖が供述に現れているかを検討し、その不在や不自然さを虚偽の可能性として断定する。しかし、これらの手法は、記憶の再構築やストレスによる混乱が影響する場合はもっと慎重に使用されるべきだと感じる。なぜなら、事件や事故の当事者や目撃者は、極度のストレスや緊張状態に置かれることが多くあり、出来事を正確に覚えていることは稀なことが多いと思う。また、時間が経つほど記憶が薄れ、曖昧になりやすいため、事実とは異なる供述が自然に生じる場合があるからだ。また、心理学的分析と法的運用の間にはギャップが存在し、調書作成において行為だけでなく意図や動機を記載するルールの整備が必要だと感じた。これらの手法がさらに精密化され、心理学的分析を過信しすぎず、ほかの客観的証拠や証言と照らし合わせることが重要になる。
今回の授業で学んだ浜田の供述分析は、供述の信頼性を心理学的に深く分析する点で画期的な手法だが、その適用には注意が必要だと考える。理由としては、嘘分析における「了解」は、「一般に人はこう行動するはずだ」という経験則に基づいており、解釈者の主観に依存するリスクがある。この主観性が解釈論争を引き起こし、供述の信頼性評価の客観性を損なう可能性があるからだ。「了解」や「自然さ」といった解釈者の主観に依存する部分については、補完的な客観的基準を設けるべきだと思う。また、取調べ過程の可視化や記録の透明性を高めることで、この手法の有効性をさらに向上させることができる。理由としては、取り調べを可視化することで供述が変遷した理由が供述者自身なのかそれとも取調官の誘導や圧力によるものなのか判断することができるからである。以上のことから供述分析が法廷での証拠評価に効果的に貢献するためには、心理学的な知見と法的要件を統合する取り組みが不可欠であると考える。
嘘分析という供述変遷が供述者の「嘘」に帰属できるかを検討する方法を初めて知った。その方法には文字通り嘘なのかどうか見極めるためや、新しい証拠などが見つかる可能性があるというメリットに反してデメリットもあると考えられる。それは、やはりその供述の信憑性や嘘をつく人が上手かった場合がある。その場合それらの供述をうのみにするのはとても危険であるしその信憑性が疑われる。だから、この嘘分析を絶対的なものと考えるのではなく補助的なものとして考えるのが最適だと思った。それは今まで裁判心理で学んできた分析方法にも言えると思う。またそれらの分析をその事件や被疑者に合わせて使い分けたり複数使うことが最もだと思った。
取り調べにおいて、犯人しか知りえない情報なのか、そうではないのかの見極めもしなければならないのかと感じた。無知の暴露は、今まで学んできた記憶の変容の影響もうけてしまうのではないかと考えた。
秘密の暴露であれば、供述の内容が物的証拠として繋がることで、言った供述は嘘ではなかったと判断してよいと思う。しかし無知の暴露については、仮に犯人であったとしても詳細な質問をされても本当に覚えていない犯人もいると思う。犯罪とはいえ、自分の行動を詳細にかつ完璧に答えられる人は少ない。また逆に、犯人ではないのに細かく話してしまったがゆえ、これは犯人しか知りえないと判断される可能性もあると考えた。事件発生から時がたってからの取り調べなら、記憶が変容されていることも考慮していかなければならないと思う。
甲山事件において調べてみたところ,証人となりうる者が、知的障害であった園児であったために、正確な証言を聞き出すのが難しかったと書かれてあった。警察の判断では園児の「女性が園児を連れ出すのを見た」という証言,事件の不自然さや園児だけではマンホールの蓋を動かすことは到底できないと思っていたという理由から殺人罪起訴へつながっている。しかし、園児の女児からは園児複数人によりマンホールの開け閉めはできたと証言され、事件ではなく事故であったと供述された。このことから、警察の一方的な決めつけや証言者が障害を持っているという理由から、証言の明確さが失われるという判断は私は、難しいと思った。警察側は起きた結果から物事の背景を予測していき、直接的に結びつけることで犯人への特定,判断を下すことに繋がった。しかし、園児などの証言を徐々に得られることで結果に対してより明確さが生まれると思った。結果から遡り原因を考えることも必要だが、園児の中でも記憶の差であったり,証言の違いが見られているため判断基準が難しいことも事実だと思う。しかし、最初から警察側だけでの憶測や判断するのではなく、後に結果につながっていく、過程となる証言や原因の部分にも着目することが必要だと思った。
今回の講義で説明のあった逆行的構成分析について、嘘をつくときは知っているはずの情報と知らないはずの情報のつじつま合わせではかなりほころびが出やすく、話している内容の矛盾が出やすい箇所だと思う。そのため、その脆弱な点を確実に突くためのやり方を分析方法として確立させることは実に有効だと思った。しかし、講義内でも語られた飼っている犬に異変が起きたことで警察を呼んだ男性がのちの松本サリン事件の実行犯だと疑われたというエピソードからもわかる通り、逆行的構成は真の体験の語りでも起こりうるという問題も存在する。ゆえに、逆行的構成の起こりうる条件や状況を研究し、明らかにすることも重要だと感じた。
秘密の暴露は、供述と物的証拠がつながっていることから、信頼できるといえる。このことを中心に、事件の内容を考えていくことが無難だと考えた。無知の暴露では、話されてもいい情報がないということは怪しいと感じるが、実際には詳しく覚えていないだけということも考えられる。事件発生後すぐに、取調べが行われた場合であれば、判断材料として利用していいと思った。しかし、事件発生からしばらくたった後の取調べでは、あまり役に立たないのではないかと考えた。
質問
体験の流れからおかしいと感じた場合はどのように質問をすればいいのでしょうか。講義内で紹介されていた、ある放火事件の被疑者供述を例にした場合、質問をどのように行えば、影響を減らすことができるのか知りたいです。供述から、「取りに戻ったのですか」など具体的に指摘して、本当かどうか質問するのは、違ったかもしれないという風に思わせ、実際にあったとしても、無かったことになる可能性があると思います。しかし、指摘せずに「もう一度お願いします」といっても、供述が正されるとは限らず、求めていた回答が話されるまで聞き続けてしまうのではないかと考えています。適切な質問を行うためにはどうすればよいでしょうか。
一般的に人はこう行動するはずだという一般論にあてはめて被疑者を見ることが本当にできるのかと思った。検察官や裁判官は被疑者を一般の中の個人として見るのではなく、被疑者の特性や性格、成育歴などから被疑者という個人を見るべきだと思った。また、これは被疑者でけではなく甲山事件の目撃者の園児のようなケースにも適用し、目撃供述を検討するべきだ。
質問です。供述の内容が取調官由来のものであったり、被疑者を誘導していたり、そのようなことばかりだとは思いませんが、そのようなことがあるなら、取り調べをする専門の職業を作ったら良いのではと思うのですが、それは難しいですか?
話を聞いた限りでは検察官は非常に忙しそうで、一つ一つの事件にずっとかまっていられないから、取り調べが杜撰になったり、被疑者や目撃者の特性を考える時間もなかったりするのではないかという印象を受けました。検察の中でも取り調べをを行う担当を分けたら一つ一つの事件に時間が割けるのではないかと思ったのですが、そうしても現状は変わらないのでしょうか?
嘘分析や無知の暴露分析といった供述分析は、話を聞く限りとても有効であり、冤罪を防ぐことができる可能性を上げることができると思ったが、実際には取調官はこの分析を知らないなどの理由から有効には使えていない。有効に使えるようにするために検察の研修や勉強で供述分析の有用性や方法を学び、不自然な嘘や記憶の齟齬を見つけられるようにすることが必要であると感じる。現在もこれからも、取り調べの方法や考え方を突然変えていくというのは難しいため、心理の専門家と検察での情報連携をして、供述分析をしていくことで、供述の中での不自然な点を見つけ出すことができるとともに冤罪が発生してしまうことも減らすことができると思った。
三村事件での共犯女性の犯行動機について、三村への愛情を隠すために嘘の供述をしたことを評価するのは彼女の主観的価値に踏み込むことになり、かなり難しい問題であると感じた。
「保険金の分け前が欲しかった」という供述を隠すため、「三村への愛情」を嘘の供述として挙げるならまだしも逆のパターンは合理性に欠ける。もし、その嘘に何らかの意味があるとすれば、裁判の判決通り「三村への愛情」が彼女にとって罪が重くなることよりも大きな不利益があるということになる。彼女が「三村への愛情」を明かすことはつまり、悪評高い三村を愛していて、しかもそれが不倫関係であったという世間からのラベリングを認めてしまうことになる。それは、彼女にとって一生涯つきまとうかもしれない評価であり、もし社会復帰が出来たとしても何らかの困難がつきまとう可能性が考えられる。これを避けるためについた嘘が本当にそれだけの価値があるものなのか。また、世間からの評価を彼女が恐れていたとするならば、なぜ彼女は世間体を気にしていたのか。
例えば、母親が不倫による離婚を経験し、社会からの厳しい評価に苦しむ姿を見たことが、被疑者の価値観に影響を与えた可能性がある。
また、犯罪歴が疑われている人物が逮捕され、その関係者まで世間から疑いの目を向けられているニュースが当時報道されて、彼女がそれを目にしていたら、“同じようになるかもしれない”と不安になるだろう。被疑者の主観的価値観の形成背景を分析することで、供述内容の信頼性を判断するための重要な手がかりを得られると考える。具体的には、育った家庭環境や地域性、文化的背景といった要因が供述にどのような影響を与えたのかを探る必要がある。しかし、上述したような“分かりやすく体験に基づいて形成された主観的価値”の他に、人間は“無意識に持ち合わせる主観的価値”もあるだろう。例えば、父方の祖父母宅に行くといつも女性は料理をしていて、男性は全く料理をしなかったため、時代にそぐわないはずの“女性は料理をするものである”という価値観が強かった、などである。特別これといった体験談はなくても、その人が育ってきた環境や周囲の影響によって無意識に形成されていく主観的価値もあると考える。そのため、その人が我慢を美徳とする地域性の中で育ったのか、それとも困ったら人に頼ることをモットーとする地域性で育ったのか、など様々な要因から影響され、主観的価値観を形成しているはずである。そこを分析することで供述が信頼できるかどうかを判断する材料にできるのではないかと考えた。
具体的には、「“三村への愛情”はあなたにとってどのようなものでしたか?」という尋ね方をするなど、オープンクエスチョンを心がけ、それを打ち明けたことで何か不安に思うことは無いか、ということを尋ねることが考えられる。
今回の講義では、取り調べ側の力量が問われながら、相手側のボロが出てくることを待つというように発展の話だと捉えた。オープンクエスチョンやクローズクエスチョンのような相手の記憶を歪めない質問方法で話を聞くことで、その話の矛盾する点、不自然な点を探すことができる。特に、無知の暴露分析の無知の暴露は、犯人を庇っている場合や冤罪だが、犯人にされそうになっている人がいる時に起こるものではないかと思う。犯人を庇うということは、本物の犯人を捕まえることが出来ていないと言うことになる。本来の犯人を逃したことで、起こらなくても良かった犯罪が起こる可能性がある。その可能性を潰すために有効だと思った。また前述の通り、なんらかの証拠のせいで冤罪が起きようとしている時にも有効であると考える。取り調べを録音、録画することと組み合わせて、再度内容を確認した時、犯人ならば知っていることを相手が知らない事実があれば、一件冤罪を防ぐこともできるのではないかと考えた。
今回の授業を聞いて逆行的構成分析が供述の分析でとても有効であることを学んだ。逆行的構成分析を行うことで、被疑者の発言の矛盾を見つけることができる。しかし、うそを隠すために緻密に話を作る人がいるとしたら逆行的構成分析を使っても効果がないのではないかと考えた。例えば複数人で犯行に及んだとしたらそのメンバーであらかじめ供述内容を緻密に話し合って食い違いがないように計画立てている場合、供述分析をしても矛盾が生じないのではないかと考えた。
質問
講義中に質問できなかったためここで質問させていただきます。
裁判官との解釈が異なった場合、どこまで心理師の解釈が裁判官に反映されるのか疑問に思った。裁判官はエリートなので普通の人とは判断基準が違う可能性があると先生がおっしゃっていました。そのため、裁判官の解釈だけでは誤った判断をしてしまうことがあるので心理師の解釈などを聞くと思うが、その心理師の解釈がどれだけ裁判官の意見に反映されるのかが気になった。
甲山事件の目撃証言は子どもの証言であったが、もし仮に被疑者の教師が子どもたちから悪いイメージを持たれていて、先生を痛い目に遭わせようとし口裏を合わせて犯人は先生と言っていた可能性もあると考えられる。また、小学校高学年からギャンググループが形成される時期のため、教育現場において事件が発生した際、目撃証言とギャングエイジ・グループとの関連はあるのか疑問を持った。目撃証言とギャングエイジ・グループとの関連は、意図的または意志を持って作話をすることや嘘をつくことが難しいため障害者への関連は少ないと考える。したがって、障害を持っていない子ども教育現場において関連が見られるのではないかと考える。無知の暴露分析では、被疑者がその現場にいなくて本当にわからないことでも取調べ官からの誘導尋問で仕方なくその状況を答えるといったこともありうると考えられる。結果無知の暴露はその無知の部分を空白のままにするのか、誘導尋問で無理やり答えさせるのか取調べ官次第であるといえる。しかし、無知の暴露が冤罪を見抜くことができるとするのなら、司法側からみて心理技法の信頼性が上がるかもしれないだろう。
「警察・検察は犯人を捕まえるという義務や国民からの期待」が「質問の仕方や調書の書き方が適正化」を阻害するというような話はしていないと思います。適正化しにくいではなく、「適正な取調べにならないことがある」と言った方がよくないですか。
授業で述べられたことは「真理」ではありませんので、鵜呑みにするのでなく考えてみることも必要ではないかと思います。
3点差し上げます。
どこが虚言なのかは別の証拠との関連とかでわかるかもしれないです。あとは矛盾がないように、問い詰めていくでしょうね。あらゆる取調べが「正解」不在ですから、難しいです。取調べに取調官の裁量や能力の差が多ければ公平にはならないですね。だから司法面接のような聴取方法を標準化することが求められるのかもしれません。
2点差し上げます。
警察や検察が何がなんでも犯人にしてやろうとして動くことはまずない(と信じたい)と思うので、CQに対する「はい」の解釈も取調べ状況によります。それでいいのか、聞き返す場合もあると思います。
時間に逆行して話す方法は、認知面接で利用されていることを話しました。それを被疑者面接でも応用しようということですね。
4点差し上げます。
供述調書は伝聞証拠だということと、物証による裏付けが基本的に必要であることを踏まえた上で考えることが必要だと重ました。調書の危険性を不必要に強調することもまた間違いです。書き方とか解釈の方法の統一とはどういうものを想定していますか。考える材料がほしいです。基本的に、刑法の構成要件、有責性、情状酌量の余地などを踏まえて書かれるという点では、書き方や解釈の基準はあります。
下級、上級というのは審理の性能のよさではなく、複数回の検討を保障する点にあるのだと思います。下級審の審理に間違いがないかを検討し、それを支持しないのであれば、どういう点で間違いがあるのかをちゃんと指摘して判決を出します。同じ証拠、解釈、論理で判決だけ違うということではないので、矛盾はしていません。なお最高裁は下級審に憲法違反があるかどうかを判断するのが役割であるため、少し位置付けが違います。
3点差し上げます。
誘導尋問・高圧的尋問が不利益事実の供述をもたらすのは自白の場合だったらよくわかります。その他の証言ではどうでしょうか。詳細すぎる供述が怪しいというのはその通りで、痴漢冤罪の被害証言にそういうものが散見されるようです。しかし難しいのは、どこから怪しいとしますか。記述の設定は難しいと思います。ここを心理学が研究すべきだと思うのですけれども。迫真性、一貫性については授業で述べたことを追認してもらえたようでよかったです。
4点差し上げます。