若し人に教えて凝心入定、住心看浄、起心外照、摂心内証”せしめば、此れは是れ菩提を障うるなり。
今”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、今“禅”と言うは、本性を見るを“禅”と為す。
所以に人に教えて身を坐して住心入定せしむることをせず。
若し彼の教門を指して是と為さば、維摩詰は応に舎利弗の宴座を訶すべからざるなり。
(『菩提達磨南宗定是非論』)
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若し人に教えて凝心入定、住心看浄、起心外照、摂心内証”せしめば、此れは是れ菩提を障うるなり。
今”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、今“禅”と言うは、本性を見るを“禅”と為す。
所以に人に教えて身を坐して住心入定せしむることをせず。
若し彼の教門を指して是と為さば、維摩詰は応に舎利弗の宴座を訶すべからざるなり。
(『菩提達磨南宗定是非論』)
つまり、北宗の坐禅は
>身を坐して住心入定せしむる
ものであり、南宗は
>”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、
>禅”と言うは、本性を見るを“禅”と為す。
って訳です。
要約すると ”無念にして本性を観るのが坐禅である” という主張でありましょう。