鹿野苑
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2023/12/11 (月) 07:06:49
>有義此智二分倶無。説無所取能取相故。
(有義は、此の智には二分倶に無し。所取能取の相なしと説けるが故に。)
>有義此智相見倶有。帶彼相起名縁彼故。
(有義は、此の智には相見倶にあり。彼の相を帯びして起こるを彼を縁ずと名づくるが故に。)
>若無彼相名縁彼者應色智等名聲等智。
(若し彼の相は無くとも、彼を縁ずと名くといはば、應に色智の等きを声等の智と名くべし)
>若無見分應不能縁。寧可説爲縁眞如智。
(若し見分無くんば、能縁にあらざるべし。寧んぞ説いて、真如を縁する智を為す可けむや。
>勿眞如性亦名能縁。故應許此定有見分。
(勿、真如の性をも、また能縁と名けてむが故に、此れには定んで見分も有りと許すべし。)
>有義此智見有相無。
(有義は、此の智慧には、見は有りて相は無し)
>説無相取不取相故。
(相無くして取る、相をば取らずと説けるが故に)
ここは難解なところですね。
一方で「此の智には相見倶にあり」と云いながら「此の智には相見倶にあり」と云うのですから。
>この真如を縁ずる智は、真如の体相を挟帯して起きるが故に、所縁と名く、彼の相分影像を帯びして起こるを縁ずと名くるに非ず。
>(国訳大蔵経解説より)
となってます。
「挟帯」という難しい術語が出てきましたが、通達位にて無分別智が開発(かいほつ)されれば、如実智見されるということでありましょう。
分別無しに対象を捉えるって事だと思います。
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