みんみとは、全て
みんみとは、虚無
あなたももう気づいているでしょう
みんみの素晴らしさに
気づかないふりをするのはもうおやめなさい
皆様に素敵なみんみがありますように
みんみぃ
次のコードをWIKIWIKIのページに埋め込むと最新のコメントがその場に表示されます。
// generating...
タイトル背景・アイコン募集中
🐉
週間フレンズ+月刊けものを統合し、総合ファンスレとしてリニューアル
詳しい事はスレで
変則隔週日曜日 22:00~23:00 けもがたりの場所
11・12月の予定 🐸<もう今年も終わりでありますなぁ
11/3 黄色い生き物の話 モンキチョウ、キビタキ、ウデフリツノザヤウミウシなど
11/17 赤い生き物の話 アカゲザル、タンチョウヅル、ベニザケ(繁殖期)など
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12/1 緑・青色の生き物の話 ミドリムシ、ウグイス色のメジロ、アオツラカツオドリ、マルタタイガーなど
12/15 雪と氷と生き物と ユキヒョウ、ニホンザル、アザラシ、ワカサギなど
12/29 これまでのけもフレとこれからのけもフレ プロジェクト10周年!
けもがたり保管庫
(けもがたり過去ログまとめ)
2024/9/9
久々の日記更新。この前三次コラボに行ってきました。親になると子供目線で施設を見たり色々と気付きが出てきますね。
2024/12/15
熱中症になった
ここまでがあなたのコンテンツ
ここからもあなたのコンテンツ
本日はプードル犬「ボーイ」の命日であります。
・「ボーイ」は、イングランド内戦における王党派(騎士党)の軍事指導者
ルパート・オブ・ザ・ライン氏(カンバーランド公)が飼育されていた
白色の雄の狩猟用プードル犬であります。
その出逢いは、1618年に勃発した三十年戦争の最中、
リンツの要塞にて捕虜生活を送られていたルパート氏の苦境を心配されていた
イングランド人貴族の第21代アランデル伯爵トマス・ハワード氏が、
幽閉生活の孤独を癒そうと犬をプレゼントされた事でありました。
当時、白色の狩猟用プードルは珍しい犬種で多くの人々に珍しがられ、
ヨーロッパ中で有名な存在となり、評判を聞きつけられた
オスマン帝国のスルタン・ムラト4世が自身の家臣に
「ボーイ」にそっくりの犬を見つけてくるよう命じられたほどでありました。
・「ボーイ」は1642年にルパート氏に連れられて渡英しております。
ルパート氏はイングランド内戦における王党派(騎士党)の象徴的存在であり、
しばしば議会派(円頂党)のプロパガンダの標的にされておりました。
ルパート氏に連れられて戦闘に参加していた「ボーイ」も、
ルパート氏と共に議会派の激しい中傷を受けた上、議会派の兵士の方々から
魔女の使い魔のような存在ではないかと大いに恐れられました。
このため、「ボーイ」の「魔力」に関して多くの逸話が残されております。
一部の方々は、「ボーイ」は悪魔が犬に身をやつしたものだと考えられ、
王党派は議会派の「ボーイ」に対する迷信深い恐怖心を嘲笑され、
「ボーイ」に関する様々なゴシップを作られました。その中には、
「ボーイ」は「ラップランドの姫」(サーミ人の魔女)が白い犬に変身した姿である、
「隠された財宝を見つける事ができる、攻撃されても不死身である、
ルパート氏が撃った弾丸を口でキャッチする事ができる、
更には女性占い師のマザー・シプトン氏のように予言もできるなど、
様々な噂がまことしやかに伝えられておりました。
王党派の兵士の方々も「ボーイ」の「神通力」を盛んに喧伝されると同時に
国王軍のマスコット的存在に祭り上げ、「ボーイ」を少将に任命されました。
・1644年7月2日、三十年戦争における「マーストン・ムーアの戦い」の最中、
「ボーイ」は安全な王党派の陣営に繋がれておりましたが、
自ら逃げ出して主人のルパート氏の後を追いました。
戦況は国王軍に不利な形勢となり、ルパート氏は退却を余儀なくされ、
その退却時の戦闘に巻き込まれて「ボーイ」は生涯を閉じる事となりました。
「ボーイ」の死は木版画に描かれ、一般民衆にニュースとして広められました。
議会派の聖職者で著述家のサイモン・アッシュ氏は、「ボーイ」の死を
当時の人々の関心を引いた事件の一つとして記されております。
少し意外かもしれませんが、けものフレンズのどの作品にも
プードルのフレンズはいらっしゃいません。強いて挙げるならば、
ファンの方が描かれたオリジナルのフレンズとしてのイラストでしょうか。
様々な犬の種類の中でも特徴的なプードルでありますので、
是非ともフレンズの仲間入りを実現してほしいところであります。
争いの多かった時代である事を考えても、愛犬が政治に影響を与え、
アクシデントとはいえ戦場にまで出向くというのは大変な事であります。
動物が飼い主と共に日々を平和に過ごすという事が、
いかに大切で尊いものであるかを考えざるを得ません。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は塩と暮らしの日であります。
海にさざめく波をイメージした「な(7)み(3)」の語呂合わせに因んで、
公益社団法人 塩事業センターによって制定されました。
人が生きていくのに欠かせない「塩」について、
食や文化を含めて楽しく賢く付き合っていく
「塩と暮らしを結ぶ運動」(くらしお)のPRの一環として制定されており、
各地で「塩と暮らしの日」に関連したイベント等が行われております。
・公益社団法人 塩事業センターは生活用食塩の供給や備蓄など、
塩に関する事業を手掛けている公益財団法人であります。
1905年に塩の専売制度が大蔵省専売局のもとで開始された当初は、
日露戦争の軍費調達という収益主義的な側面の強い制度でありましたが、
第一次大戦期のインフレなどにより財源確保の意味合いは薄れ、
1917年に自給率の低い日本における塩の安定的な供給を主眼とする
公益主義的な制度へと変革されました。その当時より日本は
需要の多くを輸入もしくは移入に頼っていたために、特に第二次大戦期は
塩の輸入のストップにより需給が急激に逼迫する事態となりました。
戦後、工業用塩の需要増から輸入が再開され、国内製塩事業による
自給確保と安価な塩の全国的な安定流通を目的に塩専売法が改正され、
1949年に専売事業を執り行う日本専売公社が設立されました。
1985年に日本専売公社は民営化されて日本たばこ産業株式会社となり、
塩事業に関しては塩事業部門に移行する事となりました。
「塩事業法」が1997年4月1日から施行されるのに先駆けて、
1996年7月1日に日本たばこ産業の塩事業部門から独立/事業継承する形で
「財団法人 塩事業センター」が設立されました。
2014年4月1日には公益法人制度改革関連3法に則り公益財団法人に認定され、
現在の「公益社団法人 塩事業センター」に移行しております。
「塩事業法」の施行により専売制度は廃止されましたが、
日本が塩資源に乏しい状況は変わっておらず、
また、塩は生活に不可欠な代替性のないものである事から、
公益事業として塩に関する様々な事業を手掛けており、
その主な事業は以下の通りとなっております。
塩に関する調査研究事業ーー・塩事情に関する研究
・製塩技術/商品技術/
塩の品質および分析技術に関する研究
・調査研究成果の提供 ・塩の品質検査の受託
生活用の塩の供給事業ーーー・生活用塩の供給 ・塩の備蓄
塩事業センターおよび「塩と暮らしを結ぶ運動」公式サイトでは
様々な情報が発信されている他、「塩と暮らしを結ぶ運動」公式サイトでは
公式キャラクターの「塩イルカ」様が活躍していらっしゃいます。
けものフレンズにおいて塩で思い浮かぶ場面といえば、
やはりアニメ一期の第二話でのアクシスジカ様でありましょう。
元の動物のアクシスジカはミネラルの摂取のために、生え変わる際の
古くなった角を食べる事から、ミネラル分=塩に結び付いたと考えられます。
現在、既に多くの地域で梅雨明けしており、早くも暑さが本格化しております。
となれば、熱中症対策として水分のみならず塩分補給も欠かせません。
体調をしっかりと整えて、この夏を乗りきりたいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1950年に、国際労働機関(ILO)の条約である
「結社の自由及び団結権の保護に関する条約」が発効された日であります。
・「結社の自由及び団結権の保護に関する条約」は、
労働者及び使用者が団体を結成し加入する権利を持つ事と、
行政機関がこれらの権利の制限等を行なってはならない事を規定しております。
「ILO87号条約」とも呼ばれており、現在155ヵ国が批准しております。
1948年7月9日にアメリカのサンフランシスコにて採択され、
1950年7月4日に発効された基本条約の一つであります。
・日本ではILO条約批准闘争が労働界で起こり、
公共企業体等労働組合協議会(公労協)や日本労働組合総評議会(総評)は
同条約に違反する日本の国内法を挙げてILOへ提訴しておりました。
日本政府側は1960年から62年まで毎年、本条約の批准案件となる
各法案を国会に提出したが、どれも廃案となりました。
1965年1月10日には、ILOの結社の自由に関する実情調停委員会が
ドライヤー調査団を派遣しており、その目的は労働大臣の石田博英氏や
総評の事務局長の岩井章氏などと会談を持ち、実情を調査する事でありました。
調査団の報告書が提出されたのは日本が批准した後の事であり、
同年8月31日に報告書が公表されました。
それに先駆ける4月15日、自民党は衆議院ILO特別委員会にて
87号承認・関係国内4法案を一括して強行採決しております。
野党は無効を主張しましたが、4月21日に議長の斡旋により
自民/社会/民社共同修正案を衆議院本会議で可決し、
5月17日に参議院本会議でも可決した事で批准関連法案の成立に至り、
批准が6月14日であったため、日本に対しての発効は1966年6月14日となり、
この条約における70番目の批准国となりました。
批准に際しては、当時の「公共企業体等労働関係法」
(現在の「行政執行法人の労働関係に関する法律」)に本条約と抵触する規定
(4条3項-職員でなければ組合員になれない旨を規定)があり、
これを削除する法改正が行われました。
しかし、公務員(公共企業体職員を含む)のストライキ権については
公務員制度審議会を設けて先送りされました。ドライヤー調査団の報告書は、
官公労のスト権の一律禁止など日本政府の措置を不当として批判しております。
ただし、組合側の無条件スト権付与にも賛同しておらず、
両者の合理的な妥協による解決を求めておりました。
1973年に公務員制度審議会の答申が出されたものの、
審議会メンバー(使用者/労働者/公益)の対立のため、
禁止継続/部分認可/条件付き全面認可の3論併記となり、
最終的な解決を政府に委ねる形となりました。
その後、政府側にスト権容認の兆しも伺えましたが、
組合側が実力でのスト権認可を目指した1975年のスト権ストの敗北により、
実現する事なく現在に至っております。
なお、ILOが公務員のスト権を奪っている日本の法令を
本条約およびILO98号条約(団体交渉権)に抵触するとしたのは
2002年11月20日の事でありました。
ジャパリパークがどのような経営母体なのかは明らかとなっておりませんが、
おそらくはこちらの世界における動物園の経営と大きく変わる事はなく、
同様に職員の方々の様々な権利も保証されているものと想像できます。
この資本主義社会では数多くの企業が活動を行っておりますが、
企業の大小を問わず働かれる方々の権利は等しく存在するものであります。
自由な活動はリスクも伴いますが、柔軟かつ寛容な社会の在り方こそが、
そのリスクをはるかに上回るメリットを生み出す事も確かなのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は鳥類学者でいらっしゃる、山階芳麿氏の誕生日であります。
・山階芳麿(やましな よしまろ)氏は日本を代表する鳥類学者のお一人で、
山階鳥類研究所の前身となる山階家鳥類標本館の創設者でもいらっしゃいます。
1900年7月5日、当時の東京市麹町区にて皇族・山階宮菊麿王の
第2子としてお生まれになり、昭和天皇(範子妃)、
香淳皇后とは継母(常子妃)を通じての従兄にあたります。
幼い頃から鳥に興味を持たれていた事から、
6歳の誕生日に一つがいのオシドリの剥製を贈られました。
1907年に学習院初等科入学され、学習院中等科在籍時に、
明治天皇からの沙汰により陸軍中央幼年学校予科に入られました。
陸軍中央幼年学校本科、陸軍士官学校(33期)を経られて
陸軍少尉に任官されて、砲兵将校となられました。
1920年7月5日に勲一等旭日桐花大綬章を受章された同日に、
貴族院皇族議員に就任されましたが、皇室の内規に従い臣籍降下を願い出られ、
7月20日の皇族会議で認められました。7月24日、大正天皇から山階の家名と
侯爵の爵位を与えられると同時に従四位に叙せられ、
貴族院議員を退任されました。後に陸軍砲兵中尉には任官されましたが、
動物学研究の望みを断ち難い事から軍を退役されました。
1925年4月21日に伯爵の酒井忠道氏(旧小浜藩)の次女・寿賀子氏と結婚され、
同年7月4日に貴族院侯爵議員に就任され、1929年4月に東京帝国大学理学部
動物学科選科(のちの東京大学大学院)に入学されて、
2年にわたって動物学の基礎を学ばれ、1931年3月に修了されました。
1932年に山階鳥類研究所の前身である山階家鳥類標本館を設立され、
1939年に北海道帝国大学(後の北海道大学)の小熊捍(おぐま まもる)教授の
指導を受けられ、鳥類の雑種における不妊性の研究に取り組まれ、
1942年に「鳥類雑種の不妊性に関する論文」によって北海道大学から
理学博士号を授与されました。1946年5月12日に貴族院議員を辞職されました。
その後、鳥類の染色体の研究に取り組まれ、1947年に鳥類の分類に
染色体による分類法を導入され、国内外から高い評価を獲得されました。
1949年に関連論文の集大成「細胞学に基づく動物の分類」を上梓され、
1950年に日本遺伝学賞を受賞されました。戦後のタンパク質不足から、
文部省から「ニワトリの増殖」について研究委託を受けられ、
多産で肉質がよいニワトリの品種改良にも取り組まれ、
その他、バリケンとアヒルの雑種ドバンの増殖研究にも力を入れられました。
鳥類の保護にも大きな熱意を注がれ、日本鳥学会会頭、日本鳥類保護連盟会長、
国際鳥類保護会議副会長、同アジア部会長等を歴任されました。
1966年に紫綬褒章を受章され、1977年に鳥学の世界のノーベル賞とも言われる
ジャン・デラクール賞を受賞されました。
1978年には「世界の生物保護に功績があった」との評価から、オランダ王室から
第1級ゴールデンアーク勲章を受章されました。
1989年1月28日に88年の生涯を閉じられました。
けものフレンズには様々な鳥類のフレンズがいらっしゃる他、
ジャパリパークにはフレンズの方々以外に様々な鳥類がいると思われます。
パーク内にある研究施設ではフレンズの方々のみならず、
鳥類を含めて様々な動物についての研究が行われているものと思われます。
現在に至るまで、鳥類に関して数多くの研究が進められておりますが、
現在のように情報やツールが充実していない時代から、
様々な研究を進められてきた先人の方々の偉業には頭が下がります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は2019年に、第43回世界遺産委員会にて「百舌鳥・古市古墳群」が正式に
国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界文化遺産に登録された日であります。
・「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-」(もず・ふるいちこふんぐん)は、
大阪府堺市/羽曳野市/藤井寺市にある45件49基の古墳群の総称で、
百舌鳥古墳群及び古市古墳群に含まれます。
・百舌鳥古墳群は大阪府堺市にある古墳群で、
半壊状態のものも含めて44基の古墳があります。
かつては100基を上回る古墳が存在しておりましたが、第二次大戦後の
急速な宅地開発のため、半数以上の古墳が破壊されてしまった経緯があります。
大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、ミサンザイ古墳など、
墳丘長200m以上の大型の前方後円墳4基が含まれております。
堺市北西部に位置しており、古代の海岸線に近い上町台地に続く
台地上に築かれております。古墳は東西/南北それぞれ約4kmの範囲に分布し、
前方部が南向きに築造されている上石津ミサンザイ古墳、大山古墳、
田出井山古墳などと百済川の谷の両岸に築造された土師ニサンザイ古墳、
いたすけ古墳、百舌鳥御廟山古墳の二つの古墳群から構成されております。
この台地の西側の低い背梁部に上石津ミサンザイ古墳が営まれ、
その北方へ大山古墳、田出井山古墳などが順次築造されていく一方、
百済川の東方へも既述した古墳群が拡大されていったと推測されており、
つまり、上石津ミサンザイ古墳が先行し、川の東部には百舌鳥大塚山古墳・
いたすけ古墳が、次いで西方では大山古墳、川の東方では百舌鳥御廟山古墳が
ほぼ同時期に造られ、西方の土師ニサンザイ古墳と田出井山古墳が、
これもほぼ同時期に築造されたと推測されております。
・古市古墳群は大阪府羽曳野市と藤井寺市にある古墳群で、
東西約2.5km、南北4kmの範囲内に、誉田御廟山古墳(伝応神陵)など
墳丘長200m以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基)の古墳で
構成されており、いずれも標高24m以上の台地や丘陵上にあります。
北部の誉田御廟山古墳(伝応神陵)・仲津山古墳(伝仲津姫陵)・
市ノ山古墳(伝允恭陵)・岡ミサンザイ古墳(伝仲哀陵)などの古い古墳群と、
南方の前ノ山古墳(白鳥陵)を中心とする前方部の著しく発達した
西向きの新しい一群とに分類されております。
・2007年の文化庁による世界遺産候補地公募に
「百舌鳥・古市古墳群 -仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳群-」として応募し、
2008年の文化庁世界文化遺産特別委員会(現・文化審議会世界文化遺産部会)
によって暫定リストに掲載する物件に選ばれ、2010年11月に
世界遺産センターに受理されて正式に暫定リストに掲載されました。
2013年から毎年世界遺産への推薦を目指して、
推薦書素案を文化庁へ提案してきたが国内選考から漏れ続け、
2017年7月に2019年登録審査候補として正式に推薦する事が決定されました。
なお、2019年登録審査候補を決める文化審議会では推薦候補なしという
意見も出ましたが、最終的に百舌鳥・古市古墳群が選出されました。
2018年9月11~17日、UNESCOの諮問機関である
国際記念物遺跡会議(ICOMOS)による現地視察調査が行われ、
文化庁は「一定の理解は得られた」という見解を示しました。
2019年5月14日の未明にICOMOSによって世界文化遺産への登録を勧告され、
2019年6月28~29日に大阪市で開催された「第14回20か国・地域首脳会合」
(正式名称「金融世界経済に関する首脳会合」・通称「G20大阪サミット」など)
において、サミット閉幕の翌日から始まる第43回世界遺産委員会にて
世界文化遺産への登録が見込まれている
百舌鳥・古市古墳群についての広報活動が行われました。
2019年7月6日、アゼルバイジャンのバクーにて開催された
第43回世界遺産委員会において、百舌鳥・古市古墳群の登録が決定されました。
大阪府下では初の、宮内庁によって治定されている陵
(皇室関連施設)としても初の世界遺産登録となりました。
ジャパリパークの土台は海底火山の噴火によって出現した島でありますので、
百舌鳥・古市古墳群などのような遺跡群が発見される可能性は低いと思われます。
しかし、フレンズという希有な存在が暮らしてきた土地は、
後世に語り継がれるべき要素を数多く有しております。
遺跡は先人の方々が紡がれてきた文化を示す証であり、その文化や生活が
現在の私達に繋がっている事を確認させてくれるものであります。
壮大な歴史の流れを感じずにはいられません。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は、作家の池田あきこ氏が手掛けられた
猫のキャラクター「ダヤン」様の誕生日であります。
池田氏の作品に関する版権管理やライセシングビジネス等を手掛ける、
わちふぃーるどライセンシング株式会社によって制定されました。
ダヤン様の誕生日をきっかけに、ミステリアスな瞳が印象的なダヤン様の魅力や
世界観を感じてほしいとの願いが込められており、その物語と共に展開される
「わちふぃーるど」の商品やイベントへの関心を高めてもらうのが目的であります。
・池田あきこ氏は東京都吉祥寺生まれの絵本作家でいらっしゃいます。
青山学院短期大学国文科を卒業された後、
1983年に自由が丘でメーカーのシンボルとして「猫のダヤン」を描かれ、
1987年より不思議な国「わちふぃーるど」を舞台に絵本を描かれ始めました。
画集/長編物語/旅のスケッチ紀行など多方面に作品を発表され、
出版書籍は100タイトルを超えており、2014年7月時点で
関連書籍の累計発行部数は300万部を記録しております。
不思議な国「わちふぃーるど」を立体的に体感できる
「猫のダヤン35周年 ダヤンとふしぎな劇場 池田あきこ原画展」が
全国を巡回して開催されており、また、原画作品は、
河口湖・木ノ花美術館にて常設展示されております。
・「わちふぃーるど」は、池田あきこ氏が創作される
ファンタジー小説や絵本の舞台である架空の国の名称でありますが、
革工房・キャラクター商品を企画/製造/販売する企業として
池田氏が1976年に設立(1986年に法人化)された際の名称が初出であり、
1984年に自由が丘に第1号店を開業した、池田氏製作のキャラクターを扱う
雑貨専門店にも同じ名称が使用されております。
架空の世界については、大まかに以下の説明の通りとなっております。
その昔、人間界の地球(わちふぃーるどでは「アルス」と呼ばれる)と
「わちふぃーるど」は、一つの大きな世界「アビルトーク」を成しておりました。
しかし、わちふぃーるどを治める雪の神は他の神と仲違いし、
わちふぃーるどを氷と霧で外の世界と切り離してしまいました。
その後、アビルトークは神々と巨人の戦いで滅び(アルス)と名を変え、
独立したわちふぃーるどは、動物や妖精、魔族、風などが
ゆったりと暮らす世界となりました。
なお、この世界には人間はいないそうであります。
・ダヤン様は、わちふぃーるどを舞台とするお話の中心キャラクターであり、
池田氏の作品におけるグッズ展開でも中心の存在として描かれております。
ヨールカの雪の魔法によってアルスからやって来た雄の猫。
不思議な金色の大きな瞳は様々な方々を惹きつける魅力を持っております。
性格は猫らしく気まぐれ、気ままで時にそっけない事もありますが、
優しく思いやりのある純粋な心を持っておられ、
どんなに冷たく凍てついた心も溶かしてしまう方でいらっしゃいます。
けものフレンズには魅力的な猫のフレンズの方々がいらっしゃいますが、
その方々において中心的存在といえば、みんみ様でありましょう。
みんみ様の慈愛と寛容の精神は様々な方々にとって大きな助けとなり、
そういった存在であらせられるからこそ、かばん様/アライグマ様/フェネック様、
そして多くのフレンズの方々と友好な関係を築かれるのでありましょう。
動物の擬人化コンテンツにおいて、ダヤン様を含めたわちふぃーるどは
けものフレンズにとって偉大なる先達と呼べる存在であります。
けものフレンズもわちふぃーるどと同様に、
長く愛されるコンテンツとなる事を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は「なはの日」であります。
「な(7)は(8)」の語呂合わせに因んで、当初はラジオ沖縄の人気番組
「那覇が好き」のリスナーグループ「那覇が好き友の会」によって
独自の記念日として制定しておりましたが、
後に沖縄県那覇市によって市の記念日として2001年に再制定されました。
2004年から例年7月8日のある週を中心に市内清掃や特定健診など、
市民と行政が一緒になって記念日を盛り上げる取り組みが行われている他、
県が制定する記念日のため、7月8日には県や市が運営/管理する
世界遺産や文化遺産を始めとした各種施設などが
無料または割引にて利用可能となっております。
・那覇市は沖縄本島南部に位置する市で、
沖縄県の県庁所在地及び最大の都市であります。
歴史的には、1921年5月20日に特別区制が廃され、
他府県同様の一般市制が施行されて那覇区から那覇市となっております。
1921年12月19日に制定された那覇市章は「ナハ」の字を円形に図案化し、
無限に発展していく那覇市の姿を表しております。
その後、1945年の太平洋戦争末期の沖縄戦で街は壊滅的な被害を被り、
1972年5月15日の沖縄返還による日本復帰を経て、
多くの県民市民の努力と協力によって発展してきた経緯があります。
2021年5月20日には市制100周年を迎えております。
市の総面積は41.42㎢、市の木はフクギ、市の花はブーゲンビリア、
市の花木はホウオウボク、市の魚はマグロ、市の蝶はオオゴマダラで、
名産品として壺屋焼や泡盛などがあります。
観光面では、県最大の繁華街である市の中心部の国際通り、
市東部の高台にある首里地区の首里城などがあります。
2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として
首里城跡が世界遺産に登録されております。
けものフレンズにおいて沖縄県に関連するものといえば、
沖縄県がモチーフとなっている「リウキウチホー」、
フレンズの方々ではシーサーレフティー様/シーサーライト様/
ヤンバルクイナ様/ハブ様あたりが思い浮かびやすいかもしれません。
また、けものフレンズのグッズ展開では
沖縄県限定の様々なグッズが好評でありました。
沖縄県は日本を代表する観光スポットの一つであり、
かつての琉球王朝から連なる独自の文化も大変魅力的であります。
時間と予算に余裕があれば是非とも訪れてみたいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は2001年に日本科学未来館が開館した日であります。
・日本科学未来館は、東京都江東区青海にある
国際研究交流大学村内に設立された科学館であります。
文部科学省所管の国立研究開発法人・科学技術振興機構によって設立され、
当初運営は財団法人科学技術広報財団に委託されておりましたが、
2009年に行われた「事業仕分け」の対象となった事で運営方法が見直され、
現在は科学技術振興機構の直轄運営となっております。
主なコンセプトは「最新の科学技術の展示」
「社会一般への科学技術者の成果の発表」
「一般社会からの科学技術の所感や見解などを
学会/論文などを通じて研究者へフィードバック」
といった科学技術と人々との交流であり、多様なバックグラウンドをお持ちの
科学コミュニケーターなどのスタッフが在籍されております。
また、科学コミュニケーションの手法開発、
科学コミュニケーターの育成/輩出も主な事業として行っております。
2017年11月には世界科学館サミットを主催し、
98の国と地域から828名が参加されました。
2020年4月13日、科学技術振興機構は2001年の開館以来
館長を務められてきた毛利衛氏が2021年3月末で退任すると発表し、
後任の館長はIBMフェローの浅川智恵子氏が務められております。
・館内の主な展示等は以下の通りとなっております。
地球とつながる「ジオ・コスモス」
人工衛星が撮影した雲の様子を見る事で、地上にいながら
刻々と変化する地球の様子を感じる事ができる球体ディスプレイ装置で、
設置当初は約100万個の発光ダイオード(LED)で映し出しておりました。
2011年度の創立10周年に同球体ディスプレイをリニューアルし、
およそ1万枚の有機ELパネルを使って1000万画素を達成しております。
2021年10月から公開を休止しておりましたが、
翌年4月20日にリニューアルして再公開されております。
従来のディスプレイ(有機ELパネル)がLEDパネルに置き換えられた他、
HDR対応/広色域化され、より複雑な明るさや色彩の表現が可能となりました。
また、フレームレートも従来の約2倍となっております。
世界をさぐる「地球環境とわたし」「ニュートリノから探る宇宙」
「加速器で探る素粒子と宇宙」「細胞たち研究開発中」
「ぼくとみんなとそしてきみ」「100億人でサバイバル」
「ちりも積もれば世界をかえる」「ともに進める医療」
「こちら、国際宇宙ステーション」
未来をつくる「ロボットとくらし」「計算機と自然,計算機の自然」
「未来逆算思考」「インターネット物理モデル」
「ビジョナリーラボ」「零壱庵」
「ノーベルQ―ノーベル賞受賞者たちからの問い」
「アナグラのうた ―消えた博士と残された装置」
「アンドロイド ―人間って、なんだ?」
「ドームシアターガイア」
・2009年1月に日本初の全天周・超高精細立体視映像システム
Atmosが導入され、MEGASTAR-II Cosmosと連動した
オリジナルのプログラムを上映しております。
その他、一般利用に対して入館料金は発生しない施設として、
7F-未来館ホール 7F-レストラン「Miraikan Kitchen」
5F-カフェ「Miraikan Cafe」
1F-ミュージアムショップ「Miraikan Shop」
1F-コミュニケーションロビー
1F-多目的ルームA, B
1F-シンボルゾーンが設置されております。
入館自体に料金は発生せず、3Fと5Fの常設展に入る際に必要となります。
ジャパリパークは海底火山の噴火によって出現した島を
そのまま利用する形で設立された動物園施設であり、
設立にはその当時の最先端の科学技術が導入されているであろう事は間違いなく、
また、パーク内には独自の研究施設も設立されている事から、
科学技術に関してハイレベルな知見および人材が集っている事が想像できます。
科学技術は人類ならではの叡知の結晶であり、
自らを、そして周りを知る事の大切さを示す指標でもあります。
今後の科学技術の更なる発展を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1962年に原油タンカー「日章丸」が進水した日であります。
・日章丸は、出光興産株式会社の子会社である
出光タンカー株式会社が所有/運航していた原油タンカーであります。
「日章丸」という船名は1938年竣工の初代から
2004年竣工の5代目まで存在しておりますが、
1962年に竣工した日章丸は3代目にあたります。
1960年に2代目「日章丸」(19074重量トン、1951年竣工/1959年売却)の
代船を計画した出光興産が、「ユニヴァース・アポロ」(104520重量トン)等の
大型タンカーを長期間運用した実績やその後の石油需要の増大を勘案し、
より大型のタンカーの運用を目的として建造されたのが3代目であります。
設計は佐世保重工業株式会社と石川島播磨重工業株式会社が協同で行い、
契約船価は当時の価格で50億2200万円でありました。
1962年10月7日に竣工した当時では世界最大のタンカーであり、
また、単機の最大出力28000馬力の蒸気タービンも、
タンカーに搭載されたものでは最大でありました。
竣工後、ペルシア湾から出光興産徳山製油所への原油輸送のために運用され、
後に4代目「日章丸」に役割を譲り、1978年に台湾の高雄にて解体されました。
・本船の竣工直後の姿を克明に追った短編映画「日章丸」が、
竣工の翌年となる1963年に出光興産株式会社の企画の下、
東京シネマ(現・東京シネマ新社)の手により製作されました。
この作品によると、本船は東京湾に於ける竣工祝賀レセプションに臨んだ後、
1962年10月16日に日本を後にして処女航海に出発しており、
11月1日夕方クウェート到着した後に石油を積載して、
11月4日未明にクウェートを後にして帰路についておりますが、
この間、11月2日(クウェート到着の翌日)にクウェート側の要人の方々を
船内に招いてのレセプションを開いている様子が描かれております。
また、映画では竣工したばかりの本船の処女航海に臨む姿などを追いつつ、
本船の甲板部分からエンジン内部に至るまでカメラが向けられております。
この作品は現在、科学映像館(NPO法人・科学映像館を支える会)の
ホームページから配信されております。
けものフレンズにおいて船で思い浮かぶ場面といえば、
アニメ一期にて日の出港に停泊していた船でありましょうか。
キャビン部分に比べて広いデッキが特徴的であり、
おそらく車両等の運搬を目的としたものではないかと想像できます。
また、ラッキービースト様からのシグナルで始動した事から、
ジャパリバスと同様に半自動運転が可能であると考えられます。
地球の大部分は海洋であり、その海洋にて運用される船舶は
古の時代から現代に至るまで重要な交通手段であります。
陸上の移動手段が脱炭素化に向けて動き出している現在、
船舶も同様に脱炭素化がこれからの必須要素となりつつあります。
未来の船舶はどのようなものとなるのでしょうか?
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は職業教育の日であります。
1975年のこの日に学校教育法が改正されて、
専修学校制度が定められた事に因んで、
全国専修学校各種学校総連合会によって制定されました。
職業教育の重要性を人々が改めて思い起こす事への願いが込められております。
・全国専修学校各種学校総連合会は、専修学校及び各種学校によって構成される
都道府県協会等により組織されている団体であります。
専修学校及び各種学校における教育の振興を図る事を目的としております。
1958年5月28日に設立された「全国各種学校総連合会」を前身とし、
1975年7月11日に行われた学校教育法の一部改正や
1976年1月11日に行われた専修学校設置基準の施行により、
1976年6月28日に現在の団体名称に改められました。
団体の主な事業は以下の通りとなっております。
・専修学校及び各種学校の地位の向上に資する事業
・関係諸官庁及び国会等への陳情折衝
・一般財団法人 職業教育·キャリア教育財団の運営に対する協力
・関係諸団体との連絡交渉 ・関係諸情報の収集並びに調査
・広報紙等の発行 などとなっております。
団体は全専各連委員会/都道府県協会/課程別部会/分野別専門部会といった
様々な委員会や部会ごとに活動が行われており、
具体的には職業実践専門課程指針の決定、
専修学校各種学校都道府県別助成状況調査の実施、
生涯学習カレッジ認定講座の案内、
様々な調査結果や研究報告書の作成などとなっております。
ジャパリパークに勤められている職員の方々の中には、
様々な専修学校及び各種学校での教育を経て
パークでの職務に従事しておられる方もいらっしゃるはずであります。
パークには専門性の高い独自の研究施設も設置されているので、
専修学校及び各種学校での教育はより重要な要素であると考えられます。
世の中は専門性の高い職業に支えられており、
それは専修学校及び各種学校での教育があってこそであります。
これからの教育の更なる充実を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1984年に島根県の荒神谷遺跡にて多数の銅剣が発見された日であります。
・荒神谷遺跡は、島根県出雲市斐川町神庭の小さな谷間にある遺跡であります。
史跡としての指定名称は「荒神谷遺跡」であるが、
地名を冠して「神庭荒神谷遺跡」とも呼ばれております。
1983年、広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い
遺跡調査が行われた際に調査員の方が古墳時代の
須恵器の破片が発見された事から発掘調査が開始されました。
1984年から1985年の2年間にかけて行われた発掘調査にて
銅剣358本/銅鐸6個/銅矛16本が出土され、銅剣は1985年に国の重要文化財に、
銅鐸・銅矛は1987年に追加指定されましたが、1998年に一括して
「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されており、
荒神谷遺跡自体も1987年に国の史跡に指定されております。
1995年、斐川町(現・出雲市)が中心となり遺跡一帯に
「荒神谷史跡公園」が整備され、2005年に公園内に「荒神谷博物館」が開館しました。
出土品は国(文化庁)が所有し、2007年3月に出雲市大社町杵築東に開館した
「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されております。
なお、荒神谷博物館においても、特別展などの開催に際して
出土品の展示が行われる事があります。
一箇所からの銅剣の出土数としては史上最多であり、
この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えました。
これによって、古代出雲に対する「実体の判らない神話の国」という
イメージは払拭される事となりました。その後の加茂岩倉遺跡の発見により、
古代出雲の勢力を解明する手がかりとしての重要性は更に高まりました。
出土した青銅器の製作年代等についてはそれぞれ推定されておりますが、
これらが埋納された年代は現在のところ特定できておりません。
けものフレンズにおいて剣で思い浮かぶ方といえば、
サーベルタイガー様かもしれません。携えられたサーベルは
中世のヨーロッパにて使用されていた物に似たフォルムであり、
また、サーベルタイガー様が左手でサーベルを使用される事から、
鞘が右の腰に携えられているのも特徴的であります。
人類の歴史において、古の時代から様々な武器が使用されており、
剣や槍などは特に長い歴史を持つものであります。
そして何より、武器は争いの象徴となる存在であり、
本来であれば、争いのない平和な世界が望まれるところであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は生命尊重の日であります。
1948のこの日に、「優生保護法」(現在の「母体保護法」)が公布された事を受けて、
主に医師/法律家/教育者/主婦/で構成される
「生命尊重の日実行委員会」によって1984年に制定されました。
お腹の中で生命を育んでいる赤ちゃんや母体を思いやる社会を目指し、
全国各地で様々な活動が展開されております。
・母体保護法は、不妊手術及び人工妊娠中絶に関する
堕胎罪の例外事項を定める事等により、
母性の生命健康を保護する事を目的とする法律であります。
本法に基づいて母体保護法指定医師が指定されており、
また、本法では医薬品医療機器等法の規定に関わらず、
ペッサリー等の避妊具を販売できる特権を有する
受胎調節実地指導員についても規定が置かれております。
1948年7月13日に「優生保護法」として公布され、
1996年の法改正によって現在の名称に改められております。
・優生保護法の施行によって、日本では妊娠22週未満(妊娠21週と6日)までの
母体保護法指定医による中絶手術が許可される事となりました。
これによって刑法における堕胎罪規定が空文化する事となり、
中絶された女性を堕胎罪に問わない事が基本となった事で、
日本において中絶が事実上合法化される事となりました。
一方、この法律では不妊手術が本人でなく親族など保護者の希望/許諾のみで
行われる事が可能になっていたために、障害者の方々など
望まない不妊手術を受けられた方々が政府に対して訴訟を提起されたため、
「旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する
一時金の支給等に関する法律」が2019年4月24日に成立/施行されました。
また、母体保護法により妊婦本人の意向だけでは中絶できず、
配偶者の同意が求められるため訴訟を恐れる医師により、本人が望まない
妊娠の継続を強要される事態が発生する事となってしまいました。
そのため、2021年に厚生労働省によって、婚姻関係が事実上破綻して
同意を得る事が困難な場合に限って不要とする運用指針を定められました。
ジャパリパークにお住まいのフレンズの多くの方々も、
フレンズとなられる前の元の動物の時点において、
私達と同じように母親から生まれておられます。
それは先祖の世代から子孫を残しながら、
現在に至るまで系譜を繋いできた結果である事は明らかであります。
現在の日本は、経済的など様々な要因によって子供を生んで育てるのが難しく、
人口の減少傾向が加速している状況であり、それが生産年齢人口の減少など
あらゆる方面で様々な影響を及ぼしております。
一方、母親本人の望まない妊娠や中絶も大きな問題であり、
一人の生命の扱いにおける難しさについて考えさせられます。
しかし、どんな生き物であっても生命は一つ限り、生涯は一度限りであり、
生まれる命そのものが貴重であり尊重されるべきである事も確かなのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1958年に、日本テレビにて日本初の国産テレビアニメ
「もぐらのアバンチュール」が放送された日であります。
・「もぐらのアバンチュール」は1958年7月14日に
日本テレビで放送されたアニメ作品で、
日本テレビがカラーテレビ放送の実験放送用として、
村田映画製作所出身の鷲角博氏に試作させた作品であります。
1958年6月に完成したアンスコカラー16mmの短編作品で、
日本における最初期の国産テレビアニメにして、
日本初の国産カラーテレビアニメでもあります。
内容はモグラのくろちゃんが夢の中で宇宙旅行に出かけるというストーリーで、
セリフと歌は中島そのみ氏、音楽は山本直純氏が担当されておりました。
切り絵風の絵柄で、随所に実験的な表現が見られるのも特徴であります。
セリフと歌は中島そのみ氏、音楽は山本直純氏が担当されておりました。
・東京新聞の1958年7月14日の番組欄上では「短編映画『もぐら』」と記載され、
毎日新聞の1958年10月15日朝刊のテレビ欄によれば、16:40から17:50の
枠内において短編「江の島水族館」と並んで放送されるとの記述があります。
読売新聞と日本経済新聞の当日朝刊のテレビ欄では「もぐらのアバンチュール」は
記載が無く「江ノ島水族館」のみが記載されておりますが、
それはカラー放送とされており、本作品もカラーで放送された可能性があります。
ただ、テレビのカラー放送は実験放送期間中であり、
また、国産のカラーテレビ受像機が市販されたのは1960年であるため、
カラーで放送されていたとしてもご覧になられた方はかなり限定されました。
なお、朝日新聞の当日朝刊のテレビ欄ではこの番組の記述はありませんでした。
・この作品は著書「日本アニメーション映画史」などにも記述があり、
制作されていた事実は確認されておりましたが、
実際に放映されたかどうかについては確認されておらず、
これまでは未放映作品とされてきました。そのため、1960年にNHKで放送された
「新しい動画 3つのはなし」が最古の国産テレビアニメとされておりました。
2012年になって、1958年当時の新聞のテレビ欄に
本作品についての記述が存在している事が確認されました。
その事実がアニメ雑誌「アニメスタイル」のコラム記事に掲載され、
日本初の国産テレビアニメが本作品である事が知られるようになりましたが、
フィルムの所在そのものは確認できないままでありました。
2013年、アニマックスでのテレビアニメ50周年の特別番組
「TVアニメ50年の金字塔」の制作にあたり、日本テレビ生田スタジオにおいて
この作品のフィルムがフィルム整理の過程で所在が確認されていた事が判明し、
アニマックスのプレスリリースにより本作品の特別番組内での放送が発表され、
続いて新聞各紙やテレビ番組、「アニメスタイル」の記事にて紹介されました。
これらの経緯から、2013年7月21日にアニマックスの特別番組
「TVアニメ50年の金字塔」内で55年ぶりに再放送されました。
これらの報道やテレビ番組で番組のタイトル部分の表示が一般に公表され、
番組名がカタカナ表記の「モグラのアバンチュール」ではなく、
平仮名表記の「もぐらのアバンチュール」として知られる事となりました。
2017年7月27日、日本テレビ「ぐるぐるナインティナイン」にて
本作が紹介される際に改めてライブラリの精査が行なわれ、
本放送日が1958年7月14日である事が確認されました。
けものフレンズはゲームアプリからスタートしたコンテンツでありますが、
テレビアニメによって大きな注目を集めたのは皆様ご存知の通りであります。
もちろん、「もぐらのアバンチュール」の時代とは違って、
制作技術や環境、日本のアニメ文化も大きく発展しております。
日本の放送文化にとってアニメーションは欠かせない技術の一つであり、
アニメ作品は日本が世界に誇れるコンテンツの一つでもあります。
アニメ文化のこれからの更なる発展を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日はファミコンの日であります。
1983年のこの日、任天堂から家庭用ゲーム機
「ファミリーコンピュータ」が発売された事に因んで制定されました。
・ファミリーコンピュータは、1983年7月15日に
任天堂より発売された家庭用ゲーム機であり、
携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」が国内外で成功した事を受けて、
当時の任天堂がその利益を投入して開発されたゲーム機であります。
アーケードゲームとして人気を博していた「ドンキーコング」が
見劣りなく家庭で遊べる程度の性能を目標に設定して、
1981年10月または11月頃より、当時業務用ゲーム事業の縮小によって
手の空いていた開発第二部によって開発が行われました。
開発の主なテーマとして、低価格/ソフト重視/デザイナー重視/
観るだけでも楽しめる映像表現/簡易な操作性が挙げられた結果、
ゲームに不要な部分を排除したゲーム専用機に絞った事で、
汎用機と比較して高性能化を実現する事が可能となり、
低価格実現のためにソフトとハードを別としたのも特徴でありました。
当初、本機と同時に発売されたソフトは「ドンキーコング」
「ドンキーコングjr.」「ポパイ」の3本だけでしたが、
ゲームセンターや一部の喫茶店でしか遊べなかったゲームが
家でも遊べる事から、発売当初から大人気商品となりました。
また、1985年に「スーパーマリオブラザーズ」が発売されると
人気は一気に加速してファミリーコンピュータは全国的なブームとなり、
「ファミコン」の愛称と共に、現在に至るまで親しまれる存在となりました。
日本国外では台湾や香港でも一部を現地仕様に合わせた上で発売され、
一方で北米のアメリカ及びカナダ/ヨーロッパのEC加盟諸国(当時)/
オーストラリア/韓国では主要部分の仕様がファミコンと同一の
「Nintendo Entertainment System」(略称・NES)として発売されました。
1993年12月1日には1983年以来となる新型機
「AV仕様ファミリーコンピュータ」が発売され、
この名称は他のゲーム機では既に主流となっていた
コンポジットビデオ出力によるテレビ接続が可能である事に由来しております。
一般にはテレビCMで用いられた「ニューファミコン」
または「NEWファミコン」の通称で呼ばれる事が多いとされております。
長らく生産されたファミリーコンピュータでありましたが、
2003年9月をもってスーパーファミコンの廉価機
「スーパーファミコンジュニア」と共に製造出荷を終了する事となりました。
最終的な出荷台数は日本国外版にあたるNESも合わせて、
日本で1935万台/アメリカで3400万台/その他の国で856万台/
全世界累計6191万台という破格の大記録を打ち立て、
現在に至るまでゲーム機の金字塔的存在として親しまれております。
けものフレンズはゲームアプリからスタートしたコンテンツであり、
現在でも「けものフレンズ3」をメインに展開しております。
その表現などはファミコンの時代のそれとは比較にならないほど進化しており、
ありとあらゆる表現が自由かつ容易にできるのは現代ならではであります。
他方、ファミコンの描画や音源などによって製作された様々な作品が、
ファンの方々による二次創作として多数公開されております。
今や、ゲームは内容や表現などにおいて飛躍的な進歩を遂げており、
また、遊びのみならず、eスポーツという競技としても確立されつつあります。
そこに至るまでの道のりにおいて、ファミリーコンピュータというゲーム機が
いかに偉大な存在であるかを改めて感じる次第であります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1661年にストックホルム銀行が、
世界初の国家の承認を受けた紙幣を発行した日であります。
・スウェーデン国立銀行はスウェーデンの中央銀行であります。
前身となる「ストックホルム銀行」は、1656年にヨハン・パルムストルック氏が
創設された民営の融資銀行/為替銀行であり、同行の設立は
当時のスウェーデン国王カール10世に承認されたものであります。
民間企業でありながら政府機関としても機能していたのが特徴でありました。
ストックホルム銀行の経営は初期から近代的であり、
融資部門では動産/不動産を担保とする貸付ができ、
為替部門では国内に流通していた複数種の通貨の預金、現物の鋳貨の引き出し、
小切手を振り出して預金を預けたまま譲渡を行う事も可能でありました。
特に後者は、預金債権の譲渡が原則禁止されている
今日の銀行システムとは対照的なものでありました。
同行は順調に利益を出しましたが、国内で銀や銅が不足する状況となると、
純銅を従来券面額で鋳造されていたところを、他の金属を混ぜて
券面額を増やす改鋳が行われる事が決まりました。
券面額が同じ銅貨を比べると改鋳前の方が銅が多く含まれており、
ストックホルム銀行は素材価値で勝る改鋳前を大量に預かっていたため、
融解輸出して利益を得ようとする預金者が取り付けに殺到し、
銀行が保有する銅貨は瞬く間に融解輸出に廻る事となりました。
1661年7月16日、これに対応する形でヨーロッパで初となる
紙幣の発行に踏みきる事となりました。これはいわゆる信用紙幣であり、
銀行振り出しの手形である事から鋳貨に兌換できるものでありました。
同じ券面額の銅貨に対して、時としてより高い相場で取引された事から
同行は紙幣を貸付に用いて融資を活発化させました。
しかし、紙幣の流通量が増えた一方で金庫の鋳貨が増える事はなかったため、
鋳貨準備率低下で兌換が難しくなった結果、1663年秋にデフォルトが公となり、
紙幣は割引かれて新規融資もストップする事となりました。
1668年9月17日、スウェーデン議会にて新銀行設立を認可する法律が制定され、
新銀行の経営権は議会の監督下に置かれました。
この「国立諸階級銀行」はストックホルム宮殿を間借りする形で新設され、
旧ストックホルム銀行の資産/負債/雇用関係の一切を継承せず、
認可されたその日のうちに開業されました。
発進力として、政府は王室の流動資産を国立所階級銀行へ預けるなど、
王室と銀行との結びつきを強めましたが、これは王室の状況によって
銀行の経営が左右される事でもあり、1709年に勃発したポルタヴァの戦いで
国が敗れた事をきっかけにデフォルトは断続的に発生する事となりました。
1718年のカール12世政権の終焉から1772年のグスタフ3世のクーデターまでの
半世紀に渡る議会統治とそれに伴って公民権が拡大した期間である
「自由の時代」を経て、銀行経営は諸階級の手を離れて財務大臣に移り、
その後、1830年代に民間銀行制度が整った事で、諸階級銀行は民間銀行の
準備率を満たすための「準備金」を集める立場となりました。
1866年、議会改革によって王国の4階級が廃止されて、
議会に上院と下院が設けられ、その翌年から議会によって
国立諸階級銀行は「スウェーデン国立銀行」に改称されました。
1873年、スウェーデンはデンマークと共に、金を基礎とする
「スカンディナヴィア通貨同盟」を結成し、共通の通貨単位として
クローナを導入して諸外国に対して統一的な為替レートを設定する事となり、
1875年にはノルウェーも参加しております。
1879年に民間発行の手形が割引され、国立銀行の一般企業向け貸出を廃止し、
1896年に手形交換制度が制定され、その翌年にスウェーデン国立銀行は
立法により通貨の独占発行権を獲得する事となりました。
その6年後に民間銀行の発券が停止された事によって、
スウェーデン国立銀行は中央銀行としての役割を果たす事となり、
1899年に手形交換制度が国立銀行によって運営される事が決まりました。
第一次大戦/世界恐慌/第二次大戦の時代にわたって経営が続けられましたが、
1992年にクローナが暴落し、カナダ銀行の指導を受けて為替相場の変動と
インフレターゲットに基づいた金融政策を構築する事となりました。
2007年から2010年までの世界金融危機を経てからの政策は、
日本銀行の政策と似たものであるとされております。
ジャパリパークではパーク内専用の通貨「ジャパリコイン」が流通しております。
この通貨はパーク内の様々なサービスに対して利用可能でありますが、
現金と引き替えで得られるものなのかどうかは判然としておりません。
現在、暗号資産など通貨においてもデータ化が進んでおりますが、
貨幣や紙幣といった現金は今でも大きな価値を持った存在であります。
資産としての有り難みを改めて考えるのも良いかもしれません。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日はイギリスの動物学者/著作家でいらっしゃる、
ジョージ・フィリップ・ウェルズ氏の誕生日であります。
・1901年7月17日、イギリスのサイエンス・フィクション作家
ハーバート・ジョージ・ウェルズ氏のご子息としてお生まれになり、
後に通われたアウンドル・スクールでは、イギリスの学校にて
現代語としてロシア語を学んだ最初の学級に所属しておられました。
1920年に父親のソ連訪問に同行されてロシア語の通訳を務められ、
また、動物学を学ばれるロシア人学生の方々と意見交換を行われました。
後にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ入学時に総代を務められ、
また、一年生時は首席の学生でもいらっしゃいました。
ウェルズ氏は比較生理学者として無脊椎動物の門を研究対象とされ、
それらの動物における、海水の塩分濃度や
イオンバランスの変化に対する耐久力を測定された他、
陸生腹足類の水分生理について分析を行われました。
その後、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの
動物学部の教員に、最終的には教授に就任されました。
ウェルズ氏の動物学的知識は極めて広範に渡り、その主たる研究は多毛綱
トゴカイ目タマシキゴカイ科のArenicolaに関するものでありました。
また、巧妙な手法によってその生態を観察され、
その行動の多くを司る律動が食道で起きている事を明らかにされました。
実際にそのような自発的な律動活動は多毛類の多くで見られます。
1955年には王立協会のフェローに選出されております。
また、ウェルズ氏は「ジップ」("Gip")の愛称でも広く知られており、
この名前は父親の短編小説「魔法の店」にも登場しております。
1985年9月27日、ウェルズ氏は84年の生涯を閉じられました。
ジャパリパークにはヒトやフレンズの他に様々な生物が存在しており、
無脊椎動物も様々な種類が存在しているものと思われます。
それはパーク内または周辺地域の生態系に深く関与しており、
パークが様々な生物にとって重要な場所となっている事の表れでもあります。
地球は様々な生物の活動によって支えられており、
それぞれが重要な役割を有している事に関して、
様々な研究を進められた先人の方々には頭が下がります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日はドイツの神学者/哲学者でいらっしゃる、
イマヌエル・ヘルマン・フィヒテ氏の誕生日であります。
日本では「小フィヒテ」の通称としても知られております。
・1797年(1796年生まれという説もあり)7月18日に、
ドイツ観念論を代表する哲学者のヨハン・ゴットリープ・フィヒテ氏の
ご子息としてお生まれになり、ベルリン大学にて学ばれていた時代に
扇動者としての嫌疑が掛けられて苦境に陥いられましたが、
1836年にボン大学の正教授に就任されました。
1842年から1863年に定年退職されるまでテュービンゲン大学にて
哲学の教鞭を執られました。フィヒテ氏の哲学は、
同じくドイツの哲学者のヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト氏と
ゴットフリート・ライプニッツ氏から影響を受けておられましたが、
それら全てはヴィリヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル氏の宗教哲学と、
フリードリヒ・シェリング氏の後期哲学から影響されていたものでありました。
後にクリスチャン・ヘルマン・ヴァイセ氏と共に
後期観念論の具現化に努められましたが、晩年はドイツの神秘主義者の
ヤーコプ・ベーメ氏などの神知学の影響を強く受けられました。
また、フィヒテ氏は父親の講義録や著作集(知識学など)の編纂も行われ、
父親の生前の時代には殆ど知られていなかった
知識学の講義の内容を広められた功績も大きいとされております。
フィヒテ氏が編纂されたフィヒテ全集は「小フィヒテ版」と通称され、
現在でも専門的にフィヒテ研究を行う際に欠かせないものとされております。
1879年8月8日、フィヒテ氏は82年の生涯を閉じられました。
みんみ教という考え方が表れて以降、様々な角度から様々な手法によって
「みんみ教とは何か」といった探究が多くの方々によって行われてきました。
その答えは「みんみ様そのもの」というシンプルなものでありながら、
それが何故人々を惹き付けるのかという問いについては、
探究される方々ごとにアプローチが異なる場合もあり、
その多くが充分に納得できる内容を持つという興味深いものであります。
哲学は人類にとって重要かつ永遠のテーマの一つであります。
難しい内容ではありますが、じっくり考えるのに相応しいものであり、
そこから知の世界に没頭されるのも、たまには良いかと思われます。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1976年に、ネパールでサガルマータ国立公園が創設された日であります。
・サガルマータ国立公園はネパール北東部に位置する山岳地帯にある国立公園で、
サガルマータとはネパール語でエベレストの事であります。
世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈の中でも高い山が連なっており、
世界最高峰のエベレスト/ローツェ/マカルー/チョ・オユーなどがあります。
1148㎢の面積を有する公園内には高山植物やレッサーパンダ、
ジャコウジカなどの珍しい動物も生息しており、近年は登山家の方々以外に、
公園内のトレッキングを楽しむ旅行者の方々も増えております。
1979年、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産登録基準のうち、
「(7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ
最高の自然現象または地域を含むもの。」の条件を満たして
自然遺産に登録され、また、公園内にあるゴーキョー湖などは
ラムサール条約の湿地に登録されております。
ジャパリパークは、ちほー/エリアごとに豊かな自然環境を有しており、
山岳地であれば、サンドスターが噴出する山/こうざん/
ゆきやまちほーあたりが思い浮かぶかもしれません。
いずれの地域においても、豊かな自然環境がフレンズの方々の生活を支えるのに
重要な役割を果たしている事は間違いありません。
ヒマラヤ山脈を含むネパールの山岳地帯は、多くの地域の気候に影響を及ぼす
重要な場所であります。豊かな自然環境の保全のためにも、
私達の日々の取り組みの積み重ねが重要となるのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1974年に船の科学館が開館した日であります。
・船の科学館は、東京都品川区東八潮の現東京臨海副都心地区に
1974年7月20日に竣工/開館した海事博物館で、
公益財団法人 日本海事科学振興財団によって運営されております。
船舶や海運/海洋開発/海上保安に関する事柄を中心に、
船舶の構造/歴史の解説や、エンジンなど各種機器の展示を行っております。
財団法人 日本船舶振興会(現在の公益財団法人 日本財団)が、
モーターボート競走の収益金を世のため人のために生かす事業として
海事博物館の設立を構想したのが始まりであり、
1967年に日本海事科学振興財団を設立して開館に至っております。
株式会社三橋設計によって設計された本館が1974年7月20日に開館し、
開館当時は現在の東京臨海副都心地区最初の建築物といえる建物でありました。
1978年からおよそ1年間にわたり同館周辺で開催された宇宙科学博覧会では、
1期/2期の両期で1100万人もの来場者を集めました。開館以来、
同館の運営には日本財団がボートレースの収益を元に助成を行っており、
競艇と関わり合いの深い施設となっております。
・2011年7月1日、同年9月30日をもって本館での展示を無期限で休止すると共に、
青函連絡船「羊蹄丸」の展示保存を終了する事が発表されました。
本館は開館後37年が経過して施設建屋や展示内容共に老朽化が著しく、
羊蹄丸は維持費負担の点から国内団体に無償譲渡される事となりました。
発表後の7月20日から休館日までは謝恩価格として
入館料が大人200円に引き下げられると共に企画展やイベントなどが開催され、
休館前の2か月間で12万人以上の見学者の方々が来館されました。
最終日は羊蹄丸の模擬出港などのセレモニーが実施されました。
・2011年10月1日以降も南極観測船「宗谷」と屋外展示物の公開を行っており、
2017年までは体験教室プールで各種イベントを開催しておりました。
また、2012年1月2日からは新設されたMINI展示場にて
本館収蔵資料の展示公開を開始し、現在は「別館展示場」と呼ばれております。
2016年には隣接地での東京国際クルーズターミナル建設に伴い、
「宗谷」の展示場所を対岸桟橋に移動したしております。
なお、宗谷/別館/屋外展示ともに入場無料となっております。
本館展示休止中は、本館展示や収蔵品の画像等を公式ホームページに掲載し、
インターネットを通じて公開するという「バーチャル博物館」の試みと共に、
資料の貸し出しを行う「海と船の博物館ネットワーク」の試み、
本館展示のリニューアルを検討するとしておりますが、
老朽化した本館施設の処置も含めて具体的な内容は明らかとなっておりません。
幾つもの島で構成されているジャパリパークにおいて、
船舶は重要な交通手段の一つとなっており、
パーク内における島への往来はもちろん、島外との物資運搬や連絡運航、
お客様の来園/帰着手段としても大きな役割を果たす存在であります。
地殻面の大部分を占める海洋において、船舶は古くから重要な交通手段であり、
船舶に関する技術や運用などは時代と共に進化しております。
これからの時代の船舶がどのようなものとなるのか楽しみであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1787年(旧暦・天明7年6月7日)に御所千度参りが発生した日であります。
・御所千度参りは、天明7年6月7日(1787年7月21日)に
京都御所の周囲を多数の人々が廻られ、千度参りをされた出来事であります。
天明7年6月7日頃から始まり、初めは数人であった人数は段々増えて行き、
6月10日には3万人に、6月18日頃には7万人に達したといわれております。
御所千度参りに集まられた方々は京都やその周辺のみならず、
河内や近江、大坂などから来られた方々もいたといわれております。
京都は人であふれ、後桜町上皇からは3万個のリンゴ
(日本で古くから栽培されている和林檎)が配られました。
他にも、有栖川宮や一条家などではお茶が、
九条家や鷹司家からは握り飯が配られました。
光格天皇がこの事態を憂慮され、京都所司代を通じて
江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求されました。
これは、禁中並公家諸法度に抵触する行為であったため、
天皇の叔父でもいらっしゃる関白の鷹司輔平氏も
厳罰を覚悟の上で、同様の申し入れを行われました。
これに対して、幕府は米1500俵を京都市民へ放出する事を決定し、
禁中並公家諸法度の抵触に関しては、事態の深刻さから
天皇や関白が行動を起こしたのも当然の事であるとして不問としております。
この背景には、天明の大飢饉や、同年4月に徳川家斉氏が
将軍に就任された事から徳政を求める意味もあったと思われます。
また、朝廷の行動が実際の救済行動に結びついた事で、
尊王論の興隆の一因となったともいわれております。
みんみ教は、慈愛と寛容の象徴であらせられる
みんみ様を中心とした穏やかな集まりでありますので、
心に不安を抱えておられる方々がお参りになられる場合もあります。
みんみ様も、みんみ様を礼賛しておられる方々も、
穏やかに迎え入れて下さる事でありましょう。
信仰は人々の心の拠り所であります。その祈りが穏やかな流れとして、
世界中の方々の幸せのために広がる事を切に願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1968年に鈴鹿国定公園が指定された日であります。
・鈴鹿国定公園は、滋賀県と三重県の県境に跨がる
鈴鹿山脈一帯からなる国定公園で、1968年7月22日に指定されました。
滋賀県域17184ha/三重県域12709ha、合計29893haの面積を持っており、
御池岳/藤原岳/竜ヶ岳/釈迦ヶ岳/御在所岳/雨乞岳/鎌ヶ岳/
入道ヶ岳/仙ヶ岳/明星ヶ岳/筆捨山/羽黒山/観音山/那須ヶ原山/
綿向山/竜王山/水無山といった鈴鹿山脈の豊かな自然環境が特徴であります。
降水量が非常に多いため樹木の生育が著しく、標高700m付近になると
日本海側で繁茂するブナやアカマツなどの混淆林も見られます。
また、北部は石灰岩の地形が、南部東麓は花崗岩の地形が多いため、
青川峡/宇賀渓/八風渓谷/朝明渓谷/宮妻峡/小岐須渓谷/石水渓といった、
河川の浸食によって形成された渓谷が多く見られます。
中京圏の身近な行楽地として利用客が非常に多い公園であり、
三重県側の2003年の観光入込客数は320万1千人で、伊勢志摩国立公園や
水郷県立自然公園に次いで観光客が多い公園となっております。
また、近隣には、湯の山温泉や椿大神社といった観光スポットもあります。
ジャパリパークは数々の島からなる広大な動物園施設であると同時に、
数多くの豊かな自然環境を有する自然公園的な側面も持ち合わせております。
それは、フレンズの方々が安全かつ健康に暮らす事のできる環境作りのために、
可能な限りそのままの自然環境を残している結果でもあります。
自然公園は、人間では到底及ばない地球の営みによって形作られたものであり、
私達の生活は、間接的であってもその自然環境に支えられております。
その豊かな自然環境を末永く保全していくためにも、
私達の日々の取り組みの積み重ねが重要となるのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1946年に、日光東照宮内にある26棟の建造物が
戦後初となる国宝に指定された日であります。
・日光東照宮は栃木県日光市に所在する神社で、江戸幕府初代将軍の
徳川家康公を神格化した東照大権現が主祭神として祀られております。
日本全国の東照宮の総本社的存在となる神社であり、
久能山東照宮や上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられております。
正式名称は地名を含めない「東照宮」でありますが、
他の東照宮との区別のために「日光東照宮」と呼ばれる他、
公式ホームページでも日光の地名が付けられております。
・隣接する仏教寺院の輪王寺は、奈良時代の天平神護2年(766年)に
僧の勝道氏(勝道上人)による日光山の開山を実施した後、
関東地方の霊場として鎌倉幕府将軍の源頼朝公からも寄進を受けました。
頼朝公が母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えられて以来、
鎌倉幕府/関東公方/後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威となり、
こうした歴史を背景に徳川氏は東照宮を造営されたと考えられております。
元和2年4月17日(1616年6月1日)に家康公は駿府にて生涯を閉じられ、
遺言によって遺骸は直ちに駿河国の久能山に葬られました。
同年中に久能山東照宮が竣工しましたが、翌・元和3年(1617年)に
二代将軍の秀忠公が下野国日光での改葬を、天台宗の天海氏に命じられました。
日光では同年4月に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と
正一位の位階の追贈を受けられ、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、
家康公の一周忌にあたる4月17日に遷座祭が行われました。
寛永11年(1634年)9月(9月か10月)に三代将軍の家光公が日光社参を行われた後、
寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ、
荘厳な社殿への大規模改築が行われました。江戸はもとより
京や大坂からも集められた宮大工の方々によって工事が行われた後に竣工し、
この年に江戸に来訪された朝鮮通信使の方々による日光参詣に用いられた事から、
将軍家の政治的威光といった役割としても利用されましたい。
正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて「東照社」から「東照宮」に改称し、
国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、
奉幣使(日光例幣使)が派遣されました。
家康公が日光に祀られる事となったのは家康公本人の遺言によるものであり、
臨済宗の以心崇伝氏の日記「本光国師日記」には
「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、
日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。
そして、八州の鎮守となろう」という記述が残されております。
家康公が目指された「八州の鎮守」とは日本全土の平和の守り神の事でもあり、
不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と
日本の恒久平和を守ろうとした事が伝えられております。
1869年の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、
寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立しており、
現在でも東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中の施設が一部にあります。
1873年に別格官幣社に列せられ、第二次大戦後は神社本庁の別表神社となり、
1985年に神社本庁を離れて単立神社となりました。
1946年7月23日、東照宮内の26棟の建造物が戦後初となる国宝に指定され、
1998年5月14日に「日光山内」の名称で国の史跡に指定されました。
1999年12月2日には、モロッコのマラケシュで開催された、
国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産委員会にて、
「日光の社寺」の名称で文化遺産として登録されております。
神事は例年行われている行事以外に、50年ごとに式年祭が行われており、
家康公の没後およそ400年の2015年には式年大祭が行われております。
みんみ教は、慈愛と寛容の象徴であらせられる
みんみ様を中心とした穏やかな集まりであります。
特定の建造物といったものが存在しないかわりに、このトピック以外にも
みんみ教に関連する作品や掲示板、みんみ教wikiなどのサイト等々、
時間を問わず様々な場所にて祈りを捧げる事が可能となっております。
国家元首を神として祀るという事自体は現代とは異なる思想ではありますが、
国家の安寧を願う精神そのものは時代を問わないものであり、
穏やかなる祈りとして未来永劫伝えられるものであると信じております。
世界に、みんみ様の御加護のあらん事を……。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日はセルフメディケーションに関する記念日が2つあります。
・まずはセルフメディケーションの日であります。
セルフメディケーションでは身体の変調等のチェックを
1日24時間/1週間欠かさず毎日行うものとされており、
「1週間=7日」「1日=24時間」の数字を7月24日に見立てる事から
日本OTC医薬品協会によって制定されました。
セルフメディケーションに対する意識と行動を
多くの方々に促す事を目的としております。
なお、日本OTC医薬品協会については、2021年12月11日の
「胃腸の日」の際に書き込みをさせてもらっております。
・もう一つは国際セルフケアデーであります。
「セルフメディケーションの日」と同様に、
「1週間=7日」「1日=24時間」を7月24日に見立てる事から、
国際セルフケア財団によって2011年に制定されました。
・セルフメディケーション(または自主服薬)とは、
傷病や症候を個人で判断して医療製品を使用する事で、
自分自身で健康管理あるいは疾病治療を行う、セルフケアの一つであります。
自身で医療製品(OTC薬など)を使用してセルフケアを行う事によって、
過剰なまでの医療機関の受診による手間と費用を省く事を可能としております。
政府の側からは、政府予算の重荷となりつづけている保険医療費が
セルフメディケーションによって抑制される効果も期待されており、
2017年1月より、国民のセルフメディケーションの推進を目的とし、
医療費控除の特例としてセルフメディケーション税制が開始されております。
また、医師のマンパワーの不足によって、いわゆる「3分診療」や、
医師の過労状態などに陥ってしまっている医療機関にとっては、
セルフメディケーションによって来院者数が適切なレベルまで減る事で、
早急は治療を必要とされている方に医師のマンパワーや
医療資源をまわす事ができる、一種のトリアージの役割も期待できます。
健康維持のため、あるいは軽度の不調から回復する助けとするための
市販薬やサプリメントや薬草等に関する知識を自力で得る方法としては、
図書館等を活用して薬剤師による著書か、インターネット上にて
薬剤師が無料で公開されている情報などを閲覧する事ができ、
不明な点や疑問がある場合は薬剤師や登録販売者に問い合わせる事もできます。
医薬品に関しては、病院で処方箋を書いてもらう必要があった医薬品の中には、
現在は処方箋なしで薬局で購入できる「スイッチOTC」(市販薬)もあります。
薬剤師に対する相談料は2016年現在、通常不要となっております。
ジャパリパークにおいては、その立地などを鑑みて
パーク内に医療機関が設置されている可能性があります。
広大なパーク内ではすぐにその医療機関を利用できない場合も考えられますので、
治療薬の携行や使用といったセルフメディケーションも重要と考えられます。
日々の生活において怪我や病気はいつ発生してもおかしくないものであり、
軽度のものに関してはセルフメディケーションも有効な手段であります。
しかし何より、様々なリスクを想定した行動によって、
怪我や病気をなるべく避けるのに越した事はないのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1985年に、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」が
日本において発効された日であります。
・女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約は、
公平な女性の権利を目的に女子差別の撤廃を定めた多国間条約で、
略称は「女子差別撤廃条約」または「CEDAW」(セダウ)であります。
1979年12月18日に開催された第34回国連総会において採択され、
1980年3月1日に署名のため開放、1981年9月3日に発効されました。
2014年9月現在、署名国は98か国、締約国は189か国であります。
日本においては、1980年7月17日に署名が行われ、
1985年6月24日に条約締結が承認、1985年6月25日に批准書寄託、
1985年7月25日に効力発生となっております。
・前文および30か条から成り、政治的/経済的/社会的/文化的/市民的
その他のあらゆる分野における男女同権を達成するために
教育の分野も含めて、いずれかの性別の優位や性役割に由来する
ステレオタイプの撤廃など必要な措置を定めております。
この条約の特徴は、法令上だけでなく、事実上/慣行上の差別も
条約の定める差別に含まれると規定している点であり、
また、私人間および私的分野も含めた差別撤廃義務を締約国に課しております。
ただし「男女の事実上の平等を促進することを目的とする暫定的な特別措置と、
母性の保護を目的とする特別措置」(第4条)は差別とはみなされず、
売春や人身売買からの保護についても規定されております(第6条)。
そして、教育を受ける権利における差別撤廃(第10条)、
同一の雇用機会、同一価値労働についての同一賃金、
育児休暇の確保や、妊娠または育児休暇を理由とする解雇や、
婚姻の有無に基づく差別的解雇を制裁を科して禁止すること、
従来の雇用関係の維持(第11条)についても規定されております。
・この条約では、締約国に条約実施のためにとった
立法/司法/行政上その他の措置およびそれらの措置によってもたらされた
進歩を報告するよう義務付けられておりますが、締約国の増加に伴って、
委員会の報告検討業務に遅滞が生じる事態となりました。この問題の解決のため、
1995年第8回締約国会議において委員会の会合の期間を一定の条件の下、
締約国の会合において決定できるようにする改正案が採択されました。
1995年第50回国連総会で採択、同年5月22日にニューヨークで作成されました。
第20条1の改正内容は次のとおりであります。
改正前「委員会は、第18条の規定により提出される報告を検討するために
原則として毎年二週間を超えない期間会合する。」
改正後「委員会は、第18条の規定により提出される報告を検討するために
原則として毎年一回会合する。委員会の会合の期間は、国際連合総会の
承認を条件としてこの条約の締約国の会合において決定する。」
日本においては、2003年5月14日に国会承認され、
2003年6月12日に受諾書寄託となっております。
・女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約の選択議定書は、
女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約の締約国の管轄下にある
個人または集団が、国による条約違反によって被害を受けた場合、
国連の女子差別撤廃委員会に通報ができる個人通報制度を定めたものであります。
1999年10月6日、国連第54回総会において採択されました。
通報には、全ての国内的救済措置を尽くしている事が条件とされますが、
救済措置の実施が不当に引き延ばされている場合や、
効果的な救済をもたらさない場合は通報が可能となっております。
通報を受けた女子差別撤廃委員会は、報告の受理可能性や、
内容が差別撤廃条約に違反しているか否かを審査し、締約国に対して
意見や勧告を行いますが、委員会の意見および勧告には法的拘束力はありません。
この選択議定書には2015年9月現在、世界106カ国が批准しておりますが、
「司法権の独立含め、我が国の司法制度との関連で問題が生じるおそれがある」
等の懸念があるため、日本は2015年9月現在、批准しておりません。
ジャパリパークにおける雇用形態などは判然としておりませんが、
職員における女性比率が比較的高いであろう状況を考えると、
雇用条件などで女性にとって不利となるものが含まれる事は考えづらく、
差別などが発生しないようにする対策が講じられているものと思われます。
世界中における雇用において女性の力がこれから更に重要となり、
生産年齢人口が減少している日本においては殊更重要となります。
女性は妊娠から子育てに至るまでのプロセスも大切でありますので、
その期間なども考慮した柔軟な雇用が一般化する事を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日はスコットランド出身の文献学者/辞典編纂者でいらっしゃる、
ジェームズ・オーガスタス・ヘンリー・マレー氏の命日であります。
初版刊行まで70年を費やし、英語分野において最も信頼されている辞書
「オックスフォード英語辞典」(「OED」)の編集主幹を務められた人物であります。
1837年2月7日にスコットランドにある仕立屋にてお生まれになったマレー氏は
1851年に14歳で学校を卒業され、その後の進学は経済的理由で不可能となるも、
ラテン語/フランス語/イタリア語/ドイツ語/ギリシャ語を身に付けられました。
1867年に大英博物館への就職を希望されるも採用には至りませんでしたが、
1869年に文献学会の評議委員に就任され、
1873年に「スコットランド南部諸州の方言」を出版されました。
1877年に文献学会から辞典編纂の打診を受けられ、数ページ作成された見本は
出版元として有力だったオックスフォード大学出版局に送られました。
1878年にオックスフォード大学に招かれて大学出版局の理事と面談され、
翌年に文献学会とオックスフォード大学出版局が正式に契約を交わされました。
マレー氏が編集主幹に就任され、「OED」の編纂が進められました。
1915年7月26日、マレー氏は胸膜炎によって78年の生涯を閉じられましたが、
その後も編纂作業は継続され、1927年の大晦日に「OED」完成が宣言されました。
1928年、全10巻に製本された「OED」の完全版が発行されました。
ジャパリパークは様々な国や地域からのお客様の来園に対応するために、
様々な言語による案内などのサービスが行われているものと思われ、
その中でも多くの生活圏にて用いられている英語は特に重要であると思われます。
また、「けものフレンズ3」に登場されるカレンダ様は英語を常用されている事から、
英語圏の中でも欧米地域の出身ではないかと想像できます。
前述の通り、英語は多くの生活圏にて用いられており、英語の教育や研究に際して
「OED」は現在においても非常に大きな役割を果たしております。
言語の世界において、辞書や参考書の作成は重要なものの一つであり、
その作成に携わっておられる方々に対して、頭が下がる思いであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。