ジョー・アレディが精神鑑定によって冤罪の疑惑を持たれたのであれば、精神鑑定は信用すべきということになりませんか。精神鑑定への疑問で始まっているのに、途中で捜査官の恣意の話に変わっているようです。 3点差し上げます。
精神鑑定が相当無理な課題を果たそうとしていることを知ってくれてよかったと思います。事件の概要を全く知らせないわけにはいかないでしょう。それも重要な鑑定資料です。注意すべきは、それは犯人が行ったことではあるが、被鑑定者が犯人とは限らないという点です。「被鑑定者がやった」ではなく、「こういうことをする人はこんな特徴を持つ人の可能性は高い。被鑑定者にその傾向はあるか」という観点で鑑定は行なわれるべきでしょう。 6点差し上げます。
法学的には興味深い議論です。 3点差し上げます。
当時の捜査手法は必ずしも科学的と言えない、捜査官の勘に依拠する部分が多かったと思います。どういう勘の部分をどういう手法に置き換えたらよかったでしょうね。この事件では、取調べの問題が指摘されています。ここは明確に心理学の出番です。そして実際に心理学からの批判と改善方法が提示されています。のちの授業で触れる予定です。 4点差し上げます。
精神鑑定の信頼性や妥当性が不確かなのは授業で述べた通りです。それは何から発するのでしょう。それを考えると心理学的考察になるのではないかと思います。あなたの考察は法学としては興味深いですが、一応裁判「心理学」なので。 3点差し上げます。
完全ではない特定の捜査手法の結果にこだわりすぎて、他の手法から得られた結果を軽視するという危険はありますね。 4点差し上げます。
もともと刑法は被害者感情を満たす応報の機能は持っていないはずです。法学では諸説ありますが。39条の問題は加害者側にも及ぶということは、資料に書きました。読んでくれたようで嬉しいです。いずれも法学的問題として興味深いですね。 3点差し上げます。
一つ前の人と同じ発想ですね。完璧がない以上、これが次善策でしょうね。 4点差し上げます。
万全な方法はないので、いくつかの手法を組み合わせ、測定の確実性を上げていく方法は、テストバッテリーと同じ発想ですね。 39条は責任能力の問題で、障害者に直結する訳ではありません。ある種の精神病とは結びつきやすいですが。責任能力が問われるのは、この能力がない者に罰を与えても罰と感じないので意味がないという発想があるのではと思います。被害者感情からすると裁いてほしいところですが、刑法というのは被害者からの応報としてではなく、世の中を乱したことに対する罰則だと聞いたことがあります。このへんは法学の領分ですね。 5点差し上げます。
取調べという特殊情報の効果は、検査時全体に影響しているので、犯人の場合さらに採決質問の効果が上乗せされるだけでは? 実験法の論理からしてどこかおかしい点はありますか。 二つの立場についてはその通り。そして心理学の観点からは何を言えばいいでしょう。 4点差上げます。
病的犯罪者は不起訴とか無罪というのは正確な解釈ではありません。責任能力がない者(心神喪失者)は無罪、が正しい取り方です。病的犯罪者だから無罪なのではなく、その人に責任能力を問えない場合に無罪になるのです。これは心理学というより行政的関心ですね。 サイコパスの人に対するポリグラフ使用の注意みないな研究が見つかると面白いですね。 4点差し上げます。
質問者の先入観が入る懸念があるから使わないのではなく、先入観が入らないように二重盲検法を採用するようにすればいいのです。疑問を持つことは大切です。あわせて、その疑問に対する解答がすでにあるのかを確認することも大切です。偽陽性、偽陰性はどんな測定をしてもあり得ます。100%、0%というのは実現できないので、どうすれば完全に近づけられるかを見出して、どの程度で手を打つべきかを意思決定するというのが、現実世界を生きる我々の選択ではないかと。人間には限界がありますね。 4点差し上げます。
精神鑑定の正しい捉え方は重要ですね。どんな手法にせよ、それがどういうものであるかを知って、盲信しないことが大切です。100%完璧ということは、人間が人間を評価する以上達成不可能ですが、せざるを得ない作業ですから、できるだけ問題を少なくする努力が必要です。これは裁判以外でもそうです。人間の支援という分野においても。 「裁判官の1人が無罪だと考えていた」のは袴田事件ですよ。組織のあり方が影響することは間違いないですが、これを心理学的に考察するには組織心理学みたいなのを勉強するといいかもしれないです。 足利事件の情報提供、ありがとうございます。みなさんが参照することができて、助かると思います。 6点差し上げます。
エラーに関して考慮すべきは、再犯率ではなくむしろ重大性ではないかと思います。「殺人は今回だけ」といって野に放たれても困ります。逮捕がスティグマになるのは、日本の警察が慎重だからで、英国のように51%黒なら逮捕とすればそういうことはなくなるかもしれない。どちらが日本人に合っているのだろう。 プロファイリングは捜査手法だというのは、それによってある人が犯人かどうかを評価するわけではないということです。「勘頼り」を懸念するなら、捜査手法として精度が高いかという点についてすべきです。犯人識別の方法は、他の証拠に基づいて、裁判で決めることですから。 捜査手法は人間が実施する限り、人間の「勘」が入ります。データ自体は客観的でも、それをどう捉えるかは人間の勘です。あるテストの「80点」という結果は客観的ですが、「80点だからどうなのか」とか「他のデータとの関連をどう評価すべきか」という部分は勘頼りになると思います。 5点差し上げます。
犯罪防止の施策の話なので行政にまかせることかと。心理学からはどういう提言ができると思いますか。性犯罪者の再犯率が高いことはよく知られています。これに対して監視のような措置を考えることはやはり政策の問題で、心理学からどういう提言が可能かを考えないと、裁判「心理学」になりません。 3点差し上げます。
AIの導入によって、何について客観性を保障しようとするのかを明確にして議論すべきです。測定ですか、結果の評価ですか? AI導入にあたって議論すべき様々な問題があるという意見には賛成です。他の受講生の方へのコメント、ありがとうございます。学びあいましょう。 6点差上げます。
なお今後、他の投稿へのコメントを投稿する場合は「>>投稿番号」という機能を使ってみてください。今回だと、>> 31とするということですね。
F22062さんへ 剰余変数をどう統制するかは、「心理学硏究法」で習ったと思います。ゼロにすることができれば理想ですが、できない場合はランダマイゼーション、カウンターバランスといった方法があります。「剰余変数が存在するから使用しない方がいい」と言うと、捜査側が困ります。捜査側の視点にも立って、まずこれらの可能性を考えるべきでしょう。 剰余変数は実験法の概念なので、精神鑑定に当てはめるのはどうかな。面接や検査を通して、標的である変数を測定できるかが精神分析の肝だと思いますが、これは測定の妥当性の問題かと思います。 質問者をAIにすることで、どういう利得があるのですか。ポリグラフ検査や精神鑑定における何の客観性なのでしょう。AIの利用は、ポリグラフ検査結果の評価で利用可能だと思います。 「余剰変数」→「剰余変数」ですね。 6点差し上げます。
今回の投稿は締め切りました。まだ次回、よろしくお願いします。
以前から刑法第39条について時折考えては、自分の中の意見がまとまりませんでした。現時点でも、自分の言葉に責任をもって刑法第39条が適切なのかを述べることはできません。何故ならば、警察が犯人を特定するにおいて立場によって深刻度が変化するように、刑法第39条を突き付けられた被害者と、大変未熟ながらも心理を学ぶ者として加害者の背景を見つめなおしたいと思う私では、立場が大きく違いすぎます。これからも考え続けますが、答えがでるとは到底思えません。
精神鑑定の正確性に疑問を持った。 講義内で話された足利事件や宮崎勤事件は、その調書の正確性が疑われるべきである。 また、精神鑑定が正確に行われていたとしても、警察側の恣意によってその正確性が失われるものであると考える。 例えば、「世界一幸せな死刑囚」と呼ばれたジョー・アレディであるが、彼は冤罪であった。 彼は知能指数が50以下であることや、犯行に及ぶような精神状況では無いと判断されていた。しかし、警察は彼を犯人に仕立てあげ、結果的に死刑となった。 当時精神科医が鑑定をし、冤罪であることは明らかであったのに、誤った自白により罪を被っている。 警察は「犯人を取り逃がさない」ということを重きにおいていることで、精神鑑定や知能検査などを自分の主張のためにねじまげてしまっているのではないだろうか。 鑑定をする側の問題ももちろんあるだろうが、このような事例があると、精神鑑定を正しく活用できているかにも疑問が生じてしまう。 以上のことから、精神鑑定そのものだけでなく、活用についても疑問を持った。
https://karapaia.com/archives/52271654.html
本講義では精神鑑定の不安定さに信頼をおいてもよいのか疑問を感じた。足利事件の精神鑑定での精神鑑定はアートという言葉やその人のパーソナリティに関する名前や特徴のつけ方は正しいとは言えないと考えた。また、事件が起こった当時の精神鑑定を精密にすることは記憶の忘却などが関わるため、不可能だと感じる。裁判で精神鑑定を行うならば、被疑者のパーソナリティや責任能力の有無を事件の概要を知らない精神科医が行うべきだと考えた。なぜなら、精神鑑定を行う精神科医が事件の概要を知ってしまうと、先入観や主観が精神鑑定に大きく影響すると考えられるからだ。さらに、講義中に先生もおっしゃっていたが、責任を持てる情報を提供することが精神鑑定では求められていると考えるため、その当時の精神鑑定や精神科医が事件の概要を知り、精神鑑定を行うことなど、不明瞭な情報を裁判で提示するのは避けたほうが良いと感じた。また、そのほうが冤罪や誤った判決が起こりにくいと考えた。
刑法第39条において否定的な意見も多いと思うが、実際に心神喪失者は無罪、心神耗弱者は減刑というのに良し悪しを明確にするのは容易なことではないと考えた。心神喪失ゆえに罪が裁かれないとなると、遺族や被害にあった本人が報われないが、逆にやむを得ない状況で罪を犯してしまった事例もゼロではない。最終的には人情で決まる部分もなくはないだろう。ただ公正じゃなきゃいけない法律で時と場合によってしまう点が否定てきな意見を生み出していると考えた。多くは過去の判例によって左右されることがあるため、どんな判決も揺るぎない確信があるものでないといけない。
今回の授業でも少し取り上げられていた「袴田事件」について。私はこの事件の名前を聞いたことはありました。さらに袴田さんが冤罪の可能性があるのに死刑宣告を告げられ長期に渡り収監されていたということも知っていました。しかし、事件の内容や、なぜ冤罪なのにも関わらず間違った判決が下ったのかという経緯を知りませんでした。そこで調べました。 警察は事件当初から袴田さんがプロボクサーであり、味噌工場の従業員であったことから犯人であると決めつけて捜査を行っていたと書かれてありました。さらに取り調べの環境も劣悪で証拠となる血のついた衣服の鑑定も疑わしい箇所がいくつもあったそうです。 警察や検察は犯人を逮捕したいという思いが第一にありますが、この事件では「袴田さんを犯人にする」といったムーブが第一にあったのではないかと考えます。 このように無実の人が、本来正しい判断をくださなければならない検察や警察によって不本意な状況下におかれることはあってはならないと私は考えます。なぜならば、袴田さんは今回の事件で、42年間も収監され自由を奪われてきました。さらに、精神が蝕まれ意思疎通が困難な状況が続いてます。これは人1人の人生を奪ったと言っても過言ではないと考えるからです。 今回の事件では初めから断定的な捜査ではなく、プロファイリングなどを用いて徐々に犯人像を絞っていく捜査を行っていれば、未来は変わったのかなと考えます。
今回の講義を受けて精神鑑定の信頼性に疑問を感じた。なぜなら精神鑑定は必ずしも統一された基準や手法に基づいているわけではなく、複数の鑑定結果が異なる場合や、鑑定者の主観が結果に影響を与えることもあるため公平性がないように感じる。鑑定医によって結果も異なることから私は精神鑑定の信頼性に疑問を感じた。精神鑑定の信頼性が高ければ、私は刑法第39条を改正しなくてもいいと思う。理由としては、運転中に脳梗塞になって人を轢いてしまったり、重度の精神障害によって幻覚幻聴で錯乱状態になって周囲に暴力を振ってしまったり、事件が起こることを避けれない事例もある。避けようがないことに対して故意的に犯罪を起こした人たちと同じ罪を背負わせるのは公平的ではないし、誰もがその可能性を持っている。だが、公平性を重視すると事件の被害者側は、罰を受けさせることもできないので公平とは言えないだろう。この刑法第39条から法律は完ぺきに作ることはできないと実感した。
臨床的プロファイリングは検察や警察の直感を使ってタイプを測定するというものであるが、いささか信頼性に欠けるものである。捜査によって犯人の目星をつけられない場合の仮定として定めることである程度の指標として捜査が進むだろう。しかし、犯人の特徴を仮定してしまった場合に過度にその特徴を意識してしまい、他の手掛かりに着目できなくなってしまったり、熱意のありすぎる捜査官が過度に誤認逮捕をしてしまう危険性もあるだろう。これにより冤罪となってしまった場合には、唐突に取り調べを行うことになり、精神的な負荷がかなり大きくなり存在しない自白を行ってしまう可能性も上がると考えられる。プロファイリングは一つの指標とすることはいいと思うが、それがすべてにならないように操作を進める意識が必要であると感じた。
刑法第39条「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その罪を軽減する。」日本はこの法律に沿って罪を捌いてきたが、心神喪失者や心神耗弱者であるからと加害者側に情けをかけるのは被害者やその遺族が報われないと感じていた。起こった事実を変えることはできず、傷ついた心や人は戻ってこない。私はこの法律を以前までは被害者側に有益ではないと思い、否定的であった。しかし、加害者側にとっても有益ではないことに気づいた。精神鑑定により不起訴になった場合、刑罰はつかないが、事件を起こした危険人物というレッテルは一生剥がれない。さらに真っ当に罪を償わなかったとして被害者側から一生恨まれる。これは障害者の人権を守るための法律が障害者の誇りを奪っている。このことを認識して初めて私はこの法律の問題点に向き合えたと感じた。
刑事事件における捜査活動は人間が行っている以上、その人の先入観やイメージなどによってバイアスがかかり正しくない答えを出してしまう可能性は大いにありうる。だからこそ客観性を持った方法の一つであるポリグラフを用いた捜査が信頼されるべき手法であるのは当然だろう。しかし、そのポリグラフも100%正確な答えの出る方法では未だ無い。そうなると現場の人間の直感も一つの手がかりとして認め、その一切を排斥すべきでないように思う。当たり前だが本来経験論や主観に基づいた推測は公平性にかけたやり方のため推奨されたものではないかもしれない。それでも私は、この世に必ず正しい犯人を見つけられる方法がない以上は取れる限りのあらゆる方法に手を付けることは必要な姿勢なのではないかと考えた。
ポリグラフ検査は高い正判定率が確認されているが、ある質問内容を知っている人を正しく知っていると推定できるのは86%、ある質問内容を知らない人を正しく知らないと推定できるのは95%と、高くはあるが確実ではないというところが重要だと思う。ポリグラフ検査で事件のことを知っている可能性が高いと推定できても、その結果は確実ではないため、より確実な証拠集め、被疑者の聴取など、検査結果だけに頼らない、被疑者が犯人である証拠を見つけ出すことが必要だ。 私は、障害者への差別を解消するためにも刑法39条を改正した方が良いと思う。主観的な話だが、私が障害者を怖いと思うのは何をするかわからない、何をされるかもわからないから怖いという理由だ。精神障害者で心神耗弱、心神喪失だから罪を軽くされるか無罪になり、私がされたことの罪を償わせることもできないとやるせない気持ちになる。罪を犯したという意識がなかったとしても、被害者の心のために罰を他の事例と同様に与えるべきだと思う。それによって、何かされても罪と認められるという安心感が与えられると思う。
犯人を特定するための作戦として、ポリグラフ検査が用いられていることを学んだ。しかし、装置を付け、事件についての内容を深堀することは、普段の状況と同じだと言えるだろうか。自分は今取り調べを受けているということ、犯人でなければ自分がさらに疑われないように発言を使用と意識しているだろうし、犯人だとしたらいかに自分が犯人だとバレないように振舞うか考えながら発言しているだろう。脈や呼吸を測定することで、目に見えない人の感情を仕入れられる一方、多少の緊張も含まれているとするならばポリグラフ検査を操作に利用することに疑問を持った。 警察の立場は犯人を捕まえることを目的としているため、取り逃がすことにリスクを感じる立場にあるように感じる。しかし弁護側や一般の人は、冤罪を嫌う立場にあるだろう。冤罪による人権的な面を守るための考え方をしていると考える(早く犯人を捕まえろという考えをする人もいるかもしれないが)。また、誰にでも起こる可能性があることも、一般の人が冤罪をリスクと考える立場にある理由にもなると考える。例えば目撃証言として出た特徴が自分に一致していたら? 自分は犯人じゃないのに冤罪になってしまうという不安が、取り逃がしより想像しやすいからかなと感じた。
病的犯罪者は不起訴、または無罪とするということに納得ができなかった。不起訴、無罪にするとまた同じことを繰り返して裁判にかけられても病的犯罪者だから無罪、不起訴になり、負の連鎖が生まれるのではないかと考えた。しかし、重大犯罪で無罪になった場合は、精神科に強制入院させられることが多い。このように無罪が決まった後のケアが徹底されているため病的犯罪者が無罪、不起訴になるのは妥当で、しっかりと病院で治療をする必要があると考えた。 犯人特定を目指すためにプロファイリングやポリフラフ検査を用いて犯人の範囲を狭めたり特性を絞っているということが分かった。ポリグラフ検査をするときは、汗や心拍数などを用いて結果を出す。緊張しがちな人は質問されたときに自分に関係ない質問でも汗をかいたりや心拍数が高くなったりして正確な結果を得られなかったり、サイコパスは感情が通常の人とは違うため汗や心拍数が上がらず誤った判断をしてしまうのではないかと考えた。嘘発見器の結果を信用しすぎず、様々な検査結果の参考にするのが良いのではないかと考えた。
以前、インターネットで嘘発見器のことを調べていたことがあったのだがその時から嘘発見器は本当に確かなものなのかなと感じた。その際には質問の仕方や方法を変えるにしても質問側の先入観によって犯人として認定することへ導くような聞き方をすれば信憑性はないからと感じていた。また、犯人である人がもし平然と応答することができる犯人ならばそれも信憑性はないと思っていた。その上で今回この講義を受けて、陰性反応では91%が一致したというのを見て犯人でない人が犯人としての疑いがかけられる要因の一つとして嘘発見器を今後も使用し続けていいのかと感じた。
今回の授業で出てきた、精神鑑定の例えの話を聞いて精神鑑定の正確性に疑問を抱いた。何故なら精神鑑定は事件当日の精神状態を明らかにするものであり、それは今入学当時の精神状態を明らかにしてくださいと言われているようなものだと聞いたため、そう言われるとかなり精神鑑定は怪しいものだと感じたからである。また、ポリグラフ検査という俗に言う嘘発見器の中核を成すのは質問であるということを初めて知った。しかし、ポリグラフも100%完璧とは言えない。「真犯人を陰性だと判定する」が8.1%(234人中19人)で、これは検察側からすれば取り逃すことになり、警察としても悔しい思いをする上、国民側からしても犯罪者が野放しになっていて夜も眠れない日々になる。また「無実のものを陽性と判定する」は0.4%(932人中4人)となっていて、これは検察側からすると冤罪にあたり、国民からの謝罪を求められることになる上、国民側からすれば警察への信頼が無くなることに繋がる。先生の話の中で足利事件の裁判官の1人が無罪だと考えていたのに他2人が有罪と考えていたために圧力により有罪にせざるを得ないという話があったが、このように組織の中では上下関係によってミスが発生することもある為、これをどの様に変えるかが課題だと思う。しかし、組織にはほぼ必ず上下関係があり、これを変えるには組織そのもののあり方を変える必要があるため、かなり難しく感じる。 最後に足利事件に関しての情報を共有しておきます https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/retrial/shien/ashikaga.html
コメント失礼します。 私も同様のことを考えました。客観性を持つためにAIを導入するのはどうなのか、と。AIが全知全能の神のような存在になることが出来れば導入を急いだ方が良いかもしれませんが、残念ながら現時点ではそうではない。しかも、誰がどの情報をインプットするかによってAIにも偏りが出てしまう。日本文化や日本語の情報を多く取り入れたAIは日本人に近く、アメリカの文化や英語の情報を多く取り入れたAIはアメリカ人に近くなる。そこには差別・偏見の歴史や死刑制度への意見なども含まれるかもしれない。(アメリカでは未だに黒人差別が話題にあがるように。)AIが中立的な判断を下せたとしても私たちが納得できない結果になったりもしかするとそれだけは許せない!という結果になることもあるかもしれない。人間社会においてAIの導入は難しいのかもしれないとも考えました。
犯人であるのに犯人でないという判断を下し、世に犯罪者を放ってしまうことは、国民の期待を背負う警察にとっては大問題かもしれないが、もしその犯人の再犯率が低かった場合問題ないのか。また逆のパターンである、犯人でないのに犯人であるという判断を下された人は「逮捕歴」というスティグマに苦しみ、もしかすると落ちぶれて本当に犯罪に手を染めてしまうかもしれない。そのような場合、それは問題にならないのか。 例えば再犯率が見える神の目のようなものを持つ人が居たとして、警察に逮捕された段階でそれを材料に判断を下せたとしてもその人のその後の環境や人間関係、受けた影響によって再犯率は変動するだろう。 人間がそれだけ流動的である分、臨床的プロファイリングのような勘頼りな一面を持つ捜査方法は向いていないのかもしれない。 一方で、犯人自身の問題・性格(例えばサイコパス。罪の意識が少ない、犯罪への興味関心が勝るなど。)が原因である可能性が高い場合は、エラーにより世に放つ方が危険だ。そのような犯人自身のタイプを分類するのには捜査に関わる人の勘というのは頼りになるだろう。 確かに、科学的根拠や客観性に基づく捜査方法は人間の勘よりも精度が高く思えるが、対人間であるからこそ感じられる違和感があったりするのではないかと思う。どのような捜査方法を用いたとしてもその結果を100%信頼する、または人間の勘を100%信頼するというのは寧ろエラーを引き起こしやすいのではないかと感じた。どちらも掛け合わせることで、対人間に対する情報を整理できるのではないかと考えた。
最後の句点を忘れていました。修正の仕方がわからないため、ここで報告します。
人間の様々な心理を学習したからと言って、取り逃しや冤罪を防ぐことはこの先も難しいと考える。プロファイリングやポリグラフ検査も犯人探しの手がかりに過ぎず、必ず犯人を突き止めるということはできないからだ。犯人は様々な計画を立てる。裏の裏まで考えて犯行しているとなると、2つの方法では突き止めることが難しい。 事件の犯人を取り逃すことなく突き止める方法は、全国中に防犯カメラを設置することあるいは人間にGPSを埋め込み常に位置情報を特定することができる機関を設けることだと考える。しかし、これらの方法ではプライバシーの侵害や個人情報保護の観点から良くないだろう。 今の日本では、性犯罪者の再犯率が特に高いと感じる。監視のようなシステムを実行しないと再犯・取り逃し・冤罪はなくならないのかもしれない
今回の講義で人間が人間を調べることの難しさを再認識した。ポリグラフ検査(嘘発見器)で余剰変数の作用によって嘘だと出た場合(神の視点によって)、人間側は質問への回答が嘘と判断されたのか、余剰変数によって嘘と判断されたのか見分けはつくのだろうか。また、精神鑑定の話でもあったが鑑定に客観性を持つために学生にやらせるなど、対人間にすることで無意識での行動に判断が左右される、されないということに振り回されているのではないかと思った。剰余変数の統制をしても確実に剰余変数に左右されないとは言い切れない。このような問題に現在の捜査や精神鑑定はどのように対応しているのだろうかと気になった。これからAIがもっと普及してくると思うが、ポリグラフ検査や精神鑑定で客観性を持つという考えから質問者をAIにしてみるという考えはないのだろうかと思った。
「尊属は尊敬すべき、敬愛すべきという倫理観」は悪いものではないと個人的には思います。あなたが挙げている事例は尊属殺人というカテゴリーの不合理さというより、情状酌量をどのように行なうべきかの議論になるように思えます。むしろ、人の命に差があるのかという議論が、尊属殺人というカテゴリーの適合性を問うことになるのではないでしょうか。 みずから問いを立て、解答を与えようとした姿勢は素晴らしいです。
8点差し上げます。
取調べの授業回でまた考えてみてくださいね。
3点差し上げます。
前の方と同様、罪は罪として、無実は無実として正義の行使をしないといけないのですね。心理学がそれに貢献することができれば素晴らしいです。
5点差し上げます。
ジョー・アレディが精神鑑定によって冤罪の疑惑を持たれたのであれば、精神鑑定は信用すべきということになりませんか。精神鑑定への疑問で始まっているのに、途中で捜査官の恣意の話に変わっているようです。
3点差し上げます。
精神鑑定が相当無理な課題を果たそうとしていることを知ってくれてよかったと思います。事件の概要を全く知らせないわけにはいかないでしょう。それも重要な鑑定資料です。注意すべきは、それは犯人が行ったことではあるが、被鑑定者が犯人とは限らないという点です。「被鑑定者がやった」ではなく、「こういうことをする人はこんな特徴を持つ人の可能性は高い。被鑑定者にその傾向はあるか」という観点で鑑定は行なわれるべきでしょう。
6点差し上げます。
法学的には興味深い議論です。
3点差し上げます。
当時の捜査手法は必ずしも科学的と言えない、捜査官の勘に依拠する部分が多かったと思います。どういう勘の部分をどういう手法に置き換えたらよかったでしょうね。この事件では、取調べの問題が指摘されています。ここは明確に心理学の出番です。そして実際に心理学からの批判と改善方法が提示されています。のちの授業で触れる予定です。
4点差し上げます。
精神鑑定の信頼性や妥当性が不確かなのは授業で述べた通りです。それは何から発するのでしょう。それを考えると心理学的考察になるのではないかと思います。あなたの考察は法学としては興味深いですが、一応裁判「心理学」なので。
3点差し上げます。
完全ではない特定の捜査手法の結果にこだわりすぎて、他の手法から得られた結果を軽視するという危険はありますね。
4点差し上げます。
もともと刑法は被害者感情を満たす応報の機能は持っていないはずです。法学では諸説ありますが。39条の問題は加害者側にも及ぶということは、資料に書きました。読んでくれたようで嬉しいです。いずれも法学的問題として興味深いですね。
3点差し上げます。
一つ前の人と同じ発想ですね。完璧がない以上、これが次善策でしょうね。
4点差し上げます。
万全な方法はないので、いくつかの手法を組み合わせ、測定の確実性を上げていく方法は、テストバッテリーと同じ発想ですね。
39条は責任能力の問題で、障害者に直結する訳ではありません。ある種の精神病とは結びつきやすいですが。責任能力が問われるのは、この能力がない者に罰を与えても罰と感じないので意味がないという発想があるのではと思います。被害者感情からすると裁いてほしいところですが、刑法というのは被害者からの応報としてではなく、世の中を乱したことに対する罰則だと聞いたことがあります。このへんは法学の領分ですね。
5点差し上げます。
取調べという特殊情報の効果は、検査時全体に影響しているので、犯人の場合さらに採決質問の効果が上乗せされるだけでは? 実験法の論理からしてどこかおかしい点はありますか。
二つの立場についてはその通り。そして心理学の観点からは何を言えばいいでしょう。
4点差上げます。
病的犯罪者は不起訴とか無罪というのは正確な解釈ではありません。責任能力がない者(心神喪失者)は無罪、が正しい取り方です。病的犯罪者だから無罪なのではなく、その人に責任能力を問えない場合に無罪になるのです。これは心理学というより行政的関心ですね。
サイコパスの人に対するポリグラフ使用の注意みないな研究が見つかると面白いですね。
4点差し上げます。
質問者の先入観が入る懸念があるから使わないのではなく、先入観が入らないように二重盲検法を採用するようにすればいいのです。疑問を持つことは大切です。あわせて、その疑問に対する解答がすでにあるのかを確認することも大切です。偽陽性、偽陰性はどんな測定をしてもあり得ます。100%、0%というのは実現できないので、どうすれば完全に近づけられるかを見出して、どの程度で手を打つべきかを意思決定するというのが、現実世界を生きる我々の選択ではないかと。人間には限界がありますね。
4点差し上げます。
精神鑑定の正しい捉え方は重要ですね。どんな手法にせよ、それがどういうものであるかを知って、盲信しないことが大切です。100%完璧ということは、人間が人間を評価する以上達成不可能ですが、せざるを得ない作業ですから、できるだけ問題を少なくする努力が必要です。これは裁判以外でもそうです。人間の支援という分野においても。
「裁判官の1人が無罪だと考えていた」のは袴田事件ですよ。組織のあり方が影響することは間違いないですが、これを心理学的に考察するには組織心理学みたいなのを勉強するといいかもしれないです。
足利事件の情報提供、ありがとうございます。みなさんが参照することができて、助かると思います。
6点差し上げます。
エラーに関して考慮すべきは、再犯率ではなくむしろ重大性ではないかと思います。「殺人は今回だけ」といって野に放たれても困ります。逮捕がスティグマになるのは、日本の警察が慎重だからで、英国のように51%黒なら逮捕とすればそういうことはなくなるかもしれない。どちらが日本人に合っているのだろう。
プロファイリングは捜査手法だというのは、それによってある人が犯人かどうかを評価するわけではないということです。「勘頼り」を懸念するなら、捜査手法として精度が高いかという点についてすべきです。犯人識別の方法は、他の証拠に基づいて、裁判で決めることですから。
捜査手法は人間が実施する限り、人間の「勘」が入ります。データ自体は客観的でも、それをどう捉えるかは人間の勘です。あるテストの「80点」という結果は客観的ですが、「80点だからどうなのか」とか「他のデータとの関連をどう評価すべきか」という部分は勘頼りになると思います。
5点差し上げます。
犯罪防止の施策の話なので行政にまかせることかと。心理学からはどういう提言ができると思いますか。性犯罪者の再犯率が高いことはよく知られています。これに対して監視のような措置を考えることはやはり政策の問題で、心理学からどういう提言が可能かを考えないと、裁判「心理学」になりません。
3点差し上げます。
AIの導入によって、何について客観性を保障しようとするのかを明確にして議論すべきです。測定ですか、結果の評価ですか? AI導入にあたって議論すべき様々な問題があるという意見には賛成です。他の受講生の方へのコメント、ありがとうございます。学びあいましょう。
6点差上げます。
なお今後、他の投稿へのコメントを投稿する場合は「>>投稿番号」という機能を使ってみてください。今回だと、>> 31とするということですね。
F22062さんへ
剰余変数をどう統制するかは、「心理学硏究法」で習ったと思います。ゼロにすることができれば理想ですが、できない場合はランダマイゼーション、カウンターバランスといった方法があります。「剰余変数が存在するから使用しない方がいい」と言うと、捜査側が困ります。捜査側の視点にも立って、まずこれらの可能性を考えるべきでしょう。
剰余変数は実験法の概念なので、精神鑑定に当てはめるのはどうかな。面接や検査を通して、標的である変数を測定できるかが精神分析の肝だと思いますが、これは測定の妥当性の問題かと思います。
質問者をAIにすることで、どういう利得があるのですか。ポリグラフ検査や精神鑑定における何の客観性なのでしょう。AIの利用は、ポリグラフ検査結果の評価で利用可能だと思います。
「余剰変数」→「剰余変数」ですね。
6点差し上げます。
今回の投稿は締め切りました。まだ次回、よろしくお願いします。
以前から刑法第39条について時折考えては、自分の中の意見がまとまりませんでした。現時点でも、自分の言葉に責任をもって刑法第39条が適切なのかを述べることはできません。何故ならば、警察が犯人を特定するにおいて立場によって深刻度が変化するように、刑法第39条を突き付けられた被害者と、大変未熟ながらも心理を学ぶ者として加害者の背景を見つめなおしたいと思う私では、立場が大きく違いすぎます。これからも考え続けますが、答えがでるとは到底思えません。
精神鑑定の正確性に疑問を持った。
講義内で話された足利事件や宮崎勤事件は、その調書の正確性が疑われるべきである。
また、精神鑑定が正確に行われていたとしても、警察側の恣意によってその正確性が失われるものであると考える。
例えば、「世界一幸せな死刑囚」と呼ばれたジョー・アレディであるが、彼は冤罪であった。
彼は知能指数が50以下であることや、犯行に及ぶような精神状況では無いと判断されていた。しかし、警察は彼を犯人に仕立てあげ、結果的に死刑となった。
当時精神科医が鑑定をし、冤罪であることは明らかであったのに、誤った自白により罪を被っている。
警察は「犯人を取り逃がさない」ということを重きにおいていることで、精神鑑定や知能検査などを自分の主張のためにねじまげてしまっているのではないだろうか。
鑑定をする側の問題ももちろんあるだろうが、このような事例があると、精神鑑定を正しく活用できているかにも疑問が生じてしまう。
以上のことから、精神鑑定そのものだけでなく、活用についても疑問を持った。
https://karapaia.com/archives/52271654.html
本講義では精神鑑定の不安定さに信頼をおいてもよいのか疑問を感じた。足利事件の精神鑑定での精神鑑定はアートという言葉やその人のパーソナリティに関する名前や特徴のつけ方は正しいとは言えないと考えた。また、事件が起こった当時の精神鑑定を精密にすることは記憶の忘却などが関わるため、不可能だと感じる。裁判で精神鑑定を行うならば、被疑者のパーソナリティや責任能力の有無を事件の概要を知らない精神科医が行うべきだと考えた。なぜなら、精神鑑定を行う精神科医が事件の概要を知ってしまうと、先入観や主観が精神鑑定に大きく影響すると考えられるからだ。さらに、講義中に先生もおっしゃっていたが、責任を持てる情報を提供することが精神鑑定では求められていると考えるため、その当時の精神鑑定や精神科医が事件の概要を知り、精神鑑定を行うことなど、不明瞭な情報を裁判で提示するのは避けたほうが良いと感じた。また、そのほうが冤罪や誤った判決が起こりにくいと考えた。
刑法第39条において否定的な意見も多いと思うが、実際に心神喪失者は無罪、心神耗弱者は減刑というのに良し悪しを明確にするのは容易なことではないと考えた。心神喪失ゆえに罪が裁かれないとなると、遺族や被害にあった本人が報われないが、逆にやむを得ない状況で罪を犯してしまった事例もゼロではない。最終的には人情で決まる部分もなくはないだろう。ただ公正じゃなきゃいけない法律で時と場合によってしまう点が否定てきな意見を生み出していると考えた。多くは過去の判例によって左右されることがあるため、どんな判決も揺るぎない確信があるものでないといけない。
今回の授業でも少し取り上げられていた「袴田事件」について。私はこの事件の名前を聞いたことはありました。さらに袴田さんが冤罪の可能性があるのに死刑宣告を告げられ長期に渡り収監されていたということも知っていました。しかし、事件の内容や、なぜ冤罪なのにも関わらず間違った判決が下ったのかという経緯を知りませんでした。そこで調べました。
警察は事件当初から袴田さんがプロボクサーであり、味噌工場の従業員であったことから犯人であると決めつけて捜査を行っていたと書かれてありました。さらに取り調べの環境も劣悪で証拠となる血のついた衣服の鑑定も疑わしい箇所がいくつもあったそうです。
警察や検察は犯人を逮捕したいという思いが第一にありますが、この事件では「袴田さんを犯人にする」といったムーブが第一にあったのではないかと考えます。
このように無実の人が、本来正しい判断をくださなければならない検察や警察によって不本意な状況下におかれることはあってはならないと私は考えます。なぜならば、袴田さんは今回の事件で、42年間も収監され自由を奪われてきました。さらに、精神が蝕まれ意思疎通が困難な状況が続いてます。これは人1人の人生を奪ったと言っても過言ではないと考えるからです。
今回の事件では初めから断定的な捜査ではなく、プロファイリングなどを用いて徐々に犯人像を絞っていく捜査を行っていれば、未来は変わったのかなと考えます。
今回の講義を受けて精神鑑定の信頼性に疑問を感じた。なぜなら精神鑑定は必ずしも統一された基準や手法に基づいているわけではなく、複数の鑑定結果が異なる場合や、鑑定者の主観が結果に影響を与えることもあるため公平性がないように感じる。鑑定医によって結果も異なることから私は精神鑑定の信頼性に疑問を感じた。精神鑑定の信頼性が高ければ、私は刑法第39条を改正しなくてもいいと思う。理由としては、運転中に脳梗塞になって人を轢いてしまったり、重度の精神障害によって幻覚幻聴で錯乱状態になって周囲に暴力を振ってしまったり、事件が起こることを避けれない事例もある。避けようがないことに対して故意的に犯罪を起こした人たちと同じ罪を背負わせるのは公平的ではないし、誰もがその可能性を持っている。だが、公平性を重視すると事件の被害者側は、罰を受けさせることもできないので公平とは言えないだろう。この刑法第39条から法律は完ぺきに作ることはできないと実感した。
臨床的プロファイリングは検察や警察の直感を使ってタイプを測定するというものであるが、いささか信頼性に欠けるものである。捜査によって犯人の目星をつけられない場合の仮定として定めることである程度の指標として捜査が進むだろう。しかし、犯人の特徴を仮定してしまった場合に過度にその特徴を意識してしまい、他の手掛かりに着目できなくなってしまったり、熱意のありすぎる捜査官が過度に誤認逮捕をしてしまう危険性もあるだろう。これにより冤罪となってしまった場合には、唐突に取り調べを行うことになり、精神的な負荷がかなり大きくなり存在しない自白を行ってしまう可能性も上がると考えられる。プロファイリングは一つの指標とすることはいいと思うが、それがすべてにならないように操作を進める意識が必要であると感じた。
刑法第39条「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その罪を軽減する。」日本はこの法律に沿って罪を捌いてきたが、心神喪失者や心神耗弱者であるからと加害者側に情けをかけるのは被害者やその遺族が報われないと感じていた。起こった事実を変えることはできず、傷ついた心や人は戻ってこない。私はこの法律を以前までは被害者側に有益ではないと思い、否定的であった。しかし、加害者側にとっても有益ではないことに気づいた。精神鑑定により不起訴になった場合、刑罰はつかないが、事件を起こした危険人物というレッテルは一生剥がれない。さらに真っ当に罪を償わなかったとして被害者側から一生恨まれる。これは障害者の人権を守るための法律が障害者の誇りを奪っている。このことを認識して初めて私はこの法律の問題点に向き合えたと感じた。
刑事事件における捜査活動は人間が行っている以上、その人の先入観やイメージなどによってバイアスがかかり正しくない答えを出してしまう可能性は大いにありうる。だからこそ客観性を持った方法の一つであるポリグラフを用いた捜査が信頼されるべき手法であるのは当然だろう。しかし、そのポリグラフも100%正確な答えの出る方法では未だ無い。そうなると現場の人間の直感も一つの手がかりとして認め、その一切を排斥すべきでないように思う。当たり前だが本来経験論や主観に基づいた推測は公平性にかけたやり方のため推奨されたものではないかもしれない。それでも私は、この世に必ず正しい犯人を見つけられる方法がない以上は取れる限りのあらゆる方法に手を付けることは必要な姿勢なのではないかと考えた。
ポリグラフ検査は高い正判定率が確認されているが、ある質問内容を知っている人を正しく知っていると推定できるのは86%、ある質問内容を知らない人を正しく知らないと推定できるのは95%と、高くはあるが確実ではないというところが重要だと思う。ポリグラフ検査で事件のことを知っている可能性が高いと推定できても、その結果は確実ではないため、より確実な証拠集め、被疑者の聴取など、検査結果だけに頼らない、被疑者が犯人である証拠を見つけ出すことが必要だ。
私は、障害者への差別を解消するためにも刑法39条を改正した方が良いと思う。主観的な話だが、私が障害者を怖いと思うのは何をするかわからない、何をされるかもわからないから怖いという理由だ。精神障害者で心神耗弱、心神喪失だから罪を軽くされるか無罪になり、私がされたことの罪を償わせることもできないとやるせない気持ちになる。罪を犯したという意識がなかったとしても、被害者の心のために罰を他の事例と同様に与えるべきだと思う。それによって、何かされても罪と認められるという安心感が与えられると思う。
犯人を特定するための作戦として、ポリグラフ検査が用いられていることを学んだ。しかし、装置を付け、事件についての内容を深堀することは、普段の状況と同じだと言えるだろうか。自分は今取り調べを受けているということ、犯人でなければ自分がさらに疑われないように発言を使用と意識しているだろうし、犯人だとしたらいかに自分が犯人だとバレないように振舞うか考えながら発言しているだろう。脈や呼吸を測定することで、目に見えない人の感情を仕入れられる一方、多少の緊張も含まれているとするならばポリグラフ検査を操作に利用することに疑問を持った。
警察の立場は犯人を捕まえることを目的としているため、取り逃がすことにリスクを感じる立場にあるように感じる。しかし弁護側や一般の人は、冤罪を嫌う立場にあるだろう。冤罪による人権的な面を守るための考え方をしていると考える(早く犯人を捕まえろという考えをする人もいるかもしれないが)。また、誰にでも起こる可能性があることも、一般の人が冤罪をリスクと考える立場にある理由にもなると考える。例えば目撃証言として出た特徴が自分に一致していたら? 自分は犯人じゃないのに冤罪になってしまうという不安が、取り逃がしより想像しやすいからかなと感じた。
病的犯罪者は不起訴、または無罪とするということに納得ができなかった。不起訴、無罪にするとまた同じことを繰り返して裁判にかけられても病的犯罪者だから無罪、不起訴になり、負の連鎖が生まれるのではないかと考えた。しかし、重大犯罪で無罪になった場合は、精神科に強制入院させられることが多い。このように無罪が決まった後のケアが徹底されているため病的犯罪者が無罪、不起訴になるのは妥当で、しっかりと病院で治療をする必要があると考えた。
犯人特定を目指すためにプロファイリングやポリフラフ検査を用いて犯人の範囲を狭めたり特性を絞っているということが分かった。ポリグラフ検査をするときは、汗や心拍数などを用いて結果を出す。緊張しがちな人は質問されたときに自分に関係ない質問でも汗をかいたりや心拍数が高くなったりして正確な結果を得られなかったり、サイコパスは感情が通常の人とは違うため汗や心拍数が上がらず誤った判断をしてしまうのではないかと考えた。嘘発見器の結果を信用しすぎず、様々な検査結果の参考にするのが良いのではないかと考えた。
以前、インターネットで嘘発見器のことを調べていたことがあったのだがその時から嘘発見器は本当に確かなものなのかなと感じた。その際には質問の仕方や方法を変えるにしても質問側の先入観によって犯人として認定することへ導くような聞き方をすれば信憑性はないからと感じていた。また、犯人である人がもし平然と応答することができる犯人ならばそれも信憑性はないと思っていた。その上で今回この講義を受けて、陰性反応では91%が一致したというのを見て犯人でない人が犯人としての疑いがかけられる要因の一つとして嘘発見器を今後も使用し続けていいのかと感じた。
今回の授業で出てきた、精神鑑定の例えの話を聞いて精神鑑定の正確性に疑問を抱いた。何故なら精神鑑定は事件当日の精神状態を明らかにするものであり、それは今入学当時の精神状態を明らかにしてくださいと言われているようなものだと聞いたため、そう言われるとかなり精神鑑定は怪しいものだと感じたからである。また、ポリグラフ検査という俗に言う嘘発見器の中核を成すのは質問であるということを初めて知った。しかし、ポリグラフも100%完璧とは言えない。「真犯人を陰性だと判定する」が8.1%(234人中19人)で、これは検察側からすれば取り逃すことになり、警察としても悔しい思いをする上、国民側からしても犯罪者が野放しになっていて夜も眠れない日々になる。また「無実のものを陽性と判定する」は0.4%(932人中4人)となっていて、これは検察側からすると冤罪にあたり、国民からの謝罪を求められることになる上、国民側からすれば警察への信頼が無くなることに繋がる。先生の話の中で足利事件の裁判官の1人が無罪だと考えていたのに他2人が有罪と考えていたために圧力により有罪にせざるを得ないという話があったが、このように組織の中では上下関係によってミスが発生することもある為、これをどの様に変えるかが課題だと思う。しかし、組織にはほぼ必ず上下関係があり、これを変えるには組織そのもののあり方を変える必要があるため、かなり難しく感じる。
最後に足利事件に関しての情報を共有しておきます
https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/retrial/shien/ashikaga.html
コメント失礼します。
私も同様のことを考えました。客観性を持つためにAIを導入するのはどうなのか、と。AIが全知全能の神のような存在になることが出来れば導入を急いだ方が良いかもしれませんが、残念ながら現時点ではそうではない。しかも、誰がどの情報をインプットするかによってAIにも偏りが出てしまう。日本文化や日本語の情報を多く取り入れたAIは日本人に近く、アメリカの文化や英語の情報を多く取り入れたAIはアメリカ人に近くなる。そこには差別・偏見の歴史や死刑制度への意見なども含まれるかもしれない。(アメリカでは未だに黒人差別が話題にあがるように。)AIが中立的な判断を下せたとしても私たちが納得できない結果になったりもしかするとそれだけは許せない!という結果になることもあるかもしれない。人間社会においてAIの導入は難しいのかもしれないとも考えました。
犯人であるのに犯人でないという判断を下し、世に犯罪者を放ってしまうことは、国民の期待を背負う警察にとっては大問題かもしれないが、もしその犯人の再犯率が低かった場合問題ないのか。また逆のパターンである、犯人でないのに犯人であるという判断を下された人は「逮捕歴」というスティグマに苦しみ、もしかすると落ちぶれて本当に犯罪に手を染めてしまうかもしれない。そのような場合、それは問題にならないのか。
例えば再犯率が見える神の目のようなものを持つ人が居たとして、警察に逮捕された段階でそれを材料に判断を下せたとしてもその人のその後の環境や人間関係、受けた影響によって再犯率は変動するだろう。
人間がそれだけ流動的である分、臨床的プロファイリングのような勘頼りな一面を持つ捜査方法は向いていないのかもしれない。
一方で、犯人自身の問題・性格(例えばサイコパス。罪の意識が少ない、犯罪への興味関心が勝るなど。)が原因である可能性が高い場合は、エラーにより世に放つ方が危険だ。そのような犯人自身のタイプを分類するのには捜査に関わる人の勘というのは頼りになるだろう。
確かに、科学的根拠や客観性に基づく捜査方法は人間の勘よりも精度が高く思えるが、対人間であるからこそ感じられる違和感があったりするのではないかと思う。どのような捜査方法を用いたとしてもその結果を100%信頼する、または人間の勘を100%信頼するというのは寧ろエラーを引き起こしやすいのではないかと感じた。どちらも掛け合わせることで、対人間に対する情報を整理できるのではないかと考えた。
最後の句点を忘れていました。修正の仕方がわからないため、ここで報告します。
人間の様々な心理を学習したからと言って、取り逃しや冤罪を防ぐことはこの先も難しいと考える。プロファイリングやポリグラフ検査も犯人探しの手がかりに過ぎず、必ず犯人を突き止めるということはできないからだ。犯人は様々な計画を立てる。裏の裏まで考えて犯行しているとなると、2つの方法では突き止めることが難しい。
事件の犯人を取り逃すことなく突き止める方法は、全国中に防犯カメラを設置することあるいは人間にGPSを埋め込み常に位置情報を特定することができる機関を設けることだと考える。しかし、これらの方法ではプライバシーの侵害や個人情報保護の観点から良くないだろう。
今の日本では、性犯罪者の再犯率が特に高いと感じる。監視のようなシステムを実行しないと再犯・取り逃し・冤罪はなくならないのかもしれない
今回の講義で人間が人間を調べることの難しさを再認識した。ポリグラフ検査(嘘発見器)で余剰変数の作用によって嘘だと出た場合(神の視点によって)、人間側は質問への回答が嘘と判断されたのか、余剰変数によって嘘と判断されたのか見分けはつくのだろうか。また、精神鑑定の話でもあったが鑑定に客観性を持つために学生にやらせるなど、対人間にすることで無意識での行動に判断が左右される、されないということに振り回されているのではないかと思った。剰余変数の統制をしても確実に剰余変数に左右されないとは言い切れない。このような問題に現在の捜査や精神鑑定はどのように対応しているのだろうかと気になった。これからAIがもっと普及してくると思うが、ポリグラフ検査や精神鑑定で客観性を持つという考えから質問者をAIにしてみるという考えはないのだろうかと思った。
「尊属は尊敬すべき、敬愛すべきという倫理観」は悪いものではないと個人的には思います。あなたが挙げている事例は尊属殺人というカテゴリーの不合理さというより、情状酌量をどのように行なうべきかの議論になるように思えます。むしろ、人の命に差があるのかという議論が、尊属殺人というカテゴリーの適合性を問うことになるのではないでしょうか。
みずから問いを立て、解答を与えようとした姿勢は素晴らしいです。
8点差し上げます。
取調べの授業回でまた考えてみてくださいね。
3点差し上げます。
前の方と同様、罪は罪として、無実は無実として正義の行使をしないといけないのですね。心理学がそれに貢献することができれば素晴らしいです。
5点差し上げます。