先ず、説一切有部においては意根が「無間滅の意(一刹那前に滅した心)」としていた事を確認しておきたいのですが、ここで云う「心」とはすなわち五位七十五法で云う心法の「心(citta)」 であります。
また併せて「根(indriya)」がいわゆる木や植物の根ではなく、能力、あるいはそれを生み出す力・能生であることも併せて確認しておきましょう。
さて、唯識学派は六識だけではなくその下に作用する深層識を発見するのですが、その中に染汚意(kliṣṭa-manas)があることを発見し、それがやがて末那識と呼ばれるようになるのですが、それこそが意識の根、すなわち意根であると考えられるに至りました。
では一体何故、唯識学派の論師達はその様に考えたのでしょうか?
先ず、そのmanasとは「考える」とか「思う」という意味で、普通は「思量」と訳されますが、意識の意も末那識の末那も同じくmanasである事に着目して下さい。
その末那識は阿頼耶識に対して四煩悩を有して恒審思量しているのですが、その第一に薩迦耶見(satkāya-dṛṣṭi)が挙げられるのですが、これは”自他を区別して見る個別に実在するものとしてみる妄想”であります。
ところで意根は法境を対象にするのですが、その対象化、見るものと見られるもの、すなわち自他の区別は一体何によって形成されるのでしょうか?
それは「ことば」でなないのかと唯識学派は考えた訳です。
「ことば」による分節が対象化の形相因と考えた訳です。
そしてその意識によることばでの分節は、云うまでもなく自他との区別に他ならないはたらきでありますから、それを生み出す力すなわち能生として、すなわち意根を自他を区別する思量を為す末那識にそれを求めた訳であります。
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