みんみとは、全て
みんみとは、虚無
あなたももう気づいているでしょう
みんみの素晴らしさに
気づかないふりをするのはもうおやめなさい
皆様に素敵なみんみがありますように
みんみぃ
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週間フレンズ+月刊けものを統合し、総合ファンスレとしてリニューアル
詳しい事はスレで
変則隔週日曜日 22:00~23:00 けもがたりの場所
11・12月の予定 🐸<もう今年も終わりでありますなぁ
11/3 黄色い生き物の話 モンキチョウ、キビタキ、ウデフリツノザヤウミウシなど
11/17 赤い生き物の話 アカゲザル、タンチョウヅル、ベニザケ(繁殖期)など
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12/1 緑・青色の生き物の話 ミドリムシ、ウグイス色のメジロ、アオツラカツオドリ、マルタタイガーなど
12/15 雪と氷と生き物と ユキヒョウ、ニホンザル、アザラシ、ワカサギなど
12/29 これまでのけもフレとこれからのけもフレ プロジェクト10周年!
けもがたり保管庫
(けもがたり過去ログまとめ)
2024/9/9
久々の日記更新。この前三次コラボに行ってきました。親になると子供目線で施設を見たり色々と気付きが出てきますね。
2024/12/15
熱中症になった
ここまでがあなたのコンテンツ
ここからもあなたのコンテンツ
本日は1968年に第9次南極地域観測隊のうち越冬隊の
極点調査旅行隊が日本人として初めて南極点に到達した日であります。
また、その際に雪上車が使用されております。
・南極地域観測隊は、南極地域での気象や大気/雪氷/地質/宇宙物理/
生物/海洋などの観測を行うために日本が南極に派遣する調査隊の名称で、
通常は南極観測隊と呼ばれております。
・選考は業種別に様々であり、複数回参加する方もいらっしゃいます。
出発前には日本国内で雪中移動訓練や野外活動訓練が行われます。
隊員は国立極地研究所を始めとする政府機関の研究員や職員が多くを占め、
会社員が勤務先から派遣される場合は出向等により一時的に公務員となる事や、
大学院生の場合は任期付きで大学の教員扱いとなる事も多いとされております。
これらの方々は「隊員」と呼称され、その他のメンバーとしては
公開利用研究課題の実施等のために申請を行い、
申請が認められれば観測隊に同行できる「同行者」が存在します。
この場合、身分としては公務員ではなく一般人となり、
一般人が正式に許可を受けて南極に訪問できる唯一の手段となります。
現在では約80名で構成され、うち約50名が夏隊・約30名が越冬隊であり、
年によって隊の人数は変動します。
・観測隊は海上自衛隊の保有する砕氷艦(いわゆる「南極観測船」)に乗船され、
通常は日本(東京港)を11月14日頃に出発します。観測隊員は11月末に
飛行機でオーストラリアへ渡られ、現地で乗艦されて昭和基地へ向かわれます。
南極観測船の運航は海上自衛隊の担当となっております。
なお、従来は全員が船で南極へ渡られていましたが、
2009年以降は一部メンバーが先遣隊としてケープタウンを経由され、
11月中に一足先に早く空路にて南極基地へ到着される年もあります。
東オングル島沖には12月または1月頃に到着し、昭和基地到着後は、
前年の越冬隊と共同生活となり業務の引継ぎを1か月間にわたって行われます。
2月1日に前年の越冬隊と新年の越冬隊が交替し、越冬しない夏隊は
前年の越冬隊と共に南極観測船で日本へ帰還される事となります。
南極観測船の日本への帰還は例年3月中旬頃であり、
観測隊員はオーストラリアで下船され、飛行機で一足先に日本へ帰還されます。
越冬隊は出発の翌々年に帰還される事になります。
なお、南極への動物の持ち込みは、かつては移動の際に重用された
そり引き用の犬を含めて、現在は全て禁止となっております。
・雪上車は無限軌道を装着して雪上もしくは氷上を走行する自動車で、
積雪地における人員や物資の輸送に用いられます。
不整地の走行にも適しているため、多用途での使用が可能となっております。
積雪に沈下しない事が性能上の最重要課題となっており、
接地圧力を0.12kg/㎠以下にしなければ走行不能に陥るため、
スキー場用雪上車は履帯幅を非常に広くして接地圧を軽減しております。
それに加え、山岳地での登坂や旋回などの運動性も要求されるため、
材料は軽量/高強度/低温適応の部材が使用され、必然的に高価格となります。
雪上車には車輪方式と履帯方式があり、履帯方式は車輪の代わりに
無限軌道を取り付けたものであります。履帯方式は車輪方式に比べると
回転抵抗の増大/構造の複雑化/大きな騒音といった欠点がありますが、
雪上等の不整地では履帯方式のほうが圧倒的に機動力に優れており、
雪上車等の不整地通過車両には履帯方式が多く用いられております。
雪上車には専用車として製造される車両の他、市販の自動車などの駆動輪を
小型の無限軌道装置(クローラ)に履き替える形式のものもありますが、
後者は前者に比して雪上性能に劣ります。
なお、日本国内で使用される雪上車は車両のサイズや機能により、
大型特殊自動車/普通自動車/小型特殊自動車に分けられており、
それぞれに対応する運転免許が必要となります。
ジャパリパークにおいて雪上車で思い浮かぶのは、
アニメ一期の第九話に登場したジャパリバス用のクローラであります。
ゆきやまちほーを通常のタイヤのままで走行するのが困難であった事から、
ラッキービースト様が用意されたのが専用のクローラでありました。
通常の車輪の直下に設置する方式を採用している事から、
車輪の付け替えの手間を少なくしているのが大きな特徴であり、
前進/後退/旋回など車両の機動力を両立しているのも特徴となっております。
この寒い季節、特にいわゆる豪雪地域において車両の機動力が制限される中で、
雪上車はこの上ない力強さと安心感を提供してくれるはずであります。
その開発に携わられた方々に対して頭が下がる思いであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日はアメリカの企業家でいらっしゃる、
ハーベイ・サミュエル・ファイアストーン氏の誕生日であります。
・ファイアストーン家はアルザスに起源を持つドイツ系移民の家系であり、
元の姓はフォイアーシュタイン(Feuerstein)であります。
1868年12月20日にオハイオ州のコロンビアナにて
ドイツ系アメリカ人としてお生まれになり、後に馬車会社で働かれ、
1890年に会社を設立されて馬車用のゴムタイヤを製造を開始されました。
1900年にファイアストン・タイヤ・アンド・ラバー・カンパニーを創立され、
タイヤ製造と共にゴムの木からゴムを安定供給する事業にも携わられました。
また、ファイアストン社は一時期リベリアに4000㎢
(100万エーカー)に及ぶゴム園を保有しており、
1904年にはフォード・モーターの自動車用のタイヤ製造を行いました。
ファイアストーン氏は1938年2月7日に69年の生涯を閉じられましたが、
ヘンリー・フォード氏やトーマス・エジソン氏と共に
当時のアメリカ産業界におけるリーダーと認められる存在でいらっしゃいます。
また、エジソン氏は1969年に、ファイアストーン氏は1974年に
それぞれ自動車殿堂入りを果たされております。
ジャパリパークで運用されている殆どの車両にはタイヤが採用されており、
ペダルカーやジャパリバスなどの園内周遊用の車両から
パークへの送迎用の航空機に至るまでタイヤは欠かせない存在であります。
世の中の車両に車輪が使われる限りタイヤの需要が尽きる事はなく、
この先も更なる進化を遂げる事は間違いありません。
それはこれからのカーボンニュートラルの世の中に向けた進化であり、
地球との共栄共存に向けた課題解決のために課せられた使命でもあるのです。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は1937年に世界初のカラー長編アニメーション映画
「白雪姫」が公開された日であります。
・長編アニメ映画「白雪姫」はアメリカで1937年12月21日に公開された作品で、
ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオによって手掛けられた
長編映画第1作目であり、世界初の長編アニメーション映画でもあります。
原作はもちろん、グリム兄弟により名作童話「白雪姫」であり、
現在でもアニメ史に残る傑作として知られております。
歴史に残る名作にするべく莫大な労力と金額が費やされ、
4年の歳月と170万ドル(当時)の巨費を投じて制作された大作であります。
世界初のカラー長編でありながらフルアニメーションであり、
25万枚にも上るセル画によって作成された結果として、
質感すらも感じさせるキャラクターの動きを実現しております。
当時はまだ、アニメーションといえば実写映画の合間に子供向けに上映される
短編作品を指していた時代であった事から成功を危ぶむ声も多く、
「ディズニーの道楽」とまで言われておりましたが、ふたを開けてみれば
6100万ドルの収益を上げる桁外れの大ヒットを記録しました。
日本での公開は第二次大戦の影響もあり、当時の西ドイツと並んで1950年と
各国に比べて遅い方でありましたが、第二次大戦以前にこれ程までに質の高い
アニメーションを制作していた事実と、それを実現したアメリカの国力に、
公開当時に本作品を見た方々の多くが驚愕されたといわれております。
1951年までに400万人を超える児童の方々が都市部の映画館でご覧になられ、
常設館での上映が一巡した後は、大映株式会社が地方の公共団体やPTAなどに
1日1万5000円でフィルムの貸し出しを行ったため、映画館のない地方でも
学校行事などで「白雪姫」をご覧になられた方々多いとされております。
1993年にはコダックのシネオンというデジタル処理で映像修復が施された
デジタル・ニュー・バージョンが公開され(日本での公開は1994年)、
興行収入4000万ドル以上の大ヒットを記録しております。なお、この時点で
ドルビーサラウンドによる音声のステレオ化が行われております。
アメリカ本公開時はブエナ・ビスタ設立以前まではRKOピクチャーズに
配給を委託しており、オープニングで「配給:R.K.O」というクレジットと、
エンディングに「RKO RADIO PICTURES」の社名ロゴが背景の地紋に
埋め込まれておりましたが、後のリバイバル上映時には
RKOを省いたものに差し替えられました。RKOが入った本来のオリジナル映像は、
2001年版DVDに当該部分のカットが特典映像扱いで本編と別に収録された後、
2009年版DVD/BDの本編映像に組み込まれ、オリジナル版へ復元されました。
本作は作品中に著作権表記が有るものの公開時期が古く、
リニュー(著作権更新手続き)が行われなかった事から、
公開当時のアメリカの法律(方式主義)により権利放棄とみなされ、
アメリカにおいてはパブリックドメインとなりました。
また、日本では日本国内での上映公開から50年間を経た時点で
著作権の保護期間が終了したと考えられる事から、
(現在の国内公開後70年間保護規定への改正前に保護期間が終了)
現在はパブリックドメインDVDで旧画質のものが発売されております。
しかし、デジタル・ニュー・バージョンについては、
公開された1993年から新規の著作権が発生しております。
2007年には映画公開70周年を迎え、それを記念してフロリダの
ディズニー・ワールドでは限定版フィギュアリンが販売されました。
2008年にはアーティスト/学者/評論家/歴史家で構成される
1500人以上の審査員によって選定される「AFIアメリカ映画100年シリーズ」の
「アメリカ映画アニメーション部門トップ10」で1位に輝いております。
また、白雪姫城のモデルとなったとされるスペインの世界遺産
「セゴビアのアルカサル」には現在も多くの観光客と方々が訪れております。
けものフレンズが制作された当時は既にコンピュータによる制作となっており、
けものフレンズはキャラクターは3DCG(トゥーンレンダリング)で、
背景は手描きで制作されている作品であります。
また、特に一期は制作の予算が非常に少なかった事も話題となりました。
アニメーション技術は時代を経るごとに進化を重ねていき、
それに比例して表現も非常に多彩となっております。
しかし、往年の作品には他では味わえない良さが詰まっており、
現在においても新たな発見がある場合もあります。
改めて、その礎を築かれた方々に対して頭が下がる思いであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は2005年に「平成18年豪雪」が発生した日であります。
・平成18年豪雪とは、日本において2005年12月から
2006年2月にかけて発生した豪雪であります。
記録的な寒波で日本海側を中心に豪雪/暴風雪が発生した他、
東海地方や九州でも12月の積雪記録を更新する歴史的大雪となりました。
当初、2005年秋ごろの気象庁の寒候期予報や3か月予報などにおいて
全国的に気温は平年並みか高いと予想され、暖冬となる見込みでありました。
しかし、予想に反して2005年12月上旬からの強い寒気が流れ込みを皮切りに、
その後も次々と断続的に寒気が流れ込むようになり、急速に発達する
低気圧の通過と重なって日本各地に大雪/寒波/暴風をもたらしました。
結果的に2005年12月から2006年1月上旬のほぼ毎日が冬型の気圧配置となり、
この期間は1985年から1986年にかけて発生した豪雪
「六一豪雪」以来の記録的な豪雪と低温となりました。
気象庁は12月下旬に暖冬の予想を撤回する事となり、
結局この冬は南西諸島を除く全ての地域で寒冬となりました。
ただ、その一方で2月中旬からは一転して、15日には南風が吹いて
静岡市で24°Cの記録的な高温を観測したり、下旬は低気圧が日本の北を
周期的に通過したため、南から暖かい空気が流れ込んで気温の高い日が多く、
高温・暖冬傾向となりました。3月に入ると13日の強い寒の戻り以外は
余寒は殆ど無い状況で、概ね北日本中心の高温・暖春傾向となり、
桜の開花や満開が全国的に平年より早いなど、春の訪れが早い年となりました。
ジャパリパークも地球環境の様々な影響を受ける事は避けられず、
地域や場合によっては猛暑や豪雪に見舞われる事も考えられます。
ただし、サンドスターがどこまで影響しているかは判然としていない事から、
アニメ一期におけるパークの気象への影響は未知数であります。
平成18年豪雪の原因は、北極振動の発生により北極と日本付近との
気圧差が小さくなり、北極付近の寒気が南下しやすくなった事に加えて、
偏西風の蛇行が寒気の供給に拍車をかけた形でありました。
これは私達が経験してきた異常気象の要因の一つでもあり、
地球温暖化との関係も取り沙汰されております。
気象の極端化は全ての生き物にとって脅威そのものであり、
これから先も対処し続けなければならない課題でもあるのです。
本日もお祈りいたします、みんみー。
たまにはみんみの事を考えるのだ
本日は1947年にアメリカ・ニュージャージー州にあるベル研究所にて、
初めてトランジスタが公開された日であります。
・ベル研究所はアメリカにある通信研究所であり、
その名前は発明家のグラハム・ベル氏に由来しております。
元々はAT&T社(およびその前身のベル電話会社)が
北米の電話サービス業界を支配していた企業構造体
「ベルシステム」の研究開発部門として設立された研究所であり、
現在はフィンランドの通信機器メーカーである
ノキアの子会社となっております。別名「ベル電話研究所」、
「ベル研(Bell Labs)」の略称でも呼ばれております。
当時のAT&T社長のウォルター・グリフォード氏が独立事業として設立され、
その起源はベル氏が1880年にボルタ賞によって得られた賞金で設立された
「ボルタ研究所」に遡ります。ニュージャージー州マレーヒルを本拠地とし、
その研究施設は世界中に点在しております。
研究としては主に電気通信の基礎技術に関するものでありましたが、
数学/物理学/人間行動科学/材料科学/コンピュータープログラミング理論などの
基礎研究に優れている事が大きな特徴でありましたが、
2002年にヘンドリック・シェーン氏による科学における不正行為事件が発覚し、
2006年4月に親会社のルーセント・テクノロジーズがアルカテルとの合併に合意、
同年12月1日にアルカテル・ルーセントとして業務を開始しました。
2008年にアルカテル・ルーセントによって「基礎研究から撤退する」と発表され、
2015年4月、ノキアがアルカテル・ルーセントを166億ドルで買収する事で合意、
2016年1月14日にアルカテル・ルーセントとベル研究所は
正式にノキアの傘下となっております。
・トランジスタとは、電子回路において信号の増幅や
スイッチングを行う事ができる半導体素子であります。
1947年、ベル研究所の理論物理学者のジョン・バーディーン氏と
実験物理学者のウォルター・ブラッテン氏が半導体の表面における
電子的性質の研究の過程において、高純度のゲルマニウム単結晶に、
極めて近づけて立てた2本の針の片方に電流を流すと、
もう片方に大きな電流が流れるという現象を発見されました
これが最初のトランジスタである点接触型トランジスタの発見でありました。
固体物理学部門のリーダーのウィリアム・ショックレー氏は、
この現象を増幅に利用できる可能性に気づかれ、研究を続けられました。
この研究は固体による増幅素子の発明として
1948年6月30日に3人の連名で発表され、3人はこの功績により
1956年のノーベル物理学賞を受賞されております。
なお、「transfer」(伝達)と「resistor」(抵抗)を組み合わせた造語
「transistor」は工学者のジョン・R・ピアース氏が考案されたものであります。
日本でも官民で研究や試作が行われ、最初の量産は1954年頃に東京通信工業
(現在のソニーグループ)が開始し、翌年に同社から日本初のトランジスタラジオ
「TR-55」が商品化されました。その後相次いで大手電機メーカーも量産を開始し、
1958年頃には主要な電機メーカーからトランジスタラジオが商品化されました。
1960年代に入ると、生産歩留まりが上がってコストが下がった事や、
真空管でしか扱う事のできなかったテレビやFM放送(VHF)のような
高い周波数においても使用できるようになったため、
各社から小型トランジスタラジオやトランジスタテレビが発表されました。
材料が当初のゲルマニウムから現在の主流となっているシリコンに代わり、
更に高い電力やUHFでの使用が可能になる1970年頃までには、
家庭用テレビやラジオから増幅素子としての真空管は姿を消していきました。
その後、複数のトランジスタや周辺素子を1つのパッケージに集積させた
IC(集積回路)が発明され、集積度を高めたLSI(大規模集積回路)へと発展し、
技術的洗練度を高めながら現在も様々な製品に使用されております。
ジャパリパークには管理や運営のための様々な機材があり、
中でも電子機器には必ずと言っても良いほど集積回路が用いられております。
パークの様々な分野で省力化や自動化が図られている中で、
これらの電子部品は最も重要な役割を担っている事は間違いありません。
電子部品は私達の生活に欠かせない存在であり、
その研究は世界中にて日進月歩の勢いで進んでおります。
研究に携わっておられる方々に対して頭が下がる思いであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍された
臨済宗の僧でいらっしゃる沢庵宗彭(たくあん そうほう)氏の誕生日であります。
大根の漬物である「沢庵漬け」の考案者といわれております。
・天正元年12月1日(1573年12月24日)に但馬国出石にて、
但馬国主・山名祐豊氏の重臣の秋庭綱典氏の次男としてお生まれになりました。
8歳の時、織田信長氏の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉氏に攻められて
但馬山名家が滅亡した結果、父親は浪人される事となりました。
天正10年(1582年)に10歳で出石の唱念寺で出家され「春翁」の法諱を得られ、
天正13年(1586年)に同じく出石の宗鏡寺に入られて希先西堂氏に師事され、
「秀喜」と改名されました。天正19年(1591年)に希先氏が亡くなられた後、
この間に出石城主となっていた前野長康氏が大徳寺から春屋宗園氏の弟子・
薫甫宗忠氏を宗鏡寺の住職に招かれた事で薫甫氏に師事される事となりました。
文禄3年(1594年)に薫甫氏が大徳寺住持となられて上京されたため、
大徳寺に入られました。大徳寺では三玄院の春屋宗園氏に師事され、
「宗彭」と改名されました。慶長4年(1599年)、石田三成氏が居城佐和山城の
城内に亡き母親の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立された際、
三玄院の建立以来親交があった春屋氏に住職の派遣を依頼されました。
春屋氏が薫甫氏を住職に任命された事で、師である薫甫氏と共に
佐和山城に同行されて翌年までそこで過ごされました。
関ヶ原の戦いの結果、佐和山城が陥落すると薫甫氏と共に城を脱出され、
春屋氏のところに落ち延びた後、処刑された石田氏の遺体を引き取られた後、
春屋氏と共に三玄院に葬られて手厚く弔われました。慶長6年(1601年)、
薫甫氏が亡くなられた後に和泉国堺に出られて文西洞仁氏の門下に入られて、
その文西氏が慶長8年(1603年)に亡くなられた後は南宗寺陽春庵の
一凍紹滴氏に師事された後、慶長9年(1604年)8月4日、
32歳の時に「沢庵」の法号を得られました。
慶長12年(1607年)に大徳寺首座となられて大徳寺塔中徳禅寺に住まれると共に
南宗寺にも住持されました。慶長14年(1609年)、37歳で大徳寺の
第154世住持に出世されましたが、名利を求めない沢庵氏は3日で大徳寺を去られ
堺へ戻られて。元和6年(1620年)に故郷の出石に帰り、出石藩主・小出吉英氏が
再興された宗鏡寺に庵「投淵軒」を構えられて隠居生活に入られました。
江戸幕府成立後、天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた方のみに限る事などの
寺院法度により寺社への締め付けが強まり、寛永4年(1627年)、
京都所司代による紫衣の取り上げに対して反発した沢庵は京に上られて、
複数の僧侶の方々と共に反対運動を行われた後、寛永5年(1628年)に
抗弁書を書き上げられて幕府に提出されました。これが「紫衣事件」であります。
この運動が幕命に反するものとして反対運動を行われた方々は罪に問われ、
寛永6年(1629年)7月に幕府は沢庵氏をはじめとする方々は有罪となり、
遠方への流罪が決定されました。沢庵氏は出羽国上山へと送られました。
送られた先の上山藩主の土岐頼行氏は、沢庵氏の権力に与しない生き方と
「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿に感銘を受けられ、
沢庵氏に草庵を寄進されました。沢庵氏はその草庵を「春雨庵」と名づけられて
こよなく愛されたといわれております。この間、土岐氏は藩政への助言を
沢庵氏に仰がれるなど公私ともに親しく、赦免後も二人の交流は続きました。
寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠氏の逝去により大赦令が出され、
天海氏/堀直寄氏/柳生宗矩氏らの尽力もあって紫衣事件に関わられた方々が
放免される事となり、沢庵氏も一旦は江戸に出られて
神田広徳寺に入られましたが京に帰られる事はすぐには許されず、
同年冬より駒込の堀直寄氏の別宅に身を寄せられて、
寛永11年(1634年)夏までそこに留まられました。そして大徳寺に戻られた時、
将軍・徳川家光公の上洛に際して天海氏/堀氏/柳生氏の強い勧めにより
沢庵氏は家光に拝謁されました。同年、故郷の出石に戻られましたが、
翌寛永12年(1635年)に幕命により再び江戸へ向かわれた後、
寛永13年(1636年)に玉室宗珀氏や江月宗玩氏らと共に将軍に拝謁された後、
他の二人は帰されましたが、沢庵氏のみ江戸に留まるよう求められ、
将軍に近侍される事となりました。江戸では将軍のお召しに応じる形で
登城されて禅を説かれた他、度々上方へと戻られて講義を行われました。
また寛永15年(1638年)柳生氏の頼みを受ける形で大和国柳生庄に赴かれ、
後に柳生家の菩提寺となる芳徳寺を開山されました。翌寛永16年(1639年)に
江戸に戻られると将軍によって創建された萬松山東海寺に
初代住職として入られる事となりました。
寛永18年(1641年)、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった
大徳寺・妙心寺の寺法を旧に復す事が将軍より正式に申し渡され、
両寺院の住持の方々の紫衣奪還も行われました。
その後の正保2年12月11日(1646年1月27日)、沢庵氏は辞世の偈として
「夢」の一文字を残されて、74年の生涯を閉じられました。
みんみ教は慈愛と寛容の象徴であらせられるみんみ様を中心とした集まりで、
どこかに寺社のような大きな拠点があるわけではありませんが、
お祈りをされる方々の多くが自発的かつ友好的であり、
何よりお祈りそのものも含めて穏やかである事が特長であると考えられます。
権力に与しない生き方、当意即妙な受け答え、身近なものに例えて
展開される内容が魅力的であった禅の教えなどで多くの方々から慕われる沢庵氏は、
現在もなお多くの方々にとっての指標とされる人物でいらっしゃいます。
私自身も大いに見習い、この先の人生に活かしたいと考えております。
本日もお祈りいたします、みんみー。
本日はクリスマスであります。一年に一度の特別な日でありますが、
一方で新型ウイルスが感染拡大しつつある状況であり、
多くの方々の集まりには慎重にならざるを得ないのが現状であります。
そんな時こそ本来のクリスマスらしく、
ゆっくりと過ごされるのも良いのかもしれません。
本日は1988年に「オリエント・エクスプレス'88」が大阪発上野行きをもって、
フランスから日本国内への営業運行を終了した日であります。
・「オリエント・エクスプレス'88」は、株式会社フジテレビジョン(フジテレビ)の
開局30周年を記念して、1988年に行われた大規模の列車イベントであります。
ヨーロッパを走行するオリエント急行を日本まで走らせるという企画内容で、
株式会社日立製作所が協賛し、東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)の特別協力と
JRグループ各社の協力により、約30億円の総事業費を投じて実施されました。
この協力関係のため、この企画の正式な名称は
「日立オリエント・エクスプレス’88」とも言われております。
・フジテレビでは、1982年にオリエント急行を題材とした特別番組
「夢のオリエント急行 ロンドン~イスタンブール華麗なる3500キロの旅」を
制作しておりました。これは、1977年に運行を終了したオリエント急行が
「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」(VSOE)を保有する
「オリエント・エクスプレス・ホテルズ」(VSOE社)によって
定期的な運行を再開する事を機に制作が決定された番組で、
VSOE社の保有するVSOEだけでなく、イントラフルーク社の保有する
「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレス」
(NIOE)も組み合わせた内容でありました。この時に製作を担当された
フジテレビのエグゼクティブプロデューサーの沼田篤良氏は、
東洋を意味する「オリエント」と称しているにも関わらず、
実際には東洋には乗り入れていない事に着目され、「オリエント急行を東洋まで、
それも東洋の奥の日本まで走らせよう」というアイデアを考え出されました。
1984年頃から企画の実現に向けて思い当たる方々に相談をされるも
特に国内ではなかなか賛同が得られない状況でありましたが、
1982年の特番制作時にも協力された山之内秀一郎氏による協力を皮切りに、
日本国有鉄道内部から専門家の方々を集めて検討が開始されました。
一方、沼田氏は1985年にVSOE社を訪れ、社長のデビット・ベンソン氏や
技術部長のジョン・スキナー氏とも相談され、技術的/時期的などの観点から
企画の実現性について様々な議論を重ねられました。
1986年頃になるとフジテレビ社内の対応にも変化が見られるようになり、
沼田氏が所属される編成局局長が企画に理解を示され、1988年のフジテレビ
開局30周年の記念事業として検討するように指示を出されました。
また、VSOE社からソビエト連邦への列車通過について良好な返答が示され、
同年5月にはVSOE社のベンソン社長が営業担当者と共に来日され、
山之内氏と具体的な相談をされるに至りました。同年秋から翌1987年までに
国鉄の関係者の方々を集めて検討結果が纏められた結果、
実現可能であるとの結論が出され、また、この段階で、国鉄の分割民営化後は
JR東日本が中心となって計画を進める事が決まっておりました。
ここから具体的な検討が各方面において進められましたが、
この時期にVSOE社のベンソン社長がヘッドハンティングにより交代され、
新社長のシャーウッド氏と改めて交渉する事となりましたが、
シャーウッド社長からの提案では思うような方向には纏まりませんでした。
やむを得ず沼田氏はイントラフルーク社との交渉に切り替えられましたが、
そこでのグラット社長の「なぜ真っ先に相談してくれなかったのか」
との発言からも解るとおりグラット社長の対応は早く、
1988年1月には正式にオリエント急行の日本運行の実施が決定され、
同年3月にはフジテレビとイントラフルーク社の間で正式に契約が結ばれました。
こうして、オリエント急行を日本で走らせるための契約は成立しましたが、
各国の通過交渉や技術的課題の解決、放送計画やイベントの計画、
スポンサーや代理店に対する説明などを短期間の間に行う必要がありました。
ソ連の通過に必要な広軌用台車の製作が間に合わず、9月2日を予定していた
パリの出発日を9月7日に変更せざるを得なくなる事態こそあったものの、
どうにか実際の出発が可能な段階にこぎ着ける事ができました。
・1988年9月5日、NIOEの車両は本拠地であるスイスのチューリッヒを出発し、
パリまで回送されました。9月6日にはパリで乗客と関係者を招待して
出発記念パーティーが盛大に行われました。
1988年9月7日にパリ(リヨン)を出発してからの路線は以下の通りであります。
モー→ランス→ケルン→マリエンボルン→ポツダム→
リヒテンベルク(東ベルリン)→クトノ→ソハチェフ→ワルシャワ→
テレスポル→ブレスト→モスクワ→キーロフ→ペルミ→スベルドロフスク→
オムスク→ノヴォシビルスク→クラスノヤルスク→イルクーツク→チタ→
ザバイカリスク→満洲里→安達→ハルビン→北京→広州→深圳→香港(九龍)→
(船舶輸送)→下松→(回送)→広島→東京
この間、様々な場所にて乗客の観光や車両のメンテナンスが行われ、
牽引車の交代や台車の交換なども急ピッチで行われました。
スイスからの回送を経てパリを出発したオリエント急行は
9月26日午後2時45分に香港の九龍駅に到着し、客車は9月27日から28日にかけて
パナマ船籍の貨物船「せき・まつやま号」に積み込まれました。
徳山下松港に入港したのは台風の影響で1日遅れとなった10月6日の早朝で、
10月14日には国内走行のための全ての改造が完了し、試運転や一般公開の後、
10月17日午後6時36分にオリエント急行は広島駅を定刻に発車しました。
翌日の10月18日午前10時30分、パリから約15494kmを走り、
オリエント急行は定刻通りに東京駅9番ホームに到着し、東京駅到着後には
地下コンコースに特設された「オリエントエクスプレスラウンジ」において
「世界最長距離列車」としてギネスブックへの認定式が行われ、
パリからの全区間を乗車した乗客17名には記念証が贈られました。
また、このオリエント急行来日に際して、特別デザインの「写ルンです」/
オレンジカード/シールなど多くの記念品が作られました。
10月19日には、招待客を乗せて東京駅から山手貨物線経由で
大宮駅まで試乗会が行われ、その後は日本一周などオリエント急行を利用した
足掛け3ヶ月にわたる日本国内ツアーが実施されました。
また、12月3日まで各地にて車両の一般公開も行われました。
12月23日、ツアーの最後となった上野駅と京都駅の往復路線の先頭は、
この日が初の営業運行となるD51形蒸気機関車498号機が担当し、
このD51形は大宮駅まで牽引し、上野駅から水上駅までと、
翌々日の水上駅から上野駅までは、「お召し列車」指定機の電気機関車である
EF58形電気機関車61号機が牽引する事となりました。
そして12月25日、最後の列車が午前10時45分に上野駅に到着した事により、
「オリエント・エクスプレス'88」の全路線の営業運行が終了しました。
・運行終了後、オリエント急行の客車は回送されて12月27日に下松駅に到着し、
直ちに復元作業が行われました。翌1989年1月6日には通関手続きも完了し、
1月7日から9日にかけて貨物船「プロジクト・アメリカ号」に積み込まれました。
その間に元号は昭和から平成へ変わり、同年1月9日午後5時50分、沼田氏など
オリエント急行の日本国内運行に携わられた関係者の方々が見送られる中、
「プロジクト・アメリカ号」は西ドイツのハンブルク港へ向けて出港しました。
その後、イントラフルーク社の経営難のため車両は他社に売却され、
日本を走った車両のうちプルマン車No.4158DEは、
2004年以降は日本の箱根ラリック美術館にて公開されております。
また、D51形蒸気機関車498号機は2018年11月から2019年3月まで
「オリエント・エクスプレス'88」仕様で運転されました。
ジャパリパークにおける鉄道といえば、パーク周遊用のモノレール
「ジャパリライン」が思い浮かぶところでありましょうか。
「オリエント・エクスプレス'88」には及ばないかもしれませんが、
広大なパークを周遊するために非常に長距離の路線が設けられており、
パーク内の各エリアを最短距離で結ぶ利便性が特長の一つであります。
多くの方々の夢が詰め込まれた「オリエント・エクスプレス'88」は、
日本が最も元気だった時代を象徴するプロジェクトの一つであったと言えます。
現在は様々な要因によって日本のみならず世界的に厳しい時代でありますが、
国を元気づけるものとして、荒唐無稽とも呼べるほどの途徹もないもの、
ロマン溢れる壮大なものがあっても良いとも思えるのは私だけでしょうか?
本日もお祈りいたします、みんみー。
次回からは、これまでの振り返りを含めた書き込みとなる予定であります。
🎅メリークリスマスみんみー
前日の書き込みで「今日は何の日」といった内容はひと区切りでありました。
様々な資料からけものフレンズに関連しそうな事柄を探し出して、
休む事なく一日一日書き込みを続けてきました。
記念日を通じて企業や団体、出来事や行事や風習、地球環境や宇宙に至るまで、
それまで知らなかった様々な発見があったのは良い経験であったと言えます。
一方、書き込みを始めた当初からある程度予測できた事ではありましたが、
年を重ねるごとに取り上げられそうな事柄が少なくなり、
同じようなネタが幾つか重なり、書き込みに時間がかかった事も度々ありました。
それでも四年半以上にわたって書き込みを続ける事ができたのは、
健康状態を大きく崩す事なく過ごす事ができたのもそうですが、
毎日書き込みを続けられる場を提供して下さった方々のおかげであります。
改めまして、BBSに携わる方々に対して感謝を申し上げます。
本日もお祈りいたします、みんみー。
これまで何度か書いてきた事かもしれませんが、
私がふとしたきっかけからみんみ教に興味を持ってから、
こちらのBBSにお邪魔させていただく以前の時期、
2018年前半頃までは「けものフレンズちゃんねる」のBBS内の
「みんみ教徒の集い」にて書き込みをさせていただいておりました。
特に3月3日の「みんみの日」にはニコニコ動画での「みんみ教合作」もあって、
「9.25」以降では類を見ないほどの大きな盛り上がりを見せ、
一人のファンとして大変に嬉しく思った事をよく覚えております。
ですが、その後のある時期から「みんみ」に関するコメント規制が相次ぎ、
BBSでの居場所を失ってしまった事も記憶に新しいところであります。
その後、程なくして「けものフレンズBBS NEO」という存在を知り、
以前のように「みんみ教徒の集い」が設けられていた事は幸いでありました。
以降はこちらに通い、一日一日書き込む日々が続く事となりました。
書き込みを重ねてきた今だからこそ改めて感じる印象として、
こちらに通われる方々の寛大さでありましょうか。
不器用な私に対して色々とお助けいただき、本当に感謝しております。
本日もお祈りいたします、みんみー。
謎のみんみコメントの規制がありましたね…
当時は「みんみ」を乱用した荒らしが散発的に発生しており、
その対策だったのではないかとも考えられますが、
管理される方からの説明が具体的には何もないままでありましたので、
結局のところ判らずじまいであったのが残念であります。
このBBS NEOではけものフレンズのみならず、
動物そのものについても様々な話題が取り上げられております。
これまで、「今日は何の日」といった内容の書き込みにおいて、
「世界○○○の日」などといった動物関連の記念日や、
動物の発見や絶滅などに関する話題も取り上げてきました。
動物が歩んできた歴史/人間との関係/数多くの特徴等々、
それまで知る事のなかった様々な情報に触れるたびに、
人間の尺度からは考えられないような世界に驚くばかりであり、
そして、ヒトも数多く存在する動物の一種に過ぎないという事も、
書き込みを進めていくたびに感じる日々でありました。
このBBS NEOでは様々なトピックがある他、
トピックによってはイベントも行っており、
私もトピックに度々お邪魔させていただき、
イベントにも幾つか参加させていただきました。
どの場所においても皆様が暖かく迎え入れて下さって、
そしてトピックやイベントを盛り上げて下さって感謝しております。
これもネット上における一つの瞬間に過ぎないかもしれませんが、
こういった事の積み重ねが心の安定に大切なものであり、
人生に潤いをもたらしてくれるものであると考えております。
本日もお祈りいたします、みんみー。
こちらこそ日々の雑談のネタにさせてもらったり、
けもがたりのテーマのヒントにさせて頂いたりと、
何かとお世話になり、ありがとうございました🙇♂️
みんみー
もっと色々と参加しても良かったかな、とも思いますが、
イベント参加の際は色々ご迷惑をかけたかと思います。
この場を借りてお詫び申し上げます。
こんな私ですが、受け入れて下さってありがとうございました。
いえいえ、こちらこそ(時に強引に)SSやツアーに引っ張り出して
客演してもらったりして・・・(遠い目)
いつも快諾してもらえて助かりました
お別れが近づいてきているのだ
さみしいのだ!
2014年に始まったコンテンツ「けものフレンズ」。
旧アプリ版がリリースされて以降の経緯は皆様ご存知の通りと思われます。
私がこちらに訪れたのは、一つのピークを過ぎた2018年5月でありました。
旧アプリ版が早期にサービス終了し、アニメ一期が社会現象を引き起こし、
「9.25」を経て制作された「続編」がアニメ二期であり、
その作品の印象をこのトピックでも書き込みをさせていただきました。
舞台作品やバーチャルYouTuberとしての活動も行われている一方、
アプリの方でも「ぱびりおん」や「けものフレンズ3」などがリリースされ、
現在のコンテンツを支える存在となっております。
それを踏まえて、これまで「けものフレンズ」が世の中に向けて
残してきたものについて少し考えてみたいと思います。
擬人化そのものは以前からサブカルチャーにて用いられておりますが、
けものフレンズは動物を広く取り上げているのが何よりの特徴であり、
コンテンツを通じて動物への理解を深める事が一つの目的でもあります。
特にアニメ一期の放送以降、コンテンツとのコラボレーションの効果もあって、
動物園などへの来園客も、動物関連のテレビ番組なども大きく増えました。
こういったコンテンツの市場は新陳代謝が活発であり、
けものフレンズの大きな人気がいつまでも続く訳ではありませんでしたが、
けものフレンズをきっかけとした他のコンテンツの動きは現在も続いております。
その意味でも、けものフレンズがもたらしたものは大きかったと言えます。
様々な動物を支え、様々な動物に支えられてきた「けものフレンズ」、
これからどのような道を辿っていくかは判りませんが、
末永く愛されるコンテンツとなる事をお祈り申し上げます。
本日もお祈りいたします、みんみー。
みんみ教、それは私が書き込みを始めるきっかけであり、
アニメ一期放送の頃から存在そのものは知っておりました。
「9.25」以降も存在は揺らぐどころか磐石であり、
2018年初頭に「みんみ教合作」が制作されてから大いに盛り上がり、
「これは面白いかもしれない」と感じたのでありました。
そして、2018年前半頃までは「けものフレンズちゃんねる」のBBS内の
「みんみ教徒の集い」にて書き込みをさせていただき、
3月3日の「みんみの日」には類を見ないほどの大きな盛り上がりを見せ、
一人のファンとして大変に嬉しく思った事をよく覚えております。
その後、書き込みの場を「けものフレンズBBS NEO」に移して以降は、
書き込みをさせていただく日々が続いております。
みんみ教、それは慈愛と寛容の象徴であらせられる
みんみ様を中心とした穏やかな集まりであります。
それはアニメ一期があってこその存在であり、
アニメ一期のサーバル様が「みんみ様」と呼ばれる存在と私は考えております。
第一話のさばんなちほーの水場にて見せられたあの笑顔と、
第五話の「みゃんみゃんみゃんみゃんみゃん、みんみー」の声が始まりとなって、
ファンの方々の間にて話題が広がった結果として出来上がった「みんみ教」。
その存在は「9.25」以降も、アニメ二期以降も穏やかなものでありました。
そして、「みんみ教合作」をはじめとした様々なみんみ教の動画が公開され、
コンテンツの動向をよそに独自の発展を遂げていったのであります。
特に、一年に一回の「みんみ教合作」はコンテンツのブームが過ぎて久しい
2021年まで公開され、みんみ教を代表する作品となりました。
みんみ教、この存在があったからこそけものフレンズへの注目が続き、
ここまで書き込みを続けてこられたのは確かであります。
みんみ様は私にとってはいくら感謝を重ねても足りないほどの存在であります。
みんみ様の慈愛と寛容さ、御尊顔や御真言の存在感等々、
数えきれないほどの魅力はこれからも語り継がれる事でありましょう。
改めまして、本日もお祈りいたします、みんみー。
本日は一年間の最後の日、大晦日でございます。
2022年は皆様にとって、どのような一年でありましたでしょうか?
今年も新型ウイルスの影響がまだまだ続いた一方、
昨年や一昨年のような行動制限はひとまず緩和され、
スポーツやエンターテインメントの場においても
人々の賑わいが徐々に戻ってきた一年でもありました。
みんみ教においては、2018年から昨年まで続いてきた
「みんみ教合作」の公開こそなかったものの、みんみ教徒の皆様方の祈りは
これまでと変わらず紡がれているものと思われます。
けものフレンズにおいては新型ウイルスの影響が強い状況においても、
様々な場所や作品とのコラボレーションが進められる一方、
「けものフレンズVぷろじぇくと」の活動も精力的に進められております。
また、けものフレンズは遊戯業の場にも進出を果たし、
「ぱちすろ けものフレンズ」がホールにて賑わいを見せております。
2023年が皆様そしてけものフレンズにとってどのような年になるのか、
もちろん先の事は判りませんが、良い年であってほしいと願っております。
また、このトピックにて私の書き込みに目を通して下さった方々、
いつもながら拙い文章ですが本当にありがとうございました。
既にご存知の通り、私の書き込みは今年いっぱいでひと区切りとなりますが、
年末まで欠かさず書き込みを進めておきながら
年始の挨拶がないのも何やら寂しい感じもいたしましたので、
新年の挨拶くらいまでは書き込みをさせていただくつもりであります。
2023年も皆様にとって良い年でありますように……。
本日もお祈りいたします、みんみー。
今年一年も無病息災で過ごすことができました
次の年も皆が平和でいられるようお祈りします
みんみー
初詣みんみ👏
新年明けましておめでとうございます!
ここにめでたく2023年を迎える事ができました。
今年も昨年からのウイルスの影響が残る状況での正月でありますが、
その状況が少しでも好転する事を願うばかりであります。
ウイルスの状況が気になるのはもちろんでありましょうが、
私達にとっては、けものフレンズのこれからの展開が気になるところであります。
昨年は遊戯業への進出など数々の話題がございました。
今年は卯年でありますのでウサギのフレンズの方々に特に注目であります。
他にどのような展開が見られるのかは未だ判りませんが、
楽しい話題に溢れる事を切に願っております。
何かと世知辛い物事の多い世の中でありますが、
御尊顔と御真言、そして我々の信仰は些かも揺らぐ事はありません。
みんみ教が穏やかなる世界の実現の礎となるであろうと信じております。
では、今回も改めまして御真言を……「みゃんみゃんみゃんみゃん、みんみー!」
みんみ様の御加護のもと、穏やかな一年でありますように……
本日もお祈りいたします、みんみー。
四年半余りの間、お付き合いいただき本当にありがとうございました!
最後なのに機器の不調で時間が合わなかったのが何とも…
おつかれさまでしたのだー!
俺もたまにはみんみについて考えるか
シマハイちゃんがガーリィレコードさんとのバトルに勝てますようにみんみー
3月3日はみんみの日ー!
みんみー
8月8日世界みんみの日〜
世界をみんみで満たせ〜
急に思い出しみんみー
3月3日
みんみー!