いろいろなものが存在している訳です。
マウス、キーボード、コップ、時計、スピーカー・・・
存在しているものに共通する事は、存在している事に他なりません。
当たり前ですがw
では、その存在しているってどういう事なのでしょうか?
どうやら存在を存在たらしめているものは認識ではないかと思うんです。
もちろん、今ここで認識されていないものが後に認識された時、それは遡って存在していたであろう事にはなるのでしょうが。
存在とは今此の私の認識できる範囲の世界で認識されているものなのではないのでしょうか?
マウス、キーボード、コップ、時計、スピーカー・・・
そうした存在するものとしての個物、それは言葉による分節という事だと私は捉えているのですが、それを包括的に存在として一括りにした時、それぞれの個物の個性は消滅して、つまり分節が消滅して一つに、つまり未分節になると思うんです。
逆に云うと全ての存在するものは、その未分節なるものがことばによって分節されたものだと思うんです。
その未分節が西田幾多郎の云う「絶対無」というそれであり、個物はその「絶対無の自己限定」なのだと。
つまり、ここに 絶対無(未分節)=存在 という図式が成り立つのではないのでしょうか?
個物(主語)から属性(述語)を排除していった時、それは分節を止めることだと思うのですが、その時何も残らないというのが仏教の思想ではありますが、それはともかく、そうした排除、すなわち否定の途を宗教的な本懐に資する修道論に取り入れているのは、ヤージュニャヴァルキヤ、龍樹、ニコラウス・クザーヌス、偽ディオニュシオス・アレオパギテス等、古今東西の宗教思想にみられますね。
存在しているもの、つまり分節されたものは捉えることは出来ますが、分節されていないもの、つまり存在そのものは掛かる意味において捉えることは出来ないと思うんです。
何故なら、捉えることは分節することに他ならないからです。