仏教のあれこれ

我の形成について(唯識学派の思想を中心にして) / 2

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鹿野苑 2023/10/05 (木) 22:43:47 修正

素朴に考えると、我々は認識をしてる訳ですが、認識している以上はなにかそれを認識するものがあるというのが道理な訳で、その認識する者が「我」と考えても良いのではないかと思うんです。
逆説的に、認識され得る対象以外が「我」とも云えるのでしょうが、となると「我」とは認識の対象とされ得ないものと云えるのかも知れません。

ところで先に話したように「我」というのは五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)に解体されると仏教では説くわけで、その解体された単体を個別に見た時、それらはどれも到底「我」とは云えないでしょうから(これを大乗仏教の視点では「折空観」とか云うそうですが)、その合成(仮和合(何故なら変化し解体されるから))つまり総体である五蘊は我では無い(或いは我に非ず)とするのでしょう。

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