>事物の命名は認識のあとになってもたらされるのではなくて、それは認識そのものである
>(モーリス・メルロー=ポンティ『知覚の現象学』より)。
事物の命名については丸山圭三郎が『言葉と無意識』で旧約聖書の創世記の話を引き合いにだし二種類のそれがあるのだと云ってます。
>神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(1:3)
>そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。(2:19)
すなわち
>つまり命名には、それまで存在しなかった対象を生み出す根源的作用と、すでに存在している事物や観念にラベルを貼る二次的な作用の二つがあるのである。
>(『言葉と意識』 丸山圭三郎 より)
だと。
すなわち根源的な命名と既に在るものに対して為される二次的な命名の二種類だって云うんです。
ところでその命名を ことばによる分節 とも云うのですが、メルロー=ポンティは、上記のように
>事物の命名は認識のあとになってもたらされるのではなくて、それは認識そのものである
って云っております。つまり、認識=分節だと。
ところで仏教では認識についてはどの様に考えているのでしょうか?
私は法相宗に親しいので、その筋に依って考察してみますが、『摂大乗論』によれば、
>かくの如く縁起は、大乗においては極めて細微で甚深である。
>もし略説すれば二種の縁起がある。
>一つは分別自性の縁起であり、二つは分別愛非愛の縁起である。
>(『摂大乗論』1:19 訳は小谷信千代 『唯識説の深層心理とことば 摂大乗論に基づいて』より)
っていうんです。
ここでいう分別は認識と同じ意味ですが、分別自性、つまり、自性※を分別するのが認識だと云うんです。
※自性〜もの・ことが常に同一性と固有性を保ち続け、それ自身で存在するという本体、もしくは独立し孤立している実体を自性という。
これは初期仏教の「認識器官(六内処)/認識対象(対境)」の二分法に基づく修道論であり、後代の大乗仏教では、直接知覚とその対象との間に言語的分節(分別)の介在を認める。
初期仏教においても「識は了別することを特質とする」とされるが、これを一歩進めたかたちだ。
(『仏教論争―「縁起」から本質を問う』/宮崎哲弥)
素晴らしい。
さすが宮崎哲弥さんです。
言語による分節が解体されれば直接知覚そのものという理なのでしょう。
即ち識による了別から言語による分節が一旦は解体されるってことだと思うんです。
鈴木大拙先生曰く「山は山にあらず。故に山である」と。
いわゆる即非の論理ですが、まさにこの事を云ってるのかと思うんです。
言語による分節の解体と再構築ですね。