>次第二能變 是識名末那 次のは第二能変なり 是の識を末那と名づく
>依彼轉縁彼 思量爲性相 彼に依って転じて彼を縁ず 思量するを性とも相とも為す
>四煩惱常倶 謂我癡我見 四の煩悩と常に倶なり 謂わく我癡と我見と
>并我慢我愛 及餘觸等倶 并びに我慢と我愛となり 及び余と触等と倶なり
>有覆無記攝 隨所生所繋 有覆無記に摂めらる 所生に随って繋せらる
>阿羅漢滅定 出世道無有 阿羅漢と滅定と 出世道とには有ること無し
>(唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫) 多川 俊映 より)
意味については良いでしょう。
此処では末那識と意識の問題について、末那識は直接意識に影響しないことを少し考えてみたいと思います。
云うまでもなく、末那識と意識の間に直接的な種子の交換はありません。
勿論、種子が薫習されまた現行されるのは阿頼耶識と他の七識それぞれの関係において為されるからです。
図示してみましょう。
【末 那 識】 【意 識】
現行⇅薫習 現行⇅薫習
【阿 頼 耶 識】
此処では護法の説を取りますが、末那識は阿頼耶識の働きをみてその見分(=五取蘊だとも)を常・一・主・宰の我として、自身の相分に自我の影像を浮かび上がらせそれに執着(我執)するのです。
したがって末那識は意識に対して直接の影響はないのです。
参考文献
『成唯識論を読む』 竹村牧男 春秋社
『唯識三十頌を読む』 廣澤隆之 TU選書
『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』 多川 俊映 角川ソフィア文庫
『唯識とはなにか 「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 春秋社