ye ca yathā •ye - どのような •ca - そして •yathā - どのように ca yadṛśāś •ca - そして •yadṛśāḥ - どのようであろうとも ca yal lakṣaṇāś •ca - そして •yal - どのような •lakṣaṇāḥ - 特徴 ca yat svabhāvāś •ca - そして •yal - どのような •svabhāvāś - 本質 ca te dharmā iti •ca - そして •te - それらの •dharmā - 法 •iti - そのように teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ. •teṣu - それらの •dharmeṣu - 法において •tathāgata - 如来 •eva - こそが •pratyakṣaḥ - 直接的に •aparokṣaḥ - 完全に知っている(間接的でない)
ye ca te dharmāḥ, •ye - どのような •ca - そして •te - それらの •dharmāḥ - 法 yathā ca te dharmā, •yathā - どのように •ca - そして •te - それらの •dharmā - 法 yadṛśāś ca te dharmā, •yadṛśāḥ - どのようなものであろうとも •ca - そして •te - それらの •dharmā - 法 yal lakṣaṇāś ca te dharmā, •yal - どのような •lakṣaṇāḥ - 特徴 •ca - そして •te - それらの •dharmā - 法 yat svabhāvāś ca te dharmāḥ, •yat - どのような •svabhāvāḥ - 本質 •ca - そして •te - それらの •dharmāḥ - 法
tathāgata eva, Śāriputra, •tathāgata - 如来(悟りを得た者、仏陀) •eva - こそが、まさに •Śāriputra - シャーリプトラ(弟子の名前) tathāgatasya dharmāṁ deśayet. •tathāgatasya - 如来の •dharmāṁ - 法を •deśayet - 説くことができる yāṁ dharmāṁs tathāgato jānāti, •yāṁ - どのような •dharmāṁs - 法を •tathāgataḥ - 如来(主格) •jānāti - 知っている sarvadharmān api, Śāriputra, •sarvadharmān - すべての法を •api - もまた •Śāriputra - シャーリプトラよ tathāgata eva deśayati, •tathāgata - 如来 •eva - こそが •deśayati - 説く sarvadharmān api tathāgata eva jānāti. •sarvadharmān - すべての法を •api - もまた •tathāgata - 如来 •eva - こそが •jānāti - 知っている
和訳:
シャーリプトラよ、如来のみが法を説くことができる。 如来が知る法は、すべての法であり、シャーリプトラよ、如来のみが法を説き、如来のみがすべての法を知っている。
どのような法であれ、その法がどのようであれ、その法がどのようであろうとも、その法がどのような特徴であれ、その法がどのような本性であれ、どのようであり、どのようであろうとも、どのような特徴であり、どのような本性であろうとも、なんであろうとも、それらの法において、如来のみが直接的に、完全に知っている。
一行毎の訳: tathāgata eva, Śāriputra, 「如来こそが、シャーリプトラよ、」
tathāgatasya dharmāṁ deśayet. 「如来は法を説くことができる。」
yāṁ dharmāṁs tathāgato jānāti, 「如来が知っている法は、」
sarvadharmān api, Śāriputra, 「すべての法であり、シャーリプトラよ、」
tathāgata eva deśayati, 「如来のみが法を説く、」
sarvadharmān api tathāgata eva jānāti. 「如来のみがすべての法を知っている。」
ye ca te dharmāḥ, 「どのような法であれ、」
yathā ca te dharmā, 「その法がどのようであれ、」
yadṛśāś ca te dharmā, 「その法がどのようであろうとも、」
yal lakṣaṇāś ca te dharmā, 「その法がどのような特徴であろうとも、」
yat svabhāvāś ca te dharmāḥ, 「その法がどのような本性であろうとも、」
ye ca yathā, 「どのようであり、」
ca yadṛśāś, 「どのようであろうとも、」
ca yal lakṣaṇāś, 「どのような特徴であろうとも、」
ca yat svabhāvāś, 「どのような本性であろうとも、」
ca te dharmā iti, 「それらの法が何であろうとも、」
teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ. 「それらの法において、如来のみが直接的に、完全に知っている。」
更に南宗禅の要旨を見てみましょう。
然して此の法門は、契要を直指して、繁文を仮らず。 但る一切の来生は、心本と無相。 言う所の相とは、並て是れ妄心なり。 何者か見れ妄? 意を作して心を住め、空を取り浄を取る所より、乃至ては心を起して菩提涅槃を証せんと求むるまで、並て虚安に属す。 他だ意を作すことさえ莫ければ、心には自から物無し、即ち物心無し。 かく自性は空寂にして、空の体上に、自り本智有り、知を謂いて以て照用と為す。 故に『般若経』に云く「応無所住面生其心」と。 「応無所」は本寂之体、「而生其心」は本智之用なり。 担だ意を作すことさえ莫ければ、自ら当に悟入すべし。 努力、努力! (『神会語録』胡適本第五段(石井本ナシ)、『神会和尚禅話録』)
どうでしょうか。 一旦まとめておきます。
<北宗禅> (1)各人の内面には「仏」としての本質ー仏性ーがもとから完善な形で実在している。 (2)しかし、現実には、妄念・頻悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。 (3)したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。 <南宗禅> (1)各人に具わる仏としての本性は、虚空のごとく無限定・無分節なものである。 (2)迷いも悟りも、その虚空の上を去来する影像にすぎない。禅定によって迷妄を排除し清浄を求めようとすることは、本来の無限定・無分節を損なう愚行にほかならない。 (3)虚空のごとき本性には本来的に智慧が具わっており、それによって無限定・無分節なる自らの本来相をありありと自覚するのである。
ここで小川先生の見解を一瞥して見ましょう。
(1)各人に具わる仏としての本性は、虚空のごとく無限定・無分節なものである。 (2)迷いも悟りも、その虚空の上を去来する影像にすぎない。禅定によって迷妄を排除し清浄を求めようとすることは、本来の無限定・無分節を損なう愚行にほかならない。 (3)虚空のごとき本性には本来的に智慧が具わっており、それによって無限定・無分節なる自らの本来相をありありと自覚するのである。
更に南宗禅の特色として。
給事中房琯、「煩悩即菩提」の義を問う。 答えて曰く、「今、虚空を借りて喩えと為す。虚空の本来動静無きが如し、明の来るを以って即ち明るく、暗来りて即ち暗むにはあらざるなり。此の暗き空は明るき〔空〕に異ならず、明るき空は暗き空に異ならず。明暗には自より去来有れど、虚空には元より動静無し。煩悩即を提、其の義も赤た然り。迷悟には即ち殊なり有りと雖も、菩提心は元来不動なり」。 (石井本三九『神会和尚禅話録』)
つまり、北宗の坐禅は >身を坐して住心入定せしむる ものであり、南宗は >”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、 >禅”と言うは、本性を見るを“禅”と為す。 って訳です。 要約すると ”無念にして本性を観るのが坐禅である” という主張でありましょう。
若し人に教えて凝心入定、住心看浄、起心外照、摂心内証”せしめば、此れは是れ菩提を障うるなり。 今”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、今“禅”と言うは、本性を見るを“禅”と為す。 所以に人に教えて身を坐して住心入定せしむることをせず。 若し彼の教門を指して是と為さば、維摩詰は応に舎利弗の宴座を訶すべからざるなり。 (『菩提達磨南宗定是非論』)
端的に云ってしまうと南宗禅は、坐禅をインド的な身体的技法から精神的なものへと転換してしまったのです。 以下『禅の思想史講義』からそれを追ってみましょう。
最初期の禅宗は、いわばありのままの迷える自己を、坐禅という行によって克服し、もともとあった仏としての自己を回復する、という禅でした。 その意味ではたしかに「坐禅・内観の法を修めて、人間の心の本性をさとろうとする宗派」だった、といっていいでしょう。 (禅思想史講義』小川隆 より)
北宗禅の思想、どうでしょうか? 此れこそ印度伝来の禅修の正統を継ぐものであり、別におかしくはないと思うのですが…
しかし、神会は慧能を引き合いに出して”No”と否定した訳です。
以下は参考までに。 神秀の偈文に似てますねw
大道は本来り広く遍ねく、円浄にして本より有り、因従り得るにはあらず。 加えば浮雲の底の日光の似し、雲霧滅し尽さば、日光自ずから現る。 何ぞ更に多くの広学知見もて、文字語言を渉歴り、覆って生死の道に帰するを用いん。 口を用いて文を説き、伝えて道と為す者は、 此の人、名利を貪求りて、自からを壊し他を壊すなり。 亦た銅鏡を磨くが如し、鏡面上の塵落ち尽くさば、鏡は自り明浄なり。 (『楞伽師資記』「求那跋陀羅の章」より)
北宗禅の特色は、以下の通り指摘されております。
(1)各人の内面には「仏」としての本質ー仏性ーがもとから完善な形で実在している。 (2)しかし、現実には、妄念・頻悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。 (3)したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。
つまり現実態の迷える自己を坐禅によって克服し、その底に潜在している「仏」とひとしき本来の自己を回復する、という考え方です。
(『禅思想史講義』小川隆 より)
北宗禅は離念を南宗禅は無念を説くわけです。 以下有名な偈ですがw
(離念の立場) 身は是れ菩提樹、心は明鏡の台のごとし。 時時に勤めて払拭して、塵埃に染さしむること莫れ。
(無念の立場) 菩提は本より樹無し、明鏡も亦た台に非ず。 本来無一物、何れの処にか塵埃有らん。
>二相見道。此復有二。一觀非安立諦有三品心。 (二には相見道、此に復二有り。一には、非安立諦を観ずるに三品の心有り。) >一内遣有情假縁智能除軟品分別隨眠。 (一には、内をして有情の仮を遣って縁ずる智。能く軟品の分別の隨眠を除く。) >二内遣諸法假縁智能除中品分別隨眠。 (二には、内をして諸法の仮を遣って縁ずる智、能く中品の分別の隨眠を除く。) >三遍遣一切有情諸法假縁智能除一切分別隨眠。 (三には、遍く一切の有情と諸法の仮を遣って縁ずる智、能く一切の分別の隨眠を除く。)
見道で直観的な無分別智を体験した後に後得智、すなわち分析的な智慧が発現し、それを以って先の智慧を検証しより確かなものにしていくというのがこの段落です。
そしてその後得智には二種類があるって云うんです。 先ず非安立諦とは勝義諦、つまり世俗諦である言語に依って解析される概念的な真如を離れた真如の観察を云うのでしょう。 いわゆる「離言真如」の事でありましょう。
非安立諦には三つあり、一つは自己を後得智に依って照察してその実体がない事、すなわち我空を以って真如を観察し、粗い分別に起因する煩悩障を除きます。 二つには、より深く自己が諸法の因縁仮和合である事を以って、すなわち諸法の空相なることにより真如を観察し、粗い分別に起因する所知障を除きます。 三つには、上記の我空・法空の二空を以って真如を観察し、細微な分別に起因する一切の煩悩(二障)を除きます。 ちなみに通達位(見道)の後、更に二刧に亘る修行を経て漸く究竟位(成仏)に至るとされてますが、その間に何度も何度も何度も・・・、無分別の体験を繰り返すとされます。 禅宗では「大悟三度、小悟その数知れず」と云うそうですが、いわゆる見性体験はスタートであってゴールではないって事なのでしょうね。
>一眞見道。謂即所説無分別智。 (一には真見道。謂わく、即ち説きぬる所の無分別智ぞ。) >實證二空所顯眞理。實斷二障分別隨眠。 (実に二空所顕の真理を証し、実に二障の分別の隨眠を断ず。) >雖多刹那事方究竟而相等故總説一心。 (多刹那に事方に究竟すと雖も、而も相等しきが故に総じて一心と説けり。) >有義此中二空二障漸證漸斷。以有淺深麁細異故。 (有義は、此れが中には、二空と二障とを漸く証し漸く断ず。浅深と麁細と異なることを有るを以ての故にという。) >有義此中二空二障頓證頓斷。由意樂力有堪能故。 (有義は、此れが中には、二空と二障とを頓に証し頓に断ず。意楽の力堪能有るに由るが故にという。)
「二空・二障」は我空・法空と煩悩障と所知障。 「隨眠」は煩悩と同義で、それを多刹那に亘って断じるというのです。
有義の最初の方は漸悟、あとの方は頓悟。 成唯識論は後の立場を取ってます。 つまり、頓に無分別智を得て漸に阿頼耶識中の「習気」を滅するのです。 「習気」は残り滓みたいなものですが、此処までに一劫を要しそれを滅するのに更に二劫を要するのです。
>雖有見分而無分別説非能取非取全無。 (見分は有りと雖も、而も無分別なるをもって、能取に非ずと説けり。取ること全無には非ず) >雖無相分而可説此帶如相起不離如故。 (相分は無しと雖も、而も此れいい如の相を帯して起こると説くべし。如に離れざるが故に) >如自證分縁見分時不變而縁此亦應爾。 (自証分いい見分を縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、此れも亦た応に璽るべし) >變而縁者便非親證如後得智應有分別。 (変じて縁ぜば便ち親しく証するに非ずなんぬ。後得智の如く応に分別あるべし) >故應許此有見無相。 (故に応に此れには見のみありて相は無しを許すべし) >加行無間此智生時體會眞如名通達位。 (加行の無間に此の智の生ずる時に、真如に体得すれば、通達位と名づく。) >初照理故亦名見道。然此見道略説有二。 (初めて理を照らすが故亦見道と名づく。然も此の見道に、略して説かば二有り。)
無分別で対象を捉える時、それは能取ではないって云うことでありましょう。
「見分」は見るものとか捉えるもの、主体。「相分」は見られるものとか捉えられるもの、客体。
ちなみに「後得智」は無分別ではなくて分別です。
>有義此智二分倶無。説無所取能取相故。 (有義は、此の智には二分倶に無し。所取能取の相なしと説けるが故に。) >有義此智相見倶有。帶彼相起名縁彼故。 (有義は、此の智には相見倶にあり。彼の相を帯びして起こるを彼を縁ずと名づくるが故に。) >若無彼相名縁彼者應色智等名聲等智。 (若し彼の相は無くとも、彼を縁ずと名くといはば、應に色智の等きを声等の智と名くべし) >若無見分應不能縁。寧可説爲縁眞如智。 (若し見分無くんば、能縁にあらざるべし。寧んぞ説いて、真如を縁する智を為す可けむや。 >勿眞如性亦名能縁。故應許此定有見分。 (勿、真如の性をも、また能縁と名けてむが故に、此れには定んで見分も有りと許すべし。) >有義此智見有相無。 (有義は、此の智慧には、見は有りて相は無し) >説無相取不取相故。 (相無くして取る、相をば取らずと説けるが故に)
ここは難解なところですね。 一方で「此の智には相見倶にあり」と云いながら「此の智には相見倶にあり」と云うのですから。
>この真如を縁ずる智は、真如の体相を挟帯して起きるが故に、所縁と名く、彼の相分影像を帯びして起こるを縁ずと名くるに非ず。 >(国訳大蔵経解説より)
となってます。 「挟帯」という難しい術語が出てきましたが、通達位にて無分別智が開発(かいほつ)されれば、如実智見されるということでありましょう。 分別無しに対象を捉えるって事だと思います。
以下、主な要語の解説をしようと思います。
>次通達位其相云何。頌曰 (次の通達の位の其の相云何ぞ。頌曰く、) >若時於所縁 智都無所得 (若し時に所縁の於に、智都て所得無くなんぬ。) >爾時住唯識 離二取相故 (爾の時に唯識に住す、二取の相を離れるるが故に。) >論曰。若時菩薩於所縁境無分別智都無所得。 (論に曰く、若し時に菩薩いい、所縁の境の於に無分別智いい都て所得無くなんぬ。) >不取種種戲論相故。爾時乃名實住唯識眞勝義性。 (種々の戯論の相を取らざる故に。璽の時に乃し実に唯識の真勝義性に住すと名づく。) >即證眞如智與眞如平等平等倶離能取所取相故。 (即ち真如を証する智と真如と平等平等にして、倶に能所を離れざるが故に。) >能所取相倶是分別。有所得心戲論現故。 (能取所の相は此れ分別なり。有所得の心のみに戯論は現ずるが故に。)
通達位とは、瑜伽行唯識学派における五段階(資糧位・加行位・通達位・修習位・究竟位)の修行の階梯を云います。 またの名を見道ともいい、初めて悟りの智慧が発言する段階となります。
「頌曰」と「論曰」は、頌は唯識三十頌を、論は成唯識論を云います。 即ち成唯識論は唯識三十頌の解説書って事です。
「所縁」は「相分、捉えられるもの、対象等」を「能縁」は「見分、捉えるもの、主体等」を意味します。
「二取」は我見・法見。
「いい」は強調です。
「平等平等」とは、 >心と境相称ひ、如と智とを冥合して倶に二取を離れ、諸の戯論を絶したり。故に平等平等と名く >(『国訳大蔵経』より)
>由斯後智二分倶有。此二見道與六現觀相攝云何。 (斯に由って後智には二分倶に有り。此の二の見道と六現観と相攝すること云何。) >六現觀者。一思現觀謂最上品喜受相應思所成慧。 (六現観とは、一には思現観、謂く、最上品の喜受と相應する思所成の慧ぞ) >此能觀察諸法共相引生煖等。 (此いい能く諸法の共相を観察して煖等を引生す。) >加行道中觀察諸法。此用最猛偏立現觀煖等不能廣分別法又未證理故非現觀。 (加行道中にして諸法を観察するに、此が用最も猛し偏に現観と立つ。煖等は、廣く分別すること能わず、又理を証せず、故に現観に非ず。) >二信現觀。謂縁三寶世出世間決定淨信。 (二には、信現観、謂く三宝を縁ずる世・出世間の決定の淨信ぞ。) >此助現觀令不退轉立現觀名。 (此いい現観を助けて退転せざら令しむれば、現観という名を立つ。) >三戒現觀謂無漏戒除破戒垢令觀増明亦名現觀。 (三には、戒現観、謂く無漏戒ぞ、破戒垢を除いて、観をして増明になら令むれば、亦現観と名く。) >四現觀智諦現觀。謂一切種縁非安立根本後得無分別智。 (四には、現觀智諦現觀、謂く一切種の非安立を縁ずる、根本と後得との無分別智ぞ。) >五現觀邊智諦現觀。謂現觀智諦現觀後諸縁安立世出世智。 (五には、現観邊智諦現觀、謂く現観智諦現観の後に、諸の、安立を縁ずる世・出世の智ぞ。) >六究竟現觀。謂盡智等究竟位智。此眞見道攝彼第四現觀少分。 (六には、究竟現観、謂く、盡智等究竟位の智ぞ。此の真見道には、彼の第四現観との少分を攝む。) >此相見道攝彼第四第五少分。 (此の相見道には、彼の第四第五の少分を攝む。) >彼第二三雖此倶起而非自性故不相攝。 (彼の第二と三とは、此れ倶起と雖、而も自性非ざる故に相攝せず。) >菩薩得此二見道時生如來家。住極喜地。善達法界得諸平等。常生諸佛大集會中 (菩薩此の二の見道得しつる時には、如來家に生じ、極喜地に住し、善く法界を達し諸の平等を得し、常に諸佛の大集会の中に生まれ、) >於多百門已得自在。自知不久證大菩提。能盡未來利樂一切 (多くの百門に於いて已に自在を得しつ、自ら久しからずして大菩提を証し、能く未來を盡して一切を利楽すべしということを知んぬ。)
>前眞見道根本智攝後相見道後得智攝。 >(前の真見道をば根本智に攝め、後の相見道には後得智に攝む) >諸後得智有二分耶。有義倶無離二取故。 >(諸の後得智には二分有りや。有義は、倶に無し二取を離るるが故にという) >有義此智見有相無。説此智品有分別故。 >(有義は、此の智には見有って相無し。此の智品には分別有りと説けるが故に) >聖智皆能親照境故。不執著故説離二取。 >(聖智は皆能く親しく境を照らすが故に、執著せざるが故に、二取を離れたりと説くという。) >有義此智二分倶有。此思惟似眞如相不見眞實眞如性故。 >(有義は此の智には二分倶に有り、此は似の真如の相を思惟して、真実の真如の性をば見ずと説けるが故に) >又説此智分別諸法自共相等觀諸有情根性差別而爲説故。 >(又た此の智は諸法自共相等を分別し、諸の有情の根性の差別を観じて而も爲に説くと説けるが故に) >又説此智現身土等爲諸有情説正法故。 >(又此の智は、身と土との等きを現じて、諸の有情為に正法を説くと説けるが故に。) >若不變現似色聲等寧有現身説法等事。 >(若し現似の色聲等を変ぜざれば、寧んぞ身を現ぜし法を説くが等き事の有らむや) >轉色蘊依不現色者轉四蘊依應無受等。 >(色蘊の依を転ずるをもって色を現ぜずといわば、四蘊の依を転ずるをもって受等も無かる應し) >又若此智不變似境離自體法應非所縁。 >(又若し、此の智は変じて境に似ずといわば、自体に離れたる法は所縁に非ざる應し。) >縁色等時應縁聲等。又縁無法等應無所縁縁。 >(色等を縁ぜむ時には、聲等を縁ず應し。又無法等きを縁せしむるときは所縁縁無いかる應し) >彼體非實無縁用故。 (彼は体実に非ざるをもって、縁用無きが故に)
>三苦類智忍。謂智無間無漏慧生於法忍智各別内證。 (三には苦類智忍。謂く、智の無間に無漏慧生じて、法の忍と智を各別に内に證せり) >言後聖法皆是此類。 (後の聖法は皆是れ此れが類なりという。) >四苦類智。謂此無間無漏智生審定印可苦類智忍。 (四には苦類智。謂く、此が無間に無漏の智生して、苦類智忍を審定し印可するぞ。) >如於苦諦有四種心集滅道諦應知亦爾。 (苦諦に於いて四種の心有るが如く、集滅道諦にも、應に知るべし亦璽なり。) >此十六心八觀眞如八觀正智。 (此の十六の心において、八は真如を観じ、八は正智を観ず。) >法眞見道無間解脱見自證分差別建立名相見道。 (真見道の無間と解脱との、見と自証との分に法するをもって、差別に建立して相見道を名く。) >二者依觀下上諦境別立法類十六種心。 (二には、下上の諦境を観ずるに依って、別に、法と類との十六種の心を立つ。) >謂觀現前不現前界苦等四諦各有二心。 (謂く、現前と不現前との界の苦等の四諦を観ずるに、各二の心有り。) >一現觀忍。二現觀智。 (一には現觀忍。二には現觀智。) >如其所應法眞見道無間解脱見分觀諦斷見所斷百一十二分別隨眠名相見道。 (其の所應所應の如く、真見道の無間と解脱見見分の、諦を観ぜし法して、見所断の百十二の分別の隨眠を断ずるを相見道と名く。) >若依廣布聖教道理説相見道有九種心。 (若し廣布聖教の道理に依って相見道を説かば、九種の心あり。) >此即依前縁安立諦二十六種止觀別立。 (此は即ち、前の安立諦を縁ずる二の十六種に依って止と觀を別に立てたり。) >謂法類品忍智合説各有四觀。即爲八心。八相應止總説爲一。 (謂く、法類品の忍と智とを合して説くに、各四の觀有るをもって、即ち八の心と為し、八と相應する止を総して説いて一と為す。) >雖見道中止觀雙運而於見義觀順非止。 (見道の中には、止と觀を雙べ運ぶと雖も、而も見の義に於いては、觀のみ順じて止には非ず。) >故此觀止開合不同。由此九心名相見道。 (故に此の觀と止を開し合すること不同なり。此に由って九の心を相見道と名く。) >諸相見道依眞假説世第一法無間而生及斷隨眠非實如是。 (諸の相見道は、真によって假を説くをもって、世第一法の無間にして生ずといい、及び隨眠を断ずという。実に是の如くあるものには非ず。) >眞見道後方得生故。 (真見道の後に方に生ずることを得るが故に) >非安立後起安立故。分別隨眠眞已斷故。。 (非安立の後に安立を起こすが故に、分別の隨眠をば真して已に斷じてしが故に。) >前眞見道證唯識性。後相見道證唯識相。二中初勝故頌偏説。 (前の真見道には、唯識の性を証し、後の相見道には、唯識の相を証す。二が中には初いい勝れたるが故に頌に偏に説けり。)
>加行無間此智生時體會眞如名通達位。 (加行の無間に此の智の生ずる時に、真如に体得すれば、通達位と名づく。) >初照理故亦名見道。然此見道略説有二。 (初めて理を照らすが故亦見道と名づく。然も此の見道に、略して説かば二有り。) >一眞見道。謂即所説無分別智。 (一には真見道。謂わく、即ち説きぬる所の無分別智ぞ。) >實證二空所顯眞理。實斷二障分別隨眠。 (実に二空所顕の真理を証し、実に二障の分別の隨眠を断ず。) >雖多刹那事方究竟而相等故總説一心。 (多刹那に事方に究竟すと雖も、而も相等しきが故に総じて一心と説けり。) >有義此中二空二障漸證漸斷。以有淺深麁細異故。 (有義は、此れが中には、二空と二障とを漸く証し漸く断ず。浅深と麁細と異なることを有るを以ての故にという。) >有義此中二空二障頓證頓斷。由意樂力有堪能故。 (有義は、此れが中には、二空と二障とを頓に証し頓に断ず。意楽の力堪能有るに由るが故にという。) >二相見道。此復有二。一觀非安立諦有三品心。 (二には相見道、此に復二有り。一には、非安立諦を観ずるに三品の心有り。) >一内遣有情假縁智能除軟品分別隨眠。 (一には、内をして有情の暇を遣って縁ずる智。能く軟品の分別の隨眠を除く。) >二内遣諸法假縁智能除中品分別隨眠。 (二には、内をして諸法の暇を遣って縁ずる智、能く中品の分別の隨眠を除く。) >三遍遣一切有情諸法假縁智能除一切分別隨眠。 (三には、遍く一切の有情と諸法の暇を遣って縁ずる智、能く一切の分別の隨眠を除く。) >前二名法智各別縁故。第三名類智總合縁故。 (前の二をば法智と名く、各別に縁ずるが故に。第三を類智と名く。総合して縁ずるが故に。) >法眞見道二空見分自所斷障無間解脱。 (真見道の二空の見分が、自所願の断の障のおいて、無間と解脱とあるに法すること。) >別總建立名相見道。有義此三是眞見道。 (別にし総ずるを建立して相見道と名く。有義は、此の三は真見道なり。) >以相見道縁四諦故。有義此三是相見道。 (相見道は四諦を縁ずるを以ての故にという。有義は、此の三は相見道なり。) >以眞見道不別縁故。二縁安立諦有十六心。 (真見道は別に縁せざるを以ての故にという。二には、安立諦を縁ずるに十六の心有り。) >此復有二。一者依觀所取能取別立法類十六種心。 (此れ復二有り。一には、所取と能取とを観ずるに依って、別に法と類との十六種の心を立つ。) >謂於苦諦有四種心。一苦法智忍。 (謂く、苦諦に於て四種の心有り。一には苦法智忍。) >謂觀三界苦諦眞如。正斷三界見苦所斷二十八種分別隨眠。 (謂く、三界の苦諦の真如を観じて、正しく三界の見苦処所断の二十八種の分別の隨眠を断ず。) >二苦法智。謂忍無間觀前眞如證前所斷煩惱解脱。 (二には、苦法智。謂く、忍の無間に前の真如を観じて、前の所断の煩悩の解脱を証するぞ。)
そしてアサンガ(無著、Asaṅga )やヴァスバンドゥ(世親、Vasubandhu)等、いわゆる瑜伽行唯識学派と呼ばれる一派が形成される源流となるのですが、中期大乗経典である『解深密経』(Saṃdhinirmocana Sūtra)あるいはマイトレーヤ(弥勒、maitreya)の著作とされる『瑜伽師地論』(Yogācārabhūmi)等が先行してそうした思想が形成されたようです。
また『解深密経』ではそうした深層識をアーダーナ識(阿陀那識、ādāna-vijñāna)或いはアーラヤ識(阿頼耶識、ālaya-vijñāna)と名付け、それが執着を生ずる種子(しゅうじ、bīja)を蔵してると説いているのです。
さて、認識するものが「我」であるとして、ではその認識はいかに生じるのでしょうか?
初期仏教では五取蘊という執着によりその様な認識が生じると説かれていたのでしょうが、その後に意識の問題について考察された時、睡眠や気絶、或いは深い禅定に入った時はその意識の流れは一旦は途絶えるものの、意識が戻ると再びその流れが途絶以前の流れを相続していることからして、意識の根底のなにかしらの識があるのでは無いのかと考えられた訳です。
いわゆる深層の識の発見であります。
素朴に考えると、我々は認識をしてる訳ですが、認識している以上はなにかそれを認識するものがあるというのが道理な訳で、その認識する者が「我」と考えても良いのではないかと思うんです。 逆説的に、認識され得る対象以外が「我」とも云えるのでしょうが、となると「我」とは認識の対象とされ得ないものと云えるのかも知れません。
ところで先に話したように「我」というのは五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)に解体されると仏教では説くわけで、その解体された単体を個別に見た時、それらはどれも到底「我」とは云えないでしょうから(これを大乗仏教の視点では「折空観」とか云うそうですが)、その合成(仮和合(何故なら変化し解体されるから))つまり総体である五蘊は我では無い(或いは我に非ず)とするのでしょう。
ところで仏教は「無(非)我説」ですから、実体(常・一・主・宰)としての我は否定する立場であります。
先ず初期仏教では、人を 感覚器官(六根~眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根) その対象(六処~色処、声処、香処、味処、触処、法処) その認識(六識~眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識) に分析し、またそれを物質的なものと精神的なものに総じた「五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)説」によって、そのどれもが「我ではない」という「五蘊無(非)我説」を説いておりました。
先ず、説一切有部においては意根が「無間滅の意(一刹那前に滅した心)」としていた事を確認しておきたいのですが、ここで云う「心」とはすなわち五位七十五法で云う心法の「心(citta)」 であります。 また併せて「根(indriya)」がいわゆる木や植物の根ではなく、能力、あるいはそれを生み出す力・能生であることも併せて確認しておきましょう。
さて、唯識学派は六識だけではなくその下に作用する深層識を発見するのですが、その中に染汚意(kliṣṭa-manas)があることを発見し、それがやがて末那識と呼ばれるようになるのですが、それこそが意識の根、すなわち意根であると考えられるに至りました。
では一体何故、唯識学派の論師達はその様に考えたのでしょうか?
先ず、そのmanasとは「考える」とか「思う」という意味で、普通は「思量」と訳されますが、意識の意も末那識の末那も同じくmanasである事に着目して下さい。
その末那識は阿頼耶識に対して四煩悩を有して恒審思量しているのですが、その第一に薩迦耶見(satkāya-dṛṣṭi)が挙げられるのですが、これは”自他を区別して見る個別に実在するものとしてみる妄想”であります。
ところで意根は法境を対象にするのですが、その対象化、見るものと見られるもの、すなわち自他の区別は一体何によって形成されるのでしょうか? それは「ことば」でなないのかと唯識学派は考えた訳です。 「ことば」による分節が対象化の形相因と考えた訳です。
そしてその意識によることばでの分節は、云うまでもなく自他との区別に他ならないはたらきでありますから、それを生み出す力すなわち能生として、すなわち意根を自他を区別する思量を為す末那識にそれを求めた訳であります。
次に「無記得倶起」ですが、 1.未来・現在・過去の無覆無記の表色の法の得はそれぞれ未来・現在・過去。 2.未来・現在・過去の有覆無記の表色の法の得はそれぞれ未来・現在・過去。 表色とは現認される現象を云います。 次に「除二通変化」ですが、 二通と変化の法の得は未来・現在・過去の三世に亘るとされます。 二通とは、天眼通・天耳通を云います。 変化とは、神通境の果として身を種々に化ける時の心を云います。
ここで、なぜ無覆或いは有覆無記の法の得が其々なのに対して、二通と変化が三世に亘るのかですが、それはそのダルマの勢力の強弱なのだと説かれております。
>非学無学三 非所断二種 無記得倶起 除二通変化 (非学無学のは三なり。非所断のは二種なり。無記の得は倶起す。二通と変化は除く。)
ここは内容が煩雑なので表形式にまとめます。 先ず「非学無学三」ですが、 1.有学の法の得は有学 2.無学の法の得は無学 3.非学非無学の法の得のうち ①有漏法は非学非無学 ②非択滅・有漏道によって得られた択滅の得は非学非無学 ③有学の聖道によって得られた択滅の得は有学 ④無学の聖道によって得られた択滅の得は無学 有学とは、初果より四果向までの聖者を云います。 無学とは、第四果の羅漢を云います。 択滅とは、智慧によって煩悩を断滅(涅槃)した事を云います。 次に「非所断二種」ですが、 1.処断のうち ①見処断の法の得は見処断 ②修処断の法の得は修処断 2.非処断のうち ①非択滅の法の得は修処断。 ②有漏道のよって得られた択滅の法の得は修処断 ③聖道によって得られた択滅と聖道の法の得は非処断 処断とは、有為法を云います。 非処断とは、無為法を云います。 見所断とは、見道にて断じられる煩悩を云います。 修所断とは、修道にて断じられる煩悩を云います。
>心不相応行 得非得同分 無想二定命 相名身等類 (心不相応行とは、得と非得と同分と無想と二程と命と相と名身等との類なり。) まぁ、此れについてはいいでしょう。 心不相応行法の種類の説明ですから。
>得謂獲成就 非得此相違 得非得唯於 自相続二滅 (得とは謂わく獲と成就なり。非得は此れと相違す。得と非得とは唯、自相続と二滅に於いてあり。)
「得」とは、新たにものを得る事や得たものを具有する事、また「非得」とはその逆ということでしょう。 「自相続」とは自身を構成するダルマをいい、「二滅」とは択滅と非択滅を云います。
>三世法各三 善等唯善等 有繋自界得 無繋得通四 (三世の法に各三あり。善等には唯善等あり。有繋には自界の得あり。無繋の得は四に通ず。)
ここでの「三世」は未来・現在・過去をいい、夫々に未来・現在・過去の得があるとされます。 善には善、不善には不善、無記には無記夫々の得があり、「有繋」すなわち有漏である欲界・色界・無色界も夫々の界と同じ得(自界の得)があり、「無繋」すなわち無漏法では四つ(欲・色・無色界繋或いは無漏)の得があるとされます。
先ずは『阿毘達磨倶舎論(以下、『倶舎論』)』の偈から。
>心不相応行 得非得同分 無想二定命 相名身等類 >得謂獲成就 非得是相違 得非得唯於 自相続二滅 >三世法各三 善等唯善等 有繋自界得 無繋得通四 >非学無学三 非所断二種 無記得倶起 除二通変化 >有覆色亦倶 欲色無前起 非得浄無記 去来世各三 >三界不繋三 許聖道非得 説名異生性 得法易地捨 >(第六章 心不相応業法 第二節 得と非得 より)
【心不相応行法】得と非得について
「離繋得」について概要は考察しましたが、少し深入りして考察しようと思います。 実際に『阿毘達磨倶舎論』を読みながら、また『成唯識論』や諸文献を参考にして。
これは初期仏教の「認識器官(六内処)/認識対象(対境)」の二分法に基づく修道論であり、後代の大乗仏教では、直接知覚とその対象との間に言語的分節(分別)の介在を認める。 初期仏教においても「識は了別することを特質とする」とされるが、これを一歩進めたかたちだ。 (『仏教論争―「縁起」から本質を問う』/宮崎哲弥)
素晴らしい。 さすが宮崎哲弥さんです。
言語による分節が解体されれば直接知覚そのものという理なのでしょう。 即ち識による了別から言語による分節が一旦は解体されるってことだと思うんです。
鈴木大拙先生曰く「山は山にあらず。故に山である」と。 いわゆる即非の論理ですが、まさにこの事を云ってるのかと思うんです。 言語による分節の解体と再構築ですね。
面白いことに四劫(滅・成・中(住)・大)の説明は壊劫、すなわち現行の宇宙の消滅からから始まるわけです。
そして現行の宇宙が消滅した後、有情の業(サットヴァ・カルマン)の増上力によって虚空に微細な風が生じて宇宙が始まる下準備が出来るそうです。
その後その風力は強まり三大、すなわち地(金)水火が形成されるのだとか。
有情の業〜生き物の行為 増上力〜他の物の因果を妨げない因果
存在しているもの、つまり分節されたものは捉えることは出来ますが、分節されていないもの、つまり存在そのものは掛かる意味において捉えることは出来ないと思うんです。
何故なら、捉えることは分節することに他ならないからです。
個物(主語)から属性(述語)を排除していった時、それは分節を止めることだと思うのですが、その時何も残らないというのが仏教の思想ではありますが、それはともかく、そうした排除、すなわち否定の途を宗教的な本懐に資する修道論に取り入れているのは、ヤージュニャヴァルキヤ、龍樹、ニコラウス・クザーヌス、偽ディオニュシオス・アレオパギテス等、古今東西の宗教思想にみられますね。
マウス、キーボード、コップ、時計、スピーカー・・・
そうした存在するものとしての個物、それは言葉による分節という事だと私は捉えているのですが、それを包括的に存在として一括りにした時、それぞれの個物の個性は消滅して、つまり分節が消滅して一つに、つまり未分節になると思うんです。
逆に云うと全ての存在するものは、その未分節なるものがことばによって分節されたものだと思うんです。 その未分節が西田幾多郎の云う「絶対無」というそれであり、個物はその「絶対無の自己限定」なのだと。
つまり、ここに 絶対無(未分節)=存在 という図式が成り立つのではないのでしょうか?
ye ca yathā
•ye - どのような
•ca - そして
•yathā - どのように
ca yadṛśāś
•ca - そして
•yadṛśāḥ - どのようであろうとも
ca yal lakṣaṇāś
•ca - そして
•yal - どのような
•lakṣaṇāḥ - 特徴
ca yat svabhāvāś
•ca - そして
•yal - どのような
•svabhāvāś - 本質
ca te dharmā iti
•ca - そして
•te - それらの
•dharmā - 法
•iti - そのように
teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ.
•teṣu - それらの
•dharmeṣu - 法において
•tathāgata - 如来
•eva - こそが
•pratyakṣaḥ - 直接的に
•aparokṣaḥ - 完全に知っている(間接的でない)
ye ca te dharmāḥ,
•ye - どのような
•ca - そして
•te - それらの
•dharmāḥ - 法
yathā ca te dharmā,
•yathā - どのように
•ca - そして
•te - それらの
•dharmā - 法
yadṛśāś ca te dharmā,
•yadṛśāḥ - どのようなものであろうとも
•ca - そして
•te - それらの
•dharmā - 法
yal lakṣaṇāś ca te dharmā,
•yal - どのような
•lakṣaṇāḥ - 特徴
•ca - そして
•te - それらの
•dharmā - 法
yat svabhāvāś ca te dharmāḥ,
•yat - どのような
•svabhāvāḥ - 本質
•ca - そして
•te - それらの
•dharmāḥ - 法
tathāgata eva, Śāriputra,
•tathāgata - 如来(悟りを得た者、仏陀)
•eva - こそが、まさに
•Śāriputra - シャーリプトラ(弟子の名前)
tathāgatasya dharmāṁ deśayet.
•tathāgatasya - 如来の
•dharmāṁ - 法を
•deśayet - 説くことができる
yāṁ dharmāṁs tathāgato jānāti,
•yāṁ - どのような
•dharmāṁs - 法を
•tathāgataḥ - 如来(主格)
•jānāti - 知っている
sarvadharmān api, Śāriputra,
•sarvadharmān - すべての法を
•api - もまた
•Śāriputra - シャーリプトラよ
tathāgata eva deśayati,
•tathāgata - 如来
•eva - こそが
•deśayati - 説く
sarvadharmān api tathāgata eva jānāti.
•sarvadharmān - すべての法を
•api - もまた
•tathāgata - 如来
•eva - こそが
•jānāti - 知っている
和訳:
シャーリプトラよ、如来のみが法を説くことができる。
如来が知る法は、すべての法であり、シャーリプトラよ、如来のみが法を説き、如来のみがすべての法を知っている。
どのような法であれ、その法がどのようであれ、その法がどのようであろうとも、その法がどのような特徴であれ、その法がどのような本性であれ、どのようであり、どのようであろうとも、どのような特徴であり、どのような本性であろうとも、なんであろうとも、それらの法において、如来のみが直接的に、完全に知っている。
一行毎の訳:
tathāgata eva, Śāriputra,
「如来こそが、シャーリプトラよ、」
tathāgatasya dharmāṁ deśayet.
「如来は法を説くことができる。」
yāṁ dharmāṁs tathāgato jānāti,
「如来が知っている法は、」
sarvadharmān api, Śāriputra,
「すべての法であり、シャーリプトラよ、」
tathāgata eva deśayati,
「如来のみが法を説く、」
sarvadharmān api tathāgata eva jānāti.
「如来のみがすべての法を知っている。」
ye ca te dharmāḥ,
「どのような法であれ、」
yathā ca te dharmā,
「その法がどのようであれ、」
yadṛśāś ca te dharmā,
「その法がどのようであろうとも、」
yal lakṣaṇāś ca te dharmā,
「その法がどのような特徴であろうとも、」
yat svabhāvāś ca te dharmāḥ,
「その法がどのような本性であろうとも、」
ye ca yathā,
「どのようであり、」
ca yadṛśāś,
「どのようであろうとも、」
ca yal lakṣaṇāś,
「どのような特徴であろうとも、」
ca yat svabhāvāś,
「どのような本性であろうとも、」
ca te dharmā iti,
「それらの法が何であろうとも、」
teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ.
「それらの法において、如来のみが直接的に、完全に知っている。」
更に南宗禅の要旨を見てみましょう。
然して此の法門は、契要を直指して、繁文を仮らず。
但る一切の来生は、心本と無相。
言う所の相とは、並て是れ妄心なり。
何者か見れ妄?
意を作して心を住め、空を取り浄を取る所より、乃至ては心を起して菩提涅槃を証せんと求むるまで、並て虚安に属す。
他だ意を作すことさえ莫ければ、心には自から物無し、即ち物心無し。
かく自性は空寂にして、空の体上に、自り本智有り、知を謂いて以て照用と為す。
故に『般若経』に云く「応無所住面生其心」と。
「応無所」は本寂之体、「而生其心」は本智之用なり。
担だ意を作すことさえ莫ければ、自ら当に悟入すべし。
努力、努力!
(『神会語録』胡適本第五段(石井本ナシ)、『神会和尚禅話録』)
どうでしょうか。
一旦まとめておきます。
<北宗禅>
(1)各人の内面には「仏」としての本質ー仏性ーがもとから完善な形で実在している。
(2)しかし、現実には、妄念・頻悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。
(3)したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。
<南宗禅>
(1)各人に具わる仏としての本性は、虚空のごとく無限定・無分節なものである。
(2)迷いも悟りも、その虚空の上を去来する影像にすぎない。禅定によって迷妄を排除し清浄を求めようとすることは、本来の無限定・無分節を損なう愚行にほかならない。
(3)虚空のごとき本性には本来的に智慧が具わっており、それによって無限定・無分節なる自らの本来相をありありと自覚するのである。
ここで小川先生の見解を一瞥して見ましょう。
(1)各人に具わる仏としての本性は、虚空のごとく無限定・無分節なものである。
(2)迷いも悟りも、その虚空の上を去来する影像にすぎない。禅定によって迷妄を排除し清浄を求めようとすることは、本来の無限定・無分節を損なう愚行にほかならない。
(3)虚空のごとき本性には本来的に智慧が具わっており、それによって無限定・無分節なる自らの本来相をありありと自覚するのである。
更に南宗禅の特色として。
給事中房琯、「煩悩即菩提」の義を問う。
答えて曰く、「今、虚空を借りて喩えと為す。虚空の本来動静無きが如し、明の来るを以って即ち明るく、暗来りて即ち暗むにはあらざるなり。此の暗き空は明るき〔空〕に異ならず、明るき空は暗き空に異ならず。明暗には自より去来有れど、虚空には元より動静無し。煩悩即を提、其の義も赤た然り。迷悟には即ち殊なり有りと雖も、菩提心は元来不動なり」。
(石井本三九『神会和尚禅話録』)
つまり、北宗の坐禅は
>身を坐して住心入定せしむる
ものであり、南宗は
>”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、
>禅”と言うは、本性を見るを“禅”と為す。
って訳です。
要約すると ”無念にして本性を観るのが坐禅である” という主張でありましょう。
若し人に教えて凝心入定、住心看浄、起心外照、摂心内証”せしめば、此れは是れ菩提を障うるなり。
今”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、今“禅”と言うは、本性を見るを“禅”と為す。
所以に人に教えて身を坐して住心入定せしむることをせず。
若し彼の教門を指して是と為さば、維摩詰は応に舎利弗の宴座を訶すべからざるなり。
(『菩提達磨南宗定是非論』)
端的に云ってしまうと南宗禅は、坐禅をインド的な身体的技法から精神的なものへと転換してしまったのです。
以下『禅の思想史講義』からそれを追ってみましょう。
最初期の禅宗は、いわばありのままの迷える自己を、坐禅という行によって克服し、もともとあった仏としての自己を回復する、という禅でした。
その意味ではたしかに「坐禅・内観の法を修めて、人間の心の本性をさとろうとする宗派」だった、といっていいでしょう。
(禅思想史講義』小川隆 より)
北宗禅の思想、どうでしょうか?
此れこそ印度伝来の禅修の正統を継ぐものであり、別におかしくはないと思うのですが…
しかし、神会は慧能を引き合いに出して”No”と否定した訳です。
以下は参考までに。
神秀の偈文に似てますねw
大道は本来り広く遍ねく、円浄にして本より有り、因従り得るにはあらず。
加えば浮雲の底の日光の似し、雲霧滅し尽さば、日光自ずから現る。
何ぞ更に多くの広学知見もて、文字語言を渉歴り、覆って生死の道に帰するを用いん。
口を用いて文を説き、伝えて道と為す者は、
此の人、名利を貪求りて、自からを壊し他を壊すなり。
亦た銅鏡を磨くが如し、鏡面上の塵落ち尽くさば、鏡は自り明浄なり。
(『楞伽師資記』「求那跋陀羅の章」より)
北宗禅の特色は、以下の通り指摘されております。
(1)各人の内面には「仏」としての本質ー仏性ーがもとから完善な形で実在している。
(2)しかし、現実には、妄念・頻悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。
(3)したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。
つまり現実態の迷える自己を坐禅によって克服し、その底に潜在している「仏」とひとしき本来の自己を回復する、という考え方です。
(『禅思想史講義』小川隆 より)
北宗禅は離念を南宗禅は無念を説くわけです。
以下有名な偈ですがw
(離念の立場)
身は是れ菩提樹、心は明鏡の台のごとし。
時時に勤めて払拭して、塵埃に染さしむること莫れ。
(無念の立場)
菩提は本より樹無し、明鏡も亦た台に非ず。
本来無一物、何れの処にか塵埃有らん。
>二相見道。此復有二。一觀非安立諦有三品心。
(二には相見道、此に復二有り。一には、非安立諦を観ずるに三品の心有り。)
>一内遣有情假縁智能除軟品分別隨眠。
(一には、内をして有情の仮を遣って縁ずる智。能く軟品の分別の隨眠を除く。)
>二内遣諸法假縁智能除中品分別隨眠。
(二には、内をして諸法の仮を遣って縁ずる智、能く中品の分別の隨眠を除く。)
>三遍遣一切有情諸法假縁智能除一切分別隨眠。
(三には、遍く一切の有情と諸法の仮を遣って縁ずる智、能く一切の分別の隨眠を除く。)
見道で直観的な無分別智を体験した後に後得智、すなわち分析的な智慧が発現し、それを以って先の智慧を検証しより確かなものにしていくというのがこの段落です。
そしてその後得智には二種類があるって云うんです。
先ず非安立諦とは勝義諦、つまり世俗諦である言語に依って解析される概念的な真如を離れた真如の観察を云うのでしょう。
いわゆる「離言真如」の事でありましょう。
非安立諦には三つあり、一つは自己を後得智に依って照察してその実体がない事、すなわち我空を以って真如を観察し、粗い分別に起因する煩悩障を除きます。
二つには、より深く自己が諸法の因縁仮和合である事を以って、すなわち諸法の空相なることにより真如を観察し、粗い分別に起因する所知障を除きます。
三つには、上記の我空・法空の二空を以って真如を観察し、細微な分別に起因する一切の煩悩(二障)を除きます。
ちなみに通達位(見道)の後、更に二刧に亘る修行を経て漸く究竟位(成仏)に至るとされてますが、その間に何度も何度も何度も・・・、無分別の体験を繰り返すとされます。
禅宗では「大悟三度、小悟その数知れず」と云うそうですが、いわゆる見性体験はスタートであってゴールではないって事なのでしょうね。
>一眞見道。謂即所説無分別智。
(一には真見道。謂わく、即ち説きぬる所の無分別智ぞ。)
>實證二空所顯眞理。實斷二障分別隨眠。
(実に二空所顕の真理を証し、実に二障の分別の隨眠を断ず。)
>雖多刹那事方究竟而相等故總説一心。
(多刹那に事方に究竟すと雖も、而も相等しきが故に総じて一心と説けり。)
>有義此中二空二障漸證漸斷。以有淺深麁細異故。
(有義は、此れが中には、二空と二障とを漸く証し漸く断ず。浅深と麁細と異なることを有るを以ての故にという。)
>有義此中二空二障頓證頓斷。由意樂力有堪能故。
(有義は、此れが中には、二空と二障とを頓に証し頓に断ず。意楽の力堪能有るに由るが故にという。)
「二空・二障」は我空・法空と煩悩障と所知障。
「隨眠」は煩悩と同義で、それを多刹那に亘って断じるというのです。
有義の最初の方は漸悟、あとの方は頓悟。
成唯識論は後の立場を取ってます。
つまり、頓に無分別智を得て漸に阿頼耶識中の「習気」を滅するのです。
「習気」は残り滓みたいなものですが、此処までに一劫を要しそれを滅するのに更に二劫を要するのです。
>雖有見分而無分別説非能取非取全無。
(見分は有りと雖も、而も無分別なるをもって、能取に非ずと説けり。取ること全無には非ず)
>雖無相分而可説此帶如相起不離如故。
(相分は無しと雖も、而も此れいい如の相を帯して起こると説くべし。如に離れざるが故に)
>如自證分縁見分時不變而縁此亦應爾。
(自証分いい見分を縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、此れも亦た応に璽るべし)
>變而縁者便非親證如後得智應有分別。
(変じて縁ぜば便ち親しく証するに非ずなんぬ。後得智の如く応に分別あるべし)
>故應許此有見無相。
(故に応に此れには見のみありて相は無しを許すべし)
>加行無間此智生時體會眞如名通達位。
(加行の無間に此の智の生ずる時に、真如に体得すれば、通達位と名づく。)
>初照理故亦名見道。然此見道略説有二。
(初めて理を照らすが故亦見道と名づく。然も此の見道に、略して説かば二有り。)
無分別で対象を捉える時、それは能取ではないって云うことでありましょう。
「見分」は見るものとか捉えるもの、主体。「相分」は見られるものとか捉えられるもの、客体。
ちなみに「後得智」は無分別ではなくて分別です。
>有義此智二分倶無。説無所取能取相故。
(有義は、此の智には二分倶に無し。所取能取の相なしと説けるが故に。)
>有義此智相見倶有。帶彼相起名縁彼故。
(有義は、此の智には相見倶にあり。彼の相を帯びして起こるを彼を縁ずと名づくるが故に。)
>若無彼相名縁彼者應色智等名聲等智。
(若し彼の相は無くとも、彼を縁ずと名くといはば、應に色智の等きを声等の智と名くべし)
>若無見分應不能縁。寧可説爲縁眞如智。
(若し見分無くんば、能縁にあらざるべし。寧んぞ説いて、真如を縁する智を為す可けむや。
>勿眞如性亦名能縁。故應許此定有見分。
(勿、真如の性をも、また能縁と名けてむが故に、此れには定んで見分も有りと許すべし。)
>有義此智見有相無。
(有義は、此の智慧には、見は有りて相は無し)
>説無相取不取相故。
(相無くして取る、相をば取らずと説けるが故に)
ここは難解なところですね。
一方で「此の智には相見倶にあり」と云いながら「此の智には相見倶にあり」と云うのですから。
>この真如を縁ずる智は、真如の体相を挟帯して起きるが故に、所縁と名く、彼の相分影像を帯びして起こるを縁ずと名くるに非ず。
>(国訳大蔵経解説より)
となってます。
「挟帯」という難しい術語が出てきましたが、通達位にて無分別智が開発(かいほつ)されれば、如実智見されるということでありましょう。
分別無しに対象を捉えるって事だと思います。
以下、主な要語の解説をしようと思います。
>次通達位其相云何。頌曰
(次の通達の位の其の相云何ぞ。頌曰く、)
>若時於所縁 智都無所得
(若し時に所縁の於に、智都て所得無くなんぬ。)
>爾時住唯識 離二取相故
(爾の時に唯識に住す、二取の相を離れるるが故に。)
>論曰。若時菩薩於所縁境無分別智都無所得。
(論に曰く、若し時に菩薩いい、所縁の境の於に無分別智いい都て所得無くなんぬ。)
>不取種種戲論相故。爾時乃名實住唯識眞勝義性。
(種々の戯論の相を取らざる故に。璽の時に乃し実に唯識の真勝義性に住すと名づく。)
>即證眞如智與眞如平等平等倶離能取所取相故。
(即ち真如を証する智と真如と平等平等にして、倶に能所を離れざるが故に。)
>能所取相倶是分別。有所得心戲論現故。
(能取所の相は此れ分別なり。有所得の心のみに戯論は現ずるが故に。)
通達位とは、瑜伽行唯識学派における五段階(資糧位・加行位・通達位・修習位・究竟位)の修行の階梯を云います。
またの名を見道ともいい、初めて悟りの智慧が発言する段階となります。
「頌曰」と「論曰」は、頌は唯識三十頌を、論は成唯識論を云います。
即ち成唯識論は唯識三十頌の解説書って事です。
「所縁」は「相分、捉えられるもの、対象等」を「能縁」は「見分、捉えるもの、主体等」を意味します。
「二取」は我見・法見。
「いい」は強調です。
「平等平等」とは、
>心と境相称ひ、如と智とを冥合して倶に二取を離れ、諸の戯論を絶したり。故に平等平等と名く
>(『国訳大蔵経』より)
>由斯後智二分倶有。此二見道與六現觀相攝云何。
(斯に由って後智には二分倶に有り。此の二の見道と六現観と相攝すること云何。)
>六現觀者。一思現觀謂最上品喜受相應思所成慧。
(六現観とは、一には思現観、謂く、最上品の喜受と相應する思所成の慧ぞ)
>此能觀察諸法共相引生煖等。
(此いい能く諸法の共相を観察して煖等を引生す。)
>加行道中觀察諸法。此用最猛偏立現觀煖等不能廣分別法又未證理故非現觀。
(加行道中にして諸法を観察するに、此が用最も猛し偏に現観と立つ。煖等は、廣く分別すること能わず、又理を証せず、故に現観に非ず。)
>二信現觀。謂縁三寶世出世間決定淨信。
(二には、信現観、謂く三宝を縁ずる世・出世間の決定の淨信ぞ。)
>此助現觀令不退轉立現觀名。
(此いい現観を助けて退転せざら令しむれば、現観という名を立つ。)
>三戒現觀謂無漏戒除破戒垢令觀増明亦名現觀。
(三には、戒現観、謂く無漏戒ぞ、破戒垢を除いて、観をして増明になら令むれば、亦現観と名く。)
>四現觀智諦現觀。謂一切種縁非安立根本後得無分別智。
(四には、現觀智諦現觀、謂く一切種の非安立を縁ずる、根本と後得との無分別智ぞ。)
>五現觀邊智諦現觀。謂現觀智諦現觀後諸縁安立世出世智。
(五には、現観邊智諦現觀、謂く現観智諦現観の後に、諸の、安立を縁ずる世・出世の智ぞ。)
>六究竟現觀。謂盡智等究竟位智。此眞見道攝彼第四現觀少分。
(六には、究竟現観、謂く、盡智等究竟位の智ぞ。此の真見道には、彼の第四現観との少分を攝む。)
>此相見道攝彼第四第五少分。
(此の相見道には、彼の第四第五の少分を攝む。)
>彼第二三雖此倶起而非自性故不相攝。
(彼の第二と三とは、此れ倶起と雖、而も自性非ざる故に相攝せず。)
>菩薩得此二見道時生如來家。住極喜地。善達法界得諸平等。常生諸佛大集會中
(菩薩此の二の見道得しつる時には、如來家に生じ、極喜地に住し、善く法界を達し諸の平等を得し、常に諸佛の大集会の中に生まれ、)
>於多百門已得自在。自知不久證大菩提。能盡未來利樂一切
(多くの百門に於いて已に自在を得しつ、自ら久しからずして大菩提を証し、能く未來を盡して一切を利楽すべしということを知んぬ。)
>前眞見道根本智攝後相見道後得智攝。
>(前の真見道をば根本智に攝め、後の相見道には後得智に攝む)
>諸後得智有二分耶。有義倶無離二取故。
>(諸の後得智には二分有りや。有義は、倶に無し二取を離るるが故にという)
>有義此智見有相無。説此智品有分別故。
>(有義は、此の智には見有って相無し。此の智品には分別有りと説けるが故に)
>聖智皆能親照境故。不執著故説離二取。
>(聖智は皆能く親しく境を照らすが故に、執著せざるが故に、二取を離れたりと説くという。)
>有義此智二分倶有。此思惟似眞如相不見眞實眞如性故。
>(有義は此の智には二分倶に有り、此は似の真如の相を思惟して、真実の真如の性をば見ずと説けるが故に)
>又説此智分別諸法自共相等觀諸有情根性差別而爲説故。
>(又た此の智は諸法自共相等を分別し、諸の有情の根性の差別を観じて而も爲に説くと説けるが故に)
>又説此智現身土等爲諸有情説正法故。
>(又此の智は、身と土との等きを現じて、諸の有情為に正法を説くと説けるが故に。)
>若不變現似色聲等寧有現身説法等事。
>(若し現似の色聲等を変ぜざれば、寧んぞ身を現ぜし法を説くが等き事の有らむや)
>轉色蘊依不現色者轉四蘊依應無受等。
>(色蘊の依を転ずるをもって色を現ぜずといわば、四蘊の依を転ずるをもって受等も無かる應し)
>又若此智不變似境離自體法應非所縁。
>(又若し、此の智は変じて境に似ずといわば、自体に離れたる法は所縁に非ざる應し。)
>縁色等時應縁聲等。又縁無法等應無所縁縁。
>(色等を縁ぜむ時には、聲等を縁ず應し。又無法等きを縁せしむるときは所縁縁無いかる應し)
>彼體非實無縁用故。
(彼は体実に非ざるをもって、縁用無きが故に)
>三苦類智忍。謂智無間無漏慧生於法忍智各別内證。
(三には苦類智忍。謂く、智の無間に無漏慧生じて、法の忍と智を各別に内に證せり)
>言後聖法皆是此類。
(後の聖法は皆是れ此れが類なりという。)
>四苦類智。謂此無間無漏智生審定印可苦類智忍。
(四には苦類智。謂く、此が無間に無漏の智生して、苦類智忍を審定し印可するぞ。)
>如於苦諦有四種心集滅道諦應知亦爾。
(苦諦に於いて四種の心有るが如く、集滅道諦にも、應に知るべし亦璽なり。)
>此十六心八觀眞如八觀正智。
(此の十六の心において、八は真如を観じ、八は正智を観ず。)
>法眞見道無間解脱見自證分差別建立名相見道。
(真見道の無間と解脱との、見と自証との分に法するをもって、差別に建立して相見道を名く。)
>二者依觀下上諦境別立法類十六種心。
(二には、下上の諦境を観ずるに依って、別に、法と類との十六種の心を立つ。)
>謂觀現前不現前界苦等四諦各有二心。
(謂く、現前と不現前との界の苦等の四諦を観ずるに、各二の心有り。)
>一現觀忍。二現觀智。
(一には現觀忍。二には現觀智。)
>如其所應法眞見道無間解脱見分觀諦斷見所斷百一十二分別隨眠名相見道。
(其の所應所應の如く、真見道の無間と解脱見見分の、諦を観ぜし法して、見所断の百十二の分別の隨眠を断ずるを相見道と名く。)
>若依廣布聖教道理説相見道有九種心。
(若し廣布聖教の道理に依って相見道を説かば、九種の心あり。)
>此即依前縁安立諦二十六種止觀別立。
(此は即ち、前の安立諦を縁ずる二の十六種に依って止と觀を別に立てたり。)
>謂法類品忍智合説各有四觀。即爲八心。八相應止總説爲一。
(謂く、法類品の忍と智とを合して説くに、各四の觀有るをもって、即ち八の心と為し、八と相應する止を総して説いて一と為す。)
>雖見道中止觀雙運而於見義觀順非止。
(見道の中には、止と觀を雙べ運ぶと雖も、而も見の義に於いては、觀のみ順じて止には非ず。)
>故此觀止開合不同。由此九心名相見道。
(故に此の觀と止を開し合すること不同なり。此に由って九の心を相見道と名く。)
>諸相見道依眞假説世第一法無間而生及斷隨眠非實如是。
(諸の相見道は、真によって假を説くをもって、世第一法の無間にして生ずといい、及び隨眠を断ずという。実に是の如くあるものには非ず。)
>眞見道後方得生故。
(真見道の後に方に生ずることを得るが故に)
>非安立後起安立故。分別隨眠眞已斷故。。
(非安立の後に安立を起こすが故に、分別の隨眠をば真して已に斷じてしが故に。)
>前眞見道證唯識性。後相見道證唯識相。二中初勝故頌偏説。
(前の真見道には、唯識の性を証し、後の相見道には、唯識の相を証す。二が中には初いい勝れたるが故に頌に偏に説けり。)
>加行無間此智生時體會眞如名通達位。
(加行の無間に此の智の生ずる時に、真如に体得すれば、通達位と名づく。)
>初照理故亦名見道。然此見道略説有二。
(初めて理を照らすが故亦見道と名づく。然も此の見道に、略して説かば二有り。)
>一眞見道。謂即所説無分別智。
(一には真見道。謂わく、即ち説きぬる所の無分別智ぞ。)
>實證二空所顯眞理。實斷二障分別隨眠。
(実に二空所顕の真理を証し、実に二障の分別の隨眠を断ず。)
>雖多刹那事方究竟而相等故總説一心。
(多刹那に事方に究竟すと雖も、而も相等しきが故に総じて一心と説けり。)
>有義此中二空二障漸證漸斷。以有淺深麁細異故。
(有義は、此れが中には、二空と二障とを漸く証し漸く断ず。浅深と麁細と異なることを有るを以ての故にという。)
>有義此中二空二障頓證頓斷。由意樂力有堪能故。
(有義は、此れが中には、二空と二障とを頓に証し頓に断ず。意楽の力堪能有るに由るが故にという。)
>二相見道。此復有二。一觀非安立諦有三品心。
(二には相見道、此に復二有り。一には、非安立諦を観ずるに三品の心有り。)
>一内遣有情假縁智能除軟品分別隨眠。
(一には、内をして有情の暇を遣って縁ずる智。能く軟品の分別の隨眠を除く。)
>二内遣諸法假縁智能除中品分別隨眠。
(二には、内をして諸法の暇を遣って縁ずる智、能く中品の分別の隨眠を除く。)
>三遍遣一切有情諸法假縁智能除一切分別隨眠。
(三には、遍く一切の有情と諸法の暇を遣って縁ずる智、能く一切の分別の隨眠を除く。)
>前二名法智各別縁故。第三名類智總合縁故。
(前の二をば法智と名く、各別に縁ずるが故に。第三を類智と名く。総合して縁ずるが故に。)
>法眞見道二空見分自所斷障無間解脱。
(真見道の二空の見分が、自所願の断の障のおいて、無間と解脱とあるに法すること。)
>別總建立名相見道。有義此三是眞見道。
(別にし総ずるを建立して相見道と名く。有義は、此の三は真見道なり。)
>以相見道縁四諦故。有義此三是相見道。
(相見道は四諦を縁ずるを以ての故にという。有義は、此の三は相見道なり。)
>以眞見道不別縁故。二縁安立諦有十六心。
(真見道は別に縁せざるを以ての故にという。二には、安立諦を縁ずるに十六の心有り。)
>此復有二。一者依觀所取能取別立法類十六種心。
(此れ復二有り。一には、所取と能取とを観ずるに依って、別に法と類との十六種の心を立つ。)
>謂於苦諦有四種心。一苦法智忍。
(謂く、苦諦に於て四種の心有り。一には苦法智忍。)
>謂觀三界苦諦眞如。正斷三界見苦所斷二十八種分別隨眠。
(謂く、三界の苦諦の真如を観じて、正しく三界の見苦処所断の二十八種の分別の隨眠を断ず。)
>二苦法智。謂忍無間觀前眞如證前所斷煩惱解脱。
(二には、苦法智。謂く、忍の無間に前の真如を観じて、前の所断の煩悩の解脱を証するぞ。)
そしてアサンガ(無著、Asaṅga )やヴァスバンドゥ(世親、Vasubandhu)等、いわゆる瑜伽行唯識学派と呼ばれる一派が形成される源流となるのですが、中期大乗経典である『解深密経』(Saṃdhinirmocana Sūtra)あるいはマイトレーヤ(弥勒、maitreya)の著作とされる『瑜伽師地論』(Yogācārabhūmi)等が先行してそうした思想が形成されたようです。
また『解深密経』ではそうした深層識をアーダーナ識(阿陀那識、ādāna-vijñāna)或いはアーラヤ識(阿頼耶識、ālaya-vijñāna)と名付け、それが執着を生ずる種子(しゅうじ、bīja)を蔵してると説いているのです。
さて、認識するものが「我」であるとして、ではその認識はいかに生じるのでしょうか?
初期仏教では五取蘊という執着によりその様な認識が生じると説かれていたのでしょうが、その後に意識の問題について考察された時、睡眠や気絶、或いは深い禅定に入った時はその意識の流れは一旦は途絶えるものの、意識が戻ると再びその流れが途絶以前の流れを相続していることからして、意識の根底のなにかしらの識があるのでは無いのかと考えられた訳です。
いわゆる深層の識の発見であります。
素朴に考えると、我々は認識をしてる訳ですが、認識している以上はなにかそれを認識するものがあるというのが道理な訳で、その認識する者が「我」と考えても良いのではないかと思うんです。
逆説的に、認識され得る対象以外が「我」とも云えるのでしょうが、となると「我」とは認識の対象とされ得ないものと云えるのかも知れません。
ところで先に話したように「我」というのは五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)に解体されると仏教では説くわけで、その解体された単体を個別に見た時、それらはどれも到底「我」とは云えないでしょうから(これを大乗仏教の視点では「折空観」とか云うそうですが)、その合成(仮和合(何故なら変化し解体されるから))つまり総体である五蘊は我では無い(或いは我に非ず)とするのでしょう。
ところで仏教は「無(非)我説」ですから、実体(常・一・主・宰)としての我は否定する立場であります。
先ず初期仏教では、人を
感覚器官(六根~眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)
その対象(六処~色処、声処、香処、味処、触処、法処)
その認識(六識~眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)
に分析し、またそれを物質的なものと精神的なものに総じた「五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)説」によって、そのどれもが「我ではない」という「五蘊無(非)我説」を説いておりました。
先ず、説一切有部においては意根が「無間滅の意(一刹那前に滅した心)」としていた事を確認しておきたいのですが、ここで云う「心」とはすなわち五位七十五法で云う心法の「心(citta)」 であります。
また併せて「根(indriya)」がいわゆる木や植物の根ではなく、能力、あるいはそれを生み出す力・能生であることも併せて確認しておきましょう。
さて、唯識学派は六識だけではなくその下に作用する深層識を発見するのですが、その中に染汚意(kliṣṭa-manas)があることを発見し、それがやがて末那識と呼ばれるようになるのですが、それこそが意識の根、すなわち意根であると考えられるに至りました。
では一体何故、唯識学派の論師達はその様に考えたのでしょうか?
先ず、そのmanasとは「考える」とか「思う」という意味で、普通は「思量」と訳されますが、意識の意も末那識の末那も同じくmanasである事に着目して下さい。
その末那識は阿頼耶識に対して四煩悩を有して恒審思量しているのですが、その第一に薩迦耶見(satkāya-dṛṣṭi)が挙げられるのですが、これは”自他を区別して見る個別に実在するものとしてみる妄想”であります。
ところで意根は法境を対象にするのですが、その対象化、見るものと見られるもの、すなわち自他の区別は一体何によって形成されるのでしょうか?
それは「ことば」でなないのかと唯識学派は考えた訳です。
「ことば」による分節が対象化の形相因と考えた訳です。
そしてその意識によることばでの分節は、云うまでもなく自他との区別に他ならないはたらきでありますから、それを生み出す力すなわち能生として、すなわち意根を自他を区別する思量を為す末那識にそれを求めた訳であります。
次に「無記得倶起」ですが、
1.未来・現在・過去の無覆無記の表色の法の得はそれぞれ未来・現在・過去。
2.未来・現在・過去の有覆無記の表色の法の得はそれぞれ未来・現在・過去。
表色とは現認される現象を云います。
次に「除二通変化」ですが、
二通と変化の法の得は未来・現在・過去の三世に亘るとされます。
二通とは、天眼通・天耳通を云います。
変化とは、神通境の果として身を種々に化ける時の心を云います。
ここで、なぜ無覆或いは有覆無記の法の得が其々なのに対して、二通と変化が三世に亘るのかですが、それはそのダルマの勢力の強弱なのだと説かれております。
>非学無学三 非所断二種 無記得倶起 除二通変化
(非学無学のは三なり。非所断のは二種なり。無記の得は倶起す。二通と変化は除く。)
ここは内容が煩雑なので表形式にまとめます。
先ず「非学無学三」ですが、
1.有学の法の得は有学
2.無学の法の得は無学
3.非学非無学の法の得のうち
①有漏法は非学非無学
②非択滅・有漏道によって得られた択滅の得は非学非無学
③有学の聖道によって得られた択滅の得は有学
④無学の聖道によって得られた択滅の得は無学
有学とは、初果より四果向までの聖者を云います。
無学とは、第四果の羅漢を云います。
択滅とは、智慧によって煩悩を断滅(涅槃)した事を云います。
次に「非所断二種」ですが、
1.処断のうち
①見処断の法の得は見処断
②修処断の法の得は修処断
2.非処断のうち
①非択滅の法の得は修処断。
②有漏道のよって得られた択滅の法の得は修処断
③聖道によって得られた択滅と聖道の法の得は非処断
処断とは、有為法を云います。
非処断とは、無為法を云います。
見所断とは、見道にて断じられる煩悩を云います。
修所断とは、修道にて断じられる煩悩を云います。
>心不相応行 得非得同分 無想二定命 相名身等類
(心不相応行とは、得と非得と同分と無想と二程と命と相と名身等との類なり。)
まぁ、此れについてはいいでしょう。
心不相応行法の種類の説明ですから。
>得謂獲成就 非得此相違 得非得唯於 自相続二滅
(得とは謂わく獲と成就なり。非得は此れと相違す。得と非得とは唯、自相続と二滅に於いてあり。)
「得」とは、新たにものを得る事や得たものを具有する事、また「非得」とはその逆ということでしょう。
「自相続」とは自身を構成するダルマをいい、「二滅」とは択滅と非択滅を云います。
>三世法各三 善等唯善等 有繋自界得 無繋得通四
(三世の法に各三あり。善等には唯善等あり。有繋には自界の得あり。無繋の得は四に通ず。)
ここでの「三世」は未来・現在・過去をいい、夫々に未来・現在・過去の得があるとされます。
善には善、不善には不善、無記には無記夫々の得があり、「有繋」すなわち有漏である欲界・色界・無色界も夫々の界と同じ得(自界の得)があり、「無繋」すなわち無漏法では四つ(欲・色・無色界繋或いは無漏)の得があるとされます。
先ずは『阿毘達磨倶舎論(以下、『倶舎論』)』の偈から。
>心不相応行 得非得同分 無想二定命 相名身等類
>得謂獲成就 非得是相違 得非得唯於 自相続二滅
>三世法各三 善等唯善等 有繋自界得 無繋得通四
>非学無学三 非所断二種 無記得倶起 除二通変化
>有覆色亦倶 欲色無前起 非得浄無記 去来世各三
>三界不繋三 許聖道非得 説名異生性 得法易地捨
>(第六章 心不相応業法 第二節 得と非得 より)
【心不相応行法】得と非得について
「離繋得」について概要は考察しましたが、少し深入りして考察しようと思います。
実際に『阿毘達磨倶舎論』を読みながら、また『成唯識論』や諸文献を参考にして。
これは初期仏教の「認識器官(六内処)/認識対象(対境)」の二分法に基づく修道論であり、後代の大乗仏教では、直接知覚とその対象との間に言語的分節(分別)の介在を認める。
初期仏教においても「識は了別することを特質とする」とされるが、これを一歩進めたかたちだ。
(『仏教論争―「縁起」から本質を問う』/宮崎哲弥)
素晴らしい。
さすが宮崎哲弥さんです。
言語による分節が解体されれば直接知覚そのものという理なのでしょう。
即ち識による了別から言語による分節が一旦は解体されるってことだと思うんです。
鈴木大拙先生曰く「山は山にあらず。故に山である」と。
いわゆる即非の論理ですが、まさにこの事を云ってるのかと思うんです。
言語による分節の解体と再構築ですね。
面白いことに四劫(滅・成・中(住)・大)の説明は壊劫、すなわち現行の宇宙の消滅からから始まるわけです。
そして現行の宇宙が消滅した後、有情の業(サットヴァ・カルマン)の増上力によって虚空に微細な風が生じて宇宙が始まる下準備が出来るそうです。
その後その風力は強まり三大、すなわち地(金)水火が形成されるのだとか。
有情の業〜生き物の行為
増上力〜他の物の因果を妨げない因果
存在しているもの、つまり分節されたものは捉えることは出来ますが、分節されていないもの、つまり存在そのものは掛かる意味において捉えることは出来ないと思うんです。
何故なら、捉えることは分節することに他ならないからです。
個物(主語)から属性(述語)を排除していった時、それは分節を止めることだと思うのですが、その時何も残らないというのが仏教の思想ではありますが、それはともかく、そうした排除、すなわち否定の途を宗教的な本懐に資する修道論に取り入れているのは、ヤージュニャヴァルキヤ、龍樹、ニコラウス・クザーヌス、偽ディオニュシオス・アレオパギテス等、古今東西の宗教思想にみられますね。
マウス、キーボード、コップ、時計、スピーカー・・・
そうした存在するものとしての個物、それは言葉による分節という事だと私は捉えているのですが、それを包括的に存在として一括りにした時、それぞれの個物の個性は消滅して、つまり分節が消滅して一つに、つまり未分節になると思うんです。
逆に云うと全ての存在するものは、その未分節なるものがことばによって分節されたものだと思うんです。
その未分節が西田幾多郎の云う「絶対無」というそれであり、個物はその「絶対無の自己限定」なのだと。
つまり、ここに 絶対無(未分節)=存在 という図式が成り立つのではないのでしょうか?