>二相見道。此復有二。一觀非安立諦有三品心。
(二には相見道、此に復二有り。一には、非安立諦を観ずるに三品の心有り。)
>一内遣有情假縁智能除軟品分別隨眠。
(一には、内をして有情の仮を遣って縁ずる智。能く軟品の分別の隨眠を除く。)
>二内遣諸法假縁智能除中品分別隨眠。
(二には、内をして諸法の仮を遣って縁ずる智、能く中品の分別の隨眠を除く。)
>三遍遣一切有情諸法假縁智能除一切分別隨眠。
(三には、遍く一切の有情と諸法の仮を遣って縁ずる智、能く一切の分別の隨眠を除く。)
見道で直観的な無分別智を体験した後に後得智、すなわち分析的な智慧が発現し、それを以って先の智慧を検証しより確かなものにしていくというのがこの段落です。
そしてその後得智には二種類があるって云うんです。
先ず非安立諦とは勝義諦、つまり世俗諦である言語に依って解析される概念的な真如を離れた真如の観察を云うのでしょう。
いわゆる「離言真如」の事でありましょう。
非安立諦には三つあり、一つは自己を後得智に依って照察してその実体がない事、すなわち我空を以って真如を観察し、粗い分別に起因する煩悩障を除きます。
二つには、より深く自己が諸法の因縁仮和合である事を以って、すなわち諸法の空相なることにより真如を観察し、粗い分別に起因する所知障を除きます。
三つには、上記の我空・法空の二空を以って真如を観察し、細微な分別に起因する一切の煩悩(二障)を除きます。
ちなみに通達位(見道)の後、更に二刧に亘る修行を経て漸く究竟位(成仏)に至るとされてますが、その間に何度も何度も何度も・・・、無分別の体験を繰り返すとされます。
禅宗では「大悟三度、小悟その数知れず」と云うそうですが、いわゆる見性体験はスタートであってゴールではないって事なのでしょうね。