ここでは「我の形成」について、唯識学派の思想を中心にして考えてみようと思います。
先ず、「私の形成」について考えるにあたって、輪廻思想には賛否はあるものの「前の私は」について考えてみるのも面白いのかも知れませんので、ここでは先ずそれを話させて頂こうと思います。
先ず「死」ですが、阿頼耶識が身体(有根身)をその認識対象から外した時、すなわち命根(寿(寿命)・煖(体温)・識(意識))の終わりによってそれを迎えるとされます。
そしてここで阿頼耶識の対象は、執(種子)と受(身体)と処(宇宙)から執のみとなるようです。
その後、識は色究境天を認識しますが、死の直前の「結生の識」によって転生先が決まるとされ、その期間が中有、いわゆる四十九日と呼ばれております。
そして阿頼耶識の再びの新たな認識(有根身、器界)を経て転生するのです。
ところで、末那識は「所生に随って繫せられる(唯識三十頌7−2)」と云われるように、転生先の世界(欲界・色界・無色界)の制約を受けるとされます。
ただし、末那識と違って前六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が所生の制約を受けないとされます。
前六識は末那識より間接的な影響を受けるものの、所生の制約を受けないという事は、実にありがたいことではないでしょうか。
ところで仏教は「無(非)我説」ですから、実体(常・一・主・宰)としての我は否定する立場であります。
先ず初期仏教では、人を
感覚器官(六根~眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)
その対象(六処~色処、声処、香処、味処、触処、法処)
その認識(六識~眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)
に分析し、またそれを物質的なものと精神的なものに総じた「五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)説」によって、そのどれもが「我ではない」という「五蘊無(非)我説」を説いておりました。
素朴に考えると、我々は認識をしてる訳ですが、認識している以上はなにかそれを認識するものがあるというのが道理な訳で、その認識する者が「我」と考えても良いのではないかと思うんです。
逆説的に、認識され得る対象以外が「我」とも云えるのでしょうが、となると「我」とは認識の対象とされ得ないものと云えるのかも知れません。
ところで先に話したように「我」というのは五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)に解体されると仏教では説くわけで、その解体された単体を個別に見た時、それらはどれも到底「我」とは云えないでしょうから(これを大乗仏教の視点では「折空観」とか云うそうですが)、その合成(仮和合(何故なら変化し解体されるから))つまり総体である五蘊は我では無い(或いは我に非ず)とするのでしょう。
さて、認識するものが「我」であるとして、ではその認識はいかに生じるのでしょうか?
初期仏教では五取蘊という執着によりその様な認識が生じると説かれていたのでしょうが、その後に意識の問題について考察された時、睡眠や気絶、或いは深い禅定に入った時はその意識の流れは一旦は途絶えるものの、意識が戻ると再びその流れが途絶以前の流れを相続していることからして、意識の根底のなにかしらの識があるのでは無いのかと考えられた訳です。
いわゆる深層の識の発見であります。
そしてアサンガ(無著、Asaṅga )やヴァスバンドゥ(世親、Vasubandhu)等、いわゆる瑜伽行唯識学派と呼ばれる一派が形成される源流となるのですが、中期大乗経典である『解深密経』(Saṃdhinirmocana Sūtra)あるいはマイトレーヤ(弥勒、maitreya)の著作とされる『瑜伽師地論』(Yogācārabhūmi)等が先行してそうした思想が形成されたようです。
また『解深密経』ではそうした深層識をアーダーナ識(阿陀那識、ādāna-vijñāna)或いはアーラヤ識(阿頼耶識、ālaya-vijñāna)と名付け、それが執着を生ずる種子(しゅうじ、bīja)を蔵してると説いているのです。