以前、インターネットで嘘発見器のことを調べていたことがあったのだがその時から嘘発見器は本当に確かなものなのかなと感じた。その際には質問の仕方や方法を変えるにしても質問側の先入観によって犯人として認定することへ導くような聞き方をすれば信憑性はないからと感じていた。また、犯人である人がもし平然と応答することができる犯人ならばそれも信憑性はないと思っていた。その上で今回この講義を受けて、陰性反応では91%が一致したというのを見て犯人でない人が犯人としての疑いがかけられる要因の一つとして嘘発見器を今後も使用し続けていいのかと感じた。
今回の授業で出てきた、精神鑑定の例えの話を聞いて精神鑑定の正確性に疑問を抱いた。何故なら精神鑑定は事件当日の精神状態を明らかにするものであり、それは今入学当時の精神状態を明らかにしてくださいと言われているようなものだと聞いたため、そう言われるとかなり精神鑑定は怪しいものだと感じたからである。また、ポリグラフ検査という俗に言う嘘発見器の中核を成すのは質問であるということを初めて知った。しかし、ポリグラフも100%完璧とは言えない。「真犯人を陰性だと判定する」が8.1%(234人中19人)で、これは検察側からすれば取り逃すことになり、警察としても悔しい思いをする上、国民側からしても犯罪者が野放しになっていて夜も眠れない日々になる。また「無実のものを陽性と判定する」は0.4%(932人中4人)となっていて、これは検察側からすると冤罪にあたり、国民からの謝罪を求められることになる上、国民側からすれば警察への信頼が無くなることに繋がる。先生の話の中で足利事件の裁判官の1人が無罪だと考えていたのに他2人が有罪と考えていたために圧力により有罪にせざるを得ないという話があったが、このように組織の中では上下関係によってミスが発生することもある為、これをどの様に変えるかが課題だと思う。しかし、組織にはほぼ必ず上下関係があり、これを変えるには組織そのもののあり方を変える必要があるため、かなり難しく感じる。 最後に足利事件に関しての情報を共有しておきます https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/retrial/shien/ashikaga.html
コメント失礼します。 私も同様のことを考えました。客観性を持つためにAIを導入するのはどうなのか、と。AIが全知全能の神のような存在になることが出来れば導入を急いだ方が良いかもしれませんが、残念ながら現時点ではそうではない。しかも、誰がどの情報をインプットするかによってAIにも偏りが出てしまう。日本文化や日本語の情報を多く取り入れたAIは日本人に近く、アメリカの文化や英語の情報を多く取り入れたAIはアメリカ人に近くなる。そこには差別・偏見の歴史や死刑制度への意見なども含まれるかもしれない。(アメリカでは未だに黒人差別が話題にあがるように。)AIが中立的な判断を下せたとしても私たちが納得できない結果になったりもしかするとそれだけは許せない!という結果になることもあるかもしれない。人間社会においてAIの導入は難しいのかもしれないとも考えました。
犯人であるのに犯人でないという判断を下し、世に犯罪者を放ってしまうことは、国民の期待を背負う警察にとっては大問題かもしれないが、もしその犯人の再犯率が低かった場合問題ないのか。また逆のパターンである、犯人でないのに犯人であるという判断を下された人は「逮捕歴」というスティグマに苦しみ、もしかすると落ちぶれて本当に犯罪に手を染めてしまうかもしれない。そのような場合、それは問題にならないのか。 例えば再犯率が見える神の目のようなものを持つ人が居たとして、警察に逮捕された段階でそれを材料に判断を下せたとしてもその人のその後の環境や人間関係、受けた影響によって再犯率は変動するだろう。 人間がそれだけ流動的である分、臨床的プロファイリングのような勘頼りな一面を持つ捜査方法は向いていないのかもしれない。 一方で、犯人自身の問題・性格(例えばサイコパス。罪の意識が少ない、犯罪への興味関心が勝るなど。)が原因である可能性が高い場合は、エラーにより世に放つ方が危険だ。そのような犯人自身のタイプを分類するのには捜査に関わる人の勘というのは頼りになるだろう。 確かに、科学的根拠や客観性に基づく捜査方法は人間の勘よりも精度が高く思えるが、対人間であるからこそ感じられる違和感があったりするのではないかと思う。どのような捜査方法を用いたとしてもその結果を100%信頼する、または人間の勘を100%信頼するというのは寧ろエラーを引き起こしやすいのではないかと感じた。どちらも掛け合わせることで、対人間に対する情報を整理できるのではないかと考えた。
最後の句点を忘れていました。修正の仕方がわからないため、ここで報告します。
人間の様々な心理を学習したからと言って、取り逃しや冤罪を防ぐことはこの先も難しいと考える。プロファイリングやポリグラフ検査も犯人探しの手がかりに過ぎず、必ず犯人を突き止めるということはできないからだ。犯人は様々な計画を立てる。裏の裏まで考えて犯行しているとなると、2つの方法では突き止めることが難しい。 事件の犯人を取り逃すことなく突き止める方法は、全国中に防犯カメラを設置することあるいは人間にGPSを埋め込み常に位置情報を特定することができる機関を設けることだと考える。しかし、これらの方法ではプライバシーの侵害や個人情報保護の観点から良くないだろう。 今の日本では、性犯罪者の再犯率が特に高いと感じる。監視のようなシステムを実行しないと再犯・取り逃し・冤罪はなくならないのかもしれない
今回の講義で人間が人間を調べることの難しさを再認識した。ポリグラフ検査(嘘発見器)で余剰変数の作用によって嘘だと出た場合(神の視点によって)、人間側は質問への回答が嘘と判断されたのか、余剰変数によって嘘と判断されたのか見分けはつくのだろうか。また、精神鑑定の話でもあったが鑑定に客観性を持つために学生にやらせるなど、対人間にすることで無意識での行動に判断が左右される、されないということに振り回されているのではないかと思った。剰余変数の統制をしても確実に剰余変数に左右されないとは言い切れない。このような問題に現在の捜査や精神鑑定はどのように対応しているのだろうかと気になった。これからAIがもっと普及してくると思うが、ポリグラフ検査や精神鑑定で客観性を持つという考えから質問者をAIにしてみるという考えはないのだろうかと思った。
「尊属は尊敬すべき、敬愛すべきという倫理観」は悪いものではないと個人的には思います。あなたが挙げている事例は尊属殺人というカテゴリーの不合理さというより、情状酌量をどのように行なうべきかの議論になるように思えます。むしろ、人の命に差があるのかという議論が、尊属殺人というカテゴリーの適合性を問うことになるのではないでしょうか。 みずから問いを立て、解答を与えようとした姿勢は素晴らしいです。
8点差し上げます。
取調べの授業回でまた考えてみてくださいね。
3点差し上げます。
前の方と同様、罪は罪として、無実は無実として正義の行使をしないといけないのですね。心理学がそれに貢献することができれば素晴らしいです。
5点差し上げます。
一方で、犯罪者に適切な刑罰を与えるという正義権の行使もまた、我々国民が望むことです。だから証言は聞き取らないといけない。相反する利益をバランスをとってうまくやることこそ理想ですね。
法改正がなされた一例が、刑法41条(だったかな?)です。聾唖者の扱いではなかったかな。心理学によって現実の人間を明瞭にし、適切な法制度を整備することは大切ですね。
冤罪であるという前提で議論を進めると、解答は割と簡単です。冤罪がいけないことは当たり前だから。難しいのは、推定無罪の原則を貫けるかです。完全に自分が被害者だと思っていたら、犯人をすぐにでも罰したいと思いますよね。しかし裁判を待つ必要があります。それまでは犯人と思われている人でも、犯人として扱ってはいけません。法を遵守するから治安は保たれますが、人の感情をある程度抑制する必要があることが事態を難しくしているのではないでしょうか。
6点差し上げます。
法や制度が心理学的な妥当でない場合、治安は保たれないですよね。たとえば「人相が悪い」ということで有罪にされてはたまりません。 自分に不利な証言を人はしたがりませんので、ある程度圧をかけないといけません。その圧のかけ方が問題なのです。どういう圧をかけたらいいでしょうか。取調べの時にまた考えたいと思います。
この話は取調べや面接法を扱う授業回の時に、また思い出してみてください。そしてあらためて論じてみてほしいですね。
検察、警察が心理学の知識を持っていたら、葛藤を起こすかもしれないですね。自白が必要だけど誘導質問はダメだよなぁとか。組織として取り組むようにしないといけないので、司法修習やその前の法学部、法科大学院なんかで心理学を必修にしないと。
同じ陣営の証人として証言する場合、法廷証言には「打ち合わせ」があるので、緊張しても質問する検察官や弁護人が誘導してくれます。 法廷証言は本来、記憶に基づいて話されるべきなので、記憶を歪めない、捏造しない発問方法が望ましいといえばそうです。しかし事件発生から何か月も経過した時点で記憶を確認するという事態がそもそも望ましくありません。
制約がなく自由だと、逆に何してよいかわからないです。制約と自由の関係はそう単純ではありません。たとえば言語に私たちは縛られますが、言語があるから思考もできるという見方もあります。 知覚と記憶の研究は、自白や証言という裁判の中で最重要の情報に関係するので、とても大切ですね。
4点差し上げます。
責任能力について。運転中にブラックアウトして人を跳ねたのも有罪でいいですか? 刑事で責任を問えなかった場合でも、民事で損害賠償の形で罪を償ってもらうという主張をした人がいました。
この話題は司法面接のところでやりますので、またそのときよく考えてみてください。また、責任問題については、情状鑑定のところで触れると思います。この論文もそのときの話題と関連づけて紹介してくれてもいいと思います。よく調べてくれました。
罪を法だけで判断するから法治国家なのだと思います。それ以外を入れると人治国家になってしまう。被害者感情とか、情状のことを言われているのかと思いましたが、具体的に書いてくれると助かります。
今回の投稿は締め切りました。まだ次回、よろしくお願いします。
「法が想定している人間と現実の人間がずれていることがある」という文が、朝ドラ「虎に翼」を視聴していた際に題材となった尊属殺人罪と合致し、深く納得することができた。昭和48年以前は、尊属殺人罪は通常の殺人罪より罪が重く、死刑または無期懲役であった。理由として、尊属は尊敬すべき、敬愛すべきという倫理観は社会生活を営む上で基本的なこととされていたためである。しかしその後、尊属殺人罪の存在そのものを議論する事件が起こった。女性が実父から性的暴行を受け、10年以上夫婦同然の生活を強いられたあげく、実父との子どもを5人も出産し、正常な結婚も許されない環境に耐えかねた女性は、実父を殺害したという内容だった。従来にならうのであれば、尊属殺人罪にあたるのであろう。しかし、このような事件を起こした女性の環境を含めて尊属殺人罪と、法が想定していたとは到底考えられない。結果的に、尊属殺人は憲法14条違反となり、無効になった。これはまさに「法が想定している人間と現実の人間がずれていた」と考えられる。今後の社会的環境を見守る中、法の制約が人間にとっていい制約なのかを疑い続け、ずれを正すことが必須である。
冤罪事件で誘導、暗示する質問の仕方で証言が得られていたならば、精神的に追い詰められて無実なのに罪を認めてしまうという人もいるだろうと感じた。 公正な判断をするために、慎重な質問をすることで正確な証言を得る必要がある。
被疑者の拘束が最大23日間であることに驚いた。冤罪だった場合、23日間も拘束され、取り調べを受けなくてはいけないと考えると人権は保障されているといえるか疑問を感じた。また、冤罪の場合の賠償は被疑者補償規定と刑事補償法では拘束された日数×1,000~12500円と定められている。冤罪を受けた人の暮らしや、名誉を考えるとこの賠償の安さには疑問を覚えた。さらに、取り調べ室での出来事が不透明なことは、質問の仕方によって誤った証言が出てしまったり、圧迫感などの恐怖から誤った自白をしていしまう可能性を上げてしまうのではないかと思った。 法が想定してる人間と現実の人間にはずれがあることを知った。記憶の保持に関することや人間を識別できる距離などを明らかにすることで冤罪を減らすことができると感じた。また、記憶や人間を識別する距離などの環境を整えた実験と突然起きた現場を似せるようにすることが重要であると知った。心理研究が現場を知り、現場に近づけ、現場で使える結果を出すことが求められると知り、心理研究は今後も現場や人間によって変化し続けなければいけないと考えた。
他の講義でも質問の仕方の重要性を扱ったが、今回の講義でそれを再確認した。 刑事ドラマでは「その日どこにいて、その時間は何をしていたか」とよく質問しているが、人間の記憶は不確かなもので、もし私が聞かれても上手く答えられるとは思えない。講義でも扱ったように、何日も前に見た人の顔など更に曖昧で、覚えていることは困難に近いと思う。ただ、それを見たことにしてしまうのが人間の記憶と不適切な質問の仕方であり、人間の記憶を歪めないために、そして冤罪を発生させないために、質問をする際には慎重になる必要があると思った。
法は社会的環境の中で、人を制限する役割を持つ。人が形にした法律は成文法と呼ばれ、裁判等で用いられる。しかし、この成文法の想定する人間は、しばしば現実の人間と乖離する場合がある。このようなことが起きるのは、社会的環境が流動的であることに関係している。 人の考え方や無意識下での行動には、成文法だけでなくモラルや倫理などが影響している。規範は時代によって移り変わるものであり、その時代に生きる人達の認知が変わっていけば成文法との歪みが生じることは自然である。そのため、この法の下で、この時代の人々はどのような考え方・認知をするのかを研究することで、どこが歪んでいるのか、歪みを解消するためにはどのような工夫が必要であるかの実験を積み重ねていくことが重要である。 成文法は簡単には変えられない一方で、人々の考え方、それに基づく規範は流動性が高い。法が人にとって良い制約であるために、心理学研究は常に進化していくことが求められると感じた。
冤罪でよく言われる話として痴漢冤罪がSNSなどで話題にあがる。この時に警察や駅員は「早くはいたほうが楽になる」などと一方的に悪者と決めつけ精神的追い詰めたり、「会社に迷惑がかかる」などの社会的に追い詰められたりしてしまい、公平性という観点で考えられていない。また、さらに「痴漢をした悪者を成敗する」という正義的な行為を行っているという感情が強くなってしまい、冤罪を被ってしまった人の話を聞けない状況である可能性もある。このようなそれぞれの心理状況によって、正常な判断ができない状況が問題点としてあるだろう。しかし、痴漢冤罪においては指紋検査をすることを言えば、冤罪を証明することができることがあるという話を聞く。このように、一歩引いた立場からの情報や分析といったものが公平性を欠いてしまう心理的な問題を解決する手段であると感じた。
人間は法のもとに生きていてそれに逆らえない からこそ治安が保たれたりそれが根付き定着しているのだと感じると共に心理学視点で見ると矛盾を感じる点や強引さが目立つと感じた。事情聴取の惨さや裁判までのプロセス、そもそも 証言が正しい!のではなく正しくするために様々な手数をある程度の期間を儲けて準備するため(ここに事情聴取なども加わる)に、圧のかかるやり方で罪をあぶりだそうとしているのでは、とも受け取ることが出来るのではないかと思う。そのため精神的に耐えられなかった者が損をし、冤罪などが生まれるのではないかと感じた。よく冤罪のニュースなどに対して殆どが可哀想、警察が悪い、などのコメントが目立つが一部 疑われる方が悪い、してないなら貫け、というコメントも多いように感じる。少しでも心理的視点がここに組み込まれたら、精神的に辛い状況を強いられるというそもそもの根源が絶たれ、より正確な結果が出せるのではないかと思う。
過去に冤罪事件を取り扱ったテレビを見たことがあったが、取り調べの圧に負けてしまいやっていない犯罪を認めてしまったという内容であった。この時、正しい証言の取り調べを行うには、質問の仕方を誘導しないような聞き方に工夫する必要があると知った。誘導的な質問をすることは、実はそうだったのではないかという架空の記憶を作り出せるのだと感じた。検察側はその人が有罪であることを認めさせるような質問をするとするならば、質問の仕方によって証言が変わる可能性があることを事件にかかわる人は認知しなければならないと思う。判決を人間が行う以上、法的な処置だけでなく心理学の観点からも見なければならないと感じた。
最近では防犯カメラや色々なものの履歴などから証拠を出すことができるが、それでも基本は人間からの事情聴取である。人間は「忘れる」という機能を有している。それを乗り越えてどのように思い出させるか。なんとしても犯人を捕まえたい検察(警察)側は良かれと思って人の記憶を歪めてしまうような質問をする。検察(警察)側がもし心理学の知識を少し待っていたら、記憶を歪めないような質問の技術をもっていたら冤罪はもっと少なくなっていただろうか。それぞれの職業に役割があるからこそ、その専門の知識を入れることに集中してしまうが人間と関わる以上、人間の心理的な動きに注目するような心理学には逆らえないと思った。
取り調べなどよりも法廷での証言が優先されるということを聞いて、緊張で取り調べと違うことを言ってしまったり全く違うことを言ってしまったりするのではないかと考え、法廷での証言の難しさを感じた。また人の記憶は急に思い出されたり徐々に鮮明になったり、簡単に書き換えられてしまします。このことから質問をする際に記憶を書き換えないような聞き方をすることが重要だと思った。例えば、「このことについて覚えていることはありませんか」というように自分の記憶をそのまま伝えてもらえるような質問をすることが大切だと感じた。特に子どもは長期的に記憶することが難しく、質問に対して誘導されやすいので特に注意するべきだと考えた。
私たちは一見自由に選択し、生きているように感じる。しかし、その背景には社会的環境に影響を与える法が存在していて私たちの行動を制限している事を認識した。そう考えると、私達は全く自由ではないなと思う。社会で生きることは、自由から掛け離れ自らを縛る鎖の中に身を投じることなのだと考えた。 また、裁判にて第一証言として使われるのが事件から何ヶ月も先になってからという話に驚いた。記憶の分野こそ、心理学を生かす必要性があるし、十分に必要性を証明できるだろう。
自分の認識と法の決まりでは異なることがあること、何が正しいということがないからこそ法にそって進めていくが、その決まりを全ての人間が認識できているわけではないので誤った情報や理解をしていたという結果に繋げられるのが難しさだと改めて感じました。また、心身喪失は無罪として認められるという判断について、偽れることもあるからこそ慎重に判断するべきであるし、そうなってしまった過程や心情なども大切だけれど人を殺めてしまったという点に置いての結果に目を向けたときに,個人的に有罪判決が妥当だと思います。
質問の仕方によっては記憶を歪めたり、誘導してしまったり、無い記憶を作り出してしまうことがあるということを学び、取り調べには想像以上に配慮が必要なのだと感じた。ドラマなどでよく見る威圧的な取り調べは被疑者に虚偽の自白をさせたり、記憶の中でやっていないのにやったことにすり変わってしまう可能性が大きく、私たちのイメージとは異なるのだと思った。また、虐待の事例で、子供に面接をする時にも質問の仕方には十分な配慮があると学んだが、私は大人よりも子供への対応の方が特に配慮しなければならないのではないかと感じた。その理由として、子供は大人の言うことは正しい、と思ってしまったり〇〇だよね?という聞き方をされると大人に比べて「違う」ということが難しいのではないかと思ったからだ。子供相手の場合は、大人と同等の配慮というよりその立場の差を考慮する必要があると感じた。
また、責任能力の話が講義内で上がりましたが個人的に読んでいた論文が分かりやすいかなと思ったので載せておきます。10年以上前のものですが、心身喪失及び心身耗弱と判断されたポイントがまとめられた事例がいくつか載っているので良ければご参照ください。
https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/record/16807/files/141010170101_知的障害者の刑事責任能力判断に関する近時の判例の動向.pdf
「緒方あゆみ.知的障害者の刑事責任能力判断に関する近時の判例の動向.中京ロイヤー,17巻,1号,p.1-18.」
私たちは法に縛られながら生きているが、世の中の風潮がそうさせているともいえると感じる。”法だから”と全てを縛ってしまうと被疑者の供述や自白においての表現の自由を制約していると感じた。罪を法だけで判断することのように全て見えるもので行動を制約することではなく、人間の内在する感情や気持ちを明らかにし罪の全容を信ぴょう性の高いものにするためには心理学が必要だと強く感じた。
ここに投稿します。投稿者名は「学籍番号の最後の数字を除いたもの」です。たとえば、F222008の人ならば「F22200」となります(最後の「8」を省略します)。
以前、インターネットで嘘発見器のことを調べていたことがあったのだがその時から嘘発見器は本当に確かなものなのかなと感じた。その際には質問の仕方や方法を変えるにしても質問側の先入観によって犯人として認定することへ導くような聞き方をすれば信憑性はないからと感じていた。また、犯人である人がもし平然と応答することができる犯人ならばそれも信憑性はないと思っていた。その上で今回この講義を受けて、陰性反応では91%が一致したというのを見て犯人でない人が犯人としての疑いがかけられる要因の一つとして嘘発見器を今後も使用し続けていいのかと感じた。
今回の授業で出てきた、精神鑑定の例えの話を聞いて精神鑑定の正確性に疑問を抱いた。何故なら精神鑑定は事件当日の精神状態を明らかにするものであり、それは今入学当時の精神状態を明らかにしてくださいと言われているようなものだと聞いたため、そう言われるとかなり精神鑑定は怪しいものだと感じたからである。また、ポリグラフ検査という俗に言う嘘発見器の中核を成すのは質問であるということを初めて知った。しかし、ポリグラフも100%完璧とは言えない。「真犯人を陰性だと判定する」が8.1%(234人中19人)で、これは検察側からすれば取り逃すことになり、警察としても悔しい思いをする上、国民側からしても犯罪者が野放しになっていて夜も眠れない日々になる。また「無実のものを陽性と判定する」は0.4%(932人中4人)となっていて、これは検察側からすると冤罪にあたり、国民からの謝罪を求められることになる上、国民側からすれば警察への信頼が無くなることに繋がる。先生の話の中で足利事件の裁判官の1人が無罪だと考えていたのに他2人が有罪と考えていたために圧力により有罪にせざるを得ないという話があったが、このように組織の中では上下関係によってミスが発生することもある為、これをどの様に変えるかが課題だと思う。しかし、組織にはほぼ必ず上下関係があり、これを変えるには組織そのもののあり方を変える必要があるため、かなり難しく感じる。
最後に足利事件に関しての情報を共有しておきます
https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/retrial/shien/ashikaga.html
コメント失礼します。
私も同様のことを考えました。客観性を持つためにAIを導入するのはどうなのか、と。AIが全知全能の神のような存在になることが出来れば導入を急いだ方が良いかもしれませんが、残念ながら現時点ではそうではない。しかも、誰がどの情報をインプットするかによってAIにも偏りが出てしまう。日本文化や日本語の情報を多く取り入れたAIは日本人に近く、アメリカの文化や英語の情報を多く取り入れたAIはアメリカ人に近くなる。そこには差別・偏見の歴史や死刑制度への意見なども含まれるかもしれない。(アメリカでは未だに黒人差別が話題にあがるように。)AIが中立的な判断を下せたとしても私たちが納得できない結果になったりもしかするとそれだけは許せない!という結果になることもあるかもしれない。人間社会においてAIの導入は難しいのかもしれないとも考えました。
犯人であるのに犯人でないという判断を下し、世に犯罪者を放ってしまうことは、国民の期待を背負う警察にとっては大問題かもしれないが、もしその犯人の再犯率が低かった場合問題ないのか。また逆のパターンである、犯人でないのに犯人であるという判断を下された人は「逮捕歴」というスティグマに苦しみ、もしかすると落ちぶれて本当に犯罪に手を染めてしまうかもしれない。そのような場合、それは問題にならないのか。
例えば再犯率が見える神の目のようなものを持つ人が居たとして、警察に逮捕された段階でそれを材料に判断を下せたとしてもその人のその後の環境や人間関係、受けた影響によって再犯率は変動するだろう。
人間がそれだけ流動的である分、臨床的プロファイリングのような勘頼りな一面を持つ捜査方法は向いていないのかもしれない。
一方で、犯人自身の問題・性格(例えばサイコパス。罪の意識が少ない、犯罪への興味関心が勝るなど。)が原因である可能性が高い場合は、エラーにより世に放つ方が危険だ。そのような犯人自身のタイプを分類するのには捜査に関わる人の勘というのは頼りになるだろう。
確かに、科学的根拠や客観性に基づく捜査方法は人間の勘よりも精度が高く思えるが、対人間であるからこそ感じられる違和感があったりするのではないかと思う。どのような捜査方法を用いたとしてもその結果を100%信頼する、または人間の勘を100%信頼するというのは寧ろエラーを引き起こしやすいのではないかと感じた。どちらも掛け合わせることで、対人間に対する情報を整理できるのではないかと考えた。
最後の句点を忘れていました。修正の仕方がわからないため、ここで報告します。
人間の様々な心理を学習したからと言って、取り逃しや冤罪を防ぐことはこの先も難しいと考える。プロファイリングやポリグラフ検査も犯人探しの手がかりに過ぎず、必ず犯人を突き止めるということはできないからだ。犯人は様々な計画を立てる。裏の裏まで考えて犯行しているとなると、2つの方法では突き止めることが難しい。
事件の犯人を取り逃すことなく突き止める方法は、全国中に防犯カメラを設置することあるいは人間にGPSを埋め込み常に位置情報を特定することができる機関を設けることだと考える。しかし、これらの方法ではプライバシーの侵害や個人情報保護の観点から良くないだろう。
今の日本では、性犯罪者の再犯率が特に高いと感じる。監視のようなシステムを実行しないと再犯・取り逃し・冤罪はなくならないのかもしれない
今回の講義で人間が人間を調べることの難しさを再認識した。ポリグラフ検査(嘘発見器)で余剰変数の作用によって嘘だと出た場合(神の視点によって)、人間側は質問への回答が嘘と判断されたのか、余剰変数によって嘘と判断されたのか見分けはつくのだろうか。また、精神鑑定の話でもあったが鑑定に客観性を持つために学生にやらせるなど、対人間にすることで無意識での行動に判断が左右される、されないということに振り回されているのではないかと思った。剰余変数の統制をしても確実に剰余変数に左右されないとは言い切れない。このような問題に現在の捜査や精神鑑定はどのように対応しているのだろうかと気になった。これからAIがもっと普及してくると思うが、ポリグラフ検査や精神鑑定で客観性を持つという考えから質問者をAIにしてみるという考えはないのだろうかと思った。
「尊属は尊敬すべき、敬愛すべきという倫理観」は悪いものではないと個人的には思います。あなたが挙げている事例は尊属殺人というカテゴリーの不合理さというより、情状酌量をどのように行なうべきかの議論になるように思えます。むしろ、人の命に差があるのかという議論が、尊属殺人というカテゴリーの適合性を問うことになるのではないでしょうか。
みずから問いを立て、解答を与えようとした姿勢は素晴らしいです。
8点差し上げます。
取調べの授業回でまた考えてみてくださいね。
3点差し上げます。
前の方と同様、罪は罪として、無実は無実として正義の行使をしないといけないのですね。心理学がそれに貢献することができれば素晴らしいです。
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一方で、犯罪者に適切な刑罰を与えるという正義権の行使もまた、我々国民が望むことです。だから証言は聞き取らないといけない。相反する利益をバランスをとってうまくやることこそ理想ですね。
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法改正がなされた一例が、刑法41条(だったかな?)です。聾唖者の扱いではなかったかな。心理学によって現実の人間を明瞭にし、適切な法制度を整備することは大切ですね。
5点差し上げます。
冤罪であるという前提で議論を進めると、解答は割と簡単です。冤罪がいけないことは当たり前だから。難しいのは、推定無罪の原則を貫けるかです。完全に自分が被害者だと思っていたら、犯人をすぐにでも罰したいと思いますよね。しかし裁判を待つ必要があります。それまでは犯人と思われている人でも、犯人として扱ってはいけません。法を遵守するから治安は保たれますが、人の感情をある程度抑制する必要があることが事態を難しくしているのではないでしょうか。
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法や制度が心理学的な妥当でない場合、治安は保たれないですよね。たとえば「人相が悪い」ということで有罪にされてはたまりません。
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6点差し上げます。
この話は取調べや面接法を扱う授業回の時に、また思い出してみてください。そしてあらためて論じてみてほしいですね。
6点差し上げます。
検察、警察が心理学の知識を持っていたら、葛藤を起こすかもしれないですね。自白が必要だけど誘導質問はダメだよなぁとか。組織として取り組むようにしないといけないので、司法修習やその前の法学部、法科大学院なんかで心理学を必修にしないと。
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同じ陣営の証人として証言する場合、法廷証言には「打ち合わせ」があるので、緊張しても質問する検察官や弁護人が誘導してくれます。
法廷証言は本来、記憶に基づいて話されるべきなので、記憶を歪めない、捏造しない発問方法が望ましいといえばそうです。しかし事件発生から何か月も経過した時点で記憶を確認するという事態がそもそも望ましくありません。
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制約がなく自由だと、逆に何してよいかわからないです。制約と自由の関係はそう単純ではありません。たとえば言語に私たちは縛られますが、言語があるから思考もできるという見方もあります。
知覚と記憶の研究は、自白や証言という裁判の中で最重要の情報に関係するので、とても大切ですね。
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責任能力について。運転中にブラックアウトして人を跳ねたのも有罪でいいですか? 刑事で責任を問えなかった場合でも、民事で損害賠償の形で罪を償ってもらうという主張をした人がいました。
4点差し上げます。
この話題は司法面接のところでやりますので、またそのときよく考えてみてください。また、責任問題については、情状鑑定のところで触れると思います。この論文もそのときの話題と関連づけて紹介してくれてもいいと思います。よく調べてくれました。
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罪を法だけで判断するから法治国家なのだと思います。それ以外を入れると人治国家になってしまう。被害者感情とか、情状のことを言われているのかと思いましたが、具体的に書いてくれると助かります。
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「法が想定している人間と現実の人間がずれていることがある」という文が、朝ドラ「虎に翼」を視聴していた際に題材となった尊属殺人罪と合致し、深く納得することができた。昭和48年以前は、尊属殺人罪は通常の殺人罪より罪が重く、死刑または無期懲役であった。理由として、尊属は尊敬すべき、敬愛すべきという倫理観は社会生活を営む上で基本的なこととされていたためである。しかしその後、尊属殺人罪の存在そのものを議論する事件が起こった。女性が実父から性的暴行を受け、10年以上夫婦同然の生活を強いられたあげく、実父との子どもを5人も出産し、正常な結婚も許されない環境に耐えかねた女性は、実父を殺害したという内容だった。従来にならうのであれば、尊属殺人罪にあたるのであろう。しかし、このような事件を起こした女性の環境を含めて尊属殺人罪と、法が想定していたとは到底考えられない。結果的に、尊属殺人は憲法14条違反となり、無効になった。これはまさに「法が想定している人間と現実の人間がずれていた」と考えられる。今後の社会的環境を見守る中、法の制約が人間にとっていい制約なのかを疑い続け、ずれを正すことが必須である。
冤罪事件で誘導、暗示する質問の仕方で証言が得られていたならば、精神的に追い詰められて無実なのに罪を認めてしまうという人もいるだろうと感じた。
公正な判断をするために、慎重な質問をすることで正確な証言を得る必要がある。
被疑者の拘束が最大23日間であることに驚いた。冤罪だった場合、23日間も拘束され、取り調べを受けなくてはいけないと考えると人権は保障されているといえるか疑問を感じた。また、冤罪の場合の賠償は被疑者補償規定と刑事補償法では拘束された日数×1,000~12500円と定められている。冤罪を受けた人の暮らしや、名誉を考えるとこの賠償の安さには疑問を覚えた。さらに、取り調べ室での出来事が不透明なことは、質問の仕方によって誤った証言が出てしまったり、圧迫感などの恐怖から誤った自白をしていしまう可能性を上げてしまうのではないかと思った。
法が想定してる人間と現実の人間にはずれがあることを知った。記憶の保持に関することや人間を識別できる距離などを明らかにすることで冤罪を減らすことができると感じた。また、記憶や人間を識別する距離などの環境を整えた実験と突然起きた現場を似せるようにすることが重要であると知った。心理研究が現場を知り、現場に近づけ、現場で使える結果を出すことが求められると知り、心理研究は今後も現場や人間によって変化し続けなければいけないと考えた。
他の講義でも質問の仕方の重要性を扱ったが、今回の講義でそれを再確認した。
刑事ドラマでは「その日どこにいて、その時間は何をしていたか」とよく質問しているが、人間の記憶は不確かなもので、もし私が聞かれても上手く答えられるとは思えない。講義でも扱ったように、何日も前に見た人の顔など更に曖昧で、覚えていることは困難に近いと思う。ただ、それを見たことにしてしまうのが人間の記憶と不適切な質問の仕方であり、人間の記憶を歪めないために、そして冤罪を発生させないために、質問をする際には慎重になる必要があると思った。
法は社会的環境の中で、人を制限する役割を持つ。人が形にした法律は成文法と呼ばれ、裁判等で用いられる。しかし、この成文法の想定する人間は、しばしば現実の人間と乖離する場合がある。このようなことが起きるのは、社会的環境が流動的であることに関係している。
人の考え方や無意識下での行動には、成文法だけでなくモラルや倫理などが影響している。規範は時代によって移り変わるものであり、その時代に生きる人達の認知が変わっていけば成文法との歪みが生じることは自然である。そのため、この法の下で、この時代の人々はどのような考え方・認知をするのかを研究することで、どこが歪んでいるのか、歪みを解消するためにはどのような工夫が必要であるかの実験を積み重ねていくことが重要である。
成文法は簡単には変えられない一方で、人々の考え方、それに基づく規範は流動性が高い。法が人にとって良い制約であるために、心理学研究は常に進化していくことが求められると感じた。
冤罪でよく言われる話として痴漢冤罪がSNSなどで話題にあがる。この時に警察や駅員は「早くはいたほうが楽になる」などと一方的に悪者と決めつけ精神的追い詰めたり、「会社に迷惑がかかる」などの社会的に追い詰められたりしてしまい、公平性という観点で考えられていない。また、さらに「痴漢をした悪者を成敗する」という正義的な行為を行っているという感情が強くなってしまい、冤罪を被ってしまった人の話を聞けない状況である可能性もある。このようなそれぞれの心理状況によって、正常な判断ができない状況が問題点としてあるだろう。しかし、痴漢冤罪においては指紋検査をすることを言えば、冤罪を証明することができることがあるという話を聞く。このように、一歩引いた立場からの情報や分析といったものが公平性を欠いてしまう心理的な問題を解決する手段であると感じた。
人間は法のもとに生きていてそれに逆らえない からこそ治安が保たれたりそれが根付き定着しているのだと感じると共に心理学視点で見ると矛盾を感じる点や強引さが目立つと感じた。事情聴取の惨さや裁判までのプロセス、そもそも 証言が正しい!のではなく正しくするために様々な手数をある程度の期間を儲けて準備するため(ここに事情聴取なども加わる)に、圧のかかるやり方で罪をあぶりだそうとしているのでは、とも受け取ることが出来るのではないかと思う。そのため精神的に耐えられなかった者が損をし、冤罪などが生まれるのではないかと感じた。よく冤罪のニュースなどに対して殆どが可哀想、警察が悪い、などのコメントが目立つが一部 疑われる方が悪い、してないなら貫け、というコメントも多いように感じる。少しでも心理的視点がここに組み込まれたら、精神的に辛い状況を強いられるというそもそもの根源が絶たれ、より正確な結果が出せるのではないかと思う。
過去に冤罪事件を取り扱ったテレビを見たことがあったが、取り調べの圧に負けてしまいやっていない犯罪を認めてしまったという内容であった。この時、正しい証言の取り調べを行うには、質問の仕方を誘導しないような聞き方に工夫する必要があると知った。誘導的な質問をすることは、実はそうだったのではないかという架空の記憶を作り出せるのだと感じた。検察側はその人が有罪であることを認めさせるような質問をするとするならば、質問の仕方によって証言が変わる可能性があることを事件にかかわる人は認知しなければならないと思う。判決を人間が行う以上、法的な処置だけでなく心理学の観点からも見なければならないと感じた。
最近では防犯カメラや色々なものの履歴などから証拠を出すことができるが、それでも基本は人間からの事情聴取である。人間は「忘れる」という機能を有している。それを乗り越えてどのように思い出させるか。なんとしても犯人を捕まえたい検察(警察)側は良かれと思って人の記憶を歪めてしまうような質問をする。検察(警察)側がもし心理学の知識を少し待っていたら、記憶を歪めないような質問の技術をもっていたら冤罪はもっと少なくなっていただろうか。それぞれの職業に役割があるからこそ、その専門の知識を入れることに集中してしまうが人間と関わる以上、人間の心理的な動きに注目するような心理学には逆らえないと思った。
取り調べなどよりも法廷での証言が優先されるということを聞いて、緊張で取り調べと違うことを言ってしまったり全く違うことを言ってしまったりするのではないかと考え、法廷での証言の難しさを感じた。また人の記憶は急に思い出されたり徐々に鮮明になったり、簡単に書き換えられてしまします。このことから質問をする際に記憶を書き換えないような聞き方をすることが重要だと思った。例えば、「このことについて覚えていることはありませんか」というように自分の記憶をそのまま伝えてもらえるような質問をすることが大切だと感じた。特に子どもは長期的に記憶することが難しく、質問に対して誘導されやすいので特に注意するべきだと考えた。
私たちは一見自由に選択し、生きているように感じる。しかし、その背景には社会的環境に影響を与える法が存在していて私たちの行動を制限している事を認識した。そう考えると、私達は全く自由ではないなと思う。社会で生きることは、自由から掛け離れ自らを縛る鎖の中に身を投じることなのだと考えた。
また、裁判にて第一証言として使われるのが事件から何ヶ月も先になってからという話に驚いた。記憶の分野こそ、心理学を生かす必要性があるし、十分に必要性を証明できるだろう。
自分の認識と法の決まりでは異なることがあること、何が正しいということがないからこそ法にそって進めていくが、その決まりを全ての人間が認識できているわけではないので誤った情報や理解をしていたという結果に繋げられるのが難しさだと改めて感じました。また、心身喪失は無罪として認められるという判断について、偽れることもあるからこそ慎重に判断するべきであるし、そうなってしまった過程や心情なども大切だけれど人を殺めてしまったという点に置いての結果に目を向けたときに,個人的に有罪判決が妥当だと思います。
質問の仕方によっては記憶を歪めたり、誘導してしまったり、無い記憶を作り出してしまうことがあるということを学び、取り調べには想像以上に配慮が必要なのだと感じた。ドラマなどでよく見る威圧的な取り調べは被疑者に虚偽の自白をさせたり、記憶の中でやっていないのにやったことにすり変わってしまう可能性が大きく、私たちのイメージとは異なるのだと思った。また、虐待の事例で、子供に面接をする時にも質問の仕方には十分な配慮があると学んだが、私は大人よりも子供への対応の方が特に配慮しなければならないのではないかと感じた。その理由として、子供は大人の言うことは正しい、と思ってしまったり〇〇だよね?という聞き方をされると大人に比べて「違う」ということが難しいのではないかと思ったからだ。子供相手の場合は、大人と同等の配慮というよりその立場の差を考慮する必要があると感じた。
また、責任能力の話が講義内で上がりましたが個人的に読んでいた論文が分かりやすいかなと思ったので載せておきます。10年以上前のものですが、心身喪失及び心身耗弱と判断されたポイントがまとめられた事例がいくつか載っているので良ければご参照ください。
https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/record/16807/files/141010170101_知的障害者の刑事責任能力判断に関する近時の判例の動向.pdf
「緒方あゆみ.知的障害者の刑事責任能力判断に関する近時の判例の動向.中京ロイヤー,17巻,1号,p.1-18.」
私たちは法に縛られながら生きているが、世の中の風潮がそうさせているともいえると感じる。”法だから”と全てを縛ってしまうと被疑者の供述や自白においての表現の自由を制約していると感じた。罪を法だけで判断することのように全て見えるもので行動を制約することではなく、人間の内在する感情や気持ちを明らかにし罪の全容を信ぴょう性の高いものにするためには心理学が必要だと強く感じた。
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