初期仏教では人の
認識器官として六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)
その対象として六処(色処、声処、香処、味処、触処、法処)
その認識として六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)
を説いておりましたが、六識の内、前五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)がそれに対応する肉体の器官があるのに対して第六識(意識)意根が具体的に何を示すのかについて問題になったようであります。
南方上座部では心臓を意根としており、また説一切有部(以下、有部)では「後依唯過去(『倶舎論』第四十三偈)」とあるのですが、すなわち前滅の識を意根のとしていたそうです。
ところで瑜伽行唯識学派(以下、唯識学派)では、一方では有部の説を取り入れ意根を前滅の識としながら、一方では末那識を意識の意根としているんです。
>此中意有二種
>第一与作 等無間縁 所依所住。
>無間滅識、能与意識 作正依止。
>第二染汚 与四煩悩 恒共相応。
>一者薩迦耶見 二者我慢 三者我愛 四者無明。
>此即是識 雑染所依。
>識復由我 第一依生 第二雑染。
>了別境義故。
>等無間義故 意成二種。
>(『摂大乗論』 大正大蔵経31 133)
しかしその後に成立した『成唯識論』では
>此名何異第六識。此持業釈。
>如蔵識名 識即意故。
>彼依主釈。如眼識等。
>識異意故。
>(『成唯識論』 大正大蔵経31 19中−11)
とある様に、末那識に統一されております。
先ず、説一切有部においては意根が「無間滅の意(一刹那前に滅した心)」としていた事を確認しておきたいのですが、ここで云う「心」とはすなわち五位七十五法で云う心法の「心(citta)」 であります。
また併せて「根(indriya)」がいわゆる木や植物の根ではなく、能力、あるいはそれを生み出す力・能生であることも併せて確認しておきましょう。
さて、唯識学派は六識だけではなくその下に作用する深層識を発見するのですが、その中に染汚意(kliṣṭa-manas)があることを発見し、それがやがて末那識と呼ばれるようになるのですが、それこそが意識の根、すなわち意根であると考えられるに至りました。
では一体何故、唯識学派の論師達はその様に考えたのでしょうか?
先ず、そのmanasとは「考える」とか「思う」という意味で、普通は「思量」と訳されますが、意識の意も末那識の末那も同じくmanasである事に着目して下さい。
その末那識は阿頼耶識に対して四煩悩を有して恒審思量しているのですが、その第一に薩迦耶見(satkāya-dṛṣṭi)が挙げられるのですが、これは”自他を区別して見る個別に実在するものとしてみる妄想”であります。
ところで意根は法境を対象にするのですが、その対象化、見るものと見られるもの、すなわち自他の区別は一体何によって形成されるのでしょうか?
それは「ことば」でなないのかと唯識学派は考えた訳です。
「ことば」による分節が対象化の形相因と考えた訳です。
そしてその意識によることばでの分節は、云うまでもなく自他との区別に他ならないはたらきでありますから、それを生み出す力すなわち能生として、すなわち意根を自他を区別する思量を為す末那識にそれを求めた訳であります。