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**イチ広場 / 142

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ディープインパクト 2024/08/05 (月) 13:26:02

 うーむ。。。さん
>苦行を伴わない車やバスでの移動は私は遍路とは違うと思います。

これは私も、最初はそう思っていました。
ただ、怪我や老化など様々な理由で身体的に無理な人、日々暮らしていくので精一杯な人に仏様にすがらなければ生きていけない方はたくさんいます。そこでお寺が手を差し出すどころか門を閉ざすのは違うと思います。巡礼を志す人の個別の事情、そして神仏との向き合い方、即ち自分との向き合いかたも様々。体をいじめるのばかりが苦行でなく、生きること自体苦行ですので、巡礼の交通手段も問わなければ、代理巡礼も認めるのはそれはそれで見識だと思うように変わりました。そして自分自身物見遊山から始まっているので、形から入ることの大事さも分かるようになりました。
そういうのは神様仏様にお任せするので良いのではないでしょうか。

神と仏の混同による無作法とおもうことも、紐解けば誤解であり、それぞれ個別の理由や経緯がある場合も多いと思います。
お寺と神様が混ざっているのは、それは歴史的経緯ですね。神仏習合といって、仏教を導入する時、もともと神道があったところに仏様とは神様と同じだとかいって普及した影響もあり、元々日本では仏教と神道が渾然一体で発展したからです。
きちんと分けられたのは明治維新の後、明治政府が天皇の権威付のため法律で神仏分離を進めてからですね。その時分けられなかったところも多々残っています。
ですから鳥居があるお寺もあれば、神殿が本堂と同じ敷地にあるお寺、申し訳程度に祠があるお寺も多々あります。ちなみに今も別格15番札所の箸蔵寺(もちろん真言宗)は琴平の金刀比羅宮さん(もちろん神道)の奥の院です。金刀比羅宮は昔は神社とお寺がくっついた金毘羅大権現でした。「権現」とは仏様が神様の姿であらわれたもの、という神仏習合のもとで生まれた存在です。
今を生きる我々には、神と仏は別のものとして見せられていますが、歴史を紐解くと渾然一体。こういうのは日本人にも難しいですねぇ。

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