本日は1946年に、日光東照宮内にある26棟の建造物が
戦後初となる国宝に指定された日であります。
・日光東照宮は栃木県日光市に所在する神社で、江戸幕府初代将軍の
徳川家康公を神格化した東照大権現が主祭神として祀られております。
日本全国の東照宮の総本社的存在となる神社であり、
久能山東照宮や上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられております。
正式名称は地名を含めない「東照宮」でありますが、
他の東照宮との区別のために「日光東照宮」と呼ばれる他、
公式ホームページでも日光の地名が付けられております。
・隣接する仏教寺院の輪王寺は、奈良時代の天平神護2年(766年)に
僧の勝道氏(勝道上人)による日光山の開山を実施した後、
関東地方の霊場として鎌倉幕府将軍の源頼朝公からも寄進を受けました。
頼朝公が母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えられて以来、
鎌倉幕府/関東公方/後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威となり、
こうした歴史を背景に徳川氏は東照宮を造営されたと考えられております。
元和2年4月17日(1616年6月1日)に家康公は駿府にて生涯を閉じられ、
遺言によって遺骸は直ちに駿河国の久能山に葬られました。
同年中に久能山東照宮が竣工しましたが、翌・元和3年(1617年)に
二代将軍の秀忠公が下野国日光での改葬を、天台宗の天海氏に命じられました。
日光では同年4月に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と
正一位の位階の追贈を受けられ、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、
家康公の一周忌にあたる4月17日に遷座祭が行われました。
寛永11年(1634年)9月(9月か10月)に三代将軍の家光公が日光社参を行われた後、
寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ、
荘厳な社殿への大規模改築が行われました。江戸はもとより
京や大坂からも集められた宮大工の方々によって工事が行われた後に竣工し、
この年に江戸に来訪された朝鮮通信使の方々による日光参詣に用いられた事から、
将軍家の政治的威光といった役割としても利用されましたい。
正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて「東照社」から「東照宮」に改称し、
国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、
奉幣使(日光例幣使)が派遣されました。
家康公が日光に祀られる事となったのは家康公本人の遺言によるものであり、
臨済宗の以心崇伝氏の日記「本光国師日記」には
「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、
日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。
そして、八州の鎮守となろう」という記述が残されております。
家康公が目指された「八州の鎮守」とは日本全土の平和の守り神の事でもあり、
不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と
日本の恒久平和を守ろうとした事が伝えられております。
1869年の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、
寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立しており、
現在でも東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中の施設が一部にあります。
1873年に別格官幣社に列せられ、第二次大戦後は神社本庁の別表神社となり、
1985年に神社本庁を離れて単立神社となりました。
1946年7月23日、東照宮内の26棟の建造物が戦後初となる国宝に指定され、
1998年5月14日に「日光山内」の名称で国の史跡に指定されました。
1999年12月2日には、モロッコのマラケシュで開催された、
国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産委員会にて、
「日光の社寺」の名称で文化遺産として登録されております。
神事は例年行われている行事以外に、50年ごとに式年祭が行われており、
家康公の没後およそ400年の2015年には式年大祭が行われております。
みんみ教は、慈愛と寛容の象徴であらせられる
みんみ様を中心とした穏やかな集まりであります。
特定の建造物といったものが存在しないかわりに、このトピック以外にも
みんみ教に関連する作品や掲示板、みんみ教wikiなどのサイト等々、
時間を問わず様々な場所にて祈りを捧げる事が可能となっております。
国家元首を神として祀るという事自体は現代とは異なる思想ではありますが、
国家の安寧を願う精神そのものは時代を問わないものであり、
穏やかなる祈りとして未来永劫伝えられるものであると信じております。
世界に、みんみ様の御加護のあらん事を……。
本日もお祈りいたします、みんみー。