けものフレンズBBS NEO

みんみ教徒の集い

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みんみとは、全て
みんみとは、虚無

あなたももう気づいているでしょう
みんみの素晴らしさに
気づかないふりをするのはもうおやめなさい

皆様に素敵なみんみがありますように
みんみぃ

名無しのフレンズ
作成: 2018/01/21 (日) 16:35:05
最終更新: 2018/01/21 (日) 20:48:48
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3346
流浪のみんみ教徒 2022/06/07 (火) 00:03:03 457e0@869e2

本日はグリーンランド出身の極地探検家/人類学者の
クヌート・ラスムッセン氏の誕生日であります。
・1879年6月7日、グリーンランドのイルリサットにて
 デンマーク人の宣教師の家にお生まれになり、
 グリーンランドのイヌイットの方々と共に過ごされ、言葉や狩りの方法、
 犬ぞりの使い方、厳しい季候の中での暮らし方を学ばれました。
 後にシェラン島の北部の街Lyngeで教育を受けられ、20歳頃までの2年間は
 俳優やオペラ歌手を目覚されましたが成功とはいきませんでした。
 1902年から1904年にかけて"The Literature Expedition"と呼ばれる
 最初の探検旅行をJørgen Brønlund氏とHarald Moltke氏、
 Ludvig Mylius-Erichsen氏と行われ、イヌイットの文化を調査されました。
 帰国後は講演旅行を行われ、1908年にイヌイットの風俗をまとめた旅行記
 「The People of the Polar North」を出版されました。
 1910年に友人のピーター・フロイヘン氏とグリーンランドのケープ・ヨークに
 「Thule Trading Station」を設立され、ここが7回にわたる
 ラスムッセン氏の探検旅行の基地となりました。その後の1912年、
 ラスムッセン氏とフロイヘン氏は、アメリカ人探検家ロバート・ピアリー氏の
 「ピアリーランドがグリーンランドと海峡で隔てられている」との主張が
 正しいかどうかを確認するために最初の探検を行われました。
 内陸氷地帯を1000kmに亘って探検された結果、
 ピアリーランドが半島である事を証明された事から、
 王立地理学会のClements Markham会長から
 「犬ぞりでなされた最も優れた業績」と賞賛されました。
 この探検についてフロイヘン氏は、「Vagrant Viking」(1953)と
 「I Sailed with Rasmussen」(1958)の2冊の探検記を出版されました。
 1916年から1918年の間に行われた2回目の探検は7人のチームによって、
 グリーンランド北海岸部の地理情報を得るために行われました。
 この探検はラスムッセン氏の探検の歴史で唯一となる、
 2名の犠牲者を出す結果となり、この記録は1921年に出版された著書
 「Greenland by the Polar Sea」として纏められました。
 1919年にノルウェーの探検家ロアール・アムンセン氏に協力するための
 3回目の探検を行われ、1919年から1920年にはグリーンランド東部を探検され、
 Angmagssalikの近くの民俗学的資料を収集されました。
 1921年から1924年の間に行われた探検は、
 エスキモーの人種的起源を探究するために行われ、そこで収集された
 民族学/考古学/生物学的資料は、現在デンマークの博物館に展示されております。
 そして、10巻からなる「The Fifth Thule Expedition 1921-1924」は
 後の1946年に出版されました。探検隊はカナダ東部北極圏にて
 標本の収集やインタビュー、発掘を行いました。その後ラスムッセン氏は
 チームを離れられた後に16ヶ月に渡って、2名のイヌイット猟師と犬ぞりで
 アラスカのノームまで北アメリカを横断されました。その後、更に
 ロシアに渡ろうとされましたがビザを取得する事ができませんでした。
 この旅行記は1927年の著書「Across Arctic America」に纏められ、
 2006年にはカナダにて「The Journals of Knud Rasmussen」
 という題名で映画化されております。
 この間、1923年には北極圏における探検の功績に対して、
 イギリスの王立地理学会から金メダル(創立者メダル)を授与されております。
 その後7年間、グリーンランドとデンマークの間を旅されながら
 講演と執筆を行われ、1931年には、ノルウェーとデンマークの領有を争った
 グリーンランドの東部の調査を行われました。1933年に行われた7回目の探検で
 イヌイットやエスキモーの伝統的な漬物キビヤックによって食中毒になられた後、
 1933年12月21日、肺炎によってコペンハーゲンで54年の生涯を閉じられました。
未知なる場所への探検は、けものフレンズの各作品にとって物語の根幹であり、
主な登場人物の方々が様々な場所で多くの方々と出逢われ、
交流、成長、発見、問題の解決などの経験を重ねられる物語が、
多くの方々の共感を呼ぶ大きな要素となっております。
世の中は知らない事の方がはるかに多く、古今東西様々な発見が
生物の進化や文化の発展を育んできております。
これから、どのような発見が、どのような発展をもたらすのでしょうか?
本日もお祈りいたします、みんみー。

3347
流浪のみんみ教徒 2022/06/08 (水) 01:30:30 457e0@fad8f

本日は成層圏発見の日であります。
1902年のこの日に、フランスの気象学者の
レオン・ティスラン・ド・ボール氏によって
成層圏が発見された事に因んで制定されました。
 レオン・ティスラン・ド・ボール氏はフランスの気象学者でいらっしゃいます。
 1855年11月5日、パリにて父親が農務大臣でいらっしゃる
 資産家の家にお生まれになり、1878年に新しく設置された
 フランス中央気象台に参加され、一般気象サービスの責任者に就任されました。
 そこでは地球物理学の全球規模での理解を得るために、
 フランスの植民地や船などで気象観測を行われました。
 やがて大気循環や総観規模気象に興味を持たれて数々の解析を行われ、
 1886年には、年平均気圧からの月偏差などを調べる事によって、
 海陸分布や地形などによる長期間持続する特徴的な気圧分布を示す
 「気象の活動中心」という概念を生み出されました。1892年から1896年の間、
 フランス政府の機関である国立気象管理センターの所長を務められました。
 国際気象機関が、地球規模の高層風を調べるために1896年から2年間の
 国際雲観測年を開始するとド・ボール氏は私財を投じられて、
 パリ郊外の丘陵トラペスに3haの広大な敷地を持つ観測所を設立されました。
 1898年、そこで無人観測気球(探測気球)を使った高層気象観測の開始当初は
 気球ではなく自記記録装置の回収が容易な凧を用いられましたが、
 フランス中が結果を知りたがった有名な「ドレフュス事件」の裁判の日に、
 凧のピアノ線が電信線を切る事故が発生したためか、
 途中から探測気球による観測に変わりました。
 気球を用いた高層気象観測には様々な工夫を凝らされ、当時、ドイツの気象学者
 リヒャルト・アスマン氏らが気球の材質に重いゴールドビーター皮や
 加工絹を使用されたのに対して、ド・ボール氏はワックスなどを塗った
 軽くて安価な紙を用いられ、敷地内に風向に応じて回転できる
 大きな充填庫を作られた結果、多少の風があっても放球が可能でありました。
 それと安価な紙製の気球によって観測頻度は格段に向上しました。
 ド・ボール氏は、地上約11kmまでは高度が上がるにつれて一様に気温が
 低下するのに対して、その高度を超えると温度が一定となる事に気が付かれ、
 この現象が計測の誤りでない事を確認するために、太陽による輻射の影響を
 避けるための夜間の実験も含めて、200回以上も実験を繰り返されました。
 1902年6月8日に大気の層は性質の異なる2つの層に分かれているという
 結果を発表され、2つの層を「対流圏」と「成層圏」と名付けられました。
 ド・ボール氏はその後もオランダに高層気象観測所を設置され、
 1905年から1906年にかけて大西洋上で貿易風の観測を行われ、
 1907年から1909年にかけて北極圏キルナでの観測を精力的に主導されました。
 1908年には成層圏の発見の功績が評価され、
 イギリス王立気象学会からサイモン・メダルを授与されました。
 フランスを高層気象観測の先端国に育てられたド・ボール氏でありましたが、
 1913年1月2日に57年の生涯を閉じられました。
 その後、ド・ボール氏の観測所は国に寄付されて研究が継続されました。
・成層圏とは、地球の大気の鉛直構造において
 対流圏と中間圏の間に位置する層であります。
 対流圏や中間圏では高度と共に温度が低くなるのに対して、
 成層圏では高度と共に温度が上昇するのが特徴となっております。
 成層圏下部、対流圏界面付近では気温が約-56℃前後であるのに対して、
 中間圏との境の成層圏界面付近では-15℃から0℃になる事があります。
 ただし、上空へ行くほど高温といっても成層圏の温度上昇率は一定ではなく、
 まず、対流圏界面の高さを10kmとすると、その高度から
 20kmくらい上空までは温度が対流圏界面とほぼ等温状態に保たれ、
 そこから約15kmくらい上空までは温度が僅かに上昇する層があり、
 そこから更に成層圏界面にかけて温度が急激に上昇します。
 成層圏で高度と共に温度が上昇するのは、成層圏の中に存在する
 オゾン層が太陽からの紫外線を吸収するからであります。
 オゾン濃度が一番高いのは高度約20~25km付近でありますが、
 実際に成層圏内で温度が一番高いのは高度約50km付近であります。
 この理由は、オゾン濃度に関わらず上部のオゾン層ほど
 濃度の高い紫外線を吸収する事ができ、また上層ほど空気密度が低い事から
 温度の上昇率がより大きくなるためであります。この理由から、成層圏では
 実際のオゾン濃度が一番高い付近よりも上に温度が最大となる場所があります。
ジャパリパークのある世界、特に大気においては
私達がいる世界と大きくは変わらないと思われます。
したがって、どのエリア、どのちほーにおいても
天候の変化は等しく起こりうると考えられます。
アニメ一期でのパークはサンドスターが気候に影響を及ぼしておりますが、
気象の変化そのものは例外なく発生しているであろうと考えられます。
私達は広い大気のもとで暮らしており、それによる影響とうまく付き合い、
時には翻弄されながらも日々の営みを繰り返して時代を紡いでおりますが
その大気も私達の営みの影響を受けているのは確かであります。
大気を守る事は地球環境を守る事そのものであり、
それが生き物の歴史や文化を次代に繋ぐ事となるのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3348
流浪のみんみ教徒 2022/06/09 (木) 00:33:33 457e0@ce4fc

本日はログホームの日であります。
「ロ(6)グ(9)ホーム」の語呂合わせに因んで、
株式会社ホンカ・ジャパンによって制定されました。
「健康住宅」「北欧デザイン」にこだわり、都市部でも住宅用途で広がる
ログホームについて多くの方々に知ってもらう事を目的としております。
・ホンカラケンネ社はフィンランドにて1958年、後のホンカ創業者となられる
 サーレライネン兄弟による「サーレライネン兄弟製材所」の創業から始まり、
 フィンランドの天然木材を活かした品質/機能性/デザイン性の良さなどで、
 個人向け建築だけでなく託児施設や公共施設にも採用されるなど、
 全世界で85000棟以上、日本でも4500棟以上のログホームを建築する
 世界No.1のログホームメーカーであります。
 ホンカの歴史はログの研究開発の歴史と共にあり、高品質のログハウスを
 完成させるために、これまでに様々な技術開発を行ってきております。
 世界初のマシンカットログ、丸ログ加工機械、ノッチ加工機などの開発、
 そして設計の自由度が飛躍的に向上したノンセトリングログの開発など、
 常に革新的な技術開発と共に培われた先進技術は国際特許をはじめ、
 世界各国の特許・意匠認定を取得しております。
 ホンカ・ジャパンは、ホンカラケンネ社の100%出資の
 日本支社として1991年に設立されました。
けものフレンズの各作品では様々な建造物が登場し、中には木造建築も
幾つか登場しておりますが、ログハウスで思い浮かぶ場面といえば、
アニメ一期の第五話に登場したログハウスが有名でありましょう。
アメリカビーバー様とオグロプレーリードッグ様、みんみ様達による
素晴らしいチームワークによって建造されたログハウスは、
過ごしやすい気候の湖畔での暮らしに充分なものであり、
立地を活かした建築は一見の価値が充分にあります。
時代が進むにつれ、建造物の材料も多様なものとなっておりますが、
古くから自然の材料ならではの良さが親しまれている木造建築は、
私達日本人にとっても馴染み深いものであります。
それは、私達の暮らしが自然の恩恵の上に成り立っている事の証でもあり、
その自然に恩を返す事が、これからの私達の成すべき事なのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3349
流浪のみんみ教徒 2022/06/10 (金) 00:03:03 457e0@91684

本日は谷津干潟の日であります。
1993年のこの日に、千葉県習志野市にある谷津(やつ)干潟が、
水鳥などの保護を目的とした湿地に関する国際条約
「ラムサール条約」の登録地に認定された事に因んで、
谷津干潟のある千葉県習志野市によって1997年に制定されました。
・谷津干潟は千葉県習志野市の谷津および秋津にある干潟で、
 国指定谷津鳥獣保護区、ラムサール条約登録地、
 日本の重要湿地500指定地に含まれております。
 東京湾岸の干潟は1960年代から1970年代にかけて、
 沖合に及ぶ大規模な埋め立てが進められた事で海岸線から次々に消滅し、
 千葉県習志野市でも干潟の殆どが埋立地として整備され、
 工業地や住宅地として開発し都市化が進められていきましたが、
 習志野市谷津地先の干潟は利根川放水路計画により
 旧大蔵省の所有であったために埋め立てを免れ、
 埋立地の中に2本の水路(高瀬川・谷津川)で海と繋がる
 人工のラグーン(潟湖)の様に残されました。当時の千葉県や習志野市は
 谷津干潟についても埋め立てを希望しておりましたが、
 東京湾に飛来するシギ類/チドリ/カモ類といった
 渡り鳥の希少な生息地となっている事が指摘され、
 また、保護活動家による重要性の宣伝活動や清掃活動によって
 その重要性が広く認知された事で、1977年には環境庁が
 鳥獣保護区に指定して保全を図りたいとの考えを国会で示しました。
 その後、1980年代前半になると千葉県と習志野市も谷津干潟の保護に転じて、
 1988年に国指定谷津鳥獣保護区(集団渡来地)に指定され
 (面積41ha、うち特別保護地区40ha)、更に1993年6月10日に「ラムサール条約」
 (正式名「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」)に登録され、
 1997年に習志野市によって毎年6月10日が「谷津干潟の日」と制定されました。
 これらの歴史的経緯から、谷津干潟はほぼ長方形という独特な形状となっており、
 更に干潟の四方は宅地化や都市化が進んでおり、帯状に埋め立てられた部分を
 JR京葉線/東関東自動車道/国道357号が横切る形となっております。
 北側には谷津バラ園(旧:谷津遊園バラ園)、南側には谷津干潟自然観察センター
 (谷津干潟公園センターゾーン)が整備されております。
・谷津干潟や公園の身近な自然に親しみ、学ぶ事のできる施設として
 谷津干潟自然観察センターが設けられており、習志野市の委託により
 指定管理者「谷津干潟ワイズユース・パートナーズ」によって運営されております。
 干潟の保全や渡来鳥類の観察や記録、来場者への案内(レンジャー)、
 望遠鏡の貸出、保全活動に携わるボランティア等の活動拠点になっております。
 周囲約3.5kmにわたって観察路が設けられている他、淡水池や谷津干潟公園も
 併設されており、オナガなど陸上の野鳥が生活する場にもなっております。
 谷津干潟公園は習志野緑地、秋津総合運動公園
 (習志野市秋津サッカー場)と連続しております。
 館内には観察スペース、図書・飲食・特別展示・レンジャー・キッズコーナー、
 カフェ、売店などがあり、建物内に限り入場料が必要となっております。
・谷津干潟では年間約80~100種の鳥類が確認され、このうち水鳥が約70種、
 シギ/チドリ類が40~50種であり、泥質干潟を好むシギ/チドリ類にとって、
 砂泥質~泥質の谷津干潟が重要な採餌場になっていると考えられております。
 しかし、1970年代に「空が隠れるほど飛んでいる」とも評された生息数は、
 その後の時代には減少しており、環境省が2012年に纏めた保全事業計画書では、
 シギ/チドリ類の確認個体数は1990年頃と2010年頃の間の比較で
 4分の1程度に減少したとのデータが示されており、
 環境変化との関係は不明でありますが干潟の環境が変わった事は明らかで、
 シギ/チドリ類には望ましくない変化であると指摘されております。
 魚類に関して、2017年から2018年にかけて行われた調査では、
 12目21科28種の魚類が確認され、このうち谷津干潟でよく見られる種として
 アカエイ/ボラ/スズキ/マハゼを挙げられております。
 底生生物に関して、ラムサール条約登録時と比較して
 ゴカイ類が減少傾向であるのに対し、ホソウミニナやホンビノスガイなどの
 貝類が大幅に増加している事が確認されており、アオサの堆積や
 腐敗による硫化物量増加や干潟の砂質化が指摘されております。
 貝類はシギ/チドリ類の餌になりにくいため、シギ/チドリ類の
 生息環境という観点では悪化になると考えられております。
 藻類に関して、アオサ類によるグリーンタイドは1995年頃に確認され、
 一時期は干潟の大部分が緑色に見えるほどでありました。
 アオサの繁茂は渡り鳥の減少/底生生物の壊滅が指摘されている一方で、
 様々な生物に新しい生息場や餌場を提供して生物多様性に貢献している、
 昼間海水に溶存酸素を供給している、干潟に有機物を貯留する事で
 流入河川の生態系機能を補償しているとも指摘されましたが、
 腐敗したアオサから発生する臭気は近隣住宅地の生活環境の悪化を招き、
 環境省関東地方環境事務所による保全事業でも重要課題となってきました。
 しかし、2017年夏以降は一転してアオサが殆ど見られなくなっており、
 その原因は判っていないとしながらも、2017年夏のアオサの一斉腐敗の際に
 胞子が残らなかった可能性が指摘されております。
ジャパリパークは非常に広大な敷地を有しており、
各エリアごとに多種多様な自然環境が形成されております。
その中には干潟またはそれに相当する土地も存在すると考えられ、
環境保全のために様々な取り組みが行われているであろうと想像できます。
動物にとって暮らしやすい環境は様々あり、干潟もその一つであります。
その環境を守るためにも、日々の取り組みの積み重ねが重要となるのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3350
流浪のみんみ教徒 2022/06/11 (土) 00:03:03 457e0@9a8e2

本日は入梅であります。
・入梅(にゅうばい/ついり/つゆいり)は梅雨入りの時期に設定された雑節で、
 現在の日本では太陽黄経が80°の時、またはその日であります。
 新暦(グレゴリオ暦)で6月11日頃にあたります。
 その名の通り、梅雨入りの時期を前もって示すために導入された雑節で、
 梅雨入りの時期を知る事は農家の田植えの日取りを決めるのに重要であります。
 本来は「梅雨入り」の漢語表現である。もちろん、地域と年により日付は異なる。
 対義語は出梅(しゅつばい/つゆあけ)ですが、日本では殆ど使われません。
 西関東方言では、梅雨の季節全体を「入梅」と呼ぶ。通常でいうとかの
 「梅雨入りする」は「入梅に入る」と言います。
 時候の挨拶で用いる「入梅の候」は、宛先のある地域で
 梅雨入りが発表されている事が前提となっております。
 日本では、かつて日本で使われていた太陰太陽暦の暦法
 「貞享暦」(1685)の頃から暦に入梅が載るようになり、
 その定義は「芒種後の最初の壬の日」でありました。
 なお、二十四節気の一つである芒種は太陽黄経75°の日であり、
 「壬(みずのえ)」は五行でいえば水の陽にあたります。
 芒種が壬だった場合の扱いは、芒種当日とするか10日後の次の壬とするかで
 混乱が生じておりましたが、次第に芒種当日とするようになり、
 すなわち、入梅は芒種当日から9日後までという事になります。
 新暦ではおよそ6月4日から6月16日までを変動し、
 平均すれば6月10日頃の時期となっております。
ジャパリパークが緯度や経度が日本に近い環境であれば、
本日が入梅に入る時期にあたるかもしれません。
パークでは米などの農作物を栽培しているため、
入梅は重要な目安となる事が想像できます。
既に梅雨入りしている地域もあり、初夏の気温の高さと合わせて
熱中症のリスクが徐々に高まってくる時期でもあります。
体調の変化などにしっかりと気を配りたいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3351
流浪のみんみ教徒 2022/06/12 (日) 08:03:03 457e0@9a8e2

本日は東京都恩賜上野動物公園にて飼育されている
雌のジャイアントパンダ「シャンシャン」の誕生日であります。
・シャンシャン(香香)は2017年6月12日に東京都恩賜上野動物公園にて、
 雄のリーリー(力力)と雌のシンシン(真真)の第2子として生まれ、
 その年の9月25日に名前が決まり、12月18日に報道公開されました。
 シャンシャンは満2歳を迎える時期に中国に返還される予定でありましたが、
 返還が2020年12月31日に延期された事が2019年5月31日に発表されました。
 2020年12月10日、新型ウイルスの影響のためシャンシャンは2021年5月末、
 リーリーとシンシンが2026年2月末まで返還期限延期が発表されました。
 2021年3月26日、新型ウイルスの影響のため、シャンシャンの返還期限が
 同年12月末まで延期と発表されましたが、同年12月7日に返還期限が
 2022年6月末まで延期と発表されました。
ジャパリパークにお住まいのジャイアントパンダ様は、
作品によって場所や状況の違いこそあれど元気に暮らしておられます。
どこでも睡眠を行える一方で、怒りが頂点に達せられると
セルリアンをものともしない力を発揮される点も、
旧アプリ版からの変わらぬ特徴であります。
新型ウイルスの影響により返還期限が度々延期された事もあり、
上野動物園でシャンシャンの姿をご覧になる事ができるのは、
今のところ、この6月いっぱいが最後のチャンスとなるかもしれません。
ウイルスの影響によって、飼育や繁殖、様々な手続き等の点において
難しい課題が残されているというのも確かであると思われますが、
まず何よりも、パンダ達が安心して暮らす事のできる
環境が確保される事が重要なのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3352
流浪のみんみ教徒 2022/06/13 (月) 00:03:03 457e0@9a8e2

本日は1955年にソ連の地質学者ユーリ・ハバルディン氏によって、
ダイヤモンド鉱山「ミール鉱山」が発見された日であります。
・ミール鉱山は、ロシア連邦・サハ共和国の
 ミールヌイに位置するダイヤモンド鉱山であります。
 20世紀になりロシアではダイヤモンド鉱山の探鉱が盛んになり、
 1930年頃にソビエト連邦の地質学者ウラジーミル・S・ソボレフ氏により
 シベリア地域にダイヤモンド鉱床が存在する可能性が提唱されました。
 ダイヤモンドが存在する可能性を示すキンバーライトの発見に続き、
 幾つもの探鉱の失敗を経て第二次大戦後の1950年頃には
 ミールヌイでのダイヤモンド鉱床の探鉱に成功しております。
 しかし、シベリア特有の厳しい寒さのために開発は困難の連続であり、
 あまりにも極端な低温となる冬季にはタイヤが破損する事態も発生しました。
 寒さによる被害を防ぐために、夜間には寒さによる
 機械の凍結を阻止するために鉱山全体を覆う措置もとられました。
・ダイヤモンドの採鉱は1957年に始まり、最盛期の1960年頃には
 年間1000万カラット(1000Kg)のダイヤモンドが産出されましたが、
 その後は減少して年間200万カラット(200Kg)の産出となっております。
 産出されたダイヤモンドの中で最も巨大なものは
 1980年12月23日に発見された342.5カラット(68.5g)の個体であり、
 これは「ソビエト連邦共産党第26回議会」と名付けられ、
 ロシアで発見されたダイヤモンドの中で最大のものであると共に、
 世界的にも最も巨大なダイヤモンドの一つでもあります。
 世界でも有数のダイヤモンドを産出する国家であるロシアにおいて、
 ロシア全域で産出されるダイヤモンドの99%をミール鉱山が産出しており、
 ミールヌイはロシアの中でも鉱業の盛んな都市の一つでもあります。
 露天掘りによる採鉱は1957年から始まり2001年まで続きました。
 現在では鉱山地下での坑道においてダイヤモンド採鉱が続けられております。
ジャパリパークは海底火山の噴火によって出現した島が母体となっており、
その自然環境には未知の部分も残されているものと思われます。
また、ジャパリパークにおける物質で代表的なものとして
サンドスターが思い浮かぶところでありますが、
物質そのものが多くの謎に包まれているのはもちろん、
その生成過程も不可解な部分が多く、研究が進められているものと思われます。
宝石はその輝きや希少性などで人々を魅了する存在でありますが、
それは永きにわたる地球の営みによって生まれた結晶であります。
地球の持つエネルギーに改めて驚かされる一例であります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3353
流浪のみんみ教徒 2022/06/14 (火) 00:03:03 457e0@9a8e2

本日は世界献血者デーであります。
ABO式血液型を発見されたオーストリアの病理学者
カール・ラントシュタイナー氏の誕生日を記念して、国際赤十字/赤新月社連盟/
世界献血団体連盟/国際輸血学会によって2004年に制定されました。
 カール・ラントシュタイナー氏は、オーストリア出身の
 病理学者/血清学者でいらっしゃいます。
 1868年6月14日にバーデン・バイ・ウィーンにてお生まれになり、
 父親の記者/新聞編集/法学博士のレオポルト・ラントシュタイナー氏とは
 6歳の時に死別され、母親ファニー・ヘス氏によって育てられました。
 1891年にウィーン大学にて医学の学位を取得され、
 ドイツの化学者のエミール・フィッシャー氏らのもとで学ばれた事で
 化学にも精通しておられました。1900年にABO式血液型を発見され、
 翌1901年11月14日に論文を発表されました。
 なお、ラントシュタイナー氏が発見したのはAB型以外の3つであり、
 発表時点ではA型/B型/C型としておりました。この功績により、
 1930年にノーベル生理学・医学賞を受賞されております。
 1908年にウィーン大学の病理学の教授就任され、
 その年にポリオの病原体やポリオウイルスを発見されました。
 1916年にはヘレン・ヴラスト氏と結婚されて一人のご子息子を授けられ、
 その後は第一次大戦を逃れられるためにオランダへと移られました。
 1922年にアメリカ・ニューヨークのロックフェラー研究所に入られ、
 1937年に弟子のアレクサンダー・ウィーナー氏と共にRh因子を発見されました。
 この間、アメリカ国籍を取得された事により、1939年にロックフェラー研究所を
 退職された後もニューヨークで過ごされました。その後の1943年6月26日、
 実験室にて心臓発作に見舞われた事で75年の生涯を閉じられました。
・世界献血者デーは、世界保健デー/世界結核デー/世界免疫週間/
 世界マラリアデー/世界禁煙デー/世界肝炎デー/世界エイズデーと共に
 世界保健機関(WHO)により執行される公的なグローバル・ヘルス運動の
 8つの国際デー内の一つで、毎年6月14日に世界中の国々で行われております。
 2004年に始まった世界献血者デーは、安全な血液や
 血液製剤の為の需要の認識を高め、自発的な血液の救命的な提供を
 献血者の方々に感謝する事を目的としております。
 輸血と血液製剤は毎年何百万もの命を救う手助けをしており、
 支援は医療処置や外科手術の複合体であり、生命の脅威に晒されておられる
 患者ね方々が長く高いクオリティ・オブ・ライフと共に生きられるようにし、
 母性と周産期ケアにおける極めて重要な生命維持の役割もあります。
 安全で充分な血液と血液製剤の確保は、分娩中や出生後の深刻な出血による
 死亡率や障害を減らす手助けを可能としております。
 しかし、多くの国で安全な血液が十分供給されておらず、
 品質と安全も守る一方で血液事業は重要な血液を得る難題に直面しております。
 充分な供給は、有志の無報酬の献血者による日常的な献血を通じて
 確実なものにしているに過ぎず、WHOの目標は、全ての国が2020年迄に
 有志の無報酬の献血者からの血液提供で全てを賄う事であります。
 2014年、73か国が依然家族や有償の献血者に大きく依存している状況の中で、
 60か国は99~100%の有志で無報酬の献血者を基本とした
 全国的な血液供給を行っている状況であります。
動物もそうであるようにフレンズの方々も血液の健康は重要であり、
私達と同じく健康管理において重要な項目となっているはずであります。
パークでは職員や関係者の方々はもちろん、フレンズの方々においても
血液に関して検査や、場合によっては治療も行われているものと思われます。
人通りの多い場所において献血の呼び掛けを度々見かけますが、
それは健康な方々からの血液の確保が難しい事の証左でもあります。
可能な限り、全ての方々の健康を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3354
流浪のみんみ教徒 2022/06/15 (水) 07:30:30 457e0@013a0

本日は1952年にメキシコの考古学者アルベルト・ルス氏が、
ユカタン半島にある古代都市遺跡パレンケの
「碑文の神殿」にて石室墳墓を発見された日であります。
 アルベルト・ルス氏は、メソアメリカの研究で広く知られた
 メキシコの考古学者で、マヤ文明の研究者として知られております。
 1906年1月27日、フランスのパリにてキューバ人の父親と
 フランス人の母親との間にお生まれになりました。
 なお従兄弟には、1976年から2008年までキューバの国家評議会議長と
 閣僚評議会議長を務められたフィデル・カストロ氏がいらっしゃいます。
 キューバの首都ハバナのカレッジを卒業された後、
 1936年にメキシコに移り住まれ、そこで市民権を取得されました。
 1945年にパレンケ遺跡の発掘を開始され、1948年に遺跡内の
 碑文の神殿の下に隠されていたキニチ・ハナーブ・パカル1世(パカル大王)の
 墓の入口を発見され、1952年に遂に大王の棺と遺体を発見されました。
 パレンケでの発掘作業は1958年まで続けられました。
 その後、ルス氏はメキシコ国立自治大学にマヤ文化研究室を設けられ、
 1961年に学術雑誌「Estudios de Cultura Maya」を創刊されました。
 その後は晩年までメソアメリカおよびマヤ文明の研究を続けられましたが、
 1979年8月25日にカナダのモントリオールにて73年の生涯を閉じられました。
 その後、メキシコ政府はルス氏の功績を讃えるため、
 パレンケ遺跡の前にルス氏の墓を建てる事を許可しております。
・パレンケはメキシコに存在するマヤ文明の古代都市遺跡で、
 メキシコにある世界文化遺産の一つであります。
 ユカタン半島の付根にあたるメキシコ南東部のチアパス州に位置しており、
 7世紀に最盛期を迎えた都市の遺構としての宮殿を中心とする、
 「マヤ遺跡の典型」といわれる建物群を密林の中に配置しております。
 18世紀の半ば頃にスペイン人の手により発見に至り、
 その本格的な発掘調査が始まったのは1948年からであります。
 その調査の最終局面にあたる1952年6月15日、メキシコの考古学者
 アルベルト・ルス氏が「碑文の神殿」の地下室に辿り着かれ、
 室内の壁面にはめ込まれていた巨大な石板を取り外されたところ、
 鍾乳石の垂れ下がる広い洞窟のような部屋がその向こう側に確認されました。
 そこには殉死者と目される数体の遺体に加え、肖像画やマヤ文字、
 生命樹の図柄の浮彫が施された石の蓋、そしてその下に石棺が埋もれており、
 多くの装飾品を脇にした遺体が内部に発見されました。
 翡翠の仮面をまとったこの遺体は、7世紀に在位しておられた
 パカル王(在位615年~683年)として知られる王のそれでありました。
 この発見は、中央アメリカのピラミッドがエジプトのそれとは違うという定説、
 すなわち王の墓ではなく神殿の土台に過ぎないものとの定説を覆し、
 当時の考古学界に大きな旋風を巻き起こす事となりました。
 1987年に「古代都市パレンケと国立公園」として世界遺産に登録されております。
ジャパリパークの土台は海底火山の噴火によって出現した島であるので、
遺跡が埋もれている状況というのは考えづらいところであります。
強いて近い存在を挙げるならば、アニメ一期の第四話・
さばくちほーにて登場した地下迷宮かもしれません。
アトラクションとして使用されなくなって久しい状況であり、
ツチノコ様からは遺跡と呼ばれておりましたが、
設備が機能している状態が保たれていたのは意外な気もいたします。
遺跡は古の時代の文化などを今に伝える貴重な存在であります。
遺跡となった場所の文化などを先の時代に伝える事はもちろん、
遺跡を通じて現代の文化を見つめ直す事も重要であると考えております。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3355
流浪のみんみ教徒 2022/06/16 (木) 00:03:03 457e0@23718

本日はアメリカの古生物学者でいらっしゃる
ジョージ・ゲイロード・シンプソン氏の誕生日であります。
 ジョージ・ゲイロード・シンプソン氏は1902年6月16日に
 シカゴにてお生まれになり、学生時代から語学に堪能であった事から
 初めは文学を志されておりましたが、コロラド大学に在学されている時に
 古生物学に関心を持たれ、卒業後にエール大学にて学ばれました。
 その後はヨーロッパへ留学され、帰国後は1959年までアメリカ自然史博物館の
 地質学と古生物学館にて館長を務められ、1945年からはコロンビア大学の教授も
 兼務されました。1959年から1970年までハーバード大学の比較動物学博物館にて
 館長を務められ、1967年からはアリゾナ大学の教授を務められました。
 その後はアリゾナ大学にて地質科学の教授を務められ、
 1982年に定年退職されております。古生物に関する研究においては、
 1930年代には化石を求めてアメリカはもとよりアジアにまで調査に出かけられて
 哺乳類の分類を行われましたが、1940年代から1950年代にかけては
 遺伝学を取り入れて哺乳類の進化や系統の問題を考えられるようになりました。
 1962年にダーウィンメダルを、1965年にアメリカ国家科学賞を受賞され、
 シンプソン氏は20世紀における現代の総合に貢献した中で、
 最も影響力のある古生物学者として知られる事となりました。
 1984年10月6日、アリゾナ州ツーソンにて82年の生涯を閉じられました。
 主な著作には1944年の「進化のテンポとモード」、
 1945年の「分類学の原理と哺乳類の分類」、1949年の「進化の意義」、
 1961年の「動物分類の原理」などがあります。
現代を生きる生物は、古の時代から進化を繰り返してきた末の存在であり、
ヒトも、フレンズとなられる前の動物達も、現時点での進化の末端であります。
しかし、動物がサンドスターによってヒト化するという突然変異は、
さすがにフィクションならではといったところでありましょうか。
生き物は現在も進化し続けております。この先の地球や宇宙の環境が、
生き物にどのような変化をもたらすのでしょうか?
本日もお祈りいたします、みんみー。

3356
流浪のみんみ教徒 2022/06/17 (金) 03:03:05 457e0@9abc9

本日は1906年に、フランス出身の東洋学者/探検家の
ポール・ユジェーヌ・ペリオ氏が中央アジアの探検に向かわれた日であります。
 ペリオ氏は1878年5月28日にバリにてお生まれになり、
 フランスの国立特別高等教育機関コレージュ・ド・フランスにて
 東洋学者シルヴァン・レヴィ氏に学ばれ、仏領インドシナのハノイにある
 フランス極東学院に就職されました。学院の図書館の漢籍を購入されるために
 1900年に北京へ派遣されましたが、そこで義和団の乱に巻き込まれ、
 包囲された北京の外国公館地域に止まられました。この包囲戦の中で
 ペリオ氏は1度目は敵の軍旗を奪うために、2度目は包囲された方々のために
 新鮮な果物を得るために敵地に潜入されました。
 後にその勇敢さが讃えられ、レジオンドヌール勲章を授与されております。
 その後はハノイに戻られ、22歳で極東学院の中国語教授に就任されました。
 1906年6月17日、ペリオ氏は軍医のルイ・ヴァイヤン氏と
 写真家のシャルル・ヌエット氏と共にパリを出発されて、
 中央アジアの探検に向かわれました。3名は鉄道でモスクワから
 タシケントに赴かれ、そこから清国領東トルキスタンに入られました。
 探検隊は8月末にカシュガルに到着し、ロシア総領事館に滞在されました。
 清国の官憲はペリオ氏の流暢な中国語に驚かれ、探検準備のために
 様々な便宜を図られました。探検隊はトゥムチュクを経てクチャに入り、
 そこでブラーフミー文字に似た文字(後にトカラ文字と呼ばれる)で書かれた
 失われた言語(後に、トカラ語のB方言クチャ語と呼ばれる)の文書を発見し、
 この文書は後にペリオ氏の師であるレヴィ氏によって解読されております。
 探検隊はウルムチ滞在中に敦煌出土の法華経古写本を見て、敦煌へ赴きました。
 敦煌の莫高窟はイギリスの探検家オーレル・スタイン氏が前年の1907年に訪れ、
 1万点の古文書を持ち帰られましたが、残された文書も多数存在しておりました。
 ペリオ氏は莫高窟を守られていた王道士と流暢な中国語で交渉されて、
 蔵経洞に入る事を許可されました。3週間にわたって蔵経洞の文書を調べられ、
 ペリオ氏は最も価値のある文書数千点を選び出されて王道士に売却を交渉され、
 王道士は莫高窟再建のために500両(約90ポンド)で売る事を承諾されました。
 中国語を含め13ヶ国語に通じておられるペリオ氏が選ばれた文書は逸品揃いで、
 その中には新発見の新羅僧・慧超氏の「往五天竺国伝」も含まれておりました。
 一行は1909年10月24日にパリに帰着しましたが、意外にもフランスの歴史学者
 エドゥアール・シャヴァンヌ氏ら極東学院の同僚の方々から、
 公金を浪費して偽造文書を持ち帰ったと激しい非難を浴びられました。
 シャヴァンヌ氏達は既にスタイン氏が敦煌文書を持ち去った後には
 何も残されていなかったと考えられていたからでありましたが、
 1912年にスタイン氏が探検旅行記を出版され、敦煌にはまだ大量の文書が
 残されていたと公表されたため、ペリオ氏の疑惑は晴れる事となりました。
 後にペリオ氏によって発表された「敦煌千仏洞」など多くの研究書は
 東洋学に大きな影響を与える事となりました。その後、ペリオ氏は
 第一次大戦中の期間はフランス武官として北京に滞在され、
 1945年10月26日、バリにてガンによって67年の生涯を閉じられました。
 「ペリオがいなければ、中国学は孤児のままだっただろう」と評価され、
 パリのギメ美術館にはペリオ氏に因んだギャラリーがあり、
 ペリオ氏が招来された文書の多くはフランス国立図書館に保存されております。
けものフレンズの各作品における主な内容は冒険および探検であります。
各作品ごとに目的は異なりますが、冒険および探検を通じて出逢いや別れ、
様々な発見を繰り返すうちに登場人物の変化や成長が描かれております。
世界には知られざる事柄がまだまだ多く残されており、
その事実は時として世の中に大きな変化をもたらす事があります。
この先、どのような発見が世の中を動かすのでしょうか?
本日もお祈りいたします、みんみー。

3357
流浪のみんみ教徒 2022/06/18 (土) 00:03:03 457e0@9abc9

本日はイギリスの動物学者/比較解剖学者でいらっしゃる
デービッド・メレディス・シアーズ・ワトソン氏の誕生日であります。
・1886年6月18日、ランカシャー州サルフォード近くのHigher Broughtonにて
 父親で金属学者のデービッド・ワトソン氏のご子息としてお生まれになりました。
 マンチェスター大学にて地質学を学ばれ、炭田の植物化石を研究され、
 後に女性運動家として有名になられるマリー・ストープス氏と共著で
 論文を発表されました。大学にて修士号を取得された後も
 ロンドン自然史博物館にて化石の研究を続けられ、
 南アフリカ/オーストラリア/アメリカにも足を運ばれました。
 1912年にはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの
 脊椎動物古生物学の講師に就任されました。
 第一次大戦が勃発した事で1916年に研究は中断される事となり、
 海軍や空軍に従軍され、空軍では気球や飛行船の設計に関わられました。
 終戦で大学に戻られ、1921年にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの
 動物学、比較解剖学の教授に就任され、
 1922年には王立協会フェローに選出されました。
 1931年に政府の農業研究協議会のメンバーに選出され、
 1937年にはアメリカのイェール大学にて講義を行われました。
 第二次大戦時にはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの動物学部を
 ウェールズのBangorへ退避させる指揮を執られ、
 内閣の食糧政策委員会の科学技術小委員会の事務長を務められました。
 また、ワトソン氏は王立協会フェロー選出時から
 第二次大戦後の時代までに様々なメダルを受賞されております。
  1924年:クルーニアン・メダル(王立協会)
  1942年:ダーウィン・メダル(王立協会)
  1949年:リンネ・メダル(ロンドン・リンネ協会)
  1958年:ダーウィン=ウォレス・メダル(ロンドン・リンネ協会)
  1965年:ウォラストン・メダル(ロンドン地質学会)
 1973年7月23日、イギリスのイーズボーンにて87年の生涯を閉じられました。
ジャパリパークは海底火山の噴火によって出現した島が土台であるが故に、
その土地には様々な地層が重なっている事が想像でき、
その中には様々な化石が眠っている可能性も考えられます。
それはフレンズの元となる動物への進化に繋がる重要な手がかりとなり、
パーク内の研究施設において日々研究が進められているものと考えられます。
化石は生物の進化を示す大きな証拠のみならず、
現代の生物がこれから辿る進化についてのヒントとなり得る存在であります。
生物の進化の過程はさながら大河のようであり、
現代を生きる生物達はまだまだ道半ばなのかもしれません。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3358
流浪のみんみ教徒 2022/06/19 (日) 00:03:03 457e0@9415d

本日は19世紀にオーストリアのウィーンで活躍された奇術師でいらっしゃる
ヨハン・ネポムク・ホーフツィンザー氏の誕生日であります。
・1806年6月19日にお生まれになったホーフツィンザー氏の本職は
 ウィーン市の役人でありましたが、様々な分野に興味を持たれた末に
 やがて奇術に目覚められました。その後、自宅にサロンを構えられて
 オリジナルの奇術を披露されるようになり、
 やがてセミプロからプロの奇術師へと転向されました。
 近代/現代奇術の重要な原理の幾つかはホーフツィンザー氏の発明によるもので、
 現代におけるマジシャンの方々にも多く使われております。
 また、現象の発明という意味でも功績を残されております。
 1875年3月11日に68年の生涯を閉じられたホーフツィンザー氏自身は
 著書を残されておらず、また、「道具とメモの廃棄」という遺言によって
 資料は多く残されておりませんが、残された数少ないメモや
 道具類を纏めた書籍は何冊か出版されております。その中で、
 現象だけを記録した事項は「ホフジンザー・プロブレム」と呼ばれ、
 多くのマジシャンの方々が「解法」を研究/発表されております。
けものフレンズにおいてマジシャンといえば、
旧アプリ版に登場されたアムールトラ様であります。
群れの方々とはぐれられてしまったアムールトラ様は、
芸を磨かれながら一人旅をしておられます。
スキルのフレイムリングキャッチはその名の通り炎のリングを使用されますが、
本能的に火を怖がられるフレンズの方々の中において珍しいスキルであります。
いつの時代においても、マジシャンのパフォーマンスは
ご覧になられる方々に驚きと興奮を与えてくれるものであります。
これからの奇術文化の益々の発展をお祈り申し上げます。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3359
流浪のみんみ教徒 2022/06/20 (月) 00:03:03 457e0@9415d

本日はイギリスの生化学者でいらっしゃる
サー・フレデリック・ガウランド・ホプキンズ氏の誕生日であります。
・1861年6月20日にイングランドのイーストボーンにてお生まれになり、
 1890年にロンドン大学から理学士号を、1894年にガイ病院から
 医学の学位を授与され、1898年から1910年まで
 ケンブリッジ大学にて化学生理学の講師を務められました。
 1901年にはアミノ酸の一つであるトリプトファンを発見され
 1905年に王立協会フェローに選出されました。
 1910年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジにて
 生化学のフェローや講師に就任され、1912年には論文
 「一般的な食事に於ける補助栄養素の重要性を例証する食餌実験」
 を発表され、食生活におけるビタミンの必要性を論証されました。
 1914年から1943年までケンブリッジ大学にて生化学教授を務められ、
 1915年に王立協会からクルーニアン・メダルを、
 1918年に王立協会からロイヤル・メダルを受賞され、
 1925年にはジョージ5世によりナイト爵に叙せられました。
 1926年に王立協会からコプリ・メダルを受賞され、
 1929年にはオランダの医師/生理学者クリスティアーン・エイクマン氏と共に
 ノーベル生理学・医学賞を受賞されました。受賞理由は、現在ビタミンとして
 知られる特定の微量粒子が健康の維持に必須である事の発見でありました。
 また、彼は筋肉の収縮が乳酸の蓄積を引き起こす事も発見されました。
 1930年から1935年まで王立協会会長を務められ、
 1933年に英国科学振興協会の会長に就任されました。
 1935年にはメリット勲章を受勲されております。
 1947年5月16日、ケンブリッジにて85年の生涯を閉じられました。
ジャパリパークにおいて、特にジャパリまんの製造に関しては
フレンズの方々に対する栄養バランスについて考えられており、
ビタミン類やアミノ酸などが豊富に配合されているものと思われます。
ビタミンなどの栄養素は近年の健康志向から益々注目される存在であり、
その発見や解明に携わられた先人の方々には頭が下がります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3360
流浪のみんみ教徒 2022/06/21 (火) 00:03:03 457e0@5314b

本日はナインチェ・プラウス様の誕生日であります。
 ナインチェ・プラウス様は、オランダのグラフィックデザイナーで
 絵本作家のディック・ブルーナ氏が描かれた絵本の主人公でいらっしゃいます。
 ブルーナ氏は元々、オランダの抽象美術運動
 「デ・ステイル」の傾向を色濃く受けられ、単純明快な色とデザインによる
 書籍装丁などを手がけるデザイナーでいらっしゃいました。
 そして、当時は写実的な絵柄作りが当然とされていた絵本の挿し絵に、
 自身のデザインと同様の、単純で抽象化された線と原色による色遣いとを
 用いる手法を持ち込まれ、擬人化された小ウサギの主人公たちの日常を描写した
 新しいタイプの絵本を書き上げられました。ブルーナ氏はその主人公に、
 小ウサギを意味する「konijntje(ウサギkonijn+縮小辞-tje)」の短縮形
 「Nijntje」という名前を与えられ、これがナインチェ様の誕生となりました。
 初期のナインチェ様は耳が横向きになっており、
 現在のものとはキャラクターデザインが異なっております。
 1963年に耳が立ったデザインに改定された他に輪郭も楕円形で
 耳が長く尖っておりましたが、年を追うごとに耳も輪郭も丸くなり、
 現在親しまれているデザインに至っております。
 ナインチェ様の誕生日は、本国オランダでの最初の絵本
 (日本名「ちいさなうさこちゃん」と「うさこちゃんとどうぶつえん」の2冊)が
 出版された1955年6月21日という設定となっており、
 以降、ナインチェ様の絵本は世界約40ヶ国語に翻訳されて親しまれております。
 ナインチェ様の名前についてですが、オランダ/ベルギー/ルクセンブルクでは
 オリジナルである「ナインチェ」の名前で発行されており、
 1960年にイギリスで英語訳版が発売される際には、
 英語風の名前である「ミッフィー」という名前が付けられております。
 この名前の日本での初出は1979年に発行された刊行物からであります。
 一方、日本では1964年に発行された刊行物において付けられた、
 石井桃子氏による訳語である「うさこちゃん」という名前が知られております。
 ただし、英語圏での展開の広さ、日本では講談社による販路の大きさや
 出版媒体の多彩さから、現在では「ミッフィー」の方が広く普及しております。
 ナインチェ様の作品はこれまで多数出版されている絵本のみならず、
 テレビ番組の作品としてもお馴染みとなっております。
けものフレンズにはウサギのフレンズの方々がいらっしゃいます。
どの方も元の動物のデザインが活かされた愛らしいお姿であり、
ナインチェ様に負けず劣らず魅力的な方々でいらっしゃいます。
ナインチェ様は、他の様々なキャラクターと同様に
けものフレンズにとって動物の擬人化の偉大なる先達でいらっしゃいます。
けものフレンズもナインチェ様と同じように、
長く親しまれるコンテンツとなる事を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3361
流浪のみんみ教徒 2022/06/22 (水) 00:03:03 457e0@d31cf

本日は1972年に自然環境保全法が公布された日であります。
・自然環境保全法は1972年6月22日に公布された法律で、
 自然環境の保全に関する基本的事項を定められております。
 自然公園法やその他の自然環境の保全のための法律と共に、
 自然環境の適正な保全を総合的に推進する事を目的としております。
 自然環境保全法の主な目的や役割は以下の通りとなっております。
 ・自然環境保全基本方針の制定
 ・原生自然環境保全地域の指定と保全
 ・自然環境保全地域の指定、保全および生態系維持回復事業
 ・都道府県による自然環境保全地域の指定と保全
・元は日本国民の健康で文化的な生活を確保するために1972年制定されたもので、
 幾つかの自然環境に対する「保全地域」を指定でき、更に保全の対象ごとに
 「野生動植物保護地区」などの「特別地区」を設ける事ができます。
 自然保護に関する法律は明治時代から存在しておりました。
 これは、富国強兵政策による都市の無秩序な開発や殖産興業政策によって、
 急速に自然景観や貴重な動植物が失われていったため、
 自然保護のための法律が整備されていったからであります。
 1895年に「狩猟法」(野生鳥獣の保護のため)、
 1897年に「森林法」(森林の保全のため)、
 1919年に「史蹟名勝天然紀念物保存法」、
 1931年に「国立公園法」(景勝地の保護と利用のため)などが整備され、
 その後は時代の変化と共に改正が行われました。
 これまでは自然保護のための開発規制等は個別の法律で対応してきましたが、
 1960年代になると経済の高度成長に伴った国土の開発が広域化/大規模化し、
 これまでの施策では充分に機能を果たす事が難しくなってきました。
 そこで、自然保護のための基本理念を明確にし、
 自然保護の政策を強化するため、1972年に「自然環境保全法」が制定されました。
 しかし、動植物を損傷する行為を禁止していなかったため、
 1989年におこった「朝日新聞珊瑚記事捏造事件」では、
 社会的非難を集めた事件にも関わらず、関係者は不起訴処分となり
 刑事罰を受けることは無かった。この状況に対応するため、
 1990年に損傷も禁止する規定に改正されました。
 1993年には、複雑化/地球規模化する環境問題に対応できるように
 「環境基本法」が制定されました。環境基本法の制定に伴い、
 自然環境保全法の理念に関する条文の一部が環境基本法に移行され、
 2010年には、自然環境保全地域における
 生態系維持の回復事業に関する規定が創設されました。
ジャパリパークは動物やフレンズの方々が暮らす動物園施設であり、
海底火山の噴火によって出現した島を利用している背景も合わせて、
来園されるお客様が存分に楽しむ事のできる施設と、
環境保全に対する取り組みを最大限両立させるべく、
パークの設計の段階から様々な工夫がなされているものと思われます。
環境保全に関して、生態系が指標の一つと考えられます。
健全な自然環境は様々な動植物による生態系がきちんと機能しており、
生物多様性に溢れた自然のサイクルが確立されているはずであります。
地球上のあらゆる自然環境においてそれを実現するために、
日々の取り組みの積み重ねが重要となるのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3362
流浪のみんみ教徒 2022/06/23 (木) 00:03:03 457e0@eeb2a

本日はガラパゴスゾウガメの「ハリエット」の命日であります。
・ハリエットは、ガラパゴスゾウガメの亜種と推定される
 (独立種とする説もあり)サンタクルスゾウガメであります。
 もともとハリエットは、イギリスの自然科学者でいらっしゃる
 チャールズ・ロバート・ダーウィン氏によって1835年に初めて
 ガラパゴス諸島で捕獲されたものだと考えられておりました。
 捕獲された時は皿1枚程の大きさであり、おそらく6歳と推定されました。
 この時ダーウィン氏は3匹のカメを捕獲され、調査用の帆船ビーグル号で
 母国イギリスに持って行かれましたが、後の遺伝子判定によって
 ハリエットはダーウィン氏が一度も足を運んでおられない
 サンタクルス島の固有亜種である事が示されているため、
 ダーウィン氏が持ちかえられたカメではない可能性が高いとされております。
 また、ハリエットは雌のゾウガメでありますが、1世紀以上も雄と間違えられ、
 「ハリー(Harry)」と名付けられていた事もありました。
 99年間にわたってブリスベンシティー植物園にいた後、
 「The Crocodile Hunter」という動物番組で知られる
 スティーブ・アーウィン氏の所有されるオーストラリア動物園に移されました。
 2005年11月15日、175歳の誕生日がオーストラリア動物園で祝われ、
 2006年6月23日、同じ動物園で心臓発作により生涯を閉じました。
けものフレンズにはガラパゴスゾウガメのフレンズがいらっしゃいます。
とてものんびり、そしておっとりとされた性格で、
その存在は「チーム・噛んじゃうぞ」の中でも一種の癒しと言えるものであります。
また、サンドスターによってフレンズの皆様が生活される
ジャパリパークという場所そのものがガラパゴス的存在と言えるのかもしれません。
あらゆる動物は生活環境によって生きられる時間が異なりますが、
ヒトを含めて、多くの動物は天寿を全うできないまま生涯を閉じております。
長生きそのものに対する是非はともかく、全ての動物達がその生涯を
思うままに生きる事のできる世の中となる事を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3363
流浪のみんみ教徒 2022/06/24 (金) 07:03:03 457e0@21790

本日はピンタゾウガメの「ロンサム・ジョージ」の命日であります。
 ロンサム・ジョージは1971年にガラパゴス諸島の
 ピンタ島で発見されたピンタゾウガメで、
 生存が確認されていたピンタゾウガメ最後の個体でもありました。
 ピンタゾウガメは食用肉として乱獲され、人為的に移入されたヤギとブタが
 ピンタ島の植生を破壊した事で絶滅したと考えられておりましたが、
 1971年12月1日、ピンタ島でカタツムリの研究をされていた
 ハンガリーの生物学者József Vágvölgyi氏が1頭のカメを発見され、
 港に戻られて報告されました。翌年春、ガラパゴス国立公園のレンジャーは
 このカメをサンタ・クルス島のチャールズ・ダーウィン研究所に移されました。
 このカメの発見当時の年齢は約60歳だと推定されております。
 このカメはアメリカのコメディアンのジョージ・ゴベル氏の呼び名から
 「ロンサム・ジョージ」と呼ばれるようになりました。
 日本語では「孤独なジョージ」「独りぼっちのジョージ」などと翻訳され、
 種の保存のための繁殖計画が成功せず、雌を寄せ付けなかった事から
 この呼び名が付いたといわれております。
 絶滅したと考えられていたピンタゾウガメが発見された事から、
 ガラパゴス国立公園管理局は繁殖計画が実施される事となりました。
 1990年、イサベラ島からロンサム・ジョージと交配させるために
 2頭の近縁種の雌が連れてこられましたが20年近く明確な成果はなく、
 たまに奇形の卵が産まれていた程度でありましたが、2008年7月20日に
 メスの片方が巣を掘って9個の卵を出産した事が確認されました。
 しかし、最終的に16個の卵が回収されて人工孵卵器に移されたものの、
 全て無精卵であり孵化は実現しませんでした。
 2012年6月24日、ロンサム・ジョージは水飲み場に向けて体を伸ばした状態で
 事切れており、ジョージの世話をされていたガラパゴス国立公園のレンジャー、
 ファウスト・ジェレナ氏によって発見されました。
 生涯を閉じた時の年齢は100歳を超えていたと推定されており、
 ジョージの死によりピンタゾウガメは絶滅したと考えられており、
 ガラパゴス諸島に生息しているカメは10種に減少したとされております。
 検死を行われた獣医はジョージの死因を自然死と判断され、
 また、培養用として皮膚の細胞のサンプルが採取され冷凍保存されました。
 ジョージの遺骸はアメリカ自然史博物館で剥製に加工され、
 2014年9月から2015年1月まで博物館で展示されました。
 2017年2月17日、剥製はエクアドルの軍用機で
 ガラパゴス諸島サンタ・クルス島のプエルト・アヨラに輸送され、
 23日からガラパゴス国立公園で展示される事となりました。
けものフレンズにはカメのフレンズの方々がいらっしゃいますが、
ゾウガメに限定すると現在のところガラパゴスゾウガメ様のみであります。
とてものんびり、そしておっとりとされた性格は、
実際のゾウガメと同じく大らかと言えるものであります。
動物の絶滅の話題に触れるたび心が痛みます。
昨日と同じ事になりますが、全ての動物達がその生涯を
思うままに生きる事のできる世の中となる事を願っております。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3364
流浪のみんみ教徒 2022/06/25 (土) 00:03:03 457e0@af2b8

本日はフランスの地質学者でいらっしゃる、
ガブリエル・オーギュスト・ドブレ氏の誕生日であります。
・1814年6月25日、フランス北東部の都市・メスにてお生まれになり、
 パリ近郊の公立高等教育研究機関エコール・ポリテクニークで学ばれました。
 20歳の時に鉱山技師の資格を取得され、1838年にメスから更に東にある
 アルザス地方のバ=ラン県の鉱山にて働かれた後、
 ストラスブール大学鉱物学/地質学の教授に就任されました。
 1859年にパリの国立自然史博物館の鉱物部門の主任となられ、
 1861年に地質学教授に就任されたのと同時に
 フランス科学アカデミーの会員に選出されました。
 1862年からは国立鉱山学校の地質学教授に、
 1872年には国立鉱山学校の学長に就任されました。
 また、ある種のスズ鉱石の起源への興味から1841年に研究論文を発表され、
 1852年には鉄鉱石の形成について研究されました。
 また、ドブレ氏の業績はバ=ラン県の詳細な地質図の作成や、
 鉱物や岩石の人工的な製造などの実験を続けられた事で知られている他、
 岩石の透水性について研究されて火山活動への影響を論じられ、
 変成作用/地殻の変形/地震/隕石の成分の分析や分類の研究も行われました。
 また、硫化鉱物であるダウブリール石の名前の由来となっております。
 1880年にロンドンの地質学会からウォラストン・メダルを受賞されております。
 その後の1896年5月29日に81年の生涯を閉じられました。
ジャパリパークは海底火山の噴火によって出現した島を利用している事から、
島の出現の基となった火山活動や島の地質は大変興味深いところであります。
サンドスターという特異性は別としても、動物達が生活するのに
相応しい環境の礎となった島は研究対象としても魅力的なものであり、
パーク内の研究施設などにて調査や研究が行われているものと思われます。
私達が生活している土地の基となる大地は
気の遠くなるような年月をかけて形成されており、
直接は感じられずとも絶大な恩恵を私達にもたらしてくれております。
その大地を作り上げた地球環境に、そして、その地球環境に対して
日々調査研究されている方々に改めて感謝をいたしましょう。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3365
流浪のみんみ教徒 2022/06/26 (日) 01:03:03 457e0@af2b8

本日はイギリスの牧師/博物学者でいらっしゃる、
ギルバート・ホワイト氏の命日であります。
・1720年7月18日、ロンドンの南西約80kmに位置するハンプシャー州の村
 セルボーンにてお生まれになり、家庭教師から勉学を学ばれた後に、
 オックスフォードのオリオル・カレッジに進学されました。
 1746年に執事の命を受けられ、以後、セルボーンも含むハンプシャー州と
 ウィルトシャー州にて助任司祭を務められました。
 1758年に父親が亡くなられるとセルボーンに戻られて
 ウェイクス荘に定住され、1763年に正式に相続されました。
 1784年に第4代セルボーン副牧師に任命されて以降、その職を全うされました。
 ホワイト氏はその後の生涯にわたって独身を通され、
 1793年6月26日に72年の生涯を閉じられました。
 ホワイト氏の生前の姿については肖像画が残されておらず、
 姿勢の良い痩せ形の風体をされていたとのみ伝えられており、
 また、墓についてはセント・メアリー教会の敷地内に建てられております。
・ホワイト氏はセルボーンにて副牧師を務められる傍ら、
 少年時代から興味を持たれていた博物学の研究に殆どの時間を費やされ、
 その成果を約20年間にわたって博物学者のトマス・ペナント氏と
 デインズ・バリントン氏に送り続けられました。
 ペナント氏らとの親交は、ホワイト氏の弟ベンジャミン氏が
 博物学書の出版を手がけられていた関係から始まったものであり、
 ペナント氏とバリントン氏に届けられた書簡を纏められた形で1789年に
 ベンジャミン氏によって出版されたのが「セルボーンの博物誌」であります。
 流麗な文体と鋭い観察眼とを兼ね備えた「セルボーンの博物誌」は、
 博物誌の古典として今日まで受け継がれており、
 「たとえ英国が滅びても本書は永遠に残るだろう」と称えられております。
 その特徴は、当時の標本主義の博物学とは対称的に、
 鳥/植物/昆虫などの生態や自然景観の観察を、当地の歴史や
 山彦/日時計/田舎の迷信といった風土と共に記録している点にあり、
 18~19世紀に牧師の方々が居住地域の博物誌を纏める習慣が流行した中で、
 ホワイト氏の著作だけが古典と認められている所以でもあります。
 また、文学史上においては「政争から身を引き自然に遊ぶ隠棲者の随想」として、
 イギリスの随筆家/伝記作家のアイザック・ウォルトン氏の著作
 「釣魚大全」と双璧をなすものとも評価されております。
・「セルボーンの博物誌」に見られるようなホワイト氏の著述スタイルは
 「生態地域主義」とも呼ばれ、自然環境をめぐるノンフィクション文学である
 ネイチャーライティングの起点をなすものとして評価されております。
 更にイングランドにおけるエコロジー・ムーブメントの
 先駆的存在としても認められており、その著作はイギリスにおいて
 最も多くの版を重ねる書の一つとなっている他、学術界では現象学の立場に立つ
 場所論の視点からもしばしば参照されております。
・アメリカの博物学者ジョン・バローズ氏が「『博物誌』を読んだら、
 セルボーンの村を見たいと思った」と述べられたように、今日のセルボーンは
 ホワイト氏の名声により博物誌の愛好家たちの聖地となっており、
 多くの「セルボルニアン」を生み出しております。
 中でも、ホワイト氏が生涯の殆どを過ごされたウェイクス荘が、
 オーツ・メモリアル・トラストによって当時の内装が維持された博物館
 「ギルバート・ホワイト・ハウス」となって公開されております。
 ウェイクス荘には「セルボーンの博物誌」の元原稿が展示されている他、
 建物の裏庭にはホワイト氏の描かれた花/野菜/樹木が植えられております。
自然に存在するものについて研究する学問である博物学は、
ジャパリパークにとっても非常に重要なものであります。
生物の源である海洋/土地/気候/気象/植生は全て繋がっており、
サンドスターという特異性を含めたフレンズという存在にとっても
決して切り離して考える事のできない要素であります。
先人の方々が代々研究されてきた様々な学問は、
時代と共に様々な形に変化しながら私達の生活の礎となっており、
それぞれの学問がいかに大変なものであるかを痛感せざるを得ません。
私達は先の世代の方々に何を残す事ができるのでしょうか?
本日もお祈りいたします、みんみー。

3366
流浪のみんみ教徒 2022/06/27 (月) 00:30:30 457e0@af2b8

本日は零細・中小企業デーであります。
・2017年4月の国連総会で制定された国際デーの一つであり、
 零細・中小企業の重要性を認識し、これらの企業を支援するための
 意識と行動を高める事を目的としております。
 零細企業や中小企業の定義は国や業種によって異なり、例えば日本において
 「零細企業」は「経営規模の極めて小さな企業」を意味しておりますが、
 法的には「小規模企業者」という区分に該当しており、
 従業員数は卸売業/サービス業/小売業では「5人以下」、
 製造業/建設業/運輸業/その他の業種では「20人以下」となっております。
 日本では300人未満、ヨーロッパ連合(EU)では250人未満の従業員を擁する
 零細・中小企業は世界中の殆どの経済の基幹となる存在であり、
 発展途上国においては特に重要な役割を果たしております。
 数字的は全企業数の90%以上、雇用者数の60~70%、
 国内総生産(GDP)の50%を占めるとされております。
 零細・中小企業は世界中で重要な雇用と所得創出の機会と責任を担っており、
 貧困緩和と開発の主要な原動力として認識されております。
 これらの企業は女性/若者/貧困家庭の方々などを多く採用する傾向にあり、
 また、農村部ではこれらの企業が唯一の雇用の源となる場合もあり、
 安全や安心を確保するセーフティーネットを提供すべきと提唱されております。
ジャパリパークがどのくらいの従業員数を擁しているのかは不明でありますが、
大規模な敷地内に研究施設やレジャー施設も存在しているため、
相当数の従業員を擁しているものと考えられます。
参考までに、「東京都恩賜上野動物園」「多摩動物公園」「葛西臨海水族園」
「井の頭自然文化園」を擁する「東京動物園協会」が464名、
「ハイブリッド・レジャーランド 東武動物公園」が130名となっております。
前述の通り、零細・中小企業は世界中の殆どの経済の基幹となる存在であり、
私達の生活にとって必要な部分を支える存在でもあります。
現在の日本は生産年齢人口の減少が深刻化している状況であり、
生産性の向上を含めた企業活動の更なる改善が求められております。
零細・中小企業の事業継続のための効果的な政策を期待しております。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3367
流浪のみんみ教徒 2022/06/28 (火) 00:03:03 457e0@d4ee5

本日はドイツの化学者/薬学者でいらっしゃる、
エミール・エルレンマイヤー氏の誕生日であります。
・1825年6月28日にタウヌスシュタインにてお生まれになり、
 薬学を修められた後、数年間を薬剤師として過ごされました。
 その後、ギーセンでは化学者のユストゥス・フォン・リービッヒ男爵、
 ハイデルベルクでは有機化学者のフリードリヒ・アウグスト・
 ケクレ・フォン・シュトラドーニッツ氏の下で学ばれ、また、化学者の
 ロベルト・ヴィルヘルム・ブンゼン氏の下で化学肥料について学ばれました。
 1868年から1883年までミュンヘン工科学校にて化学の教授を務められ、
 イソ酪酸など様々な有機化合物の発見や合成を行われました。
 1861年には三角フラスコを発明され、これはエルレンマイヤー氏の名前に因んで
 「エルレンマイヤーフラスコ」と呼ばれております。また、ナフタレン分子が
 2個の炭素原子を共有した2つのベンゼン分子からなる構造である事を発見した。
 1880年、ケト-エノール互変異性に関するエルレンマイヤー則を提案され、
 これは、二重結合に直接結合する水酸基を持つ全てのアルコールは、
 アルデヒドにもケトンにもなりうるというものであります。
 1883年には健康上の理由から研究の一線からは身を引かれましたが、
 それ以降も相談役は続けられました。1909年1月22日、エルレンマイヤー氏は
 アシャッフェンブルクにて83年の生涯を閉じられました。
ジャパリパーク内にある研究施設は動物やフレンズに関してはもちろん、
サンドスターを含めて様々な研究が行われております。
その現場において日常的に使用されている三角フラスコや
様々な研究の方法には、エルレンマイヤー氏が行われた研究成果が
随所に活用されているものと思われます。
化学は難しい事柄も多く、相応に敷居が高い場合もありますが、
その研究成果は私達の生活の随所に活用されております。
その礎を築かれた先人の方々には頭が下がります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3368
流浪のみんみ教徒 2022/06/29 (水) 00:03:03 457e0@9e678

本日は夢中でトレーニングの日であります。
1989年のこの日に、「ジャナー・スイミングクラブ四谷」が、
「ジェクサー・フィットネスクラブ四谷」に改称した事を期に
フィットネスブランド「ジェクサーブランド」が誕生した事と、
「む(6)ちゅう(2)でトレーニング(9)」の語呂合わせに因んで、
JR東日本スポーツ株式会社によって制定されました。
記念日を通じて同社の企業理念である
「からだとココロの健康づくりに貢献」し、運動をする機会をつくり、
フィットネスクラブを楽しむ日とするのを目的としております。
・JR東日本スポーツ株式会社は、フィットネスクラブや
 スイミングクラブなどのスポーツ施設の運営を手掛けている企業であります。
 1978年3月に設立された「株式会社スポーツ・クリエイト・サービス」を前身とし、
 1989年6月に東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)が株主となって
 「株式会社ジェイアール東日本スポーツ」に、
 2018年7月に「JR東日本スポーツ株式会社」に社名を変更しております。
 主な事業はフィットネスクラブ/スイミングクラブ等の
 スポーツ施設の建設・運営、フットサルクラブの運営、
 リラクゼーションスポットの運営、スポーツ事業の受託、
 介護予防サービス事業となっております。
 首都圏を中心に新潟/仙台/秋田でも事業を展開しており、その店舗は
 フィットネスクラブ/コンパクトジム/フィットネスタジオ/女性専用スタジオ/
 プレミアクラブ/ジェクサー・ジム フラット/フットサルクラブ/
 ゴルフカレッジ/テニススクール/キッズスクール/リラクゼーションスポット/
 リフレッシュスタジオ/eスポーツステーションなど多彩であります。
けものフレンズにおいてトレーニングで思い浮かぶ要素といえば、
アニメ一期におけるセルリアンハンターの皆様かもしれません。
フレンズの方々にとって天敵であるセルリアンに対抗するには
相応の力を身につけておかなければならず、それには鍛練が欠かせません。
中でもキンシコウ様は旧アプリ版と同様に、
日頃から鍛練を欠かさない雰囲気が感じられます。
他にも、けものフレンズ3の「ちからくらべ」や「シーサー道場」も
トレーニングの一環として設けられているものと思われます。
トレーニングは自らを高めるのに欠かせないものでありますが、
没頭するあまり自らを追い込み過ぎては逆効果であります。
しっかり動いて、きちんと休む。これが鍛練の基本なのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3369
流浪のみんみ教徒 2022/06/30 (木) 00:03:03 457e0@48aed

本日は1974年に、東京都恩賜上野動物園のアトラクション
「おサル電車」の営業が終了した日であります。
・「おサル電車」は上野動物園で運用されていた遊戯施設で、
 先頭車両に猿が座り、後続車両にお客様を乗せて走る電車で、
 「お猿の電車」という愛称で親しまれておりました。
 その誕生の背景には太平洋戦争が及ぼした大きな影響があります。
 空襲によって動物園の檻が壊れて猛獣が逃げ出す事を恐れて、
 ゾウやライオンといった人気のある動物を処分せざるを得なくなった結果、
 終戦時の上野動物園には集客を見込めるものが無い状態でありました。
 こうした中で、子供達に向けた企画の一つとして
 「おサル電車」が誕生する事となりました。なお、「おサル電車」を
 世に生み出されたのはロボット研究家である相澤次郎氏とされておりますが、
 相沢氏が上野動物園に提案されたのはロボットが運転する電車であり、
 猿が運転する電車を考えたのは上野動物園側でありました。
 ただし、企画と完全に無縁であったわけではなく、初代の「おサル電車」は
 相沢氏が提供されたロボット電車に猿が搭乗しておりました。
・「おサル電車」の営業開始は1948年9月23日でありました。
 当初の運用はバッテリー駆動の電気機関車を猿が運転して
 客車を牽引する方式で、乗客は子供のみ、料金は3円でありました。
 猿が運転しているため、時にはバックしたり止まったりする事があるなど、
 その「気まぐれ」な部分も売りの一つでありました。
 営業開始されるとたちまち人気アトラクションとなりました。
 また、この「おサル電車」は子供向けのアトラクションの他に、
 動物心理学の実験、猿の知能の紹介といった事も目的とされておりました。
 その後、猿の訓練が大変である事、10歳以上まで成長した猿は
 凶暴性を帯びて乗客に危害を加える可能性がある事などを理由に、
 1955年頃には猿による運転が中止されて係員による操作に切り替えられ、
 猿は先頭車に座るだけという運用に変更されましたが、
 後に再び猿が運転する運用に戻っております。
 1962年5月には上野動物園の開園30周年を機に大幅な改装が行われ、
 軌間は従来の455mmから520mmに、軌条は6kgから9kgに、
 集電方式は直流第三軌条方式に変更されると同時に車両も大型化され、
 先頭車は当時開業間近であった新幹線車両を模したものとなりました。
 しかし、1973年に「動物の愛護及び管理に関する法律」が制定された事によって、
 「おサル電車は、猿に多大な負担をかける」という判断から廃止が決定され、
 1974年6月30日をもって営業を終了する事となりました。
 最終日には「さよならおサル電車」と銘打った営業となり、
 今まで運転する側であった猿が乗客となる場面もありました。
ジャパリパークにおける車両の運行は職員の方々以外に、
ラッキービースト様による半自動運転となっておりますので、
通常はフレンズの方々が運転される事はありません。
ただ、作品中において例外的な場面が描かれたものといえば、
アニメ一期の第五話「こはん」での一場面でありましょう。
見通しの良いドライブコースにてラッキービースト様が
かばん様にジャパリバスの運転を薦められた場面でありますが、
そもそも運転を薦められた事自体が異例であると言えます。
かばん様が遠慮される一方、興味津々な様子のみんみ様は運転席に飛び込まれ、
おもむろにステアリングやペダルなどを動かしておられましたが、
その後、アメリカビーバー様が建築のために
立てておられた材木に衝突されてしまいました。
動物の中でも類人猿は知能の高さや器用さが特に目立つ存在でありますが、
ヒトの成人と同じくらいの事をさせるには負担が大きいのは確かであります。
それ故に「住む世界が違う」という事実も考えざるを得ないのかもしれません。
本日もお祈りいたします、みんみー。

3370
名無しのフレンズ 2022/06/30 (木) 18:17:10 7da31@3ee2d >> 3369

この手のモノって動物は基本お飾りだと思うんですが、
実際にサルが動かしてたのって珍しいですよね

翻って、ボスがかばんちゃんに運転を勧めたシーンを考察してみると、
1.来園者に(ボスのサポート付きで)運転させるサービスが想定されていた
2.かばんちゃんにミライさんを重ねて見ていたボスが、
  その仮説の正しさを検証するためにバスの運転手を譲ろうとした
みたいなことが考えられますが、果たして・・・?

実際はサーバルの邪魔(w)が入ってギャグ展開にされてしまうわけですが
(サーバルってちょくちょく絶妙のタイミングでフラグ潰しますよねw)

3372
流浪のみんみ教徒 2022/07/01 (金) 00:18:12 457e0@fac32 >> 3370

おそらく、ラッキービースト様はかばん様を
お客様として認識されていたと思われるため、
ジャパリバスの運転を薦められた場面は、一つの謎とも言えます。
暫定パークガイドへの認定後であれば、まだ自然な感じもしますが。

3371
流浪のみんみ教徒 2022/07/01 (金) 00:03:03 修正 457e0@fac32

本日から七月に入ります。
早くも2022年も後半となり、暑さが増してくる時期でありますが、
今年は多くの地域で6月中に梅雨明けが発表される異例の事態となりました。
早くも暑さが本格化しておりますので熱中症等に注意したいところであります。

本日はびわ湖の日であります。
1980年のこの日に施行された「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」
(琵琶湖条例)の施行1周年を記念して1981年に決定された記念日であり、
1996年のこの日に施行された「滋賀県環境基本条例」で正式に定められ、
1997年から実施されております。
・琵琶湖は滋賀県にある日本最大の面積と貯水量を持つ湖で、
 一級水系「淀川水系」に属する一級河川であります。
 国土交通大臣から委託を受けて滋賀県知事が管理を担っております。
 湖は鈴鹿山地/伊吹山地/野坂山地/比良山地/甲賀山地といった
 山々に囲まれた滋賀県の近江盆地に位置しております。
 669.26㎢の面積は滋賀県全域の面積の6分の1を占める大きさで、
 日本全国の湖の中で最大であり、275億tの貯水量も日本一であります。
 湖底が最も深い水域は竹生島と安曇川河口の間にあり、
 2005年には104.1mの最大水深が計測されております。
 南北の延長は長浜市西浅井町塩津~大津市玉野浦間で63.49km、
 最広部は長浜市下坂浜~高島市新旭町饗庭間の22.8km、
 最狭部は守山市水保町~大津市今堅田間の1.35kmであります。
 流域面積は3848㎢で、淀川流域の47%に当たります。
 最狭部に架かる琵琶湖大橋を挟んだ北側の主湖盆は「北湖」(太湖)、
 南側の副湖盆は「南湖」と呼ばれ、南湖が面積58㎢/平均水深4mであるのに対し、
 北湖は面積623㎢/平均水深41mであり、湖水の99%が北湖に蓄えられております。
・琵琶湖は世界有数の古代湖であり、その成立はおよそ440万年前まで遡ります。
 以降現在に至るまでの琵琶湖の各時代の環境は、
 古琵琶湖層群と呼ばれる三重県から滋賀県にかけて分布する地層における
 各累層の泥/砂/礫の構成比率の違いにより示されております。
 440万年前に琵琶湖が生まれたのは、後の三重県伊賀市となる場所でありました。
 まず、地盤の断層運動によりできた浅い窪地に水が溜まり、
 40~50万年ほどかけて浅くて狭い湖(断層湖)となりました。
 この湖は旧大山田村付近にあった事から「大山田湖」と呼ばれておりました。
 この湖は300万年ほど前になると阿山地方にまで北上しており、
 この時代の前期に湖は広がり、後期には甲賀地方(滋賀)に位置する
 北部の沈下により狭くて深い湖となりました。(阿山・甲賀湖、佐山湖)
 260万年ほど前には更に北上して水口地域/日野地域/多賀地域にまで広がり、
 この時期には蒲生湖沼群と呼ばれる小さな三日月湖などが多数集まった
 沼沢地群となり、その後更に河川とその周囲の湿地といった環境になるなど、
 不安定な水域でありました。この時代に水の流出方向は伊勢湾方面から
 京都・大阪方面に変わったと考えられております。
 現在、滋賀と三重/岐阜両県の水系を分断している鈴鹿山脈は
 180万年ほど前に隆起し始め、100万年ほど前になると
 現在の南湖の位置に堅田湖と呼ばれる小さな湖が形成されました。
 それと同時期に、現在の北湖中央付近にも湖がありましたが、
 その後陸地化した事が地層の調査に基づき推定されております。
 また、90万年ほど前には、現在の北湖中央を南北に横切る山地がありました。
 その後、琵琶湖の周辺に大きな地殻変動が生じ山地が隆起した43万年ほど前に、
 北湖の地域にまで琵琶湖は広がり、以降北進する事なく現在に至っております。
 40万年ほど前の琵琶湖は現在よりも細長い形状であり、
 その後に東へ向けて広がったと考えられております。
・琵琶湖が現在の位置に定まったのは旧石器時代末期頃であり、
 琵琶湖周辺ではその時代の石器が発見されておりますが詳細は不明であります。
 縄文早期後半の石山貝塚などの遺跡からは淡水産の魚介類の貝殻や骨が発見され、
 一部山間部にも居住の痕跡があり、湖畔での居住を好んだ傾向が窺えます。
 また、縄文後期には丸木舟が使用されていた事も判明しております。
 弥生前期から中期にかけての湖底遺跡からは、土器/木器/石器/炭化米や
 環濠などが発見されており、灌漑・排水が比較的容易であり漁撈の便も良い
 琵琶湖畔において、初期の稲作が多く営まれていたと推測されております。
 大津京遷都が行われた飛鳥時代以降、多くの歌人によって歌が詠まれており、
 湖上の往来が盛んに行われたいた事も窺う事ができます。
 また、奈良時代から近代にかけては琵琶湖治水のために
 瀬田川の浚渫や改修が繰り返し計画/実施されております。
 なお、湖底遺跡は平安時代末期を存続の終期と推定されております。
 織田・豊臣政権においては、安土城を拠点に湖上を一括管理し、
 経済的/社会的に利用する事が試みられました。
 この頃まで安土城が築かれた大中湖一帯は政治的中心地でありましたが、
 以降琵琶湖との間に砂州が形成されるなどしたため、豊臣政権から
 徳川政権へと時代が進むにつれ、膳所や彦根にその地位を譲る事となりました。
 江戸時代の琵琶湖周辺域には200余りの集落があり、
 周囲の集落や田畑には「ホリ」と呼ばれる水路が張り巡らされておりました。
 近代以降の琵琶湖の面積は、1890年代は688㎢と推定されておりますが、
 1990年代には669㎢まで減少しております。この要因としては、
 南郷洗堰の築造に関連する水位の低下の他、干拓や埋め立てや
 湖岸整備といった人為的なものが大きいと考えられております。
ジャパリパークは各エリアごとに様々な特徴を有していると考えられ、
その中には様々な河川や湖が存在しているものと思われます。
その中でも判りやすい例がアニメ一期の第五話「こはん」でありますが、
第二話「じゃんぐるちほー」での河川は別の湖に繋がっている可能性もあります。
湖は、それそのものが様々な生き物の生息地であると同時に、
その周辺に暮らす全ての生き物にとっての生命線でもあります。
湖の環境を守る事は周辺地域の環境を守る事だけでなく、
地球環境全体の保全にも繋がっている事を忘れたくないものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。